作品情報

キスしてください、聖女様~策士な年下王子様の甘く蕩ける初恋戦略~

「そろそろ諦めて――僕のものになって?」

あらすじ

「そろそろ諦めて――僕のものになって?」

人並みの能力を持つ聖女のアイリーンは、突然王宮を解雇されてしまった。
最後の別れを告げるため、仲良しで特別な存在であるフィニアス王子の元へ訪れると、彼は笑顔で切り出す。
「アイリーンが隠してる力で、僕を治療してよ?」
彼女が隠していた強大な力、それはキスによって発動する能力『治癒』であった。
秘密が知られたアイリーンは動揺し、戸惑いながらもキスを許してしまい……?

作品情報

作:小達出みかん
絵:稲垣のん

配信ストア様一覧

本文お試し読み

一◆突然聖女をクビになりました

「アイリーン・ルドヴィカ……二七歳、Bランクで聖紋はなしね。申し訳ないけどあなたは聖女失格。ライセンスを返納してちょうだい」
 聖女協会の受付の向こうに座るミセスは、不愛想にアイリーンに言った。きっと昨日今日で同じことを一〇〇回くらい聞かれて、うんざりしているんだろう。
 それでも、アイリーンは食い下がった。
「ま、待ってください。私は王宮で聖女として長年働いてきたんです。ちゃんと聖なるギフトも保有しています。どうかランクを上げて、ライセンスを維持できるようにはしてもらえませんか。突然そんな……困ります。うちにいる他の聖女たちだって……!」
 はぁ、とため息をつくのを、ミセスは隠そうともしなかった。
「B、Cランクの聖女は今日より廃止です。無資格になりますから、王宮だろうがどこだろうが、聖女は辞めてもらうよりほかありませんね。例外は認められません。上のお達しなので、私に言われてもこまります」
「そんな……」
 立ち尽くすアイリーンを無視して、彼女は無情に言った。
「はい、次の方!」
 たしかに、彼女はただの受付の職員だ。ここで粘ってもしょうがないだろう。アイリーンはあきらめて、聖女協会の建物を出た。白亜の尖塔《せんとう》と鐘楼《しょうろう》を持つ、美しくも荘厳なそのたたずまいを振り返って仰ぎ見る。少女時代、アイリーンは決して豊富ではない中この場所に通い、自らの聖なる力をコツコツ鍛え、聖女ランク『B』の資格を取ったのだった。
(女が一生、食べるのに困らない職っていったら……この国では聖女しかないもの)
 このエーデルシュタイン国では、ギフト能力を有する少女を『聖女』に育て、国の中枢や様々な機関に派遣するシステムがあった。女とはいえ公職扱いで、長く続けられるこの仕事を、アイリーンは定年まで勤めあげるつもりだった。
 アイリーンはとある事情により、生涯結婚せず恋人も作らないと決めていた。なのでこの『聖女職』を剝奪されるのは大きすぎる痛手だった。
(どうしよう……おまんまの食い上げ、ってやつね)
 建物の前の掲示板には、ものものしい字で今回の沙汰が書かれている。ギフト能力が微力であるため、今後はB、Cランクの聖女は廃止とする、と。
(……私、クビになるのかな)
 十二年務めた職場なのに。そう思いながら、アイリーンはとぼとぼと王宮の聖女詰所へと戻った。
「ルドヴィカ。結果はどうだった?」
細長い礼拝堂のドアの前で、アイリーンの上司である男が待っていた。
「レッド長官……申し訳ありません、ダメでした」
 黒い外套を羽織った長身の彼は、上からアイリーンを見下ろした。ぴしりと隙なく着こなされた黒の三つ揃えに、ほのかに香る香水。撫でつけられた黒髪は一部はらりと目の横に落ちていて、そこから大人の色香がにじむ。彼はそんな人だった。
彫りの深いその顔立ちに、苦笑いが浮かぶ。
「そうか……まったくいきなりで困るね。君にいなくなられるわけにはいかないよ」
 そう言う笑みには、大人の余裕と、アイリーンに対する親しみが感じられた。
 アイリーンは、長いことこのダグラス・レッドの直属の部下だった。二人は、様々な苦楽を共にしてきた。仕事以外のことでも。
 しかしアイリーンは、レッドのまなざしからそっと視線を外した。ここは礼拝堂の前。中にはたくさんの同僚の聖女たちもいるし、前庭は頻繁に人が通る。
(誤解されたくない。もう、長官とのことは、過去のことなんだから……)
 十二年も働いていると、職場には様々な人間関係やしがらみができる。アイリーンの周りにも、さまざまな人間関係の歴史が積み重なっていた。最近はそれらのせいで、だんだん身動きが利かなくなってきてるのをまざまざと感じてきていた。
「ですが……私はもう、聖女を名乗れなくなりました。なので、王宮にとどまるのは難しいかと。それよりも、後輩たちにどうにかとどまれるようなお沙汰を」
 自分はともかく、後輩たちを路頭に迷わせるわけにはいかない。アイリーンが目線を合わせずそう言うと、レッドはぐっとアイリーンの肩をつかんだ。
「そんな弱気でどうする。待っていろ。まずは君だ。私が今、協会のもっと上の方に掛け合ってくるから」
