「……する?」
あらすじ
「……する?」
「する」
地元の名家だった実家を飛び出し、昼はバイト、夜はキャバ嬢として不安定な生活を送る美紀。
夜の街で偶然再会したのは、美紀と同じくしがらみを嫌って家を出た、幼馴染の徹だった。
かつての想いを取り戻すように、甘い甘い同棲生活を送る二人。
だが美紀は実家に居場所を知られ、徹は実家のお家騒動のいざこざに巻き込まれてしまい――
作品情報
作:日野さつき
絵:夢志乃
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本文お試し読み
●0
十分に身構える時間もなくて、美紀は混乱しそうになっていた。
その混乱を悟られたくない。
ベッドに横たわり、自分の裸体をさらすのははじめてで――欲情した男性のはだかを目にするのもはじめてだった。
欲情した彼の男性器が大きくて、美紀は思わず目を逸らしていた。うっすらと知っていたが、あんなかたちになるとは思ってもみなかった。自立していて、はじめて見るものなのに卑猥に映る。
「美紀ちゃん、きれいだなぁ」
肌と肌がふれ合った彼のくちびるが肌に吸いつき、舌が這い、刺激された箇所がじりじりと熱くなる。
うっとりするほど気持ちよくて、美紀は身体の芯が震えていた。
ずっと抱きしめていてほしかった。それ以上のことをしなくても、美紀の心臓は激しく脈打っている。
彼の舌先が美紀の乳首を翻弄しはじめた。胸だけでなく、背中や腰にまでえもいわれぬ感覚が広がる。覆い被さった彼が夢中になっている姿に、胸の奥に甘い満足感が広がっていった。
「っ、あ……っ、んっ」
一瞬身を強張らせた美紀は、シーツをにぎりしめた。
彼の指が身体をまさぐってきて、それが下腹部に降りる。
――セックスするんだ。
亀裂に侵入した指先に美紀は抵抗せず、そこから濡れた音が聞こえてきた。羞恥心から頭のなかが真っ赤になっていくが、それを上回る強い快感があった。
彼が乳首の周囲に軽く歯を立ててくる。情欲で浮かされたようになった頭で、美紀は強く噛んでほしいとさえ思っていた。
「あっ、ぅん……っ」
指が秘所をかき混ぜ、美紀は左右に割られたそこをじんじんと疼かせていた。反応して腰が小刻みに前後してしまう。
「よかった、興奮してたの……俺だけじゃなかった」
ずっと美紀は興奮していた。
身を起こした彼が、準備を整えていく。
――性的な経験ははじめてだった。
振り返った彼は避妊具を身に着けていた。
これからおこなうことをわかっているからか、卑猥だったそれがとても凶暴な姿に変わっていた。
――これから美紀に入ってくる。
覆い被さってきた彼がうなじをそっと吸い上げ、美紀の身体を開かせてきた。
かすかな恐れのなか、先端が濡れそぼった美紀の淫花に押しつけられる。
美紀は目を閉じていた。
●1
仕事の帰りに立ち寄るコンビニは、いついっても高校生くらいの男の子たちがたむろしていた。
周辺にあるのはどこかの会社の倉庫や、消防団の倉庫のみ。煌々としたコンビニの明かりはつい足を向けたくなるもので、店舗前の駐車場にある車止めのひとつは、いつも彼らが占拠していた。
漏れ聞こえる話題は好きな女の子や音楽だ。
言葉遣いは乱暴だし身振りが大きくガラが悪いが、耳に入ってくる話題は見た目と相まってかわいらしく感じられた。
いつも立ち寄る美紀の顔を覚えたのか、いつからかサングラスをかけている少年が手を振ってくるようになっていた。パンダの目のような大きいレンズのサングラスで、似合っていなくて微笑ましい。
その年は梅雨明けがはやく、進む夜の道はむっと暑い。空気が圧力を持っているようで、駅から五分も歩かないうちから汗ばんでいた。
通気性のいい素材だが、前を閉じた長袖のパーカーのなかは蒸し風呂のようになっている。
とくに遅い時間にコンビニに立ち寄ると、たいていおなじバンが駐車場に停まっていた。海外アーティストのステッカーが貼られていて、それで覚えてしまったのだ。
それは終電手前くらいに帰ってきたときに見かけるもので、そのバンが駐車スペースにいると少年たちは口を開かないでいる。
