「あなたの奥の奥まで、私のものにしたい」
あらすじ
「あなたの奥の奥まで、私のものにしたい」
右大臣の子息、時柾(ときまさ)は、対立する左大臣の娘小春(こはる)に恋をしていた。不幸を呼ぶ娘と家族に疎んじられ、屋敷の離れで慎ましく暮らす小春の元へ、時柾は足しげく通い詰め、やがて二人は積年の想いを叶え恋仲となる。
だが幸福を享受できたのもつかの間。程なくして、小春を帝の妻として入内させる話が持ち上がり……。
作品情報
作:桜旗とうか
絵:木ノ下きの
デザイン:RIRI Design Works
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序
「んっあ……あ、ああっ……」
柔らかく絡みついてくる肉襞の感触が、正気を失わせてしまうような気がする。
愛しい人に楔を打ち込み、幾度もその奥を貫いた。彼女の目は恍惚と快楽に染まり、涙に濡れた瞳でこちらを見つめてくる。
「も……もう……本当に……」
「あなたが離してくださらないのです」
何度、彼女は懇願してきただろう。二度……三度。いや、もっとか。
白い肌には、自らがつけた花びらのような痣がいくつも残っている。だが、それももうほとんど見えなくなってしまった。夜の帳が下りてどれほど過ぎただろうか。燭台の明かりも消して、ただ彼女の音に没頭した。
愛液の混ざり合う音。打擲《ちょうちゃく》。甘い嬌声。それから――。
「時柾《ときまさ》様……お願いです、もう……」
彼女に名を呼ばれるのが好きだった。
助けを求めるように伸ばしてくる彼女の手を取って、指を絡める。そのまま引き寄せて手の甲や腕に唇を添わせると、彼女の中がうねって絡みついてくる。これでやめてくれと言われて従えるはずがなかった。
「私はあなたと夫婦《めおと》になりたいと望んでいるのです」
「それは……、はい……」
「そんなあなたを求めたくなる気持ちを、多少は汲んでいただけないでしょうか」
彼女の手に頬を寄せたあと、身を屈めて覆い被さった。
「あっ……んっ……、時柾様……動かないで……」
頼りない力で胸を押されても、それはあまりにも小さな抵抗だ。
「……私は、水の音が好きなようです」
「え……?」
「こうしてあなたと交わったときや、口付けたときなどは特に」
言いながら、唇を重ねた。
舌を差し出すと、彼女はそれを受け入れて舌を絡ませることで応じてくれる。体液が混ざり合い、内側から欲望という欲望を引き摺り出されるような不思議で、薄汚い感覚に抗えなかった。
「なにより……ほら」
外へ目を向けた。新月にはまだ遠く、晴れていれば月明かりが差し込むはずだが、あいにくと分厚い雲に覆われているようで月明かりは届かない。代わりに、しとしとと降る雨音が聞こえる。
「ずいぶんと降っているようです」
「雨……」
「ええ。やはり雨はいい」
そう言うと、彼女の腕が首筋へ掛けられた。
「時柾様……、つ、続けて……ください」
震えるような細い声に促され、腰を抱き込んで内壁を強く抉る。
「んっあ……あ、ああっ……」
「あなたともう一度会えるだけで良かった……はずなのですが……」
それだけではとても満たされなかった。
積年の想いをぶつけるように、彼女を夢中で求める。
「ふっ……ん、んっ……あ、あっ、は……」
何度、彼女を穢せばこの縁《えにし》が真実となるだろうか。
離れがたく、忘れ得ぬ想いとなってくれるだろうか。
「私は、ずっとあなたを――」
ねだるように口付けられた。彼女からこうして求められるのは初めてかもしれない。
それが嬉しくて、そのとき言葉にできなかったことなど気にも留めなかった。
――ずっと、あなたをお慕いしていました。
一.
「久しぶりに夢を見た」
帝が楽しげにそんなことを言った。
朝議をほぼ終えて皆が部屋を出た頃合いを見計らって、帝がぽつりと呟いたのだ。
清涼殿には時柾が最後に残った。その言葉が、自分に向けられたことだと理解せざるを得ない状況。
立ち上がりかけていた姿勢を戻し、脇息《きょうそく》に身を預けて扇を揺らす帝の前に座り直した。
「お顔の色が優れないのはその夢ゆえでしょうか」
「顔色が悪いのはいつものことだろう」
茜一條《せんのいちじょう》は決して健やかではない。幼いころから病弱で、内裏には祈祷師が頻繁に出入りを繰り返していた。いまでも臥せりやすく、今日のように拝顔できるのはまれだ。それでも、帝は彼を招く。話し相手になってくれと、こうして二人きりで。
「聞いてくれ、朱《あけ》の」
「もちろんです」
扇の向こうで帝が笑ったのがわかった。
「木に、蕾がみっつ付いていた。早く綻ぶのを見たいと思っていると、ふたつはゆっくりと綻びはじめた。だが、残りのひとつは……どうなってしまったのか思い出せない」
「たぶんそこが肝心だと思いますが」
とはいえ、夢解きができるわけではないから、どう返事をすればいいのかまるでわからない。
「花など、託《かこつ》けたように恋の兆しだと臣らは言うだろう。夢解きをさせたとて同じこと。その手の話はもういい」
「皆が、帝に恋を期待するのは当然でしょう。せめてお一人だけでも女御をと、私でさえ思いますよ」
茜一條は、己の立場を理解しすぎている。父の言葉ではないが、多少色ぼけしているくらいのほうがよかっただろう。
公卿らは茜一條による長い治世を期待していない。しかし、世継ぎは残してもらわねば困る。だから少し前に入内の話を強行したのだが、これが帝の逆鱗に触れた。正直、だれもが帝をここまで怒らせてしまうとは想像だにしなかったのだ。
この一件で、入内の話を押し進めた公卿と、共謀した頭中将、それに近しい者らが流罪となった。そして、それによって空いた頭中将を時柾が引き継ぐことになった。
右大臣、慈野《じの》家の嫡子を帝が傍に置きたがるので、左大臣は怒り心頭だ。そして、両者の確執がどんどん深くなっていく。
帝にどこまでの思惑があるかは知らないが、均衡を保ちたいのだろうということは、時柾も薄々気づいてはいた。
それが、おそらく茜一條が治める〝倭国《わこく》〟なのだと言いたいのだろうということも。
「余命幾ばくもない、位ばかりが高い男の元へ来ても、女子《おなご》は不幸になるだけだろう」
「必ずしもそうとは言えないと思います」
「愛情を傾けてやれる気がせぬ」
「それでも、お世継ぎは必要ですよ」
こうして帝を諫めるのも時柾の役目になってしまった。けれど、帝の気持ちは理解できる。愛せもしないのに、入内だけさせるのはしのびないのだ。
ここは、寂しい場所だ。
栄華を求めて人を蹴落とし、常に争っている。煌びやかに見えても、影の落ちる場所ではどんな汚いことでもやってしまう者がいるのもまた事実。
誠実な女人ならばいいが、権力を欲する女子ならば帝はもっと寂しい思いをすることだろう。
病弱で、信頼できる者もおらず、ずっと一人で過ごしてきた茜一條。愛情を傾けられなかった彼が、だれかに愛情を持つことは難しい。
「それより時柾。露草の姫には会えたのか」
「あいにくと。私はあの日、幻でも見たのではないかと思い始めています」
「幻ではないだろうよ」
扇の向こう側で笑う帝を見て、たしかに幻ではなかったと頷いた。
元服してすぐのころ。遠乗りへ出掛けた時柾は、雨に濡れるのもかまわず立ち止まり、ぼんやりと空を見上げていた。そんな時柾の傍を牛車が通り、こんな雨でも出掛ける者がいるのだなと思っていると、その牛車から女童が飛び出してきたのだ。そして、手ぬぐいを「使ってください」と差し出してきた。
この倭国では珍しい拵えの手ぬぐいで、露草の刺繍がされたものだった。
すぐに返そうとしたが、その女童はおらず牛車もいなくなっていて返せず仕舞いになっている。
高価なものだろうから必ず返そうと思って十年。いまだ、露草の手ぬぐいを差し出してくれた人とは出会えていない。
「その姫は罪作りだな。朱の君と褒めそやされるほどのお前をここまで煩わせるのだから」
「その渾名は周りが面白がっているだけでしょう」
「朝陽のごとく美しいなどと、どこの姫を口説いたら言われるのやら。朝帰りもせぬ男が」
揶揄する帝に苦笑いを返した。曙のように、とどこからか噂され、それが転じて朱のと呼ばれるようになった。
その出所がどこかの姫だと言われても、心当たりがない。無風流で、気の利いた和歌《うた》のひとつさえ浮かばない時柾にとって、恋など一夜であっても煩わしいもの。たまには朝帰りでもしてはどうかと父に言われる始末だ。
そんな時柾のなにを見て、「朝陽のように」などと言えたのか。
「私は朝陽よりも雨のほうが好きですよ」
「そうだったな。……今日は、じきに雨が降りそうだ。空が陰ってきた」
ちらと目をやれば、たしかに鈍く影を落とし始めている。空気が少し重たい。
「では、雨が降る前に帰らせていただけるとありがたいのですが」
「そうだな。その前に」
帝が脇に置いた扇を差し出した。
不思議に思って手に取ってみる。作りは上等だがいささか華に欠ける無地の扇だ。
「昔、父上からいただいたものなのだが、長く忘れていた。使おうと思っているゆえ、もう少し華やかにしたい。時柾、画《え》を描いてくれ」
「帝がそう望まれるのであれば」
「お前の画才は、こねくり回してそれでも下手くそな和歌よりずっと価値があるだろうよ」
「余計なお世話ですね」
そんな軽口を叩いたあと、内裏を出た。
〝お前は知っておかねばならないことがある”
父がまるで他人に見えたあの瞬間を、時柾はきっと生涯忘れない。
「父上。しばしお邪魔いたします」
内裏を出たところで雨が降り始め、邸《やしき》に帰るのもためらってしまったため、より近い父の邸に立ち寄ることにした。
帝からの預かり物がなければまっすぐ帰っていただろうが、さすがに濡らしでもしたらことだ。
「うちではなく、姫君の元へ帰るくらいの放蕩振りを見せてくれると、安心できるんだがな」
父に挨拶をすれば、いつもこの調子だ。
「あいにくと、帝からの預かり物を守り、安全に置いておける場所など、この邸以外にはございませんでした。このあと少々出てまいります」
「雨が降りそうだが」
「だからこそ、です」
「……牛車を使いなさい。わざわざ濡れる必要もあるまい」
「せっかくですが、馬で走りたい気分なのです」
「そうか。……気をつけて行きなさい」
世の親子がどんなふうに接しているのか、時柾はよく知らない。友人たちは父の小言がうるさいとぼやいているが、時柾はそこまで煩わしく感じたことはない。
父、逸時《いつとき》は倭国でも珍しい、妻をひとりしか持たぬ男で、毎日邸に帰ってきているし、小言はまあまああるが仕方のないこと。先ほどのように、むしろ遊べと言われることはよくあって、それも時柾の将来を慮ってのことだとわかっている。
……わかっているはずなのだ。
それでも、時柾は父に対して距離を置いてしまう。そして父も、どこか時柾を気遣っている気がしてしまうのだ。
〝お前を大切に思っている。その気持ちはこれから先も変わらない。たとえ、血の繋がりなどなくとも”
あの日、父から聞かされたのは自分が慈野家の実子ではないということだった。
もともと両親に子どもができず、嫡子問題に気を揉んでいた事実があったという。母は慈野家の将来を思って離縁も考えていたらしいが、父はそれを拒んで母一人をいまでも大切にしている。
そんな折、父の古い友人が夭折した。まだ二十歳だったという。
父は、その友人の子を引き取り育てることにした。それが、時柾だ。名は、逸時がつけてくれたらしい。
……あの日から、時柾は両親を両親と素直に思えなくなった。もちろん尊敬はしているし、大切だとも思う。しかし、他人なのだと心のどこかで投げやりになってしまうこともあった。
慈野家は時柾が継がねばならないが、はたして本当にそれでいいのだろうか。父はそれを望んでいるようだが、やはり疑念も猜疑心も残ってしまう。
養子に本家を継がせていいのか? 周りは反対をしないか?
