癒し上手なイケオジ執事が現物支給されました

「私が『現物』です。よろしくお願い致しますお嬢さま」

あらすじ

「私が『現物』です。よろしくお願い致しますお嬢さま」

 家事代行派遣サービスに勤めるみのりがある朝出勤すると、社長は夜逃げし、事務所は空っぽになっていた。途方に暮れるみのりの前に現れたのは、未払い給与代わりに『現物支給』された執事、加納千隼。二十も年上の彼もまた、行き場を失い困り果てている一人だった。
 頼み込む千隼を断り切れず自宅に迎え入れてしまうみのり。謎のイケオジ執事との癒しの同居生活が始まった…。

作品情報

作:砂月美乃
絵:立花にっける

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本文お試し読み

 1 現物支給

 出勤したら、事務所が空っぽになっていた。
 ――泥棒!?
 みのりはドアノブを掴んで固まった。
 机も椅子もキャビネットも、パソコンもプリンターも、みんな無くなっている。
 でも……、よく見たら、少し変だ。
 ところどころに口の開いたダンボール箱が置かれ、その周りにはがらくたが雑然と散らばっている。まるで引っ越しの荷造りみたいだ。
 それに、古い大型キャビネットまで持って行く泥棒なんて、いるのだろうか。
「ええと……、警察? ――じゃない、社長!」
 何がなんだか分からないけれど、まずは社長に知らせなくては。電話機もコードしか残っていなかったので、みのりは慌ててバッグを探る。スマホをタップする指が震えた。
 幸い電話はすぐに繋がった。
「あ、社長! 大変なんです、事務所が」
 言いかけたみのりの耳に、社長の叫び声が轟いた。
「沢村さん、すまん! 許してくれ!」
「――は?」
 何を言っているのか分からず、みのりはぽかんと口を開ける。
「すまんっ! 会社、倒産しました!」
「え、は……!?」
 言葉の途中で、ようやく理解が追い付いた。しかし一方的にまくしたてる社長に、口を挟む隙がない。
「ちょ、ちょっと、社長!」
「俺は逃げるから! 今月の給料、払えなくてすまん! 現物支給するから、許してくれっ! じゃあな!」
「待って、しゃちょ……!?」
 一方的に通話を切られた。慌ててリダイヤルを押したが、何度かけても繋がらない。
 みのりは役に立たないスマホを握りしめたまま、へなへなとその場にへたり込んだ。
「嘘……」
 ――会社が、倒産。社長は、逃げた。ええと、つまりこれ……、夜逃げってやつ?
 呆然とするみのりの目に、壁のカレンダーが映る。今日は二十三日、給料日まであと二日だった。
 しかしその給料が入る当ては、どうやらないようだ。
 途方にくれたみのりのため息が、空っぽの事務所に響いた。

