作品情報

砂塵王は白薔薇の君に愛を乞う

「弟を助けたくば、わたしの妻になれ」

あらすじ

「弟を助けたくば、わたしの妻になれ」

 囚われの身となった弟を助けるべく、伯爵令嬢ジュリアは遥か東方にある砂塵の国エスラダを訪れる。
 エスラダの王サイードは、かつてジュリアが初めて恋をした男。今も友人として手紙を交わす仲の彼に頼めば、弟を救う事が出来るかもしれない。そう信じてサイードに頼み込むジュリア。
 だがサイードが彼女に突き付けたのは、弟の身柄と引き換えに妃になれという交換条件で──!

作品情報

作:更紗
絵:風街いと

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本文お試し読み

 これは一体、どういう事なの。
 開いた扉の前で、ジュリアは愕然としていた。
 目の前の盛大な宴に圧倒されて、心臓が潰れそうな心地だった。
 今、彼女の白金の髪には繊細なビーズと金の鎖でできた頭飾りが乗っている。
 その頭頂から肩までをすっぽり覆うのは、透き通る薄地の赤いヴェールだ。
 到着早々に着替えさせられた詰襟のドレスは深い紅色で、肌触りの良さから最上級の絹の仕立てだとわかる。
 蔓草模様の金刺繍があしらわれた長いスカート部分は生地に光沢があり、ジュリアが動く度にランタンの明かりに照らされ艶やかに輝いていた。
 てっきり、謁見の間に連れて行かれると思っていたのに……どうしてこんな、宴の場へ……?
 彼女はなぜ今この時に宴が開かれているのか、また自分がどうしてこんなものに着替えさせられ連れてこられたのか皆目見当がつかなかった。
 狼狽えている場合じゃないわ。顔を上げなければ。
 怖気づく心を叱咤しぐっと顎を上げれば、灰衣で口元までを隠した侍女に中へ入るよう促された。
 緊張感に包まれながらジュリアが一歩足を踏み入れた瞬間、ざわめきが消え白い華宮殿の奥広間が痛いほどの静寂に包まれる。
 な、なに―――?
 思わず足を止めたジュリアは平静を装い眼球だけで周囲を見回した。優美な青いモザイクタイルの上に敷いた絨毯の上で、大勢の人々が一斉に彼女へ視線を注いでいる。人の目がまるで針のむしろのようにジュリアに突き刺さっていた。
「っ……」
 居心地の悪さを感じながらも、ジュリアはくっと歯を食いしばり意を決して再び歩み始めた。人で埋め尽くされた巨大な広間の中心をたった一人で堂々と真っ直ぐに進んで行く。
 目指す先はただひとつ。
 他はもう目に入らず、視界には【彼】だけが映っている。
 そんなジュリアを見ている者達の多くが彼女の清純な美しさに目を奪われていた。
 月の光を閉じ込めたような豊かな白金の髪はもちろん、透き通る白磁の肌も、サファイアを嵌め込んだが如き青い瞳も、赤く色づいた淑やかな唇も、彼女の存在そのものが人の目を惹き付ける。
 その場に居た者はみな、性別を問わず西国イングラムからたった一人でやってきた勇気ある女性の美貌に見惚れていた。
 ここは遥か東方に位置する砂の国エスラダ。
 幼少の頃よりジュリアが憧れていた神秘の王国である。
 彼女は今日、ある理由のためにこの地へと降り立った。
 それは【姉さん助けて】という弟の手紙を目にしたからだ。
「……王よ、ジュリア様をお連れいたしました」
 ジュリアをここまで案内してきた侍女が立ち止まり、腰を落として恭しく頭を垂れた。
 青い絨毯に侍女の影が落ちると同じく、ジュリアもそれに倣い頭を低く下げる。しんと静まり返った空間に、衣擦れの音と観衆のひそやかな息遣いだけが響いていた。
 張り詰めた空気に、ジュリアは背中に冷たい汗が伝うのを感じた。視線の圧迫感に息がつまりそうだった。
 足にぐっと力を込めて、指先まで神経を張り巡らせる。
「顔を上げろ」
 ジュリアの真正面、腹の底に響く低い声の持ち主は、悠然とした仕草でそう促した。
 前で組んだ両手に滲む汗をぎゅうと握りつぶしながら、顔を真っ直ぐ正面へと向ければ、ちゃり、とジュリアの金の髪に乗った頭飾りが音を奏でた。
「久しいな、ジュリア」
 別世界を思わせる荘厳な華宮殿の最奥、人々が居並ぶ上座にてジュリアを見下ろしているのは、黒い長衣に身を包んだ砂漠の王だ。
 艶やかな長い黒髪に、くっきりと鼻筋の通った端正な面立ち。凛々しい鷹を思わせる鋭い黒檀の瞳には、揺るがぬ意志の光がある。
 砂の民の象徴でもある濃い褐色の肌は磨き抜かれた黒鋼のように逞しく、かつ神秘的だ。
 そこにいるだけで風格が滲み出る彼の名は、サイード=イル=バズル=エスラダ。
 エスラダの第十九代国王である。
「サイード王……いえ、陛下。お久しぶりにございます。既にご存知かと思いますが、私が本日参った理由は―――」 
「ジュリア。弟を助けたくば、わたしの妻になれ」
「なっ―――」
 口上を断ち斬り投げられた言葉に、ジュリアは絶句した。
 妻になれの意味はもちろん、この無駄に豪勢な宴が一体どういうものなのか、そして着せられたこの衣装が何であるのかを、たった今理解して。
 衣装の重みが、一気にずしりと泥のように肩に圧し掛かった気がした。
 相反して白い頬は怒りと羞恥でかっと熱を帯びていた。柳眉の間には皺がより、表情がきつくなっていく。
 そういう……こと。
 だから私を呼び寄せたの。
 合点がいったジュリアは両手を固く握りしめ、強い眼光をサイードに向けた。
 赤く塗られた唇を噛み、失望と不安を押し殺して言葉を紡ぐ。
「それが貴方の返答なのですか」
「そうだ」
 簡潔な肯定にジュリアは自分の浅慮を悔いた。
 なんと素っ気ない返答だろうか。仮にも友人であるはずの、あったはずの人間を相手にしているというのに。そう内心自嘲しながら歪に口角を引き上げる。
 あの手紙が再会を願うものだと思ったのは……勘違いだったというわけね。
 一抹の寂しさを感じながら、ジュリアはきゅっと口元を引き締めた。
 忘れていたのは自分だ。かつての友人が、今や一国の王となっていることをもっと重く考えるべきだった。今さら後悔したところで遅いけれど。
 甘い考えを捨てきれなかったのは、彼と過ごした懐かしい記憶のせいかもしれない。
「もう一度言う。ジュリア、わたしの妻になれ。我がエスラダの妃となれば……君の弟を解放しよう」
 今にも獲物を狩らんとするような鷹の目に身を貫かれながら、ジュリアは灼けつく熱砂のような男―――エスラダ王サイードと真っ向から対峙していた。

