「……私は、あなたに殺された前世の記憶があります」
あらすじ
「……私は、あなたに殺された前世の記憶があります」
貧しい家庭で育った子爵令嬢・イリーネは、慣れない夜会の翌日に突然、侯爵令息エメリヒから求婚される。あまりの吉報に子爵家は大騒ぎ、財政難を救える事実に、彼女はほっとした――が、彼の美しい顔を見た途端、イリーネの脳裏に浮かんだのは強烈な恐怖。短剣を手に覆いかぶさる男と強い痛み。そう、彼女は前世、夫である彼に殺された記憶を思い出したのだった。「婚約者として君を喜ばせたいんだ」恐怖を隠すイリーネに、エメリヒは穏やかに優しく、何故か熱心に愛を囁いてきて……?
作品情報
作:猫屋ちゃき
絵:浅島ヨシユキ
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第一章
イリーネがある朝目覚めると、テレマン子爵家の町屋敷は上へ下への大騒ぎになっていた。
何でも、イリーネに求婚者が現れたらしい。
それは、念願叶ってイリーネが社交界デビューをした次の日のことだった。
「お嬢様、大変ですよ! お嬢様と結婚したいという方から手紙が来たのですって!」
イリーネに知らせたのは、メイドのマリアだった。マリアはイリーネを起こすと、すぐさま吉報を告げた。
「まぁ……!」
慣れない夜会でまだ疲れが抜けていないイリーネは、そうやって驚くのがやっとだった。だが、その反応はマリアの期待したものではなかったらしく、体を揺さぶりながら再度伝えられる。
「お嬢様、大変なことなんですよ! 何といっても侯爵家からの求婚なんですから! 子爵家に侯爵家から求婚だなんて!」
「そうなの……?」
まだ事態が呑み込めていないイリーネは、ふわふわと欠伸をした。できればもう少し寝ていたかったと思うが、マリアの反応を見る限り無理だろう。
落ち着かない様子のマリアは、イリーネを無理やり寝台から起き上がらせると、右往左往しながらドレスを着せたり髪を結ったりする。慌てたところで何が変わるわけでもないのだが、気持ちが浮き立って仕方がないようだ。
「侯爵家の方と、昨日接点があったかしら?」
鏡台の前に座らされたイリーネは、眠たげな自分の顔を見ながら昨夜のことを思い出そうとしていた。
昨夜は、大勢の人々が呼ばれる夜会だった。社交界にデビューしたばかりの令嬢は、とにかく挨拶回りが大変だ。親や保護者に付き添われ、名前と顔を覚えてもらうために挨拶をして回る。
イリーネも昨夜、母に付き添われてたくさんの人たちに挨拶をした。しかし、母の知り合いはご婦人たちがほとんどで、男性と挨拶した記憶はあまりない。
「ザイフリート侯爵家のご令息だそうです。何でも、お嬢様に一目惚れしたそうですよ」
「一目惚れ……?」
マリアの言葉に、イリーネは鏡を見つめて首を傾げた。そこに映っているのは、濃い茶色の髪に緑の目をした平凡な自分だ。身内からは可愛いと言われるし不美人でないことはわかるが、一度の社交界だけで一目惚れされるような美貌があるとも思えない。だから、マリアの言葉はイリーネにとって、にわかには信じがたかった。
「きっと、お嬢様の初々しい姿に惹かれたのですよ。世慣れていないのを可愛く思う方もいるということです。そしておそらく、世間擦れしてしまう前にご自分のものにしてしまいたくなったのですよ」
「……初々しい?」
昨夜が社交界デビューであったものの、イリーネは自分がわりと〝ギリギリ〟であることを自覚していた。
貴族の令嬢は本来、十六歳くらいで社交界に顔を出すようになるのに、イリーネは今、十八歳だ。家があまり豊かではなかったため、デビューが少し遅れたのである。
致し方ない事情があったとはいえ、社交界デビュー三年目くらい、つまり十八歳か十九歳になるまでには、多くの令嬢が伴侶や嫁ぎ先を見つけるというのだ。周囲より二年遅れてデビューしたイリーネにはそれだけ時間がなく、そのぶん初々しさなんてものはないつもりだった。
手紙を受け取ったのは父のはずだ。それなら、父に聞けばその求婚相手がイリーネの何に惹かれて縁談を申し込んできたのかわかるだろう。
