作品情報

結婚したばかりの夫に惚れ薬を盛ったら、想像以上に甘蜜溺愛されて困惑しています!

「これほど淫らだったなんて……嬉しいよ」

あらすじ

「これほど淫らだったなんて……嬉しいよ」

伯爵令嬢リリアーナは魔女が営む謎の店で〝惚れ薬〟を買う。飲ませたい相手は婚約者テオドリック。学園時代からの想い人の彼が自分との婚約を承諾したのは、家の都合で仕方なくだと思っていた。一日でも本気で愛してもらえたら、彼が他の誰かを愛しても耐えられる……彼に惚れ薬入りのワインを飲ませるリリアーナ。だが彼の突然の口づけで、リリアーナまで惚れ薬を飲んでしまい……!

作品情報

作:本郷アキ
絵:天路ゆうつづ
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み

 プロローグ

「ふんふふーん、ふーん」
 微妙に音の外れた鼻歌を披露し王都の街中を歩くのは、ボルテール伯爵家の次女リリアーナだ。共もつけずに慣れた足取りでお気に入りの店を見て回っていると、通り沿いの店から声がかかる。
「リリーちゃんじゃないか! どうだい一つ。安くしとくよ」
「ちょうどお腹が空いてたの。一つちょうだい」
「はい、まいど!」
 リリアーナは金を払い、紙にくるまれた串焼きを頬張りながら、通り沿いに軒を並べる店を眺める。
「これ美味しいわね」
 リリアーナの食べ歩きは、貴族女性として許されない行動だが、今のリリアーナはどう見ても平民そのもの。
 地味な紺色のワンピースを着て、目立つ金色の髪は後ろで一つに括《くく》り、帽子を被っていた。
 溌剌《はつらつ》とした受け答え、足音を立てるような歩き方からも彼女を貴族だと思う人はいないだろう。
 だが、よくよく見れば、深い海を思わせるブルーの目に、輝くような金色の髪はハッとさせるほどの美しさだ。綺麗に整えられた爪、水仕事などしたことがない手は透き通るような白さを誇っている。
 ここエディメール王国は、周囲を海に囲まれた国で、制海権を巡って隣国と多少の小競り合いはあるものの、交易は盛んで比較的平和である。
 街はいつも活気に溢れていて、民の顔は明るく、日中であればこうして女性が一人で街を歩く姿も珍しくはない。
 それでも酔っぱらい同士のケンカなどは日常茶飯事で、兵士が駆りだされることも往々にしてある。つい数日前も酔っぱらいにぶつかられ困っていた老人を助けたばかりだ。
 リリアーナは目当ての雑貨屋に着き、木製のドアを開けた。今日は、刺繍糸とハンカチ用の布を買いに来た。
 わざわざここまで足を運んだのは、刺繍が趣味だというこの店の主人が縫った手本のようなハンカチが売られているからだ。センスがなく不器用なリリアーナは、手本を見つつ練習をしているのである。
「え……?」
 リリアーナは扉を開けて、店の中へ足を一歩踏み入れたところで立ち止まった。思わず声を漏らし、店内をきょろきょろと見回す。
 扉を開けるまではいつもと同じだったはずなのに、なぜか扉を開けた先にある景色が見覚えのあるものと異なっていた。壁の色合い、陳列された商品、店内の匂い、雰囲気もまったく違う。リリアーナは首を傾げ、出入り口を確認するべく振り返った。
(店を間違えたかしら? でも)
 たしかにいつもの雑貨屋のドアを開けたはずだ。似たような店はたくさんあるが、通い慣れた店を間違えるとは思えない。
(とりあえず出るしかないわよね)
 一度外に出て、周囲を見回した。隣もその隣の店も見覚えがある。もう一度、目当ての雑貨屋を確認するも間違いない。
「えぇっ?」
 もう一度ドアを開けて店に入るが、やはり雑貨は一つも置いておらず、なにやら怪しげな薬が所狭しと棚に並べられていた。可愛さが売りの店だったはずなのに、布や糸、髪飾りなどの雑貨が一つも並べられていないのはどう考えてもおかしいだろう。
(店主が代わったとか? どう見ても刺繍糸は置いてなさそうね)
 刺繍糸はべつの店で買えばいい。商品を一通り見てから店を出よう。リリアーナは、怪しいと思いながらも、棚に置かれている瓶を眺めていく。
(あら、なにこの薬。聞いたことがないわね)
 どうやら一般的な傷薬などもあるようだが、見覚えのない薬がたくさん置いてある。色合いもピンクや緑でこの上なく不気味だ。
(〝ダイコーフン〟? 〝アレがギンギン〟? なにそれ?)
