「……だけどアナベル、俺は会いたかった」
あらすじ
「……だけどアナベル、俺は会いたかった」
莫大な借財が発覚し、急速に没落してしまった伯爵家の元令嬢アナベル。暮らしは変わったものの、自立した生活に幸せを見つける毎日。しかし、彼女の胸を締めつけるもの……それはかつての恋心だった。ある日、侍女育成のための家庭教師をしていたアナベルは、紹介先の職場に出向く事となった。そこにはなんと、次期侯爵のヴァラク――没落と同時に失われた婚約関係、愛し続けたアナベルの元婚約者がいた。すると突然、ヴァラクは彼女を抱き寄せるなりくちびるを重ねてきて――
作品情報
作:日野さつき
絵:北沢きょう
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「ここに挟んだら、どんな感じかな」
熱を帯びた声が囁き、さらに熱い手のひらが乳房を弄ぶ。
彼の指が柔肉に沈んでいく。
かたちを変えられていく乳房を、アナベルは眼下にしていた。
赤い果実を戴いたふたつの双丘はアナベルのものであり、肌を伝う快感は現実のものだというのに――すでにそこは彼のものだと実感している。
おたがいとうに服は脱ぎ捨て、書架の奥の暗いソファで肌を密着させている。こすれ合う肌の感触だけでも、頭の奥が灼けつくような興奮があった。
のしかかった彼の下腹部では、男性がこれ以上ないほど張り詰めている。数度彼を淫肉に受け入れたが、いつもすばらしい体験だった。焦燥感に似た痛みなど物ともしない悦びがあった。
気持ちを向けた相手の劣情の記憶は、アナベルから拒む言葉を奪っている。それでも彼が求めるなら、と体裁を保とうとするものの、アナベルもまた彼に劣情を抱いていた。
「あ……っ」
揉みしだかれていた乳房、その先端に彼のくちびるが吸いついた。
端正な顔を歪め、彼が乳房に夢中になる姿に、アナベルの淫裂が重く疼いていく。
前回彼に肌を求められた後から、アナベルは身体が疼きもどかしい時間を過ごすことが度々あった。
疼きが起こるのは、彼がそばにいるか、彼のことを思ったときだ。
「ぅん……っ、っん、……あ……っ」
異変はそれだけではない。
前回の蜜事でアナベルは、彼を受け入れて快感を覚えていた。
蜜で潤った淫肉を彼に押し開かれ、思うままの抽挿に身を任せたとき、アナベルは全身が蕩けてしまうのでは、とおののいていた。彼にすがりつき、合わせて腰を蠢かせてしまいそうになったほどだ。
「っ……、も、あぁ……んっ」
自分がもっと深い淫楽を求めている、と彼に悟られるのが怖い。ふしだらだと軽蔑されたら――不安とない交ぜになった獣欲は、アナベルの口から言葉になって出ていた。
「ひ、ひとが……来たら、困るから……っ」
くちびるが乳房から離れる。揺れる彼の双眸は、狂おしいほどの欲望に揺れていた。
「だから……誰も、こない間に……」
声は消え入りそうで、しかしアナベルはみずから双脚を開くことで伝えようとした。
「アナベル……っ」
それは違わず伝わっていた。
身を起こした彼の荒々しい腕にひざを大きく開かれ、アナベルはその怒張を押しこまれた。
1
割れた皿を前に、アナベルは身を強張らせた。
「あ――」
長い息を吐き、良いことを探してみる。
皿は割れてしまったが――食事は終えていた。
食べ物を無駄にしないで済んでいる。それはとても良いことだ。アナベルはスープの一匙たりとも無駄にしたくない。近所の農家が分けてくれた野菜を煮込んだスープは、とてもおいしかった。
大きな破片を手に取ると、まだ表面がスープの水分で濡れている。
もうこの皿でスープを飲むことはない。
良いことを探したのに、結局暗い気持ちに戻ってしまった。
「……短い間だったけど、ありがとう」
アナベルは散らばった破片を拾い集め、ひとまとめにしていく。
