作品情報

わたしの胎(なか)を奪(と)りあって~年下策士と元婚約者の逆ハーレム懐妊計画~

「どちらかと子を成せ。その相手がこの国の次期後継者となる」

あらすじ

「どちらかと子を成せ。その相手がこの国の次期後継者となる」

父王と議会に言いつけられた王女ソフィアは、国家を存続させるため、二人の後継者候補と子づくりを重ねることになった。ソフィアにまっすぐ求愛し続ける美形の年下策士ヘイザー。かつてソフィアを捨てて旅立ったはずが突然帰国した元婚約者バルト。アイリーノベル初のマルチエンド方式で、ソフィアと貴女を三つの結末が待ち受ける、逆ハーレム懐妊計画が始まった。

作品情報

作:桜旗とうか
絵:yuiNa
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み


 照明を落とした寝室で、繰り返しおこなわれる情の交わりを受け入れられるようになったのはいつだっただろうか。
「……あ、んっ……」
 甘い喘ぎが、唇から零れた。
 ぬちゅぬちゅと響く水音と、打擲されるたびに軋むベッドの音に、今夜もまた、この男に絶頂へと導かれるのだと理解する。
「っあ、あぁ……、そこ、は……」
 腰を掴んで、弱い場所を熱い楔に穿たれた。身体が仰け反って、快感に打ち震える。
 目の前で、ふっと吐息を零す男の、雄の顔をいったいどれだけの人間が知っているだろうか。それを思えば、わずかに優越感さえ感じる。
「ああぁっ……、待っ……」
 肌をぶつける音が強く、激しくなった。快感に溺れ、ひたむきな愛を傾けられ、睦言を囁かれる。そうして果たされる、義務なのだ。
 手を伸ばした。その手を掴まれると、彼が頬をすり寄せてくる。
 己の姿も、彼の姿も、この暗闇では見えない。それでも、いまその身に重みをかけてくる男がどんな顔をしているか、想像できた。きっと笑っている。優しい顔をして、普段は見せない表情で、見下ろしているのだろう。
「あ……あぁっ……」
 もっと粗雑で冷たい、作業のような行為であればこんなにも思い悩むことはなかった。
 長い夜の始まり。彼の声が耳元に落とされ、そっと唇を塞がれた。

序 決断の日
 カルナレス王国は窮地に立たされていた。
 現国王ヴェールゼン・ファウスには実子が一人。女王を認めない国で、王女がただ一人だけだった。
 しかし、二年前まではだれも国の行く末を憂えることはなかった。理由はひとつ。完璧とだれもが認める婚約者がいたからだ。
 その婚約者は臣下でもっとも高い地位とされる宰相となり、国を国王と共に支えていた。
 このまま王女と結婚すれば、宰相が国王の地位に就き、健やかに国を守っていくのだろうと信じていたのだ。けれど二年前、その婚約者が出奔した。宰相の地位を捨て、国を捨て、王女を捨ててふらりと失踪してしまったのだ。
 最初は皆その身を案じた。しかし、婚約者の父親であるシュナイゼン侯爵が公に言った。「息子はシュナイゼン家とはなんの関係もない身の上となった」と。
 それで王女への贖罪がされるわけではなかったし、国の安寧が崩れたことも事実なのだ。シュナイゼン侯爵は、その生涯を掛けて国に尽くすと誓い、息子の罪滅ぼしに奔走している。
 今朝も、侯爵と顔を合わせた。見知らぬ人のような姿は見るだけで不憫に思えたが、そこはやはり侯爵。威厳だけは常に保って接してくれることだけが救いだろう。そして、王家はそろそろこの国の行く末を定めなければならない。
「父上。あの者に会いに行ってまいります。ちゃんと王宮で暮らすよう伝えるつもりです」
 ソフィアは、扇を開いて父の執務室でそう呟いた。
「良いのか?」
 その決定は、未来の決定でもあった。
「いまから養子を迎えることは現実的ではありませぬ。かといってあやつが戻ってくるとも思えない。ならば、あの男に賭けてみようと思うのです。とはいえ、いましばらく時間はかかるでしょうが……」
 一年半前。国王の命令により新しい宰相の地位を継げる者を探した。しかし、前任者が完璧すぎたゆえに適任者が見つからず、やむなく一勝負をすることにしたのだ。
 勝てば宰相の地位と、王女の婚約者という地位がついてくる。いずれは国王になることのできる、最高にして最大の権力を与えるという約束だ。
 そして、その勝負には皆、武器を携えてやってきた。
 カルナレス王国の王女は、武人だったゆえ。武芸に秀でた彼女と戦うのならば、武器で戦うしかないと皆が考えたらしかった。しかし、王女は並の者には負けない程度の力量を持ち、ことごとく退け続けた。お陰で後継者を決めることはできなかったのだが、ただ一人。戦意を喪失させた男がいた。
 その男を次期宰相候補として立てようとしたのだが、いささか軟弱だ。それでも、もう宰相の地位が空いて二年になる。
 国は円滑に回り続けているが、それでも空席を続けることは難しくなってきていた。
 だから、決めたのだ。
「……行ってまいります」

