作品情報

マネキンのアトリエで~原型師の指先は戸惑う柔肌を愛でる~

「僕は、貴女の身体がほしいだけなので」

あらすじ

「僕は、貴女の身体がほしいだけなので」

 その造形の美しさで世界的服飾ブランドを支える『ヤタニマネキン』。一つ一つが職人手作りの芸術品であるそのマネキンに、ファッションデザイナーの周音(あまね)はいつか自分の服を着せることを夢見ていた。
 だが思うように成果が出せずにいたある日、どういう訳か社長から隠遁生活中の息子の世話を言いつけられてしまう。その息子とはなんとあのマネキンの原型師、海鈴(みすず)で……。

作品情報

作:桜旗とうか
絵:千影透子
デザイン:RIRI Design Works

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 プロローグ

 エレベーターが一階に到着する。
 人が幾人か籠から下りてきているのが見えて、慌ててそこへ向かって走った。
「すみません、乗ります! 待ってくださいー!」
 先ほど倉庫で仕訳し終えたばかりの箱が少しも揺れないように、しっかりと抱えて全速力でビルのエントランスを突っ切る。
 これは、副社長の元にしっかりと届けなければならないものだ。それに、中身は私の大好きなもの――。
 ちらりと目を向けた一階のショーウィンドウは、新しい衣装を着せられたマネキンのディスプレイに変わっていて、新作だと胸が弾んだ。
 エレベーターにパタパタと駆け込み、先客に頭を下げた。
「お待ちくださってありがとうございます」
「いいえ」
 ボタンを操作するその人は、男性だった。でも、社内の人ではない。こんなに目立つ男性なら、絶対に知っているはずだからだ。
 首まで隠した黒いシャツに、黒いパンツ。丈の長いコートも黒。全身黒いからとても目立つのだが、それ以前にその男性は、目を疑うくらいの綺麗な顔立ちをしていた。
「十七階でいいですか?」
「えっ……はい」
 彼は私の行き先を当ててしまったけれど、わかるようなものはなにも身につけていない。
「どうして私の行き先がわかったんでしょうか?」
 不思議に思い聞いてみた。すると彼は私の手元をちらりと見て「なんとなく」と答えた。
「……その大切そうに抱きかかえている箱の中身を、貴女はご存じですか?」
「はい。ジュエリー部で使うハンドマネキンです。惚れ惚れするような陶器肌で、すっごく綺麗なんですよ」
「そうですか。手だけが形になって出てくると不気味だと思いますけどね」
 彼は、嘲るように言った。
「……そんなことありません。エントランスのショーウィンドウをご覧になりましたか? 毎シーズン、マネキンごと入れ替えてディスプレイするんですよ。あのマネキンはヤタニマネキンと言って、職人が手作業で作っている唯一無二のヤタニブランドオリジナルなんです! このハンドマネキンだって同じヤタニマネキンですし!」
 むっとしてそれだけをまくし立てた。
「知っていますよ」
「そ、そうですか……」
 この会社に来る人は、それくらい知っていて当然か。恥ずかしいことしちゃった……。
 でも、ヤタニマネキンが馬鹿にされたようで悔しかったのだ。
 ぎゅっと箱を抱えて、無言になったエレベーターの到着を待った。階層表示のランプがひとつずつ点灯していく。そして、十七階でリンとベルを鳴らした。
「涌井《わくい》さん。マネキンに思い入れが?」
 男性が私を呼ぶ。名前を知ってくれている……? ということは社内の人なのかな。
「私、ヤタニマネキンに自分のデザインした服を着せるのが夢なんです」
 展示会に出したいとか、たくさん売りたいとかではなく、ヤタニマネキンに着てほしい。
「変わった目標ですね」
「そんなことありません。だって、ヤタニマネキンはデザイナーが作ったデザインのために職人さんが作ってくれるんですよ。素敵じゃないですか!」
 扉を背にして、少しずつ後退する。男性がどんな顔をするのか見たかったからだ。また、嘲笑されるのは腹が立つ。すごいですね、くらいは言わせたい。
 そんな思惑を持って彼の顔を見ようとしたが、踵が床に引っかかって転びそうになった。
 わっ……、割れる!
 手の中のマネキンを心配したけれど、男性が腕を掴んで私を引き寄せてくれた。ぼふっと胸元に抱かれ、心臓がいろんな意味で飛び出しそうだ。
「……ふ、副社長に危うく怒られるところでした……ありがとうございます」
 見上げた彼は、驚いたような顔をしている。ぎゅっと腰を抱かれて焦ったけれど、すぐに解放された。
「どういたしまして。足下にはくれぐれも気をつけてください」
「はい。失礼します」
 そうして、その人とは別れた。男性はさらに上層階へ上っていき、社長室のある二十階で止まったようだった。
 まさか社長のお客様だったとは。
 冷や汗がだらだらと吹き出してきて、今度会ったときには非礼をお詫びしようと固く決意した。
 入社間もない五年前。夏の出来事だった。

 

 一.

