作品情報

IRIEnovel Anthology 禁忌の愛 下巻

禁じられるからこそ、愛は激しく燃える

あらすじ

『禁忌の愛』をテーマに上下巻総勢10名の作家陣が贈る、珠玉の書き下ろし短編集。巻末にはラフギャラリーを収録。禁じられるからこそ激しく燃える、様々な形の愛をお楽しみ下さい。
■下巻収録作品:
『殺戮の戦士と嘆きの毒薔薇』(更紗)
『女王の褥~宰相閣下は愛を乞う~』(沙布らぶ)
『淪落の誓い』(桜旗とうか)
『翼の折れた鳥は愛し君を歌う』(蒼凪美郷)
『近衛騎士の姫やかな熱愛』(夕日)

作品情報

絵:唯奈
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み


 殺戮の戦士と嘆きの毒薔薇 § 更紗

「――っく」
 この夜何度目かの吐精を、ローズは胎内に受け止めた。
「っぁ……!」
 同時に弾けた衝動を浅い吐息で逃せば、奥で弾けた熱がじわりと広がっていくのを感じる。
 彼女の蜜壷はすでに吐き出された種で溢れ出していた。よくもまあこうも飽きずに抱き続けられるものだと、ローズは乱れた呼吸の合間に考える。
「……暑いな」
 流石に気が済んだのか、今宵も片手では足りぬほどローズを抱き明かした男は汗で濡れた黒髪を掻き上げると、彼女の横にどさりと仰向けに転がった。
「お水をお持ちします……っ」
 まだ息も整っていない中、ローズはぐったりした身体を無理矢理動かし起き上がる。
 同時に股の間からごぽりと注がれたものが溢れ出したが、彼女は垂れた白濁を敷布でぞんざいに拭うと、すぐさま寝台から降りて水差しの置いてある台へと向かった。
 青い夜の光に染まる室内は、ローズの白く細い脚をぼんやりと浮かび上がらせている。
 何も身に着けていない華奢な身体は、さながら産まれたての若い女神のようだ。
「無理をするな。まだ辛いだろう」
 ややぎこちない動きで歩くローズの背に声が掛かる。
 声音には気遣う響きがあったが、彼女はそれを振り向かずに背中で受け止めた。
「大丈夫、です」
 銀の杯に水を注いでから振り向く。すると、寝台で半身を起こした男が彼女を見ていた。逞しい裸身を惜しげなく晒し、精悍な面にある口元には困ったような苦笑を浮かべている。
 ローズは男を眺めながらまるで勇ましい戦神のようだ、と内心で唱えた。
 短く刈り上げた黒髪は荒々しく、こめかみにある傷痕が雄々しさに箔をつけている。
 高い鼻梁を挟んで左右に並ぶ碧眼は獰猛な獣のごとき鋭さがあり、ひと睨みで敵が怯むという噂も頷けた。
 尖った顎や輪郭は男らしく、太い首の下にある鍛え抜かれた肉体はさながら重装備を纏ったかのようだ。得物を振るい地を駆ける手足に至っては寝台からはみ出そうなほどに長く、ローズとは大人と子供ほどの身長差があった。
 なにより、至る所にある数多の傷は彼が歴戦の猛者であると物語っている。
 男の名はヴェルナルド・グローグ。
 諸国に『殺戮王』の名で知られる、勇猛な戦士にしてグローグ国の王だ。
 だが、ローズは噂のいくつかは当てにならぬと思っていた。
 敵を一太刀で斬り伏せるという冷酷な戦闘狂は、意外にもローズに対し先ほどのような気遣いを見せた。
 閨で女を殺す狂人もいると聞くが、そこまで非道というわけではないらしい。
 これは誤算だったとローズは思う。
 気遣いなど自分には無用だ。むしろして欲しくない。
 情など移れば致命的な間違いを犯す可能性がある。今後自分がする行いのためにも、ローズはヴェルナルドに優しくされたくなかった。
「どうぞ」
「ありがとう」
 全裸のまま水の杯を持ってきたローズに、ヴェルナルドは荒々しい外見とは違い美しい碧玉の瞳を緩ませ礼を告げた。彼は一瞬だけ杯の水に視線を落としたが、すぐに一口煽り男らしい喉をごくりと鳴らした。
 数多の国を滅ぼした殺戮者だと聞かされていたのに、存外女には甘い男だと思いながら、ローズは楚々としてヴェルナルドの隣に座りしなだれかかった。
 彼女の長い銀髪がヴェルナルドの盛り上がった肩の上でさらりと流れ落ちていく。
 この男はこうすれば喜ぶ。
 それを知っているからこその行動だった。
 ローズがこれまで相手にしてきた男のうち殆どは、閨事が終われば用無しとばかりに彼女を遠ざけたが、ヴェルナルドは違っていた。
 彼は事が済んだ後でもローズが離れることを良しとせず、夜抱いただけでは飽き足らず朝目覚めるまで彼女を抱き締めて眠るのだ。
 妙な男だ、と思う。
 ローズは本心からヴェルナルドはこれまで出会ったどの男とも違っていると感じていた。
「ヴェルナルド様、そろそろ……っきゃ」
 眠らなければ、という忠告を口にする前に、ローズの視界が反転した。
 天へと向いた灰色の瞳いっぱいにヴェルナルドの顔が映る。
 彼は杯を煽るとそのまま首を傾け口付けを落とした。合わさった唇を促されるままに開けば、冷たい水が口内へと流れ込んでくる。
「っん……ふ、」
 口移しで水分を取らされるのは何もこれが初めてではない。
 だというのに、ローズは未だヴェルナルドとのこの行為に慣れなかった。
 睫毛が触れそうな距離にある彼の碧玉が己をじっと見つめているのが、どうにもざわざわと落ち着かなくさせるからだ。
 だから彼女はこういう時、いつも目を閉じた。
 視界を遮断し、ヴェルナルドから与えられるものだけを感じ取る。
 ローズのそんな様子を、碧眼がじっと見つめているのは知っていた。しかし、あえて知らない振りをする。
 ごくり、と細い喉が嚥下するのを確認したヴェルナルドが唇を離した。
「まだ飲むか?」
「いえ。もう大丈夫です」
 ローズが答えると、ヴェルナルドは残った水を飲み干し杯を寝台の横に放った。
 からん、と銀杯が床に転がった音がする。
「いくらお前を抱いても抱き足りん。朝が来るのが忌々しいほどだ」
 ローズの身体を両腕で抱きしめながら、ヴェルナルドは渋い声で告げた。
 厚みのある胸板は見た目の強さとは逆に彼女の身を優しく包んでいる。
「……この時が止まればよいのにと、私も思うておりますわ」
 これはローズの本心だ。
 今時が止まってしまえば、彼女はヴェルナルドを『殺さずに済む』からだ。
 何も好んで殺しなど行うわけではない。やらずに済むならそれに越したことはなかった。
 だがそれは叶わぬ願いであることも知っている。これは閨での戯言に過ぎない。
「ああ。……俺もだ」
「っきゃ」
 嬉しそうな声がして、ローズの上にばさりと敷布が被せられた。
 布の海に埋まったローズはもぞもぞと首を動かし顔を出した。目の前にあるのは澄んだ碧眼だ。
 ヴェルナルドはくしゃりと表情を崩し、照れたような、けれど悔し気な笑みを浮かべた。
「そんな可愛いことを言われて、このまま眠れるわけがないだろう?」
 顰め面で拗ねたように睨んでくるヴェルナルドは少年のようで、ローズの胸がどきりと騒いだ。
 噂通り冷徹であってくれればいいのに、この男は時折こういった面を彼女に見せてくるから困る。
「ですが明日も早くから執務がおありでしょう?」
「かまわん。お前との時間の方が大事だ」
 きっぱりと言い切ったヴェルナルドは喉奥で笑うと、敷布ごとぎゅうとローズの身体を抱き締めた。
 互いに何も身に着けず、寝台で抱き合い語らう様子はまるで本当の恋人同士のようだ。
 しかし、それは真実ではない。
 ローズの立場は自国ネファイア王の名代であり、彼女はヴェルナルドから講和条約を締結してもらうためにこの軍事大国グローグへと来訪した。
 がその裏にある思惑は、王であるヴェルナルドの暗殺である。
「ローズ」
「……はい」
 名を呼ばれ、ローズが返事をすると目の前の男の目がとろりと熱に蕩け、腿のあたりにあるそれが再び硬さを帯びた。
 この男は自分に欲情している。
 その証をありありと見せられて、ローズは自分の女の部分が疼くのを感じた。
 つい先ほどまで溢れるほどの精を受けていたというのに、彼女の胎の奥は貪欲にヴェルナルドを求めている。
 相手次第でこうも身体は変わってしまうものかと、感心すると同時にローズは自分への失望を感じていた。
 ローズにとって身体を重ねることは苦ではない。気に入らぬ男が相手なら無心になれば良いだけだ。
 それこそ人形となって心を殺し、意志を消せばいい。これまでもそうしてきたはずだ。
 なのにこの男にだけは、それが通じない。
「俺の薔薇《ローズ》よ。お前はいつになれば、俺に笑みを見せてくれるのか」
「……私が笑えぬことは、王もご承知のはずでしょう」
 笑ってくれと告げるヴェルナルドに、ローズの胸がざわつく。
 ちりちりと炎で炙られるようなこの感覚は日毎に強くなっている。
 閨を共にした相手にこんな感情を抱くなど、今まで無かったことだ。
「いつか、俺の為に笑ってくれ。そうすれば、たとえどんなことでもお前の望みを叶えてやろう」
 ローズの望み。
 それはヴェルナルドの死だ。
 だがそれを思うと、なぜか胸の奥が酷く痛むのだ。
 痛みは焼かれるようでもあり、剣で貫かれるようでもあり、なんとも言えない種類のものだった。
「ではどうか……いつか私を、笑わせてくださいませ」
 ローズは、胸を焦がすそれが何なのか、僅かに感じる痛みが何であるのか考えるのをやめた。
 ヴェルナルドに身を委ねながら、彼女は熱と共に想いが溶けて消えてしまうようにと、願った。

