「僕はもっと見たい……白くて、とても甘そうだ」
あらすじ
「僕はもっと見たい……白くて、とても甘そうだ」
憧れのパティスリー『パティスリー・オーギュスト』に就職した柚月は、年上のオーナーショコラティエ、リアムの元で忙しく働く毎日。
だがある日恋人から「仕事を辞めて家庭に入ってほしい」と告げられ、夢を諦められず破局してしまう。
傷心の柚月を見かねたリアムは彼女を食事に誘い話を聞いてくれるのだが、翌朝柚月が目覚めたのはリアムの自宅のマンションで……
作品情報
作:沙布らぶ
絵:しおみ凛
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第一章 別れとほろ苦テリーヌ
「松風さん、レジ締め終わった?」
「は、はい! 今――売り上げ、こっちに移動させておきますね」
営業終了を迎えた二十一時、松風柚月は先輩の声にぱっと顔を上げた。
専門学校を出て、夢だったパティスリー・オーギュストに採用されてから二か月――新人である柚月の担当は、もっぱら接客とレジ打ちだ。
経験を積めばキッチンのメンバーとして菓子作りを行うことができるが、新人はまず取り扱っている商品の種類や店の雰囲気に慣れなければならない。
「お疲れ様、試作品のテリーヌ持って帰っていいってさ。リアムさんが作ったんだって」
「えっ、本当ですか? リアムさんのテリーヌ……」
暗い店内でレジの清算をしていた柚月は、先輩からの言葉にごくりと喉を鳴らした。
この店のオーナーショコラティエであるリアム・オーギュストは、若くして数多のコンクールで賞を取っている才人だ。
日仏ハーフの彼は、母方の実家がある日本で店をはじめ、作り上げるスイーツも和のテイストを取り入れたものが多い。
「お疲れ様です。帰りにテリーヌ、持って帰ってね。それと、明日は僕ちょっといないから、飯館《いいだて》さんにキッチンお任せするので――」
柔らかな金髪を深緑色のリボンで束ねていたリアムは、そのリボンを解いてにこにこと笑いながら明日の予定について指示を出し始めた。
明日は雑誌の取材で半日店を開けるというリアムは、キッチン部門のチーフリーダーである屈強な男性パティシエに現場を一任することに決めたらしい。
「一応夕方には帰ってくるので、なにかあったらその時に報告をお願いしようかな。緊急の連絡は飯館さんの方からお願いします」
「了解です。多分大丈夫だと思うんですけど、キッチンもホールも気を引き締めていきましょう」
飯館の言葉に頷いて、柚月は帰り支度を進めていく。もちろん、リアムの試作品だというテリーヌも頂いて帰ることにした。
(まさかリアムさんの作ったスイーツを、ただで食べられる日が来るなんて……!)
頬がにやけそうになるのを必死でこらえながら、柚月は荷物が入ったリュックを背負った。大人気ショコラティエであるリアムが作った試作品を食べられるのも、この店のスタッフになってよかったと思う理由の一つだ。
「お疲れ様です。お先に失礼します!」
「はぁい、お疲れ様――あっ、松風さん。ちょっと待って」
先輩たちに頭を下げて退勤しようとすると、それまで飯館と話していたリアムがちらりとこちらを向いた。
そして、彼は軽く手を振って柚月のことを引き留める。
「お仕事、慣れてきたかな? 最近ちょっとお客さんも増えてきたから――大変じゃない?」
新人でもベテランでも関係なしに、リアムはスタッフに対して丁寧に接してくれる。
以前アルバイトをしていたケーキ屋ではパティシエたちがホールスタッフを怒鳴るという光景もよく見ていただけに、彼がどれだけ店の雰囲気づくりに尽力しているのかがわかる。
「い、いえ……大丈夫です。お客様もいい方ばかりですし――それに、わたしも早く慣れて、キッチンでおいしいショコラを作れるようになりたいんです」
「そっか。じゃあ、もっと頑張らないと――松風さんがどんなショコラを作るのか、僕も今から楽しみにしてるよ」
柚月がこれからの夢を語っても、リアムがそれを笑うことはなかった。
「ごめんね、時間を取らせてしまって……じゃあ、明日もよろしく」
「はいっ……! あ、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる柚月に、リアムはまたひらひらと手を振ってくれた。それだけで、明日も頑張ろうという気力がわいてくる。
柚月にとってリアムは、専門学校に通っている時からの憧れだった。
中学生の頃に両親を亡くし祖父母に育てられた柚月は、高校卒業後にショコラティエールを目指して単身上京した。アルバイトをしながら製菓の専門学校に通っているとき、雑誌で特集を組まれていたリアムのことを知ったのだ。
製菓界の革命児、和と洋を融合させたショコラの魔術師――そんな仰々しい文句が躍る雑誌の中で、彼が作ったショコラはどれも美しいものばかりだった。
(いつか、リアムさんが作るような……綺麗で、美味しいショコラを作れたらなぁ)
もちろん、パティスリー・オーギュストには足?く通って彼が作る作品を片っ端から食べていった。