 どれだけそうしていたのだろう。
 ようやく我にかえって、みのりはもう一度辺りを見回した。――大きなものや電子機器などは、全部なくなっている。
 散らばっているのは使いかけの文具や消耗品、古い資料に会社パンフ。それから隅っこにある、壊れかけた古い椅子。
 ――つまり、たぶん……。売れるものはみんな処分して、ここにあるのはがらくたばかりってことなんだ。
 ここに来て、ようやくみのりの胸に怒りがこみ上げた。
 みのりの勤めていた「エプロン人材サービス」は、家事代行の派遣を行う、いわゆるお手伝いさんの人材派遣会社だ。みのりは事務兼派遣コーディネーターとして、沢山の派遣スタッフを相手に働いてきた。
 振り返って考えてみれば、おかしな点はいくつかあったのだ。
 みのりが入社した時には四人いた先輩スタッフが、ここ二年ほどで次々に退職していった。それなのに社長はなかなか次の人材を採用しようとしなかった。
「不景気で、なかなかいい人が来てくれなくてね」
 社長は困った顔で笑っていたが、実際の業務を社長とみのりの二人で回すのは、どう考えても無理があった。当然残業は増えたし、時には休日出勤まですることになる。
 でも、なのだ。よく考えたら、社長を含めて五人でまわしていた仕事が、二人でこなせるわけがないのだ。つまり、それだけ仕事量が減っていたということ。そして、新しい人を雇う余裕もなかったということだ。
 そして、決定的なのは一昨日だ。
「明日はアポが少ないから、休んでいいよ。しばらく休みなしで、悪かったね」
 珍しく社長が自分から、休みをくれたのだ。ありがたく休ませてもらい、泥のように眠った。
 そしてほんの少しすっきりした頭で出社してみたら、この有様だ。
 ――きっとそうだ。最初から、そのつもりで……。
 自分が休んでいるうちにすべてを手配して、社長は夜逃げしたのだろう。
 みのりはがっくりと頭を垂れた。まさか三十を目前にして、失業することになろうとは。
 ――ああ、いきなりまさかの失業者か。こういうの、どこかに相談したほうがいいのかな? 職安とか? あ、でもそういえば、離職票もないんだっけ……。
 こうしていても社長は戻って来ないだろうし、もうここにいたって仕方ない。明日からのことなんてまだ考える気にもなれないけれど、とりあえず帰るしかないだろう。
「はあーあぁ……」
 大きなため息をついて、みのりはのろのろと立ちあがった。ドアの前で、ふと首をかしげる。
 ――この事務所は、放置しておいていいのかな? 
 その時突然、インターホンが鳴った。
「ひゃっ」
 みのりは飛び上がった。咄嗟に返事をしようとして、ふと思いとどまる。
 ――誰だろう?
 派遣スタッフの誰かかもしれない。みのりと同じように、会社が倒産したとは知らずに訪ねて来る人もいるだろう。それか、どこかの営業さんとか。
 どうしよう。事情を説明したほうが、いいのだろうか。
 ――でも、もし違ったら?
 昔ドラマで見た、借金の取り立てが頭に浮かぶ。社長が夜逃げするくらいだ、会社の負債は相当な額に違いない。
 もちろん自分は無関係というか、むしろ被害者だ。でもどうやって、それを証明したらいいのだろう……?
 みのりは自分の迂闊さを呪った。
 ――ああ、もっと早く帰れば良かった。ここにいたせいで、巻き込まれてしまうかもしれない。
 もう一度インターホンが鳴った。足がすくんで動けないままドアを見つめていると、次はノックの音がする。
 ――どうしよう、出ないとまずいかしら。
 そう思いつつも、足が動かない。
 すると再びのノックとともに、遠慮がちな声が聞こえた。
「失礼、開けますよ?」
 ――えええええ!?
 そう言えば施錠もしていなかった。思わず一歩後ずさるのと同時にドアが開いて、男が顔を覗かせる。
 知らない男だ。
 目が合ったみのりに軽く頭を下げ、男は落ち着いた様子で室内に入ってきた。
 みのりはバッグを胸に抱いて、もう一歩後ずさる。
 背の高い人だ、と思った。すらりと姿勢の良い立ち姿で、それが細身の体を際立たせている。歳は四十代半ばくらいか。社長より少し若いかもしれない。こめかみのあたりに白いものが混じった髪をきっちりと撫で付け、細い銀縁の眼鏡をかけている。
 その眼鏡の奥の瞳が、柔らかく細められた。
「沢村みのり様、ですね」
「へっ?」
 名を呼ばれるとは思わなかったせいで、みのりの返事は上ずっていた。
 とりあえず、借金取りではなさそうだ。でもお仕事関係……営業の人にも見えない。
 ふと「ホテルのコンシェルジュみたい」と思った。あまりお世話になったことはないけれど。
 男はコートの内ポケットから、白い封筒を取り出した。向きを変えて持ち直し、両手を揃えて差し出す。こんな時ではあるけれど、その動作の美しさがなぜか印象に残った。
「斎藤から、あなたに手紙を預かってきております」
「社長から!?」
「――その様子では、事情はご存じのようですね」
「えっ? ……ああ、はい」
 事情。それはおそらく、この状況のことだろう。みのりは頷きながら、宛名も何もない封筒を受け取って中を改める。
「さっき、電話を。――失礼します」
 中には折りたたんだコピー用紙が一枚。慌ただしく書かれたらしい走り書きだ。
『よく働いてくれたのに、本当にすまない――』
 どうやらみのりの知らないところで新事業に手を出し、そのための資金繰りが失敗したらしい。詫びの言葉が連ねてあったが、結局それだけだ。
『給料も出せず合わせる顔もない。せめて現物支給で許して欲しい』
 ――現物支給?
 最後まで読んで、みのりは首をかしげた。そう言えばさっきの電話でも、社長はそんなことを口走っていたような気がする。改めて事務所内を見回したが、めぼしい物など何もない。まさかあのがらくたを、持って行けというのだろうか? 
「現物支給、の件ですか」
「えっ」
 どうしてと言いかけて、みのりはその言葉を飲み込んだ。この手紙を預かってきたからには、この人は事情を知っていても不思議じゃない。
「あの――」
「申し遅れました、私は加納《かのう》と申します。お話したいことがございますが……。とりあえず、場所を移しませんか?」