(――つづく)


 女王の褥~宰相閣下は愛を乞う~ § 沙布らぶ

「お嬢様、お支度をなさいませ。もうすぐローウェル様がこちらへお戻りになられます」
 恭しく腰を折った老執事の言葉に、エリン・ディ・ヴェロニアはそっと目を伏せた。早朝、寝台から体を起こすなり伝えられたその情報は、エリンの心に色濃い影を落とす。
「今更、こんな辺境の城になんの用があるの? 彼は――クラニエッツ公爵は多忙なのではなくて」
 わざと冷たい口調で突っぱねても、老執事は表情一つ変えない。
 そもそも、エリンは本来「お嬢様」などと呼ばれる立場の人間ではない。この城の主であるローウェル・クラニエッツが従者たちにそう呼ばせているのだ。
「……ご不便を強いているのは承知の上。ですが、どうかお嬢様――主の命令に従ってくださいませ。これが、お嬢様のお命を守るために必要なことなのです」
 深く頭を下げる老執事に、エリンは苦い表情をしたまま唇を噛んだ。
 クラニエッツ公爵家は、代々国王の右腕として宰相を担ってきた名家だ。当然、そこに仕えている者たちも相応の教育と鍛錬を受けている。
「着替えをするわ。……下がってちょうだい」
 絞り出すように言葉を口にすると、執事は頭を下げて部屋を出ていった。
 代わりに数人の侍女が着替えを手伝いに入室するが、エリンは左手を上げてそれを制した。
「着替えくらい自分でできるわ。下がって」
「ご命令には従いかねます、お嬢様。旦那様がお戻りになるまでに、お嬢様の身支度を終えるようにとの命令を受けております」
「……一人では着替え一つできない女だと思われているのかしら。心外だわ」
 硬い口調でそう反論しても、侍女は先ほどの執事同様に無表情を保っている。
 結局そんな侍女たちに根負けしたエリンは、その手を借りて身支度を整えた。
 背中まで伸びた銀髪は緩やかにまとめられ、深緑の瞳がその思慮深さを損なわないよう、深いネイビーのドレスを着せられる。
 シンプルだが上質なそのドレスはエリンの年齢を考えると些か華やかさに欠けるが、それも恐らくはこの城の主であるローウェルの命令なのだろう。
(同じ色のドレスを、宮中晩餐会で着たことがあったわ。……あの時はまだ、お父様もご存命だったけれど)
 数日前まで、エリンはこの国の女王だった。
 母親を産褥で亡くし、病で父親を喪った彼女は、三年前に齢十六で玉座に就いた。ローウェルはそもそも彼女を支える宰相であり、エリンが最も信頼を置いていた男だ。
「失礼いたします、お嬢様。……ローウェル様がお戻りになられました。ご挨拶を」
 コツコツとノックの音が聞こえたかと思うと、先ほどの老執事が主の帰還を告げる。
 本来、主君であるエリンが臣下であるローウェルを出迎えることはあり得ない。だが、今のエリンは既に女王という立場を失っていた。
 いや――心の底から信頼していた、ローウェルの手で玉座を追われ、宝冠を棄てる羽目になったのだ。
(わたしに、自分の立場を理解させようとしているのね)
 エリンにとってローウェルは、兄のようでも、父のようでもある大切な存在だった。公私を問わず少女に仕えてくれた若き宰相は、エリンのためならば命を捧げるとまで誓ってくれた――だが、その誓いはローウェル自身の手で破り捨てられてしまったのだ。
「お嬢様」
 蜂の巣をつついたような騒ぎの中で、一人エリンに玉座の簒奪を伝えた彼は――あの時なんと言っていただろう。
 そんなことを考えていると、執事が重苦しく咳払いをした。
「えぇ……迎えに出ればいいのでしょう。それなら今――」
「その必要はない。……爺、下がってくれないか。お前たちも下がれ」
 今向かう、と告げようとしたのを、若い男性の声が遮った。
 誰かが息を飲む音が聞こえ、次の瞬間にはその場の侍女たちが一斉に頭を下げた。
 その場で唯一顔を上げたままのエリンは、まっすぐと声のした方向に視線を向ける。
「……ローウェル」
「お久しぶりです、陛下。顔色が優れないという報告を受けておりましたが、思ったよりもご健勝そうなご様子――お体に不調がないとのこと、なによりでございます」
 つらつらと言葉を並べ立てた黒髪の男が、この城の主――エリンから玉座を奪い取った張本人であるローウェルだった。
 アンバーの瞳をそっと細めたローウェルに、エリンは不快感をあらわにする。
「陛下というのは、今はあなたのことを指すのではなくて?」
「――失言でございました。ですが……私に民をまとめる能力はありません。こういうものは、政の上手い下手で決まるものではないのですよ」
 柔らかく微笑んだローウェルが、ちらりと執事に視線を向けた。
 すると、それを合図に部屋の中の侍女たちが部屋を出ていく。最後に残った老執事も、一礼を残して部屋を辞してしまった。
「ガーランド辺境伯……オズワルド卿が、新国王として即位されました。今は彼が、この国の国王です」
「オズワルド? 近衛騎兵隊の大将軍を王に立てたのには、なにか理由があるのかしら」
 ガーランド辺境伯は優秀な軍人だ。国への忠誠心が厚く、エリンの父の時代から近衛隊の大将軍に任ぜられている。
 そんな男がエリンに反旗を翻したとは思いたくはなかったが、恐らくローウェルがなにか手を回したのだろう。
「彼は非常に、人心の掌握に長けております。私のように口先三寸で人を動かすというよりは、その意気によって民心をまとめあげる……多少政に疎いきらいはありますが、そこはそれ、馬鹿であればどのようにでも動かしようがあるかと」
 ローウェルの物腰は、とても柔らかい。口調も穏やかで、既に王族としての立場を失ったエリンに対しても丁寧に接してくれる。
 だからこそ余計にわからなかった。どうして彼が、国を――自分を裏切ったのか。
「傀儡の王を使って国を動かしたかったのなら、わたしを使えばよかったでしょう……! オーウェル、どうしてあんなことを――」
「……エリン様。私の女王陛下。あなたは――あなたは王には向いていない。あの日私が言った通り、先王陛下には確かにあった王の才気が、あなたには感じられないのです」
 まるで癇癪を起こした子どもを宥めるように、ローウェルは優しく、けれどはっきりとそう言い放った。
 それは数か月前、彼が兵を率いてエリンが住まう宮殿に押し入ってきた時に聞いた言葉とまるで同じだ。
(王の才覚がないなんて……そんなこと、わたしが一番わかってる……!)
 ローウェルが言わんとすることは、エリンが最も理解していた。
 賢君と呼ばれ国民に慕われた父とは違い、まだ若く女性であるエリンは父ほどに期待をされていない。王宮に集う臣下たちも、ことあるごとにエリンに有力諸侯との結婚を勧めてきた。
