作品情報

初めまして、ずっと好きでした。~冷徹王太子の契約結婚~

「この指輪を見てもまだ、思い出せないか?」

あらすじ

「この指輪を見てもまだ、思い出せないか?」

 メリフィルト公爵家令嬢ステラの元に、王太子テオドールとの縁談話が舞い込んだ。両親は喜んでいたが、幼い頃に出会った名も知らぬ少年との思い出が、ステラの唯一の心残りだった。
 いよいよテオドールの元へと嫁ぐその日、「初めまして」と自己紹介をしたステラ。だがそれを聞いたテオドールは、「お前には俺と『契約結婚』をしてもらう」と冷酷な声でステラに言い放ち……。

作品情報

作:柴田花蓮
絵:まりきち
デザイン:RIRI Design Works

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(一)

「ステラ、お前に縁談がきている。お相手は申し分ない身分のお方だ。良いな?」
 十八の誕生日を迎えたその翌日、神妙な顔の父から告げられたその言葉は、ステラ=メルフィルトにとって、驚きよりも「とうとうその時がきたか」という想いの方が強かった。
 リバイエル王国の名門・メルフィルト公爵家の令嬢として生まれたからには、その地位や家柄を守るため、婚礼さえも利用される。当然ながら、ステラの気持ちなどはお構いなしで、拒否権などない。というより、生まれてから公爵家で生活しているステラには、この家を自ら出て、金を稼ぎ一人で生きていくことなどできないし、できるとも思っていなかった。そのため、縁談話が来たら嫁に行かなければならないということを、ステラも、そして既に十六になる頃には父のまとめてきた縁談で嫁いでいった姉たちも、これは運命なのだと受け入れるしかなかったのだ。
 ただ――通常縁談話はもう少し早めの年齢でまとまることが多い。むしろ、十八になる昨日まで、そのような話がなかったステラは、幸か不幸か珍しいものだった。
 腰まで届くストレートで金色に輝く髪に、実年齢よりも二歳は若く見られる程の愛らしい顔立ち。透き通るような白い肌に、まるで人形のようにぱっちりとしたコバルトブルーの瞳――それらは、年頃の娘を光り輝かせるのに十分なもので、「公爵家令嬢」という出自も手伝い、本来ならば、年頃になった時点で縁談話も引く手あまたとなるはずだった。しかしステラは幼少の頃から身体が丈夫ではなく、その為に夜会への出席も極力控え、異性との交流もほとんど行ってこなかった。両親も無理強いはしなかった。それはきっと、ステラを心配してのことが半分、嫁いですぐに病になり「妃」としての役目を果たせなければ意味がないという戦略的なものが半分、というところだろう。あとは、より良い家柄の男性と結婚させるために、身分の卑しい悪い虫がステラに手を出さないようにしていたというのもあるかもしれない。
 そんな両親の想いを直接告げられはしないが、どこかで感じていたステラだったので、縁談自体には乗り気でないものの、ある程度は覚悟していたので特に驚くこともなかったのだった。ただ、
「承知しましたわ、お父様」
「実は今回の縁談は、先方から是非にと言われたのだ。願ってもない相手だぞ、ステラ」
「まあ。で? お相手は……」
「リバイエル家の長子、王太子であられるテオドール様だ」
「ええ!?」
 縁談自体は覚悟していたものの、その相手の名を聞いた途端、ステラは思わず声を上げてしまう。
 何故なら父の口から告げられたその相手は――この国、リバイエル王国の王太子、つまりは次期王になる人物だった。彼との縁談がまとまるということは、ステラは王太子妃。つまり将来の王妃になるということだ。
 体調などの問題もあり、あまり夜会などには参加しないステラだったので、実際に彼と会ったことも、話をしたこともなかったが、そんなステラでも、テオドールについては「端麗な容姿だけでなく、真面目で誠実な王子」という評判を耳にしていた。ただ当然、そのような相手であれば、他にも縁談を申し込む家はあったはずだ。彼と近づきたくて、頻繁に夜会に参加していた娘たちもいただろう。それなのに、なぜ――ステラがそんなことを考えていると、
「良くは分からないが、先方が良いと言っているのだから良いではないか。こんなにめでたい話はないぞ? 我がメルフィルト家は、これで王家と強い繋がりがもてるのだからな!」
 父・アーノルドは満面の笑みを浮かべる。たしかに王家と繋がりを持つことが出来るなら、余程のことが無い限り、公爵という地位を守り続けることはできる。アーノルドはテオドールの義父、つまり将来の国王の義理の父親になる。ステラが子をもうけたなら、王子や姫君の祖父にもなるのだ。ステラの姉二人は、王家ではないものの、王家と親戚関係のある公爵家の子息にどちらも嫁いでいた。それがとうとう、ステラが王家の王太子に嫁ぐことになった。アーノルドにとってはこの上ない幸せなのだろう。
「お前は身体が弱かったから、一時はどうなることかと心配していたが……最近は体調もよさそうだな」
「はい。これも皆、お父様やお母さま、屋敷のみんなのおかげですわ」
「あちらに行くのは、二月後だ。それから一月後の良い日に式を挙げるそうだ。それまでに、テオドール様に相応しい妃になるように色々と励むのだぞ?」
「はい、お父様」
 公爵家令嬢としてそれなりに所作などは教育を受けてきたものの、嫁ぎ先が王家となればまた訳が違う。一般的な所作だけでなく、テオドールの妃として国賓の対応をしても、彼に恥をかかせることなく、恥ずかしくない所作を身につけていなければならない。勿論、幅広い教養も。
 そのため、それからの二か月間――ステラはアーノルドが手配した教育係にみっちりと所作や教養を叩きこまれることになるのだった。