窓ガラスにはスモークが貼られていて、なかがどうなっているかは一切うかがえない。
バンの持ち主は、美紀とおなじようにただコンビニに立ち寄っているだけだ。そう思いたいして気にしなかったのだが、チラチラと少年たちが視線をそちらに投げ、どことなく困ったような顔をしているのが引っかかっていた。
「こんばんは」
その日声をかけたのは美紀からで、少年たちは驚いた顔をした。はじめて声をかけたのだ。
すぐ彼らは相好を崩し、口々に挨拶を返してくる。
「おねえさん、仕事帰り?」
パンダくんがヘラヘラ顔でいう。彼の歯が溶けていないことに美紀はほっとしていた。
「そうだよ、こんな時間になっちゃった」
美紀はそういってから、バンに目を向けた。
「あの車ってよく……」
「駄目だってぇ!」
低い声を出し、パンダくんは美紀の腕を引く。コンビニ前で一緒になって、車止めを囲んでしゃがみこんだ。
「あのバン運転してんの、ちょっとヤバいやつなんだよ」
お菓子の袋を開け、少年のひとりがそれを車止めに置く。当然のように全員が食べはじめるので、美紀もそれに参加した。
「いま店んなかいっけど、あんま見ちゃダメだよ」
「ヤバいって、知ってるひとなの?」
うーん、とうなる彼らの様子からして、よく知っている間柄ではなさそうだ。
「……卒業しちゃってるんだけど、二個上の先輩の元カノさんいてぇ」
卒業生の元カノ――ずいぶん遠い関係が出てきた。
「いま風俗って話なんだけど、送迎有りだからイイっていってたらしくて、で、なんかあそこ、マジでヤクザついてるって」
彼はバンを指さす。あれ、と声をひそめていた。
「……あれがそうなんだ?」
卒業生の元カノがいま風俗で働いていて、くだんのバンがその店の送迎車なのか。
ヤクザヤクザと口々にいい、彼らは神妙な顔つきでうなずいている。
風俗じゃなくても、商店や飲食店などさまざまなところに彼らはついてるよ――美紀は思ったが、それはいわないでおいた。
「運転手が、ちょっとまじでヤバいって話あって」
「ヤクザなの? 運転手さん」
「あー……それはちょっとわかんないんだけど、なんていうか……服役とかじゃなくって、女相手でもボコるときマジんなるらしいんすよ」
「そうそう、テッテーテキなんだって」
少年たちは真剣で、しかし話す内容が要領を得ない。
噂で聞いた怖いひと、ということらしい。
美紀が肩越しにバンを見ると、少年たちは慌てたようだ。
「駄目って!」
「にらんでるとか思われたらまずいって!」
「からまれたらヤバいよ!」
「ご、ごめん……」
美紀が謝ると、パンダくんが車止めに置いてあるお菓子を勧めてくれた。
「ありがとう。でももういいわ、いかなきゃ」
お礼をいって美紀は立ち上がる。
「いま買いものすんの? おねえさん大丈夫?」
パンダくんは心配してくれているようで、美紀は肩をすくめてみせた。
「たぶん」
ほんとうにヤクザかも怪しいし、ヤクザがのべつ幕なしに暴力を振るうわけではない。
そこで自動ドアの開く音がし、専用のメロディが流れた。
少年たちが一斉に息を飲んだ。
美紀が肩越しに見ると、そこには男が立っている。
「……やっべ」
そのちいさな声は、どの少年が発したものかわからなかった。
コンビニを出てきた男は、仕立てのいい黒のスーツに身を包んでいる。決してガラが悪く見えるわけでも、人相が凶悪なわけでもない。
背後の少年たちが押し黙り、それでその男が話に出ていた運転手なのだと確信できた。
短い髪の毛と、浅黒い肌――凜々しく整った顔のなか、すこし眠そうな目が美紀を見下ろしていた。
とくに怖いと思わない。
むしろ親しみの持てる顔つきだと美紀が思ったとき、男が微笑みを浮かべた。
「やっぱそうだ、美紀ちゃんだ」
美紀はなにがどう、と思うより先に、鳥肌を立てていた。
ぴっちりと前を閉じた長袖のパーカーの下、粟立った肌を汗が流れる。
「え……」
「美紀ちゃんじゃない? わかるかな、俺」
笑顔になると、男の切れ長だった目は人なつっこくほそめられていく。
その顔を知っていた。
「……春原、くん?」
「そう! ときどきここで見かけててさ、もしかして美紀ちゃんじゃないかって――こっちに出てきてたんだ?」