 その中に当代女王への失望と次代の国王への期待が滲んでいるのは、言葉にされずともそれとなく感じていたことだ。
「それと、エリン様。既に王都では、あなたが先日の王宮襲撃の際に落命したということになっております」
「なっ……う、嘘の情報を流したの?」
「――すべて、あなたの御為なれば」
 ゆっくりと腰を折り、かつてと同じく臣下の礼をしたローウェルは、頭を上げるとそっとエリンに近づいてきた。
「騒ぎに乗じて斬りつけられたあなたの遺体は、王都の大聖堂に葬られました。死の間際、あなたはガーランド辺境伯へ王位を譲る旨を私に託した――そういう筋書きになっております」
「どうして、そんなことを……民に嘘の情報を流すくらいなら、いっそ本当に私のことを殺せばよかった」
「それはなりません。……エリン様、私はあなたを殺したいわけではないのです。私がずっと、あなたをお守り申し上げる――即位の日の誓いを、自らの手で破ることはありません」
 ゆるりと首を振ったローウェルが、一歩エリンとの距離を詰める。
 だが、エリンはそれを拒むように一歩後ずさった。何度かその攻防を繰り返していると、後ずさったエリンの体が寝台に倒れこむ。
「くっ……!」
「エリン様、あなたは優しいお方だ。幼少の頃からお仕えしていた私が、そのことを一番理解しております。――あなたは王には向いていない。王であるには、あなたは優しすぎるのです」
 バランスを崩して寝台に倒れたエリンを、じっとローウェルが見下ろしていた。
 いつも傍らで、慣れない政務を見守ってくれた宰相――エリンはいつだって彼のことを心から信頼していた。家族のように、或いはそれ以上の感情を彼に抱いていたのだ。
「……裏切り者」
 だが、今は違う。
 彼は国を、民を、そしてエリンを裏切った。万感を込めて吐き捨てた言葉には、城を追われてからこれまでの間鬱積した怒りが込められていた。
「如何様に誹りを受けようと、これが私の……あなたへの愛だ」
「愛? そんなもの、信じられるわけがないでしょう……! わたしはローウェルのことを信じていた。ずっと、一緒にこの国を守っていけるって思ってたのに!」
 甲高い声を張り上げるのに慣れておらず、エリンはそのままゲホゲホと咳き込んだ。今まで、王として極力感情は表に出さぬよう努めてきた――だが、彼を目の前にするとどうしても気持ちが抑えきれない。
「耐えられなかったのです。優しいあなたが、悪辣な貴族どもが跳梁跋扈する王宮で無惨に嬲られるのを――あれは、臣の形式をとっているだけの獣どもです。誰もが自分の利益ばかりを考え、あなたが日々どれだけ苦しんでいるかを理解していない」
「……王とはそういうものよ。それでも、国のために歩んでいかなければならない。お父様だって、わたしにそう教えてくれた」
 誰よりも優しく、誰よりも民に寄り添い生きていけ。
 病の淵にあった父が、やせ細った手でエリンの手を握ってそう諭してきたのだ。父や国民に恥じない生き方をしようと、エリンは必死に王の務めを果たしてきた。
「私には、それが我慢できませんでした。あなたが王として、いずれ誰かを伴侶に選ぶ――相手はその獣たちだ。私ではない」
 憂鬱そうに目を細めたローウェルが、寝台に散らばったエリンの髪を一房掬い上げた。艶やかな銀髪に唇を落とす仕草があまりに妖艶で、思わずエリンも息を飲んでしまう。
「さ、触らないで……!」
「宰相家の人間は、王族との婚姻を許されていません。当たり前ではありますが、そうなれば一つの家が権力を持ちすぎる……だが、エリン様。あなたはもう王ではない――女王陛下は崩御された」
 その声には、隠しきれない熱がこもっていた。
 確かにこの国では、宰相家の人間は王族との婚姻を認められてはいない。
 元々は国王に次ぐ権限を持つ宰相家が、必要以上にその力を大きくしないために設けられた制度だった。
 エリンもローウェルも、そのことはよく知っている。ゆえにエリンは彼を兄のように慕っていたのだ――賢く優しい宰相に対し、芽生えた想いを見て見ぬふりをしてきた。
「ローウェル……!」
 はらりと髪を手放したローウェルが、エリンの上に覆いかぶさる。暗くなる視界の中で、アンバーの瞳が確かな情欲を宿しているのが理解できてしまった。
 同じだ。――女王であった頃のエリンに向けられた、多数の男たちと同じ視線。品定めするようないやらしさは感じられなかったが、そこに宿る熱は変わらない。
「あなたのことを、ずっとお慕い申し上げておりました」
 いくつもの思いを込めた、押し出すような声だった。
 常に冷静で理知的なローウェルから出た言葉とは思えないほどに熱の込められた声に、思わずエリンの体が震える。
「や――」
 腕に触れた彼の手がとても熱い。
 彼の顔が近づいてきても、エリンは抵抗ができなかった。眩暈をしそうなほどに熱い唇が首筋を這うのも、嫌だと言えば彼はすぐに止めてくれただろう。
「ロ、ウェル……ん、ぁっ……」
 けれど、なぜか拒絶の言葉は出てこなかった。
 女王としてかくあるべき――そう強い意志で押し込めていた想いが、ほんの少し彼に触れられただけで溢れ出してくる。
「エリン様。……あなたはもう、私の庇護下でしか生きられない。私がいなければ、あなたは死人のままだ」
 うっとりと囁かれる声は、果たしてこれがあのローウェルのものかと疑いたくなるほどに熱っぽい。
 だが、何度も唇で首筋をなぞられ、あらわになっている鎖骨を吸いあげる甘い刺激が、エリンの中からなにかを奪っていく。
「やめ、っ……は、ぁっ」
 ふるっ……と体を震わせたエリンは、自分の唇からこぼれた声を聞いて絶望した。こんなに甘く、まるで媚びるような声――相手は裏切り者のローウェルであるのに、どうしてこんな声が出てしまうのかが不思議でたまらない。
「ずっと、ずっとあなたに触れたいと思っておりました。ですが、臣の身では――いや、あなたが女王である限りは、私はあなたに触れられない」
 ローウェルは絞り出すような声でそう言うと、エリンのドレスを紐解き始めた。
 元々簡素な造りのそれは、彼がほんの少し指先を動かしただけであっという間にほどけ落ちてしまう。
「っ……! やめなさい、ローウェル――こんなことをして、許されるわけが……」
「言ったはずだ。あなたはもうこの国の女王ではない……私のエリン。もう、女王の仮面をかぶる必要はないのです」
「ッあ、あっ……!」
 下着姿になったエリンの胸に、ローウェルの長い指先が伸びた。