 ことの発端はジュリアの弟、コーエンハイム家の跡取りエリックからの手紙だった。
 ジュリアがエスラダへと着くちょうど一週間前のことだ。
 夕暮れ時に突如届いた弟からの手紙には、かの国にて囚われの身であることと、命に別状はないものの解放の交渉に来て欲しいとの要望が記されていた。
「ジュリア! あの大馬鹿者を連れ戻せ! 何としても!」
 そう吐き捨てた父ダラス伯爵が手紙を書斎机に叩き付けた。白い便箋がぐしゃりと無残に潰れ、茜の陰影に染まる。
 御年五十になる彼の顔は怒りで夕日よりも赤く染まっていた。ダラスは几帳面に撫でつけた白髪交じりの金髪を片手で引っかき、苛々した様子を露わにしている。
「……かしこまりました、お父様」
 ジュリアは歯噛みする思いで父を睨み付けた。こういう時だけ自分を使うこの男が大嫌いだった。
 『女のお前に、家督を継ぐ権利は無いのだからな』
 僅か六歳のジュリアに父が放った言葉だ。
 一つ下の弟と同じように学びを深めたいと言った彼女を、ダラス=コーエンハイム伯爵はそう切り捨てた。
 この男にとって娘とは、政略の道具であって我が子ではないのだ。
 「女風情が」「役立たずめ」。
 ダラスの枕詞はすべてそれだった。ジュリアは物心ついた頃から父親に罵倒される日々を送っていた。
 彼女の父は男尊女卑思想がひどく、女性は男性よりも圧倒的に弱く劣る存在なのだと考えていた。成長し相応の家格の男に嫁げるようになるまで、価値はないと。
 ジュリアは父親に抱き締めてもらったことなど一度もなかった。罵倒されるか、鞭打たれるか。幼い時の父との記憶はそれだけだ。
 年頃になった今は鞭打たれることは無くなったが、その分領地の管理であったり家の采配であったり面倒ごとを押し付けられ馬車馬のように働かされている。
 ジュリアとエリックの母、エリアーナが死んだのも元はといえばこの男のせいだ。
 政略結婚で嫁いできた気弱な母は、最初に女のジュリアを産んだことでダラスから責め立てられた。そして産後一年も経たないうちに無理矢理孕まされたせいで身体を壊し、弟エリックの出産と同時に病床に伏した。
 その後なんとか細々と生きながらえたものの、母エリアーナは寝台から起き上がることなく、昨年の終わりに亡くなった。
「エスラダの野蛮人どもめ……! 近頃は貿易にまで幅を利かせ良い気になりおって! だがエリックは我が家の跡継ぎなのだ! 失うわけにはいかん! ……喜ぶがいいジュリア、傷物のお前が家の役に立てる時がきたのだ。その身にかえてもエリックを連れ帰れっ。わかったな!」
「っ……はい」
 ダラスが机を殴りつけがなり声を上げた。投資に失敗してからというもの、成功者達が妬ましくて仕方がないのだろう。
 鬱憤をぶつけられたジュリアは奥歯を噛み締め頷いた。口を挟まないのは、早くこの男の前から解放されたいからだ。
「ならば明日の朝すぐに発て! これは命令だ、わかったら早く行け!」
 そう冷たく言い放ち、ダラスは虫でも払うように娘を書斎から追い出した。

 ―――今のコーエンハイム家が、存続する意味などあるのかしら。
 四年前ならまだしも、今や没落の一途を辿っているというのに。
 反論を呑み込んで、ジュリアは父の書斎に背を向けた。
 『傷物』
 残酷な言葉が心を切り刻む。
「泣いてたまるもんですか……!」
 自室へと続く通路を歩きながら、彼女は薄い唇を噛み締め歩を強めた。
 一歩進む度に苦い記憶が蘇ってくる。何度忘れたいと願ってもできなかった嫌な思い出だ。
 『ジュリア、僕は妻にするならヘレンが良い。女としての魅力も、持参金も無い君との婚約は、破棄させてもらうよ』
 そう言って、心変わりした元婚約者ロディ=フォードは彼女を嘲り、捨てた。
 元婚約者が新たに選んだ相手は財産の潤沢な家の令嬢だった。
 昨年十九歳の夏のことだ。
 それからジュリアは社交界で『傷物』と誹られることになった。
 行く度に陰口を叩かれ嫌気が差した彼女は今年一度も舞踏会に出ていない。元婚約者達は意気揚々と参加しているというのに。
 父ダラスから「家の恥が表に出るな!」と言われたのもあるが、元婚約者ロディの言葉がひどく心にこびりつき、忘れたくとも忘れられなかったからだ。
 別にロディを愛していたわけではない。舞踏会で勝手にジュリアを見初め、金と引き換えに婚約を取り付けたのはあちらの方だ。
 勝手に気に入り勝手に婚約を決め、勝手に捨てた。
 持参金が無いのはダラスが投資に失敗し財産を食いつぶしたからで、ジュリアのせいではない。
 父親には売られそうになり、元婚約者は身勝手で、社交界では陰口をたたかれて。
「そのうえ、今度は後始末係だなんて」
 ジュリアは男達の身勝手に辟易していた。
 弟を助けに行くことが嫌なわけではない。道具のように都合よく扱われるのが嫌なだけだ。
 今回の当事者である弟エリックは、母が亡くなった途端ダラスの罵声と横暴に耐えかね家を飛び出した。
 そうしたくなる気持ちはジュリアにも痛いほどわかる。だからエリックが手紙を置いて忽然と姿を消しても責める気にはなれなかった。同じ痛みを知っているし、大切な弟であることに変わりはないからだ。けれど彼女には弟と同じことは出来なかった。
 子供の頃から世話をしてくれている使用人達を父の元に残していくのが忍びなかったのだ。
「サイード……」
 影の落ちた通路から空を見上げたジュリアの唇から、遥か遠くにいる友人の名が零れる。
 彼女の青い瞳に、既に沈んだ夕日の後を追いかける夜の紫紺が映った。
 星を連れた空には数枚の枯れ葉が舞い上がっている。
 この国は秋へと移ろうとしているが、あの国は今頃夏真っ盛りだ。灼熱の太陽に照らされた砂漠は、さぞ輝かんばかりに美しかろう。
 遙か東にある、月と太陽と黄金の砂に包まれた神秘の王国エスラダ。
 そっと瞼を降ろし未だ目にした事のない国に思いを馳せれば、懐かしい絵本の表紙が思い浮かんだ。
 それは亡き母が持っていた一冊の本だった。
 母亡き後ダラスに捨てられてしまいもう手元にはないけれど、ジュリアの目には夜空に浮かぶ月と砂漠の少年の姿がありありと焼き付いている。
 今この時、子供の頃から憧れた国に行くのは、もしかしたら運命なのかもしれない。
 たとえ望んだ形ではなかろうと。
 瞼を上げたジュリアは再び歩き出した。
 憧れの国へ、弟を取り戻しに行くために。

