「何回でも達(イ)けばいいだろ。俺がいれば怖くない」
あらすじ
「何回でも達(イ)けばいいだろ。俺がいれば怖くない」
両親の不仲のせいで、恋愛や結婚に夢を見ない性格に育った由香里。
家族のような存在の幼馴染み、宗佑のいるところだけが、唯一の心安らぐ場所だった。
ある日由香里は、大企業グループの会長である宗佑の祖父から、宗佑との婚約を持ちかけられる。
愛情はいつか冷めるもの。
彼のためなら形だけの婚約くらい何でもないと承諾した由香里だったが……。
作品情報
作:本郷アキ
絵:KISERU
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第一章
春らしい暖かな風が頬を撫でる。
紺色のセーラー服の胸元で結ばれたスカーフと、肩まで伸ばしたストレートの黒髪が風に揺れて、由香里《ゆかり》の視界を遮った。
もう今日でこの制服を着ることもないのかと思うとほんの少し寂しさはあったが、一歩大人へと近づく喜びの方が大きい。
ただ、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
由香里は、目にかかる髪を手で振り払いもせず、愕然としながら目の前に座る人物と真横にいる幼馴染みの顔を交互に見つめる。
「婚約って」
いったい誰の話をしているのか、と言おうとしたが言葉にはならなかった。
由香里は今かなりの混乱状態にあった。
ここに呼びだされている時点でそれは明白だ。由香里と真横に座る幼馴染み、神薙宗佑《かんなぎそうすけ》の婚約に決まっている。が、なぜ自分がという疑問が次に浮かんで、驚きのあまり二の句が継げなくなったのだ。
「驚いたかの? すまんすまん」
向かいに座る宗佑の祖父──清司《せいじ》は由香里の驚きなど意に介さずに笑いながらテーブルに置かれた茶を口に含んだ。
「話が唐突過ぎるんですよ。由香里を驚かせたくてそんな言い方をしたんでしょう? いきなり『これと婚約してくれないか?』なんて」
清司に対し、呆れ顔を隠そうともせずに言ったのは宗佑だ。
卒業の祝いに食事をしようと呼びだされ、由香里は学校から自宅へ戻らず神薙家にやって来た。
広大な敷地に立つ神薙家は二階建ての母屋と離れがある。由香里がいるのは離れの一室だ。
離れと母屋を繋ぐ渡り廊下からは日本家屋を象徴するような立派な中庭が眺められる。ここが東京都内だということを忘れてしまいそうなほど緑が溢れ、色とりどりの草花に囲まれていた。
何度かリフォームを繰り返しているため建物内は和洋折衷のデザインとなっているが、不思議と一体感があるのは柱や梁、それにフローリングなどに木の温もりを感じるからかもしれない。
神薙家は戦前、国内で三本の指に入る大財閥だった。財閥解体後も一族の名は広く知れ渡っており、清司は一線を退いた今も経済界に非常に影響力のある人物と言われている。
だが由香里にとっては幼馴染みである宗佑の優しい祖父でしかない。小さい頃からここをたびたび訪れていて、よく遊んでもらっていた。
今日も「祖父さんが呼んでる」と宗佑から聞き、話し相手になるつもりでやって来たのだが、まさかその内容が自分たちの婚約だなんて思ってもみなかった。
(宗ちゃんは聞いてたのかな……あまり驚いてる感じしないけど)
席に着くなり「由香里ちゃん、これと婚約してくれないか」と言われたのだ。絶句ものだろう。
由香里にとって宗佑は幼馴染み以上でも以下でもない。小中高と同じ学校ではあったし、宗佑の家族にはよくしてもらっているが、自分たちの間に恋愛感情は皆無だ。
「いいじゃないか、お前たちは小さい頃から互いを知っているし、結婚してもうまくやっていけるだろう。まぁ、もちろんお前たちの意思が最優先だが、どうだ?」
温和な笑みを浮かべているものの、清司はゆうに八十を超えているとは思えないほど眼光に力がある。「どうだ」と聞かれてはいるが疑問形に聞こえないのは、他者を圧倒する迫力のせいだろう。
宗佑はそんな清司に体格も顔もよく似ていた。