(――つづく)


 淪落《りんらく》の誓い § 桜旗とうか

 一.

 子どものころから一緒にいてくれたエディール。
 子爵家の娘と使用人という身分の差はあっても、私は彼を心から慕い、愛していた。
「ニーナ様……」
 彼のキスが優しく降る。
 身分違いの恋情など、互いに破滅するだけだとわかっているが、それでも想いを止めることはできなかった。
「エディ。もっとして?」
 申し訳程度に人目を憚り、いまはだれも使っていない離れの、古びた空き部屋で肌を重ねる。
 幾夜、こうしてきただろうか。
 もともと特別だったエディールはあの日、私にとってのすべてになった。
 彼の手が優しく服を脱がせる。肌を撫でながら、遠慮がちに私に触れてくれる仕草が大好きだった。
 彼の髪を指で梳かすと、すり寄るようにして手のひらに頬を寄せてくる。五つ年上の、兄のような存在だった。
 大きな手が胸にあてがわれ、ゆっくりと揉みしだいていく。
「んっ……あ、あっ」
 先端を硬く尖らせられ、敏感になったそれを彼の舌が転がした。
 ギシと不快に軋むベッドも、彼との情事の証しと思えば気にならない。
「いつもこんなところですみません」
 申し訳なさそうに言う彼を責められるはずがない。むしろ、こんな場所を選んでいるのは私なのだ。
 自室では、とてもではないがこんなことはできない。侍女やほかの使用人たちが必ず見咎める。だからといってエディールの部屋に行くこともできない。彼ら使用人は数名で一室を使う共用部屋だ。だから、必然的に人目を忍べる離れに来るしかない。
「私は好きよ。あなたとこの部屋に来るの」
 エディールの顔を引き寄せるとキスが落とされた。
 彼が服を脱ぎ、肌が触れ合う。こうして抱きしめられている間は、昔のことも、これからのことも考えなくてよかった。
「今日はゆっくりできるといいんですが」
 エディールがそんなことを言いながら、私の膝を割って脚の間に身体を滑り込ませる。
 どうしてか、私たちの行為はいつも性急だった。エディールが事を急いているわけではなく、周囲が騒がしくなるのだ。
 秘匿した関係だからこそ、見つかるわけにはいかないと手早く済ませてしまいがち。本当は一晩中彼と愛し合っていたいのだけれど。
 秘部へ彼が口を付けた。
「んっあ……あっ……」
 花芯を舌で刺激されて身体が跳ねる。浮き上がる腰を掴まれ、彼の愛撫は深くなっていく。蜜孔から舌を差し込まれ、蜜を啜られた。ジュルッと音を立てられて、羞恥心から彼の頭を押さえる。
「エディ……」
「ニーナ様は日ごといやらしくなられますね」
 ふふと彼が笑った。
 もう、一年になるだろうか。彼と身分を超えたのは。はじめはエディールも躊躇していたのだけれど。
「はしたない女はお嫌いかしら」
「まさか。ニーナ様のどんなお姿も、僕は好きですよ」
 ぬちゅぬちゅといやらしい音を立てながら、エディールの舌が秘裂をなぞっていく。ビクッと身体が強く反応するたびに、彼は嬉しそうに吐息を零した。
「んっ……あ、あっ……もっとして……?」
 こうしてねだるのも、彼が喜んでくれると知っているからこそ。
 指が蜜口から差し入れられ、内壁を押し上げる。
「っ……ああっ……あっ、んっ……」
 エディールは、私の好きな場所を知り尽くしていた。彼の長い指で届く、奥の膣壁。入り口のすぐ近く。横側。どこも、彼に教えてもらった快感の場所だ。
「はっ……あ、んっ……あ、エディ……っ」
 的確に擦られて、下肢が突っ張る。腰を持ち上げてねだるようにくねらせると快感の高みが見え始めた。
「ああっ……あ、んっふ……あ、ああっ……」
 びくびくと身体が痙攣する。絶頂へ昇らされ、快感が弾けた。
「あああっ……んっ!」
 頭が真っ白になって、気怠い心地よさが身を包む。エディールが大切そうに抱きしめてくれるこの瞬間が、私は好きだ。
「ニーナ様……、もっと……」
 もっと愛してもらえる。そう思って彼の首筋に手を掛けた。だが、外が突然騒がしくなって、二人で顔を見合わせる。
「……また……騒がしいわね……」
 私たちの逢瀬はいつも、いろいろな妨害に遭ってしまう。今夜のように、普段は人の来ない離れに警備の者が来て外を走り回ったり、侍女が私を探して声を上げていたり。
 なかなか思うようにはいかないものだ。
「ニーナ様、すみませんが今夜も……」
「ええ。エディ、きて?」
 このまま終わることを彼はいつも提案する。だけど、私だって彼と繋がりたいのだ。だから、彼を引き寄せてせがむ。
「……はい。喜んで」
 キスを落とされ、両脚を持ち上げられた。
 蜜口に彼のものが押し当てられると、ゆっくりと膣壁を押し開かれる。
「ふ……っ、あ……あっ……」
 熱の塊が穿たれていく。ぬぷぬぷと襞を伸ばしながら、身体の深い場所へ入ってくる。
「あぁっ……、エディ……っ」
 強烈な圧迫感と灼熱に眩暈がした。“はじめて”を教わって以来、数え切れないほど彼と肌を合わせてきたけれど、こんなにも気持ちいい夜ははじめてかもしれない。
「あっ……んっ……奥、まで……」
「ニーナ様……平気ですか?」
 頭を撫でられながら、まだ内壁が押し開かれていく。
「深……すぎ……、あ、あっ……んっ」
 エディールは困ったように笑う。
「苦しいですか? やめましょうか?」
「……やめないで……、もっときて……」
 彼のものを飲み込むと身体は苦しくなる。だけど、一番奥まで届くと、気を失うくらいの快感に包まれるのだ。そのどちらを取るかなんて、わかっているはずなのに。
 ぬぷりと熱塊が奥まで押し込まれる。
「んっく……ふ……あぁっ」
 身体を仰け反らせても、逃げ切れないほどの快感にもがいた。
「ニーナ様……好きです。ずっと……お慕いしています」
 緩やかな律動に息が詰まる。
「っ……は、あ……んっ……あぁっ」
 突き入れられるたびに目の前が真っ白になった。奥の、さらにその奥を押し開かれるような感覚は、この身体を彼に支配されているという錯覚さえ起こす。
 ずっとこの時間が続けばいいのに。
 ぬちゅぬちゅと中を掻き回され、逃げるように身体を反した。
「あぁっ……ふ……っく……ぅ……あぁっん」
 後ろから、エディールが容赦なく攻め立ててくる。
 腰を掴んで持ち上げられると、その勢いはさらに早まった。
「あっ……エディ……ああ、んっ……」
「……あなたは、僕のものだ……」
 ときおり覗く彼の独占欲に、何度胸が締めつけられただろうか。
 私たちが結ばれることは、きっとないのだろう。それこそ、子爵家が滅びでもしない限りは。
「んんっ……は、ああっ……」
 肌を打ち付ける音がやけに大きく聞こえる。
 最奥を幾度も抉られ、やがて快感を極めて昇りつめた。
「あ……っ、あぁっ……!」
 ビクビクと痙攣する身体を強く抱きしめられる。熱塊を強く締めつけて達すると、直後にずるりと雄が引き抜かれて背中に生温かい精を吐き出した。
「ニーナ様……好きです……」
 抱きしめて、キスをされて、愛されていく。
「エディ……私もよ」
 好きとは言えなかったけれど、結ばれなくても、ずっとこんな関係が続いてもかまわない。そう思っていた。

(――つづく)