「ステラ様、いよいよ明日ですね……これ、私たちから……」
「まあ、素敵なブーケ! ありがとう、大切にするわ」
 ――そうして、あっという間に二か月が過ぎ、とうとうステラがテオドールの元に嫁ぐ前夜。厳しい教育も一通りこなし、ステラが部屋で休もうとしていた時の事。
 ステラの世話係として、ステラが幼い頃から傍にいたメイドのエドナが、小さな花のブーケをステラに差し出した。
 通常の婚礼では、自分の屋敷の慣れているメイド達も一緒に相手側の家へと連れて行くことも多いのだが、今回は嫁ぎ先が王家であちら側に十分な数のメイドもいるという事なので、エドナたちはこの屋敷に残ることになっていた。
「あの小さかったステラ様が、お嫁に……しかも王太子様がお相手だなんて」
 自分の子程年齢が離れているエドナにとって、ステラの嫁入りは、まるで自分の子の嫁入りのような感覚なのかもしれない。それに、ステラは幼い頃より屋敷のメイド達とも交流を持っていた。だから、メイド達皆にとっても、ステラの嫁入りは感慨深いものなのだろう。忙しい中、皆で考えて作ってくれたステラの好きな花でまとめられた可愛らしいブーケが、それを物語っている。
「これからはあまり会えなくなるけれど、それでもこの国からいなくなるわけではないのだから、また会いに来るわ。それまで、皆も元気でいてね」
「はい。ステラ様も、どうかお身体にはお気をつけて……ああ、エドナの瞼には、療養のために別荘で過ごしていたステラ様の姿が今でも浮かびます。あの頃に比べたら、本当にお元気になって……」
「ふふ……別荘では、近くの湖でエドナともよく散歩したわね。水遊びをしたいと言ったら、身体に障るって、よく怒られたわね」
 エドナと昔話をしながら、ステラは当時の事を思い出して目を細める。
 身体が丈夫でなかったステラは、両親から離れ、幼い頃はよく、郊外にある自然環境の良い別荘で過ごすことが多かったのだ。エドナはその時も一緒にきてくれて、ステラの世話をしてくれた。水遊びをしたくてごねたら怒られて泣いたことも、二人で別荘の庭に咲いている花を摘み冠など作って遊んだことも、散歩をしたことも、今となっては良い思い出だ。そして――
「……ステラ様、結局あれから、『あの方』にはお会いになれないままでしたね」
「エドナったら……ええ、そうね。あれから一度も。でも仕方ないわ」
「でも、きっと大丈夫ですよ。だってステラ様には、これからはテオドール様がいるんですから!」
「ええ、そうね。そう思うようにするわ。だからエドナ、『あの方』のことはこれからも、私とエドナの二人だけの秘密よ?」
「もちろんです!」
「ふふ……エドナは口が堅いものね」
 ステラはそう言って、胸元をそっと抑える。そんなステラの様子を微笑ましく見守っていたエドナは、その後ほどなくして部屋から出ていった。ステラはベッドに横になったものの、再びすぐに起き上がって、先程抑えていた胸元に再びそっと触れる。そして、その胸元に隠れていた「あるもの」をそっと取り出し見つめる。
 それは、首飾りだった。ただ首飾りと言っても、きらびやかな宝石で彩られたものではない。銀の鎖の先端に括り付けられているのは、小さな「環」。それも、植物の蔓で作られただけの、シンプルなものだった。
 環には、花はついていない。色も、作られてから随分と長い時間たっているために、茶色に変化している。本来植物で作った環などすぐに解けて壊れてしまうのだが、環の作り方がかなり独特なようで、もらってから八年ほど経つというのにびくともしない。エドナに見せても、「こんな作り方は見たことが無い」と言っていた。それがより一層特別なもののように思えて、ステラはエドナに頼み、この環を首飾りにしてもらったのだった。
「……」
 ステラは取り出した首飾りにそっと口づけをして、再び胸元に置く。そして目を閉じると、記憶の中にまだ鮮明に残っている「あの方」の姿を瞼の奥に思い浮かべる。
 