一 ヘイザー・アールハイドという男

「ソフィア様! ようこそおいでくださいました!」
 王都の北側を統治する、アールハイド家。その当主がソフィアに戦意喪失させた人物だ。
 馬車が屋敷のポーチに付けられると扉が開かれ、ドタバタと走ってくる男が見えた。
 癖のある茶色い髪。それより少し色素の薄い茶色の瞳。痩躯で、少し頼りなく見える。名を、ヘイザー・アールハイドというその男は、馬車から降りてきたソフィアの手をがしっと掴んだ。
「ヘイザー。あまり忙しなく走るものではないよ」
「ソフィア様の馬車が見えたのでいても立っていられなかったのです。今日もお美しいですね、ソフィア様」
「ふむ……わたしは美しいか?」
「はい、もちろんです」
「……そうか」
 できるだけ布面積の多いドレスを選んできた。ワインレッドに黒いレースのついた、いささか挑発的な取り合わせではあるものの、腕も、脚も出ない。ヘイザーを前に、露出の多いドレスを着ると赤面されるうえに美辞麗句が変な方向へ向かってしまうのだ。
 しかし……美しいと言われて悪い気はしない。
 畳んだ扇で口元を隠し、くすりと笑う。
「急な面会を快諾してくれ感謝している」
「ソフィア様のお願いでしたらいつでも、なんでも伺いますよ」
 にこりと笑顔を返され、この人畜無害さこそがヘイザーの美点だろうと思った。
 見るからに人の良さそうな外見。優しい男なのだろうと思う。しかし、もう少し覇気があってほしい。
 国の中枢となる男としては、やはりその象徴たるなにかがほしいのだ。
 元婚約者は、その点では圧倒的だった。完璧と称される美貌を持ち、文武両道。武官のような体躯をしているが文官だと言い張る知識欲の塊。名門に生まれ、人びとの尊敬を一身に受けるような、そんな男だったのだ。
 それと比較されてしまうのだから、ヘイザーは気の毒な立場でもある。
 守ってやらねば……。
 ヘイザーはあまりに弱い。ソフィアを一途に想ってくれる男ではあるが、それしかいまのところ取り柄が見つからない。正式に婚約者と公表すれば、謂れのない陰口も増えるだろう。果たしてそれに耐えうるだけの器があるだろうか。胸を痛めはしないだろうか。
 ずっとそんなことを危惧していた。
「ソフィア様、まずはご挨拶をさせてください」
「いましたばかり……まあ、良い。好きにおし」
 ヘイザーが、掴んだソフィアの手に顔を寄せて甲に口付ける。
 たどたどしいが、誠実そうなその挨拶はソフィアの目には好ましく映っていた。
「では、中へどうぞ。ソフィア様がいらっしゃるとのことで急ぎ、アップルパイを用意したのです」
「良い。アップルパイは好物だ」
 ふふと扇で口元を隠しながら笑うと、ヘイザーが嬉しそうに笑い返してくる。
 この男ならば、きっと幸せにしてくれるだろう。国を。民を。そして、ソフィア自身も。
 王となる人間に必要なのは民を慈しむ心。ヘイザーならばそれを備えられるだろう。足りない部分は教育で補えばいいし、それでも足りないのならばソフィアが王家の名の下に守ってやればいい。
 きっと、だれにとっても幸せな選択になるはずなのだ。
 応接室に通され、ソファを勧められる。古めかしい家具や調度品は、アールハイド家が統治する領地の運営状況を示していた。
 恵まれた土地ではない。
 質素な暮らしをしながら、皆で助け合ってきた。そんな領地だ。領主であるヘイザーが贅の限りを尽くせばたちまち暴動へ発展するくらいには貧しい土地。それでも、ヘイザーはしっかりと領地を守ってきている。その実績は評価に値するものだ。
「ソフィア様、どうぞ」
 ヘイザーが隣に座り、テーブルに出されたアップルパイを勧めてきた。
「向かい側に座る気はないか?」
「ソフィア様の近くにいたいので」
「話しづらいのだが……それでもか?」
「ソフィア様を直視するなんて僕には恐れ多くてできません……」
「直視してもらわねばいろいろと困るのだ」
「わかりました。ならばベッドで愛を育みながら……」
「だれが致すと言った」
「致すのではありません。愛を育むのです」
 ただ。ただひとつだけ致命的な欠点をあげるとすれば、ヘイザーは絶望的に話を聞かない男だということ。これだけは、はじめて出会ったときから変わっていない。
「……まあ、良い。これから言うことをよく聞いておくれ、ヘイザー」
「はい」
 背筋をピンと伸ばして話を聞こうとしてくれるが、たぶん途中で急展開するのだ。いまから絶望的な気持ちになるが、この男に託すと決めた。
「御前を、正式に宰相候補として迎えようと思う。御前は当直以外、屋敷に戻っていると聞いている。よって今後は王宮で暮らし、相応の仕事をしながら王となるべく教育を受けておくれ」
「僕を……ですか?」
「そうだ。嫌か?」
「僕はソフィア様と結婚できればそれだけでいいんです。宰相の地位がほしいわけではありません」
「しかし、宰相の地位と王位継承権は切り離せぬものなのだ。どちらか一方ということはできぬ」
 通常であれば国王の傍にはもっとも信頼の置ける臣下を宰相に据え、共に政を担っていく。したがって、宰相は臣下で最上位の階級とされる。そして、王位を継げないソフィアが王位継承権を与えるとすれば、その最上位の臣下でなければならない。
 ゆえに、ソフィアの婚約者は自動的に宰相となり、婚礼と共に王位を継承することになる。どちらか一方だけを与えることはできないのだ。
「わかりました。ソフィア様に一目惚れをしたときから覚悟はしていたことです」
「いや。覚悟をしていたのならばもう少し話を聞いておくれ。なぜ押せばどうにかなると思ったのだ」
「ソフィア様を愛するゆえです」
 なぜ、この男に負けてしまったのか。
 じっくり時間を掛けて待てば、もっと適した者がいたかもしれない。
 そう、何度も思った。しかし、ヘイザー以上の人材を見つけられなかった気もするのだ。
 優しいだけが取り柄の男。でもなにか……人とは違うものを感じてしまう。
「……なるべく早く王宮へ来ておくれ。領地のことは王宮も手助けをするから心配せずとも良いよ」
「ありがとうございます。みんなをよろしくお願いします」
「ああ。……それだけを伝えに来たのだ」
 扇を膝に置き、アップルパイの載った皿を手に取る。フォークで崩して頬張ると、バターの風味と香料が口から鼻へと抜けていく。
「ふふ。美味しいな」
「気に入っていただけましたか?」
「ああ」
「料理ではシュナイゼン伯爵に勝てるものはありませんが、菓子ならばと思ったのです」
 ピタリと手が止まる。
 元婚約者は、料理を趣味とする男だった。侯爵家に生まれ、伯爵の称号を持つあの男は、料理をする必要などなかっただろうに、道楽が高じてプロ顔負けの腕前となったのだ。
 幾度も、あの男の作ったものを口にした。
「……そうか」
 なぜ、ヘイザーはあの男をわざわざ思い出させるようなことを言うのか。
 苦く思いながらも、その感情を飲み込む。
 すると、不意に肩を抱かれて抱きしめられた。
「ソフィア様。シュナイゼン伯爵のことを無理に忘れようとしなくて大丈夫です。僕は、あの方に恋をしているあなたを好きになったのですから」
「……酔狂な男だな、御前は」
 心から、消えない面影がある。それでもソフィアは前へ進んでいくしかないのだ。

