作品情報

極甘密恋~旅館御曹司は幼馴染みの仲居さんを一途に愛しています~

「キミだよ。キミは俺の初恋の女の子なんだ」

あらすじ

「キミだよ。キミは俺の初恋の女の子なんだ」

幼い頃に自分を引き取ってくれた老舗旅館で、学校に通いながら仲居として働いてきた綾乃。両親と離れて暮らす綾乃を何かと元気づけてくれた旅館の息子悠一は、幼馴染であると同時に、密かな片想いの相手だった。身分違いの片想いを押し隠しながら、綾乃は旅館奉公に身を尽くす。だが御曹司である悠一の元に、地元の資産家の令嬢とのお見合い話がとうとう舞い込んできて……

作品情報

作:秋花いずみ
絵:唯奈
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み

プロローグ

 生まれたときから、私、佐川綾乃の環境はごく普通の家庭環境と違っていた。
 お父さんたちの仕事場は大きな旅館で、毎日訪れるお客様のおもてなしに命をかけているような、仕事熱心な二人だった。
 私の両親が受け継いだ旅館は、いわゆる老舗旅館というものらしくて、幼いながらもそんな旅館を切り盛りして働いている両親をすごいと思っていたし、尊敬もしていた。
 両親は仲居と呼ばれている人たちからは「旦那様」や「女将さん」と呼ばれていた。
 子ども心にかっこいいなあ、素敵だなあと、強い憧れを抱いていた私。
 そんな特別な呼び名で呼ばれているお父さんたちも、家に帰れば普通の親だった。
 私の前では旦那様や女将さんという雰囲気は一切消えて、私だけのお父さんとお母さんになり、自分で言うのもなんだけど、仲良しの一家だと思う。
 だけど、私が小学校二年生になり、夏休みを迎えた頃、今まで見たことがないくらい鬼気迫った表情で、お父さんとお母さんは私を呼び、車である場所へと連れて行った。
「綾乃、今からお父さんのお友達の九条さんって人のお家に行くのだけれど、お行儀よくできる?」
 車を降りて幼い私にそう言うお母さんは、なぜか今にも泣きだしそうな顔で私を見つめ、手を強くぎゅうっと握っていた。
 不思議に思い、でも、言いようのない不安が胸の中に広がっていく。
「お行儀よく……できる」
 お母さんの言うことを聞けば笑顔になってくれるだろうと思い、必死にいい子を演じた。
 だけど、私がいい子になればなるほど、お母さんの目に涙が溜まっていく。
「綾乃、お前はしっかりしているから大丈夫だと思う。でも、困ったことがあったら、遠慮なくお父さんの友達に言うんだぞ。お前と同じ年の男の子もいる。その子とも仲良くするんだ。いいな」
 泣いているお母さんの隣で、眉を下げ、とても辛そうにしているお父さんが私を説得するように言っている。
 この時、自分の置かれた状況を全く理解できなくて、お父さんが私の荷物ばかりが入っている鞄を持ち、お母さんが私と手を繋いで歩き出した。
 なんだろう……なにかよくないことが起きそうな気がする。
 そんな不安でいっぱいの私。隣を歩く両親を見上げると、二人も同じような顔をしていた。
 車を停めた駐車場から五分ほど歩いて見えてきた建物は、両親が経営していた老舗旅館よりもずっと立派で豪華絢爛な旅館だった。
「わあ、すごい」
 一瞬、私は不安だった気持ちを忘れ、その迫力のある旅館の佇まいの感想を思わず口にしてしまったほどだ。
「綾乃、気に入った?」
「うん! すごいね! おっきい!」
 ここに連れてこられた意味も分からず目の前の立派な旅館を見て興奮する私を見て、両親は複雑な表情を浮かべている。
 そしてそのまま無言で歩き、旅館の玄関へと足を踏み入れた。
 旅館は『九条旅館』という名前だった。
 それは、幼い私でも知っているかなり有名な旅館だった。
 そんな旅館に両親は何の用があるのだろう。
 私は首を傾げながら、ハキハキと喋る仲居さんが旦那様と女将さんを呼びに行ったので、そのまま待つ。
 すると、五分ほどして恰幅のいい逞しい存在感を放つ旦那様と、圧倒的に美しいオーラを醸し出している女将さん、そしてその両親の遺伝子を色濃く受け継いだ私と同じ年の頃の、ものすごくかっこいい男の子が姿を現した。
 これが私の人生の最大の転機であり、出会いでもある。
 私と同じ年の頃の男の子の名前は九条 悠一さん。
 私の初恋の相手で、兄弟のように一緒に育った人。
 そして、彼の両親も私の運命を大きく変える人たちだ。
 これが私と悠一さんの出会いだった。