座っていてもわかる体躯の良さ、染めてはいないのに茶色がかった髪は清司もだが宗佑の父も同じ色合いだ。彫りの深い顔立ちでくっきりとした二重の目元に太い眉、真っ直ぐに通った鼻筋は、小さい頃から知っている由香里からしても他人を魅了する外見だと思う。
「私は……まだ高校を卒業したばかりですが……宗ちゃんも」
無理です──と言えば済む話なのに口に出せないのは、清司の思惑が今ひとつわからないからだ。
清司はなにを思って由香里と宗佑を婚約させようとしているのか。そして祖父相手にもいつも意見をはっきりと口にする宗佑がほとんど口を挟まないのはなぜなのか。
宗佑なら「聞いていませんよ、そんな話」とすぐさま返しそうなものなのに。
「あぁ、今すぐの話ではないよ。お披露目もまだまだ先の話だ。だがそういう心づもりでいてほしくてね」
やはりこの話は清司の中では決定事項なのではないか。
清司の話し振りからそう感じる。なぜか断ってはならない雰囲気がびしびしと伝わってくる。決して高圧的なわけではないのだが。
由香里は助けを求めるように宗佑を見つめる。が、残念ながら視線が合わない。
(急いで婚約者を見つけないといけない事情でもあるのかな)
宗佑から、大学卒業後は父が社長を務める神薙商事に入社するとは聞いていたし、将来的には重役に就くであろうことも聞いていた。
この春休みが終われば、大学に通いながら父親の手伝いに駆りだされる毎日になると話をしたのはつい最近だ。
今までは他人事のように「大きい家に生まれると大変なんだな」と思っていた程度である。だがそれがいざ自分に降りかかってみると〝大変〟という言葉一つでは済まされない重みがあった。
由香里の両親は普通のサラリーマンで、神薙家に並び立てるような家柄ではない。だからなぜ清司が由香里にこんな話をするのかさっぱりわからないのだ。
「俺は由香里と結婚することになんの問題もありません」
宗佑の口から耳を疑うような言葉が発せられる。宗佑の視線がようやく清司から由香里に移った。
「なんの問題もないって……そんな」
由香里は確認するように彼の顔を見るが、冗談を言っている様子はまったく見て取れない。
(え、宗ちゃん、本気?)
先ほどから繰り広げられる会話についていけていないのは、どうやら由香里だけのようだ。そもそも十八歳で婚約の話が出ること自体、普通は経験できることではないだろう。
やはり最初から宗佑は知っていたのかもしれない。でなければ、幼馴染みと婚約して将来は結婚しろ、なんて狼狽えずに聞ける話ではない。
(それでどうして、なんの問題もないなんて……問題だらけでしょ)
家族のような親しさで付きあってはいたが、自分たちの関係は幼馴染みの域を出るようなものではない。宗佑がこの話を承諾するなんて思ってはおらず、由香里はますます困惑する。
(あ……そうか、とりあえずってこと?)
それなら納得だ。どうして相手が由香里なのかも。
清司に婚約者を決めろと言われて断れなかったに違いない。この年齢で一生の伴侶を選ぶのは難しい。
宗佑の恋人の有無などは知らないが、由香里との婚約に問題ないなどと言えるくらいだから今は誰もいないのだろう。
婚約してもいいと思える人と出会うまで、しばらくの間由香里をその位置に置いておく、ということかもしれない。今すぐの話ではないと言っていたし。
(そういう意味では、私は最適だもんね)
宗佑はおそらく、由香里ならば断らないと考えたのだろう。
そもそも由香里は誰とも恋愛をする気はない。彼はそれを知っているから、由香里を相手に選んだのだ。
(まぁ、宗ちゃんに好きな人ができるまでって考えておけばいいのかな)
宗佑に好きな人ができたら解消してもらえばいいだけだ。
(でも高校卒業してすぐに婚約相手を決めておかなきゃなんて……宗ちゃんの家はやっぱり大変)
幼馴染みが置かれている環境を由香里は今まで正しく理解していなかった。富貴な家柄であることはたしかで、言動や立ち居振る舞いに高貴さは感じるが。