 ヘイザーとの出会いは、父から宰相の人選を任されたころまで遡る。いまから一年半ほど前のことだ。
 婚約者であったバルト・シュナイゼンが国を出たあと、その後継者をどうするかで国はかなり揉めたのだ。
 バルトは文句なく次期国王となれる男だった。それは、国中のだれもが認めることだったから、それに匹敵する人材を探すのはまず不可能と言ってよかった。
 それでも、空いた宰相の地位は埋めねばならない。
 次の宰相……すなわち、ソフィアの新しい婚約者を探すということ。そして、父はソフィアに人選を任せたのだ。これからの生涯を共に生きていく相手を選ぶことになるゆえに。
 そこでソフィアは、その選定方法を一任してもらうことで承諾をした。それに際し、国中にある通達を出した。
 “第一王女ソフィアとの勝負に勝った者に宰相の地位と、王位継承権を与える”
 臣下として最高の地位を与えられ、次の国王たり得るものを一から探すのは難しい。ならば、まずは気概のあるものを募って篩に掛けるほうが圧倒的に早い。そして、その方法はソフィアとの勝負とした。
 野心があってもいい。身分の貴賤も問わない。それらはあとからどうにでもできる。最悪の場合はソフィアが命を賭して諫めよう。そう覚悟を決めて出した通達。それを見て、多くの者が勝負を挑みに来た。訓練用の木刀を携えて一勝負をと名乗りを上げてくれる者は実に多かったが、あいにくとソフィアは武人に分類される。
 生まれ持った性別を幾度も嘆き、自分が男にさえ生まれていればと唇を噛んだ。生まれ持った性別を変えることができないのであれば、せめて男らしくあろうとしたのだ。
 十六歳で成人するまでは男と変わらぬ格好をし、男のような立ち居振る舞いを心がけた。そうすることでソフィアの即位が認められるかもしれないと考えたからだ。その一環として武芸を嗜んだ。生まれたときからずっと一緒だったバルトが鍛錬している傍で、ソフィアも木刀を振り回した。そうして身につけた技術。
 血を吐くほど訓練に明け暮れ、潰した肉刺の数は数え切れない。そんなソフィアが、並の相手に後れを取るはずがなかった。
 挑戦者はあっという間に敗北を認め引き下がっていく。それでも我こそはと名乗りを上げる者はあとを絶たず、玉座の間で模擬戦闘が繰り広げられた。
 しかし、三ヶ月もすればソフィアには勝てないと皆が悟る。挑戦者は徐々に減り、玉座で槍を構えて仁王立ちする時間が多くなった。
『……退屈だ』
 あくびをしそうになるほど、退屈な時間だった。
 一度父に問われた。なぜ武術で勝負をするのかと。しかし、武術勝負を挑んでくるのは挑戦者で、ソフィアが指定しているわけではない。要は、それも宰相としての知恵ということだ。ソフィアのことを調べ上げ、弱点となるもので挑んでくればいいだけの話。しかし皆、なぜか木刀を携えてくるのだ。
 ソフィアも槍を構えて待っているからいけないのだろうが。
 そんなことを思うくらいには、状況を理解しているつもりではあったのだけれど。
『この国には気概のある男子はもうおらぬのか……』
 槍を持っている自分が間抜けに思えてきた。
『別の方法を考えたほうがいいのやもしれぬな……』
 独り言を呟いていると、ひとりの男がやってきた。癖のある茶色い髪。ひょろっとした体躯。ほとんど丸腰だが、武器はなんだろうか?
 高い場所から男を見下ろした。
『勝負に来たか?』
『あの……ソフィア様』
 声が震えているように思う。覇気のない声だが、大丈夫だろうか。ソフィアが腕を掴むだけで折れてしまいそうなほど弱々しい。
『どうした?』
『ソフィア様。僕とけっ……結婚してください』
 男はその場にいきなり土下座をしてそんなことを言い放った。
『……わたしに勝てば、その目的は達成されると思うが』
『僕がソフィア様に勝つなど、無理です』
 思わず槍を投げそうになった。
『勝負をする前から無理……とは』
『武芸を嗜んでいません』
『そうか……』
『勉強は好きですが、これもソフィア様に勝てるとは思えません』
『いや……それはないと思うが……、そうか……』
『容姿はご覧のとおりです』
『…………』
 ソフィアは額を抑えた。
『それで結婚……と言うか』
『僕は宰相の地位も、王位継承権も必要ありません。ソフィア様さえ傍にいてくださればそれで……。ずっと、お慕い申し上げておりました』
 額ずきながら、震える声で、しかしはっきりとそう告げられた。
『わたしを……か』
『はい。女神のごとく美しいお姿に最初は見蕩れました。お声を聞いて、胸を鷲づかみにされたような気持ちになりました。笑顔を見て、この方と結ばれたいと切に願ってしまったのです』
『そ、そうか……』
 なんだ、この異常なまでのむず痒さは。
 普段褒めそやされることなどない。女扱いさえされることの少ない身だ。長年婚約関係にあったバルトでさえ、手を出そうと思わないほどに。
 それを、女神のごとくとは……。
『しかしな。この場では勝負をしてもらわねばならぬ。なにかできることはないのか?』
『ありません!』
『言い切るな、たわけ!』
 思わず槍でダムダムと床を叩いてしまった。
『勝負できるものを見つけてから出直してくるといい。話はそれからだ』
『ソフィア様。僕はヘイザーと言います。名前だけでも覚えておいていただければ……』
『わかった。わかったから今日はお帰り。わたしが槍を投げぬうちに』
『……は、はい。また明日来ます』
『違う。勝負できるなにかを準備してから出直してまいれと……聞いていかぬか!』
 ヘイザーがすさまじい早さで玉座を出ていってしまう。あれではソフィアの話もまるで耳に届いていないだろう。
 案の定、その翌日も、その翌々日も、ヘイザーは同じことを繰り返す。毎日毎日滑り込むようにして玉座に入ってきては床に伏して結婚してくださいと懇願される。
 その真意がどこにあるかをはかりかねてはいたのだが、毎日求婚されるというのは悪い気がしない。
 ソフィアには生まれたときから生涯を共にするだろう相手がいて、物心がつくころには婚約者と定められていたのだ。情熱的に愛を交わすことはなかったせいか、ヘイザーの姿勢は好ましく映る。
 もう少し、あの男に目をみはるほどのなにかがあればよかったのだが……。
 そうすれば宰相候補として教育を受けてみろと言えた。
 しかし、あの状態では周囲が納得すまい……。
 そんなことを考えながら十日が過ぎたころ。いつもは開門と同時に滑り込んでくるヘイザーが、夕刻になっても姿を見せなかった。
『さすがにあやつも飽いたか……』
 毎日すげなくあしらわれればだれでも心が折れる。ソフィアとて同じ立場ならば、長くは続かなかっただろう。十日も続いたのは褒めてやるべきか。
 槍を弄びながら閉門まで挑戦者もなくどうしたものかと考えていると、刻限ギリギリで玉座の間へやってくる男がいた。
『ソフィア様、ご機嫌麗しく存じます!』
 床に躓きながら、ヘイザーがやってきた。癖のある髪は、今日も元気にあちこち跳ねている。
『御前以外の挑戦者がいないことを嘆いてはおるがな』
『それはお待たせして申し訳ありません。本日は領地の所用に追われていたのでこのような時間になってしまいました』
『……ふむ。御前は北部の領主だったか』
 たしか、ヘイザーの生家であるアールハイド家は爵位を持たない貴族だったはず。若き領主の元、粛々と領地運営がされていた。
 そして、このヘイザーという男は王宮勤めもしていたはずだ。下級文官だったと記憶していたが……。
 これを才覚と見るか、平凡と見るか。
『領地は今日も健やかです。つきましてはソフィア様、今日こそは僕と結婚を……』
『領地が健やかならば結婚できるとなぜ思うのだ』
 やはり今日も槍でダムダムと床を叩いてしまった。
『いい加減話を聞いておくれ、ヘイザー。ここは勝負をする場なのだ。いや、そうではないが、いまはそういう場所だ』
『では場所を変えてソフィア様のお部屋でお茶など飲みながら……』
『違うのだ、ヘイザー。茶を飲もうと誘っているのではない。勝負をしておくれと言っているのだ』
 ヘイザーは、驚くほど話を聞かない男だった。
 いや……。聞いてはいるが、通じないのだ。これは才覚でも平凡でもなく、変わり者と評するのが正しいだろう。
『僕は、ソフィア様を想う以外のことができません。それでは勝負になりませんか』
『どう勝負せよというのか』
『ソフィア様が、僕の慕情以上の気持ちを傾けてくださればいいのではないかと』
『まるで良くない。だいたい、宰相としての資質を見定めたいのだ。なんだ、慕情の勝負とは』
 額を押さえた。
『繰り返しますが、僕は宰相の地位など必要ありません。ソフィア様と結ばれることだけが望みです』
『宰相の選定が目的ではあるが、すなわちそれはわたしの伴侶を選ぶことでもあるのだ。どちらか一方だけというのはできぬ相談だ』
『では甘んじて宰相の地位を受け入れますので』
『だれがくれてやると言った』
『僕のなにがいけないのでしょうか!』
『まず勝負をせよと言っているのがわからぬ時点でだめだろう!』
 槍をスパーンと投げてしまった。だめだ。この男はまったく話を聞かない。それ以前に自分が選ばれないはずがないと思っている。
『……ソフィア様』
『なんだ』
『武人たるものが武器を投げるなどということは、あってはならないことではないでしょうか』
『…………、そうだな』
 武人にとって、武器は命そのものだ。
 手に馴染む最高の一品を作り上げ、携える。そのために鍛冶師は腕のいい者を探すし、金銭に糸目は付けないのが常だ。
 ソフィアも槍を振るうが、手から離したことはない。
 つまり。
『……なるほどな。御前、これを狙っていたか?』
『まさか。ですが、これでソフィア様と同じ土俵に立てることになりました』
 武器を投げるということは、戦意の喪失を意味する。降伏であるかもしれないし、矛を収めるという意味かもしれない。ソフィアは図らずもそうしてしまったのだ。ヘイザーと勝負をするつもりはないと、示してしまった。
『まったく……、本当に酔狂な男だな、御前は』
『ソフィア様がほしい一心です』
『面白い。御前に興味が湧いたよ』
『では早速婚姻手続きを……』
『調子に乗るな、阿呆。宰相の地位と王位継承権は切っても切り離せぬ。しかし御前に宰相として、王位を与える者として、資質が備わっているかは未だ判断できぬ。ゆえに、しばし御前を試させてもらおう』
 こうして、宰相選びの勝負は幕を引いた。しかし、一年半が過ぎてもヘイザーの能力をはかりかねていた。

