「俺に愛されてる時点で幸運だろ」
あらすじ
「俺に愛されてる時点で、幸運だろ」
「それ本気で言ってます?」
実家の不幸で貧しい境遇にありながら、両親を支え健気に働く看護師の逸子。自分を不運を呼ぶ女だと思い込んでいる逸子は、職場の外科医貴伸が女性と揉めているところに遭遇してしまう。
両親が送り込んできた女性から結婚を迫られ、どうにか逃げようとしているという貴伸。「もうお前でいい」と彼に迫られ、逸子は婚姻届に強引にサインさせられてしまい……。
作品情報
作:本郷アキ
絵:風街いと
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本文お試し読み
●プロローグ
十月某日、毎年自分の誕生日に訪れるフレンチレストランで、私は牛フィレ肉とフォアグラのローストに舌鼓を打っていた。
実家がある千葉県北部、茨城県との県境にあるこの街は、都心からのアクセスがよく観光地にも恵まれている。だが、実家近くにあるこのレストランは、駅から車で十五分程度だが山や畑に囲まれた長閑な場所だ。
店は平屋建ての古民家といった外装で、中は四人掛けのテーブルが五卓ほどとカウンターテーブルが置かれ、靴のまま入れるようになっている。たまに観光客がランチで訪れるが、ディナーのこの時間帯に店内にいる客はほとんど近隣の住民だ。
「ここの味は、いつ来ても変わらないわね」
私の向かい側に座る母が頬に手を当てながら相合を崩した。隣に座る父は無言だが、その表情は母とそう変わらない。私はフォークとナイフを置き、前に落ちてきた髪を耳にかけた。
肩まである髪は母とよく似ていて、染めているわけではないのに色素が薄い。見た目は父に似たのかのっぺりとしていて、目も鼻も小振りだ。髪色のおかげで多少は地味さも緩和されているだろうが、身体つきも華奢だし、内向的に見られがちだ。社交的でないのはたしかだが、自分ではそこまでおとなしいと思っていない。
「逸子《いつこ》、私たちに気を遣ってくれてるのは嬉しいわ。でももう二十八歳でしょう……誕生日は、友達とか恋人と過ごしたっていいのよ? 私たちのことばかり気にしないで」
「お母さん、べつに気を遣ってここに来てるわけじゃないって何度も言ってるじゃない。自分の誕生日くらい美味しいものを食べたいの。でもこんな場所まで付きあってくれる人いないし、一人で来るのは寂しいから、毎年お母さんたちに付きあってもらってるだけ」
私の言葉に両親が揃って案じるような視線を向けてくる。母は、倒れないようにテーブルに掛けられた一本の杖に視線を移し、納得できないと言いたげに重苦しいため息をついた。
嘘だとバレていることなど百も承知だ。
両親が「自分たちがちゃんと働けていたら」と感じていることも。
二人とも働き盛りの五十代だ。高級レストランでたまに外食するくらい、珍しくはないだろう。だが、こと吉瀬《きちせ》家に至っては、本当に年に一度の楽しみなのだ。理由は簡単、金がないからだ。
二人は昔、大きな事故に遭った。もう二十年以上前のことだ。
両親ともに亡くなっていても不思議ではなかったが、奇跡的に命は助かった。
だが、事故の後遺症で、父は杖がなければ歩くことさえできず、働き口を探すのは困難だ。母はパートをしているものの、父の介護で忙しく、給料はそれほど高くはない。
私が学生の頃はそれはもう筆舌に尽くし難いほど困窮状態であった。両親を助けたい一心でアルバイトをしながら勉学に励み、なんとか看護師になった。今、私は病院近くで一人暮らしをしながら、給料の三分の一ほどを実家に入れている。
二人には意外と稼いでいるから大丈夫だと伝えてあるが、なんとか暮らしていけているのが実情で、貯金はゼロに近い。
両親──とくにお父さんは私が仕送りすることを心苦しく思っているようで、今日のレストランでの食事も渋々だった。親の心配をしている暇があるなら自分の幸せを見つけろ、というのが二人の言い分だ。娘の私が両親の心配をするのは当然なのに。