 翼の折れた鳥は愛し君を歌う § 蒼凪美郷

 まん丸と大きな月が出ていた夜、ヴィオレは天使に出会った。
 その日は偶然、真夜中にふと目が覚めてしまっただけだった。いつもは寝つきがよく朝まで起きることはないというのに。どこからか聞こえてくる歌に気付いて、ヴィオレはベッドを抜け出したのだった。
 透き通った声で紡がれる旋律は、うっとりするほどに美しい。まるでなめらかなシルクに頬ずりをしているような、柔らかな心地を感じる歌に導かれるように外へと出てみれば、その先にいたのが天使だったなんて一体どんな夢だろうか。
 天使がいたのは、センツベリー伯爵家の本邸と別邸の境目だった。あまり手入れをされていないのか、ぼうぼうと雑草が生い茂っている柵の向こうで座っていたのだ。
 粉雪を散らしたような白銀の髪に、青空を思わせる青い瞳。顔は人形のように整っていて、ぱっちりとした目を飾る長い睫毛がまばたきする度にふわりと揺れる。美しい旋律を紡ぐ唇は薄く紅を引いたようにも見える鮮やかさで、その背中では髪と揃いの色の翼がはためく。月明りの下で歌っていたのは、有翼族の少女だった。
 翼を持つ彼らは、耳と目から人々を魅了するという。存在を知ってはいたが初めて目にするその麗しさに、ヴィオレはしばらく見惚れてしまっていた。
 すると不意に歌声が途切れ、青い瞳がヴィオレを映した。
「だれだ、お前?」
 じっと見ていれば誰だって視線に気付くだろう。しかしヴィオレはそのことに思い至っていなかったのだった。
 歌を紡いでいたときとは違う、低くも高くもない中音域の声に緊張する。
「……邪魔をして、ごめんなさい。その……綺麗な歌声だったから、気になってしまったの」
「……俺の歌が聞こえたのか?」
 世話係以外の誰かと口を利くのは、いつぶりだろうか。勇気を出してヴィオレが声を返してみると、なぜか目を見開かれた。
 どうやら驚いているようなのだが、驚くとしたらヴィオレのほうだ。
 寝室にまではっきりと届いてくるほどの歌声だったというのに、それが当の本人は誰にも聞こえていないと思っていたとは。それになにより、絶世の美少女と言っても過言ではない麗しさをしていながら、実は少年であったことにヴィオレは一番驚いていた。
 彼曰く、有翼族は仲間だけが感知できる声域を出すことができるらしい。普通の人間ではまず聞き取ることができないという。つまり彼はその声域でのびのびと気持ち良く歌っていたつもりだったのだ。そこに歌声を聞いてやって来たと言う人が現れれば、驚いて当然だろう。
「本当に誰にも聞こえていないの?」
「……俺、毎日ここで歌ってるけど、誰も来たことねぇぞ。お前だけだ」
 不思議だと言わんばかりに首を傾げているところを見るに、彼の言っていることは本当のようだ。
 あんなに綺麗な歌声だというのに誰も彼の声に導かれたことがないなんて。近隣に有翼族がいないということなのだろうとヴィオレは思った。
 しかし、今まで誰も彼の歌を聞いていないというのは、少しばかりの優越感をヴィオレに覚えさせた。
 まるで、冒険をして宝物を発見したような気分だ。夜中に外へ出るということがなかったから、よりそう思うのかもしれない。しかも、こっそりと部屋を抜け出すなんて、ヴィオレは生まれて初めてしたことだった。
「まあ、いいか。誰にも聞いてもらえねーっていうのも、つまんねーし」
「え?」
「別に聞きてーなら聞いてていいけどさ、その代わり内緒にしてくれよ? 俺、歌が下手なふりしてるから」
 一方的に告げて、少年は再び歌い始めた。ヴィオレの前で堂々と。
 伸びやかな彼の歌声が、夜空いっぱいに広がる。
 目の前で紡がれ始めた旋律にぞくぞくと肌が粟立つ。透き通った声がまるでヴィオレの肌に染み込んでいくようだった。不快感からではなく、彼の歌声に圧倒されたが故の鳥肌だ。
 今までは誰にも聞かせるつもりはなかった歌を、自分のために歌ってくれている。そのことをヴィオレは全身で感じ取っていた。
 この感動をどんな言葉で表すのが相応しいだろう。やがて歌い終えた彼に何かを伝えたくても、ヴィオレは何も言葉にできなかった。
「なんだよ、ぼけーっとして。変だったか?」
 黙り込んでしまったヴィオレを見て、少年が不満そうに腕を組む。
「ううん、違うわ。あまりに、すごくて……何て言えばいいか分からなかったの」
 慌てて否定をすると、少年は首を傾げた。
「ふぅん? 俺、歌うまい?」
「ええ、とても上手よ。こんなに綺麗な歌は初めて」
「……そっか!」
 彼の歌に否定する要素は見当たらない。ヴィオレが正直に肯定すると、少年の顔色がぱっと明るくなった。
 歯を見せてニカッと笑うその顔は、改めて見ると確かに少年らしさがある。足を広げて座るなんて年頃の少女はきっとしない。胡坐の姿勢で嬉しそうに身体を揺らす姿に、やはり女の子ではないのだとヴィオレは認識を改めた。
「どうして秘密にしているの? とっても素敵なのに……」
「……歌が上手いって気付かれると、無理矢理歌わされるかもしれねーから。そんなの嫌だから、下手なふりをしてる」