 * * *

 事務所のすぐ近くにある喫茶店は、サラリーマンや学生でいつも適度に混んでいる。男の話というのが何か知らないが、人の中にいるほうが、何となく安心する。
 注文を済ませると、みのりは改めて男……加納と向かい合った。
 初めて見た瞬間、背の高い人だと思った。実際は百八十センチくらいだろうか。姿勢が良いせいで、余計にそう見えるのかもしれない。
 穏やかで、感じの良さそうな男だ。社長の手紙を持ってきたことで弁護士か何かかとも思ったが、雰囲気も着ているものもそれらしくない。シンプルな白いシャツに黒のスラックス、ネクタイとジャケットは無しで、ベージュの軽いコートを羽織っている。
「私は、斎藤の友人なのです」
 コーヒーが運ばれるのを待ち、加納はおもむろに口を開いた。
「突然ですが。執事、という職業をご存じですか?」
「は?」
 想像もしていなかった単語が飛び出し、みのりは持ち上げかけていたカップを戻す。なぜそんな話になるのか分からないが、男は生真面目にみのりの返事を待っているようだ。
 執事という言葉くらいなら、一応知っている。外国の映画や小説で、大きなお屋敷にいる使用人。みのりのイメージだと「お帰りなさいませ、お嬢さま」みたいな感じだが。
「ええと……、本とかテレビで見る程度なら」
 加納は軽く頷いた。その口元はやわらかい笑みのかたちになっている。微笑んでいるというか、そういう顔なのかもしれない。
「実は斎藤は、その「執事部門」を立ち上げようとして失敗したのです」
「『執事部門』……ですか?」
 みのりには、なんとも荒唐無稽なことを思いついたように聞こえた。だが加納の話によれば、日本にも執事という職は存在するのだという。
「斎藤はこれまでの人材派遣のノウハウを活かして、ただのハウスキーピング以上のサービスを提供しようと考えました。そして富裕層や企業顧客向けサービスとして、高品質な執事を教育し、派遣しようとしたのです」
 みのりには経営の詳しいことは分からない。とにかく社長はそのために友人である加納に協力を求め、彼はそれを了承した。
「ですが手紙にもあったとおり、資金繰りに失敗しましてね」
 どうやら社長は、加納にも内緒でかなり強引な資金集めをしたようだ。本業が順調ではないくせに危険なところからも金を借り、立ちあげが失敗した時点でもう首が回らなくなっていた。
「――で、倒産夜逃げに至るというわけです。あなたにだけは申し訳ない、と言っていました」
「……」
 申し訳ないと言われても、みのりが迷惑を被ったことに変わりはない。つい恨めしげに目の前の男を見上げたくなるのを、コーヒーを飲んでごまかす。
「そして『現物支給』の件なのですが」
「あの事務所には、もう何もないですよね」
 みのりは事務所の状態を思い浮かべて苦笑した。
 すると加納は、膝の上できっちりと両手を揃えて頭を下げる。
「私が『現物』です。よろしくお願い致します、お嬢さま」
「……はい?」
 目の前の男の、言葉の意味が分からない。ぽかんと口を開いたみのりに、加納は困ったように笑う。
「実は私も、斎藤に金を貸しておりました。私も日本での『執事』の需要は、必ずあると思っていましたので……」
 日本には珍しい「執事」として働いていた加納は、友人の斎藤に請われて「執事部門」のトップ兼教育研修スタッフとなる予定だった。多少の出資をし、準備に関わる資金を肩代わりしていた部分もある。
 しかし本業を含めて事業は失敗、当然金は戻らない。
「待ってください。それがどうして『現物支給』になるんですか」
「すみません、助けてください!」
 再び頭を下げられ、みのりは慌てた。見るからに年上の男に何度も頭を下げさせていては、周囲に何と思われるか分からない。こんな話になるなら、あのまま事務所にいたほうが良かったのではないだろうか。
「実は、昨夜遅く戻ったら斎藤の部屋も空っぽで。私とあなたへの手紙が、並べて置いてあったのです」
 聞けば、以前の勤め先は関西だったとか。仕事を辞めて上京してからは、社長のところへ仮住まいしていたのだという。
 そこまで聞いて、みのりはようやく加納の言う意味を理解した。つまり、この男は……。
「家事全般をお引き受けしますし、もちろん私も仕事を探します」
「そ、そんな。無理です」
 さすがのみのりも、こればかりは無理だと思った。今日初めて会った人、しかも男の人だ。
 だいたい、現物支給とはものも言いようではないか。
 ――これって要するに、無職のおじさんを引き取るってことなんじゃ……?
「給料が入るようになれば、斎藤の不払いの分も合わせてお支払いします。これでも執事は、待遇もいいんです。どうかお願いします」
「いや、でも……」
「本当に困っているんです」
 必死の顔で、三度頭を下げられる。
「うう……」
 ――ど、どうしよう……。
 分かっている。本当なら、こんな話など相手にせず、すぐに席を立つべきなのだ。
 でもみのりには、それができなかった。人に喜ばれるのが好きで、今の仕事を選んだ。社長に「ありがとう、助かるよ」と言われ、ついうっかり激務に耐えてしまったのだ。
 目の前で大の男が困り果てて頭を下げているのに、どうして放り出せるだろう。
 ――社長の知り合いだって言うし、家もお金もないんじゃ気の毒だし……。悪い人じゃなさそうだし……。ええと……そうだ。
「……あの、免許証かなにか持ってますか?」
 加納は頷いて、すぐに財布から運転免許証を取り出した。――加納千隼《かのうちはや》、確かに本人だ。住所は言っていたとおり、以前の勤め先らしい「兵庫県神戸市」となっている。
「これ、コピーさせてもらっていいですか。失礼ですけど、もし何かあったらすぐに警察に訴えます」
 頭のどこかで、警戒を促すサイレンが鳴っている気がする。しかしみのりは、敢えてそれを無視した。さすがに穏やかではない心臓の音を聞きながら、加納を見上げる。
「そ、それで良ければ、うちへ……」
「ありがとうございます。……本当に助かります」
 もう一度頭を下げた加納が、顔を上げてふわっと微笑んだ。
 ――うわ、この人。
 その時初めて、みのりは加納がものすごく整った顔立ちなのに気がついた。