……いや、きっと反対はしないだろう。時柾が養子であっても受け入れるのだ。家を守るため。一門を守るために。だからこそ、なるべく手のかからない、親にとってのできた子でいなければならない。
邸を出ると雨が強くなっていた。愛馬を連れて北の播酉山《はとりやま》へ向かう。
あの人と出会ったのは、雨の降る播酉山からの帰りだった。
真実を打ち明けられ、動揺を隠せなかった時柾は馬を無心で走らせた。そして、気づけば播酉山にいた。
倭国と、隣国との境。山を越えれば隣国へ行ける。しかし播酉山は高く険しい。こちらから山を越えることも、向こう側から越えてくることもできない、大自然の国境と言えるだろう。
「播酉山からまた引き返して南へ下っていくか」
元服の日に辿った道をもう一度回る。そんなことを、十年も繰り返しているのに露草の姫には会えない。道を変えてみるべきか。もっと範囲を広げてみるべきか。いろいろと考えるのだが、どうしてもここを通らなければならない気がしてしまう。
十六歳だったころ。時柾は間違いなく打ちのめされた。一度も両親と他人であるなどと疑ったこともなかったからこそ、その真実は冗談なのではないかとさえ思ったほどに。
だが、元服をぎりぎりまで遅らせた理由を考えてみれば、悪い冗談ではないとわかる。
あまりに重すぎる真実ゆえに、父は時柾が少しでも大人になるまで待ったのだ。物事が正しく理解できるまで。分別を求めたからこそ。
愛馬で播酉山の麓まで走ったあと、進路を変えた。このまま緩やかに南へと下る道を通って帰る。
辺りが白く煙っていた。霧の出やすい播酉山は、雨が降ると周囲がほとんど見えなくなってしまう。それでも、暗い雨空は見えてしまうのだ。空を見上げて、真っ黒になっていることにわずか、笑みを浮かべる。
「そういえば、あの日も闇色のような空だったか」
昔を思い返しながら、馬をゆっくりと歩かせた。
走らなくていい。着物が重たく濡れるくらいでかまわない。もしかしたら、また牛車が通ってあの人が現れるかもしれないから。
……そんなことを思っても、もう出会うことはないのかもしれない。その程度の縁なのだ、きっと。
高い場所で雷が閃光している。遠いようだが播酉山の近くは落雷することも珍しくない。
手綱を握り直して、馬の腹を蹴った。近くに庵があったはずだ。今日はさすがに少し避難させてもらったほうがいいだろう。だが、愛馬がぴくりとも動かない。
「……どうした?」
首を撫でて問いかけた。不機嫌そうに首を振る〝彼”に眉根を寄せる。
「もう少し歩かないか」
説得を試みても、彼の気分が向くことはないようだ。仕方なく馬から降りて手綱を引いた。
「一緒に歩くから。いったいなにに機嫌を悪くしてしまったんだ?」
足下から冷えだして、早急にこの場を離れたかった。
のろりとした足取りで彼がようやく一歩踏み出したので、安堵して歩いて行く。けれど。
「そこの方。お待ちくださいませ」
女性の声に呼び止められた。声の主を探って視線をさまよわせると、がしっと腕を掴まれる。
「そちらは川がございます。これだけ雨が降ると危険ですよ」
ぐいぐいと女性に腕を引かれ、進もうとしていた方向と逆方向へ歩いて行く。愛馬の機嫌も直ったのか、おとなしく付いてきてくれた。
「こんな雨の中、なにをなさっておいでですか」
「……お言葉だが、あなたも人のことは言えない」
「お遣いです。わたしは雨には慣れておりますので平気なのですが……」
視線を感じる。顔を見られているようだが、濃い霧があたりを包んでいるせいで相手の顔は見えない。おそらく、向こうからも見えていないだろう。
「近くにお住まいか? この雨で一人帰すのはしのびない。お送りしよう」
「大丈夫ですわ。本当に近くですから」
「……ならば、少し雨を凌がせてもらえないだろうか」
「よろしいですけれど……わたしの主人は不幸を呼ぶと言われておりますわよ?」
一瞬、霧が晴れた。
その瞬間に見えた女性は楽しむような、あるいは嘲笑うような、なんとも言えない笑みを浮かべていたように見えて寒気がする。
「不幸?」
「ええ。不吉な姫君と言われておりましてね。邸にお招きすることはやぶさかではございませんけれど、なにかに取り憑かれてしまうかもしれませんわ。それでもよろしくて?」
さて……。これは試されているのだろうか?
少し考えを巡らせたいが、雷鳴が近づいてきているようだ。ごうごうとうるさく鳴っている。
雨に濡れることを気にしたことはないが、この女性は少し気になった。
この十年、何度も播酉山から下る道を通り続けている。それなのに、一度もだれかと会ったことがない。雨だから皆外出を避けているのだろうと考えていた。しかし、ほど近い場所に暮らす人間がいるのだ。しかも、姫君のいる邸となれば目に付かないはずがない。それなのに、いままで一度も――。
愛馬が渋ったことも気になる。素直で困らせる子ではないから、なにか意味があるのではないかと考えてしまう。ならば。
「その不幸というものを享受してみたい。なにかが変わるかもしれないからな」
「あら、意外」
「その姫君とやらにもお目にかかってみたい。取り次いでいただけるか?」
袖で口元を隠した。うっかり笑ってしまったことを隠したかったからだが、女性が一歩、近づいてきた。
「あら、いい男」
「ありがとう」
「姫様のお気持ちが引けるとよろしいですわね」
「追い返されないことを願おう」
女性に案内されるまま、強まる雨を凌ぐために彼女らが住まう邸へと向かった。
「拭くものをお持ちしますわね」
女性が邸の中へ消えていく。
時柾は、馬屋に愛馬を繋いで少し外へ出てみることにした。
雨に煙ってはっきり見えないが、立派な邸だ。さほど大きくはない。だが、下流貴族のそれと言うよりも、別邸といったほうが正しいだろう。中流……もしかしたら上流貴族。とすれば、時柾も知る人の姫ということになりそうだが、心当たりがない。
それに、邸の作りは立派なのだが手入れが行き届いていないように見える。
傍に植えられた木は育っているものの、頼りない。手が掛けられていないのだろう。気の毒に思って木をそっと撫でた。
「まあまあ、雨に濡れるのがよほどお好きなのですね」
「いや、そういうわけではないが」
先ほどの女性が戻ってきた。拭くものを借りて馬屋に引き返すと、女性は満面の笑みを時柾に向ける。
「姫様が、よろしければ中へ入っていただいたらどうかとおっしゃっていますわ」
「ありがたいが……、あなた方は本当にいいのか?」
「姫様が良いとおっしゃるのですから。もっとも、本当になにかに取り憑かれるかもしれませんわよ」
「あなたは姫君をずいぶんひどくおっしゃるのだな」
「そんなことはありませんわ」
どうだか、と袖で口元を隠して笑った。
「さあ、こちらへどうぞ」
女性に案内されるままついていくと、やはり中もしっかりと作られていることがわかった。いい家だ。しかしあちこち傷んでいることは本当に惜しい。
ときおり軋む床板に目を向けながら進むと、女性が足を止めた。
「姫様。お客様をお連れいたしましたわ」
目を向ける。下ろした御簾の向こうに人の気配がした。
「災難……でございましたね」
凜と通る声に息を飲んだ。
鈴を転がすような、とはよく言ったものだが、そんな声の持ち主に出会ったことがない。けれど、この姫の声はまさにそれだ。しかも、りんりんと騒ぎ立てるのではなく、緩やかにひとつ転がすような静かで、ゆっくりと広がっていく温かい声。
「雨を凌ぐ屋根をお借りできたことは光栄だと思っています」
「そのようなこと。たいしたおもてなしはできませんが、せめて雨が止むまではゆっくりしていらしてください」
「温情、痛み入ります」
そこで会話が途切れてしまった。この姫君の声をもう少し聞いていたいが、居座るのは無作法だろうか。
視線を巡らせていると、案内してくれた女性にぐいと着物の袖を引かれた。
「ごゆっくりなさりませ」
「……いや、妙齢の姫君の前に見ず知らずの男が居座るものでもな――」
「さあさあ」
おそらく、この姫の女房だろうが強引が過ぎる。さあ座れと力一杯押してくるものだから、時柾も諦めてその場に腰を下ろした。
「薄羽《うすば》。ご迷惑になるからおやめなさい……」
「でもね、姫様。この方、とっても器量のよろしい方でね」
「薄羽。失礼です」
「最近評判の朱の君にだって劣らないはずですわ」
「やめなさい……、本当に」
時柾は袖を口元に当てて、ただただ曖昧な笑みを隠した。今日、さんざん帝にからかわれた話題だったこともあり、どんな顔をすればいいのかわからない。
「申し訳ございません」
「いいえ」
ぎこちない空気が漂った。
こんなとき、歌才に富んだ者ならば和歌のひとつでも詠って話の糸口を掴むのだろうが、時柾にそんな才はない。こねくり回しても下手だと言われたのだから、失笑ものだろう。
傍でそわそわしていた薄羽という女性が、なにかを察したのかその場を立ち去った。軽やかな足取りで去って行く姿を見送ったあと、姫君に目を戻す。
「……薄羽を、気遣ってくださったと聞きました」
「私はなにも」
「ありがとうございます。薄羽はわたくしにとって家族同然。本当に嬉しく思います」
