聖職者は愛を贖う

「泣くな。君は私を殺すために来たのだろう?」

あらすじ

「泣くな。君は私を殺すために来たのだろう?」
 ギルノクス神聖王国の長い歴史にあり、最も崇拝される王となった最高司祭アレクシス。空虚な信仰の虚しさの中、幼馴染だった少女マイラとの再会を待ち望んでいた。
 だが彼女はアレクシスの命を狙う復讐者として、再び彼の前に現れた。捕らえたマイラにアレクシスは、情事の間であれば自分を殺す機会を与えると持ち掛ける。
 この世で一番大切な人を、もっとも粗末に抱く瞬間が訪れる。

作品情報

作:桜旗とうか
絵:唯奈

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本文お試し読み

 一.

 天井が高く作られた礼拝堂で正装に身を包み、アレクシスは一人で祈りを捧げる。
 ステンドグラスから差し込む光は柔らかく、静寂を壊すことはなかった。
 目を閉じて、願うのはこの国の安寧。
 彼は、この国で唯一白い衣服と金の装飾を身に纏うことを許された“聖者”だった。
「猊下。お時間です」
 男の声に目を開く。
「わかった」
 素っ気ない返事をする。
 アレクシスは二十三歳のときに最高司祭という地位に就いた。このギルノクス神聖王国でもっとも権力を持つ国主相当の地位だ。
 世界中を見ても信仰心が過熱する大宗教時代に差し掛かり、聖職者の地位は年々向上している。数百年前には王族をいただいていたこの国も、いまや聖職者が牛耳る時代。銀色の髪と、金色の瞳を持つアレクシスは、ギルノクス神聖王国が崇拝するリファー神の遣い、あるいは生まれ変わりとされて尊ばれた。
 理由はいくつかある。
 リファー神が銀髪金目の男性神であったとされること。
 主の象徴が太陽と月で表現されること。
 世界的に稀な色彩であることなどだ。
 アレクシスは、ヴィルタール侯爵家という名家に生まれた。たとえば、この国に多く見られる黒髪と琥珀色の瞳をしていたとしても、侯爵家の後継者として人びとに崇拝されただろう。
 広大で肥沃な領地を運営しながら、領民と適度な距離を保って暮らしていく。そんな未来があった。しかし、アレクシスは偶然か必然か、聖職の道へ進むことになったのだ。
 ゆったりと踵を返した。
 肩から掛けたストールが翻る。足先まで隠した白い長衣がわずかに揺れ、装飾品がシャラと鳴った。
 染みひとつない白い床を、足音を立てずに歩いていく。神官服を身に纏う男の前までやってくると、その男は深く頭を垂れた。
「猊下がこの世に生を受けられたことを、心からお喜び申し上げます」
 視線だけを向けたあと、神官は礼拝堂の扉を開いた。その先では、この教会で暮らすすべての者がアレクシスに頭を垂れる。そして、先ほど神官が投げかけた言葉と同じ文言を口にする。
 夏の初め、十六の日。その日は一年でもっとも大きな礼拝がおこなわれる日だ。
 アレクシスの生誕を祝うと同時に、彼が神託を受ける日。その神託は国民に伝えられ、一年の過ごし方を皆が決定していく。
 先刻の祈りは、神託を聞くためであるとされていた。その言葉が彼に与えられたかどうかはだれも気に留めず、ただ彼が国民の前で、肉声で、言葉を授けることこそが正義であると信じている。だから彼はその流儀を続けていく。
 変わることなく毎年、同じことを繰り返していた。
 頭を垂れる聖職者の傍から、神官が二人出てきてアレクシスを先導する。これから時間を掛けて王都を行列が練り歩く。その間、この国の民はアレクシスが通り過ぎるのを、目を輝かせて待っている。
 彼は、この国のすべてがひれ伏す存在。
 しかしその実はだれとも変わらない、ただの人だった。
 人混みが嫌いで、喧騒の中では人の言葉がうまく聞き取れない。手先は究極的に不器用で、それを知っているのはごくわずかな人だけ。子どもは嫌いではないが扱い方がわからず、とりあえず摘まみあげて周囲をぎょっとさせたことがある。
 表情が乏しく、聖職者の本分から恋をしてはいないが、過去には大切に思う少女がいた。
 幼いころの話。
 すべて、過去の記憶だ。
 瞼を閉じて、深呼吸をひとつする。
 アレクシスは、決して賢君などではない。その重圧に押しつぶされそうになることもある。清廉な国主ではない。
 最高司祭となってすぐに処断した聖職者の数は、百に上る勢いだ。だが、その数字はもう打ち止めだろう。排除すべき者はすべて取り除いた。
 己の手を汚すことはないとはいえ、冷徹な処分を科してきた。執行した神官らにも不便を掛けただろうが、彼らはむしろそれを歓待している。
 これまでの教会は魔の巣窟だった。その運営体制に違和感を覚えていた者は少なくなかったということだ。
 正義を執行したとは思わない。アレクシスは、己にとって邪魔となるものを捨てたに過ぎないのだから。だが、その極端すぎる決断が民心を掴んだ。
 アレクシスは、長いギルノクス王国の歴史上でもっとも崇拝される王であった。数百年前に途絶えた、王家の血脈が統治していた時代にまで遡ってもなお、彼ほど民衆に求められる人間はいない。
 いつか聞いた言葉を何度も思い返しては、彼の言うことは正しかったのだとアレクシスは胸を痛めてきた。
 いまの崇拝の対象は、神ではない。神の生まれ変わり、あるいは使者とされるアレクシス自身だ。そんな信仰心などを求めて聖職者になったわけではなかったが、この場所から退くわけにもいかない。絶対に退いてはいけないのだ。
 捜したい人がいる。
 詫びたい人がいる。
 共に生きたかった人たちをまだ見つけられていない。だからアレクシスは神が迎えを寄越すその瞬間まで、絶対的な統治者でなければならなかった。
 
