「君には、俺なしではいられなくなってもらう」
あらすじ
「オリヴィア。君には、俺なしではいられなくなってもらう」
家の借財が嵩み爵位を返上することとなった貧乏男爵家の娘、オリヴィア。もう貴族ではいられない。人生最後の夜会に参加した翌朝、誰もが恐れる『黒衣の仮面公』ブラッド=ロンダングが現れ、オリヴィアを妻にしたいと求婚の申し出をした。
驚くオリヴィアをよそに、欲に駆られた継母は勝手に婚約を決めてしまったのだが、それはオリヴィアの人生を一変させて――?
作品情報
作:更紗
絵:唯奈
デザイン:RIRI Design Works
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第一章 仮面に秘されし薔薇の花
「っひ!」
その時、オリヴィアの耳に恐怖の悲鳴が聞こえた。女の声だ。
彼女は咄嗟に辺りを見回した。
赤、青、白、と男女入り交じるとりどりの華やかな仮面が目に入る。美しく着飾った淑女達は優雅に踊るのをやめ、ぴたりと動きを止めていた。
(今の声は……)
『仮面舞踏会《こういった催し》』では時折、貴族男性がレディに質の悪い悪戯を仕掛けることがある。
それを知っているオリヴィアは心配になって声の主を探したが、こう皆が仮面をつけていては、誰が誰だかわからなかった。
しかし次の瞬間響いたざわめきに、彼女はその考えが間違いであると知った。
(彼は―――)
たった一人、仮面を外さずとも何者か明らかな者がいた。
オリヴィアの瞳に、一色の高貴な『黒』が映る。
宵闇と同じ艶やかな黒髪に、目元を覆う革の仮面。
すべての光を塗りつぶしたような漆黒の礼装を纏った男性は、この場にいる誰よりも凛然としており、着衣越しにもわかる均整のとれた体躯からは華やかで圧倒的な存在感を放っていた。
絢爛な舞踏会場を颯爽と歩く彼の周囲では、神話のように人波が自然とふたつに割れている。
黒い衣装に施された銀糸の縁飾りがきらきらと繊細に煌めき、はためく外套《マント》は夜の帝王が纏う闇のヴェールのようだ。
ゆるく結ばれた白い首巻き《クラヴァット》をとめる真珠だけが、涙のようにぽつりと上品な華やかさを添えていた。
とても美しい男だ、とオリヴィアは感じた。
額を中心として分かれた黒髪から端正な横顔が覗いている。高い鼻梁に引き結んだ薄い唇。そして革の仮面が彼のミステリアスな雰囲気を底上げし、見る者すべての視線を惹き付けていた。
たった一人そこにいるだけで人々を魅了する孤高の姿に、オリヴィアは思わず感嘆の溜め息を吐いた。
(まるで黒豹ね)
オリヴィアは幼い頃に見た一匹の獣を思い出していた。
黒く艶のある毛並みに、しなやかで強靭な体躯。美しさと恐ろしさを併せ持つ気高い肉食獣の姿が、彼に重なって見えた。
ブラッド=ロンダング―――通称『黒衣の仮面公』。
オリヴィアも名前だけは知っていた。しかし見るのは初めてだ。
彼は他の賓客達とは違い、明らかに仮面舞踏会用のものではない黒い革の面を付けていた。滑らかな光沢は雄鹿の革だろうか。
銀の刺繍糸が縫い込まれてはいるものの、羽や凝った装飾もされていない実用に足る品だった。恐らく通常使いしているものなのだろう。
そして先程の悲鳴はその仮面ですら隠しきれない彼の肌に残る赤黒い傷痕が原因だった。傷痕については世情に疎いオリヴィアですら人々の噂で伝え聞いている。
彼はかつて、社交界で公爵家の『麗しき令息達』として名を馳せていた。今は亡き兄とともに舞踏会に華を添え、数々の浮世を流していたのである。
しかし五年前、敵対関係にあった貴族の陰謀により襲撃を受けた。
薬品の熱で溶かされたという皮膚は赤黒く爛れ、歪に引き攣れて薄い唇の右側を不気味に吊り上げている。
その様は確かに彼を恐ろし気に見せていた。
だからか会場にいるレディ達の多くが逃げるように彼から距離を取っている。
しかし仮面の横顔から覗くオニキスに似た黒い瞳はまるで水に揺蕩う柳のように穏やかで、空虚であるようにオリヴィアには見えた。
(なんて寂しい目をしているの)
オリヴィアはブラッドを見つめたままその場に立ち尽くしていた。
彼は誰も自分と踊りたがらないことがわかっているのだろう。
ただすたすたと無言で壁際まで歩くと、壁に背を預けて静かに佇んでいる。
ブラッド=ロンダング公爵といえば王室の血統にも連なるという高貴な身の上だ。
本来ならばこの場の中心となり、人々に囲まれる人であるはずだった。
しかし彼の痛々しい面は、その肩書すらも凌駕していた。
(……自分がダンスを申し込めば、相手は断れないとわかっているから、わざとああしているのかしら)
オリヴィアはじっとブラッドを観察しながら思った。
公爵位を持つ者に申し込まれて断れる令嬢はこの場にいない。
だから彼はわざと気のないふりをして、ただ川のせせらぎを聴くようにぼんやりと視線を投げているのだろうか、と。
(それとも、たんに踊りたくないだけかしら。両方の可能性もあるわね。あら……でも、音楽は好きみたい)
ブラッドが壁際へ寄ったことで他の子息や令嬢達が窪みに水が満ちるように元通り歓談やダンスを始めていた。
オリヴィアはそれを横目に見ながら少しずつブラッドの方に近寄っていく。
彼は音楽を奏でる楽団をじっと見つめている。
よく見れば唇が僅かに動いていた。
(曲を口ずさんでいる……? 本当は踊りたいのではないかしら。だけど、わざと誰も誘わないのだわ。……優しいひと)
いくら身分素性を隠した催しといっても、相手が明らかに誰かわかるうえで拒否するのは難しい。
それを理解しているからこそ、彼は独りでこの場を過ごしているのだろう。
オリヴィアはブラッドの態度を好ましく思った。
そうして一つの考えに思い至る。
(ええ、そうね。彼は私と同じだわ―――だったら……人生最後の夜会だもの。冒険してみても、いいわよね?)
