「この曲を弾いていると、君を思い出すんだ」
あらすじ
「この曲を弾いていると、君を思い出すんだ」
外資系インテリアショップで働く堤花音の楽しみは、週に一度、叔父が経営するピアノバーで演奏することだった。ある夜ピアノを奏でる花音の前に、世界で活躍する天才ピアニスト霧島蓮が帰ってきた。
かつて花音にとって、憧れであり、コンクールを競うライバルでもあった蓮。再会の喜びの中、二人はめくるめく一夜を共にする。だが蓮は、公演をドタキャンし失踪している最中で……。
作品情報
作:望月沙菜
絵:whimhalooo
デザイン:RIRI Design Works
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1 再会
「花音、これからみんなでご飯を食べに行くんだけど、一緒にどう?」
私は勢いよく両手を合わせると、頭を下げた。
「ごめん。今日は用事があって……」
私、堤花音《つつみかのん》は外資系インテリア会社「Corden《コーデン》」の日本支社に勤めている入社五年目の二七歳。主な仕事はキッチンアイテムのバイヤー。
我が社は大型商業施設などに店舗を構えており、二十代から四十代の女性をターゲットにした生活雑貨を中心に販売している。
「いつも用事があるって言っているけど、本当は彼氏がいるんじゃないの? 本当のこと言いなさいよ」
同じ部署の由香と紗栄子が疑うような目を向ける。
「だから、本当にいないんだって」
こんなやりとりは今に始まったことではない。
我が社は、毎週金曜日をノー残業デーにしているためみんな定時に上がる。
といっても元々残業する人は多くない。それは外資系と日本の企業の意識の違いかもしれない。
日本の企業では、残業が当たり前のようなところがあり、それが仕事意識の高い人ととらえがちなのだが、外資系企業は勤務時間内に仕事を終えることを前提とし、残業は仕事ができない人がするという考えが多いのだ。
我が社も例外ではなく、自分の仕事は勤務時間内に終わらせることが暗黙の了解となっている。
だが、部署によってはどうしてもそれが難しいところもあって、そのためにこういったノー残業デーを設け、強制的に仕事を終わらせるのだ。
その残業デーである金曜日になると食事に誘われるのだけれど、その度に同じ質問を投げかけられる。
彼氏はいないと何度説明しても、二人は全く信じてくれないのだ。
「じゃあ、なんで金曜日だけ断るの? たまには三人で飲み明かしたいのに?」
口を尖らせる紗栄子。
「本当にごめん」
本当のことを言えば、二人は納得してくれのるだろうけど……。
単に恥ずかしくて本当の理由を言えないだけ。
私は別の曜日で手を打つと、急いで最寄りの駅へと向かった。
電車に乗り、二駅目で降りると、多くの人で賑わっていた。
駅の周辺はいわゆる飲み屋街と呼ばれている所で、雑居ビルが建ち並び、色とりどりのネオンが夜の街を照らしている。
私は繁華街の大通りから一本奥の道に入った。その途端、一気に景色が変わる。
飲み屋はたくさんあるものの、年季の入った建物が軒を連ねており、昔ながらの居酒屋などが多く目立っていた。
そんな中、レンガ作りの店の前で足を止める。
「Piano Bar Liszt《リスト》」
友達からの誘いを毎回断ってでも来るのがこのお店なのだ。でもお客としてではない。
「お疲れ様です」
重厚な鉄のドアを開ける。
「お疲れ」
店の奥から聞こえてきた声は私の叔父。
実は毎週金曜日にピアノを弾いているのだ。