そう話す彼の背後、自動ドアが開く。出てくる客の邪魔にならないようそっと押し出され、美紀はバンの近くまで足を進めていた。彼の背後、少年たちが目を丸くしているのが見える。
「私、大学出てからこっちに……」
美紀の言葉はそこで止まってしまった。
どこかに就職しているわけでもなく、美紀は昼と夜にそれぞれアルバイトをしている。それも決まった仕事ではない。卑下するものでも誇るものでもなく、美紀は笑顔を浮かべる彼――春原徹の顔を見上げた。
それは懐かしい顔だった。
彼と最後に会ったのは、小学校の卒業式だ。
地方都市というには寂れ、しかし過疎地というにはひとの多い場所にある小学校だった。一学年二学級という規模で、縁あって彼とは小学校三年生から卒業まで一緒のクラスで過ごした。
仲はよかった。
それこそふたりだけで遊ぶこともあったし、なにをするでもなく手をつないだりもしていた。小学一年生と六年生では、手をつなぐことの意味が違う。
小学校の卒業式、そのタイミングでなにもいわずに彼の家が引っ越してしまわなければ、美紀はおそらく徹と彼氏彼女という関係になっていたのではないか。
「乗ってかない? っていっても俺の車じゃないけど」
「このバンって……」
「あいつらからなんか聞いてる?」
徹は笑い、少年たちを指さした。彼らが身をすくませたのがわかると、徹は声を上げて笑った。
「なんもしねぇよ!」
少年たちにそう声をかけ、徹は運転席に身を滑りこませる。
開いた車のドアから、甘ったるい香水のにおいが漂い出てきた。いくつもの香水がブレンドされた、思わず呼吸を止めてしまうようなものだ。
車内は飾り気のないもので、後部座席はがらんとしている。
「みんな送ったから、美紀ちゃん乗せても問題ないし」
断ることも考えていた――まだコンビニで買いものをすませていない。小学校以来会っていない相手は他人とほぼおなじだ。知らないひとについていったらいけないのだ。
短い時間逡巡した美紀が結局助手席に乗ったのは、少年たちに徹のことを説明するのが面倒だったからだ。
少年に声をかけてみた理由も似たようなものだった。
――もうすぐこのあたりを去ることが決まっている。
――だから、すこしだけ。
「道、この先でいい?」
「歩いたら十分くらいだし、そのあたりでいいよ」
「なにしてるのかって、訊いても大丈夫?」
「いま? コンビニいって、買いものしそびれたとこ」
徹が笑う。笑う顔つきは変わっていないが、笑い方が違っている。どことなくつくりものくさくなっていて、美紀は笑えなかった。
「徹くんは?」
昔呼んでいた呼び方をしてみると、ひとりでくすぐったくなった。
「俺? 風俗嬢の送迎やってる」
少年の話していたとおりだった。声ばかり明るくて、美紀は窓の外に目を向けた。
「この先にコインランドリーあるでしょ、そこで降りるね」
「美紀ちゃんのこと教えてくれたら停めるよ」
「信号なかったっけ」
「無視する」
笑った様子のない、真剣な声だった。
横目に彼を見ると、彼もまた美紀を横目にして見ている。
「……昼と夜でバイトしてるの。どっちも毎日じゃなくて……でも今日は両方だったから、ちょっと疲れた」
「なにやってるか訊いても?」
「面接みたいだね」
「ちょっと先の大通り出てもいい? コンビニもファミレスもあるし」
徹は車から美紀を降ろす気があるのだろうか。そんなことを思ったが、美紀はうなずいていた。
大通りに出た車はスピードを上げる。最初からファミレスを目指していたようだ、コンビニを二軒通り過ぎる間に美紀は空腹を覚えていた。
中学生のとき、暮らしていた町にもファミレスが増えていっていた。
友達内で仲のいい男女が、デートの代わりにファミレスで話しこんでいるのを何度も見た。
彼がいてくれたら、きっと自分も――そんなことを当時考えていた。思い出された寂しさに美紀が息をついたとき、車はファミレスの駐車場に入っていった。
空席の目立つファミレスは店員の数もすくないようで、料理の提供が遅く、美紀も徹もフリードリンクをすでに二杯飲んでいた。
ボックス席に対面ですわったが、徹はこれといって話を切り出してこない。
