「何度聞いても、君が淫らに喘ぐ声はかわいくてたまらない」
あらすじ
「何度聞いても、君が淫らに喘ぐ声はかわいくてたまらない」
生まれながらに光の魔力を持ち、世間の目を逃れるように暮らしていたリディア。光の魔力を狙う教団の魔の手からリディアを救ったのは、かつて彼女が一度だけ言いつけを破り、光の魔力で命を救った魔王ザサラメールだった。
リディアの優しさに愛を知ったザサラメールは、孤独だった彼女に求婚し自らの城へ連れていく。魔王と聖女、二人の愛の淫夜が始まる……!
作品情報
作:さくら茉帆
絵:風街いと
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序章 ~秘密の出会い~
「いい、リディア。日が落ちるのが早くなってきたから、暗くなる前に帰ってくるのよ」
「はい、お母様」
母の言いつけに返事をすると、リディアは家を出て駆け足で森へと向かう。
彼女が唯一、自由に外出を許されているのは、家の裏手に広がる森の入口付近まで。生活に必要なものの買い出しや、魔法薬を売りに近くの街へ出かける時は、必ず母と一緒に行くことになっている。
一人での外出を禁じられているのは、年端もない幼子だからというのもある。しかし、一番の理由はリディアの持つ魔力にあった。
魔女である母は、聖職者の父と恋に落ちて結婚し、リディアを生んだ。両親の優れた才覚を受け継いだ彼女は、幼くして強大な光の魔力を有していた。
リディア自身にはまだ、そのような自覚はない。
しかし、かつて母は言っていた。「あなたの持つ魔力は、癒しと再生をもたらすもの。だけど同時に、悪しき者を滅ぼしてしまうほどの強大な力でもあるの」と。
その魔力の存在を知られれば、近い将来必ずリディアを利用しようと企む者が現れる――そう感じ取った父親が、悩んだ末に妻子を人里離れたこの場所へ避難させた。
こうして人目を避けるように暮らしているのも、外出を厳しく制限されているのも、リディアの魔力を他者の目に触れさせないためである。
そんな自由の少ない生活でも、リディアには何一つ不満などなかった。
森へ行けば仲良くなった小鳥や小動物と遊べるし、家には母が買ってくれた本があるので、それだけで充分楽しく少しも退屈しない。
唯一、父親がそばにいないのが寂しいが。
父は毎年、誕生日に手紙と贈り物を持たせたフクロウを飛ばしてくれるが、やはり直接会って言葉を交わしたい。しかし、そんなわがままを言って、両親を困らせたくなかった。
だからリディアは今度の誕生日に、父にお礼の手紙を書いて何かを贈ろうと考えていた。
(でも、何を贈ればいいのかな?)
色々と候補を考えてはいるものの、なかなか良いものが思い浮かばずにいる。街へ出かけた際も、母に頼んで何軒か店に連れて行ってもらったが、どれもいまいちしっくりこない。
この森は魔力に満ちているからか、光る水晶やキノコ、外の世界では見ないような植物などを多く見かける。ここでなら、何か良いものが見つけられそうな気がした。
あれこれ思案しながら散策していると、光る花がリディアの目に留まった。
「わぁ、綺麗!」
リディアは感嘆の声を上げて、花の咲いている所まで駆け寄る。
触れるとほんのり温かくて、リディアの魔力に反応するように輝きを増した。このような不思議な花を見たのは初めてである。
リディアはすぐさま花を摘んで、持参してきたバスケットの中に入れる。
(こんな綺麗な花なら、お父様もきっと喜んでくれるよね?)
肖像画でしか見たことのない、父の喜ぶ顔を想像してリディアは表情を綻ばせた。
家に飾る用にも同じ花を摘んだところで、視界の先に赤黒い染みのようなものが付着しているのに気付く。
近づいて目を凝らしてみると、その赤黒い染みの正体が血であることがわかった。
――この先に、怪我をした誰かがいるかもしれない!
リディアはいてもたってもいられず、すぐさま血の痕を辿るようにして森の中を進んでいく。
――仲良くなった小鳥や動物達だろうか? それとも、森の中で迷い込んでしまった人だろうか?
そんな考えがリディアの脳裏をよぎる一方で、「森の奥には怖い猛獣もいるから、絶対に一人で行っては駄目よ」という母の言葉も思い出す。
だが、誰かが怪我をしているかもしれないと思うと、リディアはどうしても放ってはおけなかった。
奥に進むにつれて日の光が届きにくくなり、それに比例して暗さが増していった。同じように、リディアの不安も一段と膨れ上がり、心臓がバクバクと激しい音を立てている。
(私が行くまで無事でいて……!)
懸命に祈りながら茂みを抜けたところで、脇腹から血を流して木にもたれかかる男性の姿を見つけた。
端正な顔立ちは苦痛に歪んでいる。顔面は蒼白で呼吸も浅い。かなりの深手を負っているのは明らかだった。
家には薬草や魔法薬があるが、どう見ても取りに帰る余裕はない。かといって、まだ子供であるリディアが、大人の男性を家まで連れ帰ることなど不可能だ。
そうなればできることはただ一つ――魔法で彼の怪我を治すことである。
「ん……誰……だ……?」
ちょうどその時、男性は意識を取り戻して弱々しい声を発する。
「大丈夫よ。私が今、治してあげるから」
警戒を解こうと努めて優しく語りかけると、リディアは出血箇所に手をかざした。
次の瞬間、そこから淡く優しい光が発せられ、ゆっくりと確実に怪我を治していく。
(お母様、約束を破ってごめんなさい……)
リディアは日頃から、「その力を誰にも見せてはいけない」と母に言いつけられている。その約束を破ることに抵抗はあったし、同時に申し訳ないとも思った。それでも、目の前にいるこの男性を見捨てることなど、リディアにはできなかった。
程なくして彼の怪我は完全に回復し、顔色もすっかり良くなっていた。
自分の身に起きたことが信じられないようだ。彼はしばしの間、驚いた様子でその場で瞠目している。
リディアがじっと見つめていると、不意に彼と目が合った。
年齢は四十代前後といったところだが、端正で美しい顔立ちをしている。瞳はルビーを連想させるように赤い。漆黒の髪は綺麗に撫でつけており、身にまとっているのは高貴かつ荘厳な雰囲気を持つ黒い軍服である。
(こんな素敵な男の人、初めて見た……)
そう感じた瞬間、なぜか急に胸の奥が熱くなる。
その直後、彼はおもむろに口の端を吊り上げて、あるかなしかの笑みを浮かべた。
「君に礼を言わなければな」
低く優しげな響きを持つ声である。その声音を聞いた瞬間、リディアの心が再びジンと震えた。
「私を助けてくれてありがとう」
「うん……」
リディアは表情を曇らせて小さくうなずく。
感謝されるのは嬉しいが、それでも母との約束を破った罪悪感から、素直には喜べない。
青い瞳を潤ませて俯くと、彼は怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
「なぜそんな泣きそうな顔をしている?」
「だって、お母様に『魔法を人に見せたら駄目』って言われているのに、約束を破ってしまったから……」
今にも消え入りそうな声で答えると、リディアはとうとう双眸から涙をこぼす。
すると男性は困ったように、苦笑いを浮かべて小さくため息をついた。
「確かに、その力はむやみに人前で使うべきではない。君はまだ幼いながらも、とても強い魔力を持っている。それに、この世界は善人ばかりではない。必ずその魔力を狙う者が現れる筈だ」
彼の言うことはもっともである。母もよく、誰もが良い人ではないと言っていたので、今の行動は不注意だったかもしれない。
(やっぱり、助けない方が良かったのかな?)