 都心部にそびえ立つ円柱型のオフィスビルは、一歩足を踏み入れるとその美しさに目を奪われる。そこは、ヤタニデザインのオフィスビルだ。
 見上げる限りの吹き抜け構造で光をたっぷりと取り込めるように窓がいくつもあり、取り込んだその光を乱反射するようにインテリアが配置されている。まるで水晶のようだと形容されるエントランスには、ショーウィンドウを兼ねた展示スペースがあり、いくつもの作品が展示されていた。
 ヤタニデザインは、世界の第一線で活躍するデザイナーの集まる服飾ブランドだ。
 いまでは世界中の女性をターゲットとしているが、元を辿れば街の小さなテーラーから始まった。
 服や靴を扱う『ヤタニデザイン』、ジュエリー専門の『ヤタニジュエリー』など、ヤタニの名前を冠するすべてをひっくるめて『ヤタニブランド』と呼ぶ。
 現社長が世界的なブランドにまで押し上げ、副社長がそれを支えている。保谷《やたに》親子はどちらも優れたデザイナーだ。世界のヤタニと呼ばれても誇大評価ではないとだれもが認めるだろう。
 だけど、この会社の本当のすごさは、数々の作品を着せつけるヤタニマネキンにこそあると思っている。
 店舗の販売や社内会議ではごく普通のマネキンが使われているのだが、ショーウィンドウや展示会で使用されるものは、職人が手作りをしている。それはまさに芸術で、動くはずもない、温度さえないマネキンに、血の流れや体温を感じてしまうほど。
 私は、そのマネキンに一目惚れをした。
 昔からオシャレには興味があって、少し高価なヤタニブランドの服を買うことが楽しみだった。数年に一度くらいしか買わなかったけれど、ヤタニブランドとの出会いは、私の将来を決めるくらいには大きな分岐点だったのだろうと思う。
 いつからか、デザイナーのまねごとをするようになった。大学はデザインを学ぶために通ったし、洋裁も必死に勉強した。
 だけど、自分のレベルで世界に名を馳せるヤタニブランドの一員になれるなんて思っていなかったから、もっと身近なアパレルメーカーに就職をしようかなと考えていた。希望していたアパレルメーカーも私は大好きだったから、お店に並ぶと嬉しいなぁ、くらいに考えていたのだ。
 そんな頃に、ヤタニデザインを見学できる機会を得た。その瞬間、少しずつ動き始めていた私の運命は、きっと大きく転がり始めたのだろう。
 会社見学に行って最初に思ったことは、ショーウィンドウが美しい。これに尽きる。
 中から見ていると、外を通る人たちが一度は振り返って見蕩れている姿が見えた。絶妙なライティングと配置、人目を奪ってやまないヤタニ渾身の新作群。それを引き立てる、本物かと見紛うほど精巧に作られたマネキン。
 周囲に人はたくさんいるのに、私の周りは無になってしまったのではないかと思うくらいなにも聞こえなくなって、その光景を呆然と見つめていた。
 すごい……。
 子供みたいな感想だった。ごくりと喉を上下させ、息をすることも忘れて立ち尽くす私に、一人の男性が近づいてきた。周囲がざわめいている音が耳に戻りはじめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「美しいでしょう?」
 静かな声に顔を向ける。保谷社長だ。私でも知っている、世界の最前線で活躍するデザイナー。
「弊社のショーウィンドウはだれの目も奪えると自負しています」
「はい……すごく綺麗です……。特にマネキンが……」
 そう口にした私に、保谷社長は嬉しそうに笑った。
「弊社ではオリジナルのマネキンを製造しています。デザイナーの仕事に最大限報いられるようにひとつずつ手作りをしているので、数は決して多くないですが、ここまで美しいマネキンに飾ると箔が付くでしょう」
 いまにも動き出しそうなほど生命力に溢れているのに、繊細で儚くて、触れた瞬間に壊れてしまいそうだ。艶やかで、ふたつとない芸術。箔が付くと社長が自負する気持ちもわかる。
「皆さんが弊社に来てくださったら、その機会も平等に与えられます。ともに仕事ができることを楽しみにしていますよ」
 保谷社長が、張りのある声で見学者に告げた。きっと、その言葉に胸を打ち抜かれた学生は多かったはずだ。
 あの保谷社長が直々に声をかけてくれているのだから。
 一緒に仕事をするのを楽しみにしてくれているのだから。
 リップサービスだということはわかっているが、それくらい強い言葉だった。
 それ以来、私はさらに勉強に励んで、ヤタニデザインを第一志望として就職活動を始めた。そして、採用通知を受け取ったのだ。
 こんな幸運は二度と訪れない。私はこの会社に一生を捧げるつもりだし、あのヤタニマネキンに服を着せて飾ってもらうのだという夢もずっと持っている。
 だけど、現実は厳しい……。