二 元婚約者との再会

「ではな、ヘイザー」
「ソフィア様。お送りいたします」
「不要だ。馬車で来ているし、そう遠い距離でもない。気持ちだけありがたく受け取っておくよ」
 昼を少し過ぎて、アールハイド家をあとにしようとしたソフィアだったが、手をぎゅっと握られて帰れそうになかった。
 ヘイザーは、ソフィアよりもみっつ年下のまだ歳若い青年だ。自分の容姿を高く評価してはいないようだが、決して悪い見目ではない。そんな男に手をぎゅっと握られて、寂しそうな目で見つめられればソフィアとて感じるものはある。
「御前を今日、宰相にすると決めてしまえていたなら共に夜を明かすこともできたのだがな。あいにくと――」
「いますぐ決めてしまいましょう。僕は宰相でもかまいませんので!」
「阿呆」
 ぺしっと扇で額を叩いた。
「御前はまだ査定中の身であることを忘れるな。候補者として勉強に励み、それから正式に決定するのだ。そういう手順を踏まねば、御前の階級が低すぎて……だな……」
 下級文官がいきなり宰相になることは、やはりできそうになかった。順序立てて昇進させるしか、いまは術がないだろう。
「身体の相性は大事かと」
「……言い分はわからぬでもないが……それはもう少しあとの話だ」
 前向きな返事をしたはずだ。しかしヘイザーが完全にしょぼくれてしまっている。
 こうではないのか……?
「その、な。わたしは世の女子のような煌びやかな恋とは縁のない女だったのだ。うまく応えてやれぬのだが……」
「それはわかっています。ソフィア様の密やかな慕情の傾け方を愛らしいと思っております。ですが、僕の前ではもうちょっと大胆になってください。ベッドは最適だと思いますよ」
「御前はとりあえずサカろうとするのをなんとかせよ。いまから先が思いやられる」
 若さとはこういうものだろうか。三年前の自分はなにをしていただろうかと真剣に考えた結果、ソフィアはヘイザーの頭をよしよしと撫でた。
「夜這いの練習をしておきますね」
「いや、違うのだ。なぜ御前に意図が通じぬのだ」
 この男がもう少し話のわかる人間だったならと天を仰ぎ見る。
「ソフィア様。早く僕のものになってくださいね」
「……そのためには御前が早く宰相にならねばな」
 ときおり、ヘイザーの目を見ると身構えそうになることがある。身の危険を感じるというよりも、本能的に……あるいは反射的に身構えてしまいそうになる、というのが正しいだろうか。
「では、今度こそ帰る。またな」
 ヘイザーに別れを告げて馬車に乗り込んだ。王宮までの道のりは二時間と言ったところ。治安も悪い場所ではないから、送られる必要はない。それどころか、ヘイザーの帰路が心配でなにも手につかない気がする。
 ソフィアは、これでも武芸に覚えがある。多少の暴漢ならば蹴散らせるだろうが、ヘイザーは剣胼胝もできていない、正真正銘の貴族。ペンより重いものは持ったことがないのだろう。令息令嬢とはそういうものだ。
「ヘイザーの真価をはかりかねてしまうな……」
 絶望的に話を聞かないが、通じていないわけではない。しかし、その切り返しが二言目には「ソフィア様好き」になってしまうので性格さえいまだ掴みかねている。
「優しい男……だとは思うのだが……」
 令息らしい品位はあるし、ソフィアの嫌がることは決してしない。話は聞かないが。
 手を握られることはあるし、軽く抱きしめられることもあるが、キスをされたことはない。そのくせ、キスより先を求めたがる。
「あやつはなにを考えているのやら……」
 脚を組み直して扇を開いた。
 宰相候補はわからぬことばかり。しかし戦意喪失をしてしまった以上、ソフィアの敗北は明確なのだ。
「バルトならば……」
 どう判断を下すだろうか。
 そんな、帰らない男のことを思った。諦めねばならないとわかっている。送り出したのはソフィア自身。けれど、惜しんでしまう。
 ぼんやりと、馬車の窓に目を向けた。幕が引かれているが、隙間から少しのぞき見られる景色には、露店が並んでいた。
「……すまない、停めておくれ」
 御者に声を掛けて馬車を停める。タラップを降りて、立ち並ぶ露店に目を向けた。
「こんなところで露店市とは……」
 行商人が即席の店を構えて売ることは珍しくない。この規模ならば、大行商団の一行だろうか。ずらりと街道を天幕が彩っている。
「少し見てくる。遠くへはいかぬから、付き添いは必要ないよ」
 そう告げて、露店を見て回る。人の入りも多く、賑わっているようだ。珍しい細工品には人が群がっている。変わった衣服も取りそろえられているし、正絹のドレスは破格と言ってよかった。質も悪くない。
「素晴らしいな……」
 すべてを丁寧に見ていては日が暮れてしまうだろう。明日もやっているだろうか。じっくりと見てみたい。
 足取りを軽くしながら流し見るように歩いて行くと、花売りの露店があった。そこにいるのはひとりの客。
 なにともなく視線を上げた。
 蜜色の髪をした男だ。長身で、遠目からはその顔立ちを見定めることはできなかったが、見間違えるはずがなかった。
「……バルト……?」
 口をついて出た名前に、男がゆっくりと顔を向けてくる。
「ん? ……ああ、久しいな。ソフィア」
 端正な笑みを浮かべ、バルトがこちらへ来いと目配せした。
 戻っていたのか。久しぶりだな。元気そうでなによりだ。
 いろんな言葉が脳裏を駆け巡った。けれど、ソフィアはそんな言葉を飲み込む。
「御前、ここを終の場所と定めるには人目がありすぎるぞ」
「勝手に殺すな。おかえりくらい言えよ」
「ならばただいまというほうが先であろうに」
 バルトの手には、花の種が大量にあった。
「ああ。……ただいま」
「……ただ立ち寄っただけではないのか?」
「違う。カルナレスに帰ってきた」
 手にした種を買い取ると、バルトは店から少し外れた道の端へソフィアを促す。
「旅は終わったのか?」
「二年で行けるところまでは行った。この国の海路の整備をして、関所を通るための許可証を発行する段取りも取れば、旅はもっとしやすくなるだろう」
「国を捨てた男がなにを」
 扇を開いて揺らす。どれほど国のためになることを口にしたところで、この男が王宮に戻ることはないのだろう。絵空事なのだ。けれど、バルトは笑って言う。
「あらためて仕官するつもりだ。俺は、王宮に置き忘れたものがあるからな」
「シュナイゼン侯爵のコネは使えぬだろうな」
 侯爵が、公に息子は家と関係がないと言ったのだ。もはやバルトは、シュナイゼン家の嫡子ではないと言っているも同然。多大に労して手続きを踏めば戻せなくもないと聞くが、捨てたものをわざわざ拾う男でもないだろう。
「一介の庶民として仕官する。士官学校の卒業証明があるからそのあたりはパスできるしな」
 じっとバルトを見据える。
「御前、本気で言っているのか?」
「俺の忘れものは、そうしなきゃ取りに行けないんだよ」
「持ってきてやるぞ」
「だったら、国を捨てて俺のところに来いよ、ソフィア」
 軽く対応していたせいだろう。扇がぽとりと地面に落ちた。
「……たわけたことを」
「だろうな。お前は国を捨てるなんてことはできない。新しい宰相も決まってるころだろ。どうやって蹴落としに行くか考えてたところだ」
 バルトが身を屈めて扇を拾い上げ、ソフィアの手に持たせる。
 この男は、なにを言っているのだろうか。出奔した自由気ままな男が、あえて国に縛られに来るとは。
「……二年という月日は、御前をそうも変えてしまったのか……?」
「別に変わっちゃいねぇよ。俺は昔からこういう人間だ」
「おやめ、バルト。わたしは聡明ではないから、その言葉の意味をはき違えてしまう」
 扇を握り締めて、可能性を潰そうとする自分がいる。
 バルトが戻ってきたら、ソフィアの心は揺れるのだろうか。ヘイザーを宰相にと考えていたが、その気持ちが揺らいでしまうだろうか。
 ……いや、すでに揺らいでしまっている。
 国にとって、バルトが戻ってくるならばこの男を宰相の地位に据えるのが正しい。けれど、一度はその地位を捨てた身。新しくヘイザーを迎えるほうが民心は安らぐはずだ。
「ソフィア。俺は婚約を解消するなんて一言も言ってないぞ」
「……宰相の地位を捨てたのならば、それは破談という意味だ」
「違うな。俺たちの婚約はガキのころに取り決められたものだ。そのころのカルナレスには、宰相の地位に王位継承者の意味合いはなかった。後付けされたものだ」
 つまり、婚約と宰相の地位は別物ということだ。
「そのような理屈が通るはずがないだろう……」
「通すんだよ。そのために、王宮へ戻るんだ。お前を取り戻すために」
 この男は、こうも情熱的な一面を持っていたのか。
 知らぬことばかり。はじめて見る顔ばかりだ。
「それで? いまの宰相が邪魔になるんだがだれを据えた?」
「まだ決まっておらぬ。候補者はいるのだが……」
「二年も補佐官たちに国を任せてたのか」
「それで事足りていると皆が言っていたので、父も急がずとも良いと……」
 だから一年半もの間、ヘイザーをじっくりと見定めることができたのだ。決定打は見つけられなかったが。
「俺の育てた連中は有能だろ」
 どこか誇らしげに笑うバルトの横顔を見上げた。
 バルトが国を去って以降、宰相の地位はずっと空席だった。それでも国が円滑に回っていたのは、バルトが部下を育てていたからにほかならなかった。
 複数の宰相補佐官を置くことで、それぞれの得意分野に特化した意見を聞くことができる。そうして父は判断を下してきていたのだ。
 それらのことを、これまでバルト一人が担っていたと思うと、この男の化け物じみた才覚を痛感するというもの。
「その中から選んだのか?」
「いや。勝負をして、わたしを負かした者を選定したのだ」
「お前が負けた相手? 興味があるな」
「ヘイザー・アールハイドという下級文官だ」
「……また厄介な男を選んだな」
 驚いて、バルトを見上げた。
「知っているのか?」
「そいつは、参謀部長官になれるだけの実力を持った、完全に無欲な天才だ」
「あの話を聞かぬ男がか?」
「そうだよ」
 参謀部長官といえば宰相に次ぐ階級を与えられる立場だ。武官では将軍と並ぶ地位になる。
 ヘイザーが……?
「話をまったく聞かぬのだぞ」
「俺もちゃんと話したことはないんだ。今度紹介してくれよ。そいつを蹴落とす対策を講じないとな」
「あ、ああ……」
 なにやら、話はおかしな方向へ転がり始めたようだ。