おたがいの手元に目をやったり店内を見回すうちに、二杯目のアイスティーも美紀は空にしていた。
「おかわりする?」
「……ドリア入らなくなっちゃう」
徹がソファにすわり直した。
「残したら、俺食うよ」
「ドリアかグラタンか迷ったんだもん。食べたい」
「またくればいいんじゃない?」
徹の目つきが真剣で、美紀はうつむいてテーブルを見た。コップの下に水たまりができている。
「次にグラタン頼めばいいよ。俺もこのあたりだし」
おしぼりで水たまりをぬぐい、美紀は首を振った。
「私、引っ越し決まってるの」
美紀にとって楽しい話ではなく、緊張しているような声が出ていた。
「シェアしてた子が、彼氏と暮らすからって……解消になっちゃって」
ルームシェアをしている相手――みのりは、夜のバイト先を紹介してくれた子だった。周囲からは熱しやすく冷めやすいと評されているのだが、今度の彼氏には長いこと入れ上げていた。好きな相手と暮らしたいといわれたら、解消に異議を唱えることはできなかった。
「引っ越しの準備で忙しかった? ごめん、誘っちゃって……」
徹が申しわけなさそうにする。美紀は慌てて首を振った。
「謝らないで、これといって準備するものもないから」
「もう準備終わってる? 手伝えることあったら」
美紀は首を振る。
「引っ越し先って近い? よかったら」
どうこたえるか、美紀は迷っていた。
あまり詳細を口にしたくなかった。
次に住むところが決まっていないことも、美紀の荷物は大振りのボストンバッグひとつに納まってしまうことも。
「……迷惑じゃなければ、なんだけど」
徹が困った顔をしている。胸が苦しくなっていた。迷惑どころか、美紀はまた徹に会いたいと思っている。断りたくなかった。
住む場所が決まったら、それから連絡を取ればいいのか――ひとまず連絡先だけ交換して。
なにか口火を切るかと思ったところで、美紀のスマホが鳴り出した。
パーカーのポケットから取り出したスマホの液晶画面、そこには「みのり」と表示されている。
「ちょっとごめんね」
席を立ちながら通話をはじめる。
「もしもし――どうしたの?」
みのりはいつもメッセージアプリだけですませるのに、電話をよこすのは珍しいことだった。
今日みのりは夜のバイトは休んでいる。すでにみのりは彼氏の部屋に居を移していて、引っ越し後に顔を合わせるのは、バイトのときくらいだろう。
「待っていま外出るから、ご飯食べにファミレスきてて」
スマホに耳を当てながら、ファミレスの通路をおもてに向かっていく。
『残ってた荷物、彼のとこ持ってったの』
「ああ、今日休みだったもんね。彼氏さん手伝ってくれたの?」
みのりは業者を使わず、彼氏とその友人とで引っ越し作業をすると話していた。彼氏はハウスクリーニング業を営んでいると聞いている。
『それはいいんだけど、時間もあったから部屋のクリーニングもしてて』
「クリーニングも?」
美紀の返答は声が低くなっていた。それは退去してからするものではないのか。
『うん、美紀の荷物、まとめてガスメーターのとこに入れてあるから』
いつもより早口にみのりはいい、美紀はその語尾に食いつく。
「ちょっと、どういうこと?」
『部屋のなかきれいにしたから、とりあえずなにもないほうがいいかなぁって。大家さんにそのあたりの話、彼がしてくれてるから。私もうあの部屋には』
「待ってよ、私まだあそこに住んでるよ」
目の前が真っ暗になっていく。いいたいことがたくさんこみ上げてきていたが、舌がうまく動いてくれない。
『まだ部屋見つけてないの?』
「昼も働いてて、不動産屋なんてかんたんにまわれるわけないでしょ?」
そもそもルームシェア解消をみのりに持ち出されたのは、一週間ほど前のことなのだ。もしかしてみのりは、そのときからこうするつもりだったのか。
『なか入るのは自由だけど、汚したらまたクリーニング入れることになるよ、気をつけてね』
「こっちだって家賃払ってるでしょ?」
大きな声が出てしまった――同時にみのりに通話を切られる。
頭のなかが真っ赤に焼けていた。通り過ぎたスーツ姿の男性が、美紀を一瞥して足早に去っていく。