オリヴィアは白い仮面の下で瞳を閉じ己の心に問いかけた。
育った地の気候と同じくらいからりと乾いた彼女の性格は、真っ直ぐに望みを叶えるべきだと訴えている。
またオリヴィアは彼と自分は似た者同士だと感じていた。
仮面舞踏会ですら素性を隠せないという、たった一つの事柄において。
彼女の髪はさながら燃え盛る炎のように真っ赤で、結っても解いてもひと目でわかる。
オリヴィア=ハートレイ、つまり貧乏男爵家の『渇きの令嬢』であると誰もが仮面を外さずとも知っていた。
それ故に未婚の貴族男性は彼女に寄りつこうとしない。
(私だって、一度くらい好ましいと思う素敵な殿方と踊ってみたいわ。柄じゃないのは知っているけど)
オリヴィアはある一つの決心をして、この場の誰よりも尊い身ながら憂鬱げに俯く仮面の男に近付いた。
そんな彼女の背をあからさまな嘲笑が追いかける。
「ねえ見て『渇きの令嬢』よ……あの日に焼けた肌、みっともないわ」
「本当ね。それになにかしら、あの流行遅れのドレス。仮面なんてまるで盗賊のよう」
「ふふ、やめなさいよ。継母の浪費で余裕がないのでしょ。聞けば食べるものすら手ずから作っているのだとか。可哀想じゃない」
くすくす、と笑い声と共に囁かれるオリヴィアへの酷評は、彼女にとっては聞き慣れたものだった。
これまで散々、蔑まれてきたのだ。
(……それも今夜で終わりだわ)
彼女は自分に向けられる悪意の声を遮断した。ただ一人だけを見つめ、確かな足取りで歩んでいく。
オリヴィアは緊張でもつれそうになる足にぐっと力を込めた。
あと少しという距離まで近付いた時、仮面の公爵が彼女に気付き顔を上げた。
訝し気な警戒の表情をしていた。しかし嫌悪の色はない。
それにやや安堵しつつ、オリヴィアは彼の前で膝を曲げて淑女の礼を取った。開いたテラスから吹き込んだ穏やかな夜風が、彼女のうなじに垂れた赤毛を揺らす。
「―――今宵ひと夜の思い出に、私と一曲、踊ってはいただけませんか?」
人生最高のカーテシーを見せたオリヴィアはこれまで生きてきた中で目一杯、一等の笑顔で誘いをかけた。
顔は仮面で隠れているから、瞳と口元でわかるように、と。
するとブラッドの黒い仮面の奥にある瞳が僅かに見開いた。強い警戒の色がオニキスの瞳にきらりと閃く。
当たり前だ。本来ダンスの申し出は、男性から女性にするものなのだから。
「どういうつもりだ」
引き攣れた口元から紡ぎ出された重たく低い声を聞き、オリヴィアの背に緊張が走った。
同時に心地よい声だとも思う。
(さあ、ここからが大勝負よ、私)
オリヴィアは自らを奮い立たせた。相手は公爵だ。下手をすれば不敬にあたる。
無礼講とされる仮面舞踏会とはいえ、限度はあった。
けれどオリヴィアは気圧されながら、なおもブラッドに賭けてみた。
「……私がこういった場所に出られるのは今夜が最後なのです。そして私は貴方様と踊りたいと思いました。もしよろしければ、この愚かな娘の願いを聞き届けてはいただけませんか。もちろん、お嫌でしたら断っていただいて結構です」
これはある意味、オリヴィアにとって一世一代の賭けだった。
本来なら手の届くことのない、遥か高みにいる美しき公爵とラストダンスを踊るための。
ブラッド=ロンダングの祖母は先代王の王妹であった。つまり彼は現王族とは親戚筋にあたるのだ。
貧乏男爵家のオリヴィアなど目にすることすら畏れ多い。
しかしオリヴィアはどうしても最後のダンスを彼と踊りたかった。
思い出が欲しかったのだ。
もう二度と、自分は貴族令嬢として過ごすことはできないから、と。
(断られて当然だわ。だけど、もしも願いが叶うなら―――)
このどこか寂し気で優しそうな仮面公爵と、この夜のひと時だけ、過ごしてみたい。
オリヴィアはなぜこうまで強くこの男性に心惹かれるのかわからなかった。年齢のわりに、色事にはてんで疎いのだ。
「……今夜が最後、とは」
「え?」
「今夜が最後だと言っただろう。なぜだ」
まさか問われるとは思わずオリヴィアは面食らった。てっきり「断る」と切り捨てられると思っていたのだ。
オリヴィアは真っ直ぐにブラッドを見た。彼女のエメラルドグリーンの瞳を見返すオニキスの視線は鋭い。
その全てを見透かすような視線に、彼女は嘘偽りない真実を話すことにした。どうせ明日には社交界でまことしやかに語られるのだ。嘘も真実も、すべて。
「申し遅れました。私の名はオリヴィア=ハートレイ。しがない男爵家の娘です。お恥ずかしい話ですが我が家は借財が嵩《かさ》み、明日には爵位を返上することになる見通しですので、私は今宵が最後の宴となるのです」
かつて家庭教師から教わった礼儀作法を総動員して、粛々と答えた令嬢にブラッドの眉がくんと跳ね上がる。
彼の瞳にはやや挑戦的な光が煌めいていた。
「君ほどの美貌があれば、裕福な男に嫁ぐことなど造作もないだろう」
「私に身を売れと? でしたら身を粉にした方がずっとましですわ。……それに、私に美貌などありません」
ブラッドの言葉に間髪入れずオリヴィアが返す。それを聞いたブラッドの方が今度は面食らっていた。
こうまで小気味よく、そしてきっぱりと言い切る令嬢に初めて出会ったのだ。
燃えるような赤毛の令嬢に興味を持ったブラッドが、壁に預けていた背を離し姿勢を正して彼女に向き直った。オリヴィアが着けている白い仮面から覗く緑の瞳を見据え、静かに言葉を紡ぐ。
「君は貴族令嬢の肩書が、爵位が惜しくはないのか。今とは生活も扱いも一変するぞ」
挑むような質問にオリヴィアは礼の姿勢を取ったまま、仮面越しにブラッドを強い瞳で見返した。たとえ相手が公爵とはいえ、己の矜持まで傷つけられる気は無かった。
そしてブラッドが傷つけるつもりで言っているわけではないことを、聡いオリヴィアは気付いていた。
(試しているのね、私を。だったらこれも正直に答えるべきね)
「……もとより重荷でしかなかった肩書です。この際降ろしてしまえば身軽になって気分も良くなるかと。何よりその方が働きやすいですし」