 ――その人と出会ったのは、今から八年前の夏だった。
 体調は復調しつつあったものの、まだ完全に戻ったわけではなかったので、ステラは別荘でその夏を過ごしていた。
 当時ステラは十歳。エドナと一緒でない時は、外出と言えば別荘の庭で遊ぶことだけと言いつけられていた。その日エドナが街に用事で出なければならなかったので、ステラは言いつけ通り庭で一人遊んでいた。しかしそれにも飽きてしまったので、ほんの少しだけなら――と、敷地内から出てしまったのだった。その日は天気も良く、夏にしては涼しげな風も吹いていたこともあり、気づいた時には別荘からだいぶ離れた森の中まで歩いてきてしまっていたステラは、早く帰らないとエドナに叱られるし、皆が心配すると、別荘への道を慌てて走っていた。が、その途中で転んでしまい膝をすりむいてしまった。その上雨も降ってきてしまい、急激に心細さに襲われて泣き出してしまった。そんな時、「あの方」に出会ったのだった。
「大丈夫?」
 座り込んで泣きじゃくるステラに声をかけてきたのは、ステラよりもほんの少し年上に見える少年だった。茶色い大きな布で身体を覆っており、その布の下からは編み上げの革ブーツが見えていた。彼は馬を傍に連れていた。馬は何やら小さな布袋を携えている。何かの用事で偶然この森に差し掛かった時、この雨で馬が足を止めてしまったのだろう。
 これまで会った自分と同じ年頃の子どもは皆、きちんとした身分のある家の子ども達ばかりだった。だから、見ず知らずの子どもに声をかけられることに慣れていないステラは、思わず表情を強張らせる。
 見ず知らずの相手と出会った時は、絶対に名乗ってはいけない――この別荘で過ごすにあたり、両親にも、エドナにもきつくそう言われていた。公爵家の令嬢であるというだけで誘拐されたり悪意を抱かれたりすることもある。自らの身を守るためにも、不用意に外で名乗ってはいけないと教えられていた。
「膝、すりむいているみたいだ……雨も酷いし、雨宿りしながら手当てしよう。歩ける?」
「へ、平気……」
「血が出ている。……大丈夫、手当をするだけだから。さあ、そこの木陰に」
 ステラが警戒しているというのを、感じているのだろう。少年は余計なことは聞かず、ただそう言って、すぐ傍にある大木を指さす。
「……」
 悪い人ではなさそうだが、まだ分からない。でも、すりむいた膝は痛かった。ステラは強張った表情のまま、大木に背をつけて腰を下ろす。大木の豊かな緑のおかげで、雨はしのぐことができたのはありがたかった。
「湖の反対側と違って、こっちの区域は天気が変わりやすいんだ。だから雨が降りそうな日は、それなりに準備をして出かけるのが当たり前」
「だから、その茶色の布を……?」
 確かに、少年が身に纏っているその布は、雨除けとしても有能そうでとても温かそうだった。雨に打たれて服も濡れているステラとは大違いだ。
「ああ、まあね。雨も弾くし、温かいんだ」
 少年はそう言うと、身に纏っていた茶色い布をステラの身体にかけてくれた。
 これで雨に濡れたステラは温かくなったものの、逆に、布の下が薄手のシャツやベスト、薄いマント姿の少年が見るからに寒そうだった。せっかく雨に濡れないよう準備してきたというのに、これでは元も子もない。
「だめよ、それじゃああなたが……」
「俺は大丈夫。それより、傷を見せて」
 少年はステラの膝の傷の汚れを払い、荷物の中にあった小瓶を取り出す。そして中に入っていた薬を傷に優しく塗りながら、
「雨が止んだら、湖の反対側まで送るよ。そこから家までは近い?」
「え、ええ、すぐそこ……」
「随分と歩いてきたんだね。散歩? 一人で?」
「ええ。天気がよかったから……本当は一人で外に出てはいけないって言われていたのに、約束を破ってしまったの。そうしたら転んじゃって、雨にも降られて。罰が当たったのね、きっと」
「それくらいのことで罰を与えるほど、神様は心が狭くないと思うよ。転ぶことも、散歩している時に雨に降られることも、よくあることだよ。無事に帰ることが出来ればそれで充分さ」
 手当を終えた少年はそう言って、ステラの横に腰を下ろす。
「あの……ところであなたは、どうしてこの森を? 行商かなにかで?」
「行商……ああ、まあそんなところかな。用事が少し早く済んだから、少しあたりを走ってみようと思ったんだけど、思ったより雨が早くてね。おかげで馬も脚が止まってしまって」
 少年はそう言いながら傍で大人しくしている馬の腹を撫でる。馬はブルブルと身を震わせながら優しい声で嘶いていた。
「可愛い……あの、馬に触ってもいい?」
「もちろん。優しく、ここを撫でるんだ」
 ステラは少年と一緒に馬に触れる。馬は再び、先ほどのように優しい声で嘶いた。
「わあ……私、馬に触るの、初めて!」
 ステラは思わず声を上げる。そして一瞬ためらうも、
「……私、あまり身体が丈夫じゃなくて、外に出ることも少ないの。出てもお散歩くらい。せっかく湖が近くにあるのに、水遊びもだめで。馬が厩舎にいても、厩舎に近づくことも許してもらえなかったから……」
 と、自分の事をぽつり、ぽつりと話し始めた。
 そう、ステラは病弱だったこともあり、例え体調が良い日があったとしても、随分とその行動を制限されていたのだ。
 当然、冷たい湖で水遊びをするのはダメ、野生の動物に触れることはダメ、厩舎にはどのような菌があるかわからないから近寄ってはダメ、調理人が用意した食べ物以外は、どんな影響があるかわからないから口にしてはダメ――禁止の項目は、数えたらきりがない。
 本当はそんなことを他人に教えるつもりもなかったし、教えたところで理解されるとも思っていなかった。でも、これまでの少年の行動や言動を見ていたら――何故か話してみようか、という気持ちになったのだ。
 彼が悪意を持って近づいてきた人物とは思えないし、ステラのどんな話も聞いてくれるかもしれない。何となくそんな気がしたのだ。
「……ふーん。じゃあ、そんな制限だらけの生活をしていたら、友達と一緒に遊んだりすることはできたのかい?」
「友達、いないの……同じ年頃の子には時々会うこともあるけれど、きっとそういう人たちは友達とは違うと思う。いつも一緒に散歩してくれるエドナは大好きだけど、大人だし、それも友達とは……」
 ステラそう呟くと、少年は「そうか……」とだけ一言呟き、口をつむぐ。
「……変でしょう? 私。でも、仕方がないの」
「変だとは思わないよ。実は俺も、友達がいないんだ。だから君と一緒」
「ええ!? 何だか信じられないわ……こんなに親切で優しいのに」
「君にもきっといろいろ事情があるんだろうね。俺にも事情はあるから、それはお互い様かな。でもそのおかげで今日、こうして君と会えて話ができたから、それはそれでよかったのかもしれない」
「まあ! そんなことを言って……不思議な人。でも、あなたとは何だか話をしていて楽しいわ」
「奇遇だね。俺もだよ。家族や身の回り以外の人と、初対面でこんなに楽しく話をしたのは初めてかもしれない」
「私も。ふふ、もしかしたら同世代の友達って、こんな感じなのかもしれないわ」
 ステラの言葉に、「そうだな」と少年も笑う。
 二人はその後、お互い名乗ることないまま色々な話をした。
 雨は日が暮れて夜になっても止まず、二人は身を寄せ合いながら楽しく話をして過ごし夜を明かした。少年が持っていた僅かな食料を二人で分かち合い、身体を冷やさぬように寄り添い過ごす時間は、ステラにとって特別なものとなった。が、そのような時間は永遠には続かない。
「……雨、止んでしまったわ」
「本当だ。湖の向こう側に虹が出ている……君がこれから帰る方向だね」
 気付けば雨はやみ、ステラの別荘がある湖の向こう側には虹が現れていた。
 空も、晴れ間は覗いているものの徐々にオレンジ色がその端に滲み始めている。
 恐らく、もうすぐ夕刻だ。公爵家令嬢が一晩行方不明。
 一晩無断で帰宅しなかったこともあり、恐らく別荘では大騒ぎになっているだろう。
 本当はもっと少年と過ごしたいけれど、これ以上は難しいだろう。
「……楽しかった。お話できて、本当に良かった」
「俺も」
「あ、あの……!」
「ん? なんだい?」
「……ううん、なんでも。その、ありがとう……助けてくれて。そして、一緒に過ごしてくれて」 
 ――本当は、「また会える?」と聞きたかった。でも、屋敷から一人で出ることは許されないし、約束を破ることはエドナや両親に悲しい思いをさせることになる。それが分かっているので、ステラはその言葉を飲み込むしかなかった。
「……」
 少年は、本当はステラが何かを言いたかったことを察知していたようだった。
が、少年もそれ以上はなにも深追いせず、俯いたステラの頭をぽんぽん、と掌で優しく叩いた。とても、大きくて優しい手に思えた。ああ、でもまだ話していたい――ステラは思わず涙ぐむ。
 と、その時。少年が何か思いついたように、足元へとしゃがみこんだ。そしてそこに生えている草を抜き、何やら器用に作っている。
「何をしているの?」
 ステラもその横にしゃがみこみ少年の手元を見つめると、
「……できた!」
 そのタイミングで少年は嬉しそうに声を上げた。そして、
「これ、君にあげるよ」
 そう言って、今まで作っていた何かを手渡す。
 それは、シロツメクサで作られた「環」だった。蔓を器用に編み込み、ちょうどステラの指の太さくらいの大きさになっている。
「わあ、素敵! これは、指輪?」
「ああ。俺が小さい時、母親に作り方を教えてもらったんだ。いつか、誰かに作ってあげる日が来るといいねって、言われていたのを思い出した。俺の気持ち、受け取ってくれないか」
「……ありがとう! 私、これ、大切にする!」
「こちらこそ、ありがとう。はめてあげるよ、指輪」
 少年はそう言って、ステラの左手を取る。そして何のためらいもなく薬指にその指輪をはめた。
「わあ、本当に素敵……シロツメクサのお花も、きれいだわ!」
 まだ十歳で、異性から指輪を送られる意味も、その指輪をはめる指の意味も知らない幼いステラはただ純粋に喜んでいた。少年も、そんなステラにそれ以上何も言うことはなかった。
 その後、ステラは少年に湖の反対側まで送ってもらい彼と別れた。そしてステラを探していたエドナにすぐに発見され、
「お嬢様! 一体どちらに行かれていたんですか! 心配したのですよ! ああ、本当にご無事でよかった……! もし今日も夜になっても戻られなかったら、お屋敷に連絡をして国中の捜索に移るところだったのですよ! この別荘のものも、手分けして周辺を探して……! ああ、でも本当にご無事でよかった!」
 恐らく、心配して夜通しステラを探し回っていたのだろう。それに、アーノルドからステラの事を任されているのに、そのステラが行方不明になってしまったのならば、どんなお咎めをうけるか――エドナも、別荘の面々も気が気でなかったのだろう。
「ごめんなさい、エドナ。ちょっと散歩しようと思って、そうしたら随分と遠くまで行ってしまって……戻って来るのに時間がかかってしまったの」
「一晩も、どこで一体お過ごしに……まあ、足を怪我されて! 大変、すぐに手当を……! 医師を!」
「足は大丈夫よ、薬を塗ってもらったわ。それより、見て! 私、こんな素敵なものをもらったのよ!」
 エドナの小言もそこそこに、早速少年にもらった指輪を見せて、先ほどまでの事を報告した。そして、別荘に戻り着替えてエドナから再び説教をされた後、
「……で? お嬢様、指輪はそのお方がお嬢様の指に?」
「ええ。可愛いでしょう?」
「その指輪、随分と珍しい作り方をしていますね……いえ、それよりもお嬢様。指輪をはめる指の意味って、ご存知ですか?」
「意味? いいえ」
「……」
 ステラはエドナから、少年が指輪をはめた指の意味を教えてもらいとても驚いたのだった。
 しかしその反面、
「……ねえ、エドナ。私ね、エドナ以外であんなに楽しくて、もっと一緒にいたい、もっとお話ししたいって思えた人、初めてだったの。一晩、本当にあっという間だった。夢中で話して、夜はずっと寄り添って過ごし……僅かな食料を、二人で分けて食べたのよ! とても美味しかった。このお屋敷でいつも食べている食事も美味しいけれど、それと同じくらい、とっても!」
「お嬢様……」
「でも、不用意に名乗ってはいけない、自分の事を話してはいけないって、約束していたから、私、それを守ったわ。最後まで名乗らなかったし、身分も明かさなかった。あの方も、私のそういう雰囲気を悟ってらしたのか、私の名前とか家の事を無理に聞いてこなかった。だから、それ以外の、本当に他愛のない話を二人でしていただけだったけど、とても楽しかった……また、会えたら良かったのに……」
 指輪をはめた手をぎゅっと胸元で握りしめながら、ステラはため息交じりにそう呟く。
「お嬢様にとって、そのお方はきっと、初めての恋のお相手だったのですね」
「恋……私が? あの方に?」
「はい。もしかしたらその方も、そうだったのかもしれません」
「! でも……」
「……そうですね。お嬢様はお嬢様ですし、そう簡単に今後はその方にも会えるかわかりません。でも、思い出としていつまでも今日の事を大切にするのは、お嬢様の自由です」
 エドナは落ち込むステラに優しく声をかけると、この出来事はステラとエドナだけの秘密にすること、指輪を指にしていると目立ってしまうから、首飾りとして大切に出来るよう、加工してくれたのだった。
 そしてその後、ステラは別荘に行くたびにエドナと共にあの少年と出会った場所まで足を延ばして散歩するようにしてきたのだが、八年前のあの日以来、一度も彼と会うことはなかった。