新商品は必ず購入して食べてみたし、その味の感想や作り方も自分なりにまとめてみたりもした。
絶対にこの店で働きたい――そう思って研鑽を重ねてきた柚月は、そうしてようやくパティスリー・オーギュストの仲間入りを果たすことができたのだ。
「もし自分のメニューが採用されたら……おばあちゃんも喜んでくれるだろうなぁ」
夜道を歩きながら、柚月はぽつりとそう呟いた。
祖父は五年前に他界し、柚月の身内は祖母一人になってしまった。孫の夢を応援してくれた祖母に恩返しをするためにも、いつかは自分が作ったメニューで店頭を彩りたい。
胸を躍らせながら自宅のアパートに帰ってきた柚月は、上着をハンガーラックにかけると、リアム特製のテリーヌをテーブルの上に置いた。
「……圭司の分、取っておこうかなぁ。でもきっと、早めに食べたほうがおいしいよね」
1LDKの部屋の中には、二人掛けのソファがどんと鎮座している。
二年前から付き合っている恋人の近田圭司が、週末になるとよく柚月の家に遊びに来るのだ。それほど広くはないリビングのかなりの範囲を占拠しているそれに腰かけて、柚月はしばらく考え込んだ。
恋人においしいテリーヌを取っておくべきか――そうも考えたが、やはり出来立ては早めに食べたほうがおいしい。そう結論付けて、そっと包装を紐解いていく。
「抹茶のテリーヌ、かな……? 下は餡子? それとも……チョコレートかなぁ」
包み紙の中から現れたテリーヌは、綺麗な二層構造になっていた。
抹茶パウダーとナッツが振りかけられた上段部分は、艶やかな緑色に輝いている。対して下段部分は濃厚なチョコレート色――香りを確かめると、やはり餡子ではなくチョコレートが土台になっている。
「これ、どうやって作るんだろう。テリーヌ二種類作って重ねたのかな……」
数切れにカットされたテリーヌは、苦みと濃厚な甘さのバランスが絶妙だった。
舌先で感じるなめらかさと繊細な風味に、思わず柚月は表情を綻ばせた。抹茶の苦みが強い部分をチョコレートの甘さで補っているから、苦みに弱い人でも美味しく食べられるかもしれない。
「すごい……抹茶テリーヌは見たことあるけど、二段重ねはあんまりないかも……」
普段パティスリー・オーギュストで出しているテリーヌは、チョコレートとカスタードクリームの二種類だ。きっとこの抹茶チョコレートのテリーヌも、お客さんに人気を博するだろう。
「コーヒーに合わせてもいいけど……逆にほうじ茶とかでも合うかなぁ」
ぶつぶつと呟きながら、柚月は手元に引き寄せたノートにガリガリとペンを走らせた。
思いついたレシピやアイディアは、こと細かくメモを取るようにしている。似たようなことを書いてしまうこともあるが、後々自分でお菓子を作るときに、思考の整理がしやすいのだ。
「んー、同じようには作れないとしても……チョコレートと抹茶それぞれは作れるし――試しに作ってみて、圭司に試食してもらおうっと」
ノートの中にレシピと味の感想を走り書きした柚月は、恋人が自分の作ったスイーツを頬張っている様を思い浮かべて顔をほころばせた。
会社員で土日が休日の恋人とはあまり休みが合わないのだが、今週末は偶然休みが重なっている。
テリーヌならば事前に仕込みをしておく必要があるため、明日の仕事終わりに材料を買いに行こう――そんな予定を組み立てながら、もう一口頬張ったテリーヌのおいしさにまた微笑みを浮かべる。
(本当に、パティスリー・オーギュストで働くことができてよかった)
まだまだ駆け出しで、キッチンにも立てていない柚月だったが、それでも夢の舞台で仕事をしているという充実感は日々に彩りを与えてくれた。
リアムの方針もあって、店のパティシエやショコラティエたちは積極的にコンクールにも出品している。結果を出せば新人の柚月だってメニューを任されるかもしれない――そんな期待に胸を膨らませて、柚月は週末までの数日間を過ごしたのだった。
そして、土曜日――休日に柚月の家を訪れた恋人は、彼女が冷蔵庫の中から取り出したテリーヌを見て目を丸くした。
「え、テリーヌ? 柚月が作ったの?」
「うん。お店のオーナーが試作品を食べさせてくれたんだけど、わたしも作れないかと思って。見よう見まねだけど、味は保証するよ」
「こういうのって作れるんだな……」
「うん。簡単に作る方法もあるし、レシピもネットで探せば出てくるかな。豆腐とかを使うやり方もあるみたい」
恋人の圭司は、お菓子作りについてはあまり詳しくはない。
高校を卒業し、専門学校時代に友達の紹介で付き合い始めた。付き合って数年になるが、大手の繊維メーカーに勤めている圭司との仲は良好そのものだった。
「へぇ、すごいもんだなぁ――うん、うまいよ。あんまり甘くないから食べやすい」
「そう? もうちょっと濃厚にするのもアリかなって思ったんだけど――圭司がそう言ってくれて嬉しい」
恋人同士の、静かな休日だ。
二人でスイーツに舌鼓を打ち、テレビを見て穏やかな時間を過ごす――多忙な柚月と圭司は、その時間を大事にしていた。
