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執愛宣言~オフィスの万年雪は幼なじみの情欲に甘く融ける~

「この身体に教え込まないと、わからないんだろ?」

あらすじ

「この身体に教え込まないと、わからないんだろ?」

 十八歳の誕生日、幼馴染みの宣孝にプロポーズされた千雪。だが彼は高校卒業と同時に、千雪に何も告げず渡米してしまう。すっかり男性不信に陥ったまま、護身術まで身につけて『オフィスの万年雪』に育った千雪。
 ある日オフィスで突然抱きついてきた男を反射的に組み伏してしまうが、その男はなんと新しい専務で次期社長。そしてあろうことか千雪の前から姿を消した宣孝本人で…。

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作:霧内杳
絵:桐都

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第一章 再会なんてしたくなかった

「結婚、しよう」
 黒縁の眼鏡の奥からのぶ君が真っ直ぐに私を見ている。キラキラとブラックダイヤモンドのように輝く、のぶ君の瞳。私はあの、綺麗な目が大好きだ。
「……はい」
 まるでその瞳に操られるかのように、肯定の二文字を口にする。のぶ君とは幼馴染みで、恋人同士になるのはごく自然だった。きっとこのまま結婚して夫婦へとステップアップするんだろうなと思っていたけれど、それでも嬉しい。
 私の誕生日は祝日なのもあって十八になったその日、のぶ君からお出掛けを提案された。でも、どこに行くのか教えてくれない。しかものぶ君は初めて見るスーツ姿で、私をどきどきとさせた。電車とバスを乗り継いで来た森の中には小さな教会があり、そこでのぶ君からプロポーズされたというわけだ。
「……これ」
 ごそごそとバッグから出したなにかを広げ、のぶ君が私の頭にかける。
「のぶ君……?」
 この長いレースは……ベール?
「本当はドレスを準備したかったけど、これで我慢してくれ」
 ドレスの変わりのベール、それにスーツののぶ君。これって、そういうことなのかな……?
「千雪《ちゆき》」
 のぶ君が私の前で小箱を開く。そこには指環がふたつ、並んでいた。小さいほうを手に取り、彼が促すように左手を出す。意味がわかってその手に自分の左手をのせると、薬指に指環が嵌められた。
「俺にも」
 同じように私も、のぶ君の左手薬指に指環を嵌める。顔を上げたらレンズ越しに目が合って、互いに微笑んだ。
「千雪を絶対に幸せにすると誓う」
「私ものぶ君を幸せにする」
 のぶ君の手がベールを上げる。彼の顔を見上げ、目を閉じた。ステンドグラスから色とりどりの光が降り注ぐ中、唇が重なった。唇が離れ、少しのあいだ見つめ合う。
「愛してる」
「……私も、愛してる」
 のぶ君から抱き締められ、幸せが私を満たしていく。大人から見ればこれは、子供のおままごとにすぎないだろう。それでも私にとっては本当の結婚に等しかった。
 バイトを頑張ったんだと、のぶ君はホテルを取っていてくれた。
「ほら、一応……初夜、だし?」
 照れくさそうにうかがってくるのぶ君が愛おしい。
「……うん。私を全部、のぶ君のものに……して?」
 とはいえ、私も恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
「千雪、ありがとう!」
 抱きついてきたのぶ君にそのままベッドへ押し倒された。
「……千雪を全部、俺のものにできるなんて、夢みたいだ」
「これが夢なら、永遠に醒めなくていい……」
 のぶ君の唇が重なり、そして――。
「千雪、痛いか?」
 気遣うようにそっと、のぶ君の指が私の目尻を撫でる。
「のぶ君とひとつになれて、痛いより幸せだよ」
「そうか。俺も幸せだ」
 私と目を合わせ、目尻を下げてのぶ君がにっこりと微笑む。世の中にこんなに幸せなことがあるだなんて知らなかった。幸せすぎてこのあと、あんな事態が待っているだなんて気づかなかった――。