「だから、私を邸に入れてくださったのでしょうか」
素性のわからない男を邸に上げるなど、よほどのお人好しか、なにか事情でもなければしないことだろう。
「それもあります。ですが、今日の雨は薄羽にわたくしが仕立てた着物を納めるようにと遣いを頼んだせいです。そのためにどなたかが雨に濡れてお困りになっていらっしゃるのであれば、お力になりたかったのです」
「面白いことをおっしゃる。雨など、空の気まぐれでしょう」
ぱたりと、御簾の向こうで扇が閉じられる音がした。
「わたくしは不幸を招くのです。必ず雨が降る……」
たしかに、この国では雨を不吉とする風潮がある。神代のころから続く伝承や風習のようなものだ。
時柾も、もしもあの日がなければそんな言い伝えを信じていた。
「雨が不幸などと決めたのはいつの時代でしょうね」
「ずっと昔から……」
「私は、雨が降りそうだったので出てきました。いいことが起こるような気がして。会いたい人に会える気がして」
あの、幼い姫に会える気がして、いつも雨を待ちわびていた。
いまはもう幼くはないだろうし、どこかの男と逢瀬を重ね、結婚をしたかもしれない。それほどの時が流れてしまったが、時柾はいまだ会いたいと夢を見る。せめて、あの日借りた露草の手ぬぐいを彼女に返すまではと。
「こんな空模様でいいことなんて起こり得ませんわ」
「そうでしょうか。私があなたに会えたこともいいことではないと思われますか?」
「ご不幸であると思います。いかに一瞬の出会いであったとしても、このひとときを喜べるはずはないと……」
「私は幸運だったと思っていますよ」
息を飲む音が聞こえて、時柾は立てた膝にうつ伏せるように顔を寄せた。
御簾の向こうで、彼女はどんな顔をしているのだろうか。戸惑っている様が声からありありと伝わってくる。
おそらく、彼女はいろいろとつらい思いをしてきたのだろう。寂しい思いをしてきたのだろう。
そんな情景が目に浮かぶ。
己と関わることを不幸だと言わねばならない姫君の、心の痛みはいかほどだろうか。
こんなにも、雨を待ち望む男もいるのだと知ってほしい。幾許かでも、この姫君の心が軽く、安らかになるのであれば。
「私は幸運だった。雨を待ち望む身としては、雨を降らせるあなたと出会ったのは本当に。ここに来れば、いつでも雨を降らせてもらえそうです」
「雨を待ち望むだなんて……」
「変わり者とよく言われますよ」
「ええ……不吉の前兆として外出を控える方もいらっしゃるのに」
「着物が濡れるからやめてくれと、邸の者には言われますよ。私が帰宅すると廊《ろう》も雨が降ったように濡れる、ともね」
「……そのとおりですわね」
くすくすと、彼女が笑った。
その笑い声はなんとも控えめで、消えてしまいそうなほど小さい。
こんなに遠慮して笑う姫を、時柾は初めて見た。内裏を歩いていると、きぃきぃと頭に響く声を聞くことがある。
仲間に連れられて、美姫と評判の邸を覗くこともあったが、いずれの声も耳が痛くなるばかりだった。
こんなに優しい声を知らない。
「たとえば。本当にたとえ話ですが、あなたが雨を降らせる呪術でも使えるのだとして、それを悪用するような悪鬼には思えない」
「……雨は皆、お嫌いでしょう」
「私はね、姫。ある方にお会いしたくて雨を待ち望んでいます」
「雨の日に逢瀬のお約束でも……?」
「いいえ。ですが、初めてお会いした日が雨だったので、それくらいしか手がかりがないのです」
ただ、借りた手ぬぐいを返したいだけだった。高価なものだろうから。大切なものだっただろうから。本当に、それだけの理由だったのだ。
けれど、こうして言葉に乗せてしまうと会いたいという気持ちが強くなる。
「……お会い、できるとよろしいですね」
「ええ。幼き日の面差ししか知りませんが……雨に濡れる私を気遣って……いや、あれは珍しがったのかもしれませんが、牛車からわざわざ飛び出してきてくれるような方でした」
かたりと御簾の向こうでなにかが落ちる音がした。
「姫?」
「あ……いえ。扇が壊れてしまっただけです。古いものなので……」
ものを大切にする人なのだろうということは、多く言葉を交わさずともわかる。
古い邸に住んでいて、決して華美とは言えない暮らしぶりも窺えた。手の届く限りだけでも手入れはされていて、けれど多くは届かない。
とても小さな手を懸命に伸ばして、彼女の手が届く場所だけは守ろうとしているような。そんな生き様が見える気がして目を伏せた。
いまなら御簾を跳ね上げるだけで彼女の姿を見ることができる。隔てるものはなにもない。
慎ましやかに暮らす彼女を見てみたいと思った。穏やかな声音で話す彼女がどんな人なのか知りたい。けれど。
「姫。よろしければ」
時柾は扇を取り出して、御簾の隙間から差し入れた。
「いえ……あの、あなた様がお困りになるのでは……」
「お貸しするだけです」
押し入るような真似はあまりに品がない。
ひととき雨を凌がせてもらっただけで、再びこの姫にまみえることは難しい。
ならば、会わねばならぬ理由を置いていけばいい。
「……わたくしがお返ししないかもしれませんのに」
「ならばそれまでのご縁だったということでしょう。折を見て、取りに伺います。……そうですね、また雨の日にでも」
薄暗く陰った空に、わずかな光が差した。
この日差しに透けた御簾の向こうに、彼女の姿を見られないかと望む自分に気づいて苦笑いを零す。
「雨が上がってしまった」
「…………、次の雨が待ち遠しいと思ったのは初めてです」
また会いたいと、彼女が言ってくれるだけでいまは過分。多くは望むまい。
彼女が、時柾の差し入れた扇を取った。はらはらと開く音がしたあと、ほどなくして彼女は驚いたように息を飲む。
「露草……」
「昔――」
「こんな形でまた目にできるなんて……」
まるで嗚咽をかみ殺すように声を震わせる彼女に驚いた。
渡した扇は、時柾が願掛けのために露草を描き入れたもの。帝はそれを気に入って時柾の画才を評してくれたが、感動とも当惑とも付かないあの瞬間よりも、彼女のかすかな涙声に心が震える。
この人は――。いやでもまさかとかぶりを振った。
心が惑う。答えが知りたい。小さな期待が胸の内から沸き起こってくる。
試してみようか……?
「……雨に紛れれば、何者にもなにも、見られずに済みましょう。だから、雨は良いのです」
「……拭うものがなければ困るでしょう」
そっと口元に袖を当てた。
あの日出会った女童も同じことを言った。拭うものがなければ困るでしょう。だから使ってください、と。
「いまは、凌ぐ屋根を見つけてしまいました」
「その屋根は、まことに雨を凌げるものでしょうか」
間違いなく。
その言葉をいまは飲み込む。
「姫。また必ず会いにまいります」
「わたくしとは関わらぬほうがよろしいです」
「これはご縁です」
「ならば、悪縁でしょう。断ち切るべきです」
「悪縁も良縁も、宿世より連なる縁。それを容易く断ち切るなどできはしないのです」
「……強情な方」
呆れたように、けれど鈴を鳴らすように彼女が笑った。
「お困りになったらいつでもおいでください」
彼女の言葉に安堵する。
「慈野時柾《じののときまさ》です。ご記憶に留め置いてください」
「わたくしは――」
「雨も上がったので帰ります。夜通し話していたいところですが、朝帰りをすると邸の者がいらぬ詮索をする。それは少々困りますから、今日はこれで」
後ろ髪の引かれる思いは残ったが、時柾がろくな逢い引きをしないことに気を揉む父や乳兄弟は、必ず喜び狂う。特に乳兄弟はだらしない顔でどんな姫なのかと聞いてくるだろう。それは本当に迷惑千万だ。だから、いまは名残惜しい気持ちからは目を逸らし、立ち去るほうがいい。
「ええ……お気をつけて」
「それでは、また」
居住まいを正して立ち上がる。
邸の外へ出ると、先ほどの暗闇が嘘だったように晴れ渡る空が広がっていた。
二.
時柾の元服は、十六歳と周りより少し遅かった。
早く一人前になったと認められたい気持ちはあったものの、父はなかなか大人になることを認めてくれなかったのだ。
そんなに頼りないだろうかと乳兄弟に愚痴を零していたころ、元服の話がようやく上がった。
初めて冠をかぶり、浮かれていたかもしれない。
元服したその日、父に呼び出された。そのときの言葉に、ひどく衝撃を受けたのはそんな浮かれた心があったせいだろう。
「時柾。お前に話しておかねばならないことがある」
慈野逸時という人は、厳格なところはもちろんあったが時柾を大切にしてくれていると、子ながらにもわかるほどの愛情を傾けてくれていた。
きっと、ひとりの大人としての立ち居振る舞いなどを注意されるのだろう。そんな程度に考えていたのだ。
「お前は知らねばならぬことだ」
そう言って、父は語りはじめた。
「私は、お前の実父ではない。妻もしかり」
「……え?」
言葉の意味が理解できずにいる時柾を、逸時が一瞥する。様子を窺うように。心配そうに。
「ある方からお前を託された。子を授からなかった私たちは、お前を必ず育て上げると決めたが、この真実をいつ打ち明けるべきかを決めかねていた」
実父ではない?