「割れちゃったのは、もう仕方ないものね」
そうだ、仕方がないのだ。
食事を終えて片付けようとし、うっかり手を滑らせたのだ。割れた皿はもとに戻らないことと、アナベルの状況が取り返しのつかないものになっていることはよく似ていた。
アナベル・エンフィールド――二年ほど前までは、その名で暮らしていた。
エンフィールドは伯爵家であり、アナベルはシャマレ郡にある屋敷で両親と穏やかに暮らしていたのだ。
そこに突然莫大な借財が発覚し、エンフィールド家は没落という坂を転がり落ちていた。状況は悪くなる一途で、急速だった。底に穴の開いた船でもここまで急速に沈まないだろう、という勢いでエンフィールド家は離散していった。
あれから二年が経っている。
姓を捨てたアナベルは平民に混じって暮らし、それに慣れていた。
幸運だろうか、アナベルは現在の暮らしをそれほど苦しく感じていなかった。
しかし悲しいことは起きてしまうものだ。
生家から持ち出せた、わずかな財産のひとつ――陶器の皿を割ってしまった。亡くなった祖母の気に入りの品だった。生家を出るときに持ち出せる物は少なく、アナベルは迷わず選んだのが祖母の皿だった。
透き通るようなその白い皿は、ゆっくり食事を楽しむ祖母の思い出そのものだ。角度を変えると、波や花が浮き上がって見える。おなじ意匠のカップやボウルもあり、使っていた祖母の記憶と共に、アナベルはひとり暮らしをしていた。
「べつの使い道……なにかあるかしら」
皿の破片をおもての井戸ですすいでいく。つるつるの表面を撫でながら考えてみても、破片の再利用方法は思い浮かばなかった。
なのに、処分する気になれない。
「アナ、こんにちは! ちょっといい?」
背中に声がかかり、アナベルは腰を上げた。
前掛けで水気をぬぐった手を上げ、道をやって来る女性に向けて振る。
「こんにちは! ダニエラさん、なにありましたか?」
家の前にやってきたのは、大きなカゴを抱えたダニエラだ。
隣家というには遠い場所に住む農家の夫人で、なにかとアナベルの世話を焼いてくれていた。
彼女はおもに野菜を分けてくれる、アナベルにとって守護聖人のような人物だ。
伸ばした髪を定期的に売っており、いまダニエラの赤毛は彼女の夫とおなじくらいの短さになっている。
はじめて会った日、彼女はアナベルにも髪を売りに出さないか、と提案してくれた。辞退したものの、もし髪を売る日が来るなら、彼女の口利きになるだろう。
皿の破片を前掛けで包み、アナベルはダニエラを先導して家に足を向ける。
「ちょっと話したいことが……いまいい?」
「もちろんです。ダニエラさんに分けていただいたお野菜、スープにしてお昼にしたところなんですよ」
窓を開け放していた家のなかは、光が入ってとても明るい。
入り口すぐの場所が食堂と作業場を兼ねた部屋であり、奥にはベッドの置かれた窓のない部屋がある。
それがアナベルの家であり、すべてだった。
暮らしはじめたころには持ち物も少なく、ひどく殺風景だったのだ。いまはそれなりに家具などの持ち物が増え、アナベルには居心地のいい家になっている。
歩けば床板がかならず軋む音を立てるが、誰かが入りこんだらすぐわかるということだ。防犯上便利だ、と考えるようにしている。
以前暮らしていた生家の屋敷と比べるべくもないが、自分で暮らしを立ててきたいま、この家にあるものはすべてアナベルにとって大切なものだった。
生家が没落し、失ったものは多く、大きかった。
アナベルの暮らしは変わり、それでも苦しく思わないのは、失ったものがアナベルのものではなかったからだろう。
両親の気落ちは、アナベルなど比べものにならないほど大きかった――それらが両親のものだったからだ。
すでに気持ちを切り替えられているアナベルは、不揃いの二脚の椅子をテーブルに並べた。
「まずはこれ、よかったら食べて」