「お嬢様、本当にエスラダへ行かれるのですか」
 自室に戻って旅支度を始めたジュリアに、最年長メイドのペニーが心配そうに言った。
 薄ら白髪の交じる髪をキャップに詰めた彼女は四十後半で、実母を失くしたジュリアにとっては母親代わりの女性だ。
「ペニー、仕方ないのよ。エリックを放っておくわけにはいかないわ」
「ですがお一人で向かわれるなど……」
 長いスカーフを手渡してくれるペニーが溜息を吐いて首を振る。
 エスラダの昼は太陽の光が強い。日差しを避けるための準備も必要だった。
 明日の朝一番に発つには今夜中に支度を済ませねばならない。
「わたくしが、ご一緒できれば良いのですが」
 ジュリアを我が子のように慈しんでくれたペニーにとって、彼女の旅立ちは心配以外のなにものでもなかった。
 それを有難く思いながら、ジュリアは優しいメイドをなだめるように微笑を浮かべて肩を竦めた。
「我が家にはもうメイドが少ないし、ペニーを連れていったらお父様が怒るわ。それに、頼れるのはもう貴女だけなのよ。他の人じゃお父様の横暴に耐えられなくて、また辞めてしまうわ」
 財政難に陥っているコーエンハイム家ではもう新たに求人広告を出す余裕もない。
「それは、そうでしょうが……」
 本心ではジュリアとて母のようなペニーに付き添って欲しいが、それは無理な話だった。
 眉を下げるジュリアに、彼女は表情を引き締めた。
「サイード様と、交渉なされるおつもりですか」
「……ええ、そうよ」
 答えて、ジュリアは部屋の端にある机上を見つめた。
 白地に薔薇の型押しがされてある便箋はまだ途中で、今夜続きを書くはずだった。宛先は今から会いに行こうとしている相手だ。
「ご友人なら、お許しいただけるのではないですか」
 大型の旅行鞄にドレスを詰め込みペニーが言う。
 彼女の不安げな表情にジュリアは苦笑した。
「どうかしらね。私をわざわざ呼び寄せるくらいだもの。それだけエリックが何か重大な……非礼に当たることを仕出かしたのでしょうし」
 弟が助けを乞うたのは姉のジュリアにだった。あの手紙には父ダラスの名は一語たりとも書かれていなかったのだ。
 その理由は一つしかない。ジュリアでなければこの事態を動かせないとエリックは考えたのだろう。
「一体何をなさったのでしょう……」
 ペニーが胸の前で祈るように両手を組む。
 あの弟ならありえると、彼女もわかっているからだ。
 弟エリックはジュリアの一つ下で十九歳になる。ちょうど無茶をする年頃の青年だった。
 ジュリアはダラスに駒同然に扱われたが、反してエリックは嫡男であることを理由に厳しくしつけられた。
 鞭打たれた回数なら、きっと彼の方が何倍も多いだろう。結果エリックは父に反発し、母亡き後に家を飛び出した。
 かつては鞭打たれるジュリアを庇ってくれたり、根は優しいところもあるのだが、いかんせん無鉄砲な部分のある弟だった。
 直前に届いていた便りには旅人のように他国を渡り歩いていると書いてあったが、まさか助けを求められる事態になろうとは。
 彼が何をしたのか、気にはなるが手紙には書かれていなかったので今は知りようがない。行って確かめるしかないのだ。
「さあ。だけど簡単に許されることでないのは確かよ。そうだったらとっくに解放されているはずだもの。……きっとサイードの、王の威信にすら関わる何かだってことでしょうね」
 現時点での朧気な予想を語ると、ペニーは恐ろしい、と口にして溜め息を吐いた。
 同じ気持ちのジュリアは、不安を誤魔化すように黙々と旅に必要な物を鞄に詰めていった。