彼はそれを鼻にかけるような人ではなく、由香里にとってはただ「大きい家に住んでいる幼馴染み」なのだ。
小さい頃からそばにいる、尊敬する幼馴染み。もし彼が困っているのならいつだって力になりたい、そう思うくらいには大事な人だ。
「わかりました。私も問題ありません。よろしくお願いいたします」
由香里が清司に向かって頭を下げると、今まで張り詰めていたような空気が緩んだのを感じる。清司は今度こそ由香里のよく知っている〝幼馴染みのおじいちゃん〟の顔になって柔和に微笑んだ。
「由香里ちゃん、宗佑をよろしく」
「はい」
「じゃあ、俺たちは戻りますから。由香里、行こう」
「あ、うん」
話はそれだけだったのか、宗佑が立ち上がり清司に一礼をした。由香里もそれに倣い、ふすまを開けて部屋を出る宗佑の後に続く。
「由香里、ちょっと部屋でいいか?」
母屋へと繋がる渡り廊下を歩きながら、宗佑は自分の部屋の方向を指差しながら聞いてくる。
「うん、もちろん」
おそらく、突然こんな話をしてきた理由を説明するつもりなのだろう。
中庭を中心にして廊下を歩いた先にある宗佑の部屋は、十八畳ほどの洋室だ。クローゼットや床、それに天井が木で造られていて落ち着いた雰囲気だ。
後に続いた由香里が後ろ手にドアを閉めると、宗佑は席を勧めるでもなくやや慌てたように口を開く。
「さっきの話、本当にいいのか?」
彼のこういう態度は珍しく、由香里は首を傾げた。
もしかしたら由香里に対して申し訳ないことをしてしまったと思っているのかもしれない。そんな気遣いは無用なのに。
「おじいちゃんに頼まれたら断れないよ。今すぐどうこうなるわけじゃないんなら、宗ちゃんが本当に結婚したい人ができた時に解消すればいいだけでしょ?」
「由香里……俺は」
「それに、私が恋愛や結婚を諦めてるって……宗ちゃんが一番知ってるじゃない。形だけの婚約くらいべつになんでもないって」
「形だけ……そうか」
由香里がため息交じりに言葉をこぼすと、宗佑が神妙な面持ちで頷いた。
恋愛するつもりも結婚するつもりもない由香里には、誰かに誤解されて困る心配がない。今回の相手にはうってつけだと自分でも思う。彼の置かれている状況を考えれば、婚約者として名前を貸すくらいはできる。
「おばさんたち、相変わらずか?」
宗佑が遠慮がちに聞いてくる。もう何年も離婚秒読み状態である両親。その事情を知っているのは身内以外では宗佑だけだ。彼は小さい頃から由香里の逃げ場所になってくれている。
「うん。最近はお父さんが家にいないから、表面上は落ち着いてるけどね」
両親を見ていると、本当に彼らは昔好きあっていたのだろうかと疑問に思うことがしばしばある。
(恋愛結婚だった、なんて絶対嘘でしょ……)
どうして昔好きだった相手に憎しみのこもった目を向けられるのだろう。どうしてあれほどに恨みがましい言葉ばかりを投げられるのだろう。毎日のように響く怒声を聞きながら、そんなことばかり考えていた。
恋愛をしたところであの人たちのようになったら、そう思うと誰かを好きになるのが怖い。
あんな風にいがみ合う恋愛なんかしたくない。
由香里がいるから、仕方がなく結婚状態を維持しているとでも言いたげな母親に、すべてを諦めて自分の視界から家族の姿を消した父親。ほとんど帰ってこないから、おそらく愛人宅にでもいるのだろう。
いくら恋愛結婚でも、愛情はいつか冷めるもの。修復不可能な状態になる可能性もあると知ってしまった。小さい頃からそういう姿を見せつけられて、恋愛や結婚に夢を見られるはずもない。
(宗ちゃんがいなかったら、私、ぐれてたかもね)
小学生の頃から家にいるのが嫌だった由香里は、毎日のように少し離れた公園で時間を潰していた。しばらくして宗佑の家で遊ぶようになり、由香里にとってここが安息の地になった。
家では泣くこともできなかった。
辛い、苦しいと気持ちを吐きだせるのは宗佑の前でだけ。逃げているのも甘えているのもわかっていたが、宗佑がいなかったら家を飛びだしていたかもしれない。そして彼らは由香里を探しもしないかもしれない。