怒りから思考回路がおかしくなってしまったようで、みのりの電話番号の呼び出し方もわからなくなっている。
ガードレールに腰掛け、深呼吸をする。
ファミレス店内に目を向けると、徹が見ているのがわかった。手を振ってくるので、美紀もかろうじて振り返した。
さらに深呼吸をくり返すうちに、どうにかものを考えられるようになってきていた。だが心臓がやけに激しく打っている。
店内では料理はすでに運ばれていて、徹は手をつけずに待っているようだった。食べるジェスチャーをして見せると、店内の徹がうなずく。
かすかに震えた手でみのりに電話をかけてみたが、美紀からの着信を拒否する設定をされてしまったようだ――つながらなかった。
スマホを投げ出したいのを堪え、美紀は大股でファミレスに戻った。
「……トラブル?」
とんかつ定食をつついていた箸を置く徹に、なんとこたえたらいいかわからない。
運ばれていたドリアに、たっぷり粉チーズとタバスコをかける。すでに食欲が失せていて、口に運んでもうれしくならない。
徹が席を立ち、美紀のグラスにアイスティーを入れてきてくれた。
「ありがとう」
フォークを置き、美紀は頭を抱えた。
肩から落ちた髪はきれいに染められている。美容院にいったばかりだ――こんなふうに住む場所がなくなるなら、美容院にいかずにいたのに。みのりを責める気持ちより、自分の行動を振り返って後悔しはじめている。
「美紀ちゃん?」
「……あのさ、さっきの電話がさ」
顔を上げると、徹はドリアの上にとんかつを乗せてきていた。
「なにしてるの」
「怒った顔してるから、やけ食いしたいかなって思って。それで?」
「……電話、部屋をシェアしてた子からだったんだけど、今日私がいない間にハウスクリーニングすませたって」
徹の箸が空中で止まった。
「彼氏がそっちの仕事してるから、って。で、そのあと私のこと着信拒否して」
「え、電話してたのいまでしょ? 拒否?」
「そう。切られて、折り返したらもう拒否られてた」
「……荷物は?」
「あー、なんていうか、私の荷物すくないから……」
ドリアの上に乗っていたとんかつを口に運ぶ。ドリアも口に運ぶ。アイスティーを飲む――そうしているうちに、気持ちが落ち着いてきた。苛立ちなどが幾分かましになっている。
「クリーニングしたっていっても、なかは使えるわけ?」
「わからない……とりあえず帰って様子見る。荷物、ガスメーターのとこに入れたっていってたし」
思い出して苛立ってきた。美紀は粉チーズの塊で山ができているドリアを口に運び、怒りをこめて噛み砕く。
「ガスメーター?」
「ガスメーターとか水道の検針とか入ってる場所、部屋のとなりなんかにない? そこがけっこう奥行きあるから、不在のときに宅配入れといてもらったりしてたの。そこに入るくらいしか、私の荷物ないから」
知られたいことではなかった。
断捨離が趣味というわけではなく、美紀はバイトも住まいも転々としている。それでもルームシェアをはじめたのは、すでにみのりが家主として部屋を借りていたからだ。大家は美紀が住んでいることをおそらく知らない――だからこそ、みのりはさっさとハウスクリーニングまですませたのだろう。
「……引っ越し先は? 訊いても」
「徹くんの面接?」
美紀が顔をしかめてフォークを置くと、徹は定食のトレイをわきによけた。
「心配なんだ」
「心配されても……」
「俺が昔美紀ちゃんのこと好きだったの、知ってる?」
徹の手がのびてきた。
迷うことなく美紀の手をにぎってくる――その手は大きかった。
小学生のときに手をつないだ、そのときの胸の高鳴りがよみがえってくるかのようだった。
「すっごい昔のことじゃん」
その手を振り払おうとするより先に、徹の指がからみついてくる。
「美紀ちゃんが……俺のこと好きだったのも知ってるよ」
真剣な徹の声を、美紀は笑い飛ばすことができない。
美紀もそうだった。
昔のことでも、おたがいが思い合っていたのを知っている。
住むところが決まっていないどころか、もっと悪いことに帰る場所がなくなってしまったかもしれない。
美紀は二度ため息をつき、それから意を決して徹に現状を話しはじめたのだった。
§ § §