「東京ならもっとたくさん食事できるところがあるでしょう? 恋人と行ったらいいじゃないの」
「逸子にたまに会えるのも、食事も嬉しいが、私は逸子の負担になりたくないんだ」
「負担になんてなってない」
ここ何年も私が結婚の話をしないから、心配をかけているのだろう。
私だって孫を抱かせてあげられないことは、心苦しく思う。でも、私にはもう恋愛は無理だ。恋愛にかける情熱がすでにない。正直、毎日のことでいっぱいいっぱいなのだ。
それに、あの事故は私のせいで起こった。そんな私が一人で幸せになっていいはずがない。お父さんとお母さんが元気で過ごしてくれること、今の私にとってはそれが生きがいだ。
「お父さんもお母さんも、逸子に幸せになってほしいの。前に家に連れてきた人とはその後どうなの? 具体的に結婚ってなったら、今までみたいにお金は受け取らないからね。ちゃんと自分たちの生活資金にしなさい」
「もうお母さんってばいつの話してるのよ。あの人とはとっくに終わってる。それに結婚が幸せとは限らないじゃない。私が大凶女なこと知ってるでしょ? 焦って結婚して、変な人に引っかかって暴力をふるわれたりとか、借金苦に陥るとかありえるよ。そんな結婚より、お父さんとお母さんにたまに会えて、一人でのんびりできる方がいいよ」
私がそう言うと、両親は揃って顔色を失う。以前に実家に連れていった男の顔を思い出しているのは明白だ。
「違う違う! あの人から暴力振るわれたとかそういうんじゃないから! 別れたのは価値観の相違ってだけ! 手に職はあるんだし、それこそ結婚なんて五十歳、六十歳でもいいじゃない! とにかく今は考えられないから」
暴力は振るわれていないが、本当のことを言っているわけでもない。
実は私は、かなり運が悪い。それこそ〝暴力を振るわれたり〟〝借金苦に陥ったり〟が冗談で済まない可能性があるくらい運が悪いのだ。
そういう結論に至ったのには理由がある。
まず一つ目は、私がおみくじを引くとほとんどの場合大凶だ。一年に一度しか引かないおみくじが、ほとんど大凶なのだ。どんな確率だ。その影響か、遠出をしようと思う時に限って雨が降る。ちなみに今日も雨。ほかにも、買った靴が一日でダメになったり、傘を盗まれたり。小さな不運が積み重なっている気がする。
二つ目は、主に恋愛。学生時代に初めてできた彼氏が数日で親友に奪われた。二番目の彼氏は、デートの日に電車が止まり携帯電話が壊れ、時間に遅れた結果振られた。
そして三番目の彼は──実家に挨拶に来たため両親も知っている。
数ヶ月しか付きあっていなかったが、彼はやたらと結婚願望の強い人だった。私が働く外科病棟に一週間ほど入院していた患者で、通院で病院に来るたびにデートに誘われ、それがきっかけでプライベートでも会うようになった。
彼はとても自分の親を大切にする人で、そこに共感し惹かれた。この人なら私の両親も大切にしてくれるだろうと思ったのだ。
告白され、付きあって早々にお互いの実家に挨拶に行かないかと言われて、私は一も二もなく了承した。
だが彼は、杖をつく父の姿を見てあっさりと私との将来に見切りをつけた。ムカつくくらい正直な人だった。『母さんがさ、逸子の親は将来介護が大変になるから結婚相手には相応しくない。やめておけって言うから。ごめんな』そう言った。傷つくのがわかっていて、両親に本当のことなど言えるはずがない。
人並みの幸せを求めようとしたから、罰が当たったのかもしれない。
三つ目を頭に思い浮かべて、私は二人にバレないようにため息を呑み込み、遠くを見た。楽しい両親との時間だ、今は忘れよう。帰ったら考えればいい。
運が悪い私に、まともな恋愛相手が見つかるとは思えない。とは、まだ私の結婚を期待している両親には言わないが。
それに、日々の暮らしに精一杯の私は、飲み会や合コンに参加する金はないし、四番目に付きあう相手とはなにが起こるのかと戦々恐々とするのは嫌なのだ。
「一人暮らしで困ってることはないの? ご飯とかちゃんと食べてる?」