「もしも本当に結婚しなきゃならなくなっても、私ならいつでも離婚に応じられるからね。バツが一つつくくらいなんでもないよ」
婚約という言葉に驚いて固まってしまったが、そう考えると案外なんでもない。
長くとも数年だろうし、宗佑が由香里と結婚するとは思えない。形だけ由香里と婚約している間に、誰かいい相手を見つけるだろう。
「宗ちゃん」
「ん?」
「私と結婚ってならないように、ちゃんと好きな人作ってね。どれくらい時間あるのか知らないけど。大学卒業くらい? それとももう少し先かな……」
「さぁな」
宗佑は興味がないとでも言いたげに重苦しいため息をついた。結婚なんてまだ考えられないのに、とでも思っているのかもしれない。
「そうだ。今日、真白《ましろ》も来るって言ってたな」
宗佑が今思い出した、とでもいうように手を叩いて言った。彼らしからぬわざとらしい動作に思えたが、彼の心情を慮ると話を変えたいと思っても不思議ではない。
「まーちゃんも来れるの!?」
「あぁ、祖父さんが連絡したって言ってた。そろそろ来るんじゃないか?」
真白は五歳年下の由香里の従姉妹だ。年下だとは思えないほどしっかりしていて、由香里にとっては唯一の信頼できる身内であり、宗佑にとっても大事な幼馴染みである。
五歳も下のはずなのに、彼女の立ち位置としては完全に由香里の姉だ。頼りない自分が不甲斐ないばかりである。
由香里の家とは違って両親は仲睦まじいらしく、真白の溌剌とした明るさは愛情いっぱいに育てられた証しだ。小さい頃はどうして自分とこんなにも違うのかと境遇を恨みもしたが、真白を大事に思えているのもまた、宗佑がいてくれたからだろう。
「嬉しいな、お祝い。家に帰っても誰もいないだろうし」
卒業式に父の姿はなかった。というか、卒業式どころか父が由香里の年齢を正確に把握しているかも疑問だ。もしかしたら父は由香里が今年高校を卒業することすら覚えていないかもしれない。
「いない? どうして? そういえばおじさんは卒業式にも来てなかったよな?」
「うん……なんか、ようやく今日離婚するみたいで。お父さんはもう帰ってこないと思う」
「今日? なんでまた」
卒業式の日に、と言いたいのだろう。由香里も同じ気持ちだ。
卒業式に来てくれた母がなにやら清々しい表情をしていたから、一応は娘の卒業を祝う気持ちがあったのかと驚いたのだが、そんな期待は続いた言葉で幻想だったと思い知った。
母は鞄から離婚届を取りだし「ようやくこれが出せるわ」と嬉々として言ったのだ。
「私が高校を卒業するからだよ。待ってたみたい、この日を楽しみに。本当に最低な人たちだよね。おめでとうの一言だってなかったんだから」
愛情を期待なんかしていないと思っていた。諦めていたはずだった。
それなのに、両親の言葉一つで一喜一憂して感情を揺らしてしまう自分がいる。由香里はあの人たちにとって足かせだ。そんなのとっくにわかっていたのに。
「私がいたから、離婚できなかった。私にまだお金がかかるから、お母さんは我慢してた。今頃、一人で祝杯でも上げてるかもしれないよね」
昔はよく理解できなかったけれど、なんとなく邪魔に思われているのは感じていた。専業主婦だった母が突然働きに出た頃だったと思う。その前はどこにでもある普通の家庭だったのだ。
母はいつも、父と由香里にあえて聞かせるようにため息ばかりついていた。なにを言われずとも「面倒くさい」「本当はやりたくない」「なんで私ばかり」そんな感情が透けてみえた。父は母を視界に入れていなかったから、母のストレスは溜まるばかりだっただろう。
どうやら父親が由香里の大学進学費用を支払うことを条件に慰謝料請求もしないらしい。財産などたかがしれているという理由もあるだろうが、おそらく両親とも互いに二度と関わりたくないのだ。
これでもう父と顔を合わせないのだと思うと清々する。きっと母の態度も幾分か軟化するはずだ。
「そんな泣きそうな顔で強がらなくていい」
「……っ、泣いてないよ」
「嘘つけ」