案内されたのは、広さのある部屋だった。築浅で、システムキッチンなども完備されている。
「……ひとり暮らし?」
「そ。このマンションちょっと悪い噂立っちゃって、家賃安めなんだよ」
「わ……悪い噂なんてあるの?」
外観はさっぱりしていて、地下駐車場からエレベーターに乗った美紀の感想は、家賃の高そうなマンションだ、とその一点だった。
「となりの住人がベランダ伝いに入ってきて、そこで死んじゃったんだよね」
「……な、なんで?」
美紀はリビングの先にある、解放感溢れた折り畳み窓を見た。カーテンは開いていて、そこに誰かがいたら気がつきそうだった。
「なんで死んだんだろうな。こっちのベランダでひとり、となりの部屋でひとり、合計ふたり」
「ひ……ひとりじゃないんだ」
「本人たちが死んじゃったから、なにがどうなってっていうのは……それこそ真実は闇のなか、ってやつ? 遺書もなかったみたいだよ。警察が心中だろうって。ひとり死に損なったけど怖くなって、こっちのベランダに逃げてきたんじゃないかって……そこで事切れたんだろうなぁ」
とくに気にした様子はなく、徹は大股に折り畳み窓に近づくとカーテンを閉めた。
「近所のスピーカーおばさんが、おもしろおかしくしゃべってまわったんだってさ。それでここが事故物件って広まって……そういうの気にする?」
「……あんまり知りたくないタイプ、かなぁ」
「そっか。まあ……このあたりに古くから住んでるひとだと、けっこう有名な事故物件になっちゃったんだ。知り合いがここに住むやつ探してて、家賃安くするっていうから」
「それで……徹くんが住むことになったの?」
「うん。幽霊とか出るなら、どんなものなのか気になって」
リビングの広さに対し、不釣り合いにちいさなテーブルに徹はコンビニのビニール袋を置いた。雑誌が入っているのが見え、袋は自立している。
つられるように美紀もリビングで荷物の入ったボストンバッグを置く。
美紀の荷物――いわば全財産はそれだけだ。無理矢理ガスメーターボックスに詰めこまれたからか、バッグの表面に切れているところがあった。
美紀の荷物に負けず劣らず、徹のマンションには家具や生活用品がなかった。自炊はしないようだ。
「幽霊は……出た?」
「残念だけど、まだ見たことない――こっちきて、部屋はどれ使う?」
案内されたのは洋室が三部屋だった。
ひとつは徹が使っており、大きなマットレスが床に直に置かれている。起き出したときそのままらしい毛布を、取り繕うように徹が畳んでいく。
そこの正面ととなりに一室ずつ空室があり、好きなほうを使っていいという。
美紀は戸惑っていた――ファミレスで徹は俺と一緒に住めばいい、と当然のように口にし、美紀はついてきてしまった。
「俺シャワー使っちゃうから、その間にどっちにするか決めてくれる?」
「うん――」
徹が姿を消し、美紀はふたつの洋室を見比べていく。
どちらも広さはおなじで、窓が大きいか出窓かの差だった。クローゼットもおなじくらいの大きさだ。
「……半額でも、ここの家賃払えるかな」
安くなっているといわれても、間違いなくファミリー物件だ。元々が高値のマンションだったら、値下げされても結局高額の可能性がある。
ひとまず美紀は向かいの部屋に決め、ボストンバッグを取りにリビングに引き返した。徹の横の部屋だと窓は大きくなるが、隣人が侵入したというベランダが近くなるのだ。
リビングやキッチンを眺めると、設備も整っていて気が重くなる。引き出し式の食器洗浄機もついていた。
料理などをしている形跡はなく、キッチンのすみに直に置いてあるゴミ袋には、コンビニ弁当の空き箱が投げこまれていた。大きな冷蔵庫の横には、ロング缶のビールが箱で用意されている。
美紀はテーブルを振り返った。
置き去りのコンビニのビニール袋のなか、飲みもののペットボトルがあったはずだ。勝手に冷蔵庫に入れたら気分を悪くするだろうか。
「美紀ちゃん、風呂空いたよ」
ビニール袋に手をかけようとしたところで、徹の声がかかった。
「どうかした?」
「ううん……買いものしてたから、なにか冷やすものあるかなって」
「ありがと、自分でやるからいいよ」
