作品情報

危険な香りの敏腕部長と恋するセフレになりました

「この先も知りたい? 僕は本気の恋をしないけど」

あらすじ

「この先も知りたい? 僕は本気の恋をしないけど」

 加賀見商事会長の孫娘、幸は、大手ジュエリーメーカーの敏腕営業部長赤山に恋をする。
 勢いと祖父の権力に物を言わせ、赤山の部下として勤め先に入り込んだ幸。だが軽薄男を自称する赤山との恋は、世間知らずな幸にはどうしようもなく蠱惑的で、そして遠かった。
 彼を本気にさせるなんて、できないのかもしれないけれど……お嬢様の初めてのお仕事と、初めての危険な恋が始まった。

作品情報

作:桜旗とうか
絵:まりきち

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 プロローグ

「あっ、んぁっ……、ああ……っ」
 肌がぶつかり合う乾いた音が響く。敏感に感覚を尖らされた膣壁は、決して彼を離したくないと無意識に絡みついた。
「やっ……だめ……幸臣《ゆきおみ》……さん……っ」
「ずいぶんと興奮してるね……、そのままされるほうが好き?」
「そんな……あっ、わかんな……、あ、やあっ……あ、んっ……」
 子宮口がぐりぐりと擦られ、頭が真っ白になる。また、絶頂へと誘われてしまう。
「やっ……幸臣さん……そんなにしたら……、あっ」
「気持ちよくなっていいんだよ?」
 こんなときでさえ、彼は余裕の素振りで応じるのだ。
「あぁっ……や、まだ……んっふ……」
 身体をうつ伏せに反《かえ》され、腰をしっかりと抱え込まれた。背中にねっとりと舌が這わされる。
 ちゅっと肌を吸われた。
「幸臣さん……もっと、いっぱいつけてください……」
 彼の痕跡が少しでも長く残るように。
 少しでも多く残るように。そう願った。
「サチ、腰をもっと上げて」
 甘く囁かれる優しい声に泣きたくなる。この声を聞くのも今日で最後だ。もう、二度とこんな時間は過ごせない。
「ふ……っ、ぅ……」
「サチ……」
 シーツを掴んで顔を伏せ、涙をこらえる。せめて彼に泣き顔だけは見られたくなかった。だけど、きっと彼は気づいている。
 優しく頭を撫でてくれる手が、それを無言に語っていた。
「幸臣さん……好き……」
「うん」
 繰り返し、呟いた言葉だ。それでも彼は決して応えてくれなかった。
 ただ一言の「好き」がほしかっただけ。だけど、それを望むことははじめからできなかった。
 わかっていたのに――わかっているのに望まずにはいられない。
「あっ……ああっ、んっ……ふ、あぁっ……」
 膣壁を抉るように突かれ、身悶えた。
「は……あぁっ……や、っあ……幸臣さん……だめ……っあ、んっ」
「だめじゃないでしょ」
 腕を掴まれて後ろに引かれる。そのまま何度も深い場所を貫かれた。
「あ、……あぁっ……、んっく……あ、あっ」
 ぐちゅぐちゅと粘液の混ざり合う音が大きくなっていく。激しく責め立てられ、頭が芯から蕩けて意識が朦朧としてしまう。
「っ……あ、……ああぁっ……、は、あ、んっ!」
 幾度も絶頂した身体は、容易く快感を極めて上り詰めていった。
 下腹部が絶え間なく攣縮しているのがわかる。内側にある熱塊を締めつけて、その存在を刻み込もうとしているような気さえした。
 ぬち、ぬちと楔が抽送される。
「サチ、もう少し……」
「んっ、あ、あ……あぁっ、ふ、ぅ……んくっ……」
 敏感な襞を繰り返し刺激され、気が飛んでしまいそうだ。
 やがて彼の動きが激しさを増すと、ずるりと引き抜かれた。ややして、背中に熱いものが吐き出される。
「……こんなふうに汚すのも悪くないね……」
 うなじに甘く噛みつかれた。ちゅっと吸われたあと、ベッドに沈み込む。
「サチ……」
 彼はこんなにも優しい。
 こんなにも、大切そうにしてくれる。
 それでも、一度もその気持ちを聞かせてはもらえなかった。
「もう少ししたら送っていくよ」
「……いいえ……」
 一緒に過ごした日はいつも、家まできちんと送ってくれる。
 特別な時間も、素敵な瞬間も与えてもらった。
 世間知らずの私を、彼は笑って許し、見守ってくれていた。
「でも、一人で帰すわけには……」
「大丈夫です。タクシーを使いますから」
「……そうだね……今日は一人がいいかもね」
 彼がベッドを離れた。少しして、お湯で温めたタオルを持ってきてくれ、私の身体を丹念に拭いてくれる。
「幸臣さん……そこまでしなくても……」
「これくらいはさせて」
 最後の瞬間まで、彼は私が憧れた優しい男性だった。
 床に散らばった服を取り上げ「ごめんね」と笑う彼の、きれいな笑顔に見蕩れながら首を横に振る。
 互いに脱いだ服に袖を通し、来たときと同じように服を整えてから、力の入らない足でのろのろと鞄を拾いに行った。
「サチ。僕は、君の幸せを願ってるよ」
「……はい……」
 だったら、このまま奪ってほしかった。
 どこか遠くへ逃げようと言ってほしかった。
 あなたとなら、私はどこでだって幸せなのに……。
「幸臣さん……ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったよ」
 こめかみにひとつ、キスをされる。
 彼はこうして、幾人もの女性と穏やかな別れを繰り返してきたのだろう。
「それじゃあ、ここで……」
「……サチ」
 部屋の扉を開いて振り返った。
「……僕は君が好きだったよ」
「っ……」
 内側から、彼が扉を閉めた。オートロックがかかって、もうその扉を外側から開けることはできない。
「どうして……いま言うの……?」
 もっと早く聞きたかった。
 もっと早く知りたかった。
 もっと、たくさん……。
 耐えきれずにその場で崩れ落ちる。
「幸臣さん……、幸臣さん……っ」
 はじめての恋だった。実るとは思っていなかった。自分の立場も、彼の意思も理解をしていた。諦めなければならない恋だと知っている。
 ぽたぽたと涙が床に零れた。何度もしゃくり上げながら、嗚咽混じりに彼の名前を呼ぶ。
 彼が扉を開けてくれないことくらいわかっている。
 名残惜しくて、離れたくなくて、ただ胸が苦しい。
 恋の終わりはきれいじゃない。幸せに別々の道を歩ける人がどれだけいるだろう。
 小さな憧れだった。
 外の世界を見たい好奇心だった。
 彼の気を引きたくて、傍にいたくて踏み出した一歩は、とても残酷な道へと続いていることを、知らなかったのだ。
「大好き……でした……」
 いまも。これからも、私が恋をする人は彼一人。それでも、明日は違うだれかと結婚の話をするのだ。
 のろのろと立ち上がって、廊下を歩いた。
 よく来るホテルの上層階。何度も彼と来た場所。ここへ来るたびに、私は今日のことを思い出すのだろう。
 いつか、懐かしく思い返せる日が来るだろうか。
 熱く、重たくなる瞼を押さえながらエレベーターで一階まで降り、ロータリーでタクシーを拾って帰った。
 明日のことも、これからのことも考えずにただ、ただ泣き明かすだけの夜だった。

 一.

