作品情報

醜いと噂の婚約者は眉目秀麗な侯爵様でした

「――愛するひとがきみでよかった」

あらすじ

「――愛するひとがきみでよかった」

伯爵令嬢セシリアのもとに、見合い話が持ち込まれた。とある事情で結婚に明るい展望がない彼女は、断りたいものの親族の手前一度会うことに。知らされた情報は名前と家柄、年齢だけ。困り果てたセシリアが町を散策していると、女性たちの噂話が聞こえてきた。「ルーマライネン侯爵令息は、身体が大きくふためと見られない顔である」緊張したまま見合いに臨んだ彼女であったが、現れたお相手は、心の美しさに惹かれた一目惚れ相手で――?子女たるもの婚前交渉は愚かな行為だとわかっているのに、くちづけとともに抱きしめられ肌を押しつけ合うと、もっともっと先をと願ってしまう。彼女の期待とともに、彼の情欲はすでに猛りを露わにしていて……。

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作:日野さつき
絵:史歩

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 息を潜めて、庭師が通り過ぎるのを確かめる。
 庭木の樹冠がつくる木陰が折り重なり、いっそう暗くなった場所であっても、アルトの瞳が熱を帯びているのがわかった。
 頑強な樹木に背を預けたセシリアは、身体を密着させてくる彼を見上げていた。
 正面から見つめ合う――には、アルトのほうがずっと上背がある。
「……もう、誰もいないよ」
 ささやきかけてくる声にうなずいたセシリアは、すっかり頬を熱くしていた。
 頬に手を添えられ、セシリアは目を閉じる。
 人目を避けての逢瀬は、いつも唐突に訪れた。
 くちびるを重ねるのも、舌先をそっとなぞり合うようなくちづけを交わすのも、指先を絡めおたがいの温度を確かめ合うのも――すべて婚前の節度を求められる立場では、どうしても隠れておこなわなければならないものだった。
 逢瀬での胸の高鳴りは、いつもセシリアに思いがけない行動を取らせる。舌を絡めたアルトの首筋にふれ、着衣越しとはいえ胸元や脇腹を撫で上げていた。そうするとアルトのくちづけが深まっていった。
「ん……っ」
 彼の肌に直にふれたいが、それは堪えなければならない。
 ――もう少しの我慢。
 ――もうちょっとしたら、堂々と。
 流れてきた物音に、くちびるが離れていく。ガタガタという音は、道具を運ぶ庭師のものだろう。
 木陰から出ていこうとしたセシリアの身体を、アルトが抱きすくめてきた。名残惜しいと思っていたセシリアは、彼の腕に囚われたことをよろこんでいる。セシリアよりずっと大きな体格の彼は、いつも安らいだ時間を与えてくれた。
「ほんとうは俺、ずっとこうしていたいんだ」
 耳元に顔を寄せてきたアルトの低い声にうなずき、セシリアは彼の頬にくちびるを押し当てる。
「もうすぐそうなるけど……待ち遠しいわ」
 ふたりで木陰を出て行くと、少し先、庭の石畳で作業をしていた庭師と目が合った。彼は笑顔になると、手で目元を隠す。
 見ていません、という身振りに、セシリアとアルトは笑いはじめていた。

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 セシリアは緊張していた。
 緊張していてもお茶はおいしいし、広げられた手土産の菓子はおいしい。
「もうセシリアもすっかりおとなねぇ」
 来客――ミュタラが笑う声はやわらかかった。
 齢五十に手が届く遠縁の彼女は、物腰も表情もつねにやわらかい。
「十八ですがまだまだです、おばさま」
 給仕が果物を盛り合わせた大皿を運んできた。たっぷりのクリームが添えられ、ミュタラの微笑みがいっそう深いものになった。
「キヴァリスの領土は土がいいでしょう? 果物は楽しみなのよ」
「たくさん召し上がっていって、おばさま」
 セシリアの生家であるキヴァリス伯爵領は川沿いにあり、肥沃な大地を有している。季節ごとの実りは豊かだ。おかげで領主であるキヴァリス家も領民も、飢え知らずで暮らせている。
「ねえセシリア、頼まれごとをしてくれないかしら」
 果物に向き合おうとしたセシリアに、ミュタラは唐突に切り出してきた。
 ――きた。
 緊張が強まったセシリアは笑みを顔に貼りつけ、ミュタラに首をかしげて見せる。
「きっと楽しめるんじゃないかしら」
 大振りの苺にミュタラはナイフを入れていく。盛夏を過ぎてから実るよう、近隣の果物農家が苦心した一品だ。ゆっくり育てられたそれは滋味に富み、強い甘さで舌が蕩けたようになる。
「あら……こんなにおいしい苺、はじめてだわ」
「よろこんでいただけて嬉しいです」
「ね、アウノラに行ったことはある?」
 ない――アウノラはここマルトラ王国の首都だ。
「私ここから出たことは……兄さまなら出かけたことがありますよ。義姉さまのご実家に行くのに、アウノラを通ったほうがいいって話してて……」
「にぎやかで楽しい街よ、お店もたくさんあるし」
「……アウノラに、なにかあるんですか?」
 ミュタラは手にしたフォークの先をくるくるまわす。行儀が悪い。その子供っぽい仕草は、近しい人間の前でしか見せないらしい。
「楽しいことよ」
「……私が、行くんですか?」
「ええ。もうあなたのお母さまたちにも話してあるの」
 セシリアは空席になっている椅子を一瞥した。
 そこにすわるはずの母はまだ現れず、つまり織りこみ済みの話をミュタラから聞かされているのだろう。
 近親ではないが親類ではあるミュタラが訪れるのは、さほど珍しいことではなかった。
 話し好きで家に閉じ籠もるのが嫌いで、ミュタラが持ってくる手土産はたいていおいしい菓子である――そのためセシリアはミュタラの来訪をどちらかというと歓迎していた。
 いつもなら、母が同席しているのだ。
 彼女はたいてい吉報を、時折凶報を携えてくる。
 ミュタラが凶報こと厄介事を披露しはじめると、母はいつもセシリアを退席させた。その場で耳にせずともそのうち耳に入るのだが。
 直接耳に入ることになったのは、はじめてのことだ。
「おばさま、事情がよくわからないです」
 ミュタラが楽しそうに笑った。
 手にしたフォークで果物を刺し、目を細めてくる。
「セシリア、そんなに身構えないでちょうだい。ただ、あなたにお見合いはどうかと思ってるだけなの」
 つい「なにそれ」と言ってしまいそうになり、セシリアは慌てて手で口をふさいでいた。

(――つづきのお試し読みは各ストア様をご覧ください!)

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