「……あの、さ。柚月――ちょっと、相談したいことっていうか、言いたいことがあって」
「んー? どうしたの?」
圭司がそう切り出したのは突然だった。テレビ番組がコマーシャルに切り替わったころ、彼は真剣な面持ちで柚月の顔を見つめてくる。
「相談したいことって……仕事のこと?」
「そう、だな。実はさ、親父がやってる会社を、そろそろ継がないかっていう話が出てて……今の会社を辞めて、九州の実家に帰ろうと思うんだ」
話を切り出した圭司に、柚月は目を丸くした。
彼の実家は代々繊維工業系の会社を営んでいるらしい。今の会社に新卒で入社したのも、いずれ実家を継ぐために必要な知識を学ぶためだったのだという。
「そう、なんだ……九州に……」
「あぁ。姉貴はもう嫁いでるし、俺も最初から家を継ぐつもりでいたからさ。上司にもそのことは相談してて、退職の日とかも大体決まってるんだけど」
彼の実家の話を、柚月はほとんど聞いたことがなかった。父親が会社を経営しているという話は知っていたが、こんなにも早くその話が出てくるとは考えてもいなかったのだ。
「それでさ……俺は、柚月と一緒に実家に帰りたいと思ってるんだけど」
「わたしも、圭司と一緒に九州に……?」
「あぁ。柚月が今の仕事、本当に楽しんでるっていうのはわかる。有名なパティスリーに就職して、これからだっていうのも――でも、お前には俺の側にいてほしいっていうか……俺のことを側で支えてもらいたいって、思ってるんだ」
圭司の言葉に、柚月はすぐ頷くことができなかった。
彼のことは好きだ。けれど、彼が会社を継ぐということは、柚月だってその側で仕事をしなければいけなくなる。
大切な恋人と、子どもの頃から抱いていた夢――頭の中でそれを天秤にかけてしまうと、なにも言葉が出てこなくなってしまう。
「でも、菓子作りなんて家でも、いつだってできるだろ? それこそ、子どもができたらたくさん作ってやればいいし……趣味でだっていくらでもできるんだから」
「それは……圭司にとっては、そうかもしれないけど」
圭司は、今まで一度も柚月が働いている店に来てくれたことはなかった。
彼のために家でスイーツを作ることが多かったから、趣味でもいいと思っているのかもしれない。
(でも、わたしの夢は――たくさんの人に、わたしが作ったスイーツを食べてもらうことなのに……)
黙り込んだ柚月は、しばらく考え込んでいた。
圭司も無理に柚月を急かすようなことはせず、二人の間には奇妙な沈黙が流れる。
「……圭司」
つけてあるテレビから聞こえてくる笑い声が煩わしくなって、柚月はその電源を落とした。それから圭司に向き直り、ゆっくりと首を横に振る。
「ごめん。……やっぱり、ショコラティエールになるっていうのはわたしの――子どもの頃からの、夢だから。今それを諦めることはどうしてもできない」
子どもの頃、両親がいない寂しさを紛らわせてくれたのは、甘いケーキと香ばしいクッキーだった。無心でお菓子を作っていると悲しいことを考えなくても済むし、作ると祖父母が喜んでくれる。
自分が作ったもので誰かを笑顔にしたい――その夢まであと一歩のところにきて、諦めることはどうしてもできなかった。
「そ、っか。ごめんな、急にこんな話して……」
「ううん。わたしも……ごめんね。ちゃんとあなたについていくことができなくて」
三か月後には、彼は会社を辞めて九州の実家に帰るのだという。
仕事の引継ぎや引っ越しの準備で忙しいから家に帰るという彼を見送って、柚月は深いため息をついた。
(多分、もう圭司とは会えないんだろうな)
圭司に必要なのは柚月ではなくて、側で彼のことを支えてあげられる人だ。だからきっと、ここから先も彼に会うことはもうないのだろう。
そう思うと悲しかったが、不思議と涙は一滴も出てこなかった。
数年間付き合っていたのに涙も出ないなんて、自分は冷たい人間なんだろうか――ぼんやりとそう思ったものの、泣けないものは泣けないのだから仕方がない。
「……テリーヌ、余っちゃったなぁ」
テーブルの上に残ったほろ苦いそれを食べながら、柚月はぼんやりとそう呟いた。
悲しいといっても、柚月にとっては圭司が初めての恋人だった。自分から別れを切り出すような形になってしまい、どれだけ悲しんだらいいのかもよくわからない。
なんとも言えない心地のまま、柚月は一人ぼっちになった家の中でずっと膝を抱えていた。
だが、失恋の悲しみは時間が経ってから徐々に大きくなってくる。
翌日店に出勤した柚月は、その日普段なら絶対にやらないようなミスを連発してしまった。
「松風さん、それ包装のリボン違うよ! 贈答品用は赤いリボン――そっちはご自宅用だから!」
「えっ……あ、す、すみません! すぐに直します!」
「焦らないで、すぐに直せばいいから――あと、それが終わったらイートインのお客様にケーキをお出しして」
すぐにホールスタッフをまとめている先輩が指摘してくれたが、柚月のミスはそれだけにとどまらなかった。