「それでは今回は以上で。お疲れ様でした」
 社長の一声で、デザイン部会議が締めくくられる。
 今日の会議では、直近におこなわれる夏の展示会の最終調整と、冬の展示会でヤタニマネキンに飾るデザインを選定することになっていた。
 いつも精一杯の作品を提出しているけれど、ヤタニマネキンへの道は遠い。
 私の作品は、展示会への出展が認められただけで、ショーウィンドウへの展示選考はまた落選。容易に達成できる目標だなんて思っていないが、五年目もこの調子かなと、窓の外に散る桜を見て思った。
 勉強が足りないのだ。ヤタニマネキンのために最高のデザインを考えなければ。
 気落ちしている暇なんてないと言い聞かせて机の上を片付けた。
 とにかくいまは展示会に向けて調整をしていかなければ。もっとブラッシュアップをしていこう。
 荷物を抱えて、席を立つ。
「涌井さん」
 すると、社長が私を呼び止めた。
 保谷社長は、初めて声をかけてくれたときもそうだが、とても気軽に話しかけてくれる。雑談は恐れ多くてできないけれど、挨拶をすると必ず個々に合わせたデザインの話をしてくれるのだ。「あのデザインは通らなかったけれど私は好きです」「もう少しあのデザインは色味を変えたほうがいい」といったように、ちゃんと社員の仕事を見てくれている。そういう細やかな対応が、保谷社長の人気の秘訣だと思う。
 還暦もとうに過ぎたというが、若々しくてハンサムだ。副社長もその遺伝子を引き継いでいるので、当然のように美形。こんな親子がいるんだなぁ……なんて思うことは多いのだが、私はもっと綺麗な人を知っている。
 あの新人の夏の日に出会った、季節感度外視の黒曜石のような男性だ。
 未だにお詫び、できてないのよね……。いつ会えるんだろ。
 そんなことを考えていると、社長が言葉を続けた。
「少しお話がしたいのですが、時間はよろしいでしょうか」
「はい、大丈夫です」
 社長の話以上に大事な用事があるなら逆に教えてほしいくらいだ。
「では、人がいなくなるまで待ちましょう。掛けていてください」
 そうしてしばらく待って人払いが完全に済んだあと、社長は私に身体を向けて話し始めた。
「まず、不躾な質問と承知したうえでお尋ねしたいのですが、涌井さんは家事がお得意でしょうか?」
「家事……ですか?」
 唐突な質問だな、と思ったけれど頷く。
「一応、最低限のことはできるつもりでいます」
「それはよかった」
 目尻を下げて笑う社長は、柔和な印象を与える。物腰も柔らかいので余計にそう思うのだけれど、決して優しいだけの人ではないことくらい、みんな知っていることだ。
「涌井さんにお願いしたいことがあります。聞き入れてください」
 嫌な予感がする。聞き入れてくださいなんて、普通言わないもの。
「私には海鈴《みすず》という息子がもう一人いるのですが――」
 息子がもう一人!?
 社長に息子が何人いても全然いいんだけど、聞いたことがなくてびっくりした。
 保谷社長の息子なら、普通にこの会社に入ってデザイナーとして活躍しているはずだと思うが、噂さえ聞いたことがない。そんなことってあるだろうか。この会社にはいない……とか?
「自宅で仕事をしていて、家事がおろそかになってしまうようなんです」
 なるほどと頷く。在宅勤務なら知らなくても当然……いや、会議に顔くらい出すでしょ。世界を飛び回って、日本にほぼいない副社長ですら、展示会前の会議には顔を出すのに。
「家事代行業者に頼んで、ある程度は面倒を見てもらっていたのですが、その担当者が老齢を理由に退社してしまうそうで」
 うんうんと頷いて聞いていたけど、それなら次の担当者でよくない?
「後任の選出をしてはくれたのですが、息子が嫌がってしまって」
 あらら……。相性が悪かったのかな。
「数名の候補を挙げてもらったのですが、だれにも息子が頷かず、途方に暮れていました」
 ここまで聞いた話でわかったのは、社長がそのもう一人の息子にはちょっと過保護だということだ。
「代替案を聞いてみたところ、涌井さんが来るなら考えてもいいと言うので、こうしてお願いをしてみようと考えた次第なのです」
 突然の変化球に、頷いていた首を急遽横に振る。ちょっと首が痛い。
 ……つまり、家事代行業者の代わりを私がしろと、そういうことか。
 私、これでもデザイナーなんだけどな。
 しかも、どう聞いても社長の甘やかし加減と息子のわがままで持ち込まれた話。申し訳ないが、承服できるはずがない。
「プロにお願いされたほうがよろしいのではないかと……」