第一章

 私が『九条旅館』に連れてこられたあの日。
 両親は、私に「ここにいれば安心だから。しっかり生きるのよ」と幼い私に告げ、悠一さんの両親に深々と頭を下げて『九条旅館』を去った。
 私が置いて行かれたと知るのはその後、『柊の間』という部屋に通され、旦那様と女将さんからこれからのことを伝えられた時だった。
 これから私はこの『九条旅館』の仲居さんたちが住んでいる寮に住むということ。
 私の両親は、旅館の経営が傾いて抱えた負債の返済のため、遠い場所で働くということ。
 そのため、私を父親の学生時代の友人である『九条旅館』の旦那様、九条義治さんに預けるということ。
 私の両親が大切にしていた旅館『佐乃館』は売りに出されて、なくなってしまったということ。
 両親は旅館を売っても残ってしまった借金の返済が済めば迎えに来てくれるけれど、それはいつになるのかわからないとのこと。
「心細いでしょうけど、ここを本当のお家だと思ってね。息子とは同級生だから、仲良くしてくれたら嬉しいわ。ねっ、悠一」
 女将さんの幹恵さんが、悠一と呼ばれた男の子の方に笑顔を向ける。
 私の隣に座っていた悠一さんは満面の笑みで頷いた。
「よろしく、綾乃ちゃん」
 私のことを事前に聞いていたのか、屈託のない笑みを向けてくれる。
 それはかわいそうとか、同情や憐みの笑みではなく、温かく迎え入れてくれている、そんな安心感を与えてくれる微笑みだった。
 このとき、私は悠一さんの笑顔に心底救われていた。
 さみしさと不安と心細さなどが一気に緩和された気がしたから。
「綾ちゃんって呼んでいい?」
 頬を少し赤らめながら質問してくるその可愛さに、ふふっと笑ってしまった私。
「うん。じゃあ私も悠ちゃんって呼ぶね」
 私も笑顔で返すと、悠ちゃんは綺麗なアーモンドの形をした目を細め、形のいい唇もにこっと可愛らしく笑う。
 眉も凛々しくて、完璧に整った顔に見つめられると、自然と顔が真っ赤になってしまいそう。
「よかった。仲良くできそうね。悠一はずっと綾乃ちゃんのことを気に入っていたからよかったわね」
「お母さん! それは言わないでって言ったのに!」
 悠ちゃんが顔をトマトのように真っ赤にしながら、大きな声で怒ったように女将さんに言っているのを聞いて、頭の中がパニックになる私。
「えっと……どこかで会ったことありましたか?」
 私が冷や汗をどっと掻いて正座をしている太ももの上で握りこぶしを作っていると、女将さんはおかしそうに笑っていた。
「悠一の父親と綾乃ちゃんのお父さんは、二人が幼稚園児の頃からの幼馴染なの。それであなたたちが生まれたころは、同い年ということもあってよく会って遊んでいたのよ」
「そうだったんですか!」
「綾乃ちゃんの父親は昔から誰よりも頑張っていて、誰よりも我慢強い人間だったんだ。だから、今回のこともぎりぎりになるまで誰にも相談しなかったのだろう」
「一言でも相談してくれれば、もっと違う形で協力できたのに」と悠ちゃんのお父さん、旦那様が寂しそうな表情でポツリとつぶやく。
 私は旅館が売りに出されて、借金返済までしなくちゃいけない事態になったことを言っているのだろうと、幼いながら感じ取っていた。
「佐川の娘は、俺の娘も同然だ。だから、本当に自分の家だと思って寛いでくれ」
 旦那様の優しい微笑みに、涙腺が刺激されて視界が潤んでくる。まだ七歳という年齢で家族と離れて生活をしなくてはいけない私にとって、本当に嬉しい言葉だった。
「最近は旅館の経営が大変で全く会えてなかったから、綾乃ちゃんに会えるのを楽しみにしていたのよ。悠一は佐川さんから預かった写真の綾乃ちゃんを一目見て気に入ったしね」
「お母さん!」
 悠ちゃんの顔がさらに真っ赤になり、上質な机を両手でバンっと叩いて怒っている。
 女将さんはそれが楽しいのか、ずっとくすくすと笑っていた。
「からかうのもそれぐらいにしなさい。それより、綾乃ちゃん、これが佐川から預かったきみたちの家族写真だ……持っておくかい?」
 旦那様が着物の袖から取り出したのは、ふくさに包まれた一枚の写真だ。
 それは『佐乃館』を売りに出す前に撮った最後の写真。『佐乃館』の前で、私とお父さんとお母さんが笑顔で映っている。
 つい最近まで家族みんなで笑顔で笑っていたのに。
 この時は、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。
「お守り代わりにしたいです」
 私がそう言うと、旦那様は切なそうな表情で私を見てそっと机の上に写真を置くと、私の方に差し出してくれる。
「持っておきなさい。綾乃ちゃんが持っておく方がいい」
 これが最後の家族写真にならないよね……。
 でも、お母さんたちはいつ戻ってくるのかも教えてくれないまま『九条旅館』を後にした。
 もしかしたら、このまま大人になっても会えないのかもしれない。
 私は涙が溢れて零れそうになるのを必死にこらえながら、笑顔を作る。
「お世話になります! よろしくお願いします!」
 もうこれからお父さんとお母さんのことを思い出して泣くのはやめよう。
 お父さんもお母さんもいつか私を迎えに来てくれる。それまでの辛抱だ。
「うん、えらいね。でも、少しでも寂しい思いをしたらすぐにでも言ってほしい。綾乃ちゃんが苦労をして嫌な思いをしないように、佐川からキミを預かったんだ。本当の両親のように思ってほしいなんて言わない。だけど、甘えたいときは遠慮なく言ってくれ」
 旦那様が優しい声で言ってくれるから、せっかく我慢した涙もいますぐにでも零れてしまいそう。
「ありがとうございます」
 写真を持つ手に力がこもる。涙の我慢は全部手の力にこめた。
 その手にそっと添えられたのは、隣にいる悠ちゃんの手だ。
「仲良くしようね」
 悠ちゃんは声も手も眼差しも全部優しかった。
 悠ちゃんだけじゃない。旦那様も女将さんも九条家の人たちはみんな優しくて温かく私を受け入れてくれた。
 それだけは、今でも鮮明に全て覚えている。