母も、実の母ではないと言う。つまり、両親と思っていた慈野の夫妻は時柾と血の繋がらない他人――。
「それで、元服の折にと決めていまに至ったが……」
「そう……でしたか……」
「時柾」
「育ててくださり、ありがとうございます」
「違う。時柾、そうではない。血の繋がりなどではなく、お前自身を大切に思っている。その気持ちはこれから先も変わらない」
「父上。私がだれの子であってもあなた方のお気持ちが変わることはないと理解しております」
口では滑らかに言葉が出てくるのに、心は真っ白になっていた。
なにを思えばいいのか。なにを考えればいいのか。まるでわからないのだ。
逸時は立派な人であろうと思う。右大臣にまで昇り、左大臣とは多少の確執があれどもどうにかうまくやっている様子が窺える。この人の役に立つために、自分は研鑽を積まねばと日々思っていた。
いまでもその気持ちは変わらないはずだが、心が揺らぐ。思考が止まる。
足元が、音を立てて崩れていくようだ。
「時柾。酷な話だと理解はしている。だが、知っておいてくれ。お前の実親がだれであるのかを」
「知ってどうなりますか」
「……お前を守るためだ」
焦点の合わない目で顔を上げた。父の顔を見た気がする。
「お前は、播酉の更衣様の子。父君はいまの帝、納條《とうじょう》様だ」
「…………、申し訳ありません。父上のおっしゃっていることがいまの私には理解できません」
「わかっている。ゆっくりと心を静めてくれればいい」
それでも聞けと父は言うのだ。
乱れた心を落ち着ける暇もなく、父は言葉を並べた。
そのときはなにひとつ頭にも耳にも残らなかったが、懸命に理解しようと努めた。
納條は、子に恵まれなかったらしい。あのころは、かつてないほど不吉に晒された世だったという。そして逸時もまた同じ境遇に立たされ、帝のことは他人事ではなかったようだ。
そんな折に、幾人かの女人が入内した。その中に、茜一條の母となる人――萌若《ほうじゃく》の女御と、時柾の母――播酉の更衣がいた。
播酉山の近くに暮らしていた、身分の低い女性だった生母は納條から一度だけ情けをかけられたという。
しかし、その直後に病を患い里へ帰った。不治の病とされて宮中に戻ってくることはなかったが、そのときにはすでに身籠もっていたらしい。
逸時は、更衣とは入内の折から懇意にしており、たびたび様子を見に行っていたようだ。そして、宮中に戻れるよう手を尽くした。
更衣とはいえ、帝の子を授かったのだ。その地位は守られるだろうと考えたようだったが、少しのちに萌若の女御の懐妊が知られることになる。
納條は当然のように萌若の女御を寵愛し、中宮にした。
播酉の更衣はさらに具合を悪くし、やがて時柾を産んで夭折。その間際、逸時に時柾を預けたのだという。せめて幸せにしてあげてほしいと懇願したようだ。
そして、慈野家は播酉の更衣の子を引き取り、後継者として育てていくことを決めた。しかし。
「年々、お前は納條様に似てくる」
そして、逸時とはまるで似ていない。この事実を照らし合わせたとき、だれかが口にするかもしれないと、父は危惧したようだった。
「お前がもしも真実を知ることになったとき、私たちがそのことを秘匿していては、お前はもっと傷つくだろうと考えた」
「ゆえに、私に分別が付くまで待ってくださったのですね……」
元服が遅いことを嘆いていた。
少しでも早く父の助けになりたかった。
でもいまは、ずっと子どものままでいたかったと思ってしまう。
「時柾。お前が望むなら、この話を納條様に打ち明けてもいい。もしも更衣様が病に臥せられなければ、ご寵愛を受けられていたはず――」
「私の父はあなた以外におりません。どうか、このまま秘匿し続けてください」
「……感謝する」
「出仕した際は、東宮様からも距離を取るようにいたしましょう。斯様な真実がだれかの耳に触れ、簒奪《さんだつ》を企てているなどと言われては父上も私も困ります」
笑って、やり過ごした。
部屋を下がり、いつもと変わらぬ顔で邸の中を歩いた。そうしていたはずだったのだ。けれど。
「時柾様。お加減が悪いのでしょうか」
「……いや?」
乳兄弟の目はごまかせなかった。
幼いころからずっと一緒に育ってきているのだ。だれよりも時柾の変化には目敏く気づく。
「嘘をつかねばならぬほどのことがあったと、僕は理解しますけど」
「なつ。お前は賢いけれど、たまに鬱陶しくなるな」
「春秋《はるとき》ですし、鬱陶しいとか言わんでください」
お前の名前には「夏」がないから、なんてからかったのは昔のこと。あのころの無知なままの子どもに戻りたいと、切に願ってしまう。
「馬を走らせてくる。一人になりたい」
「雨が降りそうですよ」
「……むしろちょうどいいかもしれない」
「時柾様……。すぐに馬の用意をしますね」
胸がひどく重たかった。多く口を開けば、感情があふれ出てしまうような気がする。春秋のような、気心の知れた相手は傍に置きたくない。いまは、なにも考えず一人でいたかった。
ほどなくして春秋が戻ってくると、時柾は馬に跨がってあてもなく走り出す。どこへ行けばいいのかもわからないが、ふと目を向けると高くそびえる播酉山が見えた。
母だという播酉の更衣。
父の話のほとんどは、右から左へと流れてしまったが、たしか、播酉山の近くに暮らしていたゆえにそう呼ばれていたと言っていた気がする。
ならば、実家もそこにあるのだろうか。
思って進路を変える。播酉山へ向けたところで、なにかを見つけられるわけではないだろうし、見つけたとしてなにかを言えるわけでもない。
生みの母はこの世にはいないのだから。
「私は慈野時柾でさえないのか……」
両親の子ではなかった。慈野家の血筋を持たず、この名前さえ偽りなのかもしれない。そして、突然言われた、帝の子という言葉。
本来であれば、帝の寵愛を受けたくてあの尊き方に近づくはずなのに、時柾がそうするほど危険が隣り合う。逸時を簒奪者《さんだつしゃ》にしてはいけない。慈野家一門を守らねばならない。
できるなら出世をして父を助けたかったが、それは叶わないだろう。
つくづく無力だ。子であったころも力は持たず、大人になっても力を得られない。出仕など、ずっとしなくて済めばいいのに。
そんなことを思って山の麓まで進んで行くと、ぽつぽつと雨が降り始めた。
その雨は土を染めるよりも早く強く降り出して、時柾は馬上で思わず笑う。
こんなに急激な雨に見舞われるなど、なかなかないことだ。濡れた着物で帰れば、春秋が皮肉を言うだろう。家人は飛んできて、あるいは悲鳴を上げるかもしれない。
時柾が病に臥せったとき、父も母も、家人も皆心配してくれた。祈祷しろと騒ぐ声がうるさいと、愚痴を零した。
そんな日々さえ偽りだったのだろうか。更衣の子だから――あるいは帝の子だから父は時柾を大切にしてくれたのだろうか。
空を見上げる。頬を伝う雫が雨なのか、それ以外のなにかだったのかを知るよしもなかった。
「帰りたくないな……」
どんな顔で父を見ればいいかわからない。これからどう振る舞えばいいのかもわからない。すぐに邸を出ることにはなるだろうが、それまでの間が憂鬱だ。
あてもなく馬を歩かせて、帰路につこうとした。だが、急速な雨は霧をもたらしたようだ。視界が真っ白に霞んでなにも見えなくなっていた。
このまま迷って帰らなければいいのだろうか。
でも、話を聞いてすぐにそんなことになれば、父は気に病むだろう。
答えのない思考を逡巡させながら、おそらく通った道だろう方角へ進路を取った。
霧はより濃くなって視界を遮ってしまう。それでも、もうどうでもいいと投げやりな気持ちで進ませていくと、黒いなにかに追い越された。
目を向けると、のろのろと進む車が見える。牛車に追い越されて、時柾がいかに邸へ戻りたくないかを思い知ったとき、馬を止めた。
なんだかひどく疲れてしまった。身体も冷えてきている。動きたくないな……と考えたときだった。
「あの」
声が聞こえてはっと目を向ける。
「雨はまだ強くなりますよ」
「……そのようですね」
霧を隔てた少し先に人がいる。声からして子ども……女童だろうか。
「こんなところにいては道に迷うかもしれません」
「迷ったところで、特に困ってはおりません」
「いけません。ここは神隠しに遭うと言われておりますし」
「播酉山はそんなに不吉な山でしたか」
たしかに、そんな噂を聞いたような気もするが、気のせいだった気もする。
なにが正しいかがわからない。
声の主を探す。ぼんやりと人の姿が見えて、時柾は馬を降りた。女童に目線を合わせる。
「あなたこそ、お一人でどうされました?」
「わたくしはその……少し、外へ出てみたくなって。お忍びの外出中なのです」
「忍んでおりませんね」
「父上に見つかったら叱られてしまうので、忍ばせておいてください。秘密ですよ」
なるほどと頷くと、女童が続けた。
「あなた様はなぜ、こんな雨の中を車も使わず歩いておられるのですか?」
「一人になりたかっただけですよ。雨に紛れれば何者にも、なにも見られずに済みましょう。だから、雨は良いのです」
彼女は「まあ」と驚いた声を上げた。そして、まっすぐ時柾の目を覗き込んだ。
「雨は、よろしいの?」
「いまの私には、良いと思えます」
すべてを隠してくれる雨は、晴れない心を洗い流してくれる気がしている。胸に詰まる気持ちも、溢れてしまいそうな感情も、すべて。
「これをお使いになって」
「なんですか?」
彼女がごそごそと袖や懐を探ったかと思うと、白い布を差し出した。
「拭うものがないと困るでしょう? 使ってください」
「しかし……」
手に押しつけられたのは、この国では珍しい手ぬぐいだった。柔らかな肌触りから、上質なものとわかる。おそらく異国から取り寄せたもの。そんなことができるのは、身分の高い……公卿くらいだろう。
手ぬぐいに視線を落とし、すぐに目を上げた。が。
「……?」
先ほどまで目の前にいた女童が忽然と姿を消していた。まさか神隠しかとも思ったが、牛車も消えていたので、彼女は早急に帰ったのかもしれない。
あるいは、幻だったのだろうかとも思ったが、言葉を交わして手ぬぐいを受け取った。これが幻なはずはない。それに。
「……少し……軽くなった……か?」
重苦しかった胸がすく気がした。
代わりに、まっすぐ時柾を見つめてきた彼女の瞳が忘れられない。だというのに、あの女童の顔は急速に記憶の彼方へ溶けてしまいそうだ。
「不思議な人だったな……」
そんな言葉を呟いて、ほどなくしたころ霧が晴れていく。
目の前に広がる道には見覚えがあって、再び馬へ跨がった。
道がわかってしまえば帰るほかないだろうという諦めが半分。心が軽くなって、どうにかなると思えたのが半分だ。