 気になる人がいた。
 いつも、加賀見《かがみ》商事の新年パーティーにやってくる男性だ。
 大勢の中にいても目立つ彼は女性によく囲まれていて、楽しげに会場を歩き回っていた。
 色素の薄い髪。センスのいいスーツ。視線を惹きつけられる容貌。ときおり私も目が合ったことがある。彼は、そんな私にも笑顔を見せてくれた。
 話したことは一度もない。
 だから……好奇心だったのだ。

「幸《さち》。来月の誕生日にプレゼントをしたいんだが、なにがいい?」
 十一月の終わり。祖父と夕食を共にしていた私はぱっと顔を上げた。
 加賀見邸は非常に豪奢な作りをしている。
 外観は屋敷と言って過言ではない。内装はアンティーク家具が基本で、質のいいものをあらゆる方面から取り寄せていた。
 今日も染みひとつない床を、爪先でちょっと蹴りながら私は祖父に提案した。
「それなら、ジュエリーがいいです」
「おお、幸もそういうものに興味を持つ年頃になったか」
 二十五歳。ジュエリーがほしくなる年頃でも珍しくはないが、私がほしいのはもっと別のものだ。
「加賀見商事の新年パーティーに、とても華やかな男性がいらっしゃるのをおじい様はご存じ?」
「赤山《あかやま》くんのことかな」
 名前は知らなかったが、ジュエリーメーカーの社員だという話は聞いていた。その中で華やかな男性というと、ぱっと思いつくのは一人ということだろう。
「お名前は存じ上げないのだけれど、ジュエリーメーカーの社員さんで間違いはなかったと思うの」
「なるほど。赤山くんから買いたいというわけか」
「ええ。よろしいかしら?」
「いいとも。彼はジュライトジュノーの社員で、敏腕だと評判だ。私もいくつ買わされたことか……」
 祖父にそれだけ大枚を叩かせるというのはさすがだ。決して守銭奴ではないが、本当に質のいいものしか購入しない。つまり、品質は確かだということ。
「有能な方なら、加賀見商事にいらっしゃればよろしいのに」
「以前、引き抜こうとしたことがある。きっぱりと断られたよ。ジュライトジュノーが破格の待遇を出してくれたから、と言っていたが……どうだろうな」
 首を傾げた。
 加賀見商事は大手商社として長く名を連ねている大企業だ。その会長が直接引き抜くのだから、並の企業では太刀打ちできない好待遇が約束されたはず。それ以上の待遇を、ジュライトジュノーが出したということだろうか。
「ジュライトジュノーはどんな企業なんでしょう?」
「あの会社は才能の宝庫だよ。ダイヤモンドジュエリーの名手と言わしめる神野修哉《じんのしゅうや》を筆頭に、デザイナーが優秀だ。それに加えて、赤山くんが育てた営業部がある。営業部も皆有能だ。人を育てるのが好きな彼が、そんな好条件の会社を出るはずはないと思っていたがね」
 才能の宝庫……。
「それで、おじい様は諦められたの?」
「億単位の年棒を用意すると伝えたが、逆に諫められた。金で釣られる人間に本当に興味があるかと。そう言われて、喉から手が出るくらい彼がほしくなったが」
「まあ……」
 祖父にそこまで怖じずにものが言える人はなかなかいない。
「だから、ジュライトジュノーで買い物をするのなら、私は大歓迎だ。気に入ったものを好きなだけ買いなさい。赤山くんに来てもらえるよう連絡をしておくから」
「楽しみにしています。ありがとう、おじい様」
 そうして三日後。彼がやってきた。

「ジュライトジュノーの赤山と言います」
 魅惑的な甘い声が言葉を紡ぐ。
 客室で対面した彼の、名刺を差し出す指先がとてもきれいに整えられていて驚いた。
「爪……おきれいですのね」
「身だしなみの一環です。ジュエリーを扱う人間の手がボロボロでは格好がつきません」
 末端にまで気を配れる人は優秀だ。そう言っていたのは父だ。
 赤山さんはその日、ダークグレーのスーツを着てやってきた。ネイビーのネクタイに、ブルーグレーのシャツを合わせ、皺ひとつないきれいなスーツ姿。腰の位置が高く、脚が長い。だからといって、飛び抜けて長身かといわれるとそうではないように思う。私より頭半分程度高いくらい。
「お名前……幸臣さんとおっしゃるのね。私と同じ文字が使われているわ」
 偶然だけれど嬉しい。
 赤山さんは一度笑顔を作ったあと、アタッシュケースを机に置いた。
「では、早速ですが――」
「赤山さん。今日お持ちいただいた商品、すべて購入させていただきます」
 持ってきたアタッシュケースを開きかけた彼がぴたりと手を止める。
「すべて……ですか?」
「ええ」
 営業にとって、契約数は大きな意味を持つ。売れれば売れるだけ彼の成績は上がるらしいから、たくさん買えばそれだけ彼に貢献できるだろう。
 これまで会ってきた人たちは表面的には隠していたが、内心では喜んでくれていることがわかった。
 彼も、きっと……。
「申し訳ないのですが、中身をご覧にもなっていない方にお売りする作品を、僕は持ってきていません」
「え……?」
「一度も見られることもなく、悩んでももらえないなんて、この子たちがあまりに可哀想です」
「可哀想……?」
 ただの装飾品にそんな感情を抱いたことはなかった。
 ジュエリーはたくさん持っている。自発的に買ったわけではなく、祖父が必要だろうからと贈ってくれたものばかりだったけれど。でも、可哀想だなんて……。
「僕は、一億の作品を迷いもせず即決される方よりも、数万円の作品を何日も悩まれる方に売りたいと思っています。そのほうが、宝石は大切にされるので」
「でも……売り上げがすべてなのでは……?」
「もちろん売り上げは必要ですよ。僕の仕事は会社に利益を出すことですから。でも、個人様を相手に多額の利益を出すことなんて想定していません。それは企業を相手にすればいいことです」
 この人が、なぜ祖父から信頼され、喉から手が出るほどほしいと言われるのか、少しだけわかった気がする。
 この人は仕事に誠実なのだ。
 個人にも企業にも営業を掛ける人だけれど、求められて買ってもらうものと、必要だから用意をされるものとをきちんと区別している。そして、心の底から求められるものには最大限の努力をしてくれる。
 きっと、そういう人なのだろう。
「……赤山さん。申し訳ありません。私が間違っていました」
「いいえ。ご理解いただけて光栄です」
「中身を拝見できますか?」
「喜んで」
 開かれたアタッシュケースの中にはカラーストーンをあしらったジュエリーが数点入っているだけだった。
「……ジュエリーを売りに来られる方って、いつもぎっしり詰めていらっしゃるのだけれど」
「今日はヒアリングも兼ねての訪問です。幸さんのお好みや、ほしいものを伺いたい。イメージするものがなければ、オーダーメイドもいいでしょう」
 みんな、売りたいという欲を全面に押し出してきていた。だけど、この人は“今日売れなくてもいい”と思っている。
 でも、もしかしたら限られた点数の中で、高価なものばかりを用意した可能性もある。
「……失礼なことを伺うようですが、これはおいくらくらいするものなのでしょうか?」
 紫色の石があしらわれたペンダントを指さした。タンザナイトだ。誕生石を選んで、しっかりとラインナップに入れてくれるあたりはやはり嬉しい。
「それは十万くらいですね。デザインはシンプルですが、地金の使用量が多く、石のクオリティが高いので、いいものだと思います」
 いろんな意味で驚いた。
 まず、通常なら持ってこない価格帯だ。大富豪と知られる加賀見家に売ろうというのだ。百万を超える商品を持ってくる人が多い。そして祖父も、それくらいの価格帯を希望している。だから、正直安い品だと思った。
 しかし、それは祖父の資産の話。私がこの十万の商品を買えるかと言われると……ろくに使う機会もないまま貯めたお小遣いがあるにはある。しかし、それだって祖父や両親が働いたお金。私のものではないのだ。
「……もう少し安いものってありますか?」
 きっとそんなものを持ってきていないだろう。十万以下の商品を加賀見家に売ろうという営業はまずいない。けれど。
「こちらのダイヤモンドペンダントは五万くらいですね。石が小粒なのでお安くできています」
 思わず目を見開いた。
 この人は本当にヒアリングのためだけに商品を選んで持ってきたのだろうか。しかし、だからといって売る気のないものを持ってくるはずがない。売れる見込みがないものもだ。
 シンプルなダイヤモンドペンダントを見つめ、どうしても聞いてみたくなった。
「赤山さんは……どうしてこの商品を持っていらっしゃったのですか?」
「幸さんに似合うと思ったからですよ。それとも価格の話ですか?」
 頷くと、赤山さんは笑った。
「宝石の価値は、値段だけではありません。買った方が大切にしてくださるかどうか。気に入るかどうか。そちらのほうが僕は大事だと思いますよ」
 以前、大学に通っていたころ。ある学生が恋人から指輪をもらったと喜んでいる場面に遭遇した。
 友人たちは、安いものだと声をひそめて貶めていたけれど、私はすごくきれいなものに見えた。
 おそらくシルバーだっただろうし、石もお世辞にも高価とはいえなかったかもしれない。だけど、とてもきれいだと思ったのだ。その理由をいままでわからずにいたけれど、きっと、赤山さんの言ったことがすべて。その学生は、恋人が懸命に働いて贈ってくれたものを大切だと思い、気に入っていた。だからきれいに見えたのだ。
 そこでふと、自分が身につけているものを省みた。
 服も、ジュエリーも、人から羨まれるくらいきれいに見えているだろうか。私にそんな価値があるだろうか。
「ねえ、赤山さん」
「はい」
「あなたはどんな女性をお好きになるのかしら」
 そんな言葉が口を突いて出ていた。
 失礼なことを聞いてしまったと思ったが、彼は笑って受け流す。
「僕は世界中の女性を愛していますよ。彼女たちがきれいになるためにジュライトジュノーを選んでくれるなら、どこにでも伺います」
「そうではなくて」
 彼は、テーブルに出されたコーヒーカップに手を伸ばし、微笑みながら首を傾げた。
「どんな女性を恋人になさるのかなと……あ、奥様がいらっしゃるかしら」
「僕は恋愛をライトに楽しむタイプです。どんな女性が好みかと聞かれているのであれば、先ほどの返答と相違ありません。すべての女性が好みです」
 コーヒーカップに口を付ける赤山さんを、目をぱちくりさせて見つめる。
 この人は、なんだか不思議な人だ。
「私、赤山さんのことがもっと知りたいわ」
「それは光栄の至りですね。僕も幸さんを知り――」
「そうだわ!」
 ぽんと手を打った。
「私、働くということに興味があるんです。自分でお金を稼いでみたいし、そうすれば赤山さんから胸を張って購入できますもの。赤山さん、ジュライトジュノーで私を雇っていただけません?」
 名案だ。これ以上いいアイデアなんて浮かばない。そう思ったが、赤山さんがぶほっとコーヒーを吹き出している。
「え? うちで働く?」
「はい。赤山さんを知れて、働くこともできて、自分でお金が稼げます。私、今日はとても冴えているわ!」
「い、いやいやいや……」
 ハンカチで吹き出したコーヒーを拭いながら赤山さんが苦笑いする。
「会長がお許しにならないと思いますし、ジュライトジュノーに入るにもうちの上層部に許可を取らな――」
「取ってくださいませ」
 すると再び赤山さんがゴホッと咽せた。
「え、えぇ? 僕が?」
「おじい様は私が説得します。ですので、赤山さんはその上層部の方を説得してくださいな」
「ですのでって正しい使い方かな、これ……」
 ごにょごにょと赤山さんが呟いていたけれど、私は気にせずソファを立つ。
「赤山さんは人を育てるのがお好きと聞きました。私も育ててください」
「見込みのある人、ね……」
「私に見込みがないとおっしゃるの?」
「そうは言いませんけど……」
「では、おじい様のところに行ってまいります。赤山さんも上層部の方に許可を取ってくださいませ」
「え、ちょっと、幸さ――、え、嘘だよね?」
 部屋を出て、パタンと扉を閉める。
 そのあと、私は祖父から就労の許可を取り付けて赤山さんの元へ戻った。
 彼は、途方に暮れながらスマホの画面を見せてくれる。「面白そうなのでいいですよ」という返信があったとうなだれていた。