「長官、待ってください」
 しかしアイリーンの言葉も聞かず、レッドは上等のカシミアの外套の裾を翻して去ってしまった。その瞬間だけ、ふわりと甘くスモーキーな香りが残る。レッドが愛用している香水の、ムスクの香りだった。それを感じた瞬間に、場違いなうしろめたさを感じて、アイリーンは思わず首を振った。
(終わったこと……大丈夫、長官も私も、ちゃんとした、大人同士なんだから)
 その残り香を振り払うようにして、アイリーンは聖女詰所へと入っていく。中では聖女たちが、みな上へ下への大騒ぎをしていた。アイリーンの姿が見えた瞬間に、後輩たちがまわりに群がる。
「ルドヴィカ主任……! 私、辞めることにします」
 周りの聖女もうなずいたのを見て、アイリーンはめまいがしそうになった。
「ま、待ってちょうだい。そんなに急ぐことはないわ」
「でも、協会にせっつかれて、私たちもうライセンスを返納してきちゃったんです。だからもうここじゃ続けられませんし」
 きっぱりと彼女は言った。後輩の中には、アイリーンが採用からかかわり面倒を見てきた子らもいる。それを思うと、アイリーンは歯がゆく、また彼女らにたいして申し訳なかった。
「ごめんなさいね……せっかく就職したのに、こんなことになって。でも、ここをすぐに出ることはないわ。次の居場所が見つかるまではとどまれるように、私が上に掛け合うから。あなたたちが路頭に迷うようなことは、とてもさせられないわ」
 アイリーンが言うと、後輩たちは首を振った。
「いいえ、主任が謝ることじゃありませんよ。しょうがないことですから」
「平民だけど、一時でも王宮で働けたって箔がつきましたし!」
「紹介状も書いてもらえるらしいから、さっさと次を探そうって話してるんです」
「私なんて、もう決めちゃいました!」
 あっけらかんという後輩らの強さに若干圧倒される。若いって、強い。
「そ、そうなの……」
 すると後輩の一人は、心配そうにアイリーンを見上げた。
「主任もやめるんですか? それとも、どうにかして残るとか?」
「どうかしら……私ももう、ライセンスはないから」
 後輩らとちがって、いまだに答えの出ていないアイリーンはちゃんと答えることができなかった。すると彼女たちはささやく。
「主任も辞めた方がいいですよ! 言っちゃアレですけど、私たち、働きすぎでしたよ。王宮だからって期待してたけど、お給料は大したことないし、貴族組はさぼってばっかりのくせに偉そうだし」
 その言葉を皮切りに、不満の言葉が次々他の子たちからも漏れだす。
「そうですよぉ。同じ聖女なのに、いろんな仕事こっちに押し付けて。私たちと違って生活がかかってないから、やる気も責任感もないし」
「主任が辞めたら、きっとあの人たち困りますよ。ぎゃふんと言わせてやったほうがいいです」
 おしゃべりスズメのようなかしましいその声に苦笑いしつつ、否定しようとしたその時。後ろから高圧的な声がした。
「あ~ら、何も困らなくってよ。どうぞさっさとおやめになって? ミス・ルドヴィカ? だって役立たずなのはそちらだもの」
 それを聞いた後輩たちの目がきっと吊り上がる。辞めるつもりの彼女らは、もう遠慮するつもりはないだろう。それを見越して、アイリーンは薄い微笑みを作って後ろを振り向いた。
「お疲れさまです、ヴェリテさん」
「いいえ、疲れてなんかないわ。それで? あなたも辞めるんでしょう? いいことじゃない」 
 ヴェリテは、ゴージャスな金髪を手でかきあげながら微笑んだ。その手には、白く輝く文様が浮かびあがっている。Aランク以上の聖女にしかないそれを見せつけるように手をひらりと振った後、ふんとアイリーンを見下ろす。
 彼女はヴェリテ伯爵家の娘で、王宮で出仕したいという希望のため、裏ルートで就職してきた人材だった。聖女は貴族の子女にとっても名誉な職であるので、結婚前に箔をつけるために出仕しているお嬢様も多かった。しかしヴェリテに限っては、別の強い理由があり――。
「あら、親切で言っているのよ。高望みばかりしていたら、婚期を逃してしまいましてよ? 主任も、もうお若くないんですから」
 嘲りの笑みをかくそうともせず、彼女は言い放った。
「平民は平民らしく、城下であくせく働くべきだと思いません? もう二度と、レッド様の周りをうろつかないでくださいませ」
 するとアイリーンの後ろから、後輩聖女たちのクスクス笑いがする。
「主任がいなくなったら、自分が長官とどうにかなるって思ってるってこと?」
「ポジティブ~(笑)」
 すると、ヴェリテの眉が吊りあがり、顔が真っ赤になる。
 こんなところで、彼女と喧嘩している暇などない。アイリーンは後輩たちを軽くたしなめる目で見たあと、彼女に向き直った。
「もし私が去ることになったら、長官の直属の聖女の座も空きます。なのでヴェリテさん、その場合はよろしくお願いいたしますね」
 軽く頭を下げて、アイリーンは自身の詰め所へと足早に戻った。