 歌うことは好きだが、強要はされたくないということだった。
 しかし、有翼族にとって歌は生き甲斐でまったく歌わないなんてこともできない。だから彼は夜ごと屋敷を抜け出して、誰もいない裏庭で誰にも聞かれない声で歌っていたのだそうだ。
「あなた、いつもここにいるの?」
「ああ。天気が悪くなければ毎日いるぜ」
「……あの、また聞きに来てもいい……かしら?」
 おそるおそる尋ねると、ヴィオレの申し出に彼はきょとんとした。
 うーん、と考えるような素振りを見せて数秒。
「いいぜ! 俺もたまには誰かに聞いてもらいたかったし」
 彼はまたヴィオレに明るい笑顔を見せて、頷いてくれた。
「本当にいいの?」
「ああ。俺と年の頃が一緒そうなヤツ、初めて出会ったし! お前、あんまり外にいねーよな? ずっと部屋にいんの?」
「……ええ。私、外には出るなって言われているから」
「ふぅん……? お前、名前は?」
「……ヴィオレ。ヴィオレ・リリア・フローレンスよ」
「じゃあ、ヴィオレでいいな!」
 柵の隙間から、すっと手が差し出された。
「俺は、エルゼ! よろしくな」
 長い指がしなやかに開いてヴィオレを待つ。握手を求められているのだと気付いたのは、数秒経ってからのことだった。
「ええ。よろしくね」
 開かれた掌に自分のを添えると、細くしなやかな指が巻き付くようにヴィオレの手を握る。
 しなやかに見えた指先の印象とは裏腹に力は強いようだ。ヴィオレは彼の手をそっと見下ろした。
 お世辞にも綺麗とはいえない、所々糸のほつれが見られる袖から伸びた白い腕。碌に食事を摂っていないのか、力を入れれば折れてしまいそうに細い。その手首には、一見すると腕輪にも見えるような黒い火傷の痕がぐるりと────。
 この痕の正体を、ヴィオレは本で読んだことがあるから知っていた。
 人間を含む多種多様な種族が生きるローゼンシアでは、奴隷制度が認められている。社会史を学べば必ず教わるほど、古くからこの国に根付いている制度だ。
 奴隷の証は、まるで手枷のように焼き鏝で付けられる火傷の痕────エルゼは別邸で働く奴隷の少年だった。
 奴隷となる経緯は様々あるらしい。借金のカタに奴隷商館へ売られるか、犯罪に手を染めその刑罰で奴隷となるか、珍しい能力または見た目を持っているがためにどこかから攫われてきたか────エルゼは人攫いの手に落ち、家族から離されてしまったのだという。
 彼が笑いながら聞かせてくれたのは、センツベリー伯爵家に買われるまでに何度か買い上げられたことがあるという経験談だった。
 しかし、エルゼの麗しさに惹かれた主人に手籠めにされそうになったときや、奴隷ではない使用人の腹いせに殴られそうになったときに、暴れたり返り討ちにするなどしては返品されてきたらしい。
 有翼族の売りである歌を歌わない、買われた先々で問題を起こす────そんなエルゼを持て余した商館が訳有り返品不可という条件のもと安値で売り出したところをセンツベリー伯爵家が買ったのだそうだ。
 見た目に反したやんちゃぶりである。なかなかに波乱万丈だというのに、エルゼの話しぶりが明るいせいもあってか辛い経験談には聞こえず、それを聞いたときにはヴィオレもつられて笑ってしまっていた。
 エルゼはニシシと歯を見せて笑い、粗野な言動や仕草をする。なんだかんだと彼が少女でないことをなかなか信じられなかったヴィオレも、彼と出会って半年が経つ頃には「彼は正真正銘男の子」であることを疑いもしなくなった。
 エルゼとの逢瀬は、ヴィオレが彼と出会った十歳の頃から十八歳になるまで続いた。
 出会った日と同じ、満月の夜がエルゼの日だった。あまり何度も部屋を抜け出していると誰かに知られてしまうかもしれないからと、秘密の逢瀬は月に一度だけと取り決めたのだ。
 奴隷だから大した給金も払われない、残飯くらいしか食べさせてもらえないが、伯爵家での暮らしは今までよりも楽だとエルゼは笑う。休む間もなく雑用を与えられるから疲れるし、汚れ仕事もこなすから手荒れが酷いが、それでもと。
 エルゼの笑顔はヴィオレには眩しく見えた。自分よりも過酷な環境下にいるというのに、歯を見せて朗らかに笑える彼を羨ましく思ったのだ。
 ヴィオレ自身も、あまりいい日々を過ごせていたとは言い難い。
 だが、彼に比べれば良い暮らしだ。世間には「身体が弱いため療養をしている」ということにさせられているから外出はさせてもらえないし、新品の服を着させてはもらえないが、衣食住に不自由はない。学ぶべき教養だって学ばせてもらえている。
 けれど、彼と違ってヴィオレは未来を諦めていた。両親が事故で亡くなり、叔父夫婦がセンツベリー伯爵家を乗っ取ったあの日から────。
 生きる未来を諦めていないから、エルゼの歌は美しい。逃げ出せないようにと翼の一部が切り取られていようと、自由を歌う彼の声はいつだって伸び伸びとしていた。
 だからこそ、美しい歌声はヴィオレの希望となったのだ。
 始まりは、エルゼの紡ぐ歌に惹かれたから。だが、指で数えられるほどの逢瀬を重ねた頃には、もうヴィオレは彼に惹かれていた。