「……初恋か。確かエドナが昔、初恋は実らないものなのですって言っていたっけ……本当にそのとおりね」
 ――当時のことを思い出し、ステラはフッと口元に笑みを浮かべる。
 あの頃はまだ十歳だったから、色々と分からないことも多かった。今でも、実は男女の色事についてはさっぱりなものの、あの少年に対してあの日抱いた思いが「特別」だったことだけは分かっている。
 この先、あの時のあのような思いを他の誰かに抱くことなどあるのだろうか? いやそもそも、一度も会ったことのない王太子に明日嫁ぐことが決まっている自分には、もうそのような機会はないのだろう。
「……」
 不思議なことに、あの時の出来事はよく覚えているのに、あの少年の顔の記憶はあやふやだった。
 ステラが少年から借りたままの茶色い布は、皮で出来ているものの、どこにでもあるような布だったし、顔もあやふや。着ていた白いシャツに革のベスト、黒いパンツとブーツ姿だったことは記憶しているが、そのどれもこれも、どこの誰でも手に入りそうなもので手掛かりにはならない。そういえばシャツの襟元に虫か鳥のような絵のようなものが付いていたような気もしたが、話に夢中になっていて、きちんと見はしなかった。あの絵は、指輪の作り方を教えてくれた少年の母が刺繍でもしたのだろうか。今となっては知るすべがない。
 こんな状態では、今さら探しようもないし、八年も経っていればだいぶ成長して顔も変わっているだろう。
「……」
 ――もう一度だけでも、会いたかったな。でも、もういい加減に忘れないと。
 ステラは閉じていた目を開き、首飾りをサイドテーブルに置こうとする。が、少しだけ考えると、明日自分が持っていく宝石箱の奥深くに大切にしまいこんだのだった。