 アレクシスの生誕を祝福するためにおこなわれる年に一度の大礼拝は、王都以外からも大勢の人びとが押しかけてくる。馬車で数日かかる道のりを、何度も辻馬車を乗り継いでくる者もいるほど。
 教会側が出向く地方巡礼は聖職者全員でおこなっているが、アレクシスが訪う地方は王都の近郊と決まっていた。すべての民に会えるわけではない。だから、国民が会いにくる。手を触れることも、言葉を交わすこともできないが、その姿を一目見たいと願ってやってくるのだ。雨が降って中止を検討する年もあるが、極力執り行うようにし、警備もできる限り少なくしてくれと要望を出している。神官らが壁になって、周囲が見えなくなるのは避けたかったからだ。
 教会を出て、王都の大通りを一日掛けて歩く。普通の速度で歩けば、いかに大きな王都といえども、半日あればぐるりと回りきってしまえるのだから、歩速は遅い。
 耳に痛いほどの歓声を浴びながら、アレクシスは前だけを見つめていた。だれか一人と目を合わせてはならない。ただ街を歩く行為。それを人びとは頭を垂れて待ちわびる。
 その脇を通り過ぎながら、行程は終わりが見え始めていた。
 大通りを回って再び大聖堂が眼前に見える。時間によって色を変えるその建物は、朝は青白く、昼間は白亜に、夕刻には菫色がかった色へと姿を変えていく。
 出発時点には青かった教会はいま、菫色のように見えた。
 まもなく、のろのろとした巡礼が終わる。何気なく視界を沿道に向けた。すると、人の間を縫って黒い影が飛び出してきた。
「……!」
 手元には白刃の煌めく小剣が握られていて、反射的に一歩下がる。直後、ひゅっと空を切る音が聞こえたが、切っ先がアレクシスに届くことはなかった。
 神官たちがすぐさま取り囲み、その影を押さえ込む。
 なにか声を掛けられたがそれにはかまわず、取り押さえられている者を見下ろした。
 黒いマントを羽織り、頭からフードを被っていて顔は見えない。だが、先ほど一瞬見えた顔は、幼く見えた。華奢な腕が袖から覗く。だが、子どものそれではなかった。
「猊下。ご無事ですか?」
 年かさのいった神官長が小声で聞いてくる。
「大事ない」
 それだけを返答し、変わりなく残りの順路を歩いた。人影は取り押さえられたままその場に残り、一団が再び進んでいく。
 集まっていた民衆も一瞬は騒然としたが、何事もなかったかのように振る舞うアレクシスを見れば、自然と視線は彼に誘導された。
「のちほど神官らに厳罰を科します」
 アレクシスは無傷だったのだ。そこまでしなくともいい。だがそれを言えば規律は乱れる。ゆえに、失態は罰で贖う。
 いつからこんなに冷徹になってしまったのだろうか。
 沿道からの声も、ほとんどなにも聞き取れない。すべてが雑音に聞こえて耳が判別しようとしないのだ。だから、無感情でいられる。
「先ほどの襲撃者……」
 ぽつりと呟くと、神官長が伸ばした背筋をさらにピンと整えた。
「あの者がなにか?」
「……なにか、言っていたか?」
「と、おっしゃいますと?」
「なにかを叫んだ気がしたが、聞き取れなかった。気のせいか?」
 振り返ることもなく、視線も動かさず、淡々とそう問いかける。
「その……、仇だと」
「そうか。わかった」
 アレクシスはいまや神と見なされるほどの絶大な信仰を得ているが、中には教会に反感を抱く者もいる。
 これまでの教会の方針では救えなかった者や、かつては信徒だった者たちが一方的に追放されることもあり、その恨みがすべてアレクシスに向かっているのだ。
 それを不条理という者もいるが、最高司祭という地位に就いたアレクシスの宿命だと思っている。
 未来を健やかで安らかなものにしなければならない。
 過去の過ちは償える者が償わねばならない。
「先ほどのものの処分は私が決める」
「お心のままに。猊下」
 生誕巡礼が終わりを迎え、ぞろぞろとあとをついてくる者らに制止を掛けて一人で私室へと戻った。
 重たい衣服を脱ぎ捨てて儀式服から略装へと着替える。このあとは受けてもいない神託を皆に伝えるだけだ。今年も例年通り健やかに過ごせと伝えればいい。
 衣服を整えて姿見を見る。そこには無表情な男が一人映っていた。長い銀色の髪と、金色の瞳。真一文字に引き結ばれた口。退屈そうで、無愛想で、こんな男を信仰する民衆が哀れに思えた。
 あの人はこんな未来を知っていたのだろうか。
 あの人の、あのときの打ちひしがれた姿はなにを思ってのことだったのだろうか。
 聞きたかった。もっと一緒にいろんな話をしたかった。大人になるまで待っていてほしかったのだ。
「私が生まれさえしなければよかった……」
 そうすれば、もっと多くの幸せが降り注いでいたはずだ。
 彼にも、あの子にも。
 過去を思い出して胸が痛む。楽しく、幸せだった記憶が色褪せて薄くなっていく。
「アゼル……。マイラが、私に会いに来たよ」
 復讐者として。
 アレクシスの命を狙って。