(――つづく)


近衛騎士の秘めやかな熱愛 § 夕日

 ローブを肩から落とすと、肌と擦れ合い衣擦れの音がした。
 それはわずかな音なのに夜の静寂に妙に大きく響いた気がして、エリアナの緊張と羞恥を高める。
 恥ずかしい。今すぐに逃げ出してしまいたい。足の震えが止まらず、気を抜けばこの場にしゃがみ込んでしまいそうだ。
 エリアナは人目に立つ容姿ではない。茶色の髪と茶色の瞳は地味な色合いで、顔のパーツも小作りだ。体の肉づきもいいとは言えず、貧相だと自身では思っている。
 けれど──ライネリオを誘惑しなくては。そうしないと、思い出が作れない。
 目の前に立つ美丈夫をしっかりと見据える。すると彼は、動揺が滲む緑の瞳でエリアナを見つめ返した。
「エリアナ殿下。貴女は──」
「……ライネリオ」
 恋する人の名を呼ぶ唇は、ひどく震えている。エリアナは正真正銘の生娘で、男を誘ったことなど一度もないのだ。
「私を抱いて。……お願いだから」
 エリアナの言葉に、ライネリオの瞳は大きく瞠られる。エリアナは寝衣に手をかけるとそれも脱ぎ捨て、下穿きだけを残す姿となった。

 * * *

 エリアナ・カオヴィッラは、アバカロフ王国の第二王女である。
 アバカロフ王国は大陸の南端に位置する、豊かな資源を持つ小国だ。その資源を狙う他国からの侵犯は絶えず、それゆえ小国に似合わぬ充実した軍備を持っていた。
 アバカロフ王国が擁する大騎士団。その中から選ばれし一握りの精鋭たちだけが、王族直属の近衛騎士となれる。
 その近衛騎士団に、エリアナの想い人である侯爵令息ライネリオも属していた。
 ライネリオは、エリアナの四つ年上である二十二歳。短く切った赤髪と緑の瞳の、野生の狼を思わせる精悍な美貌を持つ青年だ。彼は真面目が服を着て歩いているような男で、『朴念仁』や『面白みがない』と評されることも多い。
 女性たちははじめはライネリオの容姿に惹かれて近づくものの、木で鼻をくくったような態度にめげて大抵の場合は離れていってしまう。
 その『大抵の場合』、ではない女性の一人がエリアナだった。
 エリアナはライネリオのことを、長い間想い続けていた。
 彼に恋をしたきっかけはなんだったのか。それは、今となっては思い出せない。
 強風で飛んだハンカチを拾ってもらった時だったのか、暴漢に襲われそうになったところを助けてもらった時だったのか。……めずらしく、彼が笑っているところを見てしまった時だったのか。
 気づいた時には、エリアナはライネリオに恋をしていたのだ。
「ライネリオ、ごきげんよう!」
「エリアナ殿下、こんにちは」
 王宮の回廊を巡回しているライネリオを見つけて声をかけると、いつもの通りに飾り気のない口調で返事をされる。それを気にすることなく、エリアナは会話を続けた。
「先日の活躍のことを聞いたわよ。陛下が、褒美を与えなければとおっしゃっていたわ」
 王都の南端は海に面している。その海から攻め入ろうとした他国の兵の存在をライネリオはいち早く察知し、大事となる前に退けたのだ。
「褒賞の件は、存じております」
「なにを望むか、もう決まっているの? よければ教えてくれないかしら?」
 茶目っ気のある表情で言って笑うエリアナを、ライネリオはなぜだかじっと見つめる。そして……。
「いただけるかはわかりませんが、ほしいものは決まっております。それがなにかは今はまだ教えられません」
 と、少し頬を赤らめながら言った。
(もらえるかわからない、ほしいもの? 一体なんなのかしら)
 エリアナは不思議に思いながら首を傾げる。思考を巡らせてみても、ライネリオのほしいものの想像がまったくつかない。
「それでは、殿下。俺は見回りがありますので」
「あ……そうよね」
 生真面目なライネリオは、いつでも忙しく働いている。引き止めてしまい申し訳なかったと、エリアナは胸のうちで反省をした。
(……今日も、ライネリオは素敵だったわ)
 遠ざかっていくライネリオの背を見つめながら、今日も彼と会話ができた喜びを噛みしめる。
(いつまで、こんなふうに彼を想っていられるのかしら)
 エリアナは王女だ。いずれは父王が選んだ相手と結婚する運命である。
 そうとわかっているのに、心の中に宿った恋心は消えようとしない。
(誰かとの結婚が決まれば、この恋心にも諦めがつくのかしら)
 エリアナはそんなことを考えながら、小さく息を吐いた。