 それから私の生活は一変した。
 住む場所は住み込みの仲居さんたちがいる寮になり、仲居さんの中でも一番のベテランの小金井さんという人と同じ部屋になった。
 小金井さんの歳は五十代くらいで、話を聞くと私くらいの孫がいるそうだ。
 だから私のことを孫みたいに可愛がってくれ、何かと相談に乗ってくれたり、仲居さんの中抜けという長い休憩時間の時には、いろんなお店に連れて行ってくれ、たくさんの楽しい思い出を作ってくれた。
 旦那様や女将さんが忙しくてなかなか会えないとき、小金井さんがいつも一緒にいてくれたから寂しくないのだと思う。
 そして、そこには悠ちゃんが一緒に行くこともあった。
 悠ちゃんは将来、旅館を継ぐために、たくさんのお稽古ごとや勉強を頑張らなくてはいけなかった。
 だから、あまり一緒に遊びに行けなかったけれど、お休みの日は全力でいっぱい遊んでくれた。
 長期の休みはいつも一緒に宿題をして、わからないところは教えてくれた。
 春はお花見も行って、夏は虫取りをしたり、小金井さんが海に連れて行ってくれて肌がこんがり焼けるまで一緒に遊んだり、花火大会にも行った。
 秋は私が大好きなお芋の美味しいお店を見つけて食べに行ったし、冬はスキーやスケート、それにクリスマスパーティーも旅館の中で行われて、楽しいイベントは年中盛りだくさんだった。
 だけど、その中に私のお父さんとお母さんはいない。
 お父さんたちのことは、季節ごとに送られてくる手紙でどんな生活をしているのか把握はできていた。
 二人とも住み込みの寮がある会社で仕事をしているらしく、住むところも食べるものも困っていない、お金も働いているから大丈夫……という内容をいつも送ってくれる。
 それよりも私のことをかなり心配している内容の方が多くて、私はいつも心苦しい思いでいっぱいだった。
 私はこんなに恵まれた環境で育っているのに、お父さんたちは辛い思いをしているのかもしれない。
 そんなことを思うと、心から楽しめない状況になっていく。
 だけど、そんな時、決まって九条家の人たちは私の心境を悟ってくれて「私たちは佐川に綾乃ちゃんのことを頼まれているんだ。綾乃ちゃんが楽しんでくれないと、佐川夫婦に怒られてしまうな」と言われてしまう。
 女将さんも「子どもが笑顔で楽しく過ごしていることを誰よりも喜んでいるのは、親なのよ。だから、綾乃ちゃんも素直に今を楽しんでくれると嬉しいな」と言ってくれる。
 私は戸惑いながらも旦那様や女将さんの言葉を受け入れていた。
 そして悠ちゃんも私の手を取り、微笑んでくれる。
「俺、綾ちゃんが笑っていると心があったかくなるんだ。綾ちゃんの寂しい気持ちを全部わかってあげられないけど、綾ちゃんの寂しさを埋めることをしたい。俺、綾ちゃんが寂しい思いをしないように、全力で頑張るから」
 そんなことを真剣な声で言われ、ときめかないほうが無理だ。
 悠ちゃんに手を繋がれると心臓がドキドキする。
 名前を呼ばれると気持ちが浮ついて、ふわふわする。
 笑顔を向けられると、私も自然と笑顔になって身体が熱い。
 悠ちゃんのことが好き……。
 そう自分の気持ちに気付いたのは、小学校六年生になった年のクリスマスパーティーの時だった。
 その気持ちは高校一年生になった今でもずっと持ち続けている。
 誰にもバレないように、ひっそりと一人で育んでいた。
 だって、高級老舗旅館の後継ぎと、潰れた旅館の娘で何も持っていない私が釣り合うわけがない。
 そんなこと、誰かに言われなくても、私自身が一番自覚している。
 だけど、悠ちゃんのことは誰よりも好き。
 その自信だけは不思議とあった。
 でも、この恋心が実ることはない。
 それならば、大好きな人が幸せになれるお手伝いをしよう。
 悠ちゃんにずっと笑っていてほしい。
 私の大好きな笑顔をずっと見せてほしい。
 だから、私はそのお手伝いをするんだ。
 そう決めた私は、高校に進学したと同時に『九条旅館』の仲居をして働くことを決めた。
 学校があるから昼間は無理だけど、夕方から夜まで働くことができる。
 今までお世話になったぶん、無償で働きたいと旦那様や女将さんに申し出たとき、かなり反対されたけれど、今まで強くお願いをしたことがなかった私が、絶対にその条件は譲らなかったので本気なのだろうと理解してくれ、私は仲居として働き始めることとなった。
 その時、張り切ったのはほかの誰でもない小金井さんだ。
 私を一人前の仲居にしようとつきっきりでいろんなことを教えてくれた。
 厳しくも優しい小金井さんの指導のおかげで、私はあまり時間をかけずに仲居の仕事を一通り覚えることができた。