 澄んだ夜空に眉月が浮かんでいる。ジュリアは洋燈の明かりの下、過去に受け取った手紙を読み返していた。
 薔薇の型押しがされた上質紙はエスラダの工芸品だ。そこには男性にしては美しい文字が綴られている。
 『あの日々が懐かしい。君と過ごした頃のように今もいられたら、どれほど幸せだろう』
 黒いインクで記された言葉を指先でなぞる。
 そこにはエスラダ国の王ではなく、ただの青年である彼の本心があった。
「……サイード。私も同じ気持ちだわ」
 懐かしく、楽しかった日々を思い出す。
 あの頃はまだ、互いに身分も立場も忘れて語り合えた。
 ジュリアがサイードと出会ったのは今から四年前になる。
 彼の身分がまだ王子であった頃、ジュリアの住むイングラム国に留学中の頃だ。
 当時まだエスラダは名の知られていない小国で、それもいくつかの民族から成り立つ他民族国家だった。
 そのため内戦も絶えず、王位継承権を持つサイードは身の安全を確保するため、表向きは諸外国を知り見分を広めるという名目でイングラムに暫し滞在していた。
 イングラムではその頃、エスラダで生産される絹織物が貴族達の流行になっていた。
 新たな貿易国の王子である彼は言うまでもなく社交界で引っ張りだこで、彼自身の整った容姿も相まって注目の的になっていた。
 しかし貴族社会では新参者は物珍しがられると同時に、厳しい洗礼も受ける。
 砂の国から来た彼のことを貴族達は『野蛮人』と詰る者もいた。
 そんな折、十六歳でデビュタントを果たしたのがジュリアだ。
 二人はある夜の舞踏会で、必然ともいえる出会いを果たし、それからずっと手紙のやりとりを続けている。
 そのことを、父ダラスは知らない。
 知っているのはペニーと、彼女の部屋にあった手紙を偶然目にしたエリックだけ。
 恐らく、手紙のことを知っていたからこそ弟はエスラダに行ったのだろう。
 出会ってから四年間、ジュリアとサイードが続けてきたやり取りは今や文箱に収まりきらなくなっている。
 中の便箋は、何度も読み返したせいで端に皺が刻まれるほどだった。
「貴方は私を、ただの友人だと思っているのでしょうね……」
 ジュリアはエスラダからも見えているだろう月に向けて告げた。
 サイードは彼女にとって初恋の相手だった。けれどその恋は、彼の帰国と同時に未消化で終わりを告げた。
 今や大国となったエスラダでサイードは王という地位にある。
 それに比べてジュリアは貴族といえど財政破綻で没落しかけの家の娘だ。今も友人として手紙を交わせているのはひとえにサイードの人柄ゆえである。
 それもいつまで続くことか。
 ここ最近、手紙が途切れていたが、理由は恐らくエリックのことがあったからなのだろう。
 彼女は小さく溜息を吐いた。
「エリック。貴方一体、何をしたの」
 大切で自由な、そして無鉄砲な弟を思うと気分がより重くなった。
 少なくとも、サイードが友人としての手紙すら送れないほどのことをエリックは仕出かしたのだろう。
 彼にとって自分はただの友人の一人だ。そんなただの友人に、交渉の余地はあるだろうか。
 サイードは優しい男だ。きっとある。あってほしい。
 手紙を手に、細い月を再び見上げてジュリアは願った。
 明日、自分は生まれて初めてこの国を出る。
「お母様……どうか私を、見守っていてね」
 ジュリアは幼い自分にエスラダのお伽話を聞かせてくれた母に祈りを捧げた。
 エスラダは規律に厳しい国だが、彼に頼めば―――あるいは。
 僅かな希望を胸に、ジュリアは翌朝憧れの地へと渡った。
 送られた白い便箋の隅、薔薇に紛れて刻まれた不思議な『模様』の意味を、知らぬまま。