宗佑は、由香里の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。小学校一年生の頃から、ずっとずっとそうしてくれていた。両親のケンカが絶えなくて家に帰れなかった時、ここが由香里の逃げ場所だった。同い年なのに宗佑が十八歳という年齢以上にしっかりしてしまったのも、もしかしたら由香里のせいかもしれない。
「ようやく縁が切れたんだもん。離婚してよかったんだよね」
「お前は、これ以上おばさんが辛い思いをしなくて済むようになるって思ったんだろ? おばさんにとってはただの他人かもしれないが、お前にとっては父親だ。親が離婚しようとそれは変わらないんだよ。寂しいと思ったっておかしくない」
そんなにケンカばかりするのなら、早く離婚してしまえばいいのにとずっと思っていた。清々するはずだ。不倫をして家庭を壊した父──母を苦しめている存在がいなくなれば。
それなのに、どうしてか胸が締めつけられるように苦しくて堪らない。父は家にいないことの方が多かったのに。まだ自分の中に寂しいなんていう感情が残っていたのだろうか。
「小さい頃は、仲良かった時もあったの。幼稚園くらいまでだけど。三人で撮った写真だって残ってる」
「そうだな」
父にとって母は他人になってしまうのだ。
三人で写真を撮る機会はもう二度と訪れない。そう考えると、家族であった期間などほとんどないに等しいのに、それでもまだ愛情を求めてしまいそうになる。
「由香里、俺がいるから」
腕を引かれて、由香里の身体が宗佑の胸の中にすっぽりと収まる。シャツに額を押し当てて顔を埋めると、張り裂けそうに痛んだ胸がだんだんと落ち着きを取り戻していく。
「宗ちゃん……ごめん」
宗佑の声を聞くと、抑え込んでいた感情が湧きでてしまう。
目の奥が熱くなって、堪えきれずに涙が滲んでくる。ぐっと唇を噛みしめて、鼻の奥がつんとするのを耐えた。
「いちいち謝るな。悪いのはお前じゃないんだから。それに、今ここで泣いておかないと家では泣けないだろ? いいんだよ、昔から由香里にシャツを汚されるのは慣れてる」
「もうっ、そんなにシャツ汚してないよ!」
由香里が泣き笑いのような顔で言うと、頬を伝う涙を手の甲で拭われて、ふたたび髪をかき乱された。そしてもう片方の手が腰に回り胸の中に抱き寄せられる。
「宗ちゃん、私を甘やかし過ぎじゃない?」
「俺しかお前を甘やかしてやれる奴いないんだから、甘えておけよ」
いつだって彼は下手な慰めは言わない。由香里の心に響かないと知っているから。
ただ「俺がそばにいる」と抱きしめてくれる。寂しくなったらここに来いと言ってくれる。
甘えてばかりではだめだとわかっているのに、幼馴染みの腕の中は心地よくてなかなか抜けだせない。
「お父さん、もともといないようなものだったから、悲しいわけじゃないの。ごめんね……もう大丈夫」
由香里は宗佑を見上げて茶化すように笑って見せたが、彼には通用しなかった。逆に痛々しいと言わんばかりに腰に回された腕の力が強まる。
「俺は由香里の泣き顔に弱いからな、いつでもここは貸してやる。お前だけだぞ」
宗佑は自分の胸を指先でとんと突いた。
幼馴染みとして特別に思ってくれていることが嬉しい。彼がいてくれるから、由香里は前を向いていられるのだ。
実際、先ほどよりもずっと心が軽くなっていた。本当に宗佑の腕の中は魔法のようだ。
「昔から、お父さんとお母さんがケンカするたびに、宗ちゃんにこうやって慰めてもらったよね」
「小学生の頃は、ただ隣に座ってぼけっとしてるくらいだったろ」
「それでも嬉しかったよ。今は、まーちゃんもいてくれるしね」
照れているのか顔を背ける宗佑の態度がおかしくて、由香里は今度こそクスクスと笑い声を漏らした。
(あ、まーちゃん来たかな)
廊下からぱたぱたと軽やかな足音が聞こえてくる。
離れようと思ったのに、宗佑の腕は由香里の腰を抱いたままだ。
「宗ちゃん」
「あ──!!」」
由香里が声をかける前に部屋のドアが勢いよく開けられた。そして真白の叫び声が響く。