邸に帰ると、やはり春秋には皮肉を言われたし、家人がすっ飛んできてびしょ濡れの時柾を見て悲鳴を上げた。
そして、その翌日。床に臥せってしまった時柾を、逸時は鬼の形相で叱りつけたのだ。そのときに思った。自分は最後までこの人の子でいようと。どんな思いがあるにせよ育ててもらった恩はあるし、時柾という名前も賜ったのだ。なにより、本気で心配をしてくれているだろう父の顔を見たら、拗ねている自分は幼すぎると思った。
品行方正に、父が恥じ入ることのないようまっとうに生きていこうと、決めたのだ。
あの日から十年が過ぎたが、いまもその気持ちだけは変わっていない。
「お帰りなさい、時柾様」
邸に帰ると、春秋がどたばたと騒がしく出迎えに出てくれた。
「いたのか」
「ええ。雨に降られたもので、逸時様のお屋敷で雨を凌いでから帰ろうかと」
「考えることは同じだな」
慈野家で世話になっていた者たちは皆、雨が降ったからと言って雨宿りをして帰る。それほど父は慕われているのだろうし、この邸には立ち寄りやすいのだ。
「お召し物が濡れてると思ってすっ飛んできたんですけど……そうでもなさそうですね」
「……ああ、今日は雨を凌がせてもらったからな」
すると、春秋が途端ににやけた、だらしのない表情を作る。
「もしかして女人の邸だったりして?」
「…………、さて、どうだったかな」
「嘘が下手すぎません?」
そんな声をよそに、対屋へ向かう。その間中、春秋が「どこの姫ですか」「どんな方でしたか」とうるさく聞いてくるのでうんざりした。
おそらく春秋は時柾の恋を期待しているのだろうが、いかんせん恋愛に興味が持てない。こねくり回しても和歌が下手と帝に称される時柾にとって、恋は前途多難であるし、なにより気がかりなことがあったからだ。
しかし、その気がかりが晴れそうなのだとしたら。
「なあ、なつ」
「はい。お話しになってくれる気になりました?」
もはや時柾が〝なつ”と呼ぶことを受け入れている春秋に口元を袖で隠して笑った。名前を訂正するよりも、恋の行方が知りたいようだ。
「露草の姫に会ったかもしれない」
「……えっ? えぇっ? あの、十年ずっと会えなかった姫に? どこで消息を掴んだんです? 御簾を跳ね上げて押し入ったりしてないでしょうね? ちゃんと対話ができましたか?」
「……聞きすぎだ」
春秋には、十年前の顛末は話してある。もしも、それらしい噂を耳にしたら教えてくれとも伝えていた。
耳の早い春秋のことだから、噂があればすぐに教えてくれるはずだが、露草の姫に関しては手がかりが少ないこともあって、春秋でさえ噂のひとつも手に入れられなかったようだ。それが、ここに来て突然出会った。驚くのも無理はない。
「確証はない。だが十年前、あの幼い姫と話した言葉を投げかけてみたら、同じ答えが返ってきた。それに、扇を貸したらずいぶんと喜んでいらしたようでな……」
もしも、先ほどの姫が露草の姫でないのだとしたら――偶然にも同じ言葉を返せることなどあるだろうか。
「それで、露草の姫かもしれないと」
「ああ。それでな、なつ。少し調べてほしいことがある」
「できることならお調べしますけど」
「播酉山の近くに邸がある。そこの主がその方なのだが……どういった素性の方か調べられるか?」
春秋が相手ならば包み隠さず伝えたほうがいいだろう。下手に隠しても見抜かれてしまうことだろうし、婉曲して話すのも面倒だ。
「あのあたりには、僧正の庵があるだけじゃなかったですっけ」
「もっと椿の大路寄りだ。播酉川の東側……」
今日辿った道を思い浮かべながら話していると、春秋が表情を曇らせる。
「それ、左府様のお身内ではないですか? 大丈夫ですかね……」
「……そう……だな。いま話していてそんな気がした」
この国は、内裏を中心に東西で勢力や派閥が分かれる傾向にある。
東側には椿の大路と呼ばれる、見事な椿が咲く通りがあり、その大路には左大臣、志津清継《しづのきよつぐ》が住んでいる。
その志津家を中心に、左大臣の身内や与する者が暮らしているのだ。
逆に、西側には藤棚の大路がある。そこは右大臣であり、父である慈野逸時が一帯をまとめ上げている。
その境界となるのが播酉山から続く播酉川で、両者は長年敵対関係にあった。
もちろん、時として手を取り合うこともある。だが、いまはやや敵対気味。帝が慈野一門を重用することが、志津氏は気に入らないのだ。栄枯盛衰など巡ってゆくもので、少し前の帝たちは左大臣を重用してきた。それが右大臣の派閥へ傾いてきているというだけなのだ。が、納得できる者など多くは存在しない。
そんな関係にありながら、播酉川を挟んだ向こう側に暮らす姫と懇意にしたとなれば父も黙ってはいないだろう。
そして、志津氏も烈火のごとく怒り狂うだけならばまだしも、それをきっかけに右大臣一派を目の敵にするかもしれない。そうなれば、危ういながらも均衡がなんとか取れているいまの関係を崩すことになる。
「だがな、なつ。志津家の方ならば、住まいがあまりに質素なのだ。それに、あの姫君は自ら不運を呼ぶとおっしゃっていた。私を遠ざけようとなさったからな」
「ふぅん……? それはちょっと僕も気になりますね。でも時柾様」
部屋に入って、褥に腰を下ろす。
「その方が本当に露草の姫君で、そのうえ左府様のお身内だったらどうするんです?」
「……別にどうもしないだろう。私はあの方に、十年前お借りした手ぬぐいをお返ししたいだけだ」
「時柾様……和歌下手なのは目を瞑りますが、恋愛下手はいけません。朱の君なんて呼ばれるほどの美男が、恋心もわからない無骨者だなんて僕は乳兄弟として許せません」
春秋がずいずいと迫ってくる。思わず仰け反りながら、春秋の額を押し返した。
「お前が許さないからなんだと言うんだ。私は、お借りしたものを……」
「時柾様。胸の内から焦がれるような想いはないのですか。あの姫君にまたお会いしたい、声を聞きたい、御簾を跳ね上げて押し入りたい……とか!」
「見えないものに興味を持つのは人の性だろう?」
「違いますよ。時柾様は幽霊が出ると噂の寺に、きゃあきゃあ言いながら出掛けられますか?」
「……問題ないが」
「だめだなこの人! 信仰心もなければ恋愛経験値もないし!」
畳に額を擦りつけながら、春秋が呻く。
そんな姿を見て、袖で口元を隠しながら笑った。絶対に、この瞬間の明らかに面白がってしまっている顔だけは見られてはいけない。
「……なんですか。笑うなんてひどいじゃないですか。僕は真剣に時柾様を心配してるんですよ」
「許せ」
半分くらいは真実。だが、半分は偽りだ。
春秋が言ったように、あの姫君にもう一度会いたいと思っている。声を聞いて話せたらと願っているし、御簾を跳ね上げてやろうかという衝動もあった。
どうするのかと春秋に聞かれたとき、正直焦ったのだ。
志津の姫君ならば、時柾が平然と会いに行ける相手ではない。しかし、胸にせり上がってくるこの気持ちに名を付けるのならば、間違いなく恋と呼べる。
十年だ。
あの、露草の手ぬぐいを借りてから十年。ずっと会いたいと望んできた人。どのような成長を遂げていたとしてもかまわないと思えるほど、再びまみえることを望んでいた。恋に昇華しないほうがおかしいのだ。
時柾が二日とどこかの姫の元へ通えない理由も、あの人に憧れていたからにほかならない。
わかっている。わかっているからこそ、言えない。あの人が、左大臣の身内かもしれないという予測も付いてしまっているからこそ。
「ずっと秘めてきた慕情だ。どうか触れないでくれ、なつ」
「その姫君が、時柾様を苦しめない方だといいと、僕は心から願っていますよ」
「そうだな。左大臣のお身内だったときはなるべく、それとなく知らせてくれ」
「善処します。その姫君の調査はお任せください」
◇
「薄羽。覚えているかしら」
かの男性が残した露草の描かれた扇を眺めながら、傍で縫い物をしていた薄羽に向けて、独り言のように呟いた。
「わたくしが、露草の模様の描かれた手ぬぐいを、見知らぬ方に渡した日のことを」
「いきなり牛車から飛び出して行かれた日ですわね」
裳着《もぎ》をつける前のことだ。
昔から、不幸を呼ぶと言われて邸の隅へと追いやられていた。それが息苦しくて、ふたつ下の妹を両親が溺愛する様を見るのが悲しくて、薄羽に無理を言って牛車を借りて外出した。
晴れていたはずの空は徐々に曇り始め、播酉山へたどり着いたころには雨が降ってしまっていたのだ。
生まれた日は雨だった。しかも、雷鳴轟く大雨の日だったらしい。それだけならよかったが、彼女が生まれてからずっと、邸はなにかに祟られているのではないかと思うほど不吉なことが起こり始めた。
北の対では、母が夜ごと悪夢を見るようになった。
昨日までなんともなかった渡殿《わたどの》が突然抜け落ちたし、失せ物が多くなったという話だ。
妹はなにもないところでよく転び、悪霊に憑かれているのではと祈祷を繰り返してきた。
あんな空模様の悪い日に生まれたお前が悪いと、父は言う。それが理不尽な八つ当たりだと理解できるようになったのはいつだっただろうか。
彼女は、両親の愛情を受けて育たなかった。受けたのは、悪口雑言。だけど、悲しくなかったのは祖父がいたからだ。
祖父は、彼女を溺愛してくれた。
〝お前の名前はしゃれていていいだろう”なんて誇らしげに彼女を褒めてくれた。
志津小春《しづのこはる》。それが、彼女に与えられた名前だった。
妹が継花《つぐか》と言い、父の名前を一文字もらって名付けられていたけれど、小春はそれを羨んだことはない。なぜなら、最愛の祖父からの贈り物だったし、小春なんてきれいな名前が嬉しかったのだ。
だけど、彼女は雨を呼ぶ。名前とは裏腹で、とても悲しいことだと嘆いていた幼少期。
播酉山へ行けば、なにかが変わるかもしれないと思った。神隠しが頻発する山だったし、もしかしたら気まぐれな神様が小春を連れ去ってくれるかもしれない。そうしたら、両親は心配してくれるだろうか。いなくなって喜ぶかな。そんな、子どもじみた好奇心だった。いまなら、行動せずともわかることだけれど。
そうして出掛けた播酉山の麓で、ある人を見かけた。
馬に跨がって、雨に濡れながらろくに動こうともしないその人は、とても寂しそうで悲しげに見えたのだ。
幸いにも雨。顔を見せるのははしたないことだと言われる年頃だったが、霧も出ていたし、近づいてもあまり見えないだろうと思って、牛車を飛び出した。
その人は、泣いているように見えた。でも話してみるとなにということはないと言いたげな口ぶりで話してくれる。それどころか。
「あなたこそ、お一人でどうされました?」