 窓の外へ目を向けて、日が沈んでどれほど経っていたのだろうかと机のランプをつけた。部屋が暗くなっても、仕事に没頭していると気づかないことは多い。
 ペンを置き、書類を束ねる。脇にある、手つかずの本に目を向けた。積み上がった本はいつか読もうと思って手元に置いていたものだが、アレクシスが読む本などたいていは聖書だ。しかも、内容を完璧に把握して、諳んじられてしまうほど読み尽くしたもの。それでも、手持ち無沙汰になるとつい聖書を開いてしまう。
 本の山に手を伸ばし、そういえばと思い直した。
「だれか。いるか」
 アレクシスは部屋の外へ声を投げた。すると、即座に神官長が姿を見せる。
「お呼びでしょうか、猊下」
「巡礼中に襲ってきた者はどこへ?」
「地下の独居房に収容させました」
「会いたい」
「同行いたします」
 アレクシスが次期最高司祭として認められてから、教会の体制を大幅に変えてきた。
 前最高司祭は老齢となっていたため、あらゆることをアレクシスに一任したのは幸いだったといえる。あれこれ口を挟まれては面倒だ。そうならないために、アレクシスは信仰を深めて神を第一とする思想を語り続けてきた。そうすることで、ほかの聖職者から難癖をつけられることを防いだ。
 いまでも神は信じていない。だが、人へ語りかけるとき、枕詞のように「神は」とつければなんの諍いも起こらないのだ。煩わしさから解放されるなら、信じていなくても敬うくらいはできる。
 アレクシスの言葉は神の言葉。そこに異を唱えることは神に背く行為だ。ゆえに、人は従う。
 ギルノクス神聖王国でしか通用しないことではあるが、国の中でだけでも絶対であれるなら、それで充分だ。
「猊下。今回の警備の不手際ですが、周辺の警護に当たっていた神官たちを大幅な減俸処分といたします」
「減俸か……奉仕活動に従事しないのか?」
「いま人手が減りますと問題が生じるやもしれませんので」
「それは貴殿らの力不足だろう。それとも、私に傷がついてもよかったのか?」
「……滅相もございません」
「先代のころなら、腕を差し出せと言われているだろうな」
 アレクシスが変えた規則には、罰則事項も含まれる。その内容は、身体を傷つける罰はおこなわないことを基本とした。命を奪う真似をしないのは教会という組織柄当然のこととはいえ、先代のころまでは身体への物理的な罰則があったのだ。そして、その罰を下される者は少なくなかった。
「……当該の神官は追放処分といたします」
「違う。責任者である貴殿は責任を取らないのかと聞いている」
 険しい表情をする男の顔を横目で見て、すぐに視線を前へ戻した。
「もう良い。下がれ」
「猊下。さすがに危険です」
「この場所で危険があるのだとすれば、それこそ貴殿ら神官の怠慢だろう。責任という重圧から解放してやろうと言っている。下がれ」
「……仰せのままに」
 その場で腰を直角に曲げる男に気づかないふりをして廊下を進んだ。
 守衛室まで歩いていくと、供も連れずにやってくるアレクシスの姿に、部屋に詰めていた神官たちが慌てて飛び出してきた。片膝を突き、頭を垂れる神官を前にアレクシスは一言だけ告げた。
「件の襲撃者に会いたい」
 一瞬その場が騒然としたが、すぐにアレクシスは地下へと案内される。
 かび臭い地下牢は、今回のような狼藉者を捕らえておく場所として基本的には使われている。教会内の不祥事の場合は別に懲罰房があり、そこへ閉じ込めることになっていた。
 薄暗く、冷たい空気の漂う地下牢を進んで行くと、最奥で神官が足を止める。
 鉄格子の奥には、人影がろうそくの明かりにゆらゆらと照らされていた。
「下がっていい」
「承知いたしました。出入り口付近に待機しておりますので、なにかございましたらお声がけを」
 神官が立ち去ろうとする。
「待て。牢の鍵を開けていけ」
「……猊下。恐れながら申し上げます。この者は猊下のお命を狙った狼藉者。危険かと存じます」
「命を狙われたのは貴殿らの警備に穴があったゆえだろう」
「ですが、猊下の御身に万一がございましたら……」
「鍵を開けろと言っている」
 一言で反論を断じると、ぐっと神官が押し黙った。
 アレクシスの言葉が持つ効力は絶大だ。ただの最高司祭としての言葉ではすまない。神の申し子だと、いまだにだれも疑っていない。すなわち、この言葉は神の言葉。絶対命令だ。
「……お、仰せのままに」
 神官が鍵を開ける。手が震えて何度も失敗していたが、ほどなくして錠が外された。
 鍵を預かり、先ほどの言葉どおり出入り口付近まで下がった神官の姿をたしかめてから、鉄格子を開いた。
「話をしようか。私の命を狙った勇敢な人」
 ゆっくりと顔を上げたのは、あの日の面差しを残しながらも美しく成長したマイラに間違いなかった。 