だが、目の前にいるこの男性は、少なくとも悪人とは思えなかった。
何か具体的な根拠があるわけではない。しかし、彼になら魔法を見られても大丈夫だと直感で判断し、迷うことなくこうして助けたのだ。
うなだれるリディアを慰めるように、彼は優しい手つきで髪を撫でてくれる。
「だが、君には心から感謝しているよ。身も心も闇に染まった私を、迷うことなく助けてくれたのだから……」
「え?」
彼の言葉の意味がわからず、リディアはたまらず首を傾げる。
しかし、彼はそれ以上のことは、何も答えてくれなった。
「今の私に大したことはできないが、助けてくれたお礼に森の外まで送ろう」
「ううん、元来た道を戻れば大丈夫――……きゃっ!」
リディアが皆まで言う前に、男性によって体ごと抱き上げられてしまう。
「もうすぐ日も落ちる。君のような小さなレディに、暗い森の中を彷徨わせるわけにはいかない」
驚きのあまりすっかり固まるリディアに、彼は優しくささやきかけてくる。
低い声音が心地良く響き渡り、胸が大きく高鳴った。おまけに頬の辺りも熱い。
(何だろう、この感じ……)
不安や緊張とは明らかに違うものである。しかし、その正体が何なのかはわからない。
初めて抱く感覚に戸惑っていると、再びやんわりと声をかけられた。
「着いたよ」
転移魔法でも使ったのか、気付けばいつの間にか森の外にいた。
彼はリディアをそっと降ろすと、彼女の背の高さに合わせるように屈む。
「君の魔法のことは誰にも言わないと約束しよう。だから君も、私のことは決して誰にも言ってはいけないよ」
彼は穏やかな口調で告げた後、リディアの額にそっと口づけする。
「あ……」
唇が触れた瞬間、胸の高鳴りが増して自然と頬が赤くなった。
母もよく、同じように口づけしてくれるが、こんな風になったのは初めてだ。
(私、どうなっているの?)
もしかしたら、彼がまた何か魔法を使ったのかもしれない。
「あの――」
自分に何かしたのか訊こうと顔を上げるが、男性はいつの間にか姿を消していた。
リディアは辺りを見渡してみるが、彼の姿はもうどこにもない。
――一体、どこへ行ってしまったのだろうか?
「リディア」
ちょうどその時、名前を呼ぶ声がしたので振り返る。すると母がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「危ないから、暗くなる前に帰ってこないと駄目でしょう」
母はやんわりとたしなめると、リディアの体をギュッと抱きしめてくる。
「ごめんなさい……」
男性と会ったことや、森の奥へ足を踏み入れたことは言えないので、リディアはただ謝ることしかできなかった。
「でも、無事で良かったわ。もしあなたの身に何かあったら、あの人に何て伝えたらいいか……」
母は心から安堵した様子でつぶやくと、リディアに温かく優しい笑顔を向けてくれた。
「さあ、帰りましょう。今日の夕食はポトフよ」
「わぁい! お母様のポトフ大好き!」
リディアは満面の笑みで歓喜の声を上げて、母と手をつないで家に向かって歩き始める。
「あのね、お母様。今日、森で光るお花を見つけたの」
「まあ、とても綺麗ね」
バスケットの中の花を見せると、母は表情を綻ばせて感嘆の声を上げた。
「これ、お父様にもあげようと思っているんだけど、喜んでくれるかな?」
「あなたからの贈り物なら、何でも喜んでくれるわよ」
「本当? 良かった」
母の言葉を聞いて、リディアは安堵の笑みを浮かべる。
「今日はいつもより楽しそうね。森で何かいいことでもあったの?」
「ううん、何もないよ」
母からの問いかけに、リディアは笑顔でそう答えた。
(今日あったことは、私とあの男の人との秘密だから)
彼はリディアの魔法のことは、誰にも言わないと約束してくれた。だからリディアも、彼と会ったことは母にも秘密にすると心に誓ったのである。
その後も彼女は何でもない風を装って、母と他愛のないお喋りをして歩いた。
そんな母子の仲睦まじい姿を、一羽の漆黒の鷹が静かに見下ろしていた。
第一章 ~魔王の求婚~
「愛らしいリディア、私がいつでも見守っているよ」
深い微睡みの中、誰かがリディアにそっと語りかけてくる。
低く優しく、そして官能的な甘さを孕んだ男の声。その声音は耳に心地良く響き渡り、同時に懐かしさが込み上げてくる。
(誰――?)