私はバックヤードと呼ぶには少し狭いスペースで紺色のノースリーブのシフォンワンピースに着替えると、カウンターチェアに座る。
「今日もよろしく頼むな」
叔父が分厚いたまごの入ったサンドイッチと烏龍茶を差し出した。
「うん」
演奏前の腹ごしらえだ。私は口を大きく開けてサンドイッチを頬張った。
* * *
クラシック好きの両親は、パッヘルベルの曲「カノン」から私の名をつけた。
両親の強い希望で、三歳からピアノを習い始めるのだが、指先から奏でる音に、幼いながらも夢中になった。
友達と遊ぶことよりも、ピアノを弾いていることが大好きで、ピアノ中心の生活になった。
小学校五年生の時に出場したジュニアコンテストの地区大会で初めて賞を獲った時、ピアニストになることを決意した。
年齢が上がるにつれ入賞の数も増えた私は、音大進学、海外留学、そしてプロのピアニストと夢を膨らませながら手応えも感じていた。
両親も私の夢を応援し、有名な先生のレッスンを受けさせてくれた。
ところがそんなある日、悲劇が襲った。
それは高校二年の時だった。
私は一週間後に大きなコンテストを控えていた。
このコンクールはプロへの登竜門と言われており、受賞者の多くがプロとして世界で活躍している。中でも一番の魅力は副賞だ。
金賞を取れば海外留学、銀賞、銅賞受賞者も賞金が貰えるのだ。
しかしこのコンクールは三年に一度しか開催されない。
ここで優勝して、海外留学の権利がほしかった私は、学校が終わるとレッスンを受け、帰宅後も夜遅くまでピアノに向かう毎日だった。
ところが私は油断をしていた。体育の授業中に誤って指を怪我してしまったのだ。
医師から告げられたのは、
「二週間、指は使わないように」
という信じがたい言葉だった。
「でも先生、一週間後にピアノのコンテストがあるんです。私、どうしてもこのコンテストにだけは出たいんです。なんとかなりませんか?」
だが、医師は首を横に振った。
「コンテストに出ることはできる。だが、今無理をすると、のちのちそのツケが必ずくる。そうなったら一生ピアノが弾けなくなるかもしれない。将来のことを考えるのなら今は我慢の時だよ」
そう告げられ、私は頭が真っ白になった。
万が一コンテストに出て、希望する賞を受賞しても、その後指が動かなくなったら全てが無意味になるかもしれないからだ。
両親も医師の言う通り出場を見合わせてほしいと言うばかりだった。
だけど出場を断念して三年後にもう一度挑戦する気力が私にあるのだろうか?
それは究極の選択を迫られているようなものだった。
「あなたはまだ若い。三年なんてあっという間よ。今回は見送りましょう」
私を心配してくれる気持ちはありがたいけど、頷けない理由が別にあったのだ。
――彼に勝ちたい。
だからここで諦めることなどできなかった。
しかし気持ちとは裏腹に指は思うように動かせず、コンクールを断念せざるを得なかった。
そして怪我から数週間後、私の指はピアノを弾くことができるまで回復したのだが、コンクールに出場することが目標であった私の後悔は思った以上に大きかった。
その理由は出場を断念したコンクールで、彼が金賞を獲ったからだ。
私にとって彼は目標であり、ライバルでもあった。といってもこれは私が勝手に思っているだけなんだけど……。
とにかく目標を失った私は、心にぽっかりと大きな穴が空き、ピアノと向き合うことができなくなってしまった。
音大への進学も意欲を失くし、両親の説得を無視するように音楽とは全く違う大学に進学。卒業後は現在の会社に就職し、ピアノに触れることはなくなった。