客にお釣りを渡し間違えたり、注文を聞き違えてまったく違うケーキをオーダーしてしまったり――ミスについては大部分を先輩スタッフがカバーしてくれたが、普段真面目に仕事をしている柚月の様子がおかしいというのは、すぐにリアムまで伝わってしまった。
「松風さん……大丈夫? ホールの黒田さんから、なんか調子が悪いって聞いたけど」
「リ、リアムさん……はい、本当に申し訳ありません……お客様にもご迷惑をおかけしてしまって……」
昼休み、わざわざキッチンからバックヤードに様子を見に来てくれたリアムは、心配そうな表情を浮かべて首を傾げた
忙しい彼に手間をかけさせてしまった――そんな申し訳なさを感じながら、柚月はがっくりと肩を落とす。
「体調が悪いのかな? それだったら、無理せずに早退しても大丈夫だよ」
「いえ、体調は大丈夫です……ちょっと、プライベートで色々あって」
そう言って柚月が俯くと、二人の間に妙な静寂が流れた。
失恋が原因で仕事を失敗するなんて、社会人としては未熟もいいところだ。
ただでさえ新人で仕事に慣れていないのに、今日は先輩たちの足を引っ張るばかりか、客にも迷惑をかけ続けている――曇り切った表情で俯く柚月に、リアムは何度か目を瞬かせた。
「そうか……でも、君が暗い表情をしていると、お客様にもそれが伝わってしまうね。切り替えることが難しい問題なら、少し時間を置くか――なにか気分転換が必要だ」
流暢な日本語を話すリアムは、きょろきょろと周囲を見回してから自分の荷物が入っているロッカーを開けた。
「僕が作るスイーツで、君を笑顔にしてあげられればいいんだけど」
「あ、あの……リアムさんのお菓子は、いつもとてもおいしいので……」
「うん、ありがとう。でも――今の君は、スイーツだけで笑顔にするのはちょっと難しいかな。これは僕の勘なんだけど」
そう言うと、リアムはスマートフォンを操作し始めた。
頭に疑問符を浮かべるばかりの柚月は、ただ彼の行動を見ていることしかできない。
「松風さん、今日の終業後ってなにか予定ある?」
「予定ですか? いえ……特には、なにも」
「そっか。じゃあ、ちょっと僕とご飯を食べに行かない? 軽い面談みたいなのをしようと思ったけど、店じゃどうも堅苦しいし、時間的にお腹も減る頃だしね」
「え、えぇっ……?」
突然食事に誘われて、柚月は思わず目を丸くした。
憧れのショコラティエであるリアムと食事――願ってもいないようなことだが、彼が普段多忙を極めているのは新入りの柚月でもわかっている。
「でも、お忙しいんじゃ……」
「スタッフのメンタルケアも仕事の一つさ。飯館さんとかとも時々食事に行くし、よかったらぜひ。親戚が経営してる和食のお店があるんだけどね、そこの天ぷら御膳がおいしいんだ」
ね? と柔らかい笑顔を見せるリアムに、柚月はこくんと頷いた。
彼のように才能があって、周りによく気配りができる人間になりたい――その天才的な技量だけではなく、人柄までもが柚月にとっては憧憬の対象だ。
「じゃあ、最後まで頑張れる? ミスについてはみんなでカバーするから、あんまりくよくよしなくていいよ。ここからミスをなくせばいいんだから」
「は、はい。ありがとうございます……」
ぺこりと頭を下げると、リアムは片手を上げてキッチンに戻っていった。
まさか彼と食事ができるとは思っていなかったが、誰であっても相談に乗ってもらえるのはありがたい。専門学校時代の友達は皆就職して忙しい時期だし、祖母に電話して心配をかけたくはなかった。
(リアムさん、かっこいいなぁ……)
一流のショコラティエは、その腕前だけじゃなくて性格までも完成しているのかもしれない。
そう感嘆した柚月は、ちらりと時計を見てからぐっと拳を握った。
もうすぐ休憩時間が終わる。せっかくリアムがあれこれと気を遣ってくれたのだから、ここから先は終業までぼんやりとするわけにはいかない。
(大丈夫――ここからミスがないようにすればいいんだから)
リアムに言われたことを頭の中で反復して、柚月はホールでの接客を再開した。
彼に言われた言葉のおかげで、午後は店が閉まるまで大きな失敗をすることもなく過ごすことができた。
「松風さん、調子戻った?」
「黒田さん……すみません。今日はご迷惑をおかけしました」
ホールスタッフのリーダーである、若い女性――黒田は、閉店後ぺこぺこと頭を下げる柚月に向かって笑顔で首を振った。
「いいのいいの。誰だって調子が出ないときはあるんだし……ほら、ここって結構ハードでしょ? 辛くなって辞めちゃう子とかもいるから、なにかあったらすぐに相談してね」
「ハード……?」
黒田の言葉に、柚月は目を丸くした。
確かに客は多く、品数が豊富で覚えるまでは大変かもしれない。けれど、ずっとこの店に通い続けてきた柚月は商品名もほとんど覚えていたし、接客も慣れていたのでそれほど気にはしていなかった。
むしろキッチンのスタッフから怒鳴られたり、人間関係の風通しが悪かったりすることがない分働きやすい。
「あれ、そうでもないかな?」