貴族令嬢なのだからやれ働くな、手を汚すな肌を美しく保て、など貧乏なうえでは到底無理なことを言う父や社交界には辟易していた。生きていくためにはそんなしがらみは不要でしかない。彼女にとって優先すべきものはそれではなかった。
そんなオリヴィアだからこそ、実直すぎるほどの答えがすらりと飛び出していた。
働きやすい、の言葉を聞いた瞬間、ブラッドはつい両目を緩ませていた。仮面の下で彼の表情が和らぐ。それから喉奥でくつくつと笑い声を漏らした。
自分がこうして笑うのはいつ振りだろう、そう思いながらブラッドはこの勇気ある、生き様の美しい令嬢に優しい微笑みを向けた。
周囲でざわめきが巻き起こる。
彼らのやり取りを面白おかしく窺っていた者達は、オリヴィアが無様に断られず、笑わぬ男として名高い公爵から愛想よくされているのに驚いていた。
「身軽、か。その意見には俺も一部共感するところがあるが……君は珍しい女性だな。自分の未来に不安はないのか」
「全くない、と言えば嘘になります。ですが己が心情に違えた生き方をすれば、相応の未来しか手にできないでしょう……ですから、今後は自らの力で身を立てていきたいのです。先で後悔するかもしれませんが、不安はさほどありません」
話をしている内にブラッドはこの赤毛の令嬢について思い出していた。オニキスの瞳に楽しげな気配が滲むのをオリヴィアは感じ取った。
どうやら彼も自分を知っているらしい。自分が彼を知っているように。
「君の二つ名を聞いたことがある」
「『渇きの令嬢』でしょうか」
予想していたとばかりにオリヴィアが返事をするとくすりと笑い声が聞こえた。
ブラッドは楽しくて堪らないといった風に顎に手を置きながら、少年のように悪戯に首を傾げる。彼の凛々しい額の中心で分けられた黒髪が揺れた。
「ああ。俺のは知っているか?」
「『黒衣の仮面公』ですね」
歯に衣着せぬオリヴィアの様子にブラッドが堪らず大きな笑い声を上げた。途端周囲の視線が一斉に彼等に集中する。
中にはぎょっと顔を驚愕に変えている者もいた。
何しろあの『黒衣の仮面公』が笑っているのだ。
この五年間、上の兄が亡くなってから一度たりとも笑顔を見せたことのなかった男が。
ひとしきり笑ったブラッドはオリヴィアに「いや、すまない。あまりにも君の物言いがはっきりしていたから」と彼女に軽く謝罪した。
それからすっとオリヴィアの方に歩み寄り、濃いグリーンのややシンプルなドレス姿の彼女をじっと見下ろす。
「『渇きの令嬢』と『黒衣の仮面公』が踊る夜……か。中々面白そうだ。君の申し出を受けよう。いや、ぜひとも、こちらからダンスを申し込ませて欲しい。オリヴィア=ハートレイ嬢、どうか今宵ひと夜の思い出に、一曲踊ってはいただけないだろうか」
ブラッドが腰を折り、オリヴィアに手を差し出す。彼の動作に合わせて黒い艶髪がさらりと肩を流れた。それは公爵と呼ばれるに相応しい、優雅で洗練された仕草だった。
「仮面公様に言葉をお貸しできるなんて光栄ですわ。……喜んで」
オリヴィアは満面の笑みで彼の手を取った。
瞬間、触れ合った二人の皮膚の間に電流が走る。
オリヴィアはその時、人々の視線も声も全てが消え去ったかのような気がした。
「……」
「……」
互いに無言で、そして驚きの表情を浮かべていた。二人の仮面の奥にある瞳が開いている。
ただ手が触れただけ。
それだけだというのに二人は凄まじい衝撃を受けていた。
(今のは、なに? 手に雷が落ちたみたいだったわ)
オリヴィアが固まっていると、ぐいと繋いだ手を引かれた。彼女の半身が厚い胸板に埋まる。見上げれば、黒い仮面の公爵が強い眼光で彼女を刺し貫いていた。
まるで全身の血が沸騰したような心地だった。男性とここまで密着したのは初めてだ。
「あ、あの」
「……行こう」
「は、い」
戸惑う彼女の腰を反対の手でぐっと押さえたブラッドは、この炎のような令嬢を二度と離したくないような、切望感にも似た感情が心になだれ込むのを感じていた。
しかし孤高の公爵はそんな素振りを微塵も見せることなく、優雅にオリヴィアを導いていく。
ブラッドの掌はしっかりとしていて温かく、彼女の緊張を和らげた。
手を重ねた二人が舞踏会場の中心へ歩くのに合わせて、また人の波が割れていく。
みな驚愕の表情を浮かべていた。
あまりの衝撃に思わず「仮面公が、渇きの令嬢と」などと口走る者もいたほど。
二人はそんな者には目もくれず、互いだけを見つめたまま舞台のように開けた場所へ進むと、流れる音楽に合わせて軽やかに踊り始める。
オリヴィアの真っ赤な髪から零れた後れ毛が動きに合わせてふわりと揺れて、彼女のスカートの裾が翻るのに応えるように、ブラッドの黒髪と漆黒の外套も舞った。
彼等を見た全ての紳士淑女が目を瞠った。そのあまりの美しさと、似合いの二人に。
どれほどの人が感嘆のため息を零したろうか。
「君はなぜ……俺と踊ろうと思ったんだ。記念か何かか」
まるで焦げ付くような、凍った血が炎に炙られ溶けていくような不思議な感覚を味わいながら、ブラッドはオリヴィアに尋ねた。
かつて他の令嬢達と踊った時よりも隙間を詰めて、低い声で彼女に囁く。
今宵ひと夜の思い出に、と言った彼女の言葉は自分を選んだものなのか、それとも『ロンダング公爵』を選んだものだったのか、知りたかった。
「……貴方がお優しい方でしたので。それに最後に踊るなら、美しい方が良いと思っておりました」
ブラッドがぴくりと眉を上げた。彼女の言葉の真意を測ろうと注意深く様子を窺う。
けれどオリヴィアは太陽のようにからりと笑っていた。ややほんのりと、頬を染めて。
そんな彼女に毒気を抜かれたブラッドは、正しく言葉の意味を理解した。
「それは外見でなく、という意味か」
心根を美しいと言ってもらえるのは素直に嬉しかった。ただほんの少し、外見はそうではないと言われているのだろうと傷つきながら。
しかしオリヴィアが首を横に振った事で、早合点であったと知る。