 バルトとの決別は、二年前の冬の初めだった。
『国を出ようと思う』
 その日、ソフィアの私室を訪れたバルトがそんなことを言った。
『ほう……。どこへ行くか聞いても良いか?』
『あてはない』
『ならば、理由も教えてはくれぬのだろうな』
 問いかけに、バルトは端整な笑みを浮かべるだけだった。
 理由はなんとなく想像がつく。数ヶ月前、バルトは無二の友を失った。もともと病を患っていたようだが優秀で、武官最高位である将軍にまで上り詰めた庶民出身の逸材だった。
 バルトはそんな男を友とし、士官学校時代から苦楽を共にしてきた仲だったようだ。
『父は、御前に王位を譲るつもりでいた。それはどうする?』
『俺は端から王位なんて必要ないんだよ』
 それはつまり……。
『そうか。わかった』
『しばらく戻れないと思う』
『わかっているよ。友と旅をするのだろう?』
 扇を開いて揺らせば、バルトはそっと視線を外して頷いた。
『怒らないのか?』
『御前を怒鳴りつけてここにいろと言ったところで、それは御前に枷をはめるだけの行為であろう。わたしは御前に自由であってほしいよ』
 もともと、だれかに縛られることを嫌う男だ。ソフィアが行かないでくれと言えば留まったかもしれない。長年の婚約関係もある。だが、そのようなことをすれば、この男の心はきっとそこにはないだろう。
『わたしは、友の話をしている御前が好きだった。御前がいまだ気持ちを整理できていないこともわかっている。だから、自由におし』
『あいつと約束をしたんだ。この世界の果てを見よう、って』
『海路も拓けぬ果てを見にいくか。男というものはかくも無謀なものなのか』
『……そのときは、ソフィアも一緒だったらと思ってた』
『連れて行ってくれるつもりがあったか』
 意外だと笑えば、バルトもそうだろうと応じる。
『お前の腕があれば旅路は安全だからな』
『たわけ。男ならば女子を守ってみせろ』
『男をコテンパンにのしていくやつに言われたかねぇよ。あと俺は文官だっての』
 ソフィアは、たしかに武術に秀でていたかもしれないが、それは類いまれなる天賦の才があったからではない。男であったならという一念からだ。
 父の子はソフィアひとり。女王の認められぬ国で、女であるソフィアしか子がいないのだ。無論父も手をこまねいていたわけではない。側室を迎え、子を成そうと努めた。しかし、幼少期の大病が原因で子を成せぬと言われていた身だったこともあり、実子がひとり生まれただけでも幸いだったのだ。
 ただ、ソフィアが男であったなら――。
 なんの憂いもなかったはずだ。ソフィアが男だったなら、相応の身分を持つ令嬢と結婚し子を成せばよかった。国を治めるのは実子なのだから、だれも、なにも憂える必要がないのに、女であるゆえに婚姻相手に王位を譲るという道を考えねばならなくなった。
 しかし、この時代は恵まれていた。
 バルト・シュナイゼンという優れた人材が存在したからだ。そして、ソフィアと同じ日に生を受けた。これを天の思し召しと言わずになんというのかと父は喜び、そして婚約者にした。
 ソフィアもまた、バルトと共に生きていくのだろうと思っていたのだ。
 激情のような気持ちを持ったことはなかったが、穏やかで、共にいることが当たり前のこの男と。
 初恋と呼ぶには淡すぎる気持ちも、それを恋と定めてしまえば真実になる。
『シュナイゼン侯爵は、また渋面を作るのだろうな』
『親父には勘当されたよ』
『なんとまぁ……父君をしっかりと説得せぬか』
『聞く耳なんて持っちゃいない。だから、俺もそれでいいと答えた』
 驚いて目を見開くソフィアに、バルトは笑って見せるだけだった。
『爵位を捨てるのか?』
『ああ。もともと貴族社会ってのは性に合わないと思ってたんだ』
『……そうか。御前が決めたことならば、そのようにおし。だれも御前を咎めはせぬよ』
『ソフィアは俺を咎める権利があると思うけどな』
 爵位を捨てるということは、すなわちソフィアとの婚約も解消するということだ。
 もしかしたら、一度でもバルトにとっての女たり得るかもしれないと思った。伴侶となれば一度くらいは契りを交わすのだろうとも思っていた。だが、そんなときは訪れない。
 扇を閉ざし、ぎゅっと握り締めた。
『咎めたところで御前は反省などせぬだろう。出奔を取りやめるわけでもあるまい』
 これが、可憐な娘であればバルトを困らせるほど泣き、喚き、引き止めたのかもしれない。だがソフィアは武人として生き、そうあることを望んでいる。みっともなく縋るは武人の恥。
『良い。好きなだけ世界を旅しておいで』
『お前ならわかってくれると思ってたよ』
 生まれたときから共に育ち、十歳で婚約者となった。
 剣を振り回して鍛錬に励み、気づけばバルトを打ち負かすようになっていた。だが、本当は気づいていた。バルトがソフィアと対峙するときはいつも本気ではなかったことを。怪我をさせないように、志を折らないように、それとなく負けてくれていることに気づいていた。
 バルトが剣ではなく、いつからかペンを持つようになったのも、それが理由のひとつだったかもしれない。バルトには才能がある。ゆえに打ち込めば必ず開花するだけの能力を秘めている。贔屓目抜きにそれを確信していた。
 だが、バルトは自分で言うように、文官のほうが向いているのかもしれない。本を読みふけり、知識を蓄えることが好きだった。そしてその知識を手に領民に寄り添うような、そんな人間なのだ。
 いい王になると思った。
 この男の治める御世は、きっと幸せだろうと思っていた。
 そんな世は訪れることはないのか。残念だ。……ただ、残念でならない。
 玉座に座るバルトの姿を見てみたかった。蜜色の髪と碧眼を持つ、気高き王が君臨する姿を見ていたかった。
 ずっと傍で。
 一番近い場所で。
 この男の剣となり、盾となりながら。
『ソフィア』
『うん?』
 扇をはらはらと開きながら目を向けた。バルトが身を乗り出し、ソフィアの手を握る。
『新しい扇を買ってやるよ。もうだいぶ古いだろ』
『不要だよ、バルト。わたしは、十六歳の御前がくれたこの扇を気に入っているのだ』
 ソフィアが手にしている扇は、仕官して初めての給金でバルトが贈ってくれた品だ。決して高価なものではないだろう。それでも、あの日のバルトが真心を贈ってくれたのだ。挿げ替える必要はない。
『……そうか。もっと上等なものを贈りゃよかったといまさらながらに思うよ』
『たわけめ』
 この扇を失ってしまったら、これまでの時間さえ失ってしまいそうで怖かった。
 バルトと過ごした二十五年が消えてしまう。そんな気がしてしまうのだ。
『友との約束をなによりも優先する御前が、わたしは好きだよ』
『士官学校時代から喧嘩しかしてこなかったけどな』
 それでも、バルトは無二の友を見つけた。
 ソフィアは女であるゆえに、バルトとは友になれなかった。
 なぜ、男に生まれなかったのだろうか。この身が口惜しい。
『好きなだけ、世界を見ておいで。どこかで行き倒れたら踏みつけに行ってやるから安心していていい』
『いや、助けに来いよ。手を貸せよ』
『甘ったれるな。とどめを刺さぬだけ温情と思わぬか』
『思わねーよ。俺はお前らみたいに逞しくねぇんだよ。文官だって何度言えばわかるんだよ』
『拳で語り合え、阿呆』
『語り合う前にボコボコにするのはどこのだれだよ』
 ふむ、とひとつ頷いた。
 たしかに過去、『話は勝ったら聞く』と言ってバルトをのしたことがある。つまり。
『わたしだな』
『そうだよ。覚えててくれて光栄だよ、くそっ』
 悪態をつくバルトを笑い飛ばせば、本当に忌々しそうな顔をするから面白い。
 ひらひらと扇を揺らしながら、窓の外に目を向けた。雲が高い場所に薄くかかっている。もう季節は秋へと移ろった。また、厳しい季節がやってくる。
『なあ、ソフィア』
『ふふ。どうしたのだ。御前がわたしの名をそう何度も呼ぶなど珍しい』
『……呼びたくなるときもあるさ。お前とは生まれたときから一緒なんだから』
 二十五年の付き合いになる。長く共にいた。
 だから、残りの余生はバルトがただひとりの男として生きていくべきなのだ。そのために、道を譲らねばならない。
『健やかでいておくれ。便りなど寄越さなくていいから、ただ健やかでいておくれ、バルト』
『約束するよ』
 その約束があれば充分だ。
『……野垂れ死ぬときは人目に付かぬところでな』
『勝手に殺すな』
 そうして他愛ない話をして、帰っていくバルトの背を見送ったのが最後。
 彼は、だれにもなにも告げず、冬のある夜明けに降り始めた雪と共に消息を絶った。