2 執事と同居

「……どうぞ。狭いですけど」
 昨日が休みだったから、辛うじて掃除は出来ている。そのことにほっとしながら、みのりはマンションのドアを開けた。
「失礼します」
 加納は礼儀正しく頭を下げると、みのりに続いて室内へ入った。腰を屈めて脱いだ靴を揃える仕草は、ごく自然に習慣づいているように見える。
 何と言うか、動作のひとつひとつが綺麗なのだ。最初こそ気付かなかったが、顔も端正というか、派手ではないが整っている。
 ――こういう人を、「イケオジ」っていうのかしら?
 立ち上がる加納を見ながら、みのりはふとそんなことを考えた。
「マンションと言っても、この通りです。本当に、こんな部屋でいいんですか?」
 みのりの住まいは、玄関を開けて右側にお風呂とトイレ、突き当りのドアを開けるとリビングという、よくある独身者向けの賃貸マンションだ。間取りで言えば1LDKだが、決して広くはないし築年数も古い。
 これまで友人を招くことさえほとんどなかったので、キッチンの棚を眺めて軽く途方に暮れる。
 とりあえず紅茶(ティーバッグだが)でも淹れようと思うのだが、お客様に出せるカップがない。それにこのところのハードワークで、お茶菓子どころかろくな食べ物も置いていない。
「すみません、こんなのしかなくて」
 やや気後れしながら紅茶を差し出すと、加納はふわりと微笑んだ。来る途中にも思ったが、この人は笑うと生真面目から一転、別人みたいに柔らかくなる。
「ありがとうございます。可愛らしいカップですね」
 ……ウサギのマグカップを、両手でおしいただくイケオジ。
 あまりの似合わなさにかえって冷静になれた気がしたので、みのりは改めて口を開いた。
「……ええと、そっちの部屋は私が寝室に使っています。このリビングで寝てもらうことになりますけど、いいですか」
「もちろんです。お邪魔なら、玄関でも廊下でもかまいません」
 加納は神妙に頭を下げる。
「それは、いくらなんでも……」
 困惑しつつ、みのりは部屋を見回して考えた。個室というわけにはいかないが、彼にもある程度のプライバシーは確保してもらいたい。同居するからには、それはお互いのためでもある。
「ああ。もし良かったら、その辺にカーテンでも吊ってもらって……」
「そうですね、そう致します」
 変に遠慮をしないのは、みのりの意図をちゃんと理解しているのだろう。よく気のまわる、頭のいい人だ。
 ――これなら何とかやれるかもしれない。それに、こんなしっかりした人なら、すぐにお仕事が見つかるかも。
 そうなれば、奇妙な同居生活も長くはないだろう。ほんの少し、希望が見えた気がした。