 ダイコーフンは大興奮、だろうか。アレがギンギンとは、いったいなにをギンギンにする薬なのか。首を傾げながらも興味深げに奧へ歩いていくと、突然カウンターの奧から声をかけられた。
「いらっしゃい」
「わ……っ、ご、ごめんなさい。驚いて」
 積み重ねられた布の塊だと思っていたのだが、どうやら人だったらしい。
 薄灰色のフードを目深に被っていて顔はほとんど見えないが、しゃがれた声からおそらくそれなりに老齢の女性だと判断する。頭まですっぽりと被ったローブ姿はまるで魔女のようだとリリアーナは思った。
(魔女なんているわけないけどね)
 魔法が使えたとか、不死の薬を作ったとか。奇跡を起こす力を持つとか。唯一まともそうな話だと、魔女は薬師であると語る人もいるが、ほとんどにおいて魔女の存在はお伽噺《とぎばなし》の域を出ず信憑性は低い。
 ただ、物語に登場する魔女は、だいたいどの人物も黒か灰色のローブをまとっている。そして、どんな薬でも意のままに作ることができる存在として書かれていることが多い。
 フードを目深に被る姿に、棚に置かれている怪しげな薬。リリアーナが老婆を魔女のようだと思ってしまったのはそういう理由があってのことだ。
「あの……このお店は雑貨屋だったと思ったのですが」
 リリアーナは話しかけてもいいものかと老婆の方をちらちらと窺いながら口を開いた。
「ここは魔女の店だよ」
 きっぱりそう言われて、苦笑が漏れる。
 まさか本当に魔女の店なはずはない。おそらくリリアーナをからかっているだけだろう。買うつもりのない冷やかしに来た客だと思われた可能性もある。
「魔女ですか。では、魔法でお店の中を変えているのですね」
 お気に入りの雑貨店がなくなってしまったのは残念だけれど、刺繍糸はほかでも手に入る。リリアーナは話に乗っかりつつも、折を見て店を出るつもりでいた。
「そうだよ。あんたに渡す物があってね」
「渡す、物……?」
 異様な雰囲気を醸す老婆の声を聞いていると、どうしてだか頭がぼんやりしてくる。
 貴族のわりに自由奔放に生きてきたリリアーナだが、自分の立場はわかっているし、危機意識も高い。他人を欺くような相手にふらふら近づくなど本来ならあり得ない。
 いつもなら働くはずの警戒心が、老婆の声を聞くうちに失せていく。老婆の話を聞かなくては、そんな気にさせられる。
「私の薬が必要な子が現れると予感があったんだよ。だからこうしてあんたを待っていた。ほら、そこの二段目の棚にあるピンク色の薬を持っていきな」
 老婆が指を差した先を見ると〝惚れ薬〟と書かれた瓶が置かれていた。なぜか無性にその薬がほしくてたまらなくなってくる。
「惚れ薬……」
 リリアーナが小瓶を手に取ると、老婆がにやりと口元を緩めながら言った。
「必要だろう? それを使えば、愛しい男の心が手に入る。一目見た相手をたちどころに惚れさせる薬さ」
(愛しい男の心……本当に?)