そんな私に再びピアノと向き合わせるきっかけを作ってくれたのが、私の叔父だった。
就職して三年が経った頃、叔父がピアノバーを開いたのだ。何度も店に来いと誘われたが、仕事が忙しいからと理由をつけては断っていた。
転機が訪れたのはその一年後。
母にどうしても叔父に届けてほしいものがあると頼まれ、渋々店に行った時のこと。
重厚なドアを開けた途端、軽快なピアノが聴こえてきた。
一体誰が弾いているの? 恐る恐る店の奥へ進むと、椅子から立ち上がり、全身で音を表現するようなエネルギッシュなピアノを弾く女性がいた。
「叔父さん、あの人プロ?」
私は絶対にプロが弾いていると思った。だが、叔父から返ってきたのは意外な言葉だった。
「彼女はプロじゃないよ。趣味でジャズピアノを弾いているんだ」
「え?」
「プロのピアニストじゃなくたって、人の心を震わせる音は出せる。花音はまだ鍵盤に触れることを拒んでいるが、俺は諦めてないぞ。なんてったって俺の夢は花音を再びステージに立たせることだからな。といっても俺にできることといえばここのステージだがな」
叔父は私がピアノを断念したことを誰よりも悔やんでいた。
「叔父さんには悪いけど、私は以前のようなピアノはもう弾けないの」
だが叔父は引き下がらなかった。
「いやお前は弾けないんじゃなくて弾かないだけだ」
私は咄嗟に否定できなかった。
怪我をした時、医師に従ったため指はちゃんと動くし、後遺症のようなものは何一つない。ただピアノを弾くことが怖いだけ。
「花音。俺がこの店を始めた理由はお前のピアノをもう一度聴きたかったからだ」
叔父には悪いが、私は怪我をする前の自分にはもう戻れないし、戻る気もなかった。
用事も済んだので帰ろうとする私を叔父が引き止めた。
「帰る前にどうしても花音に聴いてほしいものがあるんだ」
「叔父さん。何をしても無駄よ。私はもうピアノから――」
「霧島蓮《きりしまれん》……知ってるよな」
懐かしい名前。だけどその名前を耳にした途端、胸の奥がぎゅっと痛みだした。
霧島蓮があの「彼」だったのだ。
霧島蓮は、私が断念したあのコンクールで一位になり、その後海外留学中にショパンコンクールで入賞を果たし、現在プロのピアニストとして大活躍をしている。
もちろんは彼が何枚もアルバムを出していることは知っていたし、海外の有名なオーケストラとの共演も耳にしていた。
だけど彼のピアノを聴きたいと思うことは正直一度もなかった。いや、そうじゃない。
プロになった彼のピアノを聴くのが怖かったのだ。
「知ってるよ」
叔父は彼のCDを私に聴かせようとCDプレーヤーにセットした。
「叔父さんいいよ。聴かなくたって彼がすごいピアニストだってわかってるし……」
「そうやってこの先も現実から目を背けるつもりか?」
叔父の鋭い指摘に返す言葉が見つからない私は、
「彼とは目指すものが違うのよ。じゃあ私は帰るね」
と言って、逃げるように店の外に出ようとした時だった。
スピーカーから流れるピアノの音色に、私の足がぴたりと止まった。
――なんて優しい音色なの?
それはまるで音の粒に包まれるような柔らかく、温かい音だった。
彼のピアノはコンクールの時に何度も聴いていた。譜面に忠実で、作曲家の望む音を奏でる。それが彼のピアノだった。
だからコンクールで彼の後の奏者になるのをみんなが嫌がったものだった。
それなのに私が鍵盤から離れている間にこんな人間味のある音を奏でるようになったの?