「まずは、ルールをはっきりさせておきたいんです」
 みのりはバッグから手帳を出した。仕事用なので、比較的大きなルーズリーフ型を使っている。
「同居をするからには、まず生活のペースとか役割分担とか」
「おっしゃるとおりですね」
 加納は生真面目に頷いた。
「ですが、役割分担は不要ですよ」
「は?」
 首をかしげるみのりに、加納はにっこり笑って言い切った。
「私が全部致しますから」
「待ってください。それは――!」
「置いていただくのですから、当然です。――失礼、一枚いただいても?」
 みのりの手帳から白紙を一枚とると、加納はさらさらと書き始めた。まるでペン習字のお手本のような、きれいに整った字だ。
「あくまで私の考えですが。まずはあなたのほうが、先にお仕事を探されるべきでしょう。私と斎藤のせいで余計な迷惑を被ったのですから、あなたの生活基盤を固めるのが、この場合最優先かと。その間の家事一切は、私が責任をもってさせていただきます。ああ、腕前は信用して下さって結構ですよ」
「え、あの」
「料理もできますし、掃除も洗濯もすべてお任せください」
「いや、それは」
 どうしてだろう。落ち着いた穏やかな話し方なのに、なぜか口を挟む隙がない。気がつけばいつの間にか、みのりは加納の言うままに明日から求職活動をすることになってしまっていた。
「せ、洗濯だけはしますから!」
「私は気にしませんが」
「私のほうが気にしますっ!」
 加納は穏やかに微笑んで、軽く頭を下げる。
「そうですね、若いお嬢さんに失礼しました」
 三十手前の女に、その表現はいいのだろうか? ふとそんなことも思ったけれど。
 ――確かにこの人から見たら、私は「若いお嬢さん」なのかも。
 途中のコンビニで免許証をコピーさせてもらったときに、生年月日を見て驚いた。去年還暦を迎えた母と、ちょうど十歳違いだった。
 ――ってことは、五十一歳!? 本当に、社長と同い年なんだ!
 見えない。どう頑張っても、アラフォー以上には見えない。
 夜逃げした社長の友人とは聞いたが、加納のほうがずいぶん若いのだと思っていた。
 二十九歳のみのりとは、二十歳以上も離れている。
 ――そうか。もしかして私は、この人から見たら子どもみたいな……。うん、親戚の子みたいな感覚なのかも……?
 そう思ったら、少しだけ力が抜けた。

 当面の生活費はみのりが出すことにした。もともと家賃も光熱費も、みのりの家なのだから変わらない。食費やそれ以外の出費も含め、いずれ加納の仕事が決まったら折半にして支払う。
 なるべく貯金するようにしていたし、この一年はほとんど使う暇もなかった。会社こそ倒産させてしまったが、社長は残業代も含め、先月までの給料はちゃんと払ってくれていた。だから加納のぶんの出費が増えても、二か月くらいは何とかなる。それまでに、まずはみのりが仕事を探さねばならない。
 加納の荷物は最低限しかないようだった。勤めていたころのものは、まだ神戸の貸倉庫にあるのだという。それでも着替えや身の回りの品を買うくらいなら持っていると言うので、そこは好きにしてもらうことにした。
 他にも細かいことを、話し合って決めてゆく。とは言っても、加納は完全にみのりに何もさせない構えだ。
「どうかご自分のことに、専念されてくださいね」
 早いペースで話が進み、何だか自分のことのように感じられない。みのりは加納に気づかれないよう、小さなため息をついた。
 その後、みのりは加納を近くのスーパーへ案内した。加納はざっと店内を見渡すと、カートを押してどんどん食材を入れてゆく。
 何しろ最近はほとんど料理をしていない。いつのまにキッチンをチェックしたものか、加納は調味料なども漏らさず籠に入れている。その動きには迷いがなく、それでいて野菜や肉もきっちり吟味しているようだ。
「苦手なものはおありですか?」
 野菜売り場でそう聞かれて、みのりはわずかに頬を染めた。
「……実は、ピーマンが」
「はい」
 加納はあっさりと頷いた。
 子どもみたいだと思うのだが、昔から苦手で食べられない。急に恥ずかしくなり、みのりは慌てて言い添えた。
「あのっ、でも。全く食べられないわけじゃありませんからっ!」
 すると加納はふわりと笑った。
「承知いたしました」
「……」
 むきになって食べられるとアピールするなんて、余計に子どもっぽかったかもしれない。みのりは少し熱い頬を隠すように俯いた。