三 王命

 バルトと再会した翌日、王宮の応接室に二人の男を呼び寄せた。
 一人はヘイザー・アールハイド。もう一人はバルト・シュナイゼンだ。
「ヘイザー。甘いものは好きか?」
「はい。それなりには」
「レモンパイを焼いてきたから食え」
「シュナイゼン伯爵の作られたお菓子をいただけるなんて……」
「バルトだ」
 ソフィアがぱしりと扇を閉じてバルトを見遣る。
「御前、わたしにくびられたいのか?」
「お前は俺が丹精込めた手料理を食えないとでも言うつもりか?」
「狂うほどレモンを入れおって、なにが丹精か」
 ソフィアは、レモンが大嫌いだった。あの強烈な酸味と、なにをどうやっても拭いきれない苦味がとてつもなく苦手なのだ。
 だというのに、バルトという男はことあるごとにレモン菓子を作っては手土産だと言って持ってくる。それがこの男の誠意なのか嫌がらせなのかはわからないが、せっかく持ってきてくれたものを食べないという選択肢もない。
 渋々と口を付けるのだが、本当に絶望の味がするのだ。
「シュナイゼン伯爵の料理は美味しいと評判です」
「バルトだ」
「僕もいただいてよろしいのですか?」
「どうせソフィアはろくに食わねぇよ。好きなだけ食え」
「ありがとうございます、シュナイゼン伯爵」
「バルト、だ」
「はい、シュナイゼン伯爵」
 ぴくりとバルトの顔が引きつった。
 扇を広げ、楽しげにソフィアがその様を見つめる。ヘイザーは、圧倒的に立場の高いバルトに対して、できうる限りの礼節を持って対応している。しかし、バルトは貴族として扱われることを嫌ううえに、すでに捨てた爵位で呼ばれるなど御免被りたい、といったところ。
 バルトがレモンパイを切り分けてそれぞれの前に置くと、ソフィアは渋面を作り、ヘイザーは目を輝かせた。
「僕は、てっきりシュナイゼン伯爵に嫌われているものとばかり思っておりました」
「いますぐにでも嫌いになりそうだけどな」
「なぜですか。僕はずっとお近づきになれたらと思っていたのです」
「俺と?」
「はい。僕たちにとって、シュナイゼン伯爵は憧れの的でした。ご友人と並び立つお姿は凜々しく、お二人のようになりたいと願ったものです」
 嬉々と話すヘイザーに、ソフィアが眉をひそめる。まだ、その話題には触れていけない気がしたからだ。だが、バルトが「そうか」と笑った。
「話すこともままならないほど遠い存在だったシュナイゼン伯爵と、こうして向き合えるうえに、伯爵手作りのお菓子をちょうだいできるなんて幸せです。僕たち、仲良くやっていけそうですね」
「俺はものすごい勢いでお前を嫌いになってるけどな」
「どうしてですか! 僕もいつか伯爵の隣に並び立ち武勲を競い合えるように――」
「俺とお前が武勲を競い合うことはないし、バルトだって何回言えばわかるんだよ」
「はい、シュナイゼン伯爵」
 気は短いが物に当たったりしないバルトでも、さすがに今回ばかりはクッションを投げた。
「なあソフィア。こいつはわざとこんなことをしてるのか?」
「許しておやり。ヘイザーにはまったく話が通じぬと言っただろう」
「許せるか。ここまで通じねぇとは思わなかった」
「貴族として、貴族たるは務めだ。御前がいかに捨てようとも、多くの者にとって御前は侯爵家の嫡男で、シュナイゼン伯爵なのだ」
 侯爵が認めず、本人がどれほど厭ったところで、バルトはその運命から逃げられない。この男とてわかっていることのはずだ。が、承服しきれないこともあるかとソフィアは扇を揺らした。
「ヘイザー。こやつのことは名前で呼んでおやり」
「しかし……友人ではありませんし」
「ふふ。御前、バルトと友人になりたいのではないのか? 武勲を競い合い、拳を突き合わせ、胸倉を掴んで取っ組み合い、身長がいささか伸びたと城の壁に印を付けては父君に怒鳴られて追い回され、厨房に潜り込んでは揃って叱りつけられるような」
「うるせぇよ!」
 ヘイザーが、この世の終わりのような顔をする。
 その向かい側で、しかめっ面をするバルトを見て笑った。
「伯爵がそのようなことをなさっていたのですか?」
「俺だって年相応の子どもだったんだよ。悪さくらいする」
「士官学生時代、規律違反の罰として壁の落書きを消せと上官に命令を賜ったことがありますが、それがまさかあなたの仕業だったなんて!」
「おい、どこを突っ込めばいいんだよ。お前も結構な悪ガキじゃねぇか」
「あなたにだけは言われたくありません!」
 扇をゆらゆらと揺らしながら、ソフィアはその様子を眺めた。
 バルトの帰還は父に報告を済ませてある。今朝の会議で議題に上っていることだろう。そうなれば、この二人は大きく運命を揺さぶられることになる。国は、天賦の才を持つバルトを選ぶか、未知数のヘイザーを据えるか。
 昨日、バルトと別れたあと、ヘイザーの経歴や成績をあらためて読み直してみた。十三才で士官学校に入っているが、その際の座学試験は特級判定だった。武技試験は落第点だったが、総合判定で並とされている。
 つまり、ヘイザーが平凡だとされるのは、武技試験の成績が著しく悪いためだ。
 参謀部長官になれるだけの才覚……か。
 ヘイザーに負けたあの日、ソフィアはうっかり武器を投げ捨ててしまったが、あれも謀られたものだったように思う。武人として生きてきた者が、土下座をして懇願してくる人間を相手に武器を振るうことなどあり得ぬことだったし、なんとか別のもので勝負できるよう促そうとするのも自然なことだ。
 だが、最初からその勝負が始まっていたのだとしたら、ソフィアは完敗したことになる。真偽はどうだったのだろうか。
「俺は規律違反なんてしたことねぇぞ」
「はい。権力に物を言わせて規律を変えていく問題児だったと聞いています」
「人聞きが悪い。俺は正攻法で規律を変えたんだ。権力をちらつかせたことなんて数えるほどしかねぇよ」