「頑なに息子が拒んでいるので、おそらくもう業者を入れることは不可能でしょう」
「……仕事が終わってから、家事代行業者の代わりとしてご子息のご自宅へ行って、それらをこなせということですよね」
 だとしたら最悪だ。
 仕事が終わったあとや休日は、すべてデザインの勉強に時間を当てている。買い物に出かけることもあるが、それだって勉強の延長だ。流行は常に追いかけていなければならない。その時間が割かれるとなると、夢がまた遠ざかってしまう。
「最大限の配慮はします。息子の生活に合わせてそちらを優先していただいてかまいません。出社も退社も、時間は融通をします」
 ……そんなの、どう考えたっておかしい。だって、それじゃあ社長は、その息子を中心に会社のルールを変えていることになるのだから。
「社長。私はデザイナーで、そういった仕事は業務に含まれないと思っていますが……」
「もちろん、含まれません。副業という形で、息子と雇用契約を結んでいただければけっこうです」
 そういうことじゃなくて……!
「デザイナーとして勉強する時間が必要なのですが……削られたくありません……」
「涌井さんのお気持ちは理解しているつもりです。でも、息子のことは最優先事項です」
「……ほかを当たってはいただけないでしょうか」
「息子は、涌井さん以外は受け入れないと言っています。あなたでなければならない」
「わ、私は……デザイナーとしてこの会社にいるんです。ご子息のために家事をするわけではなくて……」
 当たり前の主張をしただけだ。どうして社長の息子のために、私の勉強時間を削らなければならないのか。
「……ヤタニデザインを愛してくださっているお気持ちは伝わります」
「はい。ですから……」
「であればこそ、息子を頼みたい」
「どうしてそうなるんですか……っ」
 社長にこんなふうに楯突いていいはずがないとわかっているけれど、理不尽すぎる。
「私にとって、あの子はすべてです。眞也《しんや》よりも大切な子なのです」
 会社を継ぐ副社長よりも大事なの?
「あの子が、涌井さんがいいと言うのだから、あなたにしか頼めない」
「私はそのご子息にお会いしたこともありません。どうして私のことを知っているのか……」
「眞也から聞いたと言っていました。あの子が社員のことを聞くなんて珍しいから、なおさらその希望は叶えたい」
「社長が、ご子息を大切にされていることはわかりますけど、私はデザイナーで……」
 ごにょごにょと尻すぼみになってしまう。この話を持ちかけられているということは、私はデザイナーとして認められていないのではないかと思えてしまったからだ。
「涌井さん。ヤタニで仕事を続けたいですか?」
「……もちろんです」
「では、従ってください。こういう真似はしたくありませんが、その息子は社員すべてを敵に回しても守るべき存在です。従っていただけないなら、転職をお勧めするしかなくなる」
「な……っ、待ってください……っ」
 そこまでして守るべき人って、どういうことよ。
 だいたい、いまの理屈だと全社員を解雇してでもその息子だけは守るってことでしょ。そんな理不尽がある?
「デザイナーとして望みがあるなら、無条件で叶えます。それでも嫌ですか?」
「私にも叶えたい夢はありますけど、そんな形で叶えられたくありません!」
「では息子の元へは行かないと?」
「行きたくありません。でも仕事も辞めたくありません」
 足をバタバタさせてごねられたらどれだけよかっただろう。そんな子供っぽいことはしないけれど、泣きたい気持ちが溢れてくる。
 こんなのひどい。ずるい。無慈悲すぎる。
「だけど、行ってもらわないことには、ここを辞めていただくしかなくなる」
 社長ひどいぃ……。
 ぐすっと鼻を啜ったけれど、悔しいからって泣くもんか。
「……その息子さんと雇用契約を結べばいいんですよね」
「そうです」
 だとすれば、その息子ときっちり話をして勤務条件を緩和してもらえばいいのだ。月に一回くらいならどうにかなるだろう。
 念願叶って入ったヤタニデザインだ。辞めるわけにはいかない。この会社で一生働いていきたい。ならば、耐えるしかない。
「……お会いします」
「ありがとう、涌井さん。これが息子の自宅の鍵です。それからこちらが住所。遠いのでタクシーを使ってください」
「はい……お言葉に甘えさせていただきます」
 不承不承ではあったけれど、これも仕事を守るためだ。
 やり取りを済ませて社長室を出たあと、手のひらを見つめる。かすかに震える手のひらには、メモと鍵が残っていた。