 仲居の仕事は肉体労働も多いし、気遣いのプロの集団でその人たちと一緒に仕事をすることはそれは大変だったけれど『九条旅館』の力になっていることが何よりも嬉しかった。
 今まで与えてもらうことばかりで何もできなかった私だけど、仲居の仕事をすることで恩返しが少しでもできているのかと思うと、ものすごくやりがいを感じていた。
 そんな私に悠ちゃんは心配なのか、暇さえあれば会いに来てくれた。
 私は仲居の仕事を始めてから『九条旅館』の跡取りである悠ちゃんのことをそう呼ぶのはやめて「悠一さん」と呼んでいた。
 悠ちゃんは最初「他人行儀だからやめて」と言っていたけれど、雇い主である旦那様や女将さんの息子で、将来『九条旅館』を継ぐ悠ちゃんは、私がこのまま『九条旅館』で働くことになれば、いずれ彼が私の雇い主になる。
 だから、今からけじめとして昔馴染みの呼び方ではなく「悠一さん」と呼ぼうと決め、敬語で話すようになった。
 そのことを話すと渋々、受け入れてくれたけれど、悠一さんの私に対する接し方は昔と変わらないままだ。
「綾ちゃん。今から休憩?」
 仲居の控室になっている部屋から出ると、悠一さんが壁にもたれていて私の顔を見るなり声をかけてきた。
「悠一さん。はい、今から中抜けです」
「それなら一緒にご飯を食べに行こう!」
 今は冬休みで朝から夜まで働いている私の休憩時間を知り尽くしている悠一さんは、休憩に入るタイミングで私を誘って来た。
 それには私の後ろにいる小金井さんも苦笑いだ。
「もう、偶然を装ってまた待ち伏せしていたんでしょう。いくら綾乃ちゃんの仲居姿が可愛いからって、こう毎日会いに来られたら、綾乃ちゃんも迷惑ですよ」
「げっ、小金井さんいたの?」
 声を低くして悠一さんに説教をする小金井さんを見て、悠一さんは苦い顔をしていた。
 悠一さんがどんな理由だろうが会いに来てくれることが嬉しい私にとって、小金井さんの言葉は顔をめちゃくちゃ熱くさせる。
「まあ、お気持ちはわかりますけどね。綾乃ちゃん、仲居の着物がすごく似合っていますもの」
 仲居の着物は桜色に小紋柄の可愛らしい雰囲気がある着物だ。
 若い仲居にもベテランの仲居にも愛らしい雰囲気を纏っていてほしいという意味で『九条旅館』ができたときからずっと変わっていないらしい。
 でも、それが私に似合っているとは思わなくて、首を左右に思い切り振ってしまう。
「やっ……。そんな、悠一さんは私に気を遣ってくれているだけで……」
「そうだよ。綾ちゃんに美味しいものを食べてもらって、また後半の仕事を頑張ってもらおうと思っているだけだよ」
 悠一さんも苦い顔からほんのりと顔を赤らめて、私の言葉に同意してくれる。
 だけど、その声は上擦っていて、それを聞いた小金井さんはくすっと笑うと盛大なため息をついた。
「左様ですか。まあ、二人ともそんな真っ赤な顔で言っても全く説得力ないですけどね。午後のミーティングまで間に合えば、どこに行っても構わないですよ。ああ、でも悠一さん。経営のお勉強の方も頑張ってくださいね。綾乃ちゃんのことを考えすぎて、現を抜かさないようにお気をつけてください」
 小金井さんは独り言のように早口で言いながら、ぱたぱたと控室を出て行った。
 私は小金井さんの言葉が頭の中を何度も往復していて、全身が熱い。
「あー……。ハハッ、相変わらず小金井さんはズバッと言ってくるなあ」
 悠一さんは困ったように後頭部を掻きながら、頬を赤らめて笑っている。
 私は手で口を覆うように添え、緩む口元を必死に隠した。
 小金井さんったら、ありえないことばっかり言っていた。
 だって、今の言い方は、悠一さんが私に好意があるような言い方だ。
 たしかに悠一さんとは喧嘩だって全くしたことがないくらい仲がいい。
 彼とは波長が合うというか、一緒にいて気が楽だし。
 それに何より彼のことが好きだから、嫌われたくないという感情が先にやってきて、少しでも可愛く見てもらいたいと思い、女子力を上げようと頑張る自分がいる。
 だって、悠一さんは高校生になってから随分と男らしく成長した。
 通っている高校は違うから彼がどれくらいモテているのかわからないけれど、私の通っている高校なら間違いなく学校一のイケメンだと騒がれるだろう。
 そんな人が私に好意を抱くなんてありえない。
 きっと、小金井さんは仲がいい私たちのことを見て、そういう関係だと勘違いしているだけ。
 悠一さんにはもっとふさわしい人がいる。
 その考えは成長した今でもちゃんと持ち続けているから、余計な期待はしない。
「悠一さん、ご飯行きましょう」
「うん、行こうか」
 私が声をかけると、悠一さんはこちらの気持ちを癒してくれる爽やかな笑顔を向けてくれる。
 私にはこれだけでもう十分だ。
 そう思うようにして、彼とつかの間の休憩時間を過ごした。