「うん、ちゃんと食べてるよ。私のことは心配しないで。お給料だってちょっとは上がってきてるんだからさ」
一人暮らしで困っていること、と言われて、頭から追い出したはずの三つ目が思い起こされた。恋愛なんぞに時間をかけていられないくらい、今、私は切羽詰まっている。
衣食住さえあればなんとか生きていける──と思っていたのだが、現在その『住』がなくなりかけていた。
私が住んでいるのは東京都品川区にある築四十年の一軒家だ。一階に住む大家さんに二階部分を貸してもらっている。駅から十分とかからない場所であるが、信じられないほど破格な賃料なのは、風呂を大家さんと共同使用するためだ。
その部屋をあと一週間ほどで出ていかなければならなくなった。理由は高齢の大家さんが施設に入るため。その一軒家には息子家族が住むらしい。
(あと一週間か……住む部屋見つからなかったらどうしようかな)
いくつか不動産屋を回ったが、今の部屋以上の物件は難しかった。私の指定した条件で見つかったのは、風呂なしトイレ共同、駅から徒歩二十五分の物件だ。
できれば風呂とトイレは部屋に欲しい。それに、都内においては贅沢だとわかっているが、夜勤を考えると駅から歩いて通える距離がいい。
私はため息を無理やり呑み込み、食事を再開する。その時、すぐ向かいのテーブル席からパンっと乾いた音が立った。
(なに……?)
お母さんも後ろを振り返り、店内の客たちの視線が一斉に中央のテーブルに座っていた男女のカップルへと向けられる。
「え……宇埜《うの》先生?」
あまりに驚いて思わず声に出してしまったからか、こちらを向いて座っていた宇埜先生の視線が私を捉える。私と同じように驚いた顔をした宇埜先生の口が「吉瀬」と動いたのがわかった。
(どうしてこんなところにいるの?)
宇埜貴伸《たかのぶ》は私と同じ総合病院に勤める三十二歳の外科医だ。彼は、今年の春に私が働く東京希世《とうきょうきせい》総合医療センターに転勤してきた。それまでは千葉希世にいたというから、もしかしたらその頃にこの店を知ったのかもしれない。
外科病棟の看護師として働く私は彼と話すことが多い。
彼は、誰もが一度は足を止めて二度見してしまうのが頷けるくらいに、整った顔立ちをしている。すっきりとした目元に高い鼻梁、けれどくどさはまったくなく、きっちりと整えられた黒髪はストイックな印象を見る者に抱かせる。それに一八〇を超える長身は、立っているだけで様になるものだ。
(宇埜先生、患者さんや看護師の評判もいいんだよね)
そんな私にしても、宇埜先生のプライベートはまったく知らない。恋人が途切れたことがないらしいよ、なんて噂はあっても真偽のほどはわからずだ。
(あの人が、恋人なのかな……?)
店内はそう広くはない。突然立ち上がった女性客に客たちの視線が集中する。カップルのケンカか、とどこかの席からか聞こえてきた。
(ケンカ? まさか、宇埜先生のこんな場面に出くわしちゃうだなんて……)
今、彼は私から見えるテーブル席で、女性とトラブルになっているようだ。乾いた音は立ち上がった女性が、宇埜先生の頬を叩いた音だったらしい。
女性の顔は見えないが、その後ろ姿だけでも美人なのがわかる出立ちだ。赤みがかった艶のある長い髪は、店内の明かりの加減で茶色い髪にピンクのメッシュが入っているようにも見える。腰は細く、短いスカートから覗く足は細すぎず色香を感じさせるスタイルだ。そもそも自分に自信がなければ、あんな身体の線を強調するような服は着られないだろう。
「お前と結婚したいと思う日なんて、永遠に来ない」
突然聞こえてきた宇埜先生の声にギョッとする。
店内はシンと静まり返っているため、彼の声はよく響いた。そんな突き放すような言い方では女性を怒らせるだけだと私でもわかる。それなのに彼は、平然とした感情のない顔で女性を見つめてそう言った。
「最低っ! こっちだってお断りよ!」
ああ、ほらやっぱり──と思いながら、私は居心地の悪さで落ち着かなくなってくる。