 家に戻り、コートを脱いでシャツとスラックスの姿になると、加納の雰囲気が変わった。さっきまで失業して途方にくれている人のいいおじさん……という感じだったのに、まるで一流ホテルの敏腕シェフだ。
「それではこれより、正式にお仕事に入らせていただきます」
 てきぱきと食材を冷蔵庫に収め、キッチンの収納を開けて中身を確認している。みのりも手伝おうとしたが、加納に柔らかく止められた。
「今日からは、これは私の仕事です。お嬢さまはどうか、ゆっくりくつろいでいらしてください」
「――お、お嬢さま?」
「そうです。あなたは今から、私のご主人さまですからね。そのようにお呼びさせていただきます」
「え、それはやめてください。私、そんなふうに言われるような……」
「――お飲み物はコーヒーと紅茶、どちらをお淹れしましょう?」
 みのりの言葉を遮るように、加納がにっこりと微笑んだ。
 結局みのりはソファに座って、加納が働くのを眺めていた。手にしたいつものマグカップからは、同じティーバッグとは思えぬ高貴な香りが漂っている。
「美味しい……」
 思わず呟くと、加納が振り返って微笑んだ。
「お口に合って光栄です」
 その笑みから逃げるように、みのりは紅茶に目を落とした。
 香りに誘われてもうひと口。本当に美味しい。いつもみのりが淹れるのと、同じ紅茶とは思えない。
 ――ティーバッグの紅茶なんて、誰が淹れても同じだと思ってたのに。
 半分くらい飲んだところで、ついに我慢できなくなった。
「あの、これ。何か入れました?」
「はい?」
 よく聞き取れなかったのか、振り返った加納が眉を上げる。
「これ、このお茶です。どうしてこんなに、美味しく淹れられるんですか?」
「ああ、それですか。もちろん、何も入れていませんよ」
「じゃあ、どうして?」
「お茶にはそれぞれ最適な温度があるのはご存じでしょう?」
 加納は嬉しそうに微笑んで、手にしたボウルを置いた。
「ティーバッグでも、それは同じです。いくつかコツがあるのですよ」
「それ、ぜひ教えてほしいです」
「かしこまりました。いずれお教えいたしましょう。……でも」
「え?」
「私がいる間は、お嬢さまの紅茶は私が」
 またしてもふんわりと微笑んで、加納はもとの作業に戻る。
「な……」
 みのりは呆けたように、その後ろ姿を眺めていた。
 不思議だ。両親とそれほど変わらない、年上の男性。言ってしまえばおじさんだ。なのに、どうしてこんなにドキドキさせられてしまうのだろう。
 立っているだけで目を引く姿勢の良さに、所作の美しさ。ドラマで見たような黒いスーツを着たら、どんなに素敵に見えるだろう。言葉遣いも丁寧で、お嬢さま扱いなんかされるとくすぐったいくらいだ。
 ――それに、あの笑顔はずるい。おじさんのくせに、あんな優しい、絵に描いたらキラキラの光が添えられそうな……。
「――お嬢さま?」
 声をかけられ、みのりは慌てて顔を上げた。まさにキラキラのエフェクトを纏った加納が、皿を手に微笑んでいる。
「お待たせしました、どうぞ」
 テーブルに用意されたのは、一人分のパスタにカラフルなサラダだった。
 けげんな顔で見上げると、加納は苦笑気味に言った。
「実は、先に伺うのを忘れておりました。お食事は、ご相伴してもよろしいですか? もし一人で召し上がるほうが気楽でしたら……」
「いっ、一緒に食べてください!」
 冗談じゃない。向かい合って食べるのも気詰まりではあるけれど、こんな年上の男の人を控えさせて、一人で食べるなんてできるわけがない。
「ありがとうございます」
 加納は手早く自分の皿を運んできた。テーブルには、越してきた時に買って以来ほとんど使っていなかったグラスが並んでいる。せっかく気に入って買ったのに、一人だとつい何でもマグカップで済ませてしまっていた。
 ラグの上にきっちり正座している加納を前にすると、自然とみのりの背筋も伸びる。
「いただきます……」
 遠慮がちにひと口食べて、みのりは目をまるくした。
「美味しい!」
「ありがとうございます」
 加納の作ったパスタもサラダも絶品だった。そういえば、ドレッシングをカートに入れている様子はなかった。ということは、これも手作りなのだろうか?
 調理時間だって、そんなにかかっていない。見たところ材料も、ごくシンプルなものばかりだ。
「すごい! 加納さん、どうしてこんなにお上手なんですか」
「喜んでいただけて、嬉しいですよ」
 目を輝かせて食べるみのりに微笑みながら、加納は自分もパスタを口に運んでいる。男性にしては細くて長い指が、くるくるとフォークを操る。それは綺麗というか流れるようで、つい視線が引きつけられてしまう。
「加納さんて、すごく器用そう……」
 思わず呟いてしまい、みのりははっと口をつぐんだ。
「そう見えますか」
「お、お料理も美味しいですし、それに……すごく手際がいいみたいだし」
「ありがとうございます」
 もう何度目かの加納の微笑だが、この距離で正面から向けられると落ち着かない。
 ――この人、自覚ないんだろうか。
 みのりは皿に目を落とした。加納の手つきを見てしまったせいだろうか。なぜかフォークを持つ自分の手が、いつもより不器用に、ぎこちなく感じた。