 二.

 仕事を終えたあと、私はタクシーに乗って見慣れない場所へひたすら進んでいた。
「運転手さん……本当にこんなところなんですか?」
 はっきり言う。もらったメモの住所なんて、私は知らなかった。だから、運転手さんにメモを見せて、そこまで向かってくださいとお願いをしたのだ。そうしたらどうだろうか。賑やかな街並みは急速に人の気配をなくし、私が生まれ育った田舎のような風景へと変わった。そうかと思えば、突如現れる豊かすぎる大自然。
 み、密林?
 冷や汗をかいたが、運転手さんは「間違いないですよ」と答える。間違いであってほしかった!
 そうしてしばらく大自然の中をタクシーは進み、ほどなくして停車した。
「あそこの白い家が目的地です」
 本当は家の前で停めてほしかったが、道が細くなっていて引き返すのが大変なのだそうだ。少し歩くけれど、そんなに遠くなさそうだからいいか。
 お礼を言って、領収書もしっかりともらって、タクシーを降りた。明日、経理にすぐ行こう。
 そんなどうでもいいことを考えていないと、周囲が暗すぎて心細い。自分の足音にさえびっくりするし、パキッと小枝を踏んだときは飛び上がりそうになった。タクシーはとっくにその場を立ち去っていて、ヘッドライトの明かりもなくなり、視界が悪い。
 一分もかからないだろうと思っていた家は、どういうわけか十分歩いても近づいてこない。
 おかしいな、と思いながら、とにかく白い家を目指して進む。あの家、もしかして蜃気楼とかじゃないよね?
 不安と戦いながら、降車した場所から二十分くらい歩いて、近づいてこない理由に納得した。
「でっ……かい家……」
 その白い家は想像を絶する大きさで、例えるなら城。
 タクシーを降りたあたりでは普通の民家に見えるのだが、近づいてみるとものすごく大きい。それが距離感を狂わせている原因だった。
 しかし……こんな大きな家に住んでいれば、家事もおろそかになるはずだと頭を抱える。自分の家事のキャパシティを超えない家に住んでほしい。
 そのうえ、周囲にほかの民家がないのでひたすら暗いし、この白い家だってほとんど無灯火だ。庭に一カ所の照明があるだけ。
 そこをこっそり覗いてみると、車が停まっている。スポーツカーとライトバンだ。
 とりあえず、社長の息子に会わなければと思って、インターホンを探す。でも、入り口にそれらしいものはなく、玄関までおそるおそる近づいて探しても押せそうなボタンひとつないのだ。仕方がないので扉をダンダンと叩いてノックしてみたが、少し待っても人が出てくる気配はない。
 ……これは、鍵を使って入るしかない?
 できれば玄関先でちょっと会話をしたかった。相手は男性だし、知らない人だ。家に入るのは避けたい。
 でも、ここで会わずに帰ったら社長、絶対笑顔で解雇通知出すよ……。
 それはだめだとかぶりを振って、預かった鍵で扉を開いた。
 真っ暗だ。なにも見えなくて困り果ててしまい、スマホのライトを点灯させる。足下が少しひんやりするのは、室内の空気そのものが冷たいからか。
「すみませーん。ヤタニデザインのものですー」
 入り口から声をかけたが、返ってくるのは静寂だけ。これはやむを得ないかと思って家に上がらせてもらい、少し先に進んでは「すみませーん」と繰り返した。
 室内の明かりがまったく見えないので、ひたすら不安になるばかりだ。右へ行けばなにがあるのか。左は? 後ろが出口のはずだが、振り返っても真っ暗で正しいかどうかもわからない。
 あぁぁぁ、どうしよう。帰りたい……。
「すみませーん、ヤタニデザ……」
「頭に響くのでボリュームは控えてください」
 ぱっと明かりがついて、胸をなで下ろす。そして、返事があったことに遅れて驚いた。
「わっ……わわっ、びっくりした!」
「どちら様ですか?」
 声の主を探す。男性の声だから、おそらくこの人が社長の息子だろう。
 くるりと振り返ると、壁にもたれ掛かってこちらを見つめる長身の男性がいた。全身黒に身を包み、すらりとした立ち姿は綺麗だけれど、声がひどく冷たい。
「私、ヤタニデザインの……」
「先ほどから声高に叫ばれているので、それはわかっています。ヤタニのだれかと聞いています」
「涌井周音《あまね》と申します……」
「……ああ。顔が見えなかったので。失礼を」
「いえ……」
 彼は、壁から身体を離して私に近づいてくる。
 う……っわ……。なに、この人……。
 背が高い。おそらく百八十センチは超えているだろう。その割に痩躯。手足が長いので余計にそう感じるのだと思う。そして、顔立ちがとんでもなくいい。
 中性的な顔立ちで、黙って立っていたら女性と見間違えたかもしれない。切れ長の目元は睫毛が長くて涼やかだ。鼻筋は綺麗に通っていて、唇の形は抜群にいい。なにより、肌が陶器のように綺麗すぎて――、ん?