「いえ、すべてです。私は貴方を見たのは今夜が初めてでした。空々しく聞こえるでしょうが、私は貴方の全てがとても美しいと思いました。他者の立場を慮り、なおかつこの場を堂々とお歩きになる貴方の姿が。おこがましいですが、私もこの先、貴方のようでありたいと……そう思ったのです。令嬢となくなっても背筋を伸ばして、真っ直ぐに。……最後の夜に麗しの公爵様をこの目に出来て、私は幸運でした」
白い仮面の下にある唇が寂しげに微笑む。
オリヴィアの生家、ハートレイ男爵家の財政が傾き始めたのは彼女の父が後妻を迎えてからだった。
後妻は前妻の娘であるオリヴィアを虐げたりはしなかったが、ひどい浪費癖の持ち主だった。結果ハートレイ家は後妻を迎えてから数年足らずで没落の憂き目にあっていた。
このまま潰れるよりは、自ら爵位を返上しようと決めたのは父とオリヴィア自身だ。
後妻は今も彼女を金のある貴族男性に嫁がそうとしているが、流石の父もそれには首を縦に振らなかった。高位の貴族の元で侍女として働くにも伝手が無い。
だが一平民になるという決断をしたはいいものの、やはり未知の世界である。
古くから父と交友のある商家で雇ってもらえるようにはなっているが、それでも不安はあった。
だからこそ余計に心惹かれたのかもしれない。
堂々と人々の前を歩む彼の姿に、一種の憧憬を抱いたのだ。
オリヴィアに純粋な羨望の眼差しを向けられ、一瞬ブラッドの踏むステップがもたついた。あまりにも素直な褒め言葉と憧れの眼差しを向けられ、動揺したのだ。
けれどオリヴィアが綺麗に足をさばいたので、なんとか無様を晒さずに済んだ。
「す、すまない」
「いいえ」
ふんわりと優しく微笑む赤毛の令嬢に、ブラッドはどくりと自分の血液が脈打つのを感じた。
【今】の自分の姿をこんなにも真っ直ぐに、純粋に褒められたのがどうしようもなく嬉しかった。
「俺のこの顔を醜いとは思わないのか。仮面ですら隠し切れない、この焼け爛れた皮膚を」
だからつい賭けに出てしまったのだ。
今度はブラッドの方がオリヴィアに賭ける番だった。彼女ならば、あるいはと。
「あら、公爵様はお耳が遠くていらっしゃる? 私は『今の』貴方様を美しいと感じたのです。それ以外に何もありませんわ。だって私は以前の公爵様を存じ上げませんし」
あっけらかんと言い切った令嬢は、続けて「旅費がかさむので、これまで舞踏会に参加したのもデビューを合わせて数回しかないのです」と恥ずかしげに打ち明けた。
「な……ふ、ははっ……そうか」
悪戯めいた返しと暴露にブラッドが軽快に笑う。周囲がどよめいたがかまわなかった。
オリヴィアは無表情で現れた仮面公爵が朗らかに笑む様を嬉しく思った。
そうさせているのが自分だというのがとても誇らしかった。けれど次の瞬間、片手を取られて驚いた。
彼女の手袋を履いた手がブラッドの仮面に持っていかれる。ぐっと指先を掴まれたオリヴィアは思わず頬を紅潮させていた。それを見たオニキスの瞳が妖しく煌めく。
「ならば見て、触れられるか。この醜く歪んだ男の顔に」
オリヴィアの手を仮面に押しつけながら、どこか請うようにブラッドが告げた。
二人はいつの間にか足を止め、舞踏会場の隅に移動していた。ブラッドが巧みに誘導したのだ。
「……お許しを、いただけるのでしたら」
オリヴィアが恥じらいながらそう答えると、ふっと微笑んだ仮面公爵は彼女の手を離さないまま外へと促した。
開かれた硝子扉から吹き込んだ風が、白いレースのカーテンを揺らしている。
「他の者には見られたくない。……テラスへ、月明かりで見てくれ。仮面を外そう。……できれば、悲鳴は上げてくれるな」
「わかり、ました」
神妙に答えたオリヴィアの手をブラッドが優しく引いていく。
ブラッドはまるで自分が少年時代に戻ったような心地だった。
胸にあるのは拒絶されたらという不安と、逆に受け入れてくれたならという期待。
二人は秘密の花園に向かうようにそっと集まりから離れ、静かに薄布の向こうへと消えた。
彼等を追いかける者は誰もいなかった。
「―――仮面を外すから、少し離れてくれ」
「は、はい」
広いテラスの片隅、青白い月明かりに照らされた欄干のすぐ傍で二人は密やかに向かい合っていた。
雨季を過ぎたからか王都といえど風はやや乾いていて、時折吹けばさらさらとブラッドの黒い艶髪を揺らした。
そのあまりの美しさにオリヴィアは無言で息を呑んでいた。
彼は傷のことを気にしているようだが、そもそもブラッドは素晴らしく整った顔立ちをしている。晒された額には色気があり、きりりとした黒い眉も形良い。
仮面をのせた鼻梁も程よく高く、薄い唇は官能的だ。顎から首元にかけてのラインには男性的な逞しさがある。
体躯はすらりとしていて長身が際立っているが、鍛えられた肉体の気配が着衣越しにも見て取れた。
そんな男性と夜にこうして向かい合っているだなんて、オリヴィアは自分がまるで別世界に来たような気持ちだった。
「オリヴィア=ハートレイ嬢、俺が女性に顔を見せるのは君で二人目だ。一人目は婚約者だった。しかし彼女はこの仮面の下を見た途端、悲鳴を上げて俺から去っていったよ」
「え……」
ざあ、と風がブラッドの黒髪を巻き上げた。
同時に彼が仮面を外すのが見える。
右の掌で仮面を掴み、左手は頭の後ろにある留め具の方へ。
パチリと留め金具が外れる音がした。
そしてゆっくりと―――彼の顔から黒い革の仮面が離れていく。
「どうか……叫ぶのだけは」
それは懇願だった。これ以上傷つけないでくれという切なる願いだった。
あまりにも悲しく響いたその声に、オリヴィアの胸が締め付けられる。
(ああ、なんて……思った通り……とても美しいわ)
確かにブラッドの顔面右側には大きく焼けただれ溶けたような傷痕があった。右目周りとそこから下の皮膚が変色し変形して、不規則な隆起を象っている。
けれどそれはオリヴィアの目には傷というよりも、誇らしく花開いた薔薇の花弁に見えていた。青い月明かりに照らされて、恐らく赤いだろう花が落ち着いた気品ある紫に変じている。