「……ん」
 携帯のアラームで目が覚める。薄目を開けて止め、もう一度目を閉じたが、夢見が悪すぎて二度寝はできそうになかった。
「……最悪」
 なんで今頃、あんな夢を見たんだろう。一番幸せで――一番忘れたい想い出。ここしばらくは見ていなかったのに。
 仕方なく起きて、出勤の準備をする。
「……はぁーっ」
 パジャマを脱いで胸もとから落ちてきたそれに、朝から憂鬱なため息が出た。それ――細いチェーンに通された指環は十八の誕生日、のぶ君――幼馴染みの宣孝《のぶたか》にもらったものだ。この指環ももう捨てればいいとわかっている。しかしまだここに下がっているのは、私の未練だ。
 いかにも地味でモテない女性が着ていそうな、野暮ったい黒のパンツスーツに着替える。髪はきっちり夜会巻きし、化粧はきつめの印象で、それでいて薄く見えるようにした。仕上げに似合っていない黒縁の眼鏡をかけて顔を隠せば完成だ。
「……これで大丈夫だよね」
 どこにも隙がないのを確認してマンションを出た。他人に、特に男性にはつけ込まれる理由を作ってはいけない。
 仕事はいつもどおり進んでいく。……いや。職場は今日から来る、専務の話で持ちきりだった。彼は社長の甥で、長くアメリカで修行をしていたらしい。満を持して帰国し専務に就任、ゆくゆくは伯父の跡を継いで社長に、という話だそうだ。しかもまだ二十八となれば、話題にならないほうがおかしいだろう。しかし私はといえばそんな話にはまったく興味がなく、無関心に仕事をしていた。
 経理に書類を提出して部署へと戻る途中、遠くから数人の男女がこちらに来るのが見えた。その中で一番若い、眼鏡をかけた男性と目が合った気がした瞬間、彼がその長い足で一気に距離を詰めてくる。
「千雪ー、会いたかった!」
「なにするんですか!」
 いきなり男から抱きつかれ、私は身につけた護身術で反射的に彼を組み伏していた。
「いてててて。ギブ、ギブ」
 とか言いながらも、彼はへらへら笑っている。
「陽川《ひかわ》専務!」
「専務、大丈夫ですか!?」
 わらわらと追いかけてきた三人の口から〝専務〟という言葉が出て血の気が引いた。もしかして彼が、今日から来るという新しい専務?
 拘束を解き、そろりと離れた。私へ抗議しようとしていた秘書たちを、立ち上がった彼が視線と手振りで黙らせる。どうするべきか考えていたら彼がまた抱きつきそうな素振りを見せたので、思いっきり後ずさって距離を取った。
「酷いな、千雪。俺を覚えてないのか?」
 若干傷ついた顔で言われて私が悪かったかなと思ったが、知り合い面してただすれ違っただけの人だったなんていうのはザラなので油断はできない。
「俺だよ、俺。宣孝。のぶ君だ」
「のぶ……君?」
 彼の笑顔が今朝の夢にぴったりと重なった。え、本当に、あの……のぶ君?
「まさか千雪が、ここで働いているなんてな」
 のぶ君――宣孝は嬉しそうだが、いろいろな事情から私は再会を喜んでいいのかわからなかった。
「あの、えっと」
「陽川専務、次のご予定が」
 どう反応していいのか困っていたら秘書が声をかけてきて、ほっとしたのは束の間だった。
「予定って社長との食事ですよね? なら、それはキャンセルしてください」
 彼が秘書と話しているあいだに逃げようと、そろりと離れ始めた、が。
「……いっ!」
 後ろに伸びてきた手がいきなり私の手を掴み、短く悲鳴が漏れる。
「そういうわけには……」
 秘書は渋っていて、私もうんうんと勢いよく頷いた。けれど。
「ひさしぶりに会った甥っ子と食事がしたいだけですよ」
 私からは背中しか見えないが、彼は有無を言わせぬ雰囲気を醸し出している。現に、秘書たちは口を噤んだ。
「しかし……」
 それでも果敢にひとりが、もの申してくる。
「……ああ。言いにくいというのでしたら、私が」
 ジャケットのポケットから携帯を出し、器用に片手で操作して彼は電話をかけ始めた。
「宣孝です。急用ができましたので、昼食はご一緒できなくなりました。申し訳ありません」
 振り払おうと抵抗するが、彼の手はちっとも緩まない。こんな状況だというのに彼は、楽しそうに電話をしていた。
「……はい。伯父さんより大事な用なのですみません。……え? ふふっ。ご想像にお任せします。はい、埋め合わせは必ず。じゃあ」
 通話が終わって携帯をポケットにしまい、彼は秘書たちへと再び視線を向けた。
「これで社長との会食はキャンセルになりました。次の予定までには戻ってきます。では」
「ひっ」
 くるりと振り返った彼は笑っていたが、完全に作り笑顔だった。その額にはうっすらと青筋すら浮いて見えて、悲鳴が出た。
「なにさっきから俺から逃げようとしてるんだ、千雪?」
 私の手を掴んだまま、彼は強引に歩いていく。おかげで軽く、引きずられた。それを秘書たちが呆気にとられて見ている。
「え、ヤダ。離して……」
「やーだ。ひさしぶりに千雪に会えたんだ、離すわけないだろ」
 彼は怒っているというよりも、必死なように思えた。これってもしかして、私はなにか勘違いをしていた……? だとしてもやはり、彼との再会を素直に喜べないが。
 ちょうど昼休みになったのもあって、強制的に昼食へ連れていかれた。幹部御用達のレストランで個室にふたりっきりなんて、気まずい。
「ひさしぶりだな。あれからもう十年か」
「……そう、だね」
 目も合わせずにぼそりと言い、テーブルの上に視線を落とす。宣孝はあの頃とは違い、すっかり大人になっていた。スポーツカットにしていた髪は長くなり、まさに青年実業家といった出で立ちだ。プラスチックの黒縁スクエアだった眼鏡は銀縁になり、怜悧な印象を与える。あの日、初々しかったスーツ姿も板に付いていた。十年あれば人は変わる。宣孝も――もちろん、私も。
「元気そうでよかった。おじさんは……亡くなったんだったな。いまさらながらお悔やみ申し上げる」
「ありが……とう」
 十年も前のお悔やみを言われても困るが、それでも彼の声は悲しみに沈んでいて、それだけ今でも父を思ってくれているのだと嬉しくはなった。
「おばさんは元気か?」
「お母さんは元気……だよ」
 ……たぶん。心の中でそう付け加える。母とはずっと、電話でしか話していない。
「近いうちにおじさんに線香上げさせてくれ。おばさんにも会いたい」
「……うん、わかった」
「しかしほんと、こんなところで千雪に会えるなんてな。千雪に押し倒されるのは高二の夏に、転けそうになった千雪を庇ったとき以来か」
 くつくつとおかしそうに宣孝が笑う。
「あのときの千雪は合宿から帰ってきた俺を見つけた途端、一目散に駆けてきたのはいいが、段差に気づかずに足を取られて派手に転けて。その可愛い顔に傷をつけるわけにはいかないと必死でさ。どうにか受け止めたまではよかったが、そのまま後ろ向きに倒れて頭を強打。気絶して千雪に心配させるし、格好悪いしで散々だったな」
「……そう、だっけ」
 素っ気ない返事をし、もう忘れたのだという態度を取った。けれど彼の話は止まらない。
「そうそう。そのあと、お詫びだってクッキーを焼いてくれて……」
 懐かしそうに彼の話は続いていく。顔も上げずにもそもそと食事と続け、最低限の相槌だけを打ちながらそれを聞いた。