 二.

「加賀見幸です」
「改めまして、営業部長の赤山です。これからは上司と部下という関係なので、敬語は使いません」
「もちろん、それで大丈夫です。赤山部長」
 初出勤の朝。
 私は前日から選んだスーツを着て、目一杯のメイクをして出社してきた。
 営業の仕事を教わることができる。赤山さんと一緒に仕事ができる。ついて歩くなら、彼に見合う格好でなければならない。
 ワクワクしていた。どんなことを教えてもらえるのだろう、と。
「営業部の人には自分から挨拶に行って、顔と名前を覚えるように。それが終わったら……まあ適当に仕事をもらって」
「……はい」
 雲行きが怪しい。
「それじゃあ、初日頑張ってね」
 あれ?
「あ、あの赤山部長」
「うん?」
「直接ご指導をいただけるのでは……?」
「見込みがあれば指導するよ。それに僕、これから会議だし、今日は一日外出で直帰予定なんだ。また明日ね」
 書類とノートパソコンを手に、彼はさっさと営業部を出てしまう。
「チョッキ? マタアシタ?」
 言葉の意味がまるで理解できなくて、片言で反芻した。
 午前九時前。仕事は始まったばかり。それなのに、また明日って……。
 それに、見込みがあれば指導をすると彼は言った。つまり私は見込みがないということだろうか。だとしたら、少しでも見込みがあると思ってもらわなければ。
 そう思って、営業部の人たちに手当たり次第声を掛けまくった。
「おはようございます、今日からお世話になります加賀見幸です」と繰り返して挨拶をしていると、営業部の人たちは次々と名刺をくれる。
 私はその都度、名刺をくれた人の特徴を空いたスペースに書いて、顔と名前を一致させることに努めた。でも、ジュライトジュノーの営業部員は百名を超えるという。いまいるのは一部だが、それでも全然覚えられる気がしない。
 隅っこにしゃがみ込んで、あの人はこういう特徴、この人はこんな感じとブツブツ言いながら書き込んでいく。
 ひととおり書き込んだあとは言われたことを実践していくしかない。
 まずは仕事をもらわなくてはと思い、話しかけやすそうな女性になにか仕事がほしいと伝える。すると、書類をまとめてほしいと言われて請け負った。
 コピーされている書類を一部ずつまとめてステープラで止める。それだけの仕事なのだけれど、二時間もかかってしまった。「まだやってるの!?」と女性社員に驚かれてしまう始末だ。
 そのあとはお昼休憩を挟んだあと、ファイル整理をしてほしいと言われて書類庫に籠もり、置かれているファイルを年代別、種類別に整理する。
 あちこちに分散していたので、踏み台を昇ったり下りたりしながら書類庫をきれいにしていく作業だ。埃っぽいので換気をして空気を入れ替えながら終業時間間際までひたすら整理をしていた。脚がすでにパンパンだ。
 ちょっとくたびれ気味に書類庫を出ると、「まだやってたの!?]と今度は男性社員に驚かれた。
 そのあとはコピーを取ってきてほしいと頼まれ、営業部の真ん中にデンと構えるコピー機の元へと向かう。コピーなら学生時代にもいろいろ取ったことがある。馴染みのある作業に安堵して原本をセットし、スイッチを押した。
 すると、突然ガコガコと不穏な音がして、コピー機がガタガタと揺れ始める。
「え? あれ?」
 狼狽する私をよそに、コピー機はプスンと音を立てて動かなくなってしまった。
「コピー機、ご臨終でーす」
「またー? 何回目だよ、もー」
 そんな声が聞こえてきて肩を落とす。もしかして、私が変な操作をしてしまったのかもしれない。
「加賀見さん、そのコピーは上のデザイン部でコピー機借りてやってもらっていい?」
「はい……なんだかすみません……」
 馴染みのある作業だからと驕らずに、周りの人に聞けばよかった。
 原本をコピー機から取り出して、とぼとぼと営業部を出る。
 今日一日でわかったことがある。それは、私はとても使い物にならないということだ。赤山さんが「見込みがあれば」と言ったのも頷ける。なにも知らない私を相手に、いきなり彼が指導してくれるなどと思っていたのが間違いなのだ。
 なにをしても基本的に遅い。みんなキビキビと動いているのに、私は一旦なにをするのか考えなければならない。
 営業部はきっと、とても忙しい部署だ。そこにこんなおっとりとした私が入ってきたら、迷惑だったのではないだろうか。
 しゅんとしながら階段を上り、廊下を歩いて行く。まっすぐ行くとデザイン部があると聞いているので、迷うことはないと思うけれど。
「ひゃあぁぁっ!?」
 突然の悲鳴にびっくりしてその場で意味もなく足踏みをした。
 ガコッガコッと奇妙な音がするほうへ足を向けると、女性が一人で大慌てしている。
「自販機が! 壊れた!」
 ガタガタと不穏に揺れる自動販売機が、ガッコーンと軽快な――いや、あり得ない音を立てて止まった。
「もー。うちの備品いろいろ不具合多すぎない? コーヒー飲みたかっただけなのよ? 本当よ?」
 彼女はだれかと話しているのだろうか。そう思うくらい大きな独り言だった。
「あ、あの……大丈夫ですか?」
 壁に身体を半分隠しながら中を覗いて声を掛ける。
「え? ああ、うん。大丈夫。自販機が大暴走しただけ」
 明るい笑顔が印象的な女性だ。自動販売機の前に屈んで、排出口から缶ジュースを引っ張り出している。
「あ、ねえ。せっかくだし一本飲まない?」
「……いいんですか?」
「たぶん業者さんが飲んでくれって言うと思うけど、だめだったら奢るわ。飲んで飲んで」
 そう言いながら、彼女は缶ジュースを一本差し出してくれた。オレンジジュースだ。
「いただきます」
「どうぞどうぞー。中に入って座って飲もう。おやついっぱい持ってきちゃった」
 手を引かれて中へと入る。自動販売機がたくさん置いてあって、椅子も多い。
「なに食べる? 今日はねー、肉巻きおにぎりと鮭おにぎり、昆布おにぎりにハンバーグ丼」
「…………、おやつ?」
 クッキーとか、ビスケットとか、チョコレートとか。そういうものではなく、ご飯?
 首を捻っていると女性は「おやつ!」と力強く返答した。
「今日の社食、ちょっと少なくなかった?」
「いえ、充分でしたが……」
 書類をまとめ終わったあとに食堂へ誘ってもらったが、今日はミックスフライ定食だった。少し多くて食べきれないなと苦心しながら食べきったのだけれど。
「え、本当? 私、カレーを追加で頼んじゃった」
「カレー……追加……」
 また片言になってしまった。この女性、とてもパワフルだ。
「そういえば、あなたは見かけないお顔ね」
「はい。今日から営業部でお世話になっている加賀見幸と言います」
「あ、知ってる! どう? お仕事うまくいってる?」
 首を左右に振った。
 ある程度のことはできるかもしれないと思っていた。でも、私の知っている世界は祖父や父が与えてくれた、お膳立てをされたきれいな景色だ。それではなにもできないに等しい。それを嫌というほど痛感した一日だった。
「私……なにもできなくて……」
「んー?」
「書類をまとめるのに時間がかかってしまいました」
「うんうん」
「ファイルを整理するのにいままでかかっていました」
「それでそれで?」
「コピー機も壊してしまいました……」
 すると女性が呷っていた缶コーヒーをぶふっと吹き出す。
「ごめ……、たぶんコピー機は寿命だと思うよ。ちょっと前から営業部のはガコガコいってたし」
 口元を拭いながら、女性は「気にしちゃだめよ」と笑ってくれる。でも、彼女は人並みに仕事ができる人のはずだ。
「私はこんなにも仕事ができませんでした……赤山さんもガッカリされます……」
 もう少しできると思っていた。
 もっとゆったりとした世界だと思っていた。
 私はなにも知らなすぎる。
「……じゃあ、コピーくらいはシュパッと取れるようになろっか。うちのコピー機使いに来たんでしょ」
「はい。デザイン部の方ですか?」
「ええ。古賀秋希《こがあき》と言います。よろしくね」
 ジュースを抱えて古賀さんとデザイン部に向かう。そこでは缶ジュースを抱える彼女を揶揄しながらも笑い合う温かな空気が流れていて、素敵な部署だなと思った。
 そのあと、コピー機を借りて操作も教わり、「完璧よ!」と太鼓判を押されてスタートボタンを押した。
 ガコンッ! と壊れる音がした。