彼が大きな成長を遂げていたことに感動し、私の体は震えていた。
きっと私があのコンクールに出場できたとしても、私たちの道は決まっていたのだろう。
彼のピアノを聴いて、納得できた。
というより、思い知らされて、やっと気持ちがスッキリしたのかもしれない。
こんな人を相手に私は一人でライバル心を燃やしていたことが恥ずかしくもあった。
そして同時にもう一度ピアノと向き合いたいと言う気持ちが湧き上がった。
もちろんプロになりたいとか上を目指したいというのではない。
ピアノを弾いていなかった空白を取り戻したいだけ。
そんなわけでかつてのライバル霧島蓮は、私にもう一度ピアノを弾くきっかけを作ってくれた恩人であり、憧れの存在になっていた。
もちろん私が勝手に思っているだけだけど。
* * *
私は椅子に座ると小さく深呼吸をした。そして……。
「『I got rhythm』聴いてください」
ミュージカル映画などで多く歌われたこの曲が私は大好きだ。
チラリと客席を眺めると、みんなが楽しそうに体を揺らしている。
店は決して大きくないけれど、お客と一体になれることがとても楽しい。
ここの店ではリクエストを受け付けている。
各テーブルに小さな紙とペンがあり、そこにリクエスト曲を書きステージの右端にあるボックスにそれを入れる。
私はクジを引くためボックスに手を入れ紙を取り出す。
一曲目を弾き終わると、お客からのリクエスト曲を三曲弾き、休憩を挟み再度ピアノに向かう。
「では次の曲は……」
いつものようにボックスに手を入れようとした時だった。
突然一人の男性が手をあげた。
「なんでしょうか?」
「すみません。リクエストいいですか?」
店のシステムを知らないということは恐らく初めて来るお客様なのだろう。暗くて顔がよく見えないが、下手に断って怒らせたくなかった。
「はい」
「じゃあ……ショパンのエチュードハ長調十の一をお願いします」
「え?」
私は驚き、声をあげてしまった。
「いきなりですみません。僕にとってこの曲はとても思い入れのある曲で……どうしても聴きたいんです」
彼の言葉に私はさらに驚いた。
この店でクラシックを弾くことは珍しいことではない。
特にショパンは人気があり、何度もリクエストがあった。
でも、この曲に限っては今日が初めてのリクエストだった。
しかも私にとっても特別な曲でもあったのだ。
怪我で出場を断念したあのコンクールの課題曲だったのだ。
かなり難易度の高い曲で、指の短い私は何度も指を攣《つ》って、かなり苦戦しながら練習に励んだ曲だった。
それ故に、思い入れも大きく、ピアノを再開するにあたり、私はこの曲が弾けるようになったら叔父のピアノバーの舞台に立つと自分への課題曲にしていたのだ。
もちろんそんな経緯のある曲だなんて男性は知らないだろう。
だけど、初めて会った人と思い入れのある曲が一緒だなんて……。
一体どんな人だろうと目を向ける。
だが店内は暗く、よく見えなかった。
「わかりました。エチュードって練習曲のことを言うのですが、この曲はとても難しい曲なんです。失敗しないようにがんばります。では……聴いてください」
高速で広い音域のあるアルペジオ。最初は指が追いつかなくて最後まで弾けなかった。
思うように弾けず、指が届かなくて自分の指をひっぱったりした。
でもそこまで頑張れたのは、彼の存在が一番大きかったのだと思う。
彼は指が大きかった。だからこの曲もきっとすらすらと弾けてしまうのだろう。
私の場合、技術以前にハンデがあったけど、絶対に金賞を獲って留学したいという気持ちだけは大きかった。
そのためには彼に勝つことが最大の目標だった私はひたすら練習した。
だけどなんのしがらみもない今、私は心からこの曲を楽しんでいた。
彼のこともコンクールのことも懐かしい思い出の一部になっていた。
曲が終わると、今までにないほどの大きな拍手に包まれた。
だがそんな中、一際大きな拍手が聞こえた。私は一礼しながらその拍手の聞こえる方に目を向けた。
高身長で、スラリとした細身の体。動きのある少し長めの髪、きりりとした目と鼻筋が通ったイケメン。
私が知る限り、この店で初めて見る顔だと思った。だが次の瞬間ハッとする。
――嘘でしょ?