 三つのときに宣孝の家の隣に引っ越してから、彼とは幼馴染みだ。高校生になって付き合い始め、十八の誕生日にプロポーズされた。ふたりだけの結婚式を挙げ、その夜に彼へ処女を捧げたのが幸せの絶頂だった。
 同じ大学を受け、高校卒業後はどちらの両親も公認で一緒に住むはずだった。しかし、卒業式の翌朝。
「……あれ?」
 目が覚めたら起きる予定の時間はとっくに過ぎていた。いつもなら宣孝が起こしに来るのだ。なのに今日はない。……きっと、彼も寝坊しただけ。そう言い聞かせてざわめく気持ちを抑え、隣の家に向かう。
「おはよーございまーす……」
「千雪ちゃん、おはよう」
 おそるおそるドアを開けると、おばさんがすぐに出てきた。
「あのー、のぶ君は……?」
 ……まだ、寝てるはず。
 そう思いたいのに、玄関にいつもある彼の靴が見当たらなくて不安が募っていく。
「あの、ね。千雪ちゃん」
 言いにくそうにおばさんは口を開いた。
「宣孝、今朝早くアメリカに発ったの。千雪ちゃんには言うなと口止めされてて……」
 そんなの、知らない。それでもそんなはずはないと、他の可能性に縋る。
「すぐに帰ってくるんですよね……?」
 旅行、とか。春休みを利用した短期留学、とか。……大学受験はまだ、終わっていないが。
「あの子、向こうの大学に進むのよ。その準備もあって早いけれどアメリカに。卒業後も向こうにいる予定なの」
 ガン! と勢いよくシャッターが落ちたかのように、目の前が真っ暗になった。無意識に右手が、左手薬指の指環を探る。結婚しようと言ってくれた。絶対に幸せにすると誓ってくれた。なのになんで、なんの相談もなしにアメリカなんて行ってしまうの? 私はのぶ君に……捨てられたんだろうか。
 おばさんの説明を総合すると、大企業の社長をしているおばさんのお兄さん――ようするに宣孝の伯父には子供がなく、跡を継がないかと誘われて彼はそれに乗ったらしい。その一環でアメリカ留学とその後の現地での修行が命じられた。宣孝がそうしたいのならかまわない。でも、相談はしてほしかった。反対なんてしないし、私も一緒にアメリカへ行った。きっと宣孝だってわかっているはずなのになにも言わずに行ってしまったなんて、私は彼にとってそれだけの存在だったんだろうか。あの愛の言葉は、ただの子供の口約束? 信じていた私がバカだったの?
 気がついたら受験は終わっていて、あの状態で受かったのが不思議なくらいだ。宣孝に捨てられた傷も癒えぬうちに父が病気で倒れ、そのまま急死。いろいろバタバタしたあとはトラブルも続いた。もう、人間――特に男なんて信じない。すっかり人間不信に陥った私は、幸せだったあの頃と随分変わってしまっていた。