「はい――あの、ずっとこのお店に通っていたので。商品がどこにあるかとか、どんなものを売っているのかとかは、ほとんど把握してます。今日のことについては、ちょっと色々なことがあって」
「そっかぁ。それじゃ、いい感じに気分転換しないとね」
そう微笑んでくれる黒田に頭を下げて、柚月は帰り支度を始めた。
普段は遅くまでキッチンに残っているリアムも、すでに黒いウィンドブレーカーを着て準備を終えていた。
「あれ、リアムさん今日早いっすね」
「用があるんだ。施錠だけお願いできるかな?」
「わかりました。キッチンちょっと借りていってもいいですか?」
「もちろん。ただ、冷蔵庫で固めてるゼリーはそのままにしておいて」
飯館とそんな会話を交わすリアムを横目に、まずは柚月が店の外に出た。
「お、お疲れ様です……!」
先輩たちの間を縫って店を出てから、従業員入口の近くでリアムを待つ。
「あ、松風さん発見。よかった、調子よさそうだね」
ややあって、リアムも外に出てきてくれた。上着のポケットの中からスマートフォンを取り出した彼は、柚月に向かってその画面を見せてくれる。
「ここから少し歩くんだけど、大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です」
少し先を歩くリアムについて夜道を歩いていくと、彼はふっと柚月の方を振り向いてきた。
「お仕事、大変かな?」
「慣れない部分はまだありますけど、楽しいです。ずっとこの店で働きたいって思って努力してきたので――あっ、この前のテリーヌ、すごくおいしかったです! あの後自分で作ってみたんですけど……」
そういえば、以前もらった試作品の感想を言っていなかった――そう思って声を張り上げてみたものの、それと一緒に圭司と別れたことを思い出してしまう。
「……ん? 作るの、失敗しちゃった?」
「いえ――少し甘さ控えめに作ってみたんですけど、リアムさんみたいに濃厚なのは作れなかったなぁ、って」
とっさに思い浮かんだ言葉で、なんとかお茶を濁す。
けれど、リアムは柚月が苦し紛れについた嘘をさらに追及してきた。
「それって、何が原因だったのかわかる? パウダーが少なかったとか、混ぜが足りなかったとか……」
「えっ? あの……すみません。あんまりよく考えてませんでした……」
やってしまった――菓子作りのことで、リアムに嘘など通用するわけがない。
彼ほど己の仕事にストイックに取り組んでいる職人にこんな返事をするなんて、侮辱と取られてもおかしくはない。
素直に頭を下げて謝罪する柚月だったが、一方でリアムは怒っているわけでも、呆れている様子でもなかった。
「じゃあ、今度はなにがダメだったのかを考えてみようか。甘さ控えめテリーヌっていうのもいいと思うけどね。材料の配合とかメモ取ってるだろうし、少しずつ変えていこう」
「……は、えっ?」
うんうん、と首を上下させながらリアムは暗がりの中の街灯に鮮やかな金髪を揺らす。
「あっ、答えは教えてあげないよ? それだと松風さんのレシピじゃなくて、僕のレシピになってしまうから。それに、君がなにを正解としているのかは僕にもわからないからね」
きょとんとした表情を浮かべる柚月に、リアムはやや幼い笑顔を向けてきた。
この様子を見るに、柚月が嘘をついたことには気付いていないらしい。
「お、怒らないんですか?」
「なんで怒るの? そりゃあ、一回作ったくらいじゃ細かい改善点なんて見えてこないじゃない。練習するたびに怒られてたら、スイーツ作り嫌いになっちゃうだろう?」
リアムの言葉に、柚月は自分がとても恥ずかしいことをしたような気持ちになった。
彼は真摯に、パティシエとして努力しようとしている自分を応援してくれる。それなのに、どうしようもない嘘を彼についてしまったのが情けない。
「あ、ここ。ここがね、母方の叔母がやってる店なんだ」
後でもう一度、しっかりと謝ろう――そう考えながらもうしばらく道を進むと、リアムがある店の前で足を止めた。
木製の『みつ木』という看板と、紺色の暖簾が入口を彩っているその店は、静かな佇まいの小料理屋にも見えた。
「あらリーくん。いらっしゃい……そちら、彼女さん?」
「いや、店の新人さん。ちょっと面談がてらね……予約通り、奥の個室使わせてもらってもいい?」
扉を開けて中に入ると、明るい表情の女将さんが対応してくれる。ちらりと柚月の方を見た彼女は、にっこりと笑うと二人を店の奥に通してくれた。
(なんていうか……笑ったところ、リアムさんそっくりだった……)
母方の叔母と言っていたから、もしかすると彼は母親似なのかもしれない。
店内はゆったりとした空気が流れており、そこで料理を楽しんでいるお客さんもなんだか落ち着いている様子だ。
普段はにぎやかなパティスリーで働いているので、こういう雰囲気は新鮮だった。
「はい、じゃあこちらにどうぞ……上着は中にハンガーがあるから、そこにかけて。ご注文決まったら呼んでくださいね」
「ありがとうございます……」