 老婆の声がリリアーナを惑わすように頭の奥に響く。
 脳裏に浮かんだ一人の男性は、リリアーナの婚約者で、あとひと月もしないうちに結婚する相手であった。

 ***

 婚約者のテオドリックは、名門であるマイヤール侯爵家の長男でリリアーナの一つ上の十八歳。なんとその若さにして近衛騎士団の副団長として王太子殿下の護衛を任されている。抜擢は当然、優れた技量あってのことだ。
 いずれは侯爵家を継ぐ身であるが、本人の希望もあり、しばらくは領地運営を父親に任せ、近衛騎士団に身を置くことを許されていた。
 リリアーナがテオドリックに出会ったのは約五年前。
 この国の貴族は十二歳から十五歳まで王立学園で学ぶことが義務づけられている。算術や語学、それに貴族としてのマナーや社交を学ぶ場だ。
 しかし、ほとんどの貴族は入学前に基本的な知識は身につけているため、生徒にとっては小さな社交界、見合いの場とも言えた。学園側ももちろんそれを承知していて、ダンスパーティーなど様々な催し物が出会いの場として開かれている。
 家格《かかく》のあった相手と卒業と同時に婚約するケースがほとんどで、そのあと相手を探すのは出会いにありつけなかった一部の貴族のみ。
 身の丈に合わない相手と婚約を望んだとか、よほど問題のある人格でなければ、問題なく婚約は決まっていく。
 リリアーナがテオドリックに出会ったのもまた、社交の練習場として開かれた王立学園のダンスパーティーだった。リリアーナが十三歳のときだ。
 一見すると楚々とした印象のあるリリアーナは、その容姿と家格からダンスの申し込みがあとを絶たない。
 結婚は貴族女性の義務だとわかってはいるが、十三歳の女の子に将来結婚する相手を選べと言うのは酷な話である。たくさんの男性に話しかけられながらも、どこか上の空でいたとき、背後から「失礼」と声をかけられたのだ。
「これ君の?」
 真っ黒の髪にエメラルドグリーンの瞳を持った背の高い男子生徒が、リリアーナの落としたハンカチを拾い上げ手にしていた。
(どうしよう、刺繍の練習に使っていたハンカチを間違えて持ってきちゃった!)
 リリアーナは小さい頃から刺繍が大の苦手だった。
 そもそも、じっと座っているよりも庭を走り回っている方が好きで、学園に入るまではしょっちゅう屋敷の庭に寝転がっていたくらいだ。
 当然勉強も大嫌いだったが、母に叱られしぶしぶ基本的な知識だけは身につけた。だが刺繍の腕だけはどうにもならなかったのだ。
(わ、私のじゃないって言う?)
 そうすれば自分の刺繍の腕がバレずに済む。
 けれど、ハンカチを広げられると、縫い目はバラバラで所々から糸がはみ出してはいるが、かろうじて読める自分の名前が縫われているのだ。
(あ、でも……この人が私の名前を知ってるとは思えないし)
 そうだ、自分のものではないと言おう。そう決心しリリアーナが口を開こうとした瞬間、彼が訝しげに一歩踏みだしてきた。
(すごい、綺麗な顔……)
 少年っぽさを残しながらも、どこか知性の滲む整った顔立ちをした青年は、リリアーナと目が合うとわずかに目を細めた。
 青年は、その冷ややかな視線にさえ怜悧《れいり》さを感じるほど、貴族として完成された優美さと高貴さを滲ませていた。線が細く、一瞬、女性と見間違えたかと思うほどに美しい人だった。
「リリアーナ嬢?」
「申し訳ありません……あの……」
 彼のあまりの美貌に驚き、無言で見つめてしまっていたことにようやく気づく。不躾だったかと目を逸らすも、冷や汗が止まらない。
(どうして私の名前知ってるの~!)
 まさか名前まで知られていたとは思わなかった。ハンカチの名前を見られたら、刺繍がド下手だとバレてしまうではないか。この学園では楚々とした貴族令嬢で通しているのに。
「これは君のだろう?」
「ち、違います……わたくしのじゃ……」
「下手くそな刺繍でリリアーヌって縫ってあるが。ほかに似たような名前の女性はいなかったはず……」
「リリアーヌじゃなくてリリアーナです! 女なのに刺繍が下手くそで悪かったわね! 男のくせに背が高いだけでひょろっひょろのあなたに言われたくないわよ!」
 リリアーナの声がざわついたダンスホールに響く。近くにいた男女が驚いて、自分たちを振り返るも、カッとなったリリアーナは気づかなかった。
 リリアーナは彼の手にあるハンカチを奪い取った。にやりと笑われ嵌められたことに気づいてももう遅い。周囲を見回すと、リリアーナへダンスの申し込みに来ていた男子生徒にさっと目を逸らされる。
(はぁ、終わったわ……まぁでも、しおらしいふりなんて性に合ってなかったし、いっか。婚約相手が見つからなかったらお父様は怒るかもしれないけど。卒業までまだ時間もあるしね)
 次から次へと男性から話しかけられる煩わしさから解放されるのなら悪くない。
 刺繍が下手なのは自分でもよくわかっている。しかし、それを誰かも知らない他人から指摘される恥ずかしさといったらなかった。
 リリアーナは憎々しげに青年を睨み、唇を尖らせた。
「そう、持ち主が見つかって良かったよ。リリアーナ嬢。ちなみに俺はひょろっひょろじゃない。これから逞しくなる予定なんだ」
「ふんっ、どうかしらね。そうなれたらいいわね」
「君も卒業までに刺繍が上手くなってるといいな」
 彼は口元を押さえながら肩を震わせている。周囲の注目を集めていることに気づいたリリアーナは、返されたハンカチを握りしめたままその場から駆けだした。
(むーかーつーくー!)