私は自分の目を疑った。
だって海外にいるはずの彼がこんなところに来るわけがないのだから。
きっとよく似たピアノ好きの男性。そうに決まっている。
だが、見れば見るほど彼に似ている。
私は急いでステージを降りると、すぐにカウンターに入った。
「叔父さん」
「どうした?」
「あの人に似ている人が店にいるの!」
「あの人と言われてもな~。誰に似てるんだ?」
「だから、き――」
彼の名前を口にしようとした時だった。
「すみません、堤花音さんですか?」
男性の名前を口にする前に、自分の名前を言い当てられ、疑惑は確信へと変わった。
「そうですが……」
でも彼の名を口にする勇気はなかった。
だって世の中にはそっくりさんが三人いるっていうじゃない。
「やっぱり。僕は霧島蓮と言います。随分前にコンク――」
「覚えています」
やっぱりそうだったんだ。
あの霧島蓮が今私の目の前にいるなんて、信じられない。
というか私の名前覚えていたことの方がもっと驚きだ。
彼にとって私はコンクール出場者の一人ぐらいにしか思っていないと思っていたからだ。
「まさか君に会えるなんて思ってなくて……」
それは私のセリフだと思う。
目の前に立っているのは、かつて共にコンクルールで戦い、手の届かないところまで上りつめた世界的に有名なピアニスト霧島蓮だったのだ。
おまけにこの有名人が私に会えたとニコニコしているなんて、正直信じられない。
そもそも彼と初めて言葉を交わしたのもたった今。
実は、彼とは何度もコンクールで顔を合わせていたにもかかわらず、話をしたことは一度もなかったのだ。
それは彼に人を寄せ付けないオーラがあったことと、私が勝手にライバル視していたためだった。
「それは私も同じです。今回の帰国はコンサートで?」
すると彼の眉がピクッと動き、一瞬だけ視線をそらしたかと思うと、
「そんなようなもんです」
と曖昧な返事をした。
もしかしてお忍びの帰国?
でも彼ほどの有名人が私に本当のことを話すわけがない。
あまり詮索してはいけないと思っていると、叔父が「いつ日本に?」と友達にでも聞くように軽々しく尋ねた。
「……一週間前です」
躊躇いがちに答えながらも笑顔を向ける彼に私はドキッとした。
彼はカウンターチェアに腰掛けると、バーボンのロックを注文した。
舞台袖で姿勢を正し、妙な落ち着きを放っていた霧島少年はウイスキーグラスの似合う大人の男性に成長していた。
「やっぱり日本のウイスキーは美味しいですね」
彼は現在パリに住んでいるという。外国での生活でいろんな刺激を受けたのだろう。
私の知っている彼の面影は全くなく、とても気さくな好青年に成長していた。
「あの、お聞きしてもいいですか?」
「どうぞ」
「霧島さんほどの有名なピアニストってすごくお忙しいんですね」
だが、どういうわけか、彼は私の方をじっと見ると質問には答えてくれず、
「さっきのショパン……本当にいい演奏だった」
と軽くスルーされてしまった。
「花音、天下の霧島蓮くんから褒められるなんてすごいじゃないか」
叔父が満面の笑みを浮かべる。
だが、相手は霧島蓮だ。
単なるリップサービスに決まってる。
「もう、叔父さん。お世辞に決まってるじゃない。すみません」
私は叔父を軽く睨むと、彼に謝った。
ところが彼は急に真顔になって、
「俺は、君の演奏がずっと好きだった」
と言ったのだ。
「え? あ、あの……」
演奏のことを言われているのに、好きだったという言葉に反応して心臓がバクバクしだす。
すると叔父が、
「時間だぞ」
とステージを指した。
「す、すみません」
私はその場から逃げるようにステージに立った。
そして三曲演奏したのだが、彼の存在にずっとドキドキは治まらなかった。
演奏を終えカウンターに戻ると、彼は同じ席でお酒を飲んでいた。
叔父はというと、オーダーストップ前に注文を受けたお酒を忙しそうに作っていた。
改めて思うが、有名ピアニストの前で演奏するなんて、怖いもの知らずというか、チャレンジャーだ。いくら叔父の店とはいえ、穴があったら入りたい気分だった。
「耳障りな演奏ですみませんでした」