紫は、高貴な色だ。それはさながら紫の薔薇だった。
冷静の青と情熱の赤をあらわす色。
「……薔薇」
「オリヴィア嬢?」
思わずそっと手を伸ばしかけていたオリヴィアはブラッドの声にはっと我に返った。
仮面を外し素顔を晒したブラッドが驚きの表情で彼女を見下ろしている。
オリヴィアは咄嗟に「失礼しました!」と謝罪した。
無意識だったが、やや距離があり届かないとはいえ傷に触れようとするだなんて失礼にも程がある、と自分を恥じた。けれどなぜか無性に彼に触れたくなったのだ。
まるで吸い寄せられたかのような不思議な感覚だった。
彼が傷痕と呼ぶそれが、この世ならざる花のように美しく思えて。
「君はまさか、この傷に触れたいのか?」
ブラッドは驚きを隠さないまま彼女に問うた。
彼もまた知らぬうちに彼女に歩み寄っていた。自分から離れるようにと言ったのに、その距離を詰めてしまっていた。
オリヴィアがまさか悲鳴を上げるでもなく、怯えるでもなく、ましてや憐れむでもなく触れてこようとするとは思わなかったのだ。
しかもあんな、彼の心臓を貫くようなうっとりした蕩けた表情で。
「どうなんだ?」
ブラッドの問いかけにオリヴィアは顔を朱に染めながら返答に窮していた。
失礼をしたうえに傷に触りたいなどと口にできるはずもない。だがブラッドの追及はやまない。
「正直に言ってくれ。この白く濁った右目は失明しているんだ。皮膚は赤く溶けて惨たらしくただれているだろう。なのに君は触れたいのか、どうなんだ」
ブラッドが腰を屈めてオリヴィアの目の前に顔を寄せた。
口付けてしまいそうな至近距離にオリヴィアの顔がより赤く染まり熱を持つ。
ブラッドはその初々しい様を間近で眺めていた。そして心を歓喜に震わせていた。
まさかこの顔を見て頬を染める令嬢がいるとは思いもしなかったのだ。
ブラッドはもう、オリヴィアから目を離すことが出来なくなった。彼の黒いオニキスの瞳に、燃える赤毛よりも濃く強い炎が宿る。
「……オリヴィア。君が望むなら、どうか触れてくれ」
ブラッドは両手を腹の前で強く握っていたオリヴィアの手を取り己の顔に引き寄せた。
するとやっと観念したオリヴィアが、赤く染まった可愛らしい表情のまま、目を潤ませブラッドを見上げる。
その表情はブラッドの心を射るに十分な威力を発揮した。
彼女の小さな手を握る掌に知らずじわりと力がこもる。
「触れても、痛みはしませんか?」
しかも恥ずかしそうに囁く唇から漏れたのは彼を労る優しい言葉だった。
ブラッドがふわりと微笑む。
物怖じせず、素直で、そして心優しい男爵令嬢に仮面を外した公爵は素顔の笑みを見せていた。
「もう五年も前のものだ。雨が降れば疼くこともあるが、普段はそうでもない。さあ、どうぞ」
ブラッドが両目を閉じてオリヴィアの手を自らの傷痕に触れさせた。そして好きにしていいと促すように彼女の手を離す。
顔は彼女に傾けたまま。触りやすいようにと。
手袋をした細い指先が、焼け溶けてつるりとした皮膚の表面に触れていた。
「あ、ありがとう、ございます……その、手袋を外した方が良いでしょうか。私の手は荒れておりますので、このままの方が良いかと思うのですが」
触れることを許されたオリヴィアは一瞬喜びに口元を緩めたが、次の瞬間には困ったように弱々しい声を発していた。
その声に、ブラッドがぱっと瞼を上げる。
「荒れている?」
輝いていたエメラルドグリーンの瞳がたちまち意気消沈するのを見て、ブラッドは優しく彼女に問い返した。オリヴィアが悲しそうに自らの手を見てから仮面の中の瞳を伏せる。
「指先が硬いのです。我が家では食べる物にすら困窮する有様でして……畑を、作っているものですから。なので私の肌はこうも焼けているのです」
「そうなのか」
オリヴィアの話を聞いたブラッドは、なるほどだから彼女の肌は少し焼けているのかと納得していた。
今は月夜の下でそれほど目立たないが、舞踏会場で見た彼女はやや痩せてはいるものの健康的な濃いアイボリー色の肌をしていた。
それは彼にとって好ましいとしか言えず、青白い不健康そうな他の令嬢よりもずっと綺麗に見えていた。
しかしどうやら、オリヴィア自身はそれを負い目に感じているらしい。
当の本人は普段土を触っている手で顔に触れるつもりだったのかと、ブラッドの怒りを買ってはいないか怯えていた。
引き寄せられた手もぎりぎり触れないところでぎゅっと握り締めている。
手袋に隠された指先は、本来柔らかであるべき指の腹さえ硬く硬質化しているのだ。
布越しでは失礼にあたるかもしれない。けれどオリヴィアの場合、かさついて荒れた指では彼の薄い皮膚を傷つけてしまいそうで心配だった。
ブラッドはそんな優しい彼女の心を汲み取り、再び己の顔をそっと怯えた手に寄せた。
オリヴィアの肩がびくりと跳ねる。
なんと優しい娘だろうか、と仮面を外した公爵はますます燃える赤毛の令嬢が愛おしくなった。
「……なるほど、君の手は大地の手なのか。それは良いな」
仮面の下の口元が優しく微笑んでいる。
大地の手。その言葉をオリヴィアは呆然としながら心で繰り返した。
まさかそんな風に言ってもらえるとは思わなかったのだ。
ぶわり、と彼女の心に熱い感情がわき上がった。
この社交界で何度も焼けた肌や荒れた手を嘲笑われた。だから彼女は手を手袋で隠した。
同じ年頃の女性にも、同じく男性にも。暮らしに困窮してから数年、これまでずっと、オリヴィアは蔑まれて生きてきたのだ。
「っ……ありがとう、ございます」
思わず漏れそうになった嗚咽を、オリヴィアは礼の言葉で押し殺した。
美しい人だと思った。この世にこんなにも美しい人がいたのかと、こんな男性がいてくれたのかと、救われたような気持ちだった。
そうして、彼女は手袋を脱いだ。
かたや仮面を外した公爵と、手袋を脱いだ男爵令嬢。
どこか似ている二人はそっと、月明かりの下で微笑みあった。
「―――……ああ本当に、まるで花のようですね。薔薇が咲いているみたい」
「薔薇は言い過ぎだろう……慰めはいらん」