 どうしてそんなところまで見えてるのだろうと思ったときには、唇に彼の唇が重ねられていた。
「!?」
 柔らかい感触が触れる。男性の唇ってこんなに柔らかいのかと呆然としてしまうが、とにかく押し返さなければと彼の肩を押す。でも、びくともしない。細身だけどやっぱり男性だ。
 この人、見た目以上に筋肉質……。
 触れる身体の厚みに驚いた。見た目ではすらっとしていて、厚みに欠ける印象だったのに、実際に触ってみるとそんな印象を持ったことさえ後悔してしまうほど。こんなにギャップのある人は初めてだ。
「んっ……、んぅ……」
 舌が口内へ差し入れられ、じたばたと暴れる。でも、その動きさえ彼は抱き込んで押さえてしまう。身動きの取れなくなった私は目一杯仰のかされて、彼からのキスを一方的に受け入れるしかなかった。
 くちゅくちゅと舌が絡み合い、水音が立つ。膝から力が抜けて、崩れ落ちそうになるが、彼の手がしっかりと支えてくれる。
「ん……っふ……」
 まずい……意識が飛びそう……。
 舌を刺激される感触がこんなに気持ちいいなんて思わなかった。唾液の混ざり合う音がいやらしくて、支えられる体温が心地よくて、頭がどうにかなりそうだ。
「あっ……んぅ……」
 身体から力が抜ける。自力で支えきれずに彼に寄りかかっていると、服の下から手が滑り込んできて我に返った。
「んっ! んぅ! ……!」
 肌を直接撫でられて、ぞくりと身体が震える。優しい手つきで撫でてくれるけれど、問題はそこではない。
 プツンとブラのホックが外されて、慌てて身を捩る。だけど、力がさらに込められて動きを封じられた。
 この人、どれだけ力があるのよ……!
 とてもではないが抜け出せない。このままでは身体を暴かれてしまう。
 どう……しよう……。
 抵抗する術を奪われて、それでも彼に抵抗する方法……。
 必死に頭を働かせたが、それよりも早く彼の手がスカートをたくし上げて太股を撫でた。
「んっ……」
 唇も解放してもらえないまま、声を上げることさえできない。抗議も許されないなんて。
 ピッとストッキングを破られたのがわかった。
「! ふ……んっ、く……」
 後ろに倒れ込めばいいかと思ったが、彼の支える力のほうが強くて、たぶん浮き上がる格好になるだけだ。もろとも倒すことはできない。
 本当にどうしよう……。
 彼の手が内腿をなぞった。
 だめ……、このままじゃ……。
 でも、彼を止めることができない。できるとすれば……、でも、こんなことしたら絶対怒られる。クビ確定。……確定だけど、もう、知ったことじゃない!
 瞬間的に頭に血が上り、密着させられた唇をガリッと噛んだ。
「……ッ」
 さすがに彼も顔を離してくれたけれど、不機嫌そうな顔に血の気が引いた。まずい、まずい。この人を怒らせたら不利になるのは私なのに……。
 力では絶対に勝てない。押さえつけられてのし掛かられでもしたら、私は彼を今度こそ振りほどけなくなる。だから、正当防衛といえばそのとおりだけれど、やり過ぎた。どうしよう……。
「す、すみ……ませ……」
 おろおろしながら謝罪をしたけれど。
「こちらこそ、不躾な真似をしてしまったようです。周音、どうか許してください」
 あれ……? 意外と冷静に話をしてくれる……。
「お、怒っていない……んですか?」
「僕が怒る理由がどこに? むしろ、ここまで怖い思いをさせたことを心から貴女に詫びなければならない。申し訳ありません」
「い、いえ……痛かったですよね……?」
 唇にうっすらと血が滲んでいる。思い切り噛んだから当たり前だが、これは相当痛いはずだ。
「痛くないと言えば嘘になりますが、あんなことをされて噛みつこうと思うには勇気が必要です。嫌な思いをさせました」
 頬をそっと撫でられ、大丈夫だと伝えたくて首を横に振る。
「僕が触れても平気でしょうか。怖くありませんか?」
「大丈夫です。本当にごめんなさい」
「貴女が詫びる必要などありません。顔を上げて、周音」
 おずおずと顔を上げると、端整な彼の顔が柔らかに緩んだ。
 笑うとすごく綺麗……。あれ……でもこの人見覚えが……。
 全身黒でまとめられた、桁外れの美形……あっ。
 あの日の人だ――。
「少しお話がしたいのですが、時間の都合はつきますか?」
 気づくのとほぼ同時に彼がそう言った。
「大丈夫です。私も、保谷さんにお願いしたいことがありますから」
「わかりました。その前に、ストッキングはどうにかしないといけませんね。脱ぎますか?」
 なかなかの面積で裂けてしまったストッキングに目を向けた。このままでいるほうが恥ずかしい。
「はい。履き替えたいのでどこかお借りできないでしょうか」
「奥にバスルームがありますから、そこを使ってください」
「ありがとうございます、お借りします」
 彼にお礼を言って、バスルームでストッキングを履き替えてから戻った。