 なのに、妻になれですって?
 王の御前で周囲を臣下に囲まれ、たった一人でジュリアは立ち尽くしていた。
 おかしいとは思っていたのだ。
 エスラダへと着いた時、物々しい迎えが用意されていた。また早々にこの豪奢な衣装にも着替えさせられた。
 弟が囚われているとはいえ、異国の客人として礼を尽くしてくれたのかと思っていたが、違っていたらしい。
「っ……弟の非礼には心からお詫びをいたします。先ぶれも出さず陛下の友人だと言って押し掛けたこと、本当に申し訳なく思っています。無礼への償いは当然させていただきましょう。ですからどうか、弟エリックをお返しください、サイード王」
 戸惑いと混乱のなか、ジュリアはやっとの思いで声を絞り出した。そうして膝を折り、頭を深く垂れ敬意と謝罪を表す。
「ジュリア、顔を上げろ」
 けれど友人であったはずの男は、厳しい表情を崩さなかった。
 視線を上げた彼女に向け、ゆっくりと首を横に振る。
「ことは詫びだけではすまないのだ。君の弟は、自らが王の義弟となる男だと公言した」
「なん、ですって……!?」
 あまりにも愚かな所業にジュリアは驚愕した。
 まさか、そんな。という掠れた声が虚空を悲しく通り過ぎていく。
 事実無根もいいところだ。王の義弟だなどと。
 サイードとは単なる文通相手という間柄でしかない―――だというのに。
 詐称はこの国では大罪だ。
 特に王族の婚姻については正式なふれが出されるまで極秘である。
 他民族国家であるエスラダだからこそ、それは民族間の抗争にも関わる重要事項であり、勢力図を大幅に変えてしまう紛争すら起こす危険性を孕んでいる。
 それなのに、エリックは厚顔無恥にも自分の姉がエスラダの妃になるのだと吹聴したらしい。とんでもないことだ。
「そ、そんな……っ」
「すでに我が属国の長《おさ》達は動き始めている。取り返しはつかない。そしてジュリア、我が国の慣例は知っているな?」
 サイードが獲物を狙う捕食者の目で酷薄に告げた。ジュリアにとってそれは死刑宣告に聞こえた。
 緊張と不安で鼓動が早鐘を打つ。鋭い視線が突き刺さる。
 彼が求めているのはジュリアが知るエスラダの古い言文だ。
 掟、とも呼ばれている。これを教えてくれたのは、目の前にいる男自身だ。
「こと、ば、は……」
「言葉は」
 焦燥で途切れるジュリアの声をサイードが正す。
 彼の黒い鷹の目が、続きを言えと促している。
「言葉、は……誓いで、あり……まじないで、ある……その声は、命より……重い……」
 唇を震わせ、腹の底から絞り出したジュリアの台詞に、サイードが重々しく頷く。
「そうだ。聡い君なら、なぜこうなっているのか察しがつくだろう。弟が宣言した通り、君がわたしの妻にならない限り、彼は牢獄から出ることはない」
「牢獄ですって……!? エリックをそんなところに入れているの!」
 愚かなことをしでかしたのだとしても、大切な弟であることに変わりはない。この熱い砂漠の国で牢獄に囚われれば暑さに慣れていない貴族の青年がどうなるかなど容易く想像できる。ジュリアは怒りに震えた。
「怒るな。それでも貴人用のものだ。体罰を与えているわけでもない。彼の衣食住は保証されている。まだ外部に漏れてもいないから安心しろ」
「だからって……!」
 それでも、エリックが牢獄に閉じ込められ自由を奪われていることには変わりない。
 確かに先に禁忌を侵したのはこちらだ。しかし、他国の貴族を投獄すれば国家間の問題となる。それを承知の上で、サイードは告げているのだ。
 今や大国と化したエスラダが相手では、ジュリアに残された方法は一つしかない。
 拒めば確実にコーエンハイム家は取り潰しとなるだろう。
 そんなことはかまわない。困るのは、ペニーや屋敷に残ってくれている使用人達だ。彼らを路頭に迷わせるわけにはいかない。
 選択肢など残されていないのだと、ジュリアは唇をきつく噛み締めてサイードを、かつての友を睨んだ。
 彼はジュリアにとって初恋の相手だった。けれどあの頃夢見たのは、こんな形ではない。
 サイードに王としての面子があるのは理解できる。この国で慣例や慣習は絶対だ。
 古くからあるしきたりを王自ら無視すれば臣下や民に示しがつかない。いずれ彼に異を唱える者すら出るだろう。
 彼にとってもこれは本意ではないのだ。
「……そんな顔をするな。美しさが台無しだ」
 きつく唇を噛めば、サイードが眉間に皺を寄せた。
 黒檀の瞳が痛まし気に彼女を見ている。ジュリアはやるせなさに視線を逸らした。
 かつてのジュリアなら喜んでいただろう言葉も、今は虚しいものでしかない。
 彼だって望まぬ花嫁を妻になど迎えたくはないはずだ。
 ジュリアはどうにかサイードに状況を打破してもらえないかと考えた。いや、方法なら一つだけある。
 父ダラスの言った通り、この身は『傷物』なのだから。
 たとえ身体自体が清らかであろうと、一度婚約破棄された娘がどう見られるかなど国が違えど大して変わらないだろう。
 ジュリアは苦々しい気持ちで口を開いた。
「お世辞は結構です。この国で、慣例がどれほど重視されているか私は知っているつもりよ。ですがサイード王、貴方なら例外を作ることもできるでしょう。異国の女など妻に迎えずとも。だって、私は、」
 傷物の女よ。そう続けようとしたが、出来なかった。
「言うな!!」
「っ」
 剣で断ち切るように話を遮られ、言葉に詰まる。猛禽類の目がジュリアを突き刺す。
「慣例も決定も覆せない。わたしがさせぬ。そしてわたしの妻を貶めることは、たとえ君本人であっても、許さない……!」
 それは怒りだった。絶対君主であるサイードの苛烈な怒気にジュリアのみならず臣下達まで呑まれていた。
 無理だ。これでは逃げられない。烈火の如き怒りに晒されながら、ジュリアは悟った。もう後戻りはできないのだと。
 それに理由はわからないが、サイードはジュリアの婚約破棄について知っている。手紙で伝えてはいなかったのに。それでも推し進めようとしているのだ。
 ジュリアは退路が断たれた事に落胆した。
 愛のない結婚なんて、もうたくさんなのに―――
 彼女の脳裏に、自分を裏切った元婚約者のことが浮かんだ。愛していたわけでなくとも、人に裏切られれば傷となって残る。
 その傷は未だ癒えていない。
 けれど抗おうにも術はない。拒否すればエリックは解放されず、エスラダとイングラムとの国際問題に発展する。それだけは避けたかった。
 何が悲しくて、一度は好いた男の元へ嫁がねばならないのかと悲しみがこみ上げてくる。
 祭壇に捧げられる生け贄はこんな気分なのかもしれない。
「わかりました……貴方の、妻になりましょう」
 そうして彼女は、そのまま婚礼の儀へと挑むことになった。