 そして、翌日。
 長年生活した屋敷の面々に別れを告げ、城からの迎えの馬車に乗り込んだステラは、アーノルドと共に城へと向かった。
 郊外にある屋敷から石畳の道をしばらく進むと、王都であるフィーナの街が見えてくる。数々の店でにぎわう街を通り過ぎ、やがて現れる小さな森を抜けた先に現れるのは、美しい白壁の城。リバイエル城である。
 領地に海を持ち、更に三方を接する国々とも良好な関係を築いているリバイエル王国は、その恵まれた立地から、他国との貿易も盛んだった。他国との戦争は積極的に行わないものの、武器の生産拠点や技術を昔から持っている為、同盟を結びたがる国は多かった。代々リバイエル王国の王になるものは、それらのバランスを考え、国民を守りながら国を富ませることを大切にしてきていた。そのため、国民の王家への信頼は他国よりも厚いと言われ、王家もそれにこたえるよう、国民に無理な課税などは行わない。そういうのもあり、他国からリバイエル王国へ流れてくるものも最近では多いという。ただ、そのせいで国境付近の治安が悪化しているという話も耳にする。
 別荘のある湖の反対側、「あのお方」と出会ったあの場所は、確か隣国との境も近かった。
 彼は、大丈夫だろうか――思い出は宝石箱にしまい込んだはずなのに、ステラはふとそんなことを思い胸が痛む。
「ねえ、お父様。最近、治安の悪い場所もあるのでしょう?」
「ん? ああ、そういう話も聞くな。だが、お前は城にいるのだから何の心配もない」
「そうですけど……早く良くなればよいのに……」
「ステラ、そんなことは女のお前が口に出すことではない。お前は今日から王太子妃になるのだ。身をわきまえなければいけないよ?」
「……はい、お父様」
「お前はただ、テオドール様の側で大人しく、『役割』を果たせば良いのだ。いいな?」
「……はい」
いくらステラが「あのお方」の身を案じたところで、彼の名前も分からず顔さえも分からない。生きているのか、それとももう亡くなっているのかも知るすべもないのだ。
 ステラは馬車の窓から外を眺めつつ、いまだに気持ちの整理がついていない自分を戒めるのだった。