 * * *

 その日。エリアナは父王から降嫁が決まったことを告げられた。
『降嫁』という言葉を聞いた瞬間。頭の中が真っ白になり……エリアナには、それからの記憶がない。
 そして気づいた時には、自身の部屋の寝台に寝かされていた。
 侍女に聞いたところによると、エリアナは父王の前で倒れてしまったのだそうだ。
(陛下に、心配をかけてしまったわね)
『降嫁』と聞いただけで、こんなことになるなんて。自身で思っていた以上に、ライネリオへの恋情は大きなものとなっていたらしい。
(私は、誰と縁を結ぶことになるのだろう)
 エリアナの婚約者候補の中に、ライネリオの名前が上がったことはない。だからきっと……彼ということはないだろう。エリアナの頬を涙が伝う。堪らえようとした嗚咽は零れ出てしまい、それにつられるように涙の量も増した。
(……思い出がほしい。未来を強く生きていくための思い出が)
 涙が枯れた後に、エリアナが思ったことはそれだった。
 知らない誰かに嫁ぐ前に、恋した人との思い出がほしい。
 自尊心なんてものはすべて捨て、泣いてすがれば……ライネリオは抱いてくれないだろうか。
 ──そう思いつめた、エリアナの行動は早かった。
(今夜、ライネリオに抱いてもらおう。騎士の宿舎まで忍んでいくのは現実的ではないし……。話があるからと部屋に呼びましょう)
 エリアナの部屋から、騎士たちの宿舎までは遠い。道中で誰かに見咎められて、きっと部屋へと連れ戻されてしまうだろう。連れ戻されるだけならまだいい。危険な目に遭ったりすれば、警備をしている騎士たち……ひいてはライネリオに迷惑がかかる。
(……来てくれなかったらどうしよう。堅物な彼だもの。夜に女性の部屋に行くなんてこと、しないかもしれないわ)
 はらはらしながらも侍女にライネリオを呼ぶよう言付ければ、意外なことにライネリオはすんなり来てくれた。内密な話だからと入念に人払いし、怪訝な顔をしたライネリオと二人きりになったエリアナは……。
 彼の前で、羞恥に震えながらその素肌を晒したのだ。
「エリアナ殿下、早まっては……」
 頭上で、焦りに満ちたライネリオの声がする。エリアナはいつの間にか伏せてしまっていた顔を上げ、強い光を宿した瞳を彼に向けた。ライネリオの顔は真っ赤に染まっている。自分でもこんな顔をさせることができるのだと、その事実にエリアナは少し胸を撫で下ろした。
「早まってなどいないわ!」
 大きな一歩を踏み出し、大きな胸に勢いよく飛び込む。エリアナがぶつかってもライネリオの逞しい体はびくともせず、細身の体をやすやすと抱きとめた。
「……好きなの、ライネリオ。だからお願い」
 騎士服の布地を指先で掴みながら、胸に額を擦り寄せる。ライネリオはしばらくの間沈黙してから……なにかを堪えるような息を吐いた。
「殿下、貴女はいけない人だ。俺の理性を試そうとするなんて」
 大きな手がエリアナの肩を抱く。その手のひらは驚くほどに熱く、エリアナの体を震わせる。
「きゃ!」
 突然。軽々と抱き上げられ、エリアナは小さく声を上げた。浮遊感に驚きながらライネリオの体にすがると、くすりと小さく笑われる。
 宝物を扱うような手つきで丁寧に寝台に下ろされ、上からのしかかられる。すると、まるで大きな壁に迫られているような圧迫感を感じた。ふだんは穏やかに凪いでいる緑の瞳には明らかな欲情が宿り、エリアナを射抜く眼差しは力強い。
 黒の手袋に包まれた手がエリアナの手を取り……唇が手の甲にゆっくりと押し当てられた。
「んっ……」
 唇が肌に触れただけだ。だけどそれが、ひどく官能的な行為のように感じてしまう。身を竦めるエリアナを目にして、ライネリオは獲物を捕食する寸前の獣のように瞳を細めた。
「殿下。逃げたいと言っても、もう遅いですからね」
「逃げないわ。──あっ!」
 ライネリオの美貌がエリアナの首筋に近づけられ、熱い吐息と濡れた舌が肌をくすぐる。その甘やかな刺激に、エリアナは声を上げながら体を揺らした。
「殿下は小鳥のようです」
「……小鳥?」
「愛らしい声で囀る可愛い小鳥だ。もっと、俺に囀りを聞かせてください」
「え、ああっ!」
 囁きとともに、首筋に強めに歯を立てられる。その硬質な感触はわずかな恐怖と快感を生んだ。未知の出来事に戸惑うエリアナを目にして、ライネリオは楽しそうに笑う。
「俺の殿下は、本当に可愛らしい」
「俺の……?」
「そうです。貴女は俺のものだ」
 これは、噂で聞く閨の言葉遊びというものだろうか。
 記憶にある限り、ライネリオがエリアナに好意の類を見せたことはない。だから……きっとそうなのだろう。言葉遊びだとしても嬉しくて、エリアナの目には涙が滲んだ。
「嬉しい。もっとして? ライネリオ」
 拙い言葉で誘えば、額に優しい口づけが降ってくる。それは頬にも落ち、少しのためらいの後に唇に落ちた。一度触れてしまえばもう迷いはなく、唇は何度も塞がれる。そして口づけは、少しずつ激しいものへと変わっていった。呼吸を奪うように繰り返される口づけに、エリアナは息も絶え絶えになる。
「殿下、お口を開けてください」
「口を……? んっ」
 ぼんやりとしながらも言われた通りに口を開けば、分厚い舌が歯列を舐めた。それに驚きエリアナが硬直している間に、舌は口内を蹂躙しはじめる。
「ふ、ああっ」
 舌を絡める口づけが存在すると、耳年増な令嬢たちから聞いたことはあった。
 それは気持ちいいものだと、そんな話も聞いていたけれど……。
 実際に経験したそれは思った以上に鮮烈で、生々しくて、羞恥心も忘れるくらいに気持ちいい。
 夢中で舌を絡め、互いの唾液を混じり合わせる。いやらしい水音が唇から零れ、嚥下できなかった唾液が口の端から流れていく。けれど、そんなことを気にする余裕はエリアナにはなかった。
「んっ、んっ!」
 下腹部がずくりと疼き、内ももを雫が濡らしていく。
(濡れて、る? これが閨の授業で習った、殿方の『あれ』をきちんと収めるために滲み出るもの……なのかしら?)
 知識としては知っていても、実際に濡れたのははじめてだ。これが正しい現象だという確信が持てずに、エリアナの胸には不安が過ぎる。
 唇を離したライネリオが、落ち着かないエリアナの様子に気づく。そして、思案顔をしながらエリアナの濡れた唇に指先で触れた。
「殿下。……口づけは不快でしたか?」
「いいえ、とても気持ちよかったわ!」
 答えてから、はしたないことを言ったと気づくがもう遅い。頬に淡い朱を散らしながらライネリオを見れば、彼は嬉しそうに笑っていた。
「それはよかった。では、なにか気になることでも?」
「……口づけで、濡れてしまったの」
「は?」
「こんなふうになるのははじめてだから、これが正しいことなのかわからなくて」
「……殿下」
「はいっ!」
 ライネリオから発された唸るような声に、エリアナは肩を跳ねさせながら返事をする。すると、怯えなくてもいいと言うように頭を優しく撫でられた。
「殿下は、俺を煽っているのですか?」
「煽る?」
 真顔で訊ねられ、エリアナはぽかんとしながらライネリオを見つめる。すると彼は、小さく息を吐いてから口を開いた。
「馬鹿なことを聞きました。殿下、ドロワーズを脱がせてもよいですか?」
「わ、わかったわ」
 了承すればドロワーズに手をかけられ、するりと抜き取られる。とうとうライネリオの前で一糸まとわぬ姿になってしまい、エリアナは緊張からこくりと唾を呑んだ。

(各作品のつづきは本編で!)

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