 一応主任だったので、アイリーンの机の引き出しの中には、そこそこの重要な書類やリストがしまわれている。鍵を開けてその一番底にあるライセンスの免状を取り出しつつ、アイリーンの脳裏には、それらの処理の手順が浮かぶ。
(この、国内外で発生した病気リストは貴重だから、誰かに引き継がないと。それにこれは、フィニアス王子のご病状の記録……重要機密だから、長官に預けるべきかしら)
 そんなことを無意識に考えて、アイリーンははっとした。
(やだ、私……みんなにつられて、すっかり辞める気になっちゃって)
 はぁとため息をついて、アイリーンは重要書類を引き出しに戻して鍵をかけた。
 先ほど協会を訪ねた時は、どうにか聖女を続けられないかと考えていたのに。
 何しろ、一五歳の時からずっとここで働いてきたのだ。他の仕事など考える暇もないくらい、必死で与えられる仕事をこなしてきた。
(だってそうでもしないと、私は……生活していけないんだから)
 アイリーンは現在、天涯孤独だった。父は幼少時に、母は若くして亡くしてしまったからだ。だから自分で働いて食い扶持を稼がないと、生きていけない。
 なので一生懸命、ありついたこの仕事にしがみついた。頼まれた仕事を、頼まれた以上にこなそうと努めてきた。結果、平民でありながら王宮内聖女詰所の主任を命じられるまでになった。
(けど、でも……)
 こんな簡単なことで、自分には非がなくとも解雇されてしまうのだ。そう思うと、アイリーンの頬にあきらめの笑いが浮かぶ。
(そりゃ、そうよね。だって私はただ単に、雇われてるだけ。聖女でなくなれば、雇うメリットもない。それに……)
 無意識に、アイリーンは指先で自分の唇に触れる。アイリーンはこの奥に、誰にも言えない秘密を抱えていた。
(ここを使わなければ、たしかに私の癒しのギフトは微力。やっとBランクで、かすり傷を治すのがせいぜい)
 アイリーンは唇に触れた手をすっと放した。この奥に眠っているかもしれない力を、アイリーンは一生使わないつもりだった。
(そう……お母さんと、約束したもの)
 