そう思って朝食室に下りていくと、そこはさらに大騒ぎとなっていた。
「おはよう、イリーネ。今日は素晴らしい日だよ。お前と結婚したいという方が現れた」
「おはようございます、お父様。先ほどマリアから聞かされたところです」
「おお、そうか……嬉しいことだなぁ。デビューしたばかりですぐ、侯爵家の方に見初めてもらえるとは」
父は娘に求婚者が現れたことが大層嬉しいらしく、ずっと口髭を触っていた。整えられた髭を触るのは、父が嬉しいときにやる癖だ。
「……あの、その方は手紙になんと書いてらしたの? 私、昨夜お話しした方の中にその方がいらしたのかよく覚えていなくて」
水を差すのも悪いと思ったが、聞かないことにはイリーネも落ち着かなかった。自身が誰に求婚されたのかくらいは把握したい。
「『一目見たときに、ずっと探し求めていた人だとわかった』と書いていたよ。いやはや、若いのに情熱的な方だ」
「一目見たときに……」
父の言葉から、マリアの推測が正解であることが濃厚になった。つまり、イリーネと直接の面識はないが、向こうが一方的にこちらを見初めて縁談を申し込んでいるということらしい。
「お父様は、ザイフリート家のご子息と面識はありますか?」
「ご子息とは直接お会いしたことはないが、当主である父君とは知り合いだよ。由緒ある家の方で、領地経営に問題があるとも聞かない。それに、確かご子息は大層な美丈夫だと聞いている。美しい容姿を持っていながら、これまで特に浮いた噂がなかった方だ。そのように身持ちがきちんとした方がお前を見初めてくださったのだから、光栄に思わなければ」
「はぁ……」
どういうことなのかと確認したかったのだが、聞けば聞くほどにわからなくなってきてしまった。どうやら、ザイフリート家のご子息とやらは謎に包まれた人物のようだ。
とはいえ、家族や使用人たちがこれだけ喜んでいるということは、ザイフリート家との縁談は素晴らしいものなのだろう。
料理長とキッチンメイドは、今夜はお祝いにしようと話している。そして、ザイフリート家のご子息がやってきたら、どんなおもてなしをしようかという相談まで始めてしまった。
誰かひとりくらい、イリーネの気持ちを確認してくれてもいいのではないかと、少しだけ不満に思う。だが、これでお相手探しに奔走しなくてもよくなったのだと、ほっとしてもいた。
ザイフリート侯爵家の子息──エメリヒ・ザイフリートと顔を合わせるまでは。
求婚の手紙が届いてから数日後。
テレマン家はエメリヒを迎える準備を整えて、彼の来訪を待っていた。
今日顔を合わせて、テレマン家とザイフリート家とで話がまとまれば、正式に婚約となる。当然テレマン家は断らないし、ザイフリート家も許可を出してからエメリヒを送り出しているだろうから、顔を合わせずとも結婚が決定しているようなものだった。
イリーネも覚悟を決めて、顔合わせに臨んだ。そのときは、みんながこれだけ喜ぶ相手なのだから、エメリヒと結婚するのが正しくていいことなのだと思っていたのだ。
……だが、彼を目の当たりにしてイリーネが感じたのは、強烈な恐怖だった。
「はじめまして、イリーネ嬢。こうしてご挨拶をするのは初めてだったね」
テレマン家の邸にやってきた彼は、イリーネを見て微笑んだ。金の髪と青い目をした、本当に美しい人だった。
だが、その美しい顔を見た途端、イリーネの脳裏に恐ろしい光景が浮かんだ。
短剣を手に覆いかぶさる男の姿が視界を埋める。
怖くて逃げようとするのに、体の自由が利かない。声も出ない。そのことから、これが自分の身に起きているのではないとわかる。
夢なのか幻なのか考えて、これは記憶なのだと悟った。なぜなら、イリーネはこの先に起こることを知っている。
(……怖い! 殺される)
そう思った直後、胸に短剣を突き立てられた。痛みに、視界がぼやけていく。
そのぼやけた視界で最期に見たのは、自分を殺した男の顔だった。
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