 馬車は石畳の坂道を登り切り、やがて現れた城門の前で停まる。
 そして門を守る兵に事情を話し、ようやく城の中へ。大きな噴水が設置された広場を抜け、兵たちが左右に並ぶ建物の入口に馬車は停車した。
 ステラはアーノルドとそこで別れ、まずはこれからステラが生活するという部屋へと案内された。
「ステラ様。今日からステラ様のお傍で働かせていただく、リズと申します。何でもお申し付けくださいませ」
「リズね。よろしく、リズ。この城の事は何もわからないから、色々教えてね」
「はい!」
 部屋には、ステラ専属のメイド達が待っており、ステラを迎えてくれた。
 その中でも責任ある立場を任されているらしいメイドのリズが、ステラに代表してあいさつをする。
 リズは、公爵屋敷にいたエドナよりもだいぶ若いものの、どこか雰囲気が似ている。
 知らない人ばかりのこの城で、きっとエドナのようにステラの力になってくれるのだろうと信じたい。
 ステラはリズから、王とテオドールとの対面までしばらくこの部屋で待つようにと伝言を受けている旨を伝えられた。
 リズたちはステラが疲れているだろうと気を遣い、お茶の準備をした後部屋を出ていく。
 ステラはそんな心遣いに感謝しつつ、緊張した面持ちで、部屋で過ごしていた。
 ステラの荷物は既に部屋に運ばれており、リズたちが手早くクローゼットやチェストに収めてくれていた。
 ステラはチェストの中にしまわれた、宝石箱を取り出す。そして、ふたを開けて例の首飾りを取り出した。
「……」
 もう、身につけていてはいけない。今日から王太子に嫁ぐというのに――頭では分かっているステラだったが、何度自分を戒めても、ここに気持ちが戻ってきてしまう。
 でも、もう少しだけなら――ステラはそんなことを思いながら、首飾りを指ですくいあげようとした。と、その時だった。
 コンコン、と、扉をノックする音が聞こえた。それとほぼ同時に扉があく。
「!」
 その音でふっと我に返ったステラは、慌てて首飾りを宝石箱に押し込んで、ふたを閉める。
 そして扉の方へ目をやると――そこには、一人の男性が立っていた。
 黒髪にビリジアングリーンの瞳で、ステラより頭二つ分は背も高い。細身に見えるが、肩幅がしっかりしているので着やせするタイプなのかもしれない。が、何より、褒章が所狭しと胸元に着いた軍服がとても印象的だった。そしてよく磨かれている汚れ一つないブーツも。頭の先から足の先まで、洗練された男性だ。家族以外、屋敷にいる異性達以外とはほとんど接することもなく、異性をほとんど知らないステラだったが、そんなステラでも「とても端麗な出で立ちの方」と感じる。
「……あ、あの……」
 褒章の数からして、軍服を着ているが一般的な兵士ではないだろう。
 ステラが男性に声をかけると、男性は「失礼する」と一言断り、ステラの元まで歩いてきた。
 そして、
「……私は、テオドール=フォン=リバイエル。この度、あなたの夫となる男です」
 そう挨拶をして膝まずき、ステラの手の甲に軽くキスをした。
「! あなたが……!」
 ――この方が、王太子様。
 どうりで洗練されているはずだと、ステラは納得する。
 ノックと同時にドアが開いたのは驚いたものの、もしかしたらステラが一人でこうして部屋で待っていることを心配し、会いに来てくれたのだろうか?
 噂通りの、誠実で優しい人だとステラは喜ぶ。
 テオドールは、挨拶を終えた後からずっと、ステラの顔をじっと見つめていた。
 ――いけない、テオドール様に見とれていないで、私も挨拶をしなくちゃ。
 ステラはハッと我に返り、慌ててドレスを両側に少し引き身を屈めると、
「はじめまして、テオドール様。メルフィルト公爵家三女、ステラ……」
 と、先程のテオドール同様、自己紹介をしようとした。
 ところが、ステラが名乗り切る前にテオドールはそれを遮るように手を広げる。
「……?」
 一体どうしたのだろう。自己紹介せずとも、ステラの事は知っているとでも言いたいのだろうか?
 ステラはテオドールの顔をじっと見つめる。が、彼の表情を見たステラは思わず小さく息をのむ。
 改めてみたテオドールの顔は、とても険しい表情を浮かべていた。それはまるで、そう、何か憎らしいものを見ているかのような。
「誠実」「穏やか」な人間が浮かべる表情ではないし、少なくとも好意のある人間にみせる表情ではない。部屋に入ってきて、ステラの手にキスをした時の表情とはまるで異なっている。
「っ……」
 ――なに? 私、テオドール様になにか失礼なことをしてしまったの? でも、挨拶しただけなのに。
 テオドールにそのような表情をさせる心当たりがないステラは、思わず身を竦める。
 テオドールはそんなステラの顎を指で軽く触れると、くいっと挙げた。
「て、テオドール様……?」
 ステラは震える声で彼の名を呼ぶ。テオドールはそんなステラに対し、
「……表向きは円満な縁談を装うが、お前が改めるまで、お前と俺は『契約結婚』をすることにする」
「契約、結婚……?」
「そうだ。これはあくまで、王太子としての体裁の為の結婚ということだ」
「!」
「それでよいのなら、お前は自由にすればいい。その代わり俺も自由にする。干渉はするな。言いたいことがあれば言え。内容次第で考える。いいな?」
 テオドールは冷たい声でそう言い放つと、震えているステラの唇に強引にキスをして、部屋から出て行ってしまった。
 一人残されたステラは、あまりのことに驚いて、思わず床にへたり込んでしまう。