「覚えてるか? 千雪の十八の誕生日にプロポーズして、森の小さな教会でふたりだけの式を挙げたの」
 思い出しているのか、眼鏡の向こうで宣孝の目がうっとりとなる。
「……忘れた、そんなの」
 手を止めて小さく呟く。嘘だ。忘れたいのにいまだに忘れさせてくれない。だから今朝も、夢に見た。もしかしたらあれは、今日こうやって宣孝と再び会う暗示だったんだろうか。
「……そうか」
 宣孝の声は酷く淋しそうで胸がズキリと痛んだが、気づかないフリをした。私はあれを、特に彼と懐かしんだりしたくない。
「でも、こうやって千雪と再会できたのは運命だと思うんだ」
 強い意志のこもった声が聞こえてきて顔を上げると、真っ直ぐに彼が私を見ていた。
「結婚、しよう。あのとき、千雪を絶対に幸せにすると誓っただろ? 今度こそあの誓いを果たす。いや、俺は果たさないといけないんだ」
 眼鏡の奥から彼の視線が私を射る。目を逸らしたいのに一ミリも動かせない。それでも。
「私はもう、宣孝を忘れたの」
 震える唇でそれだけをようやくそれだけを口にする。きっと私があの頃と変わっていなければ、彼の言葉に喜んでいたかもしれない。でも、今の私は。
「忘れたのなら思い出させる。……いや。もう一度、千雪を俺に惚れさせる」
 自信満々に宣言し、右の口端をつり上げてニィッと笑う宣孝をただ黙って見ていた。