リディアは心の中で問いかけて、ゆっくりと瞼を開けた。
そこにいたのは、七歳の時に魔法で助けたあの男性。彼は優しげな眼差しで、静かにこちらを見下ろしていた。
非の打ち所がない完璧な容姿や端整な顔立ちは、十年前と全く変わっていない。服装も初めて会った時と同じ、漆黒の上質な軍服に身を包んでいる。
その姿を目にした瞬間、リディアの胸は大きくときめき、こうして再会できたことに喜びを覚える。
「すまない、起こしてしまったようだね」
男性は申し訳なさげに謝罪すると、柔らかい手つきで髪を撫でてきて、額にそっと口づけを落とした。
慈しむようなその温かい感触に、胸の高鳴りが増して体の芯や下腹部がジンと熱くなる。
こうして彼に触れられると、なぜか体が勝手に反応してしまう。そして心も歓喜に満たされて、もっと触れてほしいという願望が込み上げてくるのだ。
その理由がなぜなのかは、リディアには全くわからなかった。
それからまた、彼は耳元で甘くささやきかけてきた。
「君は本当に、あの日からずっと変わらず綺麗なままだ」
まるでずっと、リディアをそばで見守ってきたような口調である。しかし彼女自身は、あれから一度も男性の姿を見ていない。
「あなたは今までどこにいたの?」
リディアは思い切って尋ねてみる。しかし、その問いに対する返答はない。
彼はやんわりと微笑むと、再び額に口づけてくる。
「では、私はもう行くよ」
彼は静かにそう告げると、おもむろに立ち上がって静かに去って行く。
「待って……!」
――もっとそばにいてほしい。
その願いを胸に、リディアは手を伸ばして呼びかける。
しかし、その手は彼に届かず虚空を掴むだけであった。
§ § §
昨夜もまた同じ夢を見た。
だが、夢にしては何だかやけに鮮明な気がする。なぜなら額に触れた唇や優しい手つきの感触が、はっきりと残っているからだ。
リディアは眠りから覚めたばかりの体を起こし、おぼつかない足取りで窓辺へ歩み寄る。
朝日が差し込むと共に、柔らかい風が室内に入ってくる。また、小鳥の愛らしいさえずりがあちこちから聞こえてきた。
リディアは新鮮な空気を吸うと、夢の中で口づけされた場所にそっと触れてみる。
その刹那、胸のときめきが蘇って、体がたちまち火照っていく。
この十年間、リディアは繰り返し同じ夢を見ていた。
毎日ではない。見るのは決まって、一羽の漆黒の鷹と戯れた日の夜である。
あの鷹と触れ合うたびにどういうわけか、十年前に助けた男性のことを思い出す。黒い羽毛と赤い双眸が、彼の髪色と瞳を連想させるからかもしれない。
そして同時に、彼に会いたいという気持ちが強まり、その想いがリディアに繰り返し夢を見せているのだろう。
リディアは窓を閉めると、外へ出て新鮮な水と粟の入った器を置いた。
するとすぐさま小鳥達が集まってきて、待っていたとばかりに一斉に食事を始めた。
「おはよう。みんな今日も元気そうね。たくさんあるから仲良く食べるのよ」
リディアは笑顔で小鳥達に話しかける。
こうして小鳥と触れ合うのが、今の彼女にとって一番の至福の時である。
十歳の誕生日を最後に、父からの手紙も贈り物も完全に途絶えてしまった。
その手紙には、「この先、何があっても二人を愛する気持ちは変わらない」と、意味深な言葉がつづられていた。
母は優しい笑顔で「お父様ならきっと大丈夫よ」と言っていたが、その瞳は不安げに揺らいでいた。
父の身に何かあったことを悟りつつも、娘の自分を心配させまいと気丈に振舞っているのだと、リディアは子供ながらに理解した。
そんな母も、数年前に病を患いこの世を去った。
天涯孤独となったリディアにとって、話し相手はこうして家に遊びに来る鳥達だけ。
十七歳になった今も、「その力を誰にも見せてはいけない」という母の言いつけを守り、人との関わりを避けてひっそりと暮らしている。
時折、生活のために街へ行くこともあるが、リディアはあまり外出が好きではない。
理由は珍しいピンクブロンドの髪のせいで、街へ出るたびに人々から好奇の目を向けられるからだ。
決してこの髪の色が嫌いなわけではない。ただ、必要以上にジロジロ見られるのが嫌なだけである。
母と一緒だった時はあまり気にならなかったが、一人だと自分だけが浮いた存在に思えてしまいどうも居心地が悪い。
だが、今日は食料を買いに街へ行く必要がある。
本当は小鳥や動物と戯れたり、読書をしたりして一日を過ごしたい。しかし、独り身となった今は、身の回りのことは全て自分でしなければならない。
簡単な朝食を取って洗濯物を干し終えると、リディアは魔法薬を売って稼いだ硬貨を持って家を出る。その際、母の形見であるローズクォーツのペンダントを身につけるのも忘れなかった。
「このペンダントはね、お父様が愛の証としてプレゼントしてくれた物なの。私にとって、あなたと同じぐらい大切な宝物よ」
そう語っていた時の母は、とても幸せそうな表情を浮かべていたのを、今でもはっきり覚えている。
リディアはチャームを手に取ると、愛しげな眼差しを向けてそっと撫でる。
こうしてこのペンダントを着けていると、常に二人の存在を感じられて守ってもらえる気がする。だからリディアにとっても大切な宝物であった。
(お父様、お母様。今日も私を見守ってて……)
心の中でそっと祈りを捧げると、リディアは街のある方角へ向かって歩き出す。
穏やかな草原地帯を抜け、街道に出ると色鮮やかな花畑が広がっていた。その中を蝶がひらひらと舞うように飛んでいる。
母が生きていた時はよく、「あの花は綺麗だね」とか「蝶がかわいい」などと言葉を交わしていた。
そんな他愛のない日々がふと懐かしくなり、リディアは悲しげな微笑を浮かべた。
街へ近づくにつれて、少しずつ人の往来も増えてくる。すれ違う人からの視線を感じるなり、リディアは自然と歩調を速めた。
そして街へ辿り着くと、こちらに向けられる視線が一気に増える。
――今日も早いところ、買い物を済ませて帰ろう。
リディアは人目を避けるように、街の中を進んでいく。
そんな矢先、年の近い青年に呼び止められた。
「やあ、どうも」
ここ最近、こんな風に若い男性から声をかけられるようになった。色恋沙汰に疎いリディアでも、女を口説くのが目的で近づいているのだと察していた。
「あの、何か……?」
リディアはおずおずと呼びかけに応じる。
「よく買い物に来る姿を見かけて、君のことがずっと気になっていたんだ」
やはり口説くのが目的だったらしい。
――自分と同じ年頃の娘なら、今の彼のような男性に口説かれたら嬉しいのだろうか?