どん、とテーブルに重い音を立ててダニエラがカゴを置く。
被せてあった布が取り払われると、大きなカゴに収められていた果物や野菜がお披露目となった。
「わあ、おいしそう!」
素直にアナベルは歓声を上げていた。
果実や野菜は、どれも歪なかたちをしている。カットされて半分ほどの大きさになっているものは、傷んだ部分を落としたものだ。それが味に影響しない、とアナベルはひとりで暮らすなか学んでいる。
味に問題がなくとも、傷んでいたり歪んでいたりすると、果物も野菜も市場に出すのが難しいという。
「いつもすみません、ありがとうございます!」
心からのお礼をいうアナベルに微笑み、ダニエラはカゴのなかに手を入れた。彼女はアナベルの母と同年代だ。知り合ってからこの方、あれこれとアナベルによくしてくれている。
ダニエラが差し出してきたのは、一通の手紙だった。
「出先で息子がコリンさんから預かってきたの」
「コリンさん? ああ、私宛てなんですね」
封筒にはアナベルの名が記されている。
コリンはエンフィールド伯爵家に縁のあった商人だ。ここハーディ村では様々な商品が流通するよう尽力し、コリンは重用な地位にいた。
エンフィールド家が没落した後にも、手を貸してくれたり力になってくれたりしている。
没落後、周囲の噂などから距離を置き、市井で生活を立てるためにアナベルはひとりで暮らしはじめた――コリンの助言と援助があったからだ。
「やっぱり、コリンさんの仕事もそのうち手伝うの?」
封を開け、アナベルは唸る。
「確かコリンさんのところって男所帯でしょ? 女のひとが入ったら、扱う商品も変わって楽しそうじゃない?」
アナベルはコリンの遠縁ということになっていた。
人生経験を積むため、いまの住まいにひとり居を構えた――それが建前だ。
いきなりひとり暮らしをさせる、という無茶ができるくらい、ハーディ村は治安がよかった。ひとりでいるはずの家の床板が軋む音がしても、実際のところは風でも強くなったか、と思って終わるくらいだ。
「どうなるのかしら。コリンさん、いまは行商が中心だから……」
アナベルは自分ひとりで身のまわりの雑事をこなすだけでなく、近隣の農家の作業を手伝えるようにもなっている。
ハーディ村に暮らすひとびとにとっては当たり前のことでも、様々な場面で侍女の手を借りてきたアナベルには、暮らしているだけでも驚くことが多かった。
最初はくたくたになってしまい、泥のように眠る夜を送っていたのだ。いまは眠る前に考え事をする時間も生まれ、これからどうするか、と未来に目を向けられるようにもなっている。
「でもせっかく読み書きができるのよ。うちの手伝いをしてくれるの、とってもありがたいけど……正直もったいない気がするわ」
できることを活かせるなら、それがいいのかもしれない。
農家の手伝いをしてわかったが、アナベルには緑の手の才覚はないようだった。土や作物の状態、それらを最善に整え伸ばしていく――そんな緑の手を、ダニエラをはじめ農家の面々は持っている。
「町で仕事がないか探してみたら? うちの村でも読み書きのできる子たちはそうしてるわよ。夏はこっちで働いて、冬はおもてに稼ぎに出る子もいるし」
「そうですね……ダニエラさんだけじゃなくて、コリンさんもおなじ意見みたい」
「そうなの?」
コリンの知己である商人が、娘に女性の家庭教師を探している――それが手紙の用件だ。
かいつまんでダニエラに説明すると、彼女は顔を輝かせた。
「いいじゃないの! 町の娘さん? あっちはにぎやかだし楽しそうじゃない?」
書かれていた町はハーディ村から距離がある。この家から通うのは無理だ。家庭教師の仕事を受けるなら、転居することになる。
「細かいところは、近いうちにコリンさんがこっちに来るそうなので……」
「あら、それじゃおいしい料理つくってあげないと!」