 私は、途方もなく使えない。
 営業部のコピー機を壊した挙げ句、デザイン部のものも壊し、結局社内を走り回って総務部にまで借りに行ったなんて、恥ずかしくて言えるわけがない。
 ぐすっと鼻を啜りながら帰路についた。
 みんなはどうやって仕事を覚えるのだろう。会社に来たらいきなり超人的に仕事ができたりするわけがない。もう少し丁寧に教えてもらえるかなと、ちょっとくらいは期待していたけれど、そんな場所でさえなかった。
 私は、甘すぎる。
「明日はもっとお役に立てるようにしないと……」
 赤山さんに見捨てられてしまう。無理を言って入れてもらったのに、こんな状態では彼の顔に泥を全力で塗りにいくようなものだ。
 スリ、スリとすり足気味に歩いていることに気づいて、またしょんぼりした。
「靴の底が減ってしまうわ……」
 もう歩きたくない。せっかく社会人になるのだから通勤は一人でやると決めて出てきたのだけれど、家に連絡をして迎えに来てもらおうか。いや、それもやっぱり甘えている。
 みんな、悔しい思いをしながら頑張っているはずだ。私も頑張らないと。
 駅までなんとか踏ん張って歩いて行く。途中でお洒落なカフェを見つけて、学生時代にこういうお店に入ってみたかったのだとふと思い出した。
 私は寄り道が許されなかったので入ったことがない。どんなお店なのだろう。
 きょろきょろして、入ってみようかと近づいてそわそわしていると、ガラス張りのため店内がよく見えることに気づいた。そして、窓際に見知った人がいたのだ。
 あ、赤山さん……?
 どうしよう。入っていったら同席できるかしら。お邪魔にならないかしら。
 ウズウズしながら、でも一人で入る勇気もなくて二の足を踏んでいると、赤山さんが顔を上げてこちらを見た――気がした。
 いや、気のせいだ。絶対目は合ってない。そう思ったけれど、彼は荷物を置いたまま席を立って、私の目の前までやってくると入っておいでと手招きをしてくれた。
 嬉しくて、すぐに入り口へ向かって走る。店内に入ると、赤山さんが私の傍まで迎えに来てくれた。
「コーヒー飲む?」
「はいっ」
「じゃあ、そこに座ってて。季節のおすすめフレーバーがすごく美味しいから、それを買っていくよ」
 さっきまであんなに落ち込んでいたのに、赤山さんの姿を見られるだけで気持ちが軽くなる。
 落ち着きなくそわそわしたまま彼が座っていた席へ向かい、彼が置いている荷物の横に座った。店内は人が多くなくて静かだ。
 コーヒーのいい匂いがする。
 ほどなくして赤山さんがカップを手に戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
 ホットコーヒーだが、いつも飲むコーヒーとはちょっと風合いが違う。なんだかすごく美味しそうで、引き寄せられるように口を付けた。
「美味しい……」
「でしょ。僕ね、ここのカフェがお気に入りなんだ。会社から近いってのもあるけど、毎日来ちゃう」
「毎日来たら、赤山さんに会えますね」
「そこまで熱心に通われたら、別のところにも誘いたくなるね」
「お食事とか……ですか?」
 だとしたら、それはもうデートだ。赤山さんが私とデートをしてくれる日なんてくるのだろうか。
「んー? もっと悪いことかも」
「お、お酒……!」
「ああ、いいね、それ。酔わせたくなっちゃう子はいるよね」
 ジャケットを脱いで、ネクタイを緩めているからだろうか。なんだか妙にドキドキしてしまう。
「それで? 今日はどうだった?」
「……えっと……うまくできませんでした」
「うまく?」
「私、なにをやっても遅くて。ひとつの作業に何時間もかかってしまいました。こんなのじゃ、全然だめです」
 思い返すたびに背中が丸くなる。涙が溢れそうになる。情けない。
「僕ね、参加自由なグループチャットをやっててね。営業部だけじゃなく、いろんな部署の子から情報をもらってるんだ。今日のことも報告をもらったよ」
「……皆さん呆れられてましたよね」
「そうでもないよ。全員が口を揃えてたのはね、新人なんだからもっと積極的になればいいって。できないならできないって言えばいいし、わからないなら聞けばいいんだよ。良くも悪くも、みんないまの君に期待はしてない」
「そ、そう……ですよね……」
 期待なんてされるわけがない。わかっているけれど、現実を突きつけられると苦しい。父も、祖父もすごかったんだなぁ……と改めて思ってしまう。
「泣かない泣かない」
 手が伸ばされて、ぐいっと目元を拭われる。
「泣いてません」
「そう? じゃあ目から汗が出たかな」
「汗じゃありません……」
 ずびっと鼻を啜ると、赤山さんが顔を背けて吹きだした。
「せっかくの可愛い顔が台無しだよ」
「可愛くなくていいです……うぅ……」
 赤山さんがハンカチを差し出してくれて、それを申し訳なく思いながら受け取る。
「わからなくても、できなくてもなにも恥ずかしくないよ。いまの君には、僕らはなにも期待してないけど、未来の君には期待をしてる」
「でも、コピー機二台壊しちゃいました……」
「それも報告をもらったよ。デザイン部のは修理が来るから大丈夫。営業部のは古いから買い換えることになった。君のせいじゃないよ」
「でも……でも……本当になにもできないし……」
 コーヒーを飲みながら、ハンカチで涙を拭いていると、赤山さんがクスクスと一人笑っている。
「悔しかったんだ?」
「はい」
「自分はもっとできると思ってた?」
「よくわからないですけど、なんとかなるくらいには……」
「みんなそんなもんだよ。僕が新人のころに教わったのは、とにかく実践を積めってこと。だから僕はスパルタだって言われるのかな」
「スパルタ……?」
 目をしばたたかせて、目の前で優美に微笑む彼を見つめる。なんてきれいな人なのだろう……。見るたびに、いろんな表情が見える。
「そう。とにかく実践を積ませる。いきなり実戦投入した子もいるよ」
「でも、失敗したら大変……」
「失敗をしないやり方を学ぶのは、僕は反対なんだ。悔しがったり、悲しがったりしながら、たくさん勉強してほしい。僕は絶対に見捨てないし、最後まで部下に責任を持つ。できなくていいし、間違えていい。全部、僕の責任にしちゃえばいいんだよ」
 いつだったか、祖父たちが話しているのをちらっと耳にしたことがあった。
 上司が率先して泥を被れる部署はよく伸びる。強い集団ができあがる。だから実績が出る、と。
「君もやってみる? 僕の指導は厳しいらしいけど」
「いいんですか……? 私、絶対失敗しますよ。見込みもなさそうです……」
「いいじゃない、それで。失敗を怖がったら成功はできないよ。それに、見込みっていうのは才能なんてアバウトなものじゃなくてさ。僕を困らせてやろうとか、いきなり実践を積んでやる、みたいな気概の話。そういう子って面白そうじゃない」
「でも……たくさん謝らないといけないかも」
「僕の頭を下げることで許されるなら安い安い。部下も仕事もハチャメチャなほうが面白いよ」
 彼の傍は、失敗を恐れなくていい場所なのだ。
「失敗なんてだれでもするんだから気にしないこと」
「はい……ありがとうございます」
「よし、じゃあ今日は帰ろうか。送っていくよ」
 そう言って椅子を立つ赤山さんを見て、慌ててコーヒーを飲む。
「熱っ……」
「それは持って出ればいいよ」
 これは持ち帰っていいのかとカップをじっと見つめた。
「ほら、行くよ」
 この椅子を立って、彼のあとを追いかけたらあとは家に送られるだけ。
 私は、赤山さんのことをもっと知りたい……。
 もっと近くで、いろんな話を聞いてみたい。どんなことを考えているのか。どんな景色を見ているのか。
 のろのろとした動きで立ち上がる。
 ジャケットを羽織る彼の背中をゆっくりと追いかけながら店を出た。
「車、近くのコインパーキングに置いてるからちょっとだけ待って――」
 彼の腕をそっと掴む。
「あの……赤山さん……」
 まだ帰りたくない。もっと近づきたい。でも、それを言う勇気はない。
 彼から見れば私はわがままを言う子どもで、世話を押しつけられて断れない面倒な女だ。だけど、この気持ちを大切にしたいと思う。
 はじめて見る端麗な男性への憧憬かもしれない。親切にされて勘違いしているだけかもしれない。いろいろなはじめてが続いて、舞い上がっているだけかも……。
「……もしかして、悪いことに誘われたい?」
 いたずらっぽい声音で彼が問う。
 この人は、私の気持ちなんてきっと見透かしていて、それでも彼からは確信的な言葉を言わない。それでも、いいや……。
「誘ってくれますか……?」
 遊びで終わる関係だということ。一時の気まぐれ。
「はじめてお会いしたときから、私……」
 ふわりと空気が揺れた。頭上から影が落ちて、顔を上げると唇を柔らかい感触が掠める。
「僕、恋は真剣にしないんだ。今日は帰ろう」
 車を取ってくるね、と言って赤山さんが歩いていく。
 思わず唇を押さえて、いま起こったことを思い返し、そして火を噴くほど赤面した。
 キ、キキキキス……っ、されちゃった……!