だが、人との関わりを避けてきたリディアには、どう接したらいいかわからない。それに、相手がどんなに外見や雰囲気が良くても、心を動かされたことは一度もなかった。
「ごめんなさい、私……今は急いでますので……」
リディアはいつものように軽く会釈して、そそくさとその場から立ち去った。
今のできっと、愛想のない感じの悪い娘だと思われたかもしれない。
だが、これでいいのだと言い聞かせて、リディアは食料品が売られている店に入る。
パンと卵、野菜や肉の燻製など、買う物はだいたい決まっている。そのためか、店主にはすっかり顔を覚えられていた。
今日もいつも通り、必要な分だけ買って帰るつもりでいた。
しかし、店を出て向かいにある露店に新鮮なリンゴが並べられているのを見て、自然と足がそちらに向かった。
先日、薬が思いの外たくさん売れたので、今日はまだ金銭にゆとりがある。
「あの、リンゴを下さい」
リディアは店主に金を渡してリンゴを受け取ると、先程の店に戻ってパイ生地を、そして香辛料の専門店でシナモンをそれぞれ買い足した。
――今日は久々にアップルパイを作ろう。
子供の頃に時折、母がアップルパイを焼いてくれた。母の料理は何でも好きだったが、中でもアップルパイが絶品でリディアの大好物でもある。
愛情と優しさがこもった味を思い出した瞬間、表情が自然と綻び早く帰って美味しいパイを食べたいという気持ちも込み上げてくる。
久しぶりに楽しみができた喜びを胸に、リディアは軽やかな足取りで帰路に就く。
ようやく家に着き、買ってきた食料を保管庫にしまうと、さっそくアップルパイ作りに取りかかった。
(今日も上手に焼けるといいな)
最初の頃は上手く作れずよく失敗したが、回数をこなすうちに上達してきたと思う。それでもまだ母には遠く及ばないが。
リンゴの皮を剥いてイチョウ型に切り、鍋に入れて火にかける。
その際、いくつか小さく切ったものを、器に入れて取っておいた。後で小鳥にあげる分である。
パイ生地を練って形を整えると、熱したリンゴを笊に開けて水気を取りシナモンを加えた。
リンゴを冷ましている間、リディアは餌置台に器を置きに庭へ出た。
すると尾羽の長い真っ白な小鳥が、傷ついて倒れているのが目に入る。餌を食べにやって来る子達の一羽だ。
「まあ、大変……!」
自分が留守にしている間に、野生動物にでも襲われたに違いない。
リディアは急いで小鳥を膝に乗せ、小さな体の上に手をそっとかざした。
次の瞬間、柔らかい光が小鳥を包み込み、たちまち傷を癒していく。
怪我が完全に治った小鳥は、元気を取り戻して美しい声でさえずる。その様子を見たリディアは、ホッと胸を撫で下ろして安堵の笑みを浮かべた。
「もう大丈夫よ。さあ、これでも食べて」
リディアは器からリンゴを取ると、それを小鳥の目の前に持って行った。するとその黒い小さな嘴で、美味しそうにリンゴを食べ始める。
「美味しい?」
リディアは優しく語りかけて、愛らしく啄む姿をしばらく眺めていた。
(さて、この子も元気になったことだし、そろそろ家の中に戻ろうかしら)
アップルパイ作りの続きをしようと立ち上がったところで、小鳥が何かに怯えた様子で突然飛び立ってしまう。
何事だろうかとリディアが顔を上げると、こちらに近づいてくる人物の姿が見えた。しかも一人や二人だけではない。ざっと見た感じ、少なくとも十人ほどはいそうである。
――一体、誰だろうか?
今まで一度も、家を訪ねてきた者などいなかった。
しかし、リディアが気になったのはそこではない。
その人物は黒ずくめのローブを身にまとい、顔が見えないようフードを目深に被っていた。不気味な風貌のせいか、ただならぬ雰囲気を感じ取り、頭の中で警鐘が鳴り響く。
(逃げないと――!)
リディアは急いで避難しようとするが、いつの間にか背後にもう一人いて退路を塞がれてしまう。
相手は抑揚のない男の声で「動くな」と短く告げると、リディアの喉元に短剣を突き付けてきた。
鈍く光る刃を目にした瞬間、背筋が凍るような恐怖が込み上げてきて、金縛りにでも遭ったように指一本すら動かせなくなる。
それから黒ずくめの人物のうちの一人が、口元を吊り上げ歯を見せて笑う。
目元が見えない分、不気味さが一段と増してゾクゾクと鳥肌が立った。
「素晴らしい力だ」
絡みつくような粘着質な男の声で、称賛の言葉を投げかけられる。
彼が褒めているのは、先程の魔法のことだとすぐにわかった。
「な、何のことでしょうか……?」
それでもリディアは精一杯、わからないという風にとぼけてみせる。
しかし、それが通用するような相手ではなかった。
「その力こそまさに、我ら教団が長年ずっと求め続けてきた、大いなる魔力だ」
まるで以前から、リディアの魔力を知っていたような口ぶりである。もしかしたら、知らないうちにずっと見張られていたのかもしれない。
(あんなにお母様から何度も、『見せてはいけない』と言われていたのに……!)
動揺するリディアに構うことなく、男は淡々と言葉を続けていく。
「大いなる魔力を持つ聖女よ、我らと共に来るのだ。そして、我らのためにその身と魔力を捧げよ」
「わ、私は……あなた達と行くつもりは……ありません……!」
教団だの聖女だの、全く以って意味がわからない。それ以前に、こんな得体の知れない連中に従うつもりなどなかった。
リディアは声を震わせながらも、どうにか気丈に振舞って拒絶の意を示す。
だが、男はそんな彼女を小馬鹿にするようにせせら笑う。
「自分の置かれている状況が理解できていないようだな。今のお前は我らに従う他ないのだぞ。それに、これだけの人数を相手に、逃げられるとでも思うのか?」
男の脅迫めいた言葉を合図に、周りにいた人物達が少しずつ距離を詰めてきた。同時にリディアの背後にいる者も、短剣をちらつかせて首にそっと押し当ててくる。
「嫌……」
刃のひんやりとした感触に慄き、リディアはたまらず小さな悲鳴を上げた。
彼女が怯える様子を見るなり、男は勝ち誇ったように更に唇を吊り上げて笑う。
「言っておくが、お前を連れて行くのに同意を求めるつもりなどない。さあ、大人しく我らと共に来い」
黒ずくめの人物達は、一歩また一歩と距離を縮めてくる。
(嫌! 誰か助けて――)
リディアの祈りに応えるように、漆黒の鷹が急降下して男に襲いかかった。
「ぐあっ!」
鷹の鋭い爪で引っかかれたか、あるいは嘴で突かれたらしい。男は顔を押さえており、そこからポタポタと血が滴り落ちていた。
突然の襲撃に動揺したのか、背後から拘束していた男の腕の力がわずかに緩む。
「な、何だ?」
他の信者達も、何が起きたのか全く理解できていない様子で、ただ呆然とざわめいている。
リディアはその隙を逃さず、相手を突き飛ばしてすぐさま距離を取った。
「くっ、逃がすか……!」
男は負傷しつつもリディアを捕えようと手を伸ばすが、それを阻止するように鷹が目の前に飛んできて翼を大きく広げた。
そして次の瞬間、その姿は人のものへと変わる。
「え……?」
リディアは目を丸くしてその人物を見つめた。
繰り返し夢に現れるあの男性――十年前に森の中で助けた彼だった。
「貴様もしや、我らに仇なす例の男か?」
リディアを捕えていた男は、手に持った短剣を振りかざす。
しかし、男性は難なく攻撃をかわすと手から黒い稲妻を放つ。
雷の魔法を直に受けた男は、苦しそうにもがいた末そのまま動かなくなる。
それを見た信者達は、そろりそろりと後ずさりを始めた。
しかしすぐさま、リディアの魔力を称賛した男が、「愚か者!」と怒声を上げた。
「この程度のことで何を怖気づいている! さっさとあの男を始末して、聖女を捕まえろ!」
「は、はい!」
命令されるままに、信者達は一斉に男性に襲いかかる。
「やれやれ、本気で私を殺せるとでも思っているのか?」
彼はそうつぶやいて小さく笑うと、パチンと右手の指を鳴らした。
周囲の空間が突然、赤く染まった。続いて信者達の足元に魔法陣が出現し、そこから無数の手が伸びてきて彼らを捕える。
「やめろ! 放せ!」
信者達は必死でもがくが、抵抗も虚しくそのまま闇の中へ引きずり込まれていく。
まるで地獄絵図のような光景であった。
