「好きだよ。君のこと大好きだ。いつでも幸せに笑っていてほしい」
あらすじ
「好きだよ。君のこと大好きだ。いつでも幸せに笑っていてほしい」
幼くして実母を亡くし、嫉妬深く気位の高い王妃から虐げられてきた王女フィリシュア。心が何度もおれそうになっては『愛と幸せに胸を震わせる日』を願って母の記憶を思い返す。やがて十九歳を迎えた彼女は、王妃の私欲の引き換えとして恐ろしい魔の森で暮らす精霊王の元へと連れて行かれる。不安に押し潰されそうなフィリシュアであったが、ふと目を開けるとそこは、温かく生命の輝きに溢れた楽園のようで……?
作品情報
作:みずたま
絵:風街いと
デザイン:RIRI Design Works
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プロローグ
――西にある魔の森へは入ってはダメよ。精霊王に呪われてしまうから。人は生きては戻れないの――
深い霧が肌に纏わりつく。じっとりと湿ったドレスの裾を捲り上げ、フィリシュアは途方に暮れて立ち止まった。あたり一面真っ白な靄に囲まれて、聞こえるのは無数の樹々の葉が揺れる音ばかり。あちらを見ても、こちらを見ても全てが薄い膜に覆われていて、ついさっき歩いてきたところも分からなくなりそうだ。
(どこもかしこも、同じ木にしか見えない……。私、どこまで深くこの、『魔の森』に入り込んでしまったのかしら……)
この森に来てから既に数刻は経っている。護衛の兵士達とはとうにはぐれ彼女はいま、完全に森のなかで迷子になってしまっていた。
「フィリシュア様。魔の森は年中霧に覆われています。くれぐれも我々から離れませんように」
出発前、兵士達は彼女にそう忠告してくれた。だが、彼らはいつのまにか姿を消してしまった。
(あの者たちは無事なのかしら。危険な目に遭っていなければいいけれど)
疲れた足を引き摺るようにして、フィリシュア――ベルン王国第五王女――はもう一度森の出口を探し始めた。
一話
「わたくし、貴女にお願いがあるのよ、フィリシュア。ラーダの花が欲しいの」
フィリシュアが暮らす北塔の小部屋に、艶のある声が響く。ベルン国王妃、ローゼリアが自ら彼女を訪ねてきたのだ。だがこれは、滅多にないことだった。滅多にないどころか、奇跡に近い。この数年、王妃は王女であるフィリシュアに謁見をほとんど許さず、会話を避けてきたからだ。
理由は明白で、フィリシュアが自分の腹を痛めた子ではないからだ。王女フィリシュアは、ベルン国王が異国訪問をした際に惚れ込んで連れてきた女性、ルルアの娘だった。ルルアはその国の宮殿付きの歌い手で、国王を歓迎する式典で二人は出会い、国王は彼女を第二夫人に迎えた。ルルアが娘を産むと王妃ローゼリアは母子を城の北塔へと住まわせた。その後、ルルアはフィリシュアが八つの時に亡くなった。残された小さな王女はそれから丸十年、乳母と数人の使用人によってひっそりと育てられた。
フィリシュアは外に出ることは滅多に許されず、半ば軟禁されているような暮らしを送っていた。父王はそんな娘に会いたくともほとんど会いにゆけなかった。嫉妬深く気位の高い王妃が常に彼を見ていたからだ。
ベルン王家は血筋を絶やさぬため、国王の多妻を是としていたが、王妃ローゼリアはそれを快く思わなかった。そして、自分以外の女に心を許した夫を決して許しはしなかった。だが、それ以上に彼女はルルアとその娘を、母と同じ青緑の大きな瞳を持つ赤子を憎んでいたのだ。
今、王妃は北塔の部屋で、フィリシュアをじっと見つめている。美しく縁取りをした瞳からは彼女がなにを考えているかは分からなかった。フィリシュアは、王妃の突然の訪問に驚きながらも丁寧に挨拶し、そして尋ねた。
「ラーダの花……とは、どのようなお花でしょうか」
ローゼリアは壁に飾ってある、ルルアの故郷の風景絵にちらりと視線を走らせるとフィリシュアの質問には答えずに微笑んだ。