ふらふらと出てきた彼女のことを気遣ってくれたのだ。
「わたくしはその……少し、外へ出てみたくなって。お忍びの外出中なのです」
「忍んでおりませんね」
言われて、やはり顔を隠さないのははしたなかったかと思ったが、恥じらったほうが余計に恥ずかしくなる。だから得意げに応じたのだ。
「父上に見つかったら叱られてしまうので、忍ばせておいてください。秘密ですよ」
きっと、父は叱らない。だけど、世の父ならば叱るだろう。そんな気がして嘯《うそぶ》いた。
「わかりました。私と、あなたとの秘密にしましょう」
ぽたぽたと、雨の雫が垂れ落ちて、その人の顔を見上げた。
霧で顔はよく見えないが、丸みを帯びる優しい声音がとても心地いい。ずっと話をしていたい。だけど、この人はこんなところで小春と話をしていられるような人ではないはずなのだ。
着物の仕立ては良さそうで、きっと身分の高い方なのだろうと、幼い小春にも推察できた。だから、不思議だったのだ。
「あなた様はなぜ、こんな雨の中を車も使わず歩いておられるのですか?」
貴族が、牛車も使わず雨の日に出歩くなんて珍しいこと。それなのに馬で一人、供の姿も見えないなんて訝しむ気持ちが沸き起こる。
もしかしたらこの人が播酉山の神様なのかしら、なんて考えた。
男性は言った。
「一人になりたかっただけですよ。雨に紛れれば何者にも、なにも見られずに済みましょう。だから、雨は良いのです」
雨が良い……なんて初めて耳にした言葉だ。
思わず声を上げて、その人の顔をじっと見つめた。
「雨は、よろしいの?」
確認するように聞き返すと、その人は頷く。
「いまの私には、良いと思えます」
そのときの男性の声が、かすかに震えている気がして胸が苦しくなった。
なにか、この人のためにしてあげられることはないだろうか。
実は雨を疎ましいと思っていて、それでも我慢をしてくれているのかもしれない。あるいは、なにかつらいことがあったのかもしれない。
どちらにしても、この人はやはり幾許かの悲しみに苛まれている。それを拭う術があるといいのだけれど。
そうして、ふと思い出した。
祖父が異国から取り寄せてくれた手ぬぐいがあったはずだ。いつも持ち歩いているし、今日だって。
珍しいもので、とても高価なものだと薄羽が話してくれたが、これならば役に立てるかもしれない。
「これをお使いになって」
着物を探りながら言うと、彼は「なんですか?」と不思議そうに首を傾ける。
「拭うものがないと困るでしょう? 使ってください」
「しかし……」
「いいの。使ってください」
ぐいぐいと押しつけるようにすると、彼は困った様子は見せたけれどどうにか受け取ってくれた。
祖父からもらった手ぬぐいだけれど、小春がずっと不吉だと言われてきた根源を肯定してくれた人に渡したのならば、許してくれるはずだ。
お役に立てるのなら嬉しい。
そう思って、濡れる足元を気にせずに牛車へと戻った。薄羽にはこっぴどく叱られたけれど、小春はとても満足で、幸せだったのだ。
だが、嬉しいことのあとには不幸がやってくる。
大好きだった祖父の逝去。仕方なしに執り行われた裳着。継花が原因不明の病に冒されて臥せること数日。
それもこれも、全部小春のせい……。
そのころにはもう、なにもかもを受け入れるようになっていた。自分さえいなければいいのだと思うようになっていて、母屋からもっとも遠い離れで暮らし始めていた。
十七歳の冬。就寝していた小春の離れから火の手が上がったのだ。
薄羽が異変に気づき、取るものもとりあえず駆け出して難を逃れたものの、家人総出の消火作業に追われ、小春は暮らす場所を失った。
そんな小春に、皆が向ける目はとても冷たくて居心地がさらに悪くなってしまう。
父のため息が聞こえる。母の金切り声が聞こえる。継花の嘲笑うような顔が忘れられない。
この邸にいては皆を不幸に巻き込んでしまう。そう考えて、小春は父に初めて頼み事をした。畳に額《ぬか》ずき、これまでに祖父からもらった品々をすべて差し出して、懇願したのだ。
「お父様。おじい様の使われていた別邸を譲ってください」と。
播酉山からほど近い、播酉川の傍。神隠しの噂があって、祖父が亡くなってからはだれも使わなくなっていた別邸がある。そこを、ありったけの私財をなげうって譲ってもらった。
父も、あの別邸をどうしたものかと考えあぐねていたようで、いい厄介払いになると考えたのだろう。
住まいに火を付けてしまうような娘が一緒に暮らしていたのでは、邸の皆が落ち着かないこともあった。ゆえに、父は渋りながらも了承をしてくれたのだ。
そうして、播酉の別邸に移って三年と少し。
小春の元に男性がやってくることは滅多になく、恋などしたこともない。文のやり取りも憧れはしたけれど、そんなことを望むなど身に余ること。だけど。
手元の扇をそろりと撫でた。
「露草なんて、目に付く花ではないわ……」
可憐に咲く花ではあるけれど、この国には桜も梅も椿もある。ほかにも美しく目を引く花々がいくらでも存在しているのだ。
それなのに、あの人は露草の扇を持ち歩いていた。
「偶然……かしら」
「あの日、姫様が話しかけられた御仁を、わたしが見ておりましたらよかったのですけれどね」
薄羽は、あのときの男性の顔を一度も見ていない。だから、先刻の客人がその人かどうかを判別できない。
「いま思うと軽率な行動だったと思うのだけれど……おかげで雨の日がすごく嫌い……ではなくなったのよ。お礼が言いたいの」
「ですが、あの殿方がその方とも限りませんし、覚えているとも……ねぇ、姫様」
「そうよね。何年も、またお目にかかれないかと思っていたなんて、気持ち悪いわよね」
「そうは思いませんけれどね。でもあのお方、本当にいい男だったんですよ」
「薄羽、はしたないわ」
「御簾越しじゃなくて、ちゃんとご覧になってもよろしかったのではとさえ思いますもの」
そんなに素敵な人だったのだろうか。
「……だったら、お相手なんてたくさんいらっしゃるわね」
薄羽の話によると、朱の君という大変美しい男性がいるという。その人は世に多くいる恋多き方というわけではないらしく、女性の元へあまり通わないのだと、嬉しそうに話していた。そんな朱の君を振り向かせたいと思う女性は多く、彼は引く手数多だとも。
先ほどの客人が、その朱の君に勝るとも劣らないというのであれば小春を省みることはないだろう。
扇など、わざわざ取りに来るようなものでもない。
「……そういえば……慈野……とおっしゃっていたかしら」
「ええ、そうですわね。時柾様でしたかしら」
「慈野……と言ったら……。ねぇ、薄羽」
「……右府様がたしか、そのようなお名前だったかと……」
宮中のことは詳しくないが、父がよく口にしていた名前だった気がする。
藤棚の右大臣、慈野に勝ったとか負けたとか。
「あの方が、雨の日のお方であればいいと思うのに、そうであってほしくないと思うのはとても……」
露草を描いた扇をそっと抱きしめた。
どれほど疎まれていたとしても、左大臣である父の子として生まれた以上、右大臣に近しい者とは懇意にできない。
いっときの出会いであれと願った。
あの日の方であれと願った。
そのどちらも望むなんて――。
「とても、身勝手なことね」
三.
「時柾様、おはようございます」
日が昇ってほどなくしてから、春秋が邸にやってきた。
扇をじっと見つめたまま動けずにいた時柾は、硬直していることに飽きて扇を傍に置き、脇息に身を預ける。
「こんな時間にどうした?」
「宿直《とのい》明けなんですよ。時柾様の顔を見るついでに、ちょっと休ませてもらおうかなぁ、なんてね」
ずかずかと上がり込んで腰を落ち着けた春秋は、時柾の周りに置かれた硯を眺めた。
「なにか書き物ですか?」
「帝から、扇に画を描けと頼まれていたからな。仕上げてから出仕でもしようかと思って……昨夜からな」
「どれだけ悩むんですか」
「納條様からもらったものだと言われて、でたらめに筆を走らせられるか。なつの預かり物なら適当に済ませるが」
「ひどい言われようですね、僕」
いろいろと考えていた。
茜一條に贈る画はなにがいいだろうか、と。得手としている花の絵にするかとも思ったのだが、帝が使うとなるともう少し華美なほうがいいだろう。ではなにか名案はないかと考えると筆が迷ってしまう。だからといってどこかの景色を写し取ろうとも思えなかった。
この数日、帝の具合が思わしくないと聞く。気力も落ちていて、祈祷の甲斐もないのだとか。そんな状態の帝の元へ迂闊な画を入れて扇を返しに行くわけにもいかず、どうしたものかと考えあぐねていたのだ。
もしも、時柾が右大臣の実子であったなら、帝との交流を喜べた。重用されれば栄誉だと誇れただろう。
けれど、時柾は帝と距離を詰めてはいけない。それは、父にも帝にも不利益となるだろう。だというのに、帝は時柾を頻繁に呼び寄せる。歳が近いから気安いのだろうと思うが、真実を帝が知ったとき、あの人はどうするのだろうか。
帝に「時柾」と名を呼ばれるたびに、隠し事が露呈するのではないかと肝を冷やす。異腹《ことはら》だが兄と呼べる人の声で呼ばれる名は、特別に思える。
それでも、他人でいなければならない。友人になることも、話し相手になることも、ろくに叶えられない。
「……時柾様。あんまり考え込んじゃいけませんよ」
「なにか、いい情景が浮かぶといいんだが……」
「暇なんでしたら、僕の話をちょっと聞いてくださいよ」
居住まいを正して、春秋が珍しく真面目な顔をした。
「先日お話しくださった、播酉川の近くにある邸周りについて調べてみました」
「どうだった?」
「あそこは、志津継春《しづのつぐはる》様がお住まいになっていた場所のようです」
「やはり志津の……」
となれば、あの姫君も志津一門だろう。近づくことはためらわれる。……ためらわれるのだが、会いに行かないという選択肢を捨てることも、時柾にはできそうにない。
この数日は春秋からの知らせを待っていたので邸へ行くことを控えていたが、彼女の声を聞きたくて仕方がない。
「はい。左大臣の大君《おおいぎみ》が暮らしていらっしゃるそうです」
「……そう……か」
遠縁ならば、と一瞬でも考えた。しかし、まさか大君だとは想定外だ。やはりあの姫君に近づくのはまずいだろうか。
「ままならないものだな。大君に平然とした顔で会いに行くわけにもいかないだろう」
「難しいところですね」
「だが、なぜ大君はそのような場所で暮らしておられるのだろうか。椿の邸で暮らしていらっしゃるのではないのか?」
古い邸だった。手の届く範囲で手入れはしていたようだが、とても行き届いているとは言えない。そんな場所に、左大臣の姫君が暮らしていることが不思議でならないのだ。