 貴族女性としてはあるまじき足さばきでドスドスと音を鳴らしながら、リリアーナはダンスホールを出た。
 彼の名を一学年上で学年トップのテオドリック・マイヤールだと知ったとき、ほかの誰と結婚しても彼だけはいやだと思ったものだ。
 それなのに、いったいなにが彼の琴線に触れたのか、テオドリックは度々顔を合わせてはリリアーナをからかってくるようになったのだ。
 男子生徒は鍛錬、女子生徒は刺繍の時間。課題が時間内に終わらず、リリアーナは四阿《あずまや》で刺繍の続きを刺していた。すると急に手元に影が差し、なんだろうと顔を上げる。
「テオ……またからかいに来たの?」
 リリアーナが顔を上げると、手元を覗き込むようにして腰を曲げる背の高い青年がいた。
 最悪な出会いから一年が経ち、リリアーナは十四歳、テオドリックは十五歳になっていた。
 互いに愛称で呼び合うようになったのは、いつからだっただろう。「あんたなんてテオで十分よ!」と啖呵を切った結果「じゃあ、お前のこともリリーと呼ぶから」と返されたのだ。
「からかってなんかないだろ。リリーの刺繍の腕がどれだけ上達したか見に来ただけだ」
「ずいぶんお暇なこと。婚約者がまだ決まってないと聞いたけど?」
 テオドリックはあと一年で学園を卒業する。卒業間近で相手が決まっていない人は少数だ。だが、リリアーナと違い、テオドリックが引く手数多であることは明らかである。彼にどうして相手がいないのか、不思議でならなかった。
「俺よりお前だろう。悠長なことを言っていたら、卒業なんてすぐだぞ」
「テオに言われたくないわ」
 リリアーナが卒業する頃には、当然彼はいない。
 あれから毎日のようにからかわれていたが、テオドリックがいなくなると思うとなにやら寂しいような気もしてくるから不思議なものだ。
 互いを名前で、それも愛称で呼ぶような気安い男子生徒はほかにいない。リリアーナにとってはケンカ友達のようなものだからかもしれない。
「なぁ、リリー、知ってるか?」
「なに?」
 彼はリリアーナの台詞を意に介さず、隣に腰かけた。いまだに男性と近い距離で話したことがないリリアーナは、少し身体を傾ければ触れてしまう距離に胸を轟かせる。
(ダンスのときは、授業の一環だって思えるのに)
 テオドリックの美貌のせいだろうか。
 いつからか、彼と話すとなんだかおかしな感情が胸をつくようになった。
 からかわれるのはいやなのに、彼の声を聞くと不思議と安心することもある。
 いったいなんなのだろう。この気持ちは。
 テオドリックの顔を見ると嬉しくて、見ない日は寂しくて。そんな自分の感情に戸惑い、こうしてケンカ腰でないと普通に話せなくなってしまったのだ。
「自分の名前を刺繍したハンカチを、好きな男に渡すのが流行っているらしいぞ」
 リリアーナは刺繍糸を手にしながら、テオドリックの話をなんとなしに聞いていた。
 卒業式間近になると、毎年必ずと言っていいほどその手の噂が流れ始める。ハンカチを交換するとか、リボンとタイを交換するとか。噂はいろいろあるが、今年はハンカチを好きな男性に渡せばいいらしい。
 ハンカチを渡し相手が受け取れば、告白に了承がもらえたことになるようで、その後、親を交えた婚約の話に進む。だが、渡したい相手もおらず、相変わらず渡せるほど刺繍の腕もない自分には関係ない。
 あの一件から、リリアーナに告白してくる男性は一気に数を減らした。今となっては、見た目に言い寄ってくる男性か、伯爵家の令嬢という肩書きに寄ってくる男性だけだ。
(結婚は義務だし、いずれって覚悟はしてるけど……)
 学園を卒業するまでに相手が見つからなければ、舞踏会などで相手を探すか、両親が誰かとの縁談を持ってくるかどちらかだろう。
「知ってるけど。それがなに?」
 リリアーナは糸を切り、ハンカチを広げた。