 ふわふわしていた。
 昨日、家まで送られたあともドキドキしていたし、赤山さんがしてくれたキスの感触を思い出してはにまにましてしまった。
 あんなにさらっとできてしまうことなんだなぁ……と思いながら、頬を押さえて用意してもらった自席でだらしなく頬を緩めた。
「加賀見さん。今日はついておいで」
 椅子をぐぐっと引っ張られぎょっとする。
「赤山部長っ」
 さっと椅子から立ち上がり、彼へと一歩近づいた。
「会議は終わりましたか? お疲れ様です。コーヒーでも……」
「気持ちは嬉しいけど、すぐに外回り。来る? 来ない?」
 外回りに連れて行ってもらえる。これは、昨日彼が言っていた、現場へいきなり投入のスパルタ教育の始まりを意味しているのだろう。
「行きますっ」
「じゃあ支度して。お客様との約束に遅れるわけにはいかない」
「はい、すぐにっ」
 気合いが入ってしまう。それが声にも出てしまうのか、周囲からクスッと笑われて恥ずかしくなった。
 出かける前には近くの人たちから「頑張ってね」と声を掛けられる。みんな私に好意的に接してくれるので嬉しい。
 赤山さんの後ろを付いて歩き、社用車に乗るように促される。
 いつもの癖で後部座席に乗ろうとすると、赤山さんが肩をぐいっと掴んで「こっち」と助手席のドアを開けた。
「す、すみませんっ」
「いいよ。最初はたくさん間違えないとね」
 赤山さんは怒らない。私が失敗をしても笑ってくれる。人によってはこんな失敗をしたら嫌な顔をするのだろう。そういう場面には、何度も遭遇してきた。
 助手席に乗ると、赤山さんがファイルを渡してくれる。なんだろうと思って首を捻った。
「今日行くのは、ホテルが提携しているブライダルドレスのレンタルショップだ」
 車が走り出す。
「ファイルを開いて」
「はい」
「着くまでにしっかりと読み込んで」
 ファイルをパラパラと捲ってみた。読みやすい書類だ。詳細に書き込まれているのだが、読みづらくなくてぱっと見てきれいだ。つい食い入るように見てしまう。
「ドレスに合わせたジュエリーを追加で置いてもらえることになってる。先方の必要数は十。でも全国展開してて支店も多いから、僕は三十売りたい。そのために、その資料で最大限のアピールをしたい。やってみて」
「はい……、え?」
 やってみて?
「え? えっ!?」
「いいかい。その資料を使えば、ダイヤモンドジュエリーが三十セット売れるんだ。売り込むトークセンスはもちろん必要だけど、今回は僕が助けてあげるから、それは気にしなくていい」
 かなり無茶なことを言われていると思う。だが、これが赤山さん流の教育の仕方なのだろう。いまは言われたことをやるしかない。
 とにかくこれを読み込めばいいのかと視線を落とした。
 ダイヤモンドジュエリーに関する資料が十ページ以上にわたって記されている。デザイン画はきれいに印刷をされていて、アピールポイントがわかりやすい。神野修哉デザインのジュエリーは相当なページ数が割かれている。お客様が求めているものはきっとこういうものなのだ。ならば、ここは神野さんのデザインジュエリーを推したほうがいいのだろう。
 ページを捲る。
 最後に一ページだけだったが、力強いデザイン画が視界に飛び込んできた。隅にデザイナーの名前が書かれている。古賀秋希。
 これ、昨日の人だわ……。
 繊細な神野ジュエリーとは違い、しっかりとした強さを感じる。彼女らしさが滲み出ていて、なんだかとても頼もしく見えた。
 ……これを売りたいな……。
 ふんわりとしたイメージもいいが、ブライダルなのだから未来への強さや絆の強さなどを表現するのもいい。古賀さんのデザインは受けるのではないだろうか。
 何度も資料を読み返す。想定の三倍を売ろうとするには、私はなにを見つければいいのだろうか。
 いや、そもそも十個も売れる気がしないのだけれど。
 じっと視線を下に向けていると、突然視界が暗くなった。
 はっとして顔を上げると、地下駐車場に車が停車している。
「読めた?」
「……えっと……はい、一応」
「よし。それじゃあ君が主導して担当者に売り込むんだ」
「え?」
「資料をちゃんと読んだのなら、僕がなにを売りたいか。先方の好みはどれか、わかるはずだよ」
 わからない。わかるわけがない。
 ここで赤山さんの売りたいものと違う答えを出したら、心証は最悪。資料も読めないと見なされる。
「……すみません。わかりません……でした」
「あれ、そうなの?」
「す、すみません……」
「……だったら、君が売りたいと思ったものを全力で売り込んでごらん。僕がフォローするから、しっかりと相手の心を掴むんだ」
「あ、あの、赤山部長。本当に私がやって大丈夫なのでしょうか……?」
「大丈夫だよ」
 事もなげに肯定されて絶望する。
 はじめてお客様と対面するのに? いきなり売り込むの?
「まったくの未経験ですが……社会人になって二日目ですが」
「僕にだって未経験だったときはあるし、全員がはじめての瞬間を経験してきてる。経験がないからできませんと消極的な発言を君はするのかい? 僕がいるのに?」
 経験がない時間があるのはだれしも同じ。はじめの一歩を踏み出す瞬間は必ず訪れる。そして私は、ジュライトジュノーでもっとも優秀だといわれる赤山さんのサポートが受けられる好条件をもらったのだ。
「……私は、古賀さんの作品を売りたいと思いました」
「なんだ、ちゃんと読めるじゃないか」
「……え?」
「いいや。それじゃあ乗り込むとしようか。相手の懐に飛び込めばこっちの勝ちだ」