第二章

 私が仲居の仕事を始めてから十二年が過ぎ、私は二十八歳になった。
 高校を卒業した私は、進学はせず仲居の仕事をそのまま続ける形で『九条旅館』に就職した。
 悠一さんは『九条旅館』を継ぐため、大学で経学を学び、優秀な成績で卒業をした。
 そしてそのまま『九条旅館』で若旦那として働き、営業や広報活動はもちろん、経理などの事務仕事を一手に引き受け、さらに旅館組合や観光協会、商工会や消防団などの地域の組織にも参加していて、休む暇もないくらい働いている。
 だけど、旅館内で見かける時はいつでも笑顔で、辛そうな顔を私達に見せたことがない。
 しかも、十二年も経ってますます男らしくて、魅力的な男性に成長した悠一さんは、顔が整っていてスタイルもよく、人当たりがいいとなると女性人気はすごいものだった。
 何度かメディアの取材を受けたこともあるし、彼目当てのお客さんがいらっしゃることもよくある。
 そして、それは仲居の仕事の募集をかけたときも例外ではなく、悠一さん目当てで面接を受けに来る人も多かった。
 玉の輿に乗ろうとしているのだろう。
 それに気づいた小金井さんが、悠一さんにそんな女性を近づかせないように塞いでいたけれど、それでもしぶとい女性はいた。
「今日も若旦那さん、素敵よね」
 仲居の重要な仕事の一つでもある掃除の手を止め、楓の間から見える悠一さんの姿をうっとりと眺めているのは二年前に仲居として働き始めた岩仲さんだ。
 小柄で色白で可愛らしい彼女は、まるでお人形さんのような愛らしさがあり、接客の面では仲居として素晴らしい働きぶりをしてくれる人材だ。
 だけど、掃除となると苦手なのか、それとも悠一さんを見ることに忙しいのか、全く手を動かさない。
「岩仲さん、早くしないと次のお部屋の清掃に間にあわないよ」
「もう、わかってますよー。でも、ちょっとぐらい、いいじゃないですか」
 頬を膨らませる表情が似合うのは、彼女がまだ二十歳という若さだからだろうか。
 すでにアラサーという大人の女性の仲間入りをした私には、絶対にできない仕草だなと思った。
 悠一さんを見ることに忙しい岩仲さんを説得しながらなんとか時間内に清掃を終わらせ、次の間へと急ぐ。
 ようやく全ての部屋の清掃を終わらせたときは、すでに中抜けの時間に入っていた。
「やっと休憩だー。休憩入りまーす」
 まだ元気があるのか、岩仲さんは小走りで自分の荷物が入っているミニバッグを持つと、颯爽と控室を出て行った。
 私も貴重品が入っている自分のミニバッグを持ち、控室を重い足取りで出る。
 最近、疲れがなかなか抜けなくて首を左右にゆっくり傾けると、肩が凝っているなあと感じる。
 また、マッサージに行こうかなと右手で左肩を撫でていると、私の右肩に誰かの手が置かれた。
「お疲れだね、綾ちゃん」
 優しい声色で私の名前を呼ぶ人の方を振り向くと、悠一さんがくすくすと笑いながら、私の右肩を弱い力で揉んでくれていた。
「悠一さん!」
「俺の方もちょうど今、ひと段落したところなんだ。今から休憩なら一緒にご飯でもどう?」
 忙しい悠一さんと一緒にご飯に行けるなんて滅多にない機会だから、飛び上がって喜びたいのを我慢して私は思い切り頷いた。
「はい! 行きましょう!」