顔面蒼白になるリディアに対し、男性は涼やかな表情を崩さない。
「奴らにとって、あまり質の良い餌ではないだろうが、とりあえず腹の足しぐらいにはなる筈だ」
そう独り言をつぶやくと、彼は残りの一人に目を向けた。
「おのれ……我ら教団の邪魔立てをするとは、この不届き者めが……!」
生き残った信者の男は、懐から小銃を取り出すと、引鉄に指をかけて発砲する。
「そんなもの、私には通用しない」
男性は淡々と告げると、銃弾をいとも簡単に手で払いのけてしまう。そして反撃の隙も与えず距離を一気に詰めて、片足で軽々と蹴り上げて返り討ちにした。
体ごと大きく吹き飛ばされた男は、そのまま地面に落下して動かなくなる。
それは一瞬の出来事であった。
リディアは呆然と言葉を失って、目の前で繰り広げられた光景を見入っていた。
それから恐る恐る、自分を助けてくれた男性に視線を向ける。
初めて会った時や夢の中と同様、彼は黒い軍服を身にまとっている。あれから十年は経つというのに、容姿は変わっていないどころか年を取ってすらいない。また、非常に高い魔力を有しており、リディアの力を大きく上回っているように感じられた。
「あ、あの――」
リディアがおずおずと呼びかけると、彼はこちらを振り返ってやんわりと微笑みかけてくる。
その表情は何とも魅力的で、息を?むほど美しい。リディアは頬を上気させて思わず見惚れてしまう。
「怪我はないかい?」
「はい、ありがとうございます……」
助けてもらった礼を言うと、リディアはすかさず疑問を投げかけた。
「あの、あなたは一体……何者なんですか?」
魔界から魔物を召喚したり、銃弾を手で払いのけたり、大人の男を片足で蹴り上げたりと、どれも人間のできる技ではない。
「そういえば、鷹の姿で君と何度も顔を合わせていたのに、まだ一度も名乗っていなかったな」
うっかりしたとばかりに苦笑すると、彼は居住まいを正して自己紹介をする。
「私の名はザサラメール。多くの者は私を『魔王』と呼んでいる」
「魔王……」
恐ろしげな響きを持つ単語を口にした瞬間、リディアの心に再び恐怖が込み上げてくる。
人間離れした美しさも強大な魔力も、魔王特有のものだと考えれば納得がいく。見た目の年齢が変わっていないのも、人間より遥かに寿命が長いからに違いない。
(でも、どうして私を助けてくれたの?)
リディアの高い魔力が目当てで、それを独占したくて教団を名乗る者達を始末しただけなのだろうか。
だが、十年前に初めて会った際、ザサラメールは人前で力を使わないよう忠告してくれた。それに、鷹の姿でリディアと接していた時も、彼は一度も襲ってくるような素振りを見せたことはない。
本当に魔力が欲しいのなら、そんな風に優しく接してこない筈である。
相手の真意が全く読めず震えていると、ザサラメールがそっと肩に触れてくる。
恐ろしい相手の筈なのに、どういうわけか触れられて怖いと思わない。それどころか体の震えが止まり安心感すら覚えた。
ゆっくりと顔を上げると、ザサラメールと目が合った。
大人の色香が漂う魅力的な男性にしか見えない。魔王だと知った今も、その端整な顔立ちと色香に絆されてしまいそうになる。
「さて、こんな所で立ち話をするのも何だから、ひとまず家の中に入ろうか」
「はい……」
本来であれば、入れるべきではないのかもしれない。
しかし、全く知らない相手ではないのだからということで、ザサラメールに家の中へと上がってもらった。
家に入るなり、アップルパイを作っていた途中だったことを、今更ながら思い出した。
目立つ場所だけでも簡単に片付けると、リディアはザサラメールに座るよう勧める。
「あの、お茶でも飲みますか?」
魔王が紅茶を嗜むかどうかは知らない。しかし、何も出さないよりはいいと思い、とりあえず訊いてみる。
「いや、大丈夫だよ。そんなに長居するつもりはないから。それより、君もそこへ座るといい」
ザサラメールに目線で向かいの席を示され、リディアはすぐにそこへ腰を下ろした。
(何だか、すごく落ち着かない……)
今まで誰も家に上げたことがないからというのもあるが、一番の理由は魔王と二人きりという状況に置かれているからだろう。
少しの間を置いた後、ザサラメールは小さくため息をついて口を開く。
「君は私の忠告を忘れたのか?」
「え……?」
予想外の言葉を告げられ、リディアはぽかんとなって目を丸くする。
「その力をむやみに使うべきではないと、初めて会った時に言っただろう? 私が陰で見守っていたおかげで、奴らにさらわれる前に無事に助けられたから良かったが……。そうでなければ君は今頃、どうなっていたことやら……」
まるで幼い子供をたしなめるような口調であった。
よもや魔王に説教されるとは思わなかったが、ザサラメールの言うことはもっともである。
母からも「誰にも見せてはいけない」と言われてきたのに、教団を名乗る得体の知れない者達に見られ連れ去られそうになったのだ。もっと注意深く行動するべきだったと、リディアは心から反省する。
「ごめんなさい……」
叱られた子供のように、しゅんとうなだれて謝罪の言葉を口にすると、ザサラメールは再度ため息をつく。
「リディア、君は自分の力のことをよくわかっていないようだが、その魔力は非常に強大なものだ。君は類まれなる魔力を持つ魔女で、その力は希望にも破滅にもなり得る。今しがた、私が始末した教団を名乗る者達のように、君の力を狙う者は数多く存在する。魔族はもちろん、上の連中もな」
「上の連中……?」
「君達人間が天使と呼ぶ、天界に棲む者達だ」
思っていた以上に、多くの者から狙われているらしい。両親は命懸けで、ずっと自分を守ってくれていたに違いないと、ザサラメールの話を聞いて改めて実感する。
(お父様、お母様、ごめんなさい……)
リディアはペンダントのチャームをギュッと掴み、心の中で両親に深く謝罪した。
「さて、深刻な話はここまでにしよう。説教するのは柄ではないからね」
少しきつく言い過ぎたと思ったのか、ザサラメールは少しおどけた様子で言ってみせた。
魔王らしからぬ言動に、リディアは呆気に取られて言葉を失う。
それからザサラメールは、気を取り直して真摯な表情で話を切り出してくる。
「リディア、君の身を守るために一つ提案があるのだが――」
「な、何でしょうか……?」
何かとてつもなく恐ろしいことを告げられる気がして、リディアは緊迫した面持ちで訊き返した。
するとザサラメールの口から、思いも寄らぬ答えが返ってくる。
「私の妻になるんだ。そうすれば、君の身の安全は保障する」
絶対的な自信に満ち溢れた口調である。圧倒的な力を持つザサラメールなら、本当に守り抜いてくれるに違いない。
しかし、リディアは彼の申し出を丁重に固辞した。
「いえ、定期的に住む場所を変えているので、守ってもらわなくても大丈夫です」
事実、母が生きていた頃からずっとそうしてきた。今までそれで無事にやり過ごしてきたので、今度もまた同じようにこの土地を離れればいい。
それに、相手がどんなに外見が素敵な男性でも、魔王の妻になるのは抵抗があった。そんな恐ろしい相手と暮らすなど、到底受け入れられない話である。
だが、ザサラメールも簡単には引き下がらなかった。
「君は本当に何もわかっていないようだ……」
彼は呆れ笑いを浮かべてため息をつく。
「どういう意味ですか?」
何だか小馬鹿にされた気がして、リディアはたまらず語気を強めて訊き返す。
「そんなことをしても、いずれ見つかってしまって意味がない。君が今まで無事でいられたのは、本当に運が良かっただけだ。それに、奴らがこれで諦めるとは思えない。すぐにまた新たな追っ手を放ってくるだろう。だが、私の妻になり共に私の城で暮らせば、君は安全だ」
諭すような口調ではあったが、その言葉の端々には有無を言わせない響きが含まれていた。まるでリディアには選択肢などないという言い方だ。
――自分達に従う他ないと言っていた、先程の教団の男とさして変わらないではないか。
だが、ザサラメールの言っていることは一理ある。
母は死に父も消息不明となった今、他に助けを求められる相手はおらず、ましてや頼る当てもない。
(でも、本当に信じても大丈夫なの?)