そっと真綿に触れるように指先で傷痕を辿るオリヴィアを、ぶっきらぼうな言い方に反してブラッドが擽ったそうにしながら笑いを堪えている。
まさかこの傷痕を薔薇と表現されるとは。
大袈裟な社交辞令ではないとわかるからこそ彼は素直に照れていた。
五年前、襲撃を受け顔にかけられた薬品で酷い痛みを経験した後、包帯をとってからの周囲の反応は様々だったが、みな総じて「なんと惨たらしい」だとか「お気の毒に」だとかブラッドを憐れむ言葉しか口にしなかった。
これを花のようだと言ってのけたのはたった一人。
この目の前にいる、ようやく見つけた女性一人だけ。
ブラッドの否定の言葉にオリヴィアが首を横に振る。そしてすぐに労るように傷痕全体を掌で優しく包んだ。彼女の体温がブラッドに伝わる。
オリヴィアは自分の荒れた掌やささくれた皮が彼の薄い皮膚にひっかからないよう細心の注意を払いながら、己の手を受け入れてくれた高貴なオニキスの瞳を覗き込んだ。
「慰めではありません。ですがこの様子ではさぞ痛みがあったでしょう。昔、装蹄師の青年が鉄で負った火傷を見た事があります。蹄鉄を作る時に誤って自分の手を焼いてしまったそうで」
彼女の話にブラッドがぱちりと目を瞬いた。傷痕など関係ない、素直な反応だった。
そこには純粋な興味が表れている。
「似ているのか」
「そうですね。公爵様の皮膚と同じ花びらのようになっておりました。彼はあまりの痛みに泣き叫んだと言っていましたよ」
オリヴィアがそこまで言うと、仮面を外した公爵は口元をきゅっと結んでじとりと彼女を見据え拗ねた表情をした。
「俺は泣いてない」
その可愛らしい反応にオリヴィアはつい笑ってしまう。
「ふふ。そうでしょうね。ですが泣こうが泣くまいが、痛いものは痛いはずです。……さぞ、酷い痛みでしたでしょう」
「……ああ、そうだな」
ただ心配だけを滲ませた言葉には憐れみも同情もなく、ブラッドの凍てついていた心はもうすっかりこの赤い太陽のような令嬢に溶かされていた。
それどころか―――ほしい、と。
強い欲望が湧き上がっていた。
「こうして触れていても、痛まないのですか」
「ああ……それはない。むしろ」
「むしろ?」
君に触れられるのは心地よい、という言葉をブラッドは飲み込んだ。
溶けただれた皮膚は今やほとんどの感覚を失っている。表面への圧迫で触れられているというのはわかっても、温度や触感を感じる能力は著しく低下しているのだ。
だというのに彼女の優しく触れる指先は筆舌に尽くしがたいほど心地よく、じわりと伝わる体温もブラッドの心をとても穏やかにしていた。
まるで子猫の背を撫でるように頬を滑る彼女の手が、ずっとこのままなら良いと思うほどに。
ブラッドはこの時間が、時計の針を止めるように永遠に続いてくれたら良いと願っていた。
もう彼女を離したくないと。
そう思いながらふと瞼を上げると、ブラッドの視界にエメラルドグリーンの宝石が二つ映る。オリヴィアは突然彼が目を開けたことに驚いて思わずさっと手を引っ込めていた。
その手がブラッドにぱしりと掴まる。
オリヴィアの目と鼻の先に、炉で燃えるような黒い石の瞳があった。
(まさか、これは)
驚愕に固まるオリヴィアは、迫ってくるブラッドの薔薇咲く面を呆然と見つめていた。
こつりと鼻先が触れる。そして吐息が頬を撫でた時―――ブラッドがはっと我に返ったように動きを止めた。
「っ……、さあ、そろそろ戻ろう。今宵は時の許す限り、君と踊りたい」
さっとオリヴィアから距離を取ったブラッドが彼女の手を引き中へと促す。
(いまの……口付けられるかと、思ったわ。……まさかね)
オリヴィアはありえない願望を抱いてしまった己を恥じた。
まさかこの高貴な男性が、明日からは令嬢でもなくなる自分に口付けるなどありえない。
そう思い直しながら彼女は黒い仮面を素早く元に戻した黒衣の仮面公のエスコートを受けた。
端正な横顔を見つめつつ、オリヴィアは今夜彼に出会えた事を神に感謝した。
オリヴィアはなぜブラッドが自分に仮面を外して見せてくれたのかわからなかった。
だから思いもしなかったのだ。
このたった一夜の最後の舞踏会が、彼女の人生を一変させることになろうとは。
ブラッドは宣言通り時間の許す限りオリヴィアと踊り続けてくれた。
普通なら同じ相手と何度も踊ることはマナー違反であるのに、それを無視してくれたのだ。オリヴィアのために。
最後の曲が終わり、オリヴィアはブラッドへ膝を曲げて深くお辞儀した。
「ロンダング公爵様」
「どうした」
「今宵、ひと夜の思い出をありがとうございました」
彼女の白い仮面の内できらりと何かが光ったのを、ブラッドは見逃さなかった。
同時に虚を突かれて息を呑んでいた。そのあまりに美しい輝きに、魅せられたのだ。
「……ああ」
やっとの事で声を絞り出した時、オリヴィアは瞳に涙を滲ませながらにっこりと満面の笑みを浮かべていた。満足そうな笑顔だった。
これで悔いはないと言わんばかりの。
「貴方様の幸福を、お祈りしておりますわ」
「……ありがとう」
仮面舞踏会が静かに終焉へと向かう中、燃えるような赤毛の令嬢は深い感謝の念を込めて黒衣の仮面公にさよならを告げた。
最後にもう一度綺麗なカーテシーを見せたオリヴィアにブラッドが礼を返すと、彼女は淡い微笑を残しその場を辞した。
人生最後の、そして最高の夜を終えたオリヴィアは気付いていなかった。
彼女の燃える赤毛が消えた後、名残惜しそうに仮面公爵がその場に留まり続けていたことを。
そして、彼の唇から落ちた言葉を。
「思い出になど……させるものか」
ブラッドが自らの仮面に触れながら零した強い想いの言葉は、彼女が去った後に吹き込んだ風に攫われ消えた。
見ていたのはただ一つ、仮面舞踏会の夜を照らした夜空に白く輝く月だけだった。
「ふう。こんなものかしら」
まだ午前だというのに照りつける太陽の熱さにオリヴィアは手の甲で額の汗を拭った。
彼女の肌が薄ら泥で汚れ、乾いた風が束ねた赤い髪の後れ毛と砂土を舞い上げていく。