 アイリーンとその母、オーガスタの不幸は、その口の中に抱える『特級ギフト』に端を発していた。
 一度キスをすれば、どんな怪我も、病も癒せる奇跡のような力。歩けなくなった足も、不治と言われた病気も治すことができるのだ。一見、素晴らしい力をもっているように見えるだろう。実際、この力をうまく利用して生きていけば、億万長者も夢ではないかもしれない。
 しかし、そんなことは不可能だった。あまりに大きな力ゆえ、使ったあと数日は、何もすることができない。乱発すると、生命にもかかわる事態になる。
 こんな特殊な力が、貴族でも大聖人でもない、普通の村娘であるオーガスタに宿ってしまっていたことが不幸の始まりだった。能力が露見したとき、当然オーガスタの周りでは争いが起きた。
 ――お願い、息子の病気を治して!
 ――いや、私の赤ん坊が先よ! 
 ――何を言うの、私の息子は今にも死にそうなのよ。どちらか選んで! 
 ――赤ん坊を見捨てるつもり!? この魔女め――!
 噂は遠くの町まで伝わり、オーガスタの能力欲しさに、さまざまな者がやってきた。貴族に、王族に、将軍に、豪商に――。しかしオーガスタはどの誘いも拒否した。これ以上の争いごとはごめんだった。それに、お金と引き換えに、権力者にキスを売るのは拒否感が強かった。オーガスタが心からキスを許すのは、天にも地にもただひとり、夫のルーファスだけであったから。
 しかしルーファスは兵士でも貴族でもない。しがない大工でしかなかった。せまりくるさまざまな危険勢力から、オーガスタを守りきることなど、とうていできることではなかった。
『邪魔な夫は死んだ。これでそなたも、心置きなく我が主に仕え、癒しの口づけを行うことができるだろう!』
 ルーファスを殺し、無理やり自身を連れ去ろうとした騎士たちから、オーガスタは命がけで逃げた。幼いアイリーンを抱えた逃避行は、つらく厳しいものだった。しかし、同じようなわけありの人々がひしめく王都の裏路地にやっとたどり着き、そこで雑役婦として働き、日々の糊口をしのぎアイリーンを育て上げた。
 オーガスタは早くに、娘の口の中にも同じ能力が眠っていることに勘づいた。
 アイリーンは小さいころ、よく言われたものだった。
「いい、絶対に誰にもキスをしてはだめよ。この力はとても強いけれど、自然の摂理からはずれる、恐ろしいものなのよ。だから、悪い人間が、それを欲しがって群がってくるの」
「……せつり?」
「そう。ひと一人の命の長さは、それぞれ決まっているものなのよ。それを無理やりに伸ばせば、きっとどこかで、別の人にバチがあたるのよ。だから……だから、」
 震えながら、オーガスタは口にした。
「求められるままに、私が考えなしに、この力を使ったせいで……かわりに、ルーファスが……。だからアイリーンは、この力を使ってはだめ。あなたにも、私にも、このアパルトマンのみんなにも――不幸が降りかかってしまうかもしれないの」
「……不幸? おとなりのベッキーにも、マイケルにも?」
 そう尋ねると、母は真剣にうなずいた。
「そうよ。あなたも覚えているでしょう――お父さんがいなくなった日のこと。また同じことが起こってしまうの。だから、誰に頼まれても、絶対にキスをしてはダメ。されそうになったら相手の舌を噛んで逃げなさい」
 まだ記憶もろくにないころだったが、父を殺された光景だけは、アイリーンの脳裏にしっかりと焼き付いていた。アイリーンは心の底から恐ろしくなった。
(私がキスをしたら――あんなに恐ろしいことになってしまうんだ)
 それなら、絶対に誰にも、唇を許さないようにしよう。幼いころにしたその決意は固かった。だからアイリーンは、自分のギフト能力を過少に偽って、聖紋のないBランク聖女として働いていたのだった。