 ドレスショップに入って担当者を待つ間、ドキドキする私を赤山さんは「大丈夫」と宥めてくれた。そうしてすぐに担当者と引き合わされ、一時間。
 全力で売り込んだ。あたふたしながら、ときどき噛んだりわけがわからなくなったりもしたが、赤山さんに助けてもらいながら頭が沸騰するくらい考えて、息つく暇もないくらいに喋って、とにかくここに揃えたジュエリーはすごいのだと熱弁した。
 いままでジュエリーをたくさん見てきたし、買ってもらったのはいい経験になっていたように思う。
 最終的にショップで十五セット買ってもらえることが決まった。
「赤山部長の想定の半分しか売れませんでしたね……」
「上出来だよ。さすがにジュエリーの知識は豊富だね」
「いえ。素人の知識です。赤山部長ほど詳しくありません……」
 駐車場へ向かう途中でしゅんと肩を落とす。けれど、赤山さんはぽんと肩を叩いて「いいんだよ」と笑った。
「君が古賀さんの作品を売りたいと思ったのはどうして?」
「力強さを感じたからです。神野ジュエリーは繊細できれいですけど、花嫁はそれだけできれいだと思います。だから、将来への希望とか、力強さみを感じられるものがいいと思ったんです」
「そういう感性でいいんだ。百の専門知識より、ひとつの情熱のほうが相手に刺さることは多い。僕らが喋ると、どうしてもセールストークになるからね」
 そういうものだろうか。
 たしかに赤山さんは、仕事の話をするときはきれいな話し方をする。声の抑揚や、表情の作り方などはそれが顕著なように思った。私はそういう切り替わりを魅力的に思ったけれど。
「全身を使って話す君のトークスタイル、見てて面白かったなぁ」
「お、面白がらないでください……っ。必死だったんです」
 手足をばたつかせて、顔を真っ赤にして、鼻息荒く喋る私は面白かったかもしれないが、赤山さんには見られたくなかった。
「それでいいんだ。めいっぱい考えてやった仕事なら、たくさん失敗していい」
「ご迷惑じゃないですか……? 私、本当になにも知らないですし……嫌になられちゃうかも」
「まさか。さ、乗って」
 背中を押され、助手席のドアを開く。座って、シートベルトを装着して深呼吸をした。
 来るときは書類を読むのに必死だったが、赤山さんとの距離が近い。彼が運転している間は顔をじっと見放題だ。
 運転席に赤山さんが乗り込む。その瞬間からじぃっと彼の顔を見た。
 何度見てもきれいだ。私の好きな顔なんだなぁ……。
「僕の顔がどうかした?」
「はい。きれいなお顔だなぁと」
「そう? ありがとう」
 柔らかな声が言葉を紡ぐ。さらりと流れてしまう風のように掴み所がない。でも、やっぱり仕事には誠実そう。
「赤山部長……」
「うん?」
「が、頑張ったので、ご、ごご、ご褒美がほしいです」
 顔を背けて俯いた。
 子どもっぽいかしら。
 ご褒美がないと仕事をしないのかと叱られるかしら。
「いいよ、なにがいい?」
 いい……んだ……。
 思わず顔を上げて彼を見つめてしまう。
「コーヒーでもいいし、食事でもいい。少しドライブするのもいいね」
 ……やっぱり、そういうものよね。
 彼と一緒にいられる時間があるだけでご褒美といってもいいのに、私はずいぶんと強欲だ。
 それなら、またあのカフェでコーヒーが飲みたい。
「昨日の続きを……教えてください」
「んー?」
「…………」
 違う。違うっ。私ったらなにを言って……。
「僕、誘われたら断らないよ?」
 彼の手が伸びてきて、頬に触れられる。そっとあてがうだけの優しい仕草なのに、私はその熱に抗えなかった。
 目をぎゅっと瞑る。
 彼との距離が近づいてくるのがわかって、心臓が破裂しそうだ。
 吐息が触れ合って、柔らかく唇が重ねられた。
「っ……」
 触れた唇が一瞬離れる。終わった、と目を開いて吐息しようとすると、彼の手が後頭部をしっかりと押さえ、今度は呼吸ごと奪うようなキスをされた。
「ん……っ、んんっ」
 唇を舐められ、舌先でこじ開けられる。
「んぅっ……」
 口内へ舌が差し込まれ、頭がくらくらしてきた。息ができない。赤山さんの身体を押し返そうと胸を押したが、私の手は彼の手に絡め取られて抵抗は失敗に終わった。
「んっ……ぁ……っん……」
 途切れ途切れに、少しの呼吸はできる。そうできるように彼が離してくれているのだが、まったく酸素が足りていない。
「はぁ……っ、あ、んっぅ……」
 くちゅくちゅと水音が立つ。舌が刺激されて、思考が蕩けていく。
 こんな感覚は知らない。だから怖い。でも、それが赤山さんによってもたらされているのなら、恐れすぎなくてもいいと思った。
 与えられるまま、彼に精一杯応える。拙いながらに舌を絡ませていく。すると、もっと深くに舌が差し入れられた。
「ふっ……ん、んっ」
 仰のかされ、唾液が流れ込んできて混ざり合う。やがて、口の端からつっと零れた。
「君は一生懸命で可愛いね」
 口元を彼の指先が拭っていく。
「赤山さん……私……」
「この先も知りたい? 昨日も言ったけど、僕は本気の恋をしないけど」
「本気になってくださるかもしれないじゃないですか……」
 彼は、その言葉に返事をくれなかった。やっぱり本気でお付き合いはしてもらえないのだ。身体だけの関係というものを続けて――。
「いいよ。付き合おうか」
「え……?」
「本気になるかもしれないけど、ならないかもしれない。それでもいいなら、僕と付き合おうよ」
「ふ、複数人恋人がいる……とか」
「いや、僕は自他共に認める軽薄男だけど、浮気も不倫もしないよ。付き合ってるときは一人だけ」
 さすがにひどいよ、と彼は笑った。
「いい……んですか?」
「うん。君が僕でいいなら、だけど」
「もちろんです」
 ずっと彼に近づきたいと思っていたのだ。それに、はじめてお付き合いをする人が赤山さんだなんて嬉しい。
「じゃあ、しばらくよろしくね。次の得意先へ行こう」