 最後に彼女を見たのは十八年も昔。それほどの期間を離れていながら、アレクシスは一目で彼女がマイラ・キーナであることを理解できた。
 目元はアゼルにそっくりだが、全体的な風貌はいつか見せてもらった彼女の母親によく似ていた。楚々とした美しさと、花のような可憐さ。惜しむらくは彼女に、アゼルが持っていた太陽のような温かさがないことだ。
 殺意が感じられる。未来を見ていない。すべてを諦めたような目でアレクシスを見上げてくる。
 手足を枷に戒められ、床にぺたりと座った彼女を見て、昔のように膝に抱き上げてやりたいと思った。だが、それは許されないことだ。
 アレクシスはこの国でもっとも神聖な人となった。神と同等に扱われる彼は、だれからも傷つけられることは許されない。
 彼女を知っているからといって、恩情を掛けることはできないのだ。
「そこまで私が憎かったか」
 マイラがアレクシスに刃を向ける理由を知っている。それでも素知らぬ顔で、なにも気づかぬふりで、襲撃者として対峙しなければならない。
「……聖者様は、ご自分が憎まれていないと本気でお思いですか?」
 わずかに眉根を寄せ、すぐに無表情を取り繕った。
 アレクシスを“聖者様”と呼ぶ人間に心当たりがある。しかも、知る限りではたった一人だけだ。
「この地位について五年になるが、罰してきた者は多くいる。恨みのひとつも買っているのは当然だろう」
「……あなたのために死んでいった人間がいることを知っている?」
 目を伏せた。
 真っ先に思い浮かぶのはアゼルの顔だ。
「さあな。この世には私のために死にたがるものなど掃いて捨てるほどいる」
「っ……! 望んでいないのに、命を落とした人もいるのよ……!?」
「言葉が悪い。現世で役目を終えた者が神の元へ帰るだけだ。命は落とすものではなく、神に返すものだ」
 あくまでも、アレクシスは最高司祭という立場を貫かねばならない。
 こんな、神に傾倒した話を彼女が聞きたいわけではないことくらいわかっている。
「あなたは、自分や自分が大切にしている人が死んでもそれを言えるの!?」
「無論だ」
 嘘をつく。苦さに胸をかきむしりたくなるが、その衝動を飲み込んだ。
「彼らは死ぬのではないのだから」
「……あなたは……ずいぶん変わってしまったのね。昔はもっと……」
「君は私を知っているような口ぶりで話をするのだな」
「忘れてしまった? マイラ・キーナよ」
「記憶にない」
 そう――。それは嘘ではないのだ。最高司祭アレクシスとして、マイラ・キーナという娘は知らない。
「アゼル・キーナという名前にも心当たりがない?」
「神に身を捧げてから会った者なら覚えているが、そうではないようだ。まるで記憶にない」
「なん……ですって……?」
 きっとマイラはこの十八年間、リファー教とは無縁に育ったのだろう。普通なら遠ざけることさえ難しいことだが、一人だけそうできる人間を知っている。
 十八年、捜しても見つからなかった彼女は、こんなに近くにいたのか。
「そういえば、私を仇だと言っていたそうだな。その人物が私に関わって、君たちの言うところの死を迎えたか?」
「よくも……よくもそんなことが言えたわね……! お父さんは、あなたのせいで教会を追われて死んでしまったのに……!」
「それは気の毒だった。祈りでも捧げようか?」
 マイラは怒りに燃える目でアレクシスを睨みつけ、反射的に飛びかかろうとした。だが、戒めの枷は壁に鎖で繋がっていて一歩の距離も詰められない。目の前で暴れるマイラが、ほどなくして力なくうなだれた。
「君も共に祈るといい。枷を外してやろう」
 相変わらずマイラは鋭い目つきでアレクシスを睨んでいる。
 先ほど暴れたせいで、手首と足首には擦過傷ができて血が滲んでいた。これは鈍い痛みを伴うだろうに、それでもアレクシスに一矢報いたいのだろう。
 ならば、そうすればいい。