 ――何か、彼を怒らせるような無礼をしてしまったのだろうか?
 しかし、全く心当たりがなかった。
 それとも、彼は最初からそのつもりで今日という日を迎えたのだろうか。でもそうだとすれば、「お前が改めるまで」という言葉が当てはまらない。そう言われたということは、ステラがテオドールに対して何かをしてしまったということだろう。
「……私、挨拶を失敗してしまったの? どうしよう、きちんと勉強してきたのに……」
 事前にテオドールの評判については良いものばかり聞いていただけに、先程の彼の態度にショックを受けたステラは、自分の身体を掻き抱くようにして俯く。
 出会って早々に、何やら彼を怒らせてしまった。
 そんなテオドールと、いくら「契約」とはいえ、ちゃんとやっていくことが出来るのだろうか?
 大きな不安がステラを襲う。
 契約結婚、ということは、そこにお互いを思い合う気持ちなど存在しない。少なくても、テオドールはそういうものを拒絶する、とハッキリした意思表明をしてきたように見えた。
 ステラも、まだ心の中には「あのお方」の影がある。しかし、その気持ちとはケリをつけてテオドールに寄り添っていこうと決めたばかりだったというのに――
 まるで、噛みつかれたかのような強引なキスだった。
 あれが初めてのキスだったのに、恐怖しか感じることが出来なかった。
 ステラは大きな不安を抱えたまま、テオドールの元へ嫁ぐことになったのだった。


(二)

 テオドールとの出来事があって程なくして、ステラは改めてリバイエル国王とテオドールに謁見し挨拶をした。
 謁見の間は、リバイエル城の中央にある塔の最上階に配置されている。
 リバイエル城は大きく三つの塔で構成される珍しい形の城で、王が執務を行うための部屋などは全て中央の塔に配置され、王やテオドールが居住しているのは、左側の塔。親族や来客をもてなすための部屋などがあるのが右の塔となっている。
 先程ステラが通されたのは、右の塔の最上階にある部屋だった。その階にはステラの部屋以外部屋はなく、恐らく普段も特別な客、国賓などをもてなす時に使用しているのではないだろうか。
正式に式を挙げた後はテオドールと同じ部屋で暮らすのだろうから、あの部屋にいるのは一時的なものではあると思うけれど、相応の部屋を準備し迎え入れるよう指示を出したのは恐らくリバイエル国王であろうとステラは感じていたので、そのことにはとても感謝をしていた。
「メルフィルト公爵を介し、良縁に恵まれたことを嬉しく思う。王太子妃として、テオドールを支えて欲しい」
「はい、陛下」
 テオドールの父であるリバイエル国王は、早くに妃を亡くして以来、周囲の勧めを受けても新たに后を迎えることはなかったという。その為、テオドールに兄弟はなく、彼の身に万が一のことがあれば、王族の血は途絶えてしまう。テオドールの妃になるということは、彼の子を世に残すことが重要であり、ステラはその役目を担うことになるのだ。
 そういう事情があるゆえ、王族との繋がりを持ちたい名家の令嬢たちは、夜会などを通して健康で子を産むにふさわしいことをアピールしてきたようだが、テオドール自身がそういう基準で相手を選ぶのを好まなかったと、ステラは聞かされた。そして、
「結婚式は一月後に盛大に行うつもりで準備をしている。テオドールから、式まではステラにも城になれてもらいながら自由に過ごしてもらうために、部屋も別にすると聞いているが、それで良いか?」
「結婚してからは、自由に過ごすこともままならないかもしれませんので……しばらくはどうか自由に、城になれながらお過ごしください」
 国王に続き、テオドールが柔らかな笑みを浮かべてステラにそう語り掛ける。
 先程、険しい表情で契約結婚を切り出し、噛みつくようなキスをしてきたテオドールからは想像もできない表情だ。
「は、はい……テオドール様にご配慮いただき、光栄でございます」
 ステラは戸惑いながらもテオドールに謝辞を述べるが、顔は笑顔でも、ステラを見るテオドールの瞳は氷のように冷たい光を放っていた。やはりそちらが彼の本心――ステラはブルリと背を震わせる。
 ステラは国王とテオドールに改めて挨拶をし、謁見の間から出る。そして、先程までいた部屋へと戻ると、自然に大きなため息をついていた。
「ステラ様、どうされましたか? 何かお困りごとでもございましたか?」
 そんなステラに紅茶を淹れながら、リズが声をかける。
「いいえ、何も……少し疲れてしまったのかしら……心配してくれてありがとう」
 流石に、先程のテオドールとのことをリズには話せない。ステラは適当に誤魔化して笑みを浮かべるが、
「ねえ、リズ……テオドール様って、どういう方なの? 良かったら少し、教えてもらえないかしら」
「テオドール様ですか? そうですね、本当にお優しい方ですよ。私共使用人にも気さくに話しかけて下さり、城で働くものは皆、テオドール様が大好きです」
 テオドールの事を改めて知ろうと彼の事を聞くステラに、リズは笑顔でそう答えた。
「テオドール様のお母さま、国王陛下のお妃さまであるイリーナ様がまだご存命の頃は、テオドール様と庭園でよく遊んでおられました。隣国のシャウハッセ王家からこの国に嫁がれたイリーナ様は太陽のように明るい方で、テオドール様もそんなイリーナ様と楽しそうに過ごされていらっしゃいました。でも、テオドール様が十一歳の時に流行り病でイリーナ様が亡くなられた後は、しばらくは気も伏せがちで……城の者は皆、私共も含め、とても心配していました」
「そう……」
「でも、年頃になられてからは、このままではいけないと思うようになったのでしょうか……王太子として、国王陛下を支え、必死に国務をこなされるようになりました。武術にも精を出し、次期国王として恥ずかしくないようにと。そんなテオドール様の姿を私共はずっと見てまいりました。この城の中で、テオドール様の事を悪くいうものはおりません」
「……」
 リズの言葉を、ステラはただ複雑な思いのまま聞いている。
 どうしても、リズが話すテオドールの姿と、先程ステラが出会ったテオドールの姿が同じとは思えない。少なくとも、ステラに対しては微塵の優しさも感じられなかった。
「この城の中で、テオドールの事を悪く言うものはおりません」とリズが言い切っているのを考えると、ステラがいくらテオドールに酷い仕打ちを受けることがあったとしても、それをこの城の者に相談したとしても誰も信じてくれないということだ。むしろ、「どうしてテオドール様を悪く言うのか」とステラが咎められ、立場が悪くなるだろう。
 ――まさか、そういうことまでテオドールは計算しているのだろうか。
 契約結婚という鎖でステラを縛り付けるだけでなく、自由に見せかけて、逃げ道がないように雁字搦めにするという。
 自分は、そこまでテオドールに思わせる何かをしてしまったのだろうか。あの、「お前が改めるまで」とは、一体どういう意味だったのだろう。ステラには、どうしてもそれが分からない。
「……ステラ様?」
「あ、ご、ごめんなさい。大丈夫よ。色々教えてくれて、ありがとう」
 ステラは怪訝そうにするリズに再び礼を言う。リズは「いつでも、何でも聞いてください!」と笑顔を見せると、ステラに気を遣い部屋から出て行った。
「……」
 ステラは座っていたソファにおもむろに横になる。
 ――疲れた。何だか本当に疲れたわ。
 知らず、またため息が口から出ていく。
 今朝公爵屋敷からここにやってきただけで、まだ数時間しかたっていないというのに、信じられない疲労感がステラを襲っていた。
「……」
 とにかく、少し落ち着こう。そして、これからどうしていくか考えないと。
 ステラは、まだ整理しきれていない頭の中を少しでも整理しようと、そっと目を閉じたのだった。