「小耳に挟んだ話ですと、大君は不幸を呼ぶと言われて追い出されたみたいなんですよ」
「追い出された? 大君がか?」
「はい。なんでも椿の邸に居たころは離れに暮らしていたらしいんですけど、その離れに火が付いたとかで」
「まさかその火事も、大君のせいだと言うのか?」
「そう信じてるみたいですよ。焼けたのは離れだけで邸は無事だったようですが……」
含みのある物言いに目を向けると、春秋はなんとも言えない笑みを浮かべた。
「隠し事か、なつ?」
「ええ、まあ。でも気にしないでください」
おそらく、いい話ではないだろう。噂の域を出ず、だれかの耳に触れさせることを春秋がためらったのだ。深く言い及ぼすべきではないし、これは志津氏の問題。詮索しないほうがいい。
「なあ、なつ。私はあの姫君にお会いしていいものだろうか」
「時柾様はいろいろと気を遣いすぎだと思いますよ。逸時様のお立場を考えれば当然のことでしょうけど、恋が叶うかどうかなんてだれにもわかりません。わからないものを憂慮して捨ててしまうのは、僕は違うと思うんですよ」
そう歳の違わない乳兄弟は、軽い口ぶりで時柾の背中をいつもしっかりと押してくれる。
同じ右大臣一門の相手と恋をしたところでうまくいく保証もなければ、対立している一門と恋をしてうまくいくこともある。悩むのは、そのときでいい。
「露草の姫君にお会いしてくる。扇を返していただかなければならないしな」
「帝の扇はいいんですか?」
「半日悩んで描けないのだから、いま筆を取ってもいいものは描けないだろう」
「ごもっともですね。出仕はされますか? うまく言ってお休みします?」
「……ああ、任せる」
春秋が笑った。口先でどうこうするのは春秋のほうが圧倒的にうまいのだから、いい口実を考えてくれるだろう。
「少し出てくる」
「時柾様。あの大君が不幸を呼ぶかはわからないんですが、雨を呼ぶのは事実みたいなんですよ」
「そんなもの、空の気まぐれだ」
「そうなんですけど、それで片付けられないほどのものなんだそうです。もしかしたら悪霊に祟られて――」
「悪霊に祟られているのなら、ほかの男があの方に興味を持つこともないだろう。敵が減るのはいいことだ」
春秋が笑うのを尻目に、身支度を調える。
いきなり会いに行って引き合わせてもらえる保障はないが、あの薄羽という女房ならば快く迎え入れてくれそうだ。
「行ってくる。引き続きあの邸については調べてくれ」
「承知しました。無粋なことしちゃだめですよ。でも、いい感じになったらちょっと強引になってくださいね。姫君はいつだって切ない思いを募らせ――」
「ちょっとお前は黙っていろ」
春秋の小言を黙らせて、播酉山へと向かう。
いつもは塞ぎがちだったはずの心が浮かれていることに気づいてしまったほど、このときを待ちわびていた。
軋む床板。脆く崩れそうな高欄《こうらん》。手は掛けられているのだろうが、古くて危うさを感じさせる階《きざはし》。やはり、どれも左大臣の大君が暮らす邸とはとてもほど遠い、寂れた場所だ。
播酉山へ向けて馬を走らせていた時柾は、途中で雨に降られて立ち往生してしまった。霧が立ちこめてきたせいもあるが、邸の場所がうまく思い出せなかったのだ。まるで、人の目から隠れるように建てられたそこは、今日も薄羽が「あらぁ、先日の」なんて声を掛けてもらったことでたどり着いたと言っていい。
不思議な邸だ。だが、とても落ち着く。
「姫様、お客様ですわよ」
嬉しそうな薄羽の声に続いて、御簾の向こうでカタリと音がした。
薄羽は時柾に満面の笑みを向け、申し訳程度に着物の袖で顔を隠したあと、小走りで立ち去っていく。もう少し取り次いでもらえるとありがたかったが、そこまで手を掛けるものでもないかと、御簾の前に腰を下ろした。
「時柾です。先日、雨を凌がせていただいたのですが、覚えていらっしゃるでしょうか」
「もちろんです。またおいでくださりありがとうございます」
彼女の声がわずかに震えているだろうか。
「扇を取りにまいりました」
「はい。こちらに」
御簾の隙間からそっと差し出された扇は、はたして彼女に使ってもらえたのだろうか。持ち帰れば、彼女の残り香でも感じられるだろうかと考えてかぶりを振った。さすがに少々いきすぎた妄想だ。
「お役に立ちましたか?」
「……ええ」
言葉少なな姫君の感情は読み取れそうにない。
こんなとき、世の男はどんな話をしているのだろうか。切り出す話題も特になく、女人の心の機微にも疎い時柾には、恋愛は難しい。
「申し訳ありません、姫。私は気の利いた話ができない男でして」
「それはわたくしもです。今日もまた雨が降ってしまったと思うばかりで」
優しげな声に陰が落ちる。
「私は雨が好きですよ。草木が濡れる匂いも、立ちこめる霧もいとおしいと思う」
「薄羽は霧が出ると視界が悪くなるから困るといつも言っていますよ」
「それはたしかにそうなのですが……」
歩くにも、馬を走らせるにも不便だ。それは間違いがないのだが、あの霧がなければきっと時柾は女童と出会えなかった。立ち止まったからこそ、彼女が気づいてくれた気がする。
「……昔、播酉山で女童に出会いました。霧の立ちこめる雨の日で、道を見失って立ち止まっていた私に声を掛けてくれたのです」
「……そう……ですか……」
「こんなところでなにをしているのかと尋ねる彼女は、好奇心に駆られるように弾んだ声をしていて」
「そ、そうですか……」
「雨はいいと言うと、それは嬉しそうな様子で、私に手ぬぐいを押しつけて消えてしまったのです」
「そ、そ……れは……ええ」
御簾の向こうで明らかに彼女が狼狽している。やはり彼女があの日の女童で間違いないだろう。
「この国ではあまり見ない生地の手ぬぐいで、露草の刺繍がされていました」
「はい……ええ、そう、ですね」
「姫。ずいぶんとうろたえておられるようですが」
笑いを含ませると、ガタガタと御簾の向こうで落ち着かない音がする。
「教えてください。あなたは、このできごとに心当たりがありませんか?」
「……ご、ございません……」
「あの日とまったく同じやり取りが叶ったのは偶然なのでしょうか」
「偶然です」
「では、私はまたこの手ぬぐいを返せる方の行方を追うことにいたしましょう」
「あ……待って」
引き止めようとする手が、御簾の隙間から覗かされた。
その手に、そっと時柾は自分の手を重ねる。
「やはり、大切な手ぬぐいでしたか」
「ち、違うのです。手ぬぐいは差し上げたものなのでよろしいのです。ただ……その……」
「なんでしょうか」
彼女の手を軽く握ると、途端に強張ったのがわかった。きっと、こんなふうに男に近づかれることも、触れられることもなかったのだろう。
「……あ、あなた様に差し上げたものなので、あなた様がお使いになるぶんにはかまわないのですが、ほかの方へ渡されるというのは心中が複雑で……あの、ですから……」
「では、受け取ってくださいますか?」
「…………、受け取ったら、あなた様はもうここへはいらっしゃらないでしょう?」
息を飲んだ。まさかそんなことを言ってもらえるとは思っていなかった。
手ぬぐいを返してしまえば、たしかにこの邸へ来る口実は減るだろう。だが、そんなものはいくらでも作れるのだ。道に迷ったとか、雨に降られたとか、なんとでも言い訳ができる。時柾はそうやってむりやり通うつもりでいたのだが、これではまるで――。
「姫、失礼を」
「え……?」
御簾を上げる。その向こう側に、明らかに驚いた顔をする女性がこちらを見つめていた。
黒く流れる髪。逸らされることのない、まっすぐな瞳。扇で口元は隠れているが、時柾がその手をそっと掴んでどけさせると、桜色の唇がかすかに震えていた。
楚々として、けれどどこか凜とした空気を纏う人だ。
美しい人。それが、時柾が彼女へ抱いた印象。顔の造形の話ではなく、持ち合わせるすべてが合わさって美しいと感じる。
もちろん、顔立ちもきれいと言えるのだが、美醜について時柾はさほどの興味がなかった。あの人かどうか。それだけが重要なのだ。
「うん。あの日の方……ですね」
「おわかりにならないでしょう」
「そうですね。あのころ見たのは、ほんの小さな子でしたから」
「ならば、どうぞお下がりになって……」
「それでも、私を見上げてくる目は変わっていないように思いますよ。不思議なものを見るような、好奇心に駆られるような……」
手のひらをなぞって、彼女の細い指に自分のそれを絡めた。少し力を込めると折れてしまいそうなほど頼りない。
「そ、それはあなた様の見方ひとつです……」
「では違うとおっしゃるのですか?」
「人……人違いでございます」
おそらく、時柾の予測に違いはない。だが、彼女が肯定しなければ定かでないこともまた事実。素直に頷いてくれる人ならよかったが、彼女は絶対に首を縦には振らないだろう。
「ならば、違ってかまいません」
「え……? よろしいの……?」
「はい。私はあの日の女童に手ぬぐいを返したいだけなのです」
嘘を少し混ぜた。返したいだけ、などで終える心ではない。だが、いまはそれでいい。
「その子がどれほど美しく成長していたとしても、さほど興味はありません。むしろ、いま目の前にいるあなたを私は愛しいと思う」
「えっ……あ、違っ……い、いいえ、あのっ」
「そううろたえずともよろしいではありませんか。気のない方に二度もお会いしようとは思いません」
頬を紅潮させ、目を泳がせる彼女は、やはりこうして恋を囁かれることに慣れていない。そんな姿がまた愛らしい。
「わ、わたくしは不幸を呼ぶと言われておりますし……」
「雨の話ですか? 申し上げたはず。私は雨を待ちわびているのです。あなたがそのような力をお持ちなら、ぜひあやかりたいと思うほどに」
「ひどい雷雨の夜に生まれましたし」
「そんな者、あなた以外にもおりましょう」
「祖父はわたくしが呼び寄せた不幸のせいで身罷ったと……」
「この国の死者すべての責任をあなた一人が背負うおつもりですか? 人は必ず老い、残念ながらその生を全うする日が来るのです」
「離れが火事になりました……!」
「そういったことも、この国ではよくあることです」
ぐっと体重を掛けて彼女の身体を押し倒すと、泣きそうな顔をして狼狽している。さすがにやり過ぎただろうか。まだこの先へ進むのは早いかもしれない。
そんなことを考えながら、それでも叫びもしない彼女が可愛くてならない。少し声を上げれば薄羽が飛んでくるだろうに、そんなことさえ失念しているのだ。
「あ、あなた様は右府様のご子息と……」
「よくご存じで。父は右大臣ですね」
「わ、わたくしはこれでも左大臣の娘でして……!」
「それがなにか?」