こんなところを見られたら真白が拗ねるとわかっていたから、足音が聞こえたタイミングで離れようと思ったのに。
「ずるい! また由香里ちゃんと抱きあってる~!」
「べつにいいだろ」
由香里は相変わらず底抜けに明るい従姉妹の存在に口元を緩めた。
部屋には真白の叫び声が響いているというのに、宗佑はなぜか由香里を抱きしめたままで、人の悪そうな笑みを浮かべるのだから困ったものだ。
由香里は背を向けていて見えないが、真白が今頬を膨らませて怒っているだろうことは想像に難くない。
「私もして!」
「お前はだめだ。由香里は婚約者だからいいんだよ。ほかの女を抱きしめるわけにはいかないだろ?」
「うっそ! 婚約したのっ!? わ~おめでとう!」
いったいいつまで宗佑に抱きしめられていればいいのだろうか。
それに婚約者になったのはつい先ほどのことで、これまで何度も彼にはこうして慰めてもらっている。婚約がどうこうという理由ではないのは明らかなのに、素直な真白は宗佑の言葉をそのまま信じてしまっていた。
「え~でもずるい! やっぱり私も~!」
真白がぴょんぴょんと飛び跳ねて宗佑の腕に巻きつく。すると宗佑は真白が届かないところへと腕を上げた。
「き~っ! むかつく!」
「早く大きくなれるといいなぁ、いっぱい食べろよ」
懐いてくる真白に嫌な気はしないのだろう。彼は真白をよくからかって遊んでいる。彼がこういう子どもっぽいことをする相手は真白だけだ。
五歳も下だからか、宗佑にとって真白は可愛い妹のような存在なのだ。真白にずるいと言われて本当は嬉しいくせにと、由香里は相好を崩した。
そっと宗佑の胸に置いていた手を離し、口だけで「ありがとう」と言うと、彼は由香里だけにわかるように笑みを浮かべた。
そして宗佑はその場でわかりやすく怒っている真白の頬を左右にむにっと引っ張る。
「女の子の可愛いほっぺになにすんのっ!! 宗佑くん最低!」
やはりというかなんというか、真白は頬を真っ赤にさせて怒り心頭の様子だ。真白が可愛いあまりの行動だと知っているが、中学一年生という多感な時期の乙女心をもう少し理解できないものか。
「お前、餅みたいなほっぺしてんなぁ。可愛い可愛い」
抓んでは引っ張り、抓んでは引っ張り。そろそろ真白の頭から湯気が出そうな雰囲気だ。
(宗ちゃん、昔からまーちゃんの扱いが雑なんだから……可愛いのはわかるんだけど)
可愛がり方が独特過ぎて、可愛がられている方はそう感じないのだ。
どう見てもペット扱いにしか見えない。軽くいなせばいいのに、真白は性格的に我慢できず食ってかかるからよけいに宗佑がからかうのだ。それに早く気づけばいいのだが。
「由香里ちゃん、本当にこんな男と婚約していいのっ!?」
「ね~どうかな?」
とりあえず言葉を濁して、由香里は曖昧な笑みを浮かべた。
「いいに決まってるだろ。俺、由香里には優しくしてるからな」
「やっぱりむかつく!」
宗佑の前ではより子どもっぽくなる真白だが、実は由香里よりもよほど頼りになる。この年下の従姉妹は由香里にとって姉のような、気の置けない友人のような存在だ。
キーキーとなおも突っかかる真白を横目に、由香里はつい先ほどの宗佑の言葉を思い出していた。
(ほかの女を抱きしめるわけにはいかない、か……)
由香里としては彼が恋人を作ろうが、誰かと一夜だけの関係を持とうが構わないと思っていた。仮の婚約者なのだから、むしろ誰かと積極的に交際するべきだろう。
由香里は誰とも恋愛をするつもりはなかったが、宗佑は違う。
律儀に由香里を本物の婚約者扱いする必要はない。この婚約はまだ形だけで、宗佑の身内以外は知らないのだから。
けれど、なぜか宗佑の言葉が頭から離れていかなくて、困ってしまう。今まで誰かにそんな風に言われたことはなかったからだろうか。
まるで、これからもこうして守ると言われているみたいで、くすぐったいような胸が疼くような感覚がして、由香里は妙に落ち着かなくなってしまった。
(――つづきは本編で!)