「ちらつかせてるんじゃないですか」
「いいから黙ってパイを食え」
 フォークでパイを突き刺し、バルトがヘイザーの口へ押し込む。そんな様を見ながら、肩を震わせるソフィアに男が二人、揃って目を向けた。
「なんで男同士でこんなことをしてるんでしょうね?」
「まったくだな」
 そう言って、両隣を二人に囲まれてしまう。
「おい、御前たち。二人で楽しく言い合っていればいいのだぞ?」
「ご冗談を。ソフィア様、ほらあーん、してください」
「ふざけるな、わたしはレモンが嫌いだと言っているだろう!」
 正面からフォークに突き刺したレモンパイを押しつけるヘイザーから逃げていると、バルトに羽交い締めにされる。
「おい、バルト。これが女子に対する仕打ちか!?」
「俺の作ったものが食えないなんてつれないこと言うなよ。なぁ、ソフィア」
「みっ、耳元で喋るな、たわけ!」
 じたばたと暴れてみても、男二人に女が敵うはずがないのだ。むぐっとレモンパイを口に押し込まれる。
「ソフィア様。このまま僕と熱い一日を過ごしませんか」
「ふざけんな、ヘイザー。お前はとりあえず出て行けよ」
「出て行くなら伯爵のほうでは?」
「なんで俺が出て行くんだよ。目上の人間は敬えって教わらなかったのか?」
「なんなんです? さっきまではバルトって呼べって主張したくせに。ねえ、バルトくん」
「ぶん殴るぞ、お前」
 頭上で交わされる会話に、ソフィアはげっそりしながらレモンパイを飲み込む。もはや子どもの喧嘩だ。
「御前たち……」
「だいたいなんなんですか、あの落書きは! 蛇の絵を描いておきながら『馬』なんて文字で書いて、みっともない!」
「……それ、俺じゃねーな」
 そこでピタリと三人が動きを止める。
「王宮の東側の壁一面に蛇と毒沼と青空の珍妙な取り合わせの……」
「知ってるか、ヘイザー。東側には王族が住んでたんだ。壁の塗り替えでいまは南に移住してるけどな」
「ええ。それで?」
 二人がにやりと笑ってソフィアを見てくる。嫌な予感がする。というよりも心当たりしかない。
「王族の中にな。この世の物とは思えない感性で絵を描くやつがいるんだ」
「僕はその犠牲になったわけですね。ならばお仕置きをしないといけません」
「だよな」
 そこまで言われてソフィアがびくりと身を強張らせた。
 昔、バルトと久しぶりに遠乗りに出掛ける約束をしていたことがあった。だが、まだ仕官して間もなかったため彼は仕事に追われ、予定が中止になったのだ。それに不貞腐れて、壁に盛大な落書きをしたことがある。遠乗りに行きたかった。ラベンダー畑を見に行きたかった。そう、主張したつもりだったのだが。
 蛇と毒沼と青空……。
「ソフィア様。お覚悟はできましたか?」
 ヘイザーに詰め寄られて後退するも、後ろにはバルトがいるうえにすでにがっちりと羽交い締めにされている。
「あれは、ラベンダー畑だ。バルトと遠乗りに行こうと言っていた……だから、毒沼ではない」
「いえ、毒沼でしたよ。怖かったです」
 真顔で言われてうなだれる。たしかにソフィアは絵の才能がない。
「そんなに楽しみにしてたのに悪かったな。あの日の分まで可愛がってやるから」
「なんだ、可愛がるって! だいたい、あの日は数ヶ月ぶりに会えると言うから……!」
 楽しみにしていたのに、とごにょごにょ言うと、男二人に笑われてむっとする。
「はいはい、ソフィア様。そんなに可愛いことを言われたら僕が嫉妬しちゃいますんで」
「永久に嫉妬してろよ。ソフィアは俺と会うことを楽しみにしてたんだからな」
「何年前の話ですか、それ。だいたい、仕事を優先した人がドヤってるんじゃないですよ」
 今日の茶会は、二人が親睦を深めるいい機会になったはずなのだ。あの、落書きのくだりまでは。
「お、御前たち。今日はとりあえずお帰り。日をあらためてまた誘うから……」
「それは嫌ですね」
「嫌だな」
 こんなところばかりは無条件で気が合うのはなぜなのか。
「お開きにしようと言っているのだから帰らぬか」
「客がまだもてなしてほしいつってんだから、追い返すなよ。なぁ、ヘイザー」
「そのとおりです。まだまだ、日は長いですよ」
 日が長いってなんだ……。
 ソフィアは呆然としながら現状を理解することに努めた。が、たぶん無理だ。バルトが羽交い締めにしている状況というのがそもそもあり得ない。それにヘイザーまで妙に乗り気ではないか。
「……ソフィア様って、こういったことにまるで免疫がないですよね」
「ど、どういう意味だ」
 ヘイザーの手が頬に当てられ顔を寄せられる。
「ちょ、ちょっと待て。近……」
 吐息が触れ合う距離まで近づけられて、目を瞑った。が、ぎゅむっと押し当てられたのはたぶん唇ではない。
 目を開けてみるとバルトの手に口を塞がれ、同時にヘイザーを押しのけている。
「なあ、ヘイザー。こいつは俺がずっと大事にしてきたんだよ。キスなんて簡単にするな」
「それ、ただの意気地無しだったのでは」
「上等だ。一勝負するか?」
「ポーカーなら受けて立ちますよ」
 なんとも平和的な勝負だ。ソフィアやバルトが提案すると、だいたい訓練場で勝負をすることになる。こういった平和的な思考を持つヘイザーに魅力を感じるのも事実だ。だが……。
「バルト、手を離しておくれ」
「ああ、悪い」
 この圧倒的な存在感を放つバルトを蔑ろにできないのもまた事実。
 国の決定が自分の将来を決める。国はどちらを選んだのか。
 早く返答が来ないだろうかと待ちわびてしまう。結果を聞くのは相応に怖さもあるというのに。自分では選びきれない未来が突きつけられてしまった。ここから先の未来は、だれかに決めてもらったほうが――。
 部屋の扉が打たれ、顔を上げた。国の回答がもたらされたのだ。