 お昼休みが終わるギリギリに職場には戻って来られた。
「……氷堂《ひょうどう》さんって陽川専務とどういう関係なんだろ?」
 ちらちらとこちらに向かう視線と共にそんな声が聞こえてきて、心の中でため息をついた。宣孝に私が食事に連れていかれたのは、すでに話題になっているようだ。三ヶ月前に転職してここに来たが、早くも去る羽目になりそうで気が重い。
「氷堂さん、いいかな」
 同じ年くらいの男性社員に声をかけられて顔を上げた。
「はい、なんでしょう」
「うっ」
 なるべく機械的に、ややもすれば冷たく感じられる声で返事をし、振り返る。目の合った彼は睨まれたと思ったのか、小さく息を詰まらせた。
「あ、えっと。昨日頼んだ書類、どうなってる?」
 気を取り直して問いながらも、彼の目は落ち着きなくきょときょとと動いていた。
「今日中にできあがる予定です」
 その理由に気づいていながらも、素っ気なく答える。
「そ、そう。思ったより早くて助かるよ。じゃあ、それでよろしく」
「わかりました」
 短く返事をして、話は終わりだとばかりにさっさとパソコンへ向き直った。
「……こわ」
 聞こえていないと思っているのか、すぐに背後で小さくそう言う声が耳に届いた。自分でそうしておきながら心が傷ついたが、それから目を逸らす。好意を持たれるよりも、嫌われるほうが何倍もマシだ。
 視線を感じてそちらを見ると、課長がくいっくいっと人差し指だけで私を呼んでいる。なにが言いたいのか察してため息が出そうになったが飲み込み、席を立って彼の元へ行った。
「氷堂さんさ。仕事ができるのは助かるけど、もうちょーっとどうにかならない?」
 生きていたら父ほどの年の彼が、柔和に笑いながら説教してくる。
「どう、とは?」
 いや、聞かなくてもこの先に続く言葉はわかっているのだ。それでも理解していない顔をして聞き返す。
「ひとりで仕事しているわけじゃないんだよ? みんなでしてるの。無理に打ち解けろとは言わないから、せめて無駄に敵を作らないようにしようよ」
「わかりました」
 無表情に私が頷き、言っても無駄だったと思ったのか課長は邪険に手を振った。さっさと席に戻り、仕事を再開する。もう同じようなことを何度も言われてきたし、自分でもそうだと思う。しかし今の私の態度は、課長の言う〝無駄な敵〟を作らないためなので変えられない。
 仕事が終わり、真っ直ぐに家へ帰る。駅までの道を、鞄を握りしめて俯き足早に歩いた。万が一にも誰かと、目が合うなんてあってはならない。
 電車の中でも息を詰め、硬くなっていた。人もまばらな駅で降り、ようやく息をつく。宣孝がいなくなったあと、ストーカーにつきまとわれた。しかも一度や二度じゃない、何度も、だ。ストーカーが言うには、私は彼と付き合っていたらしい。
『ボクが困っていたら、優しくしてくれたじゃないか!』
 彼はそう主張していたが、私に他意はない。人として彼を助けた、それだけだ。しかし彼はまだいいほうだ。
『目を合わせて微笑んでくれじゃないか!』
 ……などと、すれ違い様に目が合っただけで勘違いされたこともあった。
 自慢じゃないが、自分の顔が美人の部類だというのは自覚がある。けれどこれが、こんなトラブルの元だなんて知らなかった。今まで、いかに宣孝に守られていたのか痛感した。しかしもう、彼はいない。
 ――自分の身は自分で守る。
 私は笑顔を封じ、護身術を習った。他人を、特に男は絶対に信用しない。それが私の信条だ。
 住んでいるアパートに近づくと、引っ越し業者のトラックが止まっているのが見えた。
 ……こんな時間に引っ越し?
 時刻はすでに午後八時になろうとしている。よっぽど忙しくて休みも取れない人なんだろうか。自分も夜逃げに近い夜遅くの引っ越し経験はあるので、人のことは言えない。大変だななどと思いながら着いたアパートの前では、宣孝が待っていた。
「おかえり。遅かったな」
「……は?」
 何事もないように宣孝は私に微笑みかけるが、どうしてここにいるのか、そもそもなぜここを知っているのかわからない。
「なんで……」
「千雪がまさか、こんなところに住んでいるなんて思わなかった。速攻で引っ越しを決めて正解だったな」
 こんなところとは随分失礼……とは言えないか。木造二階建て、建てられたのは昭和なんてアパートに若い女性がひとりで住んでいれば、心配になるのは当然だろう。戸惑う私を無視して、部屋に行くように彼が促す。わけがわからないまま、彼を連れてカンカンと音を立てながら鉄の階段を上がる。部屋に入ると同時に宣孝は壁に両手をついて私を閉じ込めた。