 巨大な半円球の屋根と尖塔が連なるエスラダ宮殿の広場に、大勢の人が詰めかけていた。
 頭上では満天の星空が瞬き、揺れる松明が白い天幕を赤い炎の色に染めている。とりどりの花や祝いの品が、鮮やかに場を彩っていた。
 夏夜の熱気が薫香の煙と混じる中、人々の談笑がざわめきとなってジュリアの耳に響く。
 それを、しゃらん、と鈴の音が断ち切った。
「―――砂漠の鷹、黒き刃、我がエスラダが王、サイード=イル=バズル=エスラダよ。ヴァナラハーム神が御名において、西の国より来たりし姫、ジュリア=コーエンハイムを神妃とする誓いを立てよ」
 頭部を剃りあげた老齢の祭司が信仰神と祖霊に厳かに祈りを捧げ、手にした錫杖の鈴を二度鳴らした。
 祭司の導きに従いジュリアは隣に立つサイードと向かい合った。面まで降ろしたヴェール越しに見える彼は黒い正装に身を包んでいる。肩に掛けられた長布についた金の房飾りが動きに合わせて揺れていた。
 再びしゃらりと小金が擦れ合う澄んだ音色が聞こえ、ジュリアの赤いヴェールに包まれた視界が暗くなる。
 サイードが身に纏った黒い長布で彼女を頭から包んだのだ。
 行動の意味は、かつて神と崇められた王の妻となる花嫁の清めを意味する。
 砂漠の民は古来より女性が純潔で清浄であることを重視していた。
 しかし旧時代のように他者立ち会いのもとで処女かどうかの確認はされていない。
 サイードが拒んでくれたからだ。くれた、というのは語弊があるかもしれないが。
 これが、エスラダの婚礼の儀式……。
 長衣越しにサイードの腕に肩を抱かれながら、ジュリアは極度に緊張していた。
 思いがけない事態とはいえ、憧れていた国の荘厳な儀式に圧倒されていたのだ。
 常より大きく開かれた彼女の青い瞳に、再び明るい視界が戻った時、彼女を抱いていた逞しい腕は腰元からすらりと美しい白刃を抜いた。
「―――エスラダ王、我サイードは、国神ヴァナラハームに宣誓する。ここにいるジュリア=コーエンハイムを我が神妃とし、魂の契りを交わし、互いに身も心も捧げ合うことを―――」
 片刃の湾刀を掲げ、サイードが堂々と宣言した。そして黒き衣を纏う褐色の王がジュリアを見下ろす。
 彼は湾刀を両手に持ち替えると、傅いて彼女へと捧げた。その湾刀を、花嫁であるジュリアが受け取る。
 瞬間、大きな歓声が上がった。人々の声が地面にまで轟いている。
 砂漠の民は王も含め、みなが戦士だ。
 その魂でもある湾刀を受け取るということは、相手の心と命を受け取ったも同じと見なされる。
 ジュリアは前もって言われた通りその白銀に輝く刃に口付けを落とした。
 すると再び歓声が上がる。
 これで花嫁の命も、心も、サイードに捧げられたことになった。
「王の婚礼はこれにて完了した。エスラダのより一層の繁栄を願い、我らも祝杯を酌み交わさん―――」
 祭司が錫杖を振り上げ打ち鳴らす。ひと際大きな歓声と音楽が鳴り響き、宴が始まった。
 終わった……。
 やっと婚礼の儀式を終えられたのかと、ジュリアは小さく息を吐いた。
「っあ……!」
 けれどそれも束の間、突然身体が浮いて視界がぐっと高くなる。ばさりと跳ねる白金の髪の上で頭飾りが揺れて、しゃらしゃらと繊細な音を鳴らした。
 え……!?
 気付けばまるで猫のように軽々とサイードに抱き上げられてしまっていた。逞しい腕が背中と膝裏を支えている。ジュリアは口をぽかんと開けたまま、しっかりと身体を抱きかかえる彼を見上げた。すると喉仏の浮き出た褐色の首元が間近に見えて、慌てて視線を逸らす。
 視界が普段の自分よりずっと高い位置になっていた。地面が一気に遠くに見える。それはそうと、なぜ抱きかかえられているのだろうか。
 それを問い詰める前に、サイードが顔を来客達へと向けた。
「みな、大いに楽しんでいってくれ。わたしはこれより七夜月に入る」
 彼がそう宣言した瞬間、場の者達が色めきだった。男達の多くが何やら妙な笑みを浮かべている。どちらかと言えば感じの良くない類のものだ。ジュリアは粘ついた視線の恐ろしさに思わず身を竦ませた。
 な、なに……っ?
 色を含んだ視線を向けられて、肌がざわりと怖気だす。彼女は無意識にサイードの胸に身を寄せていた。すると身体を抱く彼の腕にぐっと力が籠もった。恐る恐る顔を上げると、サイードは険しい表情で来客達を睨んでいた。
「……今後、我が妃に欲を向けた者、色目を向ける者いれば許さん。命が惜しくば、覚えておけ」
 ―――え?
 ジュリアは思わずサイードを凝視した。
 攻撃的な言葉に驚いたのもあるが、厳しい視線で来客達を睨み据える彼の様子があまりに恐ろしく、まるで知らない人物のように見えたからだ。
 そうはいってもジュリアから見えるのは下から見た彼の表情だけだ。直接目を向けられているわけではない。
 けれどそれでも、背筋がぞっとするほどの怒気を彼から感じた。
 サイード……?
 まるで鷹が鋭い鍵爪で敵の喉を切り裂かんばかりの迫力に狼狽える。怯えてしまったというのが正しかった。だからだろうか。
 つい彼の胸元を、片手でぎゅっと握ってしまったのは。黒い布地を掴んだ瞬間、ぱっとサイードの視線が戻ってきてしまい、ジュリアはぴしりと固まった。ばれた、と思った。ばれないわけがないのに。
 わ、私、何してるのかしら……!?
 戸惑う彼女をサイードが見ている。表情にはもう怒りはなく、どちらかと言えば困ったような苦笑めいたものに変わっていた。
「その、恐がらせて悪かった。……行こう」
 サイードは申し訳なさげにそう言うと、ジュリアを抱いたまま場を後にした。
 恥ずかしさのあまり、ジュリアはただ黙って頷くことしか出来なかった。