 赤山さんは、残りのアポイントで大金を動かした。
 その額、数億。その瞬間は驚かなかったのだが、たった一日で巨額のお金がやり取りされたのかとじっくりと考えると、あとから冷や汗が出た。
 赤山さんは、「加賀見商事でもそれくらいのやり取りは普通にあると思うよ」と当たり前のように言うが、仮にそうだとしても赤山さんのやっていることは恐ろしいと思うのだ。
 たとえば、私がはじめてした仕事。赤山さんのサポートを受け、資料も事前に彼が作ってくれていた。私はそれを読み込み、必死に売り込んだわけだが、それでも数十万のジュエリーが十五セット。あのとき、赤山さんがすべて担当していれば、倍の金額がさらっと動いたはずだ。
 おじい様が喉から手が出るほどほしいと言うのも道理だわ……。
 柔らかい物腰。人好きのする笑顔。丁寧な仕事と強い信念。豊富な知識と強気なトークスキル。すべて、赤山さんの努力のたまものだ。
 運転席で資料や書類を片付ける赤山さんを見つめ、頬を両手で押さえた。
 やっぱり、不思議な魅力を持った人だ。掴めそうで掴めない。遠くにいるようで近い。彼のことを知りたいような、知りたくないような。
 でも、赤山さんを見ていると顔が熱くなる。胸が高鳴る。これを恋と呼ぶのだろうということくらいはわかった。
「さて、今日はこれくらいで帰ろうか」
 後部座席に鞄を投げて、赤山さんが言う。
「はい……たくさん勉強させていただきました」
「今日のアポはいつもの半分くらいだよ。明日からはもう少しハードワークになる。明日も実戦投入するから頑張って」
「は、はい……っ」
 明日も一緒にいられる。仕事を教えてもらえる。
 胸が弾む思いだが、そんな先の未来よりも先に私の胸を高鳴らせるように彼が私の手にそろりと触れた。
「……ねえ、サチ。これから君を誘いたいんだけどいい?」
「さっ……誘って……くださるんですか……?」
「昨日言った、悪いことへの誘いだけどね」
 名前を呼んでくれた。誘うような目で見つめられて、昨日彼が言っていた言葉の意味がようやくちゃんと理解できた。
 私はだいぶ的外れなことを言っていたようで恥ずかしかったが、そんなことはどうでもいい。
「外泊は平気? 遅くなっても帰ったほうがいい?」
「大丈夫だと思います。赤山さんと泊まると言えば……」
「だめだめ。会長は僕が底抜けに軽薄な男だって知ってるから」
 軽く笑い飛ばされた。だめなの?
「……よし、外泊はやめよう。遅くなっても送るよ。だから、帰りが遅くなるとだけ伝えて」
「赤山さんとお付き合いをすると伝えてはいけないのでしょうか……」
「僕と付き合えて喜ぶ子はあんまりいないよ?」
「私は嬉しいです」
「君は素直すぎるね。僕との秘め事も会長にバラされそうだ」
 あ……そういうことか。
 赤山さんとお付き合いをしたと言って、そのまま遅く帰ってくれば、その行動が意味するところはひとつだけだ。
 そして、赤山さんは底抜けに軽薄だと自称するくらいには遊び慣れていて、それを古い価値観の祖父が歓迎するはずもない……ということ。
 そんなことにも気が回らないなんて、私はちょっと浮かれすぎているようだ。
「遅くなると伝えます」
 スマホでメッセージを打ち込む。その間に赤山さんは車を走らせた。
「その……赤山さんは、どうして軽薄を自称なさるんですか?」
「真実だからだよ」
 メッセージを送信する。既読マークがつくとしたら遅い時間だろうから確認はしなくていい。鞄にスマホを押し込んだ。
「では、どうしてそんなふうになられたんですか?」
「えー? 性根が薄っぺらいからじゃないかな」
「私はそうは思いません。赤山さんは、誠実に仕事をなさる方だと思います。そういう方って、本当は薄っぺらなんかじゃ……」
 車が赤信号で止まる。運転席から手が伸びてきて、頭を押さえられた。
「っ……んっ」
 強引なキスをされ、心臓が飛び出しそうだ。
「君は、僕を買いかぶりすぎ」
 そんなことはないと思うのだけれど。
 でも、これ以上言い募っても彼にはかわされてしまいそうだ。だから口を噤んだ。膝の上に手を置いて、ぎゅっとスカートを握り締める。
 これから私の身に起こることを想像すれば、自然と心臓がドキドキしたし、ほかのことは考えられなくなった。
「サチは……」
「はいっ」
 車が走り出す。
「男と付き合ったことってある?」
「あ、ありません……けど……」
「うん。じゃあ普通のホテルへ行こう」
 普通じゃないホテルなんてあるのだろうか。アトラクションのようなホテルとか?
 聞いてみたいことはたくさんある。でも、聞いたらこれからのことに胸を躍らせていると気づかれてしまう。そんなの、恥ずかしい。だけど。
「あの……友人の中には、恋人のお部屋に行ったという人もいたのですが。私、赤山さんのお部屋に興味があります」
「僕、部屋には女の子を入れないんだ。ごめんね?」
 それはつまり……ずっと赤山さんの部屋には行けないということ? お付き合いをしているのに……?
「いつかは誘ってくださいますか?」
「んー、まあ、そのときがくればね」
 いきなりお部屋に行きたいなんて、失礼だったかもしれない。赤山さんだって困ったはずだ。
「すみません。いきなりお部屋に行きたいだなんて言ってしまって」
「気にしなくていいよ。でも、はじめてが僕でいいのかなぁ。女性にとっては一生に一度の経験だけど」
「一生に一度だからこそ、す、好きな方と……と思うのではないでしょうか」
「そうだね。だからこそいいのかなって思うんだよ」
 なにか不都合があるのだろうか。
 赤山さんの言うことは、私には少し難しい。特に恋の話は経験値が違いすぎてついていけない。
 車が繁華街へと入っていく。夜でも煌々と明かりを灯す街はきれいで、思わず窓に張り付いてしまう。
「サチは夜の繁華街ははじめて?」
「はい。夜遅くに出歩くこともほとんどありませんでした」
「僕さ。君みたいな子を見ると、本当に悪いことを教えたくなる」
「……教えてください。赤山さんの見ている世界をたくさん知りたいです」
 彼はふと笑った。その横顔があまりにきれいで見入ってしまう。
「僕の見ている世界なんて、君は知らないほうが幸せだと思うけどね」
 車が大きなホテルへと入っていく。このホテルは知っている。加賀見商事の新年パーティーで使われているホテルだ。
 赤山さんは車を預けて降り、私の肩を抱く。
 少し恥ずかしい。でも、嬉しい。腕を組んで歩くカップルを街で見かけることがある。そんなふうに、私も恋人とデートをしてみたかった。
「ちょっとだけ待ってて。部屋を取ってくる」
 そう言って、ごく自然に私の頬にキスをしてから離れていく赤山さんは、いったいどれくらいの女性と付き合ってきたのだろうか。
 聞いてみたい。聞くのは怖い。どちらも本心だったけれど、こういう場合、きっと好奇心に任せて聞いてしまうのはよくないのだろう。
 彼には彼の人生があり、それがいまの彼を形成している。そんな赤山さんを好きなのだから、過去を聞く必要はない。
 赤山さんがほどなくして戻ってきた。
「行こう」
 そっと背を押されたあと、腰を抱かれる。
 エレベーターに乗り、階層ボタンを彼が操作して到着を待った。なにを話せばいいかわからない。赤山さんも黙ったままでいるから、少し気まずくなってしまう。
 おそらく、人生で一番長いエレベーターの上昇時間だった。到着を告げるベルが鳴り、廊下へと踏み出す。よく知った風景。このフロアには、部屋が一室しかない。だから、迷うこともなかった。
 部屋の前で立ち止まり、赤山さんがドアを開ける。
「サチ。少しだけ待っててくれる?」
「はい。どちらに行かれるのですか?」
「シャワーだよ。サチもあとで使って」
 そう言って、赤山さんが浴室へ向かう。
 なるほど。身体はたしかにきれいにしなければならない。外を歩き回ったし、汗もかいた。
 まずはゆっくり湯船に浸かって、疲れを取りたい。
 それにしても……。
 バスルームから家族以外が入浴している音が聞こえてくるのはドキドキする。とてもいけないことをしているようで、落ち着かなくてソファの上で正座をしてしまった。
「こういうときはどうしたらいいのかしら……」
 そわそわして、わくわくもして、でもやっぱり緊張する。
 ほどなくして赤山さんが戻ってくると、肩にそっと手が置かれた。耳元で声が落ちる。
「サチ。お待たせ。シャワーどうぞ」
「は、はいっ」
 ガチガチに緊張する私を、赤山さんは笑って見送ってくれた。
 脱衣所へ入り、服を脱いで丁寧に畳む。そうして浴室に足を踏み入れると、湯気が籠もっていて、それだけで頬が熱くなった。
 つい先刻まで赤山さんが使っていたと思うとすごく恥ずかしい。
「ど、どうしましょう……」
 入浴ってどうすればよかったのだろう、と頭が真っ白になった。とにかく全身をきれいに洗わなければと必死で隅々まで洗い、浴槽に湯を張ってチャプンと浸かる。