「始めるけど、いいよな?」
 ……いいよな、ってなにを? この状況は恐怖しかない。
「なに、するの?」
 それでも精一杯虚勢を張って、彼の目を見返す。
「いいからいいと言え」
 彼の手が私の顎を持ち上げ、びくりと身体が反応した。
「言わないなら……キス、するぞ」
 眼鏡の奥で彼の目が愉悦を含んで細くなる。その目に――心臓がどくんと一度、大きく鼓動した。
「いい、から。キス、しないで」
 顔を背け、僅かに熱を持つ頬を誤魔化す。いまさら、宣孝にときめくとかあるはずがない。あってはいけないのだ。
「残念」
 宣孝の声は、心底そう思っているようだった。私の拘束を解き、彼がドアを開ける。
「じゃあ、お願いします」
「わかりました」
 待っていた引っ越し業者の人間が入ってきて、宣孝の合図でてきぱきと荷物を詰めていく。それを状況が理解できないまま、呆然と見ていた。
「千雪。貴重品とか、人に触られたくないものは自分で準備して」
「あ、……うん」
 言われるがままに荷物を詰めながら、どうして私が引っ越しなんてしなければいけないのかと遅ればせながら疑問が湧いてきた。
「……ねえ」
「なに?」
 業者の人間に指示を出していた宣孝が振り返る。
「これはどういうことか、説明もらえる?」
 私の声は恐ろしく低かったが仕方ない。
「どうって、今日から千雪は俺と一緒に暮らすんだから、引っ越し」
 さも当たり前というふうに彼は言い、再び指示を出し始めた。その態度に、怒りが爆発する。
「私はあなたと一緒に住むだなんて、承知してないんだけど!」
 だいたい、ひと言もそんな相談すらされていない。
「俺と千雪はすでに結婚していて夫婦なんだから、一緒に住むのは当たり前だろ」
「結婚とかしてないし!」
 あの結婚式はただの子供のおままごと。それに私はもう、忘れたのだ。
「結婚した。籍は入れてなくても、千雪は俺の妻だ」
 宣孝が迫ってきて顔が至近距離にまで近づき、一歩後ろへ下がる。しかし彼は距離を詰めてきた。また下がるが、さらに。それを何度か繰り返し、気がついたときには壁際に追い詰められていた。
「……千雪はあのときからずっと、俺の妻だ」
 私の耳もとに口を寄せ、宣孝が甘い重低音で囁く。そう言うのなら、なんであのとき黙っていってしまったの? 宣孝がいなくなって私がどんな思いをし、どれだけ苦しんだのか彼は知っているんだろうか。
「……私はあなたの妻なんかじゃない」
 離れていく彼と二枚のレンズ越しに目を合わせ、睨みつける。
「いいねぇ。ますます燃える」
 しかし彼は僅かに口角を上げて笑っただけだった。
 荷物の運び出しが終わり、強制的に宣孝の車に乗せられた。勝手にシートベルトが締められ、ドアをロックされる。
「私は行かないからっ!」
 私がロックを解除するより早く、宣孝が思いっきりアクセルを踏み込む。
「ちょっ、危ない!」
「だってそうじゃないと千雪が降りるだろ」
 おとなしくしないと大変なことになりそうで、仕方なくシートに収まった。
 大会社の若き専務らしく、宣孝の車はSUVタイプの高級外車だった。
「怒っているのか?」
 ずっと黙っている私を、眼鏡の奥からちらりとだけ宣孝がうかがう。
「断りもなく引っ越しなんかさせられて、怒らないほうが難しいと思うけど?」
「いいって言ったじゃないか」
「それはあなたに脅されて……!」
 わかっていたら意地でも言わなかった。いくら危機的状況だったからって、迂闊に許可してしまった自分が悔やまれる。
「だいたい、なんで家の場所を知ってるの?」
「あー……」
 長く発したまま、彼が止まる。嫌な予感がしながら次の台詞を待った。
「……会社で聞いてきた」
「個人情報!」
 言いにくそうに言われた言葉に、間髪入れずにツッコむ。
「だって千雪、聞いたって教えてくれないだろ!」
「それは……」
 絶対に教えない。なら私が悪いのかという気になってくるが、それとこれとは別問題のはずだ。
「……また、千雪がいなくなるのは嫌なんだ」
 ぽそりと呟いた宣孝の声は酷く苦しそうで、胸が締め付けられる。しかし、突然いなくなったのは宣孝のほうだ。
「しばらく向こうで過ごして落ち着いたから、千雪を迎えに一度帰ってきたんだ」