女将さんに頭を下げた柚月は、言われた通り上着をハンガーにかけてから席に着いた。掘りごたつのようになっているので、一日中立ちっぱなしだった足も楽にすることができる。
「……女将さん、リアムさん似てますね」
「うん、よく言われる。多分顔のパーツが母親似なんだろうね。髪の色とか性格とかは父親に似てるんだけど」
メニューをぱらぱらとめくりながら、リアムが軽く自分の髪の毛を摘まんでみせる。
日仏ハーフだというリアムは、日本語も堪能で文化への造詣も深いが、家族の話を聞いたのは初めてだった。
「リアムさんのご両親って、なにをされてる方なんですか?」
「父親は建築家で、母親は専業主婦だよ。父がすごい親日家でね、今でも日本に住んで仕事をしてるんだ」
建築業界には疎いため、リアムの父親のことはよく知らなかった。だが、彼のクリエイティブな才能はもしかしたら建築家の父から受け継がれたものなのかもしれない。
「僕も学生時代は留学とかしてたけど、結局日本の方が落ち着いて生活できるなぁって思ったんだ。祖父母はフランスにいるから、たまに顔を出したりするんだけどね」
「そう、なんですか……あの、リアムさんが選ぶモチーフが――いつも、和風のものが多いなぁって思っていたので」
華美さが求められがちな製菓業界で、和風モチーフが多いリアムのスイーツは世代を問わずに愛されている。
作り手が金髪の美青年というのも話題になって、テレビや雑誌ではリアム個人の特集が組まれるほどだ。
「うん。多分父の影響かな……和菓子職人も目指したかったんだけど、そうなると完全に見た目で判断されそうだったから、パティシエ――ショコラティエを目指したんだ」
今まで、柚月はリアムが特集された雑誌を何冊も読んできた。
憧れのショコラティエがなにを考えて素晴らしい作品を生み出しているのかを知りたくて、その手の雑誌はしっかりと切り抜きまで保存してある。
けれど、彼のそうしたバックボーンは普段巧妙に隠されていた。
「……わたしから聞いておいてなんですけど……これ、聞いてもいいお話だったんですか?」
「プライベートのことだから、雑誌とかでは言わないようにしてるだけで、直接聞かれたら答えるよ。……さて、僕のことは話したから、次は松風さんのことを話してもらおうかな。でも、その前にまずは注文だ」
人のいい笑顔を浮かべたリアムは、メニューの中からビールと天ぷら御膳を注文した。
柚月はなにを頼もうか考えあぐねて、天ぷらそばと日本酒を注文する。お酒は好きなのだが、ビールだけはあまり得意ではなかった。
「プライベートのことで悩んでるって言ってたけど、ご家族のことかな?」
「いえ……本当にしょうもないことなんですけど。先日、付き合っていた恋人と別れてしまって――」
そこから柚月は、これまでにあったことをぽつぽつと話し始めた。
自分の生い立ちや夢、恋人から結婚を切り出されたことと、夢をあきらめきれなかったこと――途中で料理が運ばれてきたが、それにも手を付けずに話し続ける柚月の話を、リアムは丁寧に聞いてくれた。
「なるほど……店を辞めて彼氏さんと九州に行くか、彼と別れるのか――それで結局、こっちに残ってくれたんだ」
「はい。……彼には本当に悪いことをしたと思ってるんですけど、どうしても夢を諦めることができなくて」
一通り話を聞いてくれたリアムは、顎に手を当てて何かを考えるような仕草を見せた。
「うーん……まずはご飯食べようか。冷めてしまっても困るし」
「は、はい」
そうして、しばらくの間二人はなにも喋らずに目の前の食事を食べ進めた。注文した天ぷらそばは、たっぷりと汁を吸った衣が柔らかく、そばの香りもしっかりと鼻腔をくすぐってくる。
(おいしい――けど、気まずいなぁ……)
リアムは天ぷら御膳を黙々と食べ進めており、次になんと話しかけていいのかもわからない。
その緊張感と気まずさを紛らわせるために、柚月は注文した日本酒の盃をどんどんと傾けていった。
「……率直に言うよ。僕は松風さんが店に残るっていう選択肢をしてくれて、とてもうれしい」
「えっ……?」
すると、唐突にリアムがそんなことを言いだした。
一度グラスに口をつけて喉を潤してから、彼はまっすぐに柚月のことを見つめてくる。
「僕は仕事柄、たくさんのスタッフの話を聞いたり、他のパティシエから相談を受けることも多い。体のこととか、心のこと……もちろんそれ以外の原因で、せっかくの夢を諦めてしまう人がどうしても多くてね」
記憶を手繰り寄せるように視線を伏せたリアムの髪が、ほの明るいライトに照らされてゆらゆらと揺れる。愁いを帯びた表情を見るに、きっとそういう相談をされたのは一度や二度ではないのだろう。
「もちろん、やむにやまれぬ事情があるんだっていうのはわかるけど――僕はね、やっぱり頑張っている人は報われてほしいと思うし、できるだけ夢を追いかけてほしいと思ってる。もちろん、これは僕が恵まれた立場にいるから言えることなんだろうけど」
そこまで話してから、リアムは再びグラスに口をつける。
美しい翠瞳が、今度はじっと柚月のことを見つめていた。