「お野菜が採れ立てだから、なにをつくってもおいしいですね」
「コリンさんがいらっしゃるなら、みんなにも知らせないと」
さっそく、とうなずき合って、ダニエラと一緒に腰を上げた。野菜を床下の保管庫に移し、近くの畑まで散歩にしてははやい速度で歩いていく。
夏の終わりの畑は、収穫を待つ作物で青々としていた。広大な畑のところどころで、見知った顔が働いている――やっと大勢の村人の顔と名前が一致してきたが、ここを離れることになりそうだ。
コリンが持ってきてくれた家庭教師の話なら、悪いものではないだろう。詳細を聞く前からそう思えるくらい、アナベルもコリンに信頼を置いている。
生家が没落してからここまで、ひとの厚意でなんとかやって来られた。
没落した貴族には、どうしても嘲笑が向けられる。それまで無関係だった人間も、貴族が落ちぶれる姿を嗤った。
両親の意気消沈した姿は苦しく、しかしすっかり変わってしまった生活のなか、アナベルはうつむくことに時間を割かなかった。
うつむいて考えこむことが怖かったからだ。
祖母気に入りの皿などわずかな品以外――ほとんどの財を失ったといっていい。
だが使用人たちは全員べつの勤め口を得たと聞いたし、両親は健康を損なわずいまも健在だ。
アナベルも新しい生活に慣れている。
――最悪の事態ではない。
そう思って前を向いているつもりだったが、皿が割れてひどく動揺してしまった。そんな自分に、アナベルは内心苦笑している。
「アナ! 手が空いたら手伝ってくれる?」
畑のなかから、顔見知りたちが手を振ってきた。
「コリンさんのことはあたしが知らせておくから、アナは行ってあげて」
ダニエラと別れ、アナベルは畑仕事をしていた若い女衆に混ざっていく。若い実を摘み加工し、日陰で干してから食べる野菜の畑だ。細長い緑の実は指でつまんでひねると、簡単に落ちてくる。
「へーえ、コリンさん来るの?」
「アナ、町に行っても時々帰ってくるんでしょう?」
指の細い女衆が銘々に作業にいそしみ、アナベルも手を動かす――が、それ以上にみんなの口が動いている。
「町だと集団お見合いやるってほんとうかしら」
「どうせ男のひとたちが飲み会するだけよ、そんなの。手伝いだけされられて、ぜったいゆっくりすわってる暇もないと思うわ」
たしかにぃ、とたくさんの声が畑のあちこちから上がる。
「でもさぁ、出会いがあるなら、ちょっとのぞいてみてもいいかな……」
今度はたくさんのため息が聞こえた。
思い人がいる者いない者、それぞれ手を動かして実を摘んでいく。
落としそうになったため息を、アナベルはそっと噛んでいた。
皿が割れて味わった落胆どころではなく、思い出すだけでアナベルの胸を締めつけるものもある。
ふとした折りに思い出し、アナベルはひとりの家でため息をついていた。
それはなによりもアナベルには重く、愛しいものだった。
――アナベルは婚約者だった彼に、ずっと気持ちを寄せていた。
――まだアナベルの伴侶ではなかった。
――いずれアナベルの伴侶になるはずだった。
貴族の結婚において、愛情を抱ける相手との婚約は幸運だ。
没落と同時に婚約関係は失われ、アナベルの恋心は宙に浮いたままになっている。
いつか、もしかすると風の噂で彼がどうしているか――どこかの貴族と婚姻関係を結んだとか、そんな話を耳にすることがあるかもしれない。
いまのアナベルはそれを知りたくなかった。
将来、知りたいと思うようになるのだろうか。知っても動揺しなくなるだろうか。
実の収穫が済んだころには日が落ちはじめており、だるくなった肩や背中の凝りをほぐしながら、アナベルはため息をついた。
ため息は大きなものだったのに、胸は軽くならなかった。
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