 彼女の傍に膝を突き、手足を戒める枷を外す。するとマイラはすぐさまアレクシスに飛びかかってきた。
 彼女を受け止めた反動で身体が格子にぶつかり、一帯に響き渡る。
「あなたがいなければ……! あなたが、父さんと関わったりしなければ……!」
 アレクシスの胸ぐらを掴みながら、マイラは泣いていた。
「私には覚えのない話だ」
 嘘を重ねて、彼女を失望させ続けるのだろう。
 これが、聖職者アレクシスとして彼らに出会っていたのなら話は少し違った。だが、あのころのアレクシスは信仰心の薄い、侯爵家の疎まれ者だったのだ。
 彼女に謝罪のひとつもできないことが口惜しい。
「猊下! ご無事ですか!?」
 バタバタと足音が響いてくる。先ほどの音に控えていた神官たちが血相を変えて駆けつけ、そしてそこでまた小さな悲鳴を上げた。
「なっ、なんと無礼な! その女を取り押さえろ!」「猊下をお守りしろ。女を引き剥がせ!」と騒々しいことこの上ない。
「良い。全員下がれ」
「神官長をお呼びします!」
「下がれと言っているのが聞こえないか?」
 神官たちが動揺する気持ちは理解する。彼らが信仰する神の現し身であるアレクシスが、馬乗りになられて胸ぐらまで掴まれていれば教会にとっては大事件だ。だが、アレクシスはとりたてて不敬だとも、事件だとも思っていない。
「神官長も呼ばなくていい。とにかく下がれ。それと、ここへはなにがあっても近づくな」
「ですが猊下。その女は一度ならず二度までも……」
「一度目は貴殿らの失態だ。他者のせいにするな。見苦しい」
 いつまでも食い下がってくる神官らに苛立ちながら、とにかく詰め所まで後退させる。物音がすればすぐにまた飛んできそうだが、物音さえ立てなければ様子を見に来ることはないだろう。
 アレクシスは見に来るなと命じたのだ。その命を破れば厳罰が待っている。ましてや直接下した命令だ。その罰は生半可なものでは済まさない。
 人の気配が遠ざかり、消えたのをたしかめてからマイラに目を向けた。彼女はアレクシスを不思議そうな目で見ている。
「……わたしを拘束しなくていいの?」
「そうする理由がどこにある」
「あなたを殺そうとしているのに……悠長に構えていていいの?」
「ならば首を絞めれば済む話だ。そうしないのは、絞殺の仕方を知らないからか、頭で理解していても人の首を絞めることができない臆病者か……いずれにしても君に人を殺める度胸などないのだろう」
「っ……よくも……!」
 首筋に手が伸びてくる。彼女の手に力が込められるが、とても弱々しい。
 昔から、手の小さな人だった。子どもだったからということもあっただろうが、彼女の手はいつも、アレクシスかアゼルの手を握っていたのだ。殺意に満ちてだれかの首を絞めるためにあるのではない。
「その程度で人は殺せない」
「わっ、わかってるわよ……っ」
「やめておけ」
 手首を掴み、首から彼女の手を引き剥がす。マイラは悔しげに顔を歪めて、すぐにアレクシスの手を振り払った。
「当初の予定通り、刺し殺せばいい」
 懐からナイフを取り出し、彼女の手に持たせた。
「……どうしてこんなものをあなたが……」
「自分の身を守る、最終手段だ」
 アレクシスは、聖職者でありながら武器を常に携えている。普段は小型のナイフや短剣だが、長剣を帯剣することもあった。
 教会は、だれも信用できない。礼拝のときのように隙間を縫って間合いを詰められることもある。
「……あのとき躱したのは、あなたも剣術を学んだから……?」
「公然の秘密だ」
 教会では、アレクシスが剣術をたしなむことは皆が知っていることだが、なにも言わない。言えない空気感もあるだろうが、アレクシスが抜剣しないことも理由だ。それを条件に、神官長から指南を受けたのだ。
 護衛はすべて神官に任せる。護衛がいる間はなにがあっても剣を抜かない。それを破ったときはアレクシスが持っている武器はすべて神官長に押収させる。そう、最初に宣誓した。十年ほど前の話だ。