リディアは改めて、ザサラメールの表情をちらりと窺う。
その美しい顔からは、相変わらず何を考えているのか読めない。
いくら自分を助けてくれたとはいえ、相手は魔界に君臨する魔王。そう簡単に信用していいのか疑問である。
しかしその一方で、子供の頃や夢の中で優しくしてくれたのだから、何があっても守ってくれるのではという想いもあった。
考えた瞬間、その時に抱いた胸のときめきが蘇り、心臓がドクドクと大きく鼓動する。
(やだ、触れられてもいないのに、どうして――?)
リディアが動揺していると、ザサラメールはクスッと小さく笑う。
顔に浮かべた微笑がこの上なく魅力的で、リディアは頬を上気させて見惚れてしまう。
今まで他の男性に誘われても、絆されたことなど一度もなかった。それなのに、こうしてザサラメールに笑顔を向けられただけで、心が大きく揺らぐ自分がいることに気付かされる。
――彼はそうやって、多くの女性を虜にしてきたに違いない。
そして今まさに、自分もその術中に嵌まってしまった。
悩んだ末にリディアは、ザサラメールの提案を受け入れることにする。
「……私、あなたの妻になります」
リディアの返答を聞いたザサラメールは、満足げに微笑んでそっと手を差し出した。
「良い返事が聞けて嬉しいよ。では、行こうか」
「はい……」
リディアはためらいながらも、差し出された手をそっと取る。
正直、色々と不安だらけである上に、まだ迷いも残っていた。それでも、ザサラメールを信じてみようという気持ちも、心の中に多少なりともあった。
「何があっても、必ず君を守り抜くと約束しよう」
ザサラメールは優しくささやくと、自分達が立っている場所に魔法陣を出現させる。
それから二人の姿は、魔法陣の中に吸い込まれるようにして、その場から消失した。
気が付くとリディアは城門の前にいた。
「ここは――?」
周囲を見渡すリディアに、傍らに立つザサラメールが「私の城だよ」とそっと告げた。
(これが、ザサラメール様のお城……)
目の前に建つ城は、王侯貴族が暮らすような、荘厳かつ美麗な造りをしている。魔王の城と聞いて、禍々しい雰囲気を持つ建造物を想像していたので、何とも意外であった。
「今日から君もここで暮らすんだ。遠慮せずに気兼ねなく過ごすといい」
不安を抱くリディアを気遣ってか、ザサラメールはやんわりとした口調と表情で語りかけてくる。
それだけでいくらか緊張は解けたが、相変わらず胸の高鳴りは続いていた。
(私、さっきからずっと変だわ……)
今まで抱いたことのない奇妙な感覚に、リディアは戸惑うばかりである。
「さあ、入ろうか。すぐに君の部屋を用意するよ」
「はい」
ザサラメールに手を引かれ、中へ入ろうとした時だった。
リディアのすぐそばで、「ジュリリリ」という聞き覚えのある鳴き声がした。
「え……?」
いつからいたのか、肩には先程助けたあの白い小鳥が止まっていた。
「あなた、こんな所までついて来てしまったの?」
驚きの声を上げるリディアに対し、小鳥は愛らしく首を傾げるばかりである。
このことは、ザサラメールも全く予想していなかったらしい。呆然とした様子で「何てことだ……」とひとりごちた。
「あの、ザサラメール様……」
リディアは小鳥を手に乗せると、救いを求めるようにザサラメールを見やる。
――どうかこの子を見放さないでほしい。
その想いが伝わったのか、ザサラメールは小さくため息をついて表情を緩めた。
「ついて来てしまったものは仕方がない。その子を入れる鳥かごも用意しよう」
「ありがとうございます」
日頃から仲良くしている子なので、この魔界でたった一羽きりにしたくなかった。ザサラメールの心遣いに、リディアは深く感謝する。
「それにしても、こんなことは初めてだ」
ザサラメールは興味津々で、リディアの手に乗る小鳥をじっと見つめる。
「どういうことですか?」
「本来であれば、魔力を持たない地上の生物が、この魔界で生きるのは不可能だ。今までこんな事例がないから推測でしかないが、恐らく君の魔力のおかげで順応できるようになったのだろう」
「私の魔法に……そんな力が……」
ザサラメールや亡き母の言葉通り、リディアが思っている以上にこの魔法は高い力を秘めているようである。
その後、リディアはザサラメールに案内される形で、城の中へ通された。
内部も綺麗な内装が施されており、おどろおどろしい雰囲気はどこにもない。
するとそこへ、お仕着せ姿の男が足音も立てずに近づいてくる。
眼鏡をかけた、見目麗しい青年だった。緩く束ねた長い藍色の髪を、右肩から垂らしている。
「お帰りなさいませ、ザサラメール様」
彼はザサラメールに恭しく一礼すると、訝しげな眼差しをリディアに向けてきた。
「えっと、初めまして。私、リディアです……」
ひとまず自己紹介をしてみたものの、青年から返ってきたのは呆れたようなため息だった。
「また人間界へ出かけたかと思いきや、今度は魔力を持った娘を連れ帰ってくるとは。尊敬する主とはいえ、私には時折あなたのお考えが理解できかねます」
彼の皮肉げな言葉からは、全くと言っていいほど歓迎されていないのがわかる。
いたたまれない気持ちになるリディアに、ザサラメールはすかさず助け舟を出してくれる。
「そう言うな、クラヴィス。リディアは今日から私の妻として、この城で暮らすことになったんだ。そういうわけで、彼女のための部屋をすぐに用意してくれ。あと、鳥かごも頼む」
「かしこまりました」
主の言葉は絶対だと考えているのか、クラヴィスと呼ばれた青年は、意外にもあっさりと了承した。そして来た時と同じように、足音を一切立てることなくその場を去って行く。
「クラヴィスがすまなかった。彼は私の忠実な家臣なのだが、あのように少々辛辣なところがあってな。決して悪い男ではないのだが、もし不快な思いをさせたのなら、今後は口の利き方に気を付けるよう言っておこう」
「いえ、私なら大丈夫です」
急によそ者――しかも人間がやって来て、今日からこの城で暮らすことになったのだ。クラヴィスがあのような態度を取るのも無理はない。
豪奢なシャンデリアの灯ったホールを抜け、階段を上がって廊下を進んでいる間、リディアはずっと物珍しげに中を見回していた。