 * * *

 遅い昼食の後、みのりは寝室にしている部屋へ引きこもった。一人でいたときは扉を開けっぱなしにして、ほとんどワンルームのように暮らしていた。そのせいか、扉を閉めると急に狭くなった感じがする。
 加納は「大切なものは寝室へ移して」と言ったが、とくに高級品があるわけではない。ブランド品にはほとんど興味がなかったし、家電も量販店で揃えたものだ。見られて困るような物もない。
 だからあるものは何でも使っていいし、使いやすいように動かしてもらって構わないと言った。
 忙しいせいでほとんど寝に帰るだけになっていた部屋は、自分でも思った以上に味気ない、愛着のない空間になっていた。
「はあ……」
 ベッドに転がると、みのりの口からため息がこぼれた。それは思いがけず大きなもので、自分でも少し驚いてしまう。
 ――どうして、こんなことになったんだろう。
 今朝出勤するまでは、いつもと変わらない一日のはずだったのに。
 会社が倒産して、社長が夜逃げして。途方に暮れていたところに、あの人がやってきて。
 あれよあれよという間に、みのりの部屋で同居することになっている。しかもかなり年上の、初めて会った男だというのに。
 ――やっぱり、こんなの普通じゃない。
 何をしているのか知らないが、リビングからは時折物音が聞こえてくる。本当なら、自分もリビングにいるべきかもしれない。初対面の男を家に入れて、好きにさせるのはおかしいかもしれない。
 でも、よく知らない人とずっと顔を突き合わせているのもたぶん辛い。その人を迎え入れたのは、自分なのだけれど。
 自分で自分の状況が分からない。
 少し一人になりたかった。

 加納は一人になったキッチンに立っていた。みのりが「好きに使って構わない」と言ってくれたので、鍋や調理器具などを自分の使いやすいように配置する。
 みのりは最近の若い女の子の中で、とくに小さいわけではない。恐らく百六十センチくらいだろうから、ほぼ標準といったところか。それでも自分とは、二十センチくらいの差がある。使いやすい高さが違うのは、当然だ。
 包丁は砥がなければならないが、鍋や皿、基本的なキッチンツールは揃っている。しかしその割に、ほとんど料理をしていた様子がないのには驚いた。見ればリビングも片付いてはいるものの、女の子の部屋にありがちな雑誌や小物類がほとんどない。
「忙しくてほとんど寝に帰るだけ」とみのりは言っていたが、本当にその通りだったのだろう。斎藤から事情は聞いてはいたものの、実際部屋を見てみると気の毒に思う。最初に揃えたらしい食器や小物から想像するに、本来は可愛らしいものが好きな、普通の女の子なのだろうに。
 それにしても……と、加納はみのりの部屋のドアを眺めて苦笑した。
 ――よくもまあ、自分を受け入れてくれたものだ。
 少なくとも、最初はまず断られるだろうと思っていた。それでも何とか粘って承諾を得るつもりでいたが、蓋を開けてみれば、拍子抜けするほどあっさりと承知してくれた。真面目というか、困っている人を見捨てられないタイプなのか。
 彼には彼の事情がある。しかし、一宿一飯の恩という言葉もあるくらいだ。なるべく彼女が楽に暮らせるように、心を尽くしてやろうと思う。
 突然職を失ったあげく、自分のような得体の知れない男を抱え込む羽目になったのは、彼女のせいではないのだから。