 宣孝が私を迎えに来てくれたなんて知らない。宣孝は私を捨てたんじゃなかったの? 混乱した頭で、話の続きを聞く。
「でも、千雪の家には別の家族が住んでいた。おじさんが亡くなったのは聞いたが、その後の居場所は俺の両親も知らなかった」
 彼の声は後悔に染まっていた。父が死んでからは本当にバタバタとしたのだ。ストーカーの件もあって親しい人間、それこそ宣孝の両親にすら私の引っ越し先は教えなかった。
「俺がちゃんと、千雪に話さなかったのが悪かったのはわかっている。でも……怖かったんだ」
「……怖かった?」
 真っ直ぐに前を見て運転しながら、彼が頷く。
「どこまでも千雪を貪欲に求める自分が怖かった。千雪が狂うまで抱いて、壊してしまいたい。千雪を俺だけのものにして、俺以外の誰も見ないように閉じ込めてしまいたい……」
 宣孝がそんなふうに考えていたなんて知らなかった。――いや。思い当たる節はある。渡米する前の彼は、暇さえあれば私を抱いていた。それこそ、限界を超えるまで。しかし私はそれだけ彼に愛されているのだと嬉しかったのだ。
「一度離れて頭を冷やそうと思ったんだ。でも、話せばきっと千雪は着いていくって言うのはわかっていたから、決心が鈍るのが怖くて言えなかった」
 なにも言えなくなってじっと俯いた。……私は宣孝に、捨てられたんじゃなかった。話してくれなかったのは悲しいが、それでも宣孝の気持ちは理解できる。いろいろな事情が重なって、私たちは離ればなれになってしまっただけだったんだ。
「あれほど後悔したことはない。だから今日、再び千雪に会えて、もう二度と離さないと誓ったんだ」
 言い切った彼の目に揺るぎはない。……でも。
「それって、私になにも言わずに行ってしまった罪悪感じゃないの?」
 宣孝は黙ってしまって返事がない。きっと彼は、十年ぶりに会ってひとり盛り上がっているだけだ。あとは私に対する罪の意識。彼だって昼間、幸せにするという誓いを〝果たさなければならない〟と言っていた。
「……そう、だな」
 しばらくして宣孝が呟くと共に小さく笑う。わかっていたはずなのに、ナイフが刺さったみたいに胸が痛いのはなんでだろう。
 車は郊外の、一軒家に止められた。
「ここにひとりで住んでるの?」
 和風建築の家は、ひとり暮らしにしては広くて立派だった。
「ああ。適当に下見もせずに買ったら思いの外広くて持て余していたが、千雪と一緒に住むんだったらちょうどいいよな」
 さらっとネットで服でも買ったかのような言い草だが、今の宣孝って……。まあ、あんな大会社の若き専務となれば、それなりに収入もあるのだろう。
「じゃあ、私はこれで」
 荷物が運び込まれるであろう場所も確認した。これ以上、ここにいる必要はない。そもそも、私はこの引っ越しに同意したわけではないのだ。
「待てよ」
 出ていこうとする私の手を掴み、宣孝が引き留める。
「離して」
「まだ怒っているのか」
 抵抗するが彼の手は緩まない。きっと彼は黙って渡米したのを私が怒っているのだと思っている。しかし、そうじゃないのだ。宣孝にまた会えて、嬉しい。本当は今までの不安だった気持ちを聞いてもらって、もう二度といなくならないから安心していいって言ってほしい。けれど笑わない私を宣孝が再び愛することは絶対にないと言い切れる。今はよくてもすぐに嫌になる。また、彼に捨てられるのは――怖い。なら、僅かでも幸せな時間はいらない。
「ひとりにして悪かった」
 彼が私の手を引き寄せる。なにをするつもりなのかとその顔を見上げた瞬間、唇が重なった。離れようとしたが、後ろ頭に回った手が逃してくれない。それでも空いている手で彼の背中を叩いて抗議する。しかし彼はやめるどころか強引に唇を割り、舌を滑り込ませてきた。
「……ん、……んん」
 逃げ回ったものの、すぐに宣孝に捕らえられた。余裕なく、眼鏡同士のぶつかるカツカツという音が響く。
 ……溺れちゃ、ダメ。
 わかっているのに、十年ぶりの彼とのキスに身体は勝手に喜びで打ち震えている。
「……」
 唇が離れ、二枚のレンズ越しに見つめ合う。
「俺は絶対に千雪を離さない。覚悟しとけよ?」
 燃える石炭のような瞳で私を見つめる彼を、熱を持つ頬で見ていた。

(――つづきは本編で!)

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