雨期を終えた今、夏を迎えるハートレイ領の風は乾いている。
こんな風に身体を動かしているのはいてもたってもいられなかったからだが、悲しいかな貧乏ゆえに自給自足せねば食べていけないからでもあった。
今日、オリヴィアの父ハートレイ男爵は朝早くから王都におわす大法官の元に出向いている。爵位の返上手続きのためだ。
それが済めばたちまちオリヴィアは貴族令嬢ではなくなる。
没落貴族の娘、という肩書きが残るのみだ。
(元より、貴族令嬢としてはあまり扱われたことがなかったけれど)
オリヴィアは鍬《くわ》を持つ自分の手を見た。
割れて血が出ないよう短く切った爪の先には、畑の土がみっしり詰まり黒ずんでいる。ささくれと細かい傷もある焼けて乾燥した手には、まるで老女のような皺が刻まれていた。
彼女が『渇きの令嬢』と呼ばれる所以《ゆえん》はハートレイ領の乾季が厳しいというのもあるが、もう一つ、オリヴィアのこの乾燥し荒れた肌も由来している。乾燥はひどく肌を痛めるが、貧乏男爵家の娘に手入れをするための化粧品を買う余裕などあるはずもない。
白く美しい肌こそレディの証。そうでないオリヴィアは社交界デビューした頃から同年代の貴族令嬢達より劣る扱いを受けていた。
(それでも失うと思えば、寂しくなるものね)
元から貧乏な家ではあったが、母が生きていた頃はここまで酷くはなかった。しかし後妻が来てからは急降下だ。
けれどオリヴィアの母が亡くなってから十年近く独り身だった父に、優しい娘は文句を言うことが出来なかった。たとえ令嬢でありながらこうして畑仕事に精を出すようになった今となっても。
ハートレイ家の手元に残った資産といえば修繕が必要な屋敷と、微々たる土地や祖父が残した骨董品があるだけだ。
中には値打ちものもあるかもしれないが、それでも父と後妻、そしてオリヴィアの三人が食べていくには足りないだろう。
それにオリヴィアと同じくらい濃い赤毛を持っていたらしい祖父の骨董品は、疲れた彼女の心を癒してくれるためこれ以上売りたくもなかった。
「……できれば冬までに、ここをもっと広くしたいわね」
猫の額ほどの畑を見下ろしたオリヴィアは領民である地元の農民に教えてもらいながら作物を育てている。
彼女はそのからりとした性格から人々に好かれていた。金遣いの荒い後妻のことも同情を誘ったのだろう。
貴族令嬢でありながら泥にまみれることを厭わず、親しげに民に接するオリヴィアのことを嫌う者はこの土地にいなかった。
令嬢らしくない令嬢。
それがオリヴィア=ハートレイだった。
「あら? どなたかいらしたのかしら」
オリヴィアの視界に土埃を上げ走る黒い馬車が映った。
ろくに舗装もされていない道を走る銀装飾が見事な四輪馬車は、強い日差しを受け黒光りしながら真っ直ぐに彼女の生家であるハートレイ家を目指している。
「大変っ! 今日はお父様もいなくてカミラだけなのにっ!」
オリヴィアは鍬を放り出し慌てて家に向かって駆け出していた。
カミラとは後妻のことだ。激しい浪費癖で実家の子爵家からも見放されている彼女は爵位の返上について未だに納得していない。
今日で一平民となるというのに、まだオリヴィアを欲しがる金持ちがいないか血眼になって探しているのだ。
ただでさえ貧乏男爵家の娘で乾いた地に住む渇きの令嬢と呼ばれ敬遠されているというのに。
そんなカミラを客人に会わせたらどうなるか―――オリヴィアは走りながら身震いした。
カミラは浪費癖はあるものの、人としては酷い人間ではなかった。だがそれは今日までのこと。
今の様子では変態じみた枯れ木のような老人でもオリヴィアの婚約相手にしてしまいそうだった。
「どうか変なことになっていませんように……!」
オリヴィアは祈る気持ちで必死に足を動かした。
それが後の祭りであるとは思いもせずに。
「まあ! でしたらすぐにでも花嫁衣装を用意いたしませんと!」
オリヴィアが客間に着いた時、とんでもない台詞が中から聞こえてぎょっとした。
流石に客人の前に泥まみれで出るわけにもいかないので、一旦部屋に戻ってから着替えてきたが、どうも仇になったようだ。
(遅かったかしら)
彼女は内心うんざりした。もう今日の昼過ぎには爵位の返上手続きは済んでしまうのだ。
今さら婚約など決められても断るほかなく、そうなれば確実に相手を怒らせるだろう。
平民なのに貴族令嬢だと偽ったとして詐欺罪で訴えられるかもしれない。
(とんでもないことだわ……!)
オリヴィアは大いに焦りながら部屋の扉をノックした。中から聞こえた返事はカミラだ。使用人にはほとんど暇を出しており、残っているのは老齢な執事だけで、その彼も今日は父に付き添い王都へと出向いている。他は中年の通いメイドが一人だけ。
なのでオリヴィアは自分で扉を開けた。そして開口一番、客人へ断りを告げる。
「失礼いたします。私は娘のオリヴィアと申しま―――」
しかしお辞儀をしてから顔を上げた彼女の口上が、急遽中断された。
原因は目の前にいるたった一人の客人だった。肩までの長く黒い髪、黒革の仮面。それから長身を包む漆黒の衣装。
そこには、あの『黒衣の仮面公』ブラッド=ロンダング公爵がいた。
(嘘でしょう?)
オリヴィアはあまりの衝撃に息をするのも忘れて立ち尽くした。
(なぜ、どうして……彼がここに?)
混乱と同時にオリヴィアの心に歓喜が溢れる。
もう二度と会えないと思っていたのに、再会の嬉しさで胸が焼け付くようだった。
「やあ、オリヴィア嬢。昨夜ぶりだ」
黒い革の仮面を着けたロンダング公爵―――ブラッドが微笑を浮かべオリヴィアに向かい礼を取る。彼女はそれを呆然と眺めていた。
目の前にいるのは昨夜彼女に最高の思い出をくれた麗しの公爵である。
けれど状況が掴めない。なぜ彼が我が家にいるのか、皆目見当がつかなかった。
「オリヴィア=ハートレイ嬢。君に婚約の申し出をしにきた」
仮面の中のオニキスの瞳がきらりと煌めく。
オリヴィアはそこに、獲物を狙う肉食獣の目を見た気がした。
(今、彼は何と言ったの?)