 悠一さんに誘ってもらっただけで疲れが取れて一気に元気になるなんて、自分でも単純だなと思う。
 だけど、私にとって悠一さんはどんな薬よりも効く栄養剤みたいなものだ。
「よかった。じゃあ、また小金井さんにお小言を言われる前に早く行こう」
「ふふっ。休憩時間までお小言は言わないですよ」
「そう? でもあの人、綾ちゃんのことに関しては鬼の観察力だからなあ。小金井さんは綾ちゃんのこと、本当に大事にしているから」
「それは旦那様や女将さんに私を任されているからだと思います。でも、大人になった今でも気遣ってくれるのは、すごく嬉しいですし、ありがたいことですけど」
「俺にとっては実の親より怖い存在だよ。あっ、そういえばおじさんとおばさんは元気? 最近連絡は?」
「一昨日、電話をしました。二人とも元気で仕事も頑張っているそうです」
「そっか、またこっちに来てもらえたらいいね」
 そんな話をしながら、従業員用出入り口から外に出る。
 悠一さんの言う通り、お父さんとお母さんとは二週間に一回ほど連絡を取り合っていて、一年に一度は二人とも地元に戻ってくるという状況までできるような、経済状態にはなっていた。
 それでも借金の完済はまだ遠くて、二人ともずっと住み込みの仕事を続けている。
 ただ、一度だけ私が高校を卒業した時、一緒に暮らそうかという話になったことがあった。
 だけど、私が『九条旅館』でこのまま働きたいと希望したから、お父さんたちとは離れ離れのままだ。
 私のわがままを聞いてくれたのだから、せっかく私も正社員として働いて収入があるのだから、せめて給料の一部を受け取って返済にあててほしいと言ったけれど「それはあなたが働いて得たものだから、あなたが使いなさい」と言って両親は断固として受け取ってくれなかった。
 そんな経緯から、両親とはあまり会えていない。
 だけど、心細くないのはお父さんもお母さんも私のことを常に心配してくれて、いつも私のことを思っている愛情を感じられる言葉を、メールや電話で伝えてくれているからだと思う。
 それに、もう『九条旅館』の人たちは私の第二の家族みたいになっていて、しんどいこともあるけれど、毎日が満たされている。
 だから、少しでも恩返しをしてから『九条旅館』を出たいと考えているから、今はがむしゃらに働くことが何も持っていない私ができる唯一のことだと思っている。
「綾ちゃん、何食べたい?」
 悠一さんが上半身を少し傾けて私に顔を寄せてくる。
 至近距離で見る彼の顔は、毎日見ていても飽きないくらいかっこいい。
 私は見惚れないように必死に自分を保ちながら、頭の中を食べ物でいっぱいにした。
「お魚が食べたいです」
「よし、じゃあ煮魚定食がうまい店に行こうか。この前、観光協会の重役に魚がうまい店を教えてもらったんだ」
「楽しみです!」
 両手を叩いて喜びを表現すると、悠一さんは子どもの頃と変わらない弾けた笑顔を私に向け微笑んでくれる。
「よかった」
 そしてそう言ってくれ、仲居姿で歩く私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。
 彼のこういう優しさは昔から変わらない。
 今日も彼の温かい優しさに癒されながら、つかの間の休息を満喫した。