「保谷海鈴と言います。先ほどは失礼しました」
「いえ……こちらこそ」
 海鈴さんが案内をしてくれたのは、玄関を通り抜けた先にあるホールの右手、ダイニングルームだった。そこにしか椅子がないらしいのだが、この家に部屋はたくさんある。どういう生活なの? と首を捻りつつ、ダイニングの椅子に向かい合って座った。
「父からはどの程度まで話を聞いていますか?」
 ゆったりと椅子に座る彼を見つめ、これだけ綺麗な人だとなにをしても様になるな、とつい見蕩れてしまう。
「家事代行の方が辞められて、代わりに私がこちらへ来るというところまでですが」
「父はずいぶん婉曲して伝えましたね。それは正確ではありません」
 正確ではない? 嘘ならそれでいいのだが、婉曲した伝え方というのがどうにも引っかかる。
「僕は、周音を妻にしたいと言いました。それ以外は不要なので、家事代行も今後は派遣しないようにと」
 頭をガツンと殴られたような錯覚を覚えた。
 婉曲って……社長の伝え方のほうがマイルドじゃない……。
「つ、妻?」
「ええ。僕と結婚するんですよね……?」
 なぜさも当たり前のように聞かれているのだろうか。
「私は、家事代行をするように言われたのですが」
「そうですか。……誤解を恐れず言うなら、それに当たるかも知れません。父にとって妻というのは夫を補佐する存在。屈折した捉え方をすれば、家事代行ということになるでしょう」
 あぁぁ……それは最悪だ。
「そんなの、あんまりじゃないですか……」
「そうですね。でも、それが父なりの、精一杯のオブラートである可能性は否めません。僕は、貴女の身体がほしいだけなので」
 下心丸出し……!?
 椅子をガタリと引いてしまった。
「それを、会社のトップが口にするわけにもいかないでしょう。だから婉曲させて話しただけかもしれない」
「トップじゃなくても口にしちゃいけませんよ! だっ、だいたいどうして私を……」
「綺麗な身体だと思ったからです」
「そんな女性、どこにでもいますよ! 保谷さんは、綺麗な身体をしているなと思ったら手当たり次第ベッドに誘うんですか!」
 さすがにちょっと頭にきてしまって、語気が強くなる。
「いいえ。身体がほしいと言うのは、物理的な意味です。肌を合わせたいという意味ではありません」
「普通は肌を合わせる意味で使いますよ!」
 物理的に身体がほしいってなによ。意味わかんない……。
「裸体のスケッチを取りたいんです。そのために合法的に服を脱いでもらえる関係を作りたい」
 いやいやいや。合法的だけれども。
「……それだったら、モデルを頼めばいいじゃないですか」
「僕好みの身体をした人にまず巡り会えない。プロのモデルは細すぎる。かといって未経験者を脱がせるのは骨が折れる。追い回されるのも困ります。僕が興味もないのに、性的に迫られるのも気持ち悪い。……ほかにもありますが、続けますか?」
「も、もう大丈夫です」
 げっそりした。
 条件が厳しすぎるのではないだろうか。そのうえ、彼の容姿の良さと保谷という名前が仇になっている。
「そういう理由なので、ヌードモデルは遠慮したい」
「でも、私と結婚というのは飛躍しすぎています。それに、私にだって恋人とか……いるかもしれないじゃないですか……」
「いるんですか?」
「いませんけど!」