「もうすぐ、陛下のお誕生日なのは知っていて?」
彼女は甘ったるい声でフィリシュアに尋ねる。
「はい、お母様」
フィリシュアの言葉に、王妃の瞳は一瞬で氷のように冷たくなった。
「……わたくしは、貴女の母ではないわ。わたくしがお腹を痛めて産んだのは三人の愛しい娘と息子たちだけよ。貴女は違う。二度とそんなふうに呼ばないで」
「も、申し訳ありません……。王妃様」
フィリシュアは青緑の瞳を震わせ、頭をさらに深く下げた。去年の春、新年を祝う式典を前に、「わたくしのことはこれからお母様と呼びなさい」と侍女から伝えられたので、その通りにしたのだ。だが、王妃は気が変わったようだった。こんなふうに気まぐれで奔放な性格のため、彼女は王宮の皆を振り回すことも多い。後ろに控えていた王妃の侍女が肩をピクリと震わせた。
「お母様なんて! 貴女にそう呼ばれるだけで身体中が痒くなるわ。気をつけてちょうだいね。とにかく、陛下のお誕生日に、ラーダの花をお贈りしようと思うの」
ローゼリアは再び甘い声に戻る。
「ラーダはね、とても珍しい花なの。なかなか手に入らないのよ。それで、貴女に摘んできてもらおうと思ってここまで来たのよ」
フィリシュアは頭を下げたまま、目をぱちくりとさせた。王妃が自分に使いを頼むなど初めてのことだ。
「あ、の……」
「貴女だって、陛下のお誕生日をお祝いしたいでしょう?」
「も、もちろんです」
「じゃあ、決まりね。貴女にお願いするわ。籠いっぱいのラーダの花。これを明日までに準備してちょうだい。ええと、場所はどこだったかしら。たしか、西の森の辺りらしいわ」
王妃はほっそりとした指を顎にあてる。
「西の森? ……ですか? 王妃様」
フィリシュアは思わず顔を上げてしまう。彼女はほとんど城の外に出たことがない。だが、そんな王女でも西の森が魔の森の入り口だということは知っている。西の森林地帯はベルンの国土ではなく、精霊王のものなのだ。かの森は年中深い霧が立ち込めており、一度入ってしまうと二度と帰れないという。昔から森に関するいくつもの恐ろしげな逸話が伝えられていた。
「ですが、あの土地は精霊王イリアム様の……」
「ラーダの花は魔の森の近くが一番綺麗に咲くんですって。わたくしはどうしてもそのお花を陛下に贈りたいのよ。もちろん、貴女に危険がないようにするわ。当たり前じゃない」
彼女は扇を振り、妖艶な仕草で唇を尖らせた。
「貴女だって陛下のお子なのだから。兵士を護衛につけますから大丈夫よ。森の中に入れと言ってるわけではないし。でも、これは陛下には内緒よ。驚かせたいの。そうね、貴女が陛下にお渡ししてもいいわ。きっととっても喜ばれるでしょうね。素敵な考えじゃない?」
一息でそこまで話すと、彼女はにっこり微笑む。そこには、どんな人間にも抗いがたい奇妙な魅力があった。
「わたくしの可愛い子ども達は皆立派に育ったわ。だから、これからは貴女とも仲良くしたいのよ。わたくしと、陛下と一緒の家族として、ね?」
フィリシュアは生まれてからこの歳まで、ずっと王妃の冷たい視線ばかり浴びてきた。そんな彼女にとって、こんなふうに微笑まれたり、お願い事をされることは驚きでしかない。ずっとずっと、嫌われていると思っていた。
(王妃様がこんなふうにおっしゃってくれる日が来るなんて)
胸が、じんわりと温かくなる。フィリシュアは嬉しくなった。このお使いは、仲直りしたいという王妃の意思表示に違いない。彼女は勢い込んで頷いた。
「わ、わかりました。がんばって、お花を集めてまいります」
「まあ、ありがとう。貴女、本当に素直で良い子ね。亡くなられたお母様とそっくりよ」
絹のような声で王妃は高らかに笑った。
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