「だから、松風さんが夢を追い続けたいって言ってくれたのはすごくうれしいんだ。……君からすれば失礼な話かもしれないけど、松風さんが頑張ってるのは知ってるからね」
「わ、わたしなんて、まだまだです。もっと――リアムさんみたいにたくさん知識をつけて、美味しいスイーツを……誰かを幸せにできるものを、作り上げないと」
自分はまだ、頑張るという領域にすら到達していない。その為に、夢を諦められなかったのだ。そのために圭司と別れたのだから、もっと努力を続けるべきだ。
「努力は、誰かと比較するものじゃないよ。同じように、夢の行く末だって誰かが決めていいものじゃない」
けれど、リアムはゆっくりと首を横に振った。
真摯な視線が、まっすぐに柚月のことを射抜く――呼吸を忘れてしまいそうなほどに力強い視線に、一瞬眩暈を覚えた。
「それで、結局のところ……恋人と別れたのが悲しかったの? それとも、彼について行かなかったことを後悔してる?」
言葉は優しかったけれど、その視線から逃げることはできなかった。ずっと憧れていた天才ショコラティエの言葉に、柚月はふるふると首を振る。
「最初は、悲しくなかったんです。それで、わたしって冷たい人間なのかなって思って……でも、時間が経つと……」
「ゆっくりと、悲しくなっていったんだね?」
そっと頷く。けれど、一つだけ不思議なことがあった。
「ただ――こうやってリアムさんに話してみたら、ちょっと変っていうか……そんなに悩むことだっけ、って思えてきて……」
圭司と別れて、悲しいことは悲しい。けれど、今日一日胸の奥に巣食っていた、体の内側を抑えつけるような悲嘆はもう感じなかった。
「なにが辛いのかを言葉に出してみると、頭が整理されるらしいよ。僕もそういうこと、よくあるなぁ」
「そう、なんですか」
「うん。生地の配合どうしようかなって思った時に、飯館さんとかに相談してみたら自分であっさり解決できたりね」
先ほどとは打って変わって明るい笑顔を見せるリアムに、思わず柚月の表情もほころんでいく。ようやくちゃんと食欲も戻ってきて、少し冷めてしまった食事もすべて平らげることができた。
「あの、リアムさん――他にも聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「僕に答えられることだったらなんでも聞いて。今日はそのためにここに来たんだから」
朗らかに笑うリアムに、柚月はそれまで彼に聞いてみたかったことをどんどん質問した。
普段ならば自分はキッチンに入れないし、彼自身も多忙で店にいないことも多い。菓子作りについても、コンクールに臨む心持ちについても、彼に聞きたいことはたくさんあった。
「フォンダンショコラの中に、フルーツソースをなにか入れたいんですけど――お店のものにはフランボワーズソースが入っているじゃないですか。それとは違うものをと思って、ブルーベリーとかも試してるんですが……なかなか思い通りの味にならなくて」
「無理してベリー系にこだわらなくてもいいんじゃないかな? 僕が知ってる店のフォンダンショコラには、ピスタチオのソースが入ってるけど――」
そんな会話をしているうちについ二人ともお酒が進んでしまう。
途中からはリアムも柚月と同じように日本酒を注文して、おつまみをつつきながら仕事の話に花を咲かせた。
「今度メニューのコンペをやるから、もしよかったらメニューを提出してみるといいよ。僕だけじゃなくて、飯館さんや他のスタッフも審査に当たるし――それが採用されるのが、キッチンメンバーに入るのに一番早いと思うよ」
酒が入ったことで、リアムの白い肌もほんのりと赤く染まっている。口調も軽やかで、働いている店のオーナーというよりは旧知の友人のような気安さで相談に乗ってくれた。
「わたし、リアムさんみたいに味覚が鋭くないので……こんなショコラを作りたい! って思っても、なーんかうまくいかないんですよねぇ」
すでに日本酒を数杯空けている柚月は、若干語尾の呂律が回らなくなりながらも、ずっとリアムに質問と相談を繰り返していた。
「それはね、多分経験だから……焦らなくても大丈夫。松風さんだったらきっと――きっと、自分が思い描くようなショコラを作ることができるよ」
とろんと目元を蕩けさせたリアムがそう微笑むと、胸がトクンと高鳴る気がする。
普段の仕事ではそんなことを思ったこともないのに、ほんのりと赤みがさした目元がどことなく艶やかで、つい視線を奪われてしまった。
(やばい――わたし、相当酔ってるかも……)
よく見れば目の前に置いてあるグラスも輪郭がぶれている。
明日も仕事だし、そろそろ家に帰らないと――そうは思うものの、憧れのショコラティエと一対一で話をする機会はそうそうあるものではない。
この機会を逃したら、次はいつこうやって話せるかわからないのだ。キッチンスタッフならまだしも、ホールスタッフの自分が彼と直接話せるのは、始業前のミーティングと終業後のちょっとした時間だけ。
(もうちょっと、だけなら……お酒を飲んでる間は、リアムさんと話せる……)
ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、柚月は彼の言葉を聞き漏らすまいと決意して酒杯を煽った。
「ッん……ぁ……」
「松風さん? おーい……飲ませすぎちゃったかな」
そして、それから一時間も経たずに柚月は潰れてしまった。
ぐったりと突っ伏した柚月は、ふわふわとした気持ちでテーブルに頬を押し当てていた。火照った肌が、こうしていると冷たくて気持ちいい。
「叔母さん、お水ちょうだい――少し飲ませすぎたみたいだ」
「あらあら……リーくんお酒強いんだから、女の子に無茶させちゃだめよ」
女将さんの声が聞こえてきたが、体がだるくて顔を上げることもできない。
どうしたものかと思っていると、そっと背中に大きな手が添えられた。
「松風さん、大丈夫? 冷たいお水もらったから……飲める?」
「ぁ――のめ、ます」
そう答えてやっと顔を上げたものの、心配そうにこちらを見つめているリアムの顔ですらぼやけて見える。
これはいよいよまずい――普段はちゃんと節制しているのだが、度数が高い日本酒をぐいぐい飲んでしまったせいでどうにも体が重い。
「すみませんリアムさん……」
憧れの上司にとんでもない醜態を見せてしまった。
そう思うと情けなくて泣きそうになってしまうが、ひとまずは差し出された水を飲もう――そう思って冷水が入ったグラスを受け取り、縁に唇をつける。
「っあ……!」
だが、次の瞬間柚月にもたらされたのは、喉を滑り落ちる水の感覚ではなかった。ばしゃりと嫌な音がしたと思うと、着ていた服がしとどに濡れてしまう。冷たさに眉を寄せた柚月に、リアムは慌てた様子でタオルを用意しようとした。
「おっと……大丈夫? とりあえずタオル……」
「いえ、あの――大丈夫です。大丈夫なので……」
ひどく酔ってしまったからか、着衣を濡らす水ですら冷たくて気持ちいい。
なおもぼんやりとする柚月を見て、リアムはゆっくりと背中を擦りながらスマートフォンを取り出した。
「家、どこ? さすがにこの調子の君を放ってはおけないし……家まで送るよ。住所、教えて」
「いえ……本当に大丈夫です。自分で、帰れますから」
ここまで丁寧に相談に乗ってもらった挙句、酔っぱらって家まで送ってもらいましたというのは、さすがに気が引ける。
なんとか立ち上がろうとするも、体は大きくよろけてリアムに支えられることになってしまった。
「すっ、すみませっ……」
「そんなに意地になられると困るな。ろくに動けもしない君をここに放っておくわけにもいかないし」
意図せず抱きしめられる形になってしまい、慌てて柚月が頭を下げる――だが、リアムが耳元で囁く声に、思わず体から力が抜けた。
――甘く、くすぐるような声だ。いつも聞いているはずなのに、体が妙にぞわぞわする。
「……あんまり言うことを聞かないなら、このまま僕の家に連れ帰ってしまおうかな」
低く耳元で囁かれた瞬間、柚月の体はぶるりと震えあがり、それから完全に力が抜けてしまった。
「……あ、あの。リアムさん……」
リアムはあくまで、所属している店舗のオーナー――そういう男女の感情を抱くことはないし、抱いてはいけないと思っていた。
けれど、そう意識してしまうと途端にどうすればいいのかわからなくなってしまう。
「松風さん?」
ここで、上手く彼の言葉を躱すことだってできる。きっとリアムだって冗談で言っているのだろうし、店の外までタクシーを呼んでもらえば後はなんとか帰宅することもできるだろう。
けれど、柚月はなにも喋らずに俯いたまま、こくんと唾を飲んだ。
(連れていってほしいって言ったら……この人は、どんな反応をするんだろう)
素面では絶対に考えないようなことだ。失恋の痛みと酔いで、妙なことを考えてしまっている――頭の片隅でそれはわかっているのに、顔を上げることができなかった。
「リアムさんのおうち……行きたいって言ったら、どうするんですか」
俯いたまま、不明瞭な呂律でそんなことを言ってみる。
酔いすぎだと叱られるだろうか。軽蔑されるかもしれない。
永遠に思えるような一瞬が過ぎて、柚月は彼の言葉を待った。
「それは――ただ、連れていくだけじゃ済まないと思う。僕も今、自分が割と酔ってるっていう自覚はあるから」
それから、また沈黙が流れた。リアムの腕に体を支えられたまま、柚月が身じろぎをしたのはその時だった。
「……松風、さん。そういうことをすると、本当に連れ帰っちゃうけど」
そっと、彼の背中に腕を回してみた。リアムは絞り出すような声で制止したけれど、腰に回された手は驚くほどに熱い。
――きっと、これが最後の警告だ。
「二人とも、酔ってるから。だから……そういうことじゃ、だめですか?」
こんな大胆な誘い方、元彼にだってしたことがなかった。
先ほどから、心臓がうるさいほどに脈打っている――ぎゅっと、彼の背に回した腕に力をこめると、リアムは深く息を吐いた。
「車呼ぶね。少し、ここで待ってて」
(つづきは本編で!)