 * * *

 控えめなノックの音で目を覚ましたみのりは、男の声にぎょっとした。
「お食事の支度ができました、お嬢さま」
 ――ああ、そうだった。
 もちろんノックの主は加納だ。
 いつの間にか、うとうとしていたらしい。ベッドに起き上がり、軽く頭を振る。それから鏡を覗いた。寝ている間に、いつも一つに束ねている髪が崩れている。
 ――あの「お嬢さま」だけは、やめてもらいたいなあ。
 そんなことを考えながら髪を手ぐしで結びなおし、部屋を出た。
「お寝みでしたか、お嬢さま」
「すみません、その『お嬢さま』っていうのは……」
 言いながらドアを閉めて向き直ったみのりは、加納が目に入るなり絶句した。
 ――うそっ……!
「すみません、料理をするのにお借り致しました。いけなかったでしょうか」
 半分口を開けて固まったみのりに、加納は申し訳なさそうに首を傾ける。
 加納は、みのりのエプロンをつけていた。いや、それは別にかまわない。問題は、エプロンそのものだ。みのりは人と接する仕事柄、服装はシンプルで落ち着いたスタイルを心掛けている。だが本当は、可愛いものが大好きだ。
 加納がつけているのは、そんなみのりが趣味全開で買ったエプロンだった。
 こめかみに白髪が混じったイケオジが、だ。
 よりにもよってピンクの花柄の、胸ポケットからウサギがコンニチハしてるエプロンをして、あまつさえ、こてんと首をかしげているとは。
 ――似合わない。似合わなすぎる。……なのに。
「か、可愛いですね……」
 引きつった声は、たぶん嘘ではなかった。

 夕食もやはり絶品だった。一見和食なのだが、ほんのり洋風アレンジが効いている。
 何かのハーブが効いた鰆は旬の野菜を添えて軽くマリネされていて、イタリアンな風味が漂う。もっともみのりがそう思っただけで、実際はフレンチなのかもしれないが。それに炊き立てのご飯とお味噌汁が意外なほどに合って、みのりは思わず両手を合わせてしまう。
「ごちそうさまでした……!」
「お口に合いましたか」
「はい、とても美味しかったです」
「それは良うございました」
 加納の笑顔の破壊力にも、少しは慣れてきた。
「食後のお茶を、お淹れしましょう」
 そう言いながらも加納はすでに立ち上がって、食器を重ねて手に取っている。
 みのりは慌てて腰を浮かせた。
「あ、片付けくらいは私が……」
 思ったとおり、加納は笑って首を振った。
「いいえ、これは私の仕事です。お嬢さまはどうか、ゆっくりしていらしてください」
「あの、さっきも言いましたけど。その『お嬢さま』は……」
「ご不快ですか?」
 首だけ振り向いて訊ねる加納は、早くもポットを手にしている。まったく手際のよいことだ。
「ふ、不快というわけでは……」
 嫌だというのとは違うのだが、とにかく気恥ずかしくて落ち着かない。しかし加納は、みのりの言葉を敢えてそのまま受け取ったようだ。
「ならば良うございました、お嬢さま」
 今日一日で、みのりにもうっすら分かってきた。穏やかな態度と言葉遣いだが、この人はこうと決めたら譲らない人だ。まともに話し合っても、とても勝てる気がしない。
 ――まあ、大人と子供みたいなものだもんねえ。
 半分諦めたような気持ちで、みのりは紅茶の香りを吸い込んだ。

 * * *

 もう何度目か分からない寝返りをうって、みのりは枕元のスマホを見た。いつの間にか0時をまわっている。
 今朝は朝から、いろいろなことがありすぎた。
 出勤したら会社が倒産していて、そのせいで見知らぬ男と同居することになった。ひと言で言い表すとめちゃくちゃだが、本当なのだから仕方ない。まったく、誰がこんな事態を想像できるだろう?
 夕食後、買ってきた布を突っ張り棒にかけて簡易カーテンにし、加納のスペースを確保した。ちょうどクリーニングに出したばかりの冬用の毛布があったので、それも使ってもらうことにした。
 もともと残業続きで寝に帰るだけの毎日だったから、家にいても特にすることがない。結局いつもより早めにシャワーを浴びて、休むことにした。自分がいつまでもリビングにいては加納も休めないだろうし、それに二人でリビングにいるのも気詰まりだったから。
 しばらく点いていたリビングの電気も、気づけばいつの間にか消えている。おそらく加納も寝たのだろう。
 別に鼾《いびき》どころか寝息だって聞こえてくるわけではない。ただ――、そこにいるはずの男の気配が、どうしても気になって眠れない。
 ――やっぱり、こんなのおかしい。
 了承したのは自分だ。だが、よく知らない男が同じ家に寝ているなんて、どう考えても不自然だ。うっかり人に言えることではない。
 ――何とかして、この状態を早く終わらせよう。
 静かな部屋に、みのりのため息が小さく響いた。

(――つづきは本編で!)

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