(ある意味で、私はライセンスを偽装していたわけだから……こうして解雇されるのも、仕方ないのかもしれない)
 だからこそ、アイリーンは休む間もなく王宮でくるくると働いてきた。聖女としては力が弱いから、そのほかのことで役に立たないとクビを切られてしまうと思ったからだ。
 その頑張りは、雇う側からすれば、ささいな働きだったかもしれないが――アイリーンは逆に考えてみることにした。
(十二年間、能力は低いけど必死に働いた。うん、これってなかなかのことよね。この経験はきっと、転職しても役に立つ)
 クビになってしまったものは、仕方がない。ここを出て、また一から始めよう。やっとそう吹っ切れたアイリーンは、免状を手に立ち上がった。
(今すぐ、返しにいこう。それで、次の仕事を探すんだ。きっと紹介状が役に立つはず……)
 辞めるんだ。そう決めたとたんに、アイリーンの足取りは心もち軽くなった。
 もう、あのヴェリテともやり合わなくていいし、レッドをはじめとしたさまざまなしがらみから――解放されるのだ。
 
 数日後、旅立つ後輩たちを見送ってから、アイリーンも出ていく準備を始めた。聖女宿舎の自室に置いてあった私物をまとめると、きっちりトランク一つに収まった。ずっとルームメイトだったデイジーが、それを見て目を丸くする。
「十二年もいて、よくもまぁ」
 アイリーンは笑って肩をすくめた。
「あんまりものを買う余裕もなかったから」
「確かに、忙しかったものねぇ……。ねぇ、ほんとうに行っちゃうの?」
 わずかにデイジーが首をかしげてアイリーンを見上げる。まんまるの緑の目に、茶色いおさげ。下級貴族の出で親しみやすい彼女とアイリーンは、長いことウマの合うルームメイトだった。そんな彼女にだけは、アイリーンも少しばかり本音を漏らした。
「ええ。実はすっきりした気分でもあるの。ずいぶん長いこと勤めて……いろいろあったから」
「それはわかるけど……アイリーンがいなくなったら大変なことになるだろうなぁ」
 ため息交じりにデイジーは言う。
「それに、私さびしいよ」 
 にこっと少し笑ったその眉は下がっていた。こんな風に素直に気持ちを口にだしてくれる彼女に、アイリーンはいつも心をなごませていたものだった。
「ええ、私も。これから一人で暮らすんだと思うと、とても寂しいわ」
 デイジーがアイリーンの背に手をまわして、ぎゅっと抱きしめる。
「ね、外で働き始めても、会いに行っていいでしょう? 手紙をちょうだい」
「もちろん……すぐに送るわ」
 最後に念入りに、自分のスペースを拭き清め、アイリーンは鞄を下げて部屋を出た。すると廊下の壁にもたれて、レッドが待っていた。目が合うと、彼は身体を起こしてアイリーンに向き直った。
「レッド長官、長い間お世話になりました」
 何かを言われる前に、アイリーンはすっと頭を下げた。彼への感謝は、ほんとうだ。
「たくさん助けていただき、感謝しています。長官のおかげで、長いこと勤めることができました」
 その言葉に、レッドの顔が切なげにわずかにゆがむ。
「よしてくれ。ミス・ルドヴィカ……いや、アイリーン。ここを出てどこへいくんだ。行く当てはあるのか」
「いただいた紹介状があるので、活用させてもらいたいと思います」
 そう言っても、レッドはまだ心配そうな顔をしていたので、アイリーンは明るく言った。