「…………、お困りになるでしょう?」
「困らないと言えば嘘になりますが、どうにでもなるものです」
なにもかもを捨てて、都を離れてもかまわないのだ。ほとぼりが冷めれば戻ることもできるだろうし、一気に手詰まりになることはおそらくない。
父には苦言を呈されるだろうし、春秋はさぞ面白がってくれることだろう。帝も眉をひそめて小言のひとつやふたつ言うかもしれない。でも、その程度だ。
彼女には悪いが、左大臣は彼女を大切には思っていないようでもある。離れが焼けたくらいで娘を追い出してしまう親のなにを見れば、大切にしているなどと言えるだろうか。
「姫。ほかに私を退ける理由を思いつきますか?」
「……思いつきません……」
「ならば、おとなしく私のものになってしまいなさい」
「わたくしは不幸を呼ぶと……」
往生際悪くそう繰り返されて、たまらず笑ってしまった。
「生きていれば、どんな厄災に見舞われるかなどわからない。たとえあなたの不幸に命を奪われるのだとしても本望。なにも恐れなくていい」
「……あなた様は……お強いのね……」
これは、執念だ。いま彼女を手放したら二度と会えなくなる。そう思うゆえに手を離せない。
「姫を想うあまりに」
そっと唇を重ねる。
彼女は緊張した様子で受け入れ、ややして離れるとやはり狼狽えていた。
幾度目かの口づけを交わす。
彼女はまだ震えているようだったが、少しずつ緊張はほぐれてきたようだ。
「姫。あなたの名前を聞かせてください」
「ですが……名前は親しい方にだけと……」
「あなたは私と親しくしてくださる気がないとおっしゃいますか」
彼女の手を取って、手のひらに口づけた。
「此度限りのご縁ではと……思ってしまうのですが」
「まさか、決して」
否定をしたところで、猜疑心を隠さない目で見られるのは当然。時柾の言葉はあまり真剣に聞こえないとよく言われる。彼女がじっと時柾の本心を探るように見つめてくるのも仕方ないかと苦笑いを浮かべた。
「ずっとお会いしたいと願っていた方に、偽りを申し上げる理由がない」
「手ぬぐいを返したいだけだとおっしゃいました」
「ああ……言いましたね。たしかに」
「ですから……」
彼女が困ったように目を泳がせる。
「此度限りにするつもりはありません」
「…………、わ、わたくしを弄んでもいいことなどなにも……」
本当に「どうしたらいいですか」と言いたげな顔で見上げてくるから、さすがに笑いを堪えきれなかった。
顔を伏せて笑うと、彼女はますます困惑して時柾の肩をぽんと叩く。
「姫。私と夫婦になりましょう」
「夫婦……?」
「ええ。そのつもりでいますが……お嫌ですか」
「……わたくしだけでは判断いたしかねます。薄羽に聞いてみないと……」
慌てた様子で時柾の腕から抜け出そうとされ、ついその身体を強く抱きしめた。
「では、声を上げて呼べばよろしい」
「よろしいの……?」
「ええ……」
彼女の着物に手を掛け、胸元を大きく開く。
「きゃ……っ」
「呼べるのであれば、いくらでも」
袴を解いて引き下ろし、肌を露わにする。
風流な襲の色目を見かけると美しいと思う。けれど、彼女は決して飛び抜けて粋な袷《あわせ》を選んでいるわけではないのに、これまで見たどんな色よりも目を引かれてしまう。
滑らかな肌の白さに顔を寄せた。
「っ……」
首筋に唇を押し当てて舐め上げると、彼女の身体が強張る。
白粉の匂いがしない。かわりに焚きしめられた香の匂いがする。柔らかな草花を思い起こさせるが、それらとはまるで違う。かといって麝香《じゃこう》のような誘惑的な匂いでもない。
なんだろう……と思いながらも、そんな逡巡がどうでも良くなった。
柔肌を撫で上げると、彼女が時柾の身体を押し返してくる。見下ろすと、震えてはいるが拒まれてはいないようだ。
「女房をお呼びにならなくてよろしいのですか?」
「……こんな姿で呼べるはずなどないではないですか……っ」
「まったく、そのとおりです」
時柾を不逞の輩として追い出すこともできるのに、彼女はそうしない。これを喜びと言わずしてなんとするのか。
「これからのことはまた明日考えるとしましょう。姫、いまは――」
「小春……です」
細く震える声が告げた音は、この国では少し珍しい響きをしていた。
「ええ。では小春。いまはなにも考えず、私だけを見ていてください」
唇を重ねる。啄んで、口を開かせて舌を差し込んだ。
「っ……、んんっ……」
緊張に硬くなる身体をそっと撫でると、小春の身体はますます緊張していく。そんな様が可愛い。
頤《おとがい》に手を掛け、さらに口を開かせた。深く舌を絡ませると、彼女の頼りない腕が時柾の腕にそっとあてがわれる。
「つらいなら、爪を立ててもかまいませんよ」
「い、いえ……そんな……」
自らの袍《ほう》を解いた。前を開いていくと、彼女が慌てたように顔を背ける。まだ少し日が高いか。だが、だからと言ってまたあらためて……などと言えるはずもない。
「小春。こちらを見てください」
「で、ですが……お召し物が……」
頬に指を添え、逸らされた顔を戻した。目をじっと覗き込むとしばらくは見つめ返してくれていたが、だんだん視線がさまよいはじめる。
「いずれ見慣れますよ」
口づけを交わす。舌を絡ませて、身体を撫でる。そんな繰り返しだ。
触れられることはもちろん、男に近づかれることさえなかったのだろう小春に性急なことはできないと律してはいるが、十年も待ち望んだ相手。のんびりとじゃれている余裕はなかった。
胸の膨らみに手をあてがう。
「っ……あ、あの……と、……と、とき……、……」
「時柾です」
「……時柾様……」
「なんでしょうか」
形を潰すように、柔肉を揉みしだくと彼女の手が不安そうに時柾の手を掴んだ。
「このようなことは……」
「お嫌ですか?」
彼女の両手を取り、ひとまとめにして頭上で押さえつける。小さな抵抗の術を奪われて、いままで以上に狼狽していたがあえて見ない振りをした。
胸の先端を指の腹で擦る。身体は刺激に敏感で、すぐに肉粒が硬く尖った。
「時柾様……、っあ……」
「しばらく身を預けてください」
胸先に唇を寄せる。粒を舌で転がすと、彼女の身体がぴくりと跳ね上がった。
空いた手でもう片方の胸を揉みしだきながら、白い肌へと口づけていく。少し強く吸うだけで赤く跡が残ってしまう柔肌は、それだけで容易く劣情を催す。
「んっ……、ふ……」
吐息に甘い声が混ざって目眩がした。
手荒に扱ってはいけない。けれどいつまでも待ってもやれない。自分はこんなに幼かっただろうかと自嘲したくなるくらい、己を律することが難しい。
「小春」
手のひらに吸い付くような肌を撫でながら、そろりと下肢へ手を伸ばす。脚の間に滑り込ませて左右に割ると、彼女が驚いたように身を捩った。
「時柾様……、あっ……や、そこは……」
秘裂を指で割り開く。ぬるりと滑る感触をたしかめて、彼女を抱き寄せた。
「じきに慣れます」
「本当に……?」
不安そうな顔で聞かれて頷く。おそらく、と口をつきそうになった言葉は飲み込んで花芯を捏ねた。
「んっ……、ん、あっ……」
ゆっくりとなぞるように刺激すると、彼女の身体が艶めかしくくねる。そんな様を見つめていると、吸い寄せられるように肌へ口づけてしまう。
そのたびに彼女が驚いたように、恥ずかしそうに時柾に触れてくれる。そんなことでさえ嬉しい。
胸から辿って舌を這わせていく。脇腹から腹へ、そのまま下腹部に唇を寄せ、脚を大きく開かせた。
身体を滑り込ませ、秘所へと顔を寄せる。
「時柾様……っ」
彼女はやはり抵抗を見せたが、指を絡ませてその手を取った。そっと握ると、応えるように手を握り返される。
「そのままでいてください」
媚肉を押し広げ、秘部に口づけた。舌先で秘裂をなぞり、花芯を吸う。
「っ……あ、あっ……時柾、様……」
膝裏に手を入れて脚を持ち上げる。そうして硬く膨らみはじめる肉芽を唇で扱くと、彼女の身体はびくびくと反応を示した。
「こちらのほうがお好きそうだ」
「ち、違います……、そうではなくて……」
ちゅうっと音を立てて芯を吸う。舐め上げて、秘孔に舌を差し入れると蜜が溢れた。
「ふ……っ、あ、んっ……」
彼女の反応を窺いながら、襞を伸ばすように抜き差しを繰り返す。
「時柾、様……んっ、く……ふ……」
内側を擦りながら開き、奥へと進めていくと彼女の身体がびくりと跳ね上がった。
「っあ……んっああ……っ、あ、は……ぁ……」
とろとろと蜜が溢れてくる。なにか感じてくれるものがあればいいと思っていたが、これならば大丈夫だろうか。
反応の強い場所を執拗なほど刺激すると、彼女の身体が仰け反った。
「あ、あっ……んっああ……っ」
滴るほどの蜜が時柾の指を伝い落ちてくる。そんな様を美しいと思った。この人が乱れる姿をもっと見たい、とも。
一度身体を離し、彼女を抱きしめるよう覆い被さった。
「小春。力を抜いていてください」
頷いて見せてはくれたが、おそらく難しい。それでも彼女を奪い尽くしたいと願う欲求には抗えなかった。
そそり立つ欲望を、彼女の蜜口へ押し当てる。その瞬間、小春が緊張したのがわかった。
手を握り、口づけを交わす。そして、ゆっくりと腰を落として彼女の中へと押し進んだ。
「っ……く……ふ、あ……あっ」
きつく閉ざされた秘孔を押し開く。無意識なのか、逃げ出そうとする彼女の腰を掴んで、ゆっくりと進めた。
「とき、まさ……さま……んっ……あ……」
つらい思いをさせていると頭ではわかっていても、どうにかしてやれる術を持ち合わせてはいない。
そっと頬を撫でて、口付けて、抱きしめるくらいしかできなかった。
「小春……」
耐えてほしいと望むのは、時柾の身勝手だ。が、ここで引いてしまうと彼女をいっそう傷つけることにならないだろうか。
いつもなら気にもならないことが、彼女を前にするとためらってしまう。大切にしたいと願うほど、怖くなる。
「時柾様……、大丈夫です」
笑おうとしてくれる小春の、その心を信じるしかない。
さらに隘路を開き、ゆっくりと最奥まで進めていく。小春の額には玉の汗が浮かんでいて、それを指先で拭った。
「こんなにも、だれかをいとおしいと思ったのは初めてです」
小春を抱きしめて呟く。
「時柾様……わたくし……今日ほど嬉しいと思ったことはありません」
「それなら良かった」
本当に、心からそう思った。初めて身を捧げた男が時柾だったことを悔いられたらと想像するだけで寒気がする。
「今日はゆっくりと、あなたの身体に私を覚えていただくとしましょう」
「……は、はい……」
「深い縁で結ばれていると知ってください」
彼女に口付けた。
悪縁も、良縁も、すべては宿世から――。
(――つづきは本編で!)