 やはりリリアーナがリリアーヌになってしまっているが、一年前よりはたしかな成長を感じる。今回は名前の横に花まで縫えたのだから。花ではなくて生い茂った草にも見えるが。自分が花だと思えば花だ。
「刺繍が下手過ぎて、誰にも渡せないんだろ? 仕方ないからこれは俺がもらってやるよ」
 膝の上で丁寧に折りたたんだハンカチをひょいと奪われる。
「ちょっと! なにするの!」
 立ち上がり慌てて取り返そうとするも、頭一つ分以上高く掲げられて手が届くはずもない。いつの間にこれほどの身長差になってしまったのだろう。
 リリアーナがさらに腕を伸ばそうとテーブルに手を突くと、しまい忘れていた針が指につぷっと刺さってしまう。
「いった……っ!」
「なにやってんだバカ!」
 やや乱暴な動作で手を取られて、赤く血の滲んだ指先がテオドリックの唇に触れた。
 あ、と思ったときには彼の舌が指先を這っていて、混乱と羞恥でなにがなんだかわからなくなる。
「な、な、な……」
 どうして舐めるのとか。なにをするのとか。言いたいことはたくさんあるのに、言葉が出てこない。テオドリックの唇が指先に触れた瞬間、自分の中ではっきりしなかった想いに気づいてしまったからだ。
「色気ないな。もうちょっと可愛い声で喘げよ」
「喘ぐわけないでしょ!」
 頬を真っ赤に染めたリリアーナに気づいたのか、テオドリックが驚いた顔を見せる。
 それも一瞬のことですぐにいつもの調子に戻ると、ポケットから自分のハンカチを取りだし、リリアーナの指先を器用にそれで包んだ。
「血が止まるまで押さえておけ。そんなに深く刺さってないと思うけど」
「私の使っていいのに」
 テオドリックのハンカチはそれはもう完璧な形で彼の名が刺繍されている。自分の縫ったものとは比べものにならない。
 彼の母親が縫ったものか、それとも恋人が縫ったものか。彼の想い人を想像し気持ちがふさぐ。恋心に気づくのが遅過ぎた。彼はもう卒業してしまうというのに。そもそも出会いからして最悪だったのだ。自分を好きになってくれる可能性は万に一つもないだろう。
「これは俺がもらった物だから」
 つい、彼にハンカチを渡したいという思いに駆られてしまい、あげていないとは口に出せなくなった。リリアーナの想いなど知る由もないだろうが、好きな相手にハンカチを渡せただけで叶わないこの恋心が報われた気もする。
「あとで洗って返すね」
「いいよ、やる。これと交換な」
 リリアーナが渡したハンカチをひらひらと振り、テオドリックはその場をあとにした。
 その後、テオドリックが誰と婚約したのかは、風の便りにも聞かなかった。卒業後に行われるパートナー同伴のパーティーには参加しなかったらしい。
 彼に恋心を抱いていた令嬢は片手の数では足りない。そのことから、彼はおそらく誰も選ばなかったのだろうと思われる。
 貴族男性の結婚は、女性ほど早くない。卒業してすぐに騎士団でめきめきと頭角を現し、次期団長候補と呼び声の高い彼からすると、今婚約相手を決めるのはもったいないと考えたのかもしれない。
 それからさらに一年が経ち、リリアーナの卒業が近づいてきた。
 卒業間近になっても、リリアーナに決まった相手はいない。候補はいるものの、彼らとの結婚はどうしても考えられなかった。
 もう忘れなければと思うのに、胸の奥に深く根付いた想いは消えてくれない。彼らと話をする度に、テオドリックの言葉や仕草を思い出し、比べてしまう。テオドリックでなければいやだと心が悲鳴を上げる。
「お父様、お呼びと伺いましたが」
 屋敷に帰ったリリアーナは父に呼び出しを受けて、部屋を訪ねた。用件はわかりきっていた。自分の婚約についてだろう。
 扉をノックすると、中から「どうぞ」と母の声が聞こえてきた。
「リリアーナ、お前の相手が決まった」
 父が開口一番に重々しい口調でそう言った。
 隣で寄り添うように立つ母は、嬉しそうに穏やかな微笑みを浮かべている。リリアーナはついに来たかと拳を握りしめて、平静を装い頷いた。