「耳障りだなんてとんでもない。さっきの続きになるが、俺は君のピアノに憧れていた」
「え?」
私は自分の耳を疑った。
だってこんな有名な人が私に憧れていたなんてとても信じがたかったからだ。
彼は驚く私をよそに話を続ける。
「日本にいたときの俺は、譜面通りに弾くことだけを何よりも優先してきた。それが賞を撮るための近道だと思ったからね。そんな俺の前に君が現れた。表現力の素晴らしさは、譜面通りの俺にはかなりの衝撃だったよ」
「そう……ですか?」
「もしかして気づいてなかった?」
霧島さんは意外そうに私を見た。
「はい」
自分では意識したことなどなかった。
でもピアノを始めた頃よく先生から、
「花音ちゃんは本当にピアノが好きなのね。全身から伝わるわ」
と言われたことがあったっけ。
「いつしか君のようなピアノを弾けたらいいなと思うようになったんだ。でもまだまだ君のようには――」
「何をいっているんですか。私はいつもあなたの背中を追いかけてました。といってももう、あなたは私の手の届かないところまで上りつめたんですけどね……」
もし、あのコンクールに出ていたら、私は今の彼の活躍を心から応援できただろうか。
すると彼は苦笑いを浮かべながら、
「俺は君が思うほど、すごい人間じゃないよ」
と言って、お酒をぐいっと飲んだ。
「そんなことないです。私は一度ピアノをやめたんです。でも再び向かうきっかけを作ってくれたのは霧島さんのお陰なんですよ」
「え? そうなの?」
目を見開き、かなり驚いた様子だった。
「そうです。だから霧島さんには感謝しかありません。あっ、じゃあいっぱいご馳走――」
空になった彼のグラスを取ろうとすると、それを阻止するように彼の手が私に触れた。
「だったらお酒じゃなくて、君のピアノが聴きたい」
思いもしないリクエストに戸惑う。
「私のピアノなんてさっき聴いたじゃないですか? それに私のような素人の演奏なんて……」
だが彼は首を横に振った。
「君のピアノが聴きたいんだ」
私を見る熱を持った強い眼差しに私は拒めなかった。
すると、私と彼の前にすっと鍵が差し出された。叔父だった。
「悪いが俺はこれから仲間と飲みに行くから、戸締りを頼むよ」
「え?」
顔を上げると、叔父がいつにも増して満面の笑みを浮かべている。
――絶対に今の会話聞かれてた。
店を見渡すと、お客は店の常連であり叔父の飲み友達のみとなっていた。
きっと私に気を遣ってくれたんだろうけど、今まで一度も話したことのなかったかつてのライバルと二人きりって……どうなの?
しかもファンの間ではピアノ界のプリンスとか、蓮様と呼ばれている有名人。
これって少々まずいのでは?
とはいえ、この状況では断れない。
もうこうなったら下手でもなんでもいい。お礼のピアノを弾いたら帰ろう。
そんな思いだったのだが……。
閉店後、二人きりの店内で私は二曲披露した。
有名人相手に緊張してしまい、何箇所かミスってしまった。
恥ずかしさのあまり顔から火を噴いているのではと思うほど熱かった。
本当は、彼の生の演奏も聴きたくて「弾いてほしい」と喉元まででかかったが、なんとなくだが、彼はそれを拒んでいるように見えてしまい、私はその言葉を飲み込んだ。
きっとピアノを弾くことを職業にしている人は、私が思っているほど楽なのではないのだろう。
ここにきたのも束の間の休息だと。
それにしても彼はずいぶん変わった。
私の知っている彼は、寡黙で、人を寄せ付けないオーラを放っていた。
コンクールの空気そのものが緊張感に包まれていたからだと思うけど、彼は賞を獲っても嬉しさを顔に出さないタイプだった。
ちなみに私はその逆で、嬉しさを惜しげもなくアピールするタイプだった。
だから彼のリアクションを見ては、どうせ私と違って獲って当たり前とでも思ってるんでしょ? とひねくれたものの見方をしていた。
だが現在の彼はそれこそ真逆だった。
彼は、コンクールで度々会う私に、何度も声をかけようと思っていたというのだ。
でもそんな風には一度も感じなかったし、私のことなんて眼中に入っていないと思っていた。
だから彼の告白が信じられなかった。
「いつも飄々としていましたよね。どうしたらそんなに落ち着いてられるんだろうずっと思ってました」