オリヴィアは信じられない思いでブラッドを、ロンダング公爵を見つめていた。
予定外の客人がもう二度と会えないと思っていた人で、なおかつ「婚約の申し出をしにきた」と言ったのだ。頭が追いつかないのも無理はない。
「こ、公爵様、婚約とは一体どうして……」
自分が今日で貴族令嬢でなくなることは昨夜彼にも話したはずだ。だというのに、なぜそんな話になっているのだろうか。
「オリヴィア。公爵様は昨夜のダンスで貴女を気に入ってくださったようなのよ! なんという奇跡でしょう!」
戸惑うオリヴィアに反し後妻のカミラは嬉々としてふくよかな頬を綻ばせている。
これで貧乏から脱却できると喜色が滲んでいた。
だがオリヴィアはそう簡単に喜ぶことなどできない。没落貴族の娘が公爵様の婚約者などになれる筈もないのだから。
「ですが私は」
「俺は、ひと夜の思い出にする気はない」
「え……」
困惑するオリヴィアの言葉を遮ったのは誰あろう公爵自身だった。
ブラッドは昨夜の舞踏会場で着ていたのとは違う、しかし色は同じ麗しい漆黒の正装姿で姿勢を正し彼女に歩み寄った。
颯爽と歩く姿は昨夜より堂々として見える。靡く黒髪が夜の帳のようだ。
「オリヴィア=ハートレイ嬢。どうか婚約の申し出を受けてくれ。俺は君が欲しいのだ」
「っ……え、あ、その、あの」
真っ直ぐな言葉をぶつけられて、オリヴィアの心が激しく揺れた。
欲しいとこうまではっきり断言されたのも初めてだったし、婚約の申し出を受けたのも初めてだ。
オリヴィアは自分の頬が一気に紅潮するのを感じていた。心が浮き立ち、ふわふわと空中をただよっているような、面映ゆさと緊張で頭がどうにかなりそうだった。
「ええ、ええ勿論ですとも! 公爵様のお申し出をお断りするはずございませんわ! 喜んでお受けいたしますとも!」
混乱しているオリヴィアに代わってカミラが勢いこんで返事をしていた。決めるのはオリヴィアであるはずなのに勝手な物言いである。
それにブラッドがやや眉を顰めたが、彼はカミラには視線を向けずオリヴィアだけを熱く見つめていた。
彼はオリヴィアを必ず手に入れると誓ってはいたが、無理強いする気はなかった。
ただ返事をじっと待っているブラッドを認めて、オリヴィアが慌てて声を出す。
「お、お待ち下さいお義母様! そもそも今日、我が家は爵位を返上するのではないですか。ですから私はもう……」
一平民であり公爵家と婚約など結べるはずもないのだ、と続けようとしたのを止めたのはまたしてもブラッドだった。
「それならば心配はない。今頃お父上は俺の従者に連れられ、こちらにとんぼ帰りしている頃だろう」
「……え?」
「まあ!」
突拍子もない話にオリヴィアは目をぱちりと瞬かせ、カミラは喜びに沸いていた。
最後の最後まで爵位を失いたくないと嘆いていたのだ。カミラの反応も仕方なかった。
けれど平民になると一代決心をしていたオリヴィアにとって、それは寝耳に水の話であった。
「そんな、まさか」
「これは真実だ。オリヴィア」
信じられない思いの彼女にブラッドが諭すように言う。オリヴィアの混乱は境地に達していた。
突然やって来たかと思えば、まさかそんな用意周到であったとは。
「な、なぜ、そこまで……」
するのか。たかが男爵令嬢の自分ごときに。そう謙遜ではない当たり前の意味を含んだオリヴィアの台詞に、ブラッドは一層彼女との距離を詰めて心許なさげにしている荒れた手を取った。
今のオリヴィアは手袋をしていなかった。
爪先に土の詰まったその手をそっと優しく包み込みながら、ブラッドが想いを綴る。
「昨夜出会ったばかりの君のことが、頭から離れなかった。俺は君が欲しい。だが無理強いするつもりはないのだ。君の強い決意を知っているからな」
断るという逃げ道を示したブラッドは少し寂しげにそう告げた。
ほんの少し力の込められた彼の掌は熱く、じわりとオリヴィアを内から炙る。
(どうして、そうまでして)
信じられない思いだったが、オリヴィアは心の底から嬉しかった。昨夜は彼女にとって人生最高の思い出となっていたのだ。その相手からの婚約の申し出が、嬉しくないはずがない。
「君は言っていたな。貴族令嬢とは君にとって重荷でしかない肩書きだと」
「……はい」
「一度心に決めたことを覆すのは容易ではないだろう。だがあえて俺は君に願いたい。どうか一ヶ月だけでも俺の婚約者として過ごしてくれないか」
昨夜の会話を克明に覚えているブラッドに感動しながらオリヴィアは彼が出した条件を聞いた。
「一ヶ月……」
「その間に俺を好ましいと思えなければ婚約破棄してかまわない。だがもし、君の心を射止めることができたなら、俺の妻になって欲しい」
「そんな、畏れ多いことです……!」
「オリヴィア」
慌てて後ろに下がろうとしたのを手を引いて制されて、オリヴィアはその場に留まった。
あまりにも強い、熱い視線に身体が縫い止められたかのように動かない。
彼に掴まれた手が知らず震えていた。ブラッドの一瞬一瞬の動きがゆっくりになる。
彼はオリヴィアの手をそっと離すと、厳かに彼女の足下に跪いた。
正式に求婚の申し入れをする作法と、同じように。
さらりと流れた黒髪が伏せた仮面の端にかかるのを見ながら、オリヴィアは微動だにできなかった。
頬を真っ赤に染める彼女を見上げ、ブラッドが沈痛な面持ちで囁く。
それは最早懇願だった。
「……俺にも、君との思い出をくれないか」
(―――!)
その瞬間、オリヴィアの心は決まった。
ブラッドの事を知ればきっと自分の心は恋に落ちてしまうだろう。もう既に落ちているのかもしれない。彼の黒い艶髪も仮面も、オニキスの瞳だってオリヴィアには昨夜も今も素晴らしく魅力的に映るのだから。
(ああ、もう、駄目だわ……貧乏貴族の娘が公爵家の妻など務まるはずもないけれど……許されるというなら、あのひと夜の思い出を、ひと時の夢にしてしまいたい。たとえ最後に泣くことになってもかまわない。彼が私をこうまで求めてくれる理由が、物珍しさや束の間の戯れだったとしても、それでも)
彼女はめまぐるしく浮かんだ考えを一度その緑の瞳を閉じて頭から追い出した。
ゆっくりと瞼を上げながら心にある一番強く響く自らの声を聞く。
(令嬢でなくなる日が延びただけ……ただそれだけの事でしょう。けれど、それでもいつかは良い思い出話にできるわ)
オリヴィアはこくりと頷いた。
「……謹んでお申し出を、お受けします」
「オリヴィア……!」
喜びに思わず立ち上がったブラッドが彼女を勢いよく抱き締める。それをカミラが後ろで満足げに眺めていた。
(これは、いつか終わる夢の続きだわ)
ブラッドの腕に抱き締められながら、オリヴィアは昨夜の、あのひと夜の思い出がもう少しだけ続く幸運を噛み締めた。
同時に、必ず終わりも来るのだと諦めもしていた。
長く社交界で蔑まれてきた彼女に女としての自信などあるはずもなく。
貴族の地位を捨てる覚悟は出来ても、己が誰かに愛され求められるという可能性を考えることは出来なかったのだ。
こうして、『渇きの令嬢』は『黒衣の仮面公』の婚約者となった。
(――つづきは本編で!)