 父から呼び出しがあり、玉座の間へと向かう。ヘイザーとバルトも伴ってくるようにとのことだったが、玉座の間に呼ばれたということは正式な通達が出されるのだろう。
 扇を握り直し、玉座の扉を開く。
「父上。召喚に応じ参じました」
「早速だが、バルト・シュナイゼン帰還による次期王位継承者選定についての審議結果を伝える。ソフィアよ、近う」
 言われるまま玉座の階段を上り、父の傍へ立った。頭を垂れて一礼をすると、父がソフィアをじっと見据えてくる。
 そして、声を低めて言った。
「もしもお前の心が決まっているのであれば、それを優先させることとしよう。お前の本意は?」
「……正直に申し上げます。ヘイザーについては未だはかりかねるところがあるのは事実です。かといって劣っているのかと言われるとそうでもないように感じております」
「つまりは決めかねていると」
「左様です」
 ヘイザーの能力は底が見えない。話を聞かない男なのだが、先ほどのバルトとの対話を聞いている限りではまったく通じないわけでもない。しかし、ソフィアとあそこまで会話が成立しないのだ。
「議会でも、意見が二分した」
「……え?」
「元宰相を据え直すのが妥当とする意見もあった。放蕩気味であることは否めないが、出自も、経歴も能力も、なにひとつ問題がないのだから当然だ。しかし、ヘイザー・アールハイドを推す声が想像以上に多かった」
 それは、ソフィアが選んだから……というわけではないだろう。バルトを良しとする声がいまだある中で、ソフィアの意見が尊ばれるはずもない。となれば、ヘイザーの能力そのものを評価している者が多くいるということだ。
「ヘイザーの評価について、元来の成績は優秀で、宰相という地位に就けるのであればあるいは適任とさえ思うのですが……いかんせん話を聞かぬのです」
 それでも、ヘイザー良しとする者がいる。彼を、国王にと考えている者がいる。
「ソフィア。お前はバルトに恋をしていたのではないのか?」
 本当に、淡い慕情だった。そんな気持ちを抱いていたことは否定しないが、その炎は消えてしまったのではないだろうか。
「わたしが抱いている感情を、恋と呼んでいいのかどうか……」
 ヘイザーが、ソフィアはこういったことに免疫がないと言った。それはつまり、色恋の沙汰ということ。たしかに、キスのひとつもしなかったのだ。疎くて当然。
「それを教えてくれるのはバルトかヘイザーか……だれにもわからぬだろうな」
「そう思います」
「なれば、ソフィアよ。お前に議会の回答を伝える」
 背筋を伸ばして言葉の続きを待った。手のひらにじっとりと汗が滲む。
「どちらかと子を成せ。その相手がこの国の次期後継者となる」
「は……はい。そのように……」
 頭が真っ白になった。だが、食い下がって聞くようなことでもないように思えて、父に頭を垂れたあと、階段を下りていく。
 そして、バルトとヘイザーの前に立った。
「なんだって?」
「……その、御前たちと子を成せと。その相手が次期後継者だと……おっしゃった」
 最初に吹き出したのはヘイザーだ。
「シュナイゼン伯爵。先ほどの勝負は僕の勝ちです」
「ったく……。お前、情報をあらかじめ持ってたんじゃないだろうな?」
「ご冗談を。僕、やる気だけは常にゼロですから」
「無才よりよっぽどタチが悪い」
 玉座の、王もいる目の前で平然と銀貨を受け渡しする男たちを見つめて、ソフィアはため息をついた。
「なにをしていたのだ、御前たち」
「議会の回答を賭けていました」
 それで、ヘイザーが勝ったということか。
「……御前たちはそれでいいのか?」
「俺はいいぜ。ヘイザーにその気概があれば……だけどな」
 いつも消極的な男だが、この勝負を受けるだろうかと、ちらりとヘイザーを見た。
「もちろん、受けて立つ所存です」
 クスッと笑うヘイザーを、はじめて見たかもしれない。
 ああ……そうか。この男は闘争心を完全に隠すことができるのだ。
 バルトは、隠しても隠しきれない闘争本能が垣間見えるが、ヘイザーは無欲ゆえに秘めた闘争心を見極めることができなかった。
 くるりと玉座を振り返る。
「父上。我々は臣らの回答を真摯に受け止める所存です」
 そう答えて玉座の間をあとにした。

「ご老体たちはよほど必死と見える」
 部屋に帰る道すがら、バルトがそんなことを言って笑った。
「そりゃあ必死にもなるんじゃないですか。後継者問題をまずは解決しないといけないわけですし」
「国の仕官者ってのはいつも競争に次ぐ競争だが、こんなところでまで競わせるってのはさすがに焦りすぎだ」
「それを伯爵が言います? あなたが出て行かなければこんな騒動にはなってなかったんですけど」
「お前が出てこなきゃ俺は数年で戻ってソフィアと契りを交わしてたさ」
「ソフィア様が寛容だからって、待たせるにも程がありますよ」
 男たちの会話を聞きながら、ソフィアは身体が重くなるのを感じる。
 これまで、カルナレス王国の歴史で後継者の危機に瀕したことは幾度かあった。しかし、後継者候補を二人も召し抱えた王女は前代未聞だ。
 これにどう決着を付けろというのか。子を身籠もればそれで安泰か? しかし身籠もったところで相手がどちらかなどわかるはずもない。では生まれてから決めるのか? それで納得をするだろうか。
 それでなくても、現状意見を二分している状況だ。ヘイザーへの判断を下せなかったこの一年弱とはわけが違う。
 のんびりとどちらを選ぶかを迷っている暇はないだろう。
「……子作りか……」
 ぽつりと呟くと、ヘイザーがぱっと笑顔を見せて振り返った。
「ソフィア様、僕とまずは子作りに励みませんか」
「い、いや……励みたいという話ではないのだ……」
「では僕と愛し合いますか? それでも全然」
「違うのだ、ヘイザー。ただの独り言だから……」
 いちいち話を拾わないでくれと言いかけたが、ヘイザーがぎゅうっとソフィアを抱きしめる。
「心の準備ができるよう、湯浴みをご一緒しましょう」
「違うと言っているだろう」
 ぐいぐいとヘイザーを押しのけていると、バルトが可笑しそうに笑う。
「ヘイザーとは一緒に過ごしたくないとさ」
「いや、バルト。そういうつもりで言っているわけではない」
「ソフィアの最初の相手は俺のはずだろ」
「ちょっと待て。御前までなにを乗り気に……」
 いままで色恋の切片すら見せなかった男の戯言はさすがに心臓に悪い。
「どちらにもチャンスがあるのはいいんですけど、どちらがソフィア様のはじめてをいただくかは真剣に考えないといけませんね」
「はじめて……!?」
 ヘイザーがしれっとそんなことを言うから、本気で押しのけて後ずさった。
「ソフィア様ってば本当に免疫がない。可愛いなぁ」
「かっ……、ば、ばかもの……からかうな」
 顔が熱い。なんだ、この気恥ずかしさは。
「……ヘイザーにくれてやるのは惜しいよなぁ」
「バルト! 御前も悪ふざけがすぎる……」
 勢いで反応してみたが、バルトはいたって真剣だ。この男……こんな顔をするのか。
 ずっと知らなかった、男としての顔を見た気がする。
「こういうことは俺らが決めることじゃないだろ。ソフィアが、最初の夜をどっちと過ごしたいか決めればいい」
「御前たちは本気でそんなことを言っているのか?」
 最初の夜を過ごす?
 これまで、そんな対象として見られたことがなかったから、性技の講義は話半分くらいにしか聞いてこなかった。普通であれば、ある程度の年齢で結婚し、初夜を迎える。しかし、バルトは国にかかりきりだったため、結婚を後回しにしたのだ。
 だから、結婚が決まってから覚え直せばいいと高を括っていた。緩やかに続く日常の延長にそれらがあると思っていたからだが、こんなにも急に事態が動くとは思わなかった。
「そりゃ本気だろ。薄情な元婚約者と、さっぱり話を聞かない婚約者候補と。どっちもろくでもねぇな」
 バルトとヘイザーが顔を見合わせて笑う。
「いっそ三人でします?」
「あー、でもそれは結局どっちが先かって話で揉めるだろ。解決にならねぇよ」
「でしたらもう、適当に決めちゃいますか? カードなら僕負けませんけど」
「なんでもかんでもカード勝負にするんじゃねぇよ。まずは殴り合ってからだろ」
「言動がめっきりならず者ですけど大丈夫です?」
 とんでもない話が頭の上で交わされる。これだから上背のある男は……と扇を握り締め、ふと思った。
「なあ、御前たち。これで決めても良いか?」
 扇をひらひらと振ると、二人が揃って眉根を寄せた。
「扇を畳んだ状態で倒してみよう。向いた方向で相手を決めるのはどうだ?」
 照れて恥ずかしがったところで、父から下された命令は絶対なのだ。バルトかヘイザーか。どちらを選ぶにしても、どちらとも身を交わさねばならない。ならば、自分で決めるより運を天に任せるほうが気楽でいいだろう。
「僕はかまいませんよ」
「俺も特に異存はない。ソフィアのいいように決めてくれ」
「わかった。では、これで……」
 その場にしゃがみ込み、扇を床に立てた。左にはバルト。右にはヘイザーがいる。
 まっすぐ立てて、どちらにも不平等がなさそうな位置で手を離す。
 扇は、パタンと左側へ倒れた。

(――つづきは本編で!)

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