 さらっと聞かれたので、うっかり真実が口を突いた。いると言えばよかったものを。
「それならよかった。保谷の名前を使うのはあまり好きじゃないんです」
 権力使う気満々じゃない、この人……。
 涼しい顔をしているけれど、なにか企んでいることはわかる。それは、保谷社長がしたような、脅迫めいた行為なのだろう。
「だったら使わなければいいじゃないですか」
「極力そうしたいと思っていますが、僕は周音を譲る気がない。どんな手を使ってでも、貴女を手に入れたい」
「社長も同じようなことをしましたけど、やっぱり親子ですね」
 厭味を言ってしまって焦ったが、彼は薄く笑みを浮かべた。
「父はなんと? 仕事を辞めるか、ここへ来るか……とかでしょうか」
「え、ええ……」
「それでここへ来たと」
「そうですけど……」
「周音。自分の弱みは人に晒さないほうがいい。仕事を辞めたくないと僕に伝えれば、貴女が不利になるだけです」
 あぁぁ……。
 頭を抱えて絶望する。どうしてさっきから嘘をつくとか意地を張るとかができないのか。
「保谷さん。私、どうしても急に結婚とか無理です」
「……では、一週間だけ交際期間を設けましょう。貴女はここで暮らし、少しでも僕を知ってから決めればいい」
「それだけの時間でなにを知れと……」
 彼は、薄く笑うばかりで答えてはくれなかった。
「それに、ここは通勤が不便です。駅は遠いですし」
「そうなんですね。僕は公共交通機関を利用しないので知りませんでした」
 駅の場所を知らないとか、どういう生活をすれば言えるのよ。絶対嘘でしょ。
「通勤が不便なら、ここで仕事をすればいいですよ」
「会社に行かないとできないこともあるんです」
「では会社から送迎を手配させます」
「そういうことじゃなくて!」
 一介の会社員が送迎付きで出社なんて、どう考えてもおかしい。彼は持ち得る権限を使っているだけなのだろうけれど、変な目立ち方はしたくない。
 だいたい、保谷一族と関わりがあると知れたら、私は否応なく特別扱いされる。夢を口にすれば、デザイン部はそれを叶えるために尽力してくれるだろう。ヤタニのデザイナーにとって、彼ら保谷一族はそれくらい影響力があるのだ。
 そんな特別扱いで夢を叶えたって仕方がない。
「周音。仕事をなくしたくないんですよね?」
「……卑怯です……」
「世の中の人間がすべて、道徳観に準じてまっとうに生きているなんて思ってもいないでしょう? 僕はそういう人間だというだけです」
 最っっっ悪!
「…………、一週間でいいんですよね。一緒に暮らすのは」
「ええ」
「……わかりました。そのお話、お受けします。仕事辞めたくないので!」
「ありがとうございます」
 優しく笑う彼とは裏腹に、私のはらわたは煮えくり返りそうだった。
 一週間で嫌われればいい。そうすれば、この話は絶対に流れるはずなのだから。
「では明日、改めてこちらに来ますので……」
「今日からここに住むんですよ。帰すわけがないでしょう」
「なっ……!」
「仕事をなくしたくないんですよね。だったら従ったほうが賢明ですよ、周音」
 絶対……絶対、一週間で嫌われてやるんだから!

(――つづきは本編で!)

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