すると彼は肩をガクッと落とす。
「やっぱりそういう風に見られてたんだな~。あれでも緊張でどうにかなりそうだったんだけどな~」
「信じられない」
私たちはあの頃会話できなかったことを取り戻すように、思い出や互いの印象を話し、思っていた以上に人間味のある人だと親近感を覚えた。
でもそれは今があるからできることなのかもしれない。
あの時の私はとにかく彼に勝ちたい一心だったし、会話がなかったからこそ彼をライバルだと思い、練習にも力が入ったのだ。
「でもなんで今日は私に声をかけてくれたんですか?」
「長い海外生活でコミュニケーション能力が養われた?」
「なんかかっこいい言い方」
ユーモアのセンスまで良くなって、よほど海外での生活が彼を成長させたのかなと思うとちょっぴり羨ましくもあった。
ところが彼は急に真顔になる。
「なんて……嘘」
「嘘って……」
「今声をかけなかったら、俺は一生後悔するって思ったから」
「そ、それはかつての戦友と――」
「そんなんじゃない」
私の手の上に彼の手が重なり、そのままぎゅっと握られる。
骨張ったゴツゴツした手と思っていたが、見た目以上に彼の手は柔らかかった。
心臓はドクドクとさらに大きくなる。
すると彼が顔を傾けた。
どうしたの? と思うまもなく私の唇に何かが触れた。
それがキスだと気付いたのは唇が離れた時だった。
ほんの一瞬の出来事だったけど、突然のキスに、驚きと動揺が時間差で襲ってきた。
脳内では「どうして?」という言葉で埋め尽くされる。
いくらなんでも今まで会話もなかったのに、数年ぶりの再会でキスって?
ほっぺたならまだしも唇にって……。
日本じゃありえないけど外国ではありなの? それとも……。
「今のは挨拶ですか?」
とわざと大人ぶった言い方をした。
だけど声が震えている時点で大人とは言いがたく、恥ずかしくて顔が熱くなる。
すると彼は首を横に振り、勢いよく私を抱きしめた。
「挨拶なんかじゃないよ。君と再会できたこの奇跡を逃したくないんだ」
「き、奇跡?」
いや、偶然でしょ? この店にふらっと立ち寄ったのは……。
「そうだよ。だって君は俺の初恋の人だったんだから」
そのあまりにも衝撃的な彼の告白に私は言葉を失った。
「もう、冗談はよしてください。お酒の飲み過ぎ――」
やっと出せた声はありがとうでも嬉しいでもなかった。
だってそうでしょ?
彼の初恋の相手が私だなんて、とても信じられなかった。
話したこともなければ、そんなこと微塵も感じられなかった。
悪くいえば、馬鹿にされているとしか思えなかった。
それなのに、
「こんなこと冗談で言えるわけないだろ?」
言葉通り彼の私に向ける眼差しや、口調、そして握られたままの手は、冗談ではなかった。
だけど、そうでも言わないと私の心臓が持たなかった。
ドクドクと胸を打つ鼓動はコンクールの時の緊張感とは別物だった。
彼が私のことを好き……。
この事実をもし私が受け入れたら、私も認めざるを得ないじゃない。
今思えば私の初恋も彼だった。
それに気づいたのは恥ずかしいことだけど最近のこと。
叔父が私に彼のCDを聴かせてくれた時に、封印していたあの頃の思い出が蘇った。
一人で勝手にライバル視していたことも彼に勝ちたいと思う気持ちも、裏を返せば彼に認めてもらいたい、彼に私の存在を知って欲しかったからだった。
ただあの当時、ピアニストになりたいという大きな夢があった私は、彼への思いが恋心から来るものだとは思いもしなかった。
大人になってやっと気づいた恋心はあまりにも気付くのが遅過ぎて、しかもその人は私の手の届かないところまで上り詰めていた。
「花音」
「は、はい」
突然名前で呼ばれて声が裏返ってしまった。
だけど彼は笑ったりはしなかった。
「もし、俺のことが嫌いならこの手を離してくれて構わない」
私は自分の手を見た。
霧島さんの手は私の指を包むように握っていた。
彼は私との再会を奇跡だと言った。
それは私も同じ思いだった。
もしここで彼の手を離したらそれは奇跡のまま。離さなければ運命だ。
私は彼の手を離さなかった。
(――つづきは本編で!)