「大丈夫です。ここで鍛えられましたから、どんな場所でもやっていけます。どうかご心配なく」
 しかし、レッドは笑い返してはくれなかった。
「そう言われて、はいそうですかと納得すると思うかい。今からでも遅くない、君がここに残れるよう手だてはいくらでもある。それとも、館を用意しようか。俺の領地になら、どこでも空いている城に――」
 アイリーンはそれをきっぱりとさえぎった。
「いいんです。未練がないとはいいませんが――私は自分の意志で出ていくのです。そろそろそういう時期かなと、思ったので」
「……そんなことはないよ、アイリーン」
 アイリーンは苦笑してレッドを見上げた。
「長官らしくないですね。いつも、部下の意見を尊重してくれたじゃないですか」
 少しうろたえたレッドに、アイリーンは微笑んだ。心からの笑みだった。
「長官には、個人的につらいときにも助けてもらいました。本当に、ありがとうございました」
 彼と恋人だったのは、もう過去のこととなった。しかし受けた親切がすべて消えるわけではない。今アイリーンの中には、感謝のみがあった。
 一瞬の沈黙のあと、レッドは諦めたように笑って言った。
「そうか。決めたんだな。なら、受け入れよう」
 その表情は、残念そうではあるが、穏やかだった。ここが彼の好かれるところだった。どんなに意見がぶつかっても、決して無理強いはせずに、相手を尊重する。たとえ自分の希望とは逆のことでも。
 ――そんな大人の優しさが、いつもありがたかった。
「はい、レッド長官」
 吹っ切れたように彼は手を差し出した。
「荷物を門まで持とう。馬車は手配してあるか?」
 アイリーンは首を振った。
「いいえ、このあと他の方々にもご挨拶に伺おうと思いますので、そのあとで」
「そうか、手配は私がしておこう。最後だしな」
 これくらいは、甘えてもいいだろう。そう思ったアイリーンは素直に礼を言った。
「ありがとうございます」
「ああ、最後とは言ったが……まさかもう、私と会わないとは言わないね? 時々は顔を見にいってもいいだろう。食事でもどうだい。もう、上司と部下でもないからね?」
 茶目っ気のある口調で、そんなことを言ってくる。さきほど真剣な顔をしていたと思ったら、すぐにこれだ。
「誰かれ口説くその癖、いかがかと思いますよ」
「誰にでもじゃないさ」
「よくおっしゃいます」
 いつもの調子で軽口をたたきあいながら、アイリーンは王宮の前でレッドと別れた。
(フィニアス様にご挨拶しないと。ええと……呼び出されたお部屋はあちらね)
 かつてレッド長官の下に就く前は、アイリーンはこの国の王子・フィニアス付きの聖女のひとりであった。そのころ彼女はまだ新人で、王子は七歳の子供だった。その時のことを思い出すと、甘酸っぱいような懐かしいような気持ちになる。フィニアスはとても愛らしいが――とても手を焼く子どもでもあった。
 彼はなぜか、城の自室ではなく、園庭の奥まった場所にある離宮を指定してきた。木々と花々に抱かれた生垣の中に建つその館は『妖精の隠れ家』と宮廷人の間で呼ばれていた。先代の王が作った場所らしく、小さい演奏会や、気取らない夜会を開くための小さな離宮だった。

(――つづきのお試し読みは各ストア様をご覧ください!)

  • LINEで送る
おすすめの作品