「あの、自分で歩けるので、降ろしてもらえませんか」
 しっかりした足取りで歩を進めるサイードにジュリアが言った。
 彼は黒い目を一瞬ちらりと向けてはくれたが、またすぐに前を向いて足早に歩いて行く。
 女一人を腕に抱いているというのに、重さを感じていないかのような涼しい顔だ。けれどジュリアは困惑するほかなかった。
 こんな風に抱いたまま歩かれては、まるで自分が愛された花嫁のように勘違いしてしまいそうだった。
「……堅苦しい言い方はよしてくれ。以前と同じように話してくれないか」
 だからやめて欲しいと再び話しかけようとした時、サイードが先に口を開いた。視線は前に向いたままだ。
 彼はどうやらジュリアの口調が気にくわないらしい。
「以前と同じようにって……」
「それに、」
 友人だった頃と同じように話せというの。こんなにも、状況は変わってしまったのに。
 反論したかったが、サイードが言葉を続けたので言うのをやめた。
「降ろすことはできない。婚礼の後、夫は妻を抱いて寝室まで運ぶようになっている。それがエスラダの習わしだ」
「習わし」
「そうだ」
 サイードの言葉を復唱した。聞いてすぐには頭が理解することを拒んでいたのだ。
 習わし。婚礼の後、妻を抱いて寝室まで運ぶのが。寝室、そう、つまり。
「し、寝室って……じゃあもしかして、七夜月というのは……っ」
 恐る恐る意味を訊ねる。なんとなく察しはついていたが、信じたくなくて確認したかった。
 式が終わった後、夫婦となった男女が行う事といえば一つしかない。わかっていたはずなのに。
 ジュリアは背筋にじわりと汗を掻いた。
「これより七つの夜、わたしは君を抱き続ける」
「え?」
 今、何かとんでもない台詞が聞こえたような。
 聞こえてはいたが、頭が理解してくれなくて、ジュリアは呆然とサイードを見つめた。腰に回った彼の屈強な腕が、やけに鮮明に感じられる。
 寝室という台詞にそれのことを思い出したばかりなのに、そのうえ七つの夜、とは。もしや。
「エスラダでの婚姻は七夜と八日の刻をもってして完成される。その間は寝所から出ることなく、婚礼で宣誓した通り夫婦互いに身が溶け合うまで交わるんだ。つまり、蜜月だな」
 身が溶け合うまで。寝所から出ることなく。混じり合う、蜜月……。
 脳内で何度も反芻して、ジュリアは一時放心した。そしてぶわりと全身を朱に染めると同時に、はくはくと口を開閉させる。
「な、な、なっ……っ」
 嘘でしょう―――!?
 ジュリアが驚愕で固まっている間にもサイードは軽やかな足取りで宮殿の奥へと進んで行く。
 婚礼の儀式からなんとなく、気付いてはいた。知らない振りをしていただけで。
 それに一度だけ……少なくとも一晩我慢すればいいだけだと思っていたのだ。サイードだって好きでもない女を抱くのは一度で十分だろうと。
 世継ぎの問題はあれど、まさか七夜も立て続けになると誰が思えただろうか。
 ただでさえ、この状況にまだ心が追い付いていないというのに。
 ジュリアの脳内で混乱と羞恥が渦を巻く。
 爵位ある家の娘に産まれたのだ。父ダラスの性質から政略結婚も愛の無い身体の交わりも覚悟はしていた。
 けれど頭と心とは別のつくりだ。
 もとより、ジュリアは父ダラスからの仕打ちと一方的な婚約破棄のせいで男性に不信感を持っている。
 義務だとわかっていても、身体が受け入れられるかどうかは別問題だった。
 無意識に彼女の身に力が入ったことに、サイードはすぐさま感づいた。
「……怖がるな。わたしは君を傷つけない。決して」
「さ、サイード」
 身体を抱く腕がやんわりと強さを増した。まるで労るように。
 やはり知っているのだ。ジュリアが婚約破棄されたことを。
 調べたのだろうことはわかる。けれど、だからこそ自分を娶った理由がわからない。
「貴方、どうして……私は、傷物なのに」
「言うなと言っただろう。君のせいではない。愚かな男のことなど忘れてしまえ。わたしが、忘れさせてやる」
「っ……」
 本音を零すと、サイードは前を向いたままそう吐き捨てた。
 鋭い黒檀の瞳に燻る熾火が見える。その目に呑まれそうになりながら、ジュリアは意を決して問いを重ねた。
「だけど本当のことだわ。私は婚約者に捨てられた女よ。ねえ、どうして私なの? 慣例なのはわかっているけれど、貴方なら他にいくらでも相手を選べたでしょうに、どうして私など―――」
 問いを重ねるジュリアの口調は自然と昔に戻っていた。
 通常、評判に傷のついた女を娶ろうとする男はいない。それはどこの国でも同じことだ。しかもサイードは王なのだ。
 あの婚礼の儀式の間ですら、不満を顔に滲ませている者は何人もいた。だというのに。
「……君には、わからない」
「サイード?」
 ぽつりと落ちた返答の後、ふいにサイードの歩みが止まった。気付けば宮殿の奥に辿り着いていた。
 青と金で彩られた扉が左右に開かれ、彼はジュリアを抱いたまま中へと進んで行く。
「まあ……」
 なんて、見事なの……!
 ジュリアは眼前に広がる煌びやかな世界に思わず感嘆の声を上げた。
 そこは王の寝所にして、宮殿の最深部。
 いくつもの蝋燭に照らされた広い室内には緻密な彫刻が施された黄金装飾の柱が並び、炎の明かりにきらきらと幻想的な輝きを放っている。
 白く浮かび上がる大理石の壁面には、流麗で美しいアラベスク模様が刻まれ、高い天井から垂れる織りの美しい青いタペストリーが、開け放たれたテラスの風を受け揺れていた。
 窓の外、夜空に浮かぶ月は三日月。足元に広がるのは黄金に輝く砂漠だ。
 まさに夢のような空間に、ジュリアは一時状況を忘れて見惚れてしまった。
「気に入ったか? これが、君が見たいと言っていたエスラダ王家の居室だ」
 誇らしげにサイードが言う。
「なんて素晴らしいの……! とても、素敵だわ……!」
 感動で表情を輝かせるジュリアに、部屋の主はふっと優しい笑みを零した。そして彼女を見つめ、囁くように告げる。
「気に入ったなら何よりだ。今宵、ここでわたしは君を抱く」
「っ……そ、れは」
「これからずっと、君はここでわたしに抱かれ続けるんだ」
 静かに続けて、サイードが真っ直ぐそこへと向かう。
 彼が目指すのは中央奥にある、素晴らしい意匠が施された巨大な寝台だった。
 敷布の上を飾るのは赤い花弁。薔薇の花だ。
 甘い官能的な香りが鼻を擽り、ジュリアの背筋をぞくりと粟立たせた。
 寝台の前に立ったサイードがそっとジュリアを降ろす。
 緊張で胸元に置いた手をぎゅっと握り締めた彼女の目に、灼けた砂漠の鷹が映った。そのあまりの熱さに瞳が見開いていく。
 ―――なんて目で、見るの。
「ジュリア」
「っぁ……!」
 彼の表情に気を取られていたら、肩を優しく押されて寝台に倒されてしまった。背中が柔らかな敷布に沈む。
 ぱさりと、サイードが正装の上着を床に脱ぎ捨てた。