スーツを脱ぎ、Tシャツとイージーパンツになった徹を前にすると、長い時間が経ったのに邂逅できたことが不思議になってくる。
美紀も徹も、別人になったといってもいいくらいの時間が流れているのだ。
――一緒にいるのはよくないかもしれない。
美紀は浴室に向かい、濡れたタイルを踏んでいく。浴室のすみっこにバケツがあり、洗剤とスポンジがまとめて入れてある。ふれるとスポンジは濡れていた。
「……掃除したのかな」
いまの徹は魅力的な男性に映っている。昔から整った顔立ちをしていたが、いまはそこに精悍さが加わっている。笑顔はいつまでも見ていたくなるものだ。
外見以外の判断材料は、美紀の記憶にある徹の姿が大半だった。
あんなに素敵で大好きだった彼だ、きっといまの徹も――そんなあやふやなものでできている。
過去の徹を引き合いに出していたら、現在の徹に幻滅しかねない。
やさしくて、強い言葉を使う相手にしりごみしながらも、徹は引かない少年だった。
引かないどころか、年下の子などの盾になっていた――だから、美紀は彼のことが好きだった。
浴室を出、置いてあったタオルと黒のTシャツ、そして徹のドライヤーを借りた。Tシャツの丈が長いからいいか、と下はなにも履かずにいた。
ドライヤーのごうごうという音がうるさく、鏡のなかで洗面所の引き戸が開いていく。まだ髪の芯が湿っていたが、美紀はドライヤーをオフにした。
「うるさくしてごめん、借りちゃった」
「かまわないよ――こっち、いい?」
先導されて、美紀は徹の部屋に入る。
マットレスには先ほどは見なかったシーツが敷かれ、毛布が行儀よく畳まれていた。
「来客用とかの布団、じつはないんだ。こっちで寝ない?」
真意を尋ねるまでもなかった。
コンビニのビニール袋のなか、コンドームの箱があるのを美紀は見ている。
「どうしたらいいと思う?」
心底わからなかった。
徹の顔が近づいてくる。目を閉じると、重なったくちびるのやわらかさに胸のなかがざわついた。濡れた舌が美紀のくちびるをなぞり、割り入ってくる。
舌を交えるうちに、徹の腕が荒々しくなってきた。美紀を抱きしめ、背中にまわった手がTシャツにかかる。
身体からTシャツが引き抜かれるとき、徹と目が合っていた。徹は情欲に潤んだ瞳をしていて、美紀は身体の奥が重く疼いた。
剥き出しになった乳房を隠そうと、美紀は腕をクロスさせる。美紀の身体を抱きすくめた徹が、背中に手のひらを押しつけてきた。
「ベッドいこ」
熱に浮かされたような声だった。
耳から入った声が、美紀の肩や背中、腰を走っていく。ぞくぞくとしたそれが、自分の情欲なのだと理解した美紀はうなずいていた。
美紀は徹に手を引かれ、マットレスの質素なベッドに腰を下ろした。枕元にあったリモコンで徹が照明を落とす。
うっすらとした明かりを浴び、徹がTシャツを脱いでいく。見上げる美紀は、彼が猛っていることを知っていた。抱きしめられたときに押しつけられている。
毛布を引き寄せて胸元を隠す間にも、徹は下着だけになってベッドにひざをかけてきた。
「美紀ちゃん……」
徹の肌に圧されるように、美紀はベッドに横たわっていった。
毛布を剥ぎ取られ、下着を脱がされるのは一瞬だ。下半身がシーツにふれる感触に慣れておらず、ひざに力を入れて足を閉じる。入浴後に下着以外なにも履かずにいたのは、彼にしたら誘っているように思えただろうか。
のしかかってくる徹の背に腕をまわし、深くくちづけられた美紀は足の間が疼いていた。どくどくと鼓動を打ち、美紀は両手で顔を覆う。
「……美紀ちゃん?」
「は、ずかしい」
うん、とこたえた徹の声はうれしそうなものだった。
「……俺も脱ぐね」
美紀の目をのぞきこんだまま、徹が下着を脱いだ。
放り投げられた布の軽い音を聞いた美紀は、身体の力を抜いていく。徹の腕に抱きすくめられ、どこにも逃げようがない。
彼の肩にひたいを寄せると、徹が身体をずらしていった。腕枕をされ、美紀はいまもまだ自分の身体が疼いていることに驚いていた。
抱きしめてくる徹の肌が熱い。下腹部の屹立が強く美紀の肌を圧してくる。
「俺さ」
大きな手のひらが背中を撫でてくる。