 食事が終わり、悠一さんは観光協会の方々と来月にある観光地の一大イベントであるお祭りの打ち合わせに向かった。
 私も中抜けの時間が終わり、午後のミーティングに向かうため、仲居の控室に小走りで戻っていると、途中で岩仲さんと会った。
 たまたま一緒の時間になっただけかと思ったけれど、彼女は私を待っていたように感じた。
 岩仲さんは私の姿を見つけると、踵を返して私の方に向かってくる。
「また、若旦那さんと一緒に休憩に行ってましたよね」
「えっ」
 敵意むき出しの視線に、後ろに引いてしまう私。
 そんな私のことなんかお構いなく、岩仲さんは詰め寄ってくる。
「私、見てたんです。お二人が割烹料理のお店に入っていくところ。佐川さん、若旦那さんと昔からの友人かもしれませんが、ずるくないですか?」
「ずるいって……」
 私と悠一さんが一緒に行動することをずるいと、言われる理由がわからない。
 これは単純に嫉妬をされているのだろうかと頭を傾げると、いら立ちを募らせた顔を見せられる。
「ずるいですよ。たまには私にも若旦那さんを貸してください。いつも佐川さんばっかり若旦那さんと行動して、私がアピールするチャンスがなかなかないんですから」
「アピール? 岩仲さん、悠一さんに何をアピールするの?」
 接客では岩仲さんはちゃんと悠一さんに評価されていて、褒められている場面はよく見る。
 それだけでは足りないのかな?
 彼女の言葉を待っていると、鼻息荒く口を開く。
「もちろん、恋愛の方のアピールですよ! 仕事ができる仲居をアピールしたって、女として興味を持ってもらえませんから」
「はあ……そう……」
 なんだ、そっちの意味だったのかと呆気にとられる。彼女はやはり悠一さんを恋愛の対象として見ていたんだ。
 そして幼馴染という立場の私をけん制してくるあたり、岩仲さんらしい。
 私は苦い顔をしそうになったところをグッと我慢して、笑顔を作る。
「岩仲さんは可愛いから大丈夫よ」
「私が可愛いことはわかってます! だけど、若旦那さんはそんな私のことを全く意識してくれないから、焦るんじゃないですか!」
 語彙力のない私が考えた精一杯の誉め言葉を、一瞬で肯定する彼女のポジティブさは見習うべきなのかもしれない。
 頬を膨らませて怒るそんな顔も可愛く映るのだから、女子力の低い私からすれば羨ましい限りだ。
「若旦那さんの好みの女性ってどんな人なんですか?」
 岩仲さんとこのまま控室に向かっていると、彼女は食い気味に質問してきた。
「その質問は何回もされているけど、私にはわからないよ」
 岩仲さんには私が悠一さんと幼馴染と知られた時から、何度もこの質問を受けてきた。
 実際、悠一さんに聞いたこともあるけれど、彼はこの質問が私からではないと知ると、口を閉ざし、何も教えてくれない。
「もう、本当に幼馴染なんですか? 使えないなあ」
 盛大なため息をつかれ、不機嫌な顔を堂々と見せる彼女に、開いた口が塞がらない。
 仕事でミスをして使えないと言われるのは自業自得だけど、こんな恋愛のことに関して使えないと言われるのは初めてだ。
 驚きのあまり何も言えずにいると、岩仲さんは私の着物の袖を掴み、ツンっと引っ張る。
「じゃあ、若旦那さんは今、恋人がいるのか教えてください。あと、今まで付き合ってきた女性の数と好みも。幼馴染なんだから、それくらい知っているでしょ」
 控室の前で小声で誰にも聞こえないように言われると、まるで悪いことをしているみたいだ。
 しかも、内容は悠一さんの思い切りプライベートに関わる内容だから、なおさらハラハラしてしまう。