「君に、私を殺す機会を与えよう」
「……どうしてそんなことを……?」
「私を殺したがる人間など、この国ではもはや珍しくなってしまった。日々に退屈をしているんだ。いい暇つぶしになりそうでちょうどいい」
「わたしの憎しみをあなたの逸楽にしようというの……!?」
「そのとおりだ」
 マイラがあのとき襲撃に失敗をしたのは、彼女が躊躇したからだ。かつての馴染みを殺すことへのためらい。殺人を犯すことへの恐怖。アゼルへの罪悪感など、想像できる感情は無数にある。その躊躇が失敗に繋がったに過ぎない。
 彼女はアレクシスを殺せない。だが、それはアレクシスにも言えることだ。
 これだけの言葉を並べておきながら、実際に彼女の命を奪うようなことはなにひとつ考えていない。
「だったら、望みどおりに殺してあげる――」
 マイラがナイフを握り直す。それとほぼ同時に彼女の腰を引き寄せた。顔を近づけると、マイラが反射的に距離を取ろうとした。
「なっ……、な、なん……っ」
「男の相手は初めてか?」
 わかりやすく動揺した彼女の後頭部を押さえ、唇を重ねる。抵抗を見せる彼女を抱き込み、舌を差し入れた。ねっとりとした口内を舌で弄ると、彼女はアレクシスの肩を懸命に押し返してくる。
 キーナ親子の身に降りかかった顛末は、アレクシスが次期最高司祭の地位を確約されたころに知った。
 もしも、アレクシスが聖職の道へ進まずにアゼルと逃げる道を選んでいたなら、違ういまがあったのだろう。妹のようなマイラに毎日振り回され、戸惑いながらも打ち明けられない慕情を募らせていったはずだ。
 アゼルと共に、太陽のように笑う彼女がいただろう。ずっと愛してくれる人と生きていられたのかもしれない。慣れない暮らしに不自由をしながらも、幸せが続いていたはずだった。
 アレクシスは、そんな未来を想像してこの道へ進んだのだ。だれかを不幸にしたかったわけではない。聖職者になることが、彼らと共にいる安全で、たしかな術だと思っていた。
 それが、大きな過ちだと知りもせずに。
 春の木漏れ日のような日々を思い描いた。彼らと生きていくことは、そんな時間の積み重ねだったはずだ。小さな花を束ねるような、些細だけれど優しく、満たされるような時の連続だったのだろう。
 アゼルがいつも言っていたように、いつかマイラと結婚をする日も訪れたのかもしれない。
 けれど、もう二度とそんな未来はこない。
 マイラはアレクシスを許さないだろうし、最高司祭を襲撃した彼女を、統治者としてアレクシスは許すわけにはいかないのだ。
 唇が離れると、マイラは戸惑ったようにアレクシスを見上げてきた。
「あ、あなた……、聖職者でしょう……!?」
「それがどうかしたか?」
「聖職者がこんなことをしていいの? 禁止されているって……」
「他言しなければ、どんな行為も存在しないことになる。それとも、最高司祭に犯されたと吹聴して回るか?」
「っ……、そんなこと……」
「言えるはずがないか。皆がどちらを信じるかなど、考えるまでもない」
 最高司祭に刃を向けた女と、冷徹ではあるが絶対と信じて疑わない最高司祭ならば、答えは明白だ。
「どうして……」
「こういった行為はどうしても無防備になる。心臓を突くなり、後ろから刺すなり、首を絞めるのも君の思いのままだ」
「まっ……、待って。あなた、本気でわたしを抱くつもり……?」
「笑えもしない冗談は嫌いだ」
 彼女からナイフを奪い取り、アレクシスはマイラの服を引き裂いた。
「アレク……、どうして……」
 泣き出しそうな顔をするマイラを見つめ、懐かしい記憶が蘇る。
 ずっと好きだった。可愛いと言い続けていたかった。喜ぶ彼女を見ると愛おしくてたまらなかったのだ。
 大切に、大切に愛してあげたかった。
「私に身体を晒せ」
 この世で一番大切な人を、もっとも粗末に抱く瞬間が訪れる。