「はい」
 父も母もリリアーナには甘い。だが、平民のふりをして王都の街を歩くことは見逃されても、婚約から逃れることは許されない。
 姉は伯爵家を存続させるために夫を迎えた。リリアーナがこの家にとって少しでも利になる相手と婚姻を結ぶのは至極当然のことなのだ。
 いったい誰が相手なのだろう。
 おそらく貴族だとは思うが、近年、平民の中にも商売で成功を収め貴族位を叙爵された者もいると聞く。年の離れた相手の可能性もあるが、テオドリックでなければ誰でも同じだと諦念《ていねん》の思いで俯いた。
「相手は、マイヤール侯爵家の嫡男。リリアーナ、お前もよく知っているだろう?」
「マイヤール侯爵家って……お父様。テオ、なの?」
 唇が歓喜に震えるのを止められない。
 自分の聞き間違いでないことを祈るように、父に尋ねる。
「あぁ、テオドリック殿だ」
 マイヤール侯爵家はボルテール伯爵家よりも格上である。伯爵家が婚姻を願い出ても、向こうの利がなければあっさりと断られてもおかしくない。
(でも、決まったってことは……)
 リリアーナの戸惑いを見抜いたように、母が口を開いた。
「侯爵様からもいいお返事をいただいてるわ」
「婚約は両家で話し合いを行うが、テオドリック殿が近衛騎士に抜擢されたため結婚はまだ先になりそうだ。だが婚約者のいる身だということを常々忘れないよう、行動には気をつけなさい」
 近衛騎士となった彼との結婚が先になるのはどうしてかと疑問に思ったが、相手がテオドリックであるという夢のような事実に胸がいっぱいでそれどころではなかった。
 緩みそうになる口元を引き締めて、リリアーナは淑女の礼を取った。
「はい、謹んでお受けいたします」
 誰かも知らない相手に嫁ぐことも覚悟していた。リリアーナが初めて恋をした相手。その相手との婚約を断るはずもない。
(どうしよう……テオと結婚できるなんて)
 それも先方も了承しているという。だがすぐに、寝て起きたら夢だった、なんてことがあるかもしれないと不安に駆られ、その日の夜は眠れなかった。
 そしてしばらくの後、内輪だけの婚約祝いの晩餐会が行われることになった。
 リリアーナの前に顔を出したテオドリックは、すでに少年っぽさなど欠片もなく、あの頃の美貌はそのままにさらに身長が伸び、逞しい体つきになっていた。
「テオ……」
 真っ直ぐに伸びた艶のある黒髪は変わっていないのに、人を寄せ付けない冷たい美貌にはさらに拍車がかかっていた。顔立ちからはわずかに残っていた甘さが消え、エメラルドをそのままはめ込んだような透き通った瞳に目を奪わずにいられない。
「久しぶりだな、リリアーナ」
「え、えぇ」
 テオドリックに見蕩れていたリリアーナは、羞恥を悟られたくなくて俯きがちに答える。学園にいた頃、どうやって彼と接していたかわからなくなってしまった。
「刺繍の腕では上がったのか?」
 にやりと口角を上げた彼がからかうような口調で言った。そのせいで、負けん気の強いリリアーナの闘争心がむくむくと反応してしまう。
「ちょっとは上手になったわ!」
 どうやら変わったと思ったのは外見だけだったらしい。あの頃のようにひょろひょろだと言い返せないのが悔しい。こんなにかっこよくなっているなんて反則もいいところである。
「お前をからかうのも懐かしいな」
「もう……なんなのよ」
 あの頃の懐かしさが込み上げてきて、リリアーナの目に涙が滲んだ。
 目が合うと、彼の微笑みが深まった。テオドリックが学園を卒業してからどれだけ寂しかったか。誰と話していても虚しく、物足りなかった。それほどに彼だけを求めていたのだと思い知る。
(私……思ってたよりずっと、テオのことが好きなんだわ)
 テオドリックが卒業してから、あと数ヶ月で一年が経つ。