あまり見ているのも失礼だと思ったのは私だけではなかったらしい。周囲の客は意識だけをテーブルに向けたまま、各々食事を再開していた。私もお母さんに隠れるように身体を動かして、テーブルに並べられた食事に視線を落とした。
「後ろのテーブル、なにかあったの?」
お母さんは私に小さな声で聞いてくる。
「わからないけど、カップルのケンカっぽいよ。そっとしておこう」
「そうだな。せっかくの美味しい食事だ」
お父さんの言葉に私は胸を撫で下ろした。
経過観察で東京希世総合医療センターにかかっている両親は、一度だけ宇埜先生に会ったことがあるはずだ。以前の担当医は病気療養中で、その後宇埜先生が担当することになった。一度で顔と名前を覚えているとは思えないが、あまり知られない方がいいだろう。
(私、運だけじゃなくて、間も悪いのかな……こんなとこ見たくなかったし、向こうだって見られたくなかったよね、きっと。仕事で会うの気まずいよ)
医師だって病院から一歩出てしまえば普通の人となんら変わらない。デートだってするし、それこそ、こういった別れ話的な展開になることもあるだろう。
けれど、なにも私の前でなくてもいいじゃないか。明日、仕事で顔を合わせて、昨日はどうも、なんて言えるはずがない。
(いや、私は気づかなかったことにすればいいんじゃ……なにか言われたら、なんのことですか? って返すとか。聞いてない、見てない、知らないで通せば、宇埜先生だってわざわざ女性とトラブった話を持ちだすわけないし)
ツラツラとそんなことを考えていると、テーブルに置いた携帯電話がぶぶっと振動した。そして画面に表示された名前を見て、私は今し方考えていた方法が使えないことを悟った。
『なんでこんなところにいるんだ?』
よくこんな殺伐とした空気の中でメールを打てますね、と声に出すわけにはいかない。私は動揺を隠すことができずに携帯電話を持ったまま呆然としていた。
「逸子? どうかしたのか?」
「あ、ううん。なんでもない」
お父さんに聞かれて私は慌ててナイフとフォークを動かした。口の中に入れた肉は二、三回噛むだけであっという間にとろけていく。年に一度くらいは食べたくて毎年誕生日に通っているのに、美味しいはずの料理の味が感じられない。
ピンと張った神経が向こうのテーブルに向けられているからだろうか。女性がテーブルから離れて外に出ていくのが気配でわかった。
するとふたたび携帯電話がメールの受信を伝える。
(『話がある。外に』って、もしかして口止めってこと? そんなわざわざ呼びださなくても、私、誰にも言わないのに……っ)
女性が外に出てから数分後、宇埜先生は会計を済ませて出ていった。しっかり目で私に合図をするのを忘れずに。
宇埜先生とはプライベートな話をするほどの関係ではないから、こういう場合どう対処していいかがわからない。
「ちょっとごめん。外で電話してくるね」
「あら仕事? 看護師って大変なのねぇ」
「う、うん。担当してる患者さんの件かも。お母さんたちはゆっくり食事してて。追加でなにか頼んでもいいからね」
「ありがとう。私たちはもう満腹だよ。仕事なら気にしなくていいから」
私は頷いて携帯電話を手に席を立った。
レストランの前に宇埜先生の姿はない。辺りを見回すと、裏手になっているところから顔を出した宇埜先生が私をチョイチョイと手招きしてくる。
「奇遇だな」
「あの……私、誰にも言いません」
私がそう言うと、宇埜先生はなんのことだと言いたげに眉を寄せた。どうやら口止めのために呼ばれたわけではないらしい。そうなると、ますますなんの用で呼ばれたのか見当がつかない。
「あの?」
「ちょうどいいところで会った。吉瀬に頼みたいことがある」
宇埜先生は悪戯っぽく目を細めて、ニヤリと悪い笑みを浮かべた。なぜか私の警戒心がマックスになる。
「え……? な、なんですか?」
「お前、俺と結婚する気ないか?」
「はっ?」
なにかとんでもないことに巻き込まれそうな予感に、肌がぞわりと粟立った。
やっぱり私、運が悪すぎるんじゃないだろうか。
(――つづきは本編で!)