 そして、私は彼女の圧に困りながらも口を開いた。
「ごめんなさい、それも知らないの」
「はっ? 知らないって……。今まで、ずっと一緒にいたんですよね? それなのに現在の恋人どころか、付き合っていた人まで知らないんですか!」
 だんだんと語尾が強くなり、袖から手を離して肩を強く掴まれる。
 それにも驚いたけれど、個人情報を話すことに嘘を言うわけにはいかず、私は彼といつもどういう話をしているのかありのままを伝えた。
「うん。私、悠一さんとは旅館内ではたわいないことを喋ったりはするけれど、高校は違う学校だったからどんな学生生活をしていたのか知らないし、恋愛の話もほとんどしたことがないから、彼に恋人がいたこともよく知らなくて」
「じゃあ、いつも何を話しているんですか? 二人でよくご飯に行ったりしているじゃないですか」
「それは、九条旅館のこととか、お客様との楽しいお話とか、家族のこととか……」
 本当にこれは嘘を言っているんじゃなくて、悠一さんとは恋愛の話はあまりしたことがなく、いつもお互い『九条旅館』の将来のこととか、お客様とあった出来事や私の両親の話などがほとんどだ。
 それでも彼との会話は楽しく、十分満たされている。
 だから不満はないのだけれど、岩仲さんは思い切り不満だらけみたい。
「えっ、まるで本物の身内みたいな会話じゃないですか。もっとこう、踏み込んだ話とか、恋愛経験とかの話をしないんですか?」
「うん、しないね」
 私がハッキリそう言うと、岩仲さんは肩を落としてあからさまに落ち込んだ態度を取る。
 悪いけれど、申し訳ないという感情は出てこなくて、これで諦めてくれるかと思うとホッとしていた。
「いつまで話をしているの? 午後のミーティングを始めるから早く入りなさい」
 私と岩仲さんの話がちょうど終わったところで、小金井さんが控室から出てきた。
 その表情はむすっと怒っていて、私と岩仲さんの背筋が伸びる。
「すみません!」
「すみませえん」
 切羽詰まった声の私とは反対に、岩仲さんは気怠そうだ。
 小金井さんが控室に戻り、拗ねた顔をしながら岩仲さんも後に続く。
 私は彼女の後姿を見つめながら、複雑な思いを抱いていた。
 この人、本当に悠一さんのことが好きで、私にこんなことを聞いているのだろうか。
 そうか、ただ玉の輿に乗りたいだけ?
 それとも『九条旅館』の女将になりたいから、悠一さんに近づこうとしているのだろうか。
 もしそうだとしたら、悠一さんは彼女の好意に気付いているのかな。
 そして、嬉しかったりするのかな……。
 他人からの好意を向けられて、喜ぶ彼の顔を思い描くと胸の中がズキズキと痛い。
 それはいい気分のものでなくて、表情も勝手に曇り、身体もざわざわする。
 これが嫉妬というものだろう。
 悠一さんへの好意は、初めて自覚した小学校六年生の時からずっと変わっていない。
 むしろ、その時よりもっと重く大きなものになっている。
 だって、この恋心をずっと持っていたから私は恋人を今まで作ることができず、二十八歳になってしまった。
 彼と付き合いたいなんて思わない。だけど、悠一さん以外の人と付き合おうとも思わない。
 だから、私は一生悠一さんを想う人生を過ごしていく。
 たとえ彼が恋人を作り、その人が彼の妻になったとしても、お世話になっている身の私は絶対に想いを伝えず、彼の幸せを祈る。
 それが最善のことなのだと自負していた。

(――つづきは本編で!)

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