 胸にぽっかりと空いた穴を埋めるように、大事にしまったテオドリックのハンカチを時折眺めていた。彼の匂いはすっかりなくなってしまい、指先で名前の上をなぞるだけの日々。
 在学中、何人かの男性にハンカチがほしいと遠回しにねだられたけれど頷けなかったのは、すでにあの日、ハンカチと一緒に心ごと全部テオに渡してしまっていたからだろう。
「久しぶりに会ったんだもの。話もしたいでしょう? 食事の前に、二人で庭を散歩でもしてきたら?」
 母の勧めに頷いたのはテオドリックだ。
「そうだな。話したいこともあるし、外に行こう」
 リリアーナも彼に聞きたいことがあったため、差しだされた手を取り、立ち上がる。
 テラスから外へ出ると、春の訪れを感じる爽やかな風が火照った肌を冷ましてくれた。だが、二人きりになると一気に緊張が高まり、上手く言葉が出てこない。
 テオドリックとの婚約が決まり、浮かれていたのは数日だ。その後は疑問だけが残った。
 彼ならば、学園在学中からたくさんの縁があったはずだ。それなのにどうして自分と婚約したのだろう。
 学園にいた頃から浮いた話は聞かなかったけれど、家格を含め選り取り見取りだったことはたしかである。だが何人もの女性が彼に玉砕した。中には、王家の遠縁にあたる家の出の女性もいたはずだ。それらを断って、どうしてボルテール伯爵家からの縁談を承諾したのか。
 考えられるのは一つだけ。彼もまた、学生時代に仲の良かったリリアーナを憎からず思っていたということ。
 もしそうであったなら、自分たちは幸せな結婚ができるのではないだろうか。
(失敗作だけど、ハンカチだって渡したし)
 学園在学中に彼が受け取ったハンカチは、おそらくリリアーナが渡した一枚だけだ。
 もしほかの女性からのハンカチを受け取っていたならば、噂にならないはずがない。むしろ、女性本人が嬉々として噂を流すだろうことは想像に難くない。
「寒くないか?」
「うん……暑いくらいだから、大丈夫」
 季節の花が植えられた庭園を眺めているふりをして、テオドリックの横顔を覗き見る。ちらちらと横目に見ていると、十回に三回くらいは目が合い、その度に恥ずかしさから目を逸らしてしまう。久しぶりに顔を見られたのだとしても、浮かれ過ぎではないだろうか。
「なんだよ、今日はやけにしおらしいな」
「いや……だって」
 ただ恥ずかしいのだとは口に出せなかった。
 それに、テオドリックが婚約者だと言われて、どういう態度で接すればいいかわからない。彼の自分に対する態度は学園にいた頃となんら変わりはないけれど。
「ねぇ、どうして……私との婚約を了承したの?」
 勇気を振り絞って尋ねると、その場で立ち止まったテオドリックは、突然リリアーナから手を離し、横を向いてしまう。
 こちらを向いて、もう一度手を繋いでと口に出せたなら良かったが、そんな素直な想いを口に出せる性格をしていなかった。
 リリアーナは花壇の花を眺めながら、そっとため息をついた。
「あーまぁ、なんだ……学園にいた頃から、次から次へと縁談が持ち込まれて面倒だったんだよ」
「面倒……だから卒業しても婚約しなかったの?」
「あぁ。けどいよいよ外野がうるさくてな。お前なら気心も知れてるし」
「それって……仕方なくってことよね」
 声が震えてしまう。
 蓋を開けてみれば納得のいく理由だ。縁談を断り続けることが面倒だから、仕方なくリリアーナとの婚約を受けた、なんて彼らしいではないか。
 もしかしたら好かれているかも、などと期待しなければ良かった。
(そうよね……好かれてるなんて思った私がバカだわ)
 ケンカ腰でばかりいた自分が、テオドリックに女性として見てもらえるわけがない。愛されなくとも、好きな相手と結婚できるのだから喜ぶべきだろう。むしろ自分は幸せな方だ。
(私を愛してほしいなんて、そんなの贅沢な願いね。これ以上求めなくても、十分過ぎるくらい幸せな方だし)