「こんなに広いと迷ってしまいそう……」
思ったことを素直に口にすると、ザサラメールは穏やかな笑みを浮かべて振り返る。
「明日、城の中をゆっくり案内するよ」
「ありがとうございます」
彼と一緒に城の中を見て回れると考えただけで、なぜかときめきに似た感覚が込み上げてくる。
それからリディアは、城の一角にある大きな部屋へ連れて来られた。
壁紙や絨毯には花柄模様が描かれており、とても愛らしい内装になっていた。
ベッドは天蓋付きで広々としている上に、シーツや枕は全て上質な生地でできている。ソファーや化粧台などの家具も全て、高級素材で作られたものばかりだ。
「さあ、ここが君の部屋だ」
「こんな素敵な部屋、私一人で使っていいんですか?」
小さな家に住んでいたリディアにとって、こんなにも広い部屋を与えられるのは贅沢以外の何物でもない。
信じられない気持ちで尋ねると、ザサラメールは鷹揚に笑って「もちろんだとも」とうなずく。
(私がこんな、お姫様が住むような部屋で暮らせるなんて……)
全く現実味がなく、夢を見ているような気分である。
目を輝かせて部屋全体を見渡すリディアに、クラヴィスが表情を変えずに話しかけてくる。
「至急であつらえたお部屋ですが、気に入っていただけて何よりです」
丁寧な口調と態度ではあったが、まだ若干の刺が含まれているように感じられた。
そんなクラヴィスに苦手意識を抱きつつも、リディアは努めて笑顔を浮かべて礼を言う。
「私のために、わざわざありがとうございます。クラヴィスさん」
「いえ、私は命令に従っただけですので、お礼など結構です。それと、あなたはザサラメール様の奥方様なのですから、私に対して一切の敬語も不要です」
クラヴィスは一方的にそう告げると、足早に部屋を出て行ってしまう。
(やっぱり私、歓迎されていないのかしら?)
リディアは不安になって眉をひそめた。
「やれやれ、クラヴィスも素直ではないな。本心では満更でもないくせに……」
ザサラメールは苦笑してつぶやくと、含みのある笑みでリディアを見やる。
「さて、あとは君を仕上げるだけだ」
「仕上げるとは、どういう意味でしょうか?」
首を傾げるリディアに、彼は甘さを含んだ声音でささやきかけた。
「美しく愛らしい君に、ふさわしい姿になるのだよ」
それからザサラメールは、テーブルに置いてあった呼び鈴を鳴らし、「メリダはいるか?」と声を上げる。
「お呼びでしょうか?」
程なくして、リディアと同じ年頃と思しき侍女が部屋に入ってくる。彼女がメリダなのだろう。
愛らしい顔立ちをしているものの、感情を押し殺しているのか一切の表情がない。
「メリダ、今日からお前を私の妻の専属侍女に任命する。さっそくだが、リディアを美しく仕上げてくれ」
「かしこまりました」
メリダは抑揚のない声で返事をすると、「こちらへどうぞ」と言ってリディアを化粧台の前に座るよう促した。
完全に姫君や令嬢に対する扱いである。丁重に扱われたことのないリディアは、戸惑いつつも化粧台の前の椅子に腰を下ろす。
「楽しみにしているよ」
ザサラメールは愉しげに告げると、優雅な足取りで部屋を出て行った。
メリダにピンクブロンドの髪を丁寧に梳いてもらい、化粧も綺麗に施してもらった。服も質素なワンピースから、深紅の豪奢なドレスへと着替えさせられた。
デコルテは大きく開いており、動いたら胸が見えてしまいそうで少し恥ずかしい。
「いかがでしょうか?」
「すごく素敵。まさか、自分がこんなに綺麗になれるなんて……」
鏡の中の自分は、貴族の令嬢や姫君と見紛うほど美しい。リディアは頬を上気させて思わず見惚れてしまう。
その様子を見たメリダはようやく、目元を緩めて笑顔を見せてくれた。
「リディア様に満足していただけて良かったです」
まるで心の底から安堵したような口調である。
リディアがその言葉の響きに違和感を抱いていると、メリダは悲しげに目を伏せて静かに語り始めた。
「前に私が仕えていた所では、主の命令や要求に従えなかったら、ひどい目に遭わされました。私も何度、罰を受けたことか……」
当時の記憶が蘇ったのか、メリダの顔からさっと表情が消えて、体が小刻みに震えていた。その様子から見て、想像もつかないような恐ろしい目に遭ったに違いない。
そんなメリダの恐怖心を拭うように、リディアは彼女の手をそっと包み込む。
「安心して。私は絶対に、あなたにひどいことはしないから。ザサラメール様もきっと同じだと思う」
「リディア様……」
リディアの言葉に安心したのか、メリダは再びやんわりと微笑んだ。
「ありがとうございます。そんな風に、私に優しい言葉をかけて下さった方は、リディア様が初めてです」
それからメリダは、真摯な面持ちでこちらに向き直る。
「私、あまり要領が良くないので、リディア様にご迷惑をおかけしてしまうかもしれません。ですが、精一杯あなたのために尽くしますので、何卒よろしくお願いします」
言い終えると同時に彼女は、リディアに向かって深々と頭を下げた。
「そんなに硬くならないで。私に対しては、普通に接してくれればいいから。こちらこそ、これからよろしくね」
リディアは表情を綻ばせて、もう一度メリダの手をそっと握る。
するとメリダは感極まった様子で、目を輝かせて「はい」と大きくうなずく。
話に一区切りついたところで、外から部屋の扉をノックされた。
「どうぞ」
リディアが返事をすると、扉が開いてザサラメールが中へ入ってくる。
「今の君はとても輝いている。前にも増して美しくなったね」
リディアの全身をじっと眺めた後、ザサラメールは破顔して称賛の言葉をかけてくれた。
「ありがとうございます。だけどこのドレス、少し派手過ぎではないでしょうか?」
ドレス自体はとても素敵だと思う。しかし、リディアはどちらかというと、淡い色の衣装が好みである。
「私は似合っていると思うのだが……。わかった、明日までに君の好みのドレスを用意しよう」
「ごめんなさい、せっかく用意していただいたのに……」
ザサラメールの好意を無下にしてしまった気がして、リディアは途端に申し訳ない気持ちになる。
