飛竜の騎士様と二度目の初夜を~婚約破棄はとめどない深愛のはじまり~

「貴女の望みを叶えるのが、私の喜びだ」

あらすじ

「貴女の望みを叶えるのが、私の喜びだ」

同盟国の貴族との婚約を破棄されてしまったローレンス王国第三皇女リルシーユ。意気消沈していた彼女の元に、さらなる大国オーベルムの騎士団長ジークフリードから結婚の申し出が届く。リルシーユにとって彼は、かつて一度だけ大切な時間を過ごした思い出の人だったのだが、初夜に臨んだ彼女の事をまるで覚えていないかのように彼は素っ気なくて……。

作品情報

作:みずたま
絵:木ノ下きの
デザイン:RIRI Design Works

配信ストア様一覧

本文お試し読み

プロローグ

 橙色の火がやわらかく揺れている。
 少し開いた窓から春の夜風がするりと入り込んで、リルシーユの頬をひんやりと撫でた。寝台で真っ白な絹の敷布の上に緊張気味に腰かけていた彼女は、立ち上がって窓へ近づく。分厚い窓枠に手をかけ、試しに動かそうとしてみたが、彼女の細い腕では重いガラス窓を閉められそうにない。小さくため息をつくと、見事な彫刻が施された天蓋付きの大きな寝台へと戻る。その端へちょこんと腰かけてまた、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。
(ま、まだかしら……)
 ローレンス王国の第三皇女、リルシーユは落ち着かなげに寝室の扉を見た。艷やかな木目が美しい両開き扉は固く閉ざされている。彼女は次に部屋のなかを見回した。もう何度目だろうか、壁面を飾る何枚もの大きな額縁絵を順番に眺める。皇女はそのうちの一枚にじっと目を凝らした。描かれているのは緑溢れる山々と大きな太陽、そして、光を受けて煌めく巨大な白い王城だ。
(本当に、ここはオーベルム王国なのね。何もかもがローレンスと違う)
 絵画の中の城なのに、なぜか威嚇されているような落ち着かない気分になってしまう。リルシーユは逃げるように俯いて、今度は自分の夜着をもう一度確認することにした。これももう夕刻から五回は繰り返しているのだが。
 雪のように白い絹の肌衣と、肩にかけた薄いショール。裾にも胸元にも凝ったレース編みをあしらっており、上質な肌触りだ。胸のあたりまで下ろした栗色の髪は蜂蜜を含んだ香油で梳かされ、艶やかに輝いている。リルシーユ付きとなった侍女たちが夕刻からいそいそと身支度を整えてくれたのだ。ほんの数日前、はるばる海を渡りこのオーベルム国へやってきた小さな島国の皇女のために。
 彼女は頭に触れた。白い生花を編み込んで作った花冠はオーベルムのしきたりで、初夜の花嫁の装いだという。
 そう、ローレンス王国皇女リルシーユは今日の正午にオーベルム国の大聖堂で婚礼をあげたばかりだった。そして初夜を迎えるため、この部屋で夫となった人物を待っている。相手はこの王国諸侯の中でも指折りの名家であり、騎士団長だという。
(なんだかまた緊張してきてしまったわ……)
 この国に着いてからまだ数日の花嫁は右も左もわからない。夫のことも、名前と肩書き以上のことは知らされなかった。婚礼が急にまとまったためだ。二人の初対面は婚礼式という慌ただしさで、豪華な式の最中も、ヴェールの中からはほとんど新郎の顔を視認できなかった。リルシーユは王族として恥ずかしくないように振る舞うことに集中していたせいもある。
(だって私には、もう二度と失敗は許されないのだから……)
 白い花で飾られた白亜の聖堂のなか、緊張したまま式は進みいよいよ誓いの口づけが宣言された。心臓の高鳴りが相手に聞こえてしまうかと思うくらいの静けさのなか、リルシーユはとうとう相手と目を合わせた。
 オーベルムの騎士である新郎は輝く礼装鎧に身を包んでいた。彼女をまっすぐ見つめる灰墨色の瞳。濃いまつ毛が、切長の瞳をより鋭く際立たせている。ひと目で、彼が類稀なる整った顔立ちをしているとわかった。だが。
(……え? この、この方って……)
 リルシーユは式の最中ということも忘れて、目の前の青年を凝視した。この顔に見覚えがあったのだ。忘れるはずもない、この印象的な瞳。
(ど……どうして……?)
 だが新郎は硬い表情のまま、彼女の唇へ触れるか触れないかの口づけをする。すぐにふい、と目を逸らした。同時に鐘の音が鳴り響き、二人は正式な夫婦となった。
(え……。ちょっと待って……。私のこと、覚えていらっしゃらないのかしら)
 青年に確かめたいのに、宴に次ぐ宴でろくに話もできないまま時間は過ぎ、リルシーユは今ここにひとり座っているのだ。
(早くいらっしゃらないかしら。ええと、ジーク、ジークフリード様)
 なぜか彼は式の間も全くの無表情だった。こちらの覚え違いだろうか。いや、そんなはずはない。でも。リルシーユはふるふると頭を振った。落ち着いて、落ち着いてと自分に言い聞かせていると、とうとう大きな扉が開いた。
「待たせて申