 リリアーナに愛情がなくとも、結婚後は義務を果たし子をもうけてくれるだろう。
 褒められたものではないが、子さえできれば妻は用済みだと愛妾《あいしょう》を囲う貴族男性も多い。
 彼も今は面倒だと思っていても、本当に好きな相手ができたらそうするつもりかもしれない。
 自分たちは恋愛関係になくとも、友人としてはそれなりに仲がいい。たとえ愛妾ができたとしても、妻としてそれなりに尊重してくれるだろう。
 それなのに、仕方なく自分が選ばれたのだと思うと、遣る瀬なさが胸をつく。いつか本当に愛する人と肩を並べているところを想像するだけで、息をすることもままならない。
「いや、仕方なくって言うか……」
 テオドリックが一瞬でもこちらを振り向いていたならば、リリアーナの目に涙が浮かんでいることに気づけただろう。だが彼は目を背けたまま言い淀むように言葉を重ねた。
 彼がこちらを向く前に気持ちを立て直さなければ。リリアーナは唇をぎゅっと噛みしめ、漏れそうになる嗚咽をこらえた。
(私を……好きになってくれないかな……)
 惚れ薬でも盛って彼の心を手に入れることができたなら。そんなものがあるわけもないのにバカなことを考えてしまう。
 それに、諦めるのはまだ早い。
 ケンカばかりだが友人にはなれたのだ。時間が経てば愛情が芽生えることだってあるかもしれない。
「私だって、知らない相手よりテオの方がマシよ」
 強がって言うと、テオドリックが振り返り、ふんと鼻を鳴らした。
 目が赤くなっていないかと心配だったが、気づかれなかったようで胸を撫で下ろす。
「どうせお前は、俺以外にハンカチの一枚も渡せないままだと思ったからな」
 図星を突かれてなにも言い返せない。
 たしかにテオドリック以外の男性にハンカチは渡せなかったが、それは刺繍が下手だからでも恋愛に興味がなかったからでもない。
 テオドリック以外の男性に渡したくなかったからだ。
「へぇ、本当に渡してなかったのか」
「うるさいわね!」
 伝わらない想いがもどかしい。彼の言葉にいちいち傷ついてしまう自分が情けなかった。
「そうだ。結婚式だが、俺の都合で二年後になるから」
「都合って?」
「騎士団員は王城の寮にいるんだよ。屋敷にはほとんど帰れない。結婚して一人で家にいさせるくらいなら、お前はこっちにいた方がいいだろう?」
「どうして二年なの?」
 将来的には爵位を継ぐだろうから、その頃に領地に戻るのかもしれない。が、まだ彼の父親は若い。早過ぎるような気もする。
「出世する予定だから。あ、これ内緒な」
 たしか騎士団長、副団長は宿舎住まいではなく、王都に屋敷が与えられると聞く。テオドリックの実家であるマイヤール侯爵家はもともと王都に屋敷を持っているため、出世すれば屋敷から通えるのかもしれない。けれど、たった二年で出世とは。
(そういうのって、十年二十年研鑽《けんさん》を積んでなるものじゃないの?)
 冗談めかしていても、彼なら本気でその地位を手に入れられそうな気もして、リリアーナは曖昧に頷くしかなかった。
「あ、そう」
「そんなに会いには来られないけど、お前はもう婚約者のいる身だからな。俺がそばにいなくても浮気するなよ?」
「それはこっちの台詞なんですけど」
「浮気してる暇なんてない」
「ふぅん、暇があったら浮気するんだ。へぇ~」
 彼の心は自分にないのだから、好きな人ができれば愛妾となる可能性は高い。それでもリリアーナは幸せな方だ。好きな人と結婚し、子を産めるのだから。そう思っていないと、自分があまりにも惨めでならなかった。
(でも……でも……心も欲しいって思ったらいけない?)
 贅沢だろうか。テオドリックに好きになってほしいと思うのは。
 リリアーナは痛む胸を手で押さえて、唇を噛みしめた。

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