「ちょっと前からコンビニで美紀ちゃんのこと見かけてて、次に見かけたら絶対話しかけようって思ってたんだ」
「それが、今日?」
「うん。おもての子たちとなんかしゃべってるから、絶対話しかけるチャンスだよな、って思って」
「いいタイミングだったね」
「運がよかった」
ほんとうに、運がいい。
あそこで徹が声をかけるのに失敗などしていたら、美紀とはもう会わなくなっていたかもしれないのだ。
バイトをし、コンビニに寄り――そうしていた間に、暮らしていたアパートはクリーニングされていたのだから。
おそらく次はなかった。
「……コンドームまで買ってたもんね」
徹がくつくつと笑い出し、美紀を抱きしめてくる腕からそれが伝わってくる。それほど近いところにいることが、美紀にはくすぐったかった。
「俺は準備万端だよ」
その通りだった。美紀が身じろぐと、徹は腰を押しつけてくる。いきり立ったものを密着させられても、美紀はまったくいやではなかった。
おさない恋心だったが、きらいになって離れたわけではない。
彼がいなくなった町で成長しながら、もしもとなりに彼がいたら、と何度も考えたことがあった。
まるでその続きだ。
「……する?」
尋ねると、ひたいに徹のくちびるが押し当てられた。
「する」
彼の腕から力が抜かれていくと、上着を脱いだように肌が寒くなる。
「美紀ちゃん、きれいだなぁ」
首筋や胸元をついばまれると、美紀の肌はそこに火が灯ったようになっていく。じりじりと熱を残す徹のくちづけは、徐々に下方に降りていった。
「と、おる……くん……っ」
覆い被さった徹の舌先が、美紀の乳暈をそっとなぞる。
「っ、あ……っ、んっ」
一瞬美紀は身体を強張らせていた。
そうしてしまうような快感があり、徹がかたく尖った乳暈を口に含み、吸い上げていき――美紀はきれいに敷かれていたシーツをにぎりしめ、それを乱していた。
乳房のやわらかい部分に軽く歯を立てた徹は、片手を美紀の淫裂へと滑らせていった。
「あっ、ぅん……っ」
「ああ……すごく濡れてる」
くちゃり、と淫猥な音が聞こえた。長い徹の指が亀裂を前後し、感覚の鋭敏な部分をこすられると、美紀の腰は反応して小刻みに動いていく。
「よかった。興奮してたの……俺だけじゃなかった」
恥ずかしさから美紀が目をつむると、徹は身を起こしていった。
様子をうかがうが、部屋が暗くてよくわからない。
ただ物音からして、彼が準備をしているのだと察することができた。
――美紀と重なるための準備。
絞られた照明だったが、あらためて身をかがめてきた彼の股間が、これ以上ないほど張り詰めているのが見えた。被せられた避妊具が窮屈そうだ。
ふたたび徹と胸元を密着させながら、美紀はひどく緊張していた。
彼の男性は大きく見えた。受け入れることができるか不安になる――美紀はまだ男性経験がなかった。
うなじにくちづけを受け、美紀は身体を開かされていく。
「と、徹く……」
徹の腕の力は強い。あっさりと美紀の両足を大きく開かせた。美紀の脚力では、もう閉じることができなくなっている。
猛りの先端をあてがわれた部分で、また淫水が音を立てた。美紀は羞恥に目を閉じた。徹はそれに取り合わず、そこにかけられる圧が強くなっていく。
「美紀ちゃん……っ」
彼の情欲が押しこまれ、美紀は息を飲んでいた。
「ん、ぅ……う……っ」
即座に徹は腰をふるい、マットレスがきしみはじめる。
徹のくさびが引き抜かれるときも、打ちこまれるときも、美紀は全身に力を入れていた。
痛みが強く、美紀は徹の身体にしがみつく。
「と、徹く……いっ……ま、待って……っ」
「美紀ちゃん、どうかした?」
抽送が止まっても、美紀はしがみついた腕の力を抜くことができなかった。
「い……痛い……の」
「えっ」
驚いた声が聞こえた。そこには意外そうな響きがあって、美紀は涙がにじんでくる。
――はじめてだなんて、思いもしなかったかもしれない。
つながっていた部分から、徹の猛りが引き抜かれた。
「ごめん……俺、がっついたから……」
謝る必要のない徹が謝り、美紀を抱きしめてくる。
はだかの肩にひたいを押し当て、美紀はただ首を横に振っていたのだった。
(――つづきは本編で!)