 その日の夜。
 国王とテオドールと食事をし、その後結婚を祝う親族からの挨拶などに対応していたら、部屋に戻った時には既に夜もだいぶ深まった頃だった。
 ステラが戻るまでに、リズたちが様々な準備をしていてくれたおかげで、あとは湯あみをして眠るだけという状態だった。ステラは、
「今日はもういいわ。あとは私がやるから」
「え、でも……」
「明日から、またお願いね。遅くまでありがとう」
 リズ達にそう挨拶をした後、バスルームへと入る。そして熱い湯を浴びて一息つく。
 ――本当に今日は色々あった。昨日までと自分を取り巻く環境が一変した。そして、
「……」
 結婚相手との、最悪な出会いも。熱い湯に打たれながら、ステラはあの時の事を思い出す。
『お前が改めるまで、この結婚は契約結婚とする』
『この結婚は、王太子として体裁を保つ為だけのもの』
『何をしようがお互い自由。干渉はするな』
 冷たく言い放たれた言葉と、凍てつくような視線。怒りを孕むような態度。
 家同士が勝手に決めた結婚に、愛などないことなどは理解している。これまで嫁いでいった姉たちもそうだった。だから、ある程度はよそよそしさなどもあるものだと思っていた。それでも、評判の良い相手だから、きっと大丈夫だろうと、どこか楽観的に考えていた部分もある。しかし、
「……」
 あの様子では、それも望めない。それに、あの噛みつくようなキス――初めての異性とのキスがあんな形になってしまったのは、とても残念だった。先程三人で食事をしていた時も、親族からの挨拶に対応していた時も、驚くくらい温厚で、穏やかにステラを紹介し、話をしていた。でも相変わらず瞳の奥は笑っていなかった。結婚式までは別々に生活するし、テオドールも公務で忙しいだろうから、恐らく今後そう頻繁に時間を共有することはないだろう。けれど、明日からどう接すればよいのか、悩ましいところだ。
「……はあ。改めるって、何を改めたらいいの? 心当たりなんて何もないけれど……」
 キュッと湯栓を閉め、用意してあったタオルで身体を拭いてローブを纏う。
 ステラは髪を拭きながらゆっくりと部屋へと戻った――ところが、
「きゃっ!?」
 当然ながら誰もいないと思っていた部屋のソファに、座っている人影が見えた。
 ステラの声を受けて、人影が立ち上がる。テオドールだった。
「っ……」
 バスローブを身に纏うだけで、化粧もしていない姿。ステラが慌ててバスルームに戻ろうとするも、テオドールは素早くステラに歩み寄り、手首を掴んで自分へと引き寄せる。
 ステラが怯えた様子でテオドールを見ると、
「何だ、その表情は。お前は俺の妃になるのだろう?」
「で、でも……私、こんな姿で……!」
「どうせこれから脱ぐのだ、何の問題もない」
 テオドールは冷たい笑みを浮かべたままステラの手を引き、ソファへと強引に押し倒した。そして、バスローブの胸元に手を掛ける。

(――つづきは本編で!)

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