 ゆっくり入っていたかったけれど、やっぱり落ち着かなくてすぐに抜け出した。濡れた身体を拭いて下着を身につけ、脱衣所にあるバスローブに袖を通す。
 少し慌ただしかったが、石鹸のいい匂いがする。
 脱衣所を出て赤山さんの姿を探すと、先ほど私が座っていたソファで、なにか作業をしているようだった。
「赤山さん」
「んー?」
 後ろから声を掛けて覗き込む。開かれたノートパソコンには、今日見せてもらった書類に似たデータが映っていた。
「お仕事ですか?」
「うん。外でできる仕事があるとついね」
 振り返った赤山さんを見てドキリとする。
「め、眼鏡!」
 別に眼鏡が珍しいわけではないが、赤山さんが付けている姿は新鮮だ。
「目がお悪いのですか?」
「パソコンを使うときは目が楽になるから使ってるだけ。度数は入ってないし、夜限定」
「そうなんですね。素敵です」
 日中に仕事をしているだけでは決して知ることのできなかった彼の“貌”だ。
「サチ。こっちへおいで」
 赤山さんが眼鏡を外してノートパソコンを閉じる。手招きをされて近づき、隣に座ろうとすると彼が「違うよ」と笑みを零した。
「膝の上に乗って」
「膝の……?」
 戸惑いながらも誘われるまま赤山さんの膝の上に乗る。
「同じ石鹸の匂いがすると、やっぱり気分が上がるよね」
 そんなことを言いながら首筋に顔を埋められた。吐息が肌に触れてドキドキしてしまう。
 柔らかな感触が触れて、ねっとりと舐め上げられた。
「っ……」
 背筋がゾクゾクする。この感覚はなんだろう。
 知らない感覚に戸惑っていると、バスローブの腰紐が解かれた。前が開かれて、肌を撫でられる。
「……っ」
「サチ。声出せる?」
「声……?」
 言いながらも、赤山さんは背中に手を這わせ、ブラのホックをぷつんと外してしまう。
「ひゃ……っ」
 とっさに前を隠したが、その手を取られてやんわりとどけられた。
「あ、赤山さん……恥ずかしいです……」
「こういうときは名前で呼ばれたほうが嬉しいものだよ」
「……ゆ、幸臣さん……」
 男性の名前をはじめて口にした。気恥ずかしいけれど、特別な感情が湧き起こってくる。
 彼は唇で胸の膨らみをなぞり、先端を食む。
「っ……、ふ……っぅ」
「サチ。口を開けるんだよ。閉じてたら声は出ない。僕は、感じてる声が聞きたい」
「でも……変な声が出て……」
「変じゃないよ。サチの声は可愛い」
 優しい声でそんなことを言われたら、本当に変じゃないのかもしれないと思えてくる。
「本当……ですか?」
「本当。僕、嘘だけはつかないのを信条にしてるから」
 胸の先端が彼の口内へ含まれると、背筋にビリビリとした感覚が走った。
「っ……、あ、っ……ん、んっ」
「僕の膝を跨いで」
 腰を抱き寄せられ、膝を左右に割られる。大きく脚を開く格好で赤山さんと向き合うと、恥ずかしくて顔が上げられなかった。
「こ、こんなに脚を開くんですか……?」
「そうだよ。恥ずかしいよね」
 涼しい顔をして、彼はそんなことを言う。私がどれだけ恥ずかしいか、本当に伝わっているのだろうか。
「死んじゃいそうです……」
「大丈夫。これくらいじゃ死なないし、気持ちいいことをいっぱい教えてあげる。そうすれば、恥ずかしいことなんてどうでもよくなるよ」
 そういうものだろうか。こんなにはしたない格好をしているし、やっぱり死にそうなくらい恥ずかしいのだけれど。
 赤山さんが胸元に顔を寄せ、先端に吸い付く。もう片方の胸には手があてがわれ、優しく形を潰された。
「ふ……っ、ぅ……」
 舌先が肉粒を硬く尖らせていく。柔らかく湿った感触は頭の中を蕩かせてしまうようで、トロトロのなにかに変わってしまうようだ。
 頭がぼうっとする。なんだかむずむずとした感覚がずっと全身を這い回っている。どうすればこの、どうしようもない感覚から逃れられるだろう。
「サチ。腰を揺らしてごらん」
「腰……どうやって……?」
「こうして……」
 腰を引き寄せられると、赤山さんの足に秘部が擦られた。
「っあ……っ、ん、ふ……」
「気持ちいいことを教えてあげることは好きなんだけど、積極的な子はもっと好きなんだよね」
 積極的な子が好き……。
 私は、こういったことの知識は乏しいほうだと思う。多少のことは知っていても、具体的にはよくわからない。だから戸惑ってしまうのだけれど、それを聞いたら彼は答えてくれるのだろうか。
「私……幸臣さんに好きになっていただきたいです。だから……あの、いっぱい教えてください」
「サチは素直で可愛いよ」
 ちょっとだけ唇を尖らせた。どうすれば赤山さんに好きと言ってもらえるだろう。
 考えて、赤山さんの首筋に腕を掛ける。顔を寄せて、キスをしようとした。
「…………、あ、あれ?」
 鼻は当たるし、おでこも当たってなんだかよくわからなくなってしまう。
 赤山さんが顔を背けて笑うので、絶対に間違えた。
「キスって難しいよね」
「す、すみません……」
「ううん。そういうのが可愛いんだよ」
 少しだけ顔を傾けて、彼が唇を寄せてくれる。啄んで、舌を差し入れられ、どんどん深く絡まっていく。
「んっ……っ」
 身体を撫でられる手が少しずつ下肢へと下がり、ショーツの中へと忍び込まされた。
「んっぅ……、ふ、ん、んっ!」
 彼の手を押さえる。そんなところを触られるなんて思ってもいなくて驚いた。
「サチ。手を離してくれないと続けられない」
「で、でも……手が……」
「僕、無理強いはしないよ? こういうことって女性にばかり負担を強いるから、嫌なことはしない。望んでくれたら全部あげるけどね」
 私には、赤山さんを本気にさせることなんてできないのかもしれない。この人は、あまりに経験値が多すぎる。
 いまだって、彼にとっては軽い遊びのうちでしかないのだろう。
「つ、続けてください……」
「うん。君は本当に素直でいい子だ」
 キスをされ、よしよしと頭を撫でられる。
 彼の手がゆっくりと秘部を弄った。すると、赤山さんは目を細めて笑う。
「サチにはたくさん、いけないことを教えたくなる」
 ぬるりと指が滑らされ、羞恥心に顔が燃えるかと思った。
「あ……っや、あの……恥ずかし……」
「いいんだよ。僕はエッチな子のほうがいいから」
 ぬちぬちと音を立てられ、顔を覆い隠す。どうして私の体はこんなに、聞いたこともないような音を立てるのだろう。どうして、それが気持ちいいと思ってしまうのだろう。
 身体を抱き寄せられた。と、次の瞬間ぐるりと視界が回って目をしばたたかせる。
「あ……、え?」
 ソファの上に寝かされ、赤山さんが私に覆い被さった。
「サチ。手を頭の上にあげて。そのまま、下ろしたらだめだよ」
「はい……こう……ですか?」
 両腕を上げると、彼が胸元に吸い付く。
「あっ……んっ……」
 コリコリと粒を舌で捏ねながら、下肢からショーツが取り払われていく。制止しようと手を下ろしかけたが、彼がだめだと言った。だから、懸命にこらえる。
 脚の間に手を入れられ、彼の手が秘裂を割った。ぬるぬるとした感触のまま擦られていたが、やがて敏感な場所を指先が掠めた。
「っ……あ、あ、んっ」
「強すぎる?」
 探るように彼が尋ねてくる。でも、まるでわからない。
 頭を左右に振ると、彼は私の脚を左右に大きく割ってそこへ身体を滑り込ませた。身体をずらし、彼の顔が秘所へ寄せられる。
「ゆ、幸臣さん、なにを……、っあ、あ……っ」
 生温かな感触が秘裂を舐めていく。舐めるような場所ではないのに、赤山さんは躊躇せずに顔を付けた。それが嬉しいような、恥ずかしいような、よくわからない感覚に襲われる。
 花芯を吸われ、腰が勝手に揺れた。
 身体の奥から感覚を引きずり出されていくようだ。
「あ……ぁっ、んっ……ふ……」
 こんなにも恥ずかしいのに、中毒を起こしそうなくらい心地いい。もっと、赤山さんに触れられて、もっと彼に愛されたい。
「幸、臣さん……」
 手を伸ばし、彼に触れた。髪に指を絡めるだけで精一杯だったが、赤山さんが私の手を握ってくれる。
「んっ……ふ……あ、あぁっ」
 ジュッと蜜を吸われ、蜜孔から舌を差し入れられた。温かいものが蠢いていることはわかったし、気持ちよくもあるのだが、なんだかとてももどかしくて身体をくねらせる。
「サチ、両脚を自分で持てる?」
「え……?」
 彼に誘われるまま、両脚を持たされたが、この格好はあまりに――。
「幸臣さん……これ、恥ずかしすぎます……」
「うん。でも僕はすごく誘惑される。君はきれいな身体をしてるね」
 はしたない格好を強いられたまま、彼が秘部へ口づける瞬間を見つめる。

(――つづきは本編で!)

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