 ジュリアは、己に覆いかぶさってくる男がかつての友人と同一人物だとは到底思えなかった。
 黒鷹の羽根を思わせる漆黒の髪と、日に焼けた褐色の肌を持つ雄々しい艶王サイードの黒い瞳には、砂を照りつけるぎらぎらした太陽の熱さがある。
 これは熱砂だ。
 遥かなる悠久の時を刻んだ灼熱で、サイードは自分を焼き尽くさんとしている。ジュリアにはそう思えた。
 彼の端麗な面が降りてくる。伏せた黒い睫毛の下で、瞳に宿る炎が揺れていた。
 妖しい褐色の肌を彩る黒く長い髪が、ジュリアの頬にさらりと触れる。
「さ、サイード、」
 ざわり、と、背が震えた。
 今から身体を暴かれることへの恐怖と、かつ女として高揚してしまう未知なる感覚にジュリアは戸惑っていた。
 逞しく、美しい男に求められている。その事実が彼女の理性を焦がしていく。
 心の奥底に押し込め冷たく凍らせていたはずの初恋が、じわじわと溶けだすのを感じた。
「ジュリア……」
「ふっ、ぁ、」
 食らい付くように唇を塞がれて、ジュリアは息を止めた。初めてなのだ。呼吸の仕方などわからなかった。
 元婚約者に無理矢理口付けられそうになったこともあった。あの時は嫌悪で到底受け入れられなかったが、サイードの激しい接吻はなぜか素直に受け入れることができる。
 それどころか、身の内をじわじわと炙るような不思議な熱情が奥からせり上がってくるような気さえする。
 唇から甘い痺れが広がって、彼女はふるりと全身を震わせた。縋りつくように逞しい腕を掴み、落とされる口付けを享受する。
 サイードが何度も自分を呼ぶ声が聞こえた。
「っは、ぁ……ジュリア、ジュリア」
「ん、ふ、ぁ、っ」
 くちゅり、と口内で水音が響く。
 唇を割り開かれ熱い舌を差し込まれて、口内を好き勝手蹂躙されても、まったく嫌だとは感じなかった。
 それどころか、どんどん思考が熱に浮かされたように朦朧としていく。舌の表面を彼の舌先で擽られて、内側の柔い部分を味わうように舐られる。聴覚を刺激する濡れた音と粘膜が擦れ合う快楽で涙が滲み、視界がたわんだ。
「ああ、ジュリア、やっと……」
 感極まったように、サイードがジュリアを呼び、さらに深く口付ける。
 ―――え?
 思いがけない言葉にジュリアは束の間理性を取り戻し、瞳を瞬かせた。小さな疑問と混乱が巻き起こる。
 今、彼は「やっと」と言わなかったか、と。
 空耳だろうか。
 まるで積年の想いが叶ったような、そんな恋慕に溢れた声に聞こえた気がした。
 まさか、ね。
 そんなはずはない。彼はエスラダの慣例により自分を娶ったのだから。
 理性が引っ張り出した答えにジュリアは内心頷いた。この婚姻は、彼の本心ではない。
 臣下への示しのためだとわかっている。
 なのにどうして、私は『悲しい』なんて感じているの。
「あっ……」
 心が沈みかけた時、詰め襟の花嫁衣装の留め金を外されて思考を断ち切られた。
 襟元が緩みびくりとする。固まる彼女の視界で、じっとりと欲を滲んだ黒檀の瞳が揺れた。
「脱がせるぞ」
「っ」
 ぷつりぷつりと丁寧に胸元から腰にかけて縦に並んだ留め具が外されていく。
 ジュリアはわずかに震えながら脱がされる羞恥に耐えた。
 頬にかかる吐息が熱い。
 サイードは割り開いた絹地をそのまま華奢な肩へするりと滑らせ、二の腕から手首へと落としていった。
 初夜を見越して脱がせやすいように作られている鮮やかな濃紅の花嫁衣裳は、中心で裂けるように開くといとも簡単に秘されていた無垢な肢体を露わにした。
 一糸纏わぬジュリアの裸身が、サイードの前に晒される。
「いやっ、見ないで……!」
「駄目だ。見せてくれ。わたしに、君のすべてを」
 凄まじい羞恥で堪らずジュリアは両腕で身を隠そうとした。
 けれど彼女の両手首は、サイードによって容易く頭上で縫い留められてしまう。
 儚い抵抗を封じられたジュリアは恥ずかしさに頬を染め、彼の視線を避けるべく顔を背けた。視線が熱すぎて、身が灼ける思いだった。
「ああ、君は本当に肌が白いな……それにとても甘い香りがする……なんと、美しい」
「っぁ……」
 感嘆するように呟いたサイードが己の手を白い柔肌に滑らせた。首元を撫で、鎖骨を辿りふるりと揺れる乳房に行きつくと、やわやわと優しく、感触を確かめるように指先を滑らかな肌に埋めていく。
 まるで壊れ物に障るかのような繊細な触れ方に、雄々しい見た目との違いを感じてジュリアの胸の奥が甘く震えた。
「君の肌は、こんなにも心地よいものだったのか……ああ、吸い付くようだな」
「っや、ぁ、ん、っ」
 サイードがジュリアの二つの乳房の間に顔を近づけた。吐息が直接肌にかかり、ふわりと表面を撫でたかと思えば、彼は胸の間にちゅ、と軽い口付けを落とした。
「っん」
 指先ではない柔らかな唇での肌への刺激に、ジュリアの腰がぞくりと戦慄く。
 彼に触れられた箇所から順に火が灯っていくようだ。気を抜けば高い声を上げそうになる喉をぐっと抑え込み、ジュリアは奥歯を噛み締めた。
 恥ずかしさゆえか、緊張か、彼女の乳房にある先端の淡い頂はサイードを誘うようにつんと尖っている。
 それがまたジュリアの羞恥を増大させた。
「わたしを見ろ、ジュリア」
「ゃっ!」
 恥ずかしくて堪らなくて顔を逸らしているのに、サイードはそれが気にくわないらしく、彼女の顎を掴んで無理矢理自分に向き合わせた。
 彼の鋭い黒檀の瞳に羞恥と欲と怯えの混じった自分の情けない顔が見えて、この場から逃げ出したくなる。
 嫌々と首を振る彼女を、拒否と捉えたサイードはどこか苦しげな顔で彼女に告げた。
「これは慣例だ、逃れられない現実だ。君は、わたしに抱かれる『義務』がある」
 苦みの混じる声にジュリアがそろりと視線を向けると、真剣な表情のサイードと目が合った。
「義務……妻としての」
 彼の言葉を復唱すると静かに頷かれた。
 そう。これは義務なのだ、ジュリアも自分の心に言い聞かせる。
 その時サイードの表情が一瞬だけ、くしゃりと泣きそうに歪んだ気がした。
 ―――え?
「そうだ」
 しかしすぐに彼に厳しい目を向けられ、気のせいだと思い直す。
 義務。そう考えたら確かに覚悟ができる。
 元々真面目な性格のジュリアはサイードの言葉に腹を括った。羞恥をかなぐり捨て、身体の力を抜き、強張りを解いて彼に身を委ねる。
「わかった、わ。好きに……して」
 決意を口にすれば、サイードが両手首の拘束を解いた。そして、ジュリアの長く豊かな白金の髪を優しく撫でる。
 それは怖くないよ、と言い聞かせるようだった。
「……優しくする。決して、君を傷つけない」
「サイード……っん」
 名を呼べば、まるで愛されているかのような柔らかな口付けが降った。

(――つづきは本編で!)

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