 引き裂いた衣服を乱暴にマイラの身体から引き剥がす。肌が露わになると、マイラはとっさに身体を隠した。
「アレク……、見ないで……」
「こうなる覚悟は持たなかったのか?」
 アレクシスの殺害を企てるのは自由だ。だが、なぜそれが完遂できると思うのか。神官の数は教会の中でもっとも多い。それらが警備に当たる巡礼の最中を狙ったのだ。失敗することも考慮しておくべきこと。だが、マイラには失敗したときの算段がなかったように思う。
「あなたは、こんなことしないって思ってたから……」
「手をどけろ」
 手首を掴んで隠そうとする身体から引き剥がす。その手を後ろ手にして、取り払った彼女の衣服で縛った。
「お願い……やめて……」
 睫毛を震わせて、彼女が懇願する。だが、アレクシスにその願いを聞き入れることはできない。
「君は私の命を狙った。その罪の重さをわかっていないはずはないと思ったが」
 これは懲罰なのだ。彼女には、アレクシスの命を狙った罪を償わせなければならない。普通なら神官らに任せる処分だが、彼女だけは自らの手で処したかった。その手段が、いかに聖職の道から外れ、私欲にまみれていると言われても。
「だったら鞭打ちの刑でも、死刑にでもすればいいじゃない。こんなこと……」
「こんなことだから、懲罰になる」
 スカートをたくし上げ、内腿に手を滑らせた。

(――つづきは本編で!)

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