だが、彼は決して機嫌を損ねることなく、終始穏やかな姿勢で接してくれた。
「謝ることはない。妻の要望を聞くのは、夫の役目だからね」
よもやこちらの意見を聞き入れてもらえるとは思わなかった。魔王らしかぬ言動の数々に、リディアは面喰うばかりある。
「メリダ、もう下がっていい」
「はい、ザサラメール様」
そうしてメリダを下がらせたのち、ザサラメールは再びにこやかに微笑みかけてくる。
「リディア、行こうか。今夜は君のために、豪勢な夕食を作らせている」
「でも私、テーブルマナーとか全然わからなくて……」
万が一、ザサラメールの前で失敗したらどうしよう。そんな不安に駆られるリディアだったが、彼の言葉ですぐに杞憂に終わった。
「私と君の二人だけだ。そんなこと、気にする必要はない」
「はい……」
それを聞いてリディアは安心するが、母親以外の人物と食事をするのは初めてなので、少しばかり緊張していた。
ダイニングルームへ行き、席に着くとすぐに給仕係が葡萄酒を注いでくれる。
今まで酒を飲んだことのないリディアは、グラスをおずおずと手に取り口に含む。
芳醇な中にも甘さを含んだ味だ。おまけに想像していたよりも飲みやすい。
それから程なくして、出来立ての料理が運ばれてくる。
色とりどりの野菜が盛り付けられたサラダに、湯気が立つ黄色のポタージュスープ。焼き立ての香ばしい香りを漂わせたパンに、野菜やきのこをふんだんに使用したキッシュ。そして、程よく焼き目がついた大きなローストチキン。
質素な暮らしをしてきたリディアには、ほとんど口にしたことのないものばかりである。パンだって、焼いてから時間が経ったものしか食べたことがない。
目の前の豪勢な料理に呆気に取られているリディアに、ザサラメールは優しげな笑顔を向けた。
「さあ、遠慮しないで食べて」
「はい、では……いただきます」
リディアはスプーンを手に取り、スープを一口すする。濃厚なコーンの甘味が、瞬く間に口の中に広がっていく。
「美味しい……」
リディアはたまらず感嘆の声を漏らした。
それ以外の料理も、どれも舌鼓を打つほどの絶品である。
パンはふわふわで温かく、キッシュも野菜ときのこ、そして卵の味が絡み合って絶妙な旨味を生み出していた。ローストチキンも、外の皮はしっかり焼かれていながら中は柔らかくて、ちょうど良い焼き加減だ。
こんなに美味しく豪勢な料理は初めてで、リディアは思わず満腹になるまで食べてしまった。
たくさん食べるなど、女として少々はしたなかったかもしれない。
しかし、美味しそうに食べるリディアを見て満足したのか、ザサラメールは食事中ずっとにこやかに微笑んでいた。
「ザサラメール様。私のために、こんなに美味しい料理を振る舞っていただいて、本当にありがとうございます」
「君に満足してもらえて良かったよ。これからは、食事の時間も楽しくなりそうだ」
リディアの感謝の言葉に、ザサラメールは満面の笑みでそう答えてくれる。
こちらを魅了するような笑顔で、「楽しくなりそうだ」などと言われたせいか、リディアはたちまち頬を染めてドキドキしてしまう。
夕食を終えて部屋に戻った後、再びメリダに手伝ってもらう形で湯浴みをした。
汚れ一つない綺麗なタイル張りの浴室は、家の簡素な風呂とは比べものにならないほど広い。バスタブも猫脚付きの立派なもので、脚を伸ばしてゆったりと湯に浸かることができた。
湯浴みを終えて髪を乾かしてもらい、シルクのナイトガウンに着替えたリディアは、すぐさまベッドにその身を沈める。
ベッドの感触がとても心地良い。ここが魔王の城であることを忘れて、このまま眠ってしまいそうである。
うつらうつらと微睡んでいると、部屋の扉がノックされた。
「あっ、はい」
リディアは返事をしながら急いで体を起こす。
扉が開かれるのと同時に、ザサラメールが部屋に入ってくる。
彼もまた、シルクのナイトガウンを身にまとっていた。湯浴みをした直後なのか、髪が乱れて少しだけ額にかかっている。
胸元が開いているせいか、日中の軍服姿とはまた違った色気を醸し出していた。煽情的なその姿に、リディアは強く惹かれてじっと見惚れてしまう。
「すまない、起こしてしまっただろうか?」
「いえ、大丈夫です。まだ起きていましたから……」
リディアはぎこちなく笑って言葉を返した。
こんな夜遅くに男性と二人きりだからか、胸の中がざわめいていて気分が落ち着かない。
動揺するリディアの心中を見抜いたのか、ザサラメールは優しく微笑んで語りかける。
「そんなに警戒しなくても、私は何もしない。ただ、君の様子を見に来ただけだから」
彼はベッドの端に腰を下ろして、ピンクブロンドの髪をそっと撫でてくる。
触れられた瞬間、夢の中でザサラメールに撫でられた時のことを思い出し、リディアはたまらず胸をときめかせた。
「綺麗な髪だ。君がよく身につけている、ローズクォーツのペンダントのような輝きだ」
「そう……でしょうか……?」
ザサラメールからの褒め言葉に、リディアは気恥ずかしさから戸惑ってしまう。
自身の髪色を、そのように感じたことは一度もない。しかし、こうして彼に褒められたのはとても嬉しかった。
「今日は色々あって疲れただろう? だからゆっくり休むといい」
ザサラメールは労わるように告げると、リディアを抱き寄せてそっと顔を近づけてきた。
(あぁ、またキスされる……)
甘い期待に胸をときめかせて、リディアはそっと目を閉じる。
ところが、ザサラメールが口づけしてきたのは額ではなく、小さな唇の方である。
「ん……」
初めて唇を重ねられ、いつも以上に胸が高鳴っている。鼓動もうるさいぐらいに鳴り響いており、体の芯がいつになく熱く火照っていた。
やがて唇がそっと離れていき、ザサラメールによって静かに横にさせられる。
「お休み、リディア」
「お休みなさい」
就寝の言葉を交わすとすぐに、ザサラメールは静かに部屋を出て行く。
その瞬間、なぜか寂しさに似た感情が込み上げてくる。
(私、もっと先のことを望んでいるの……?)
ザサラメールがいなくなった後も、しばらく扉の方を見つめて考えてみた。
だが、今まで恋をしたことのないリディアには、その問いに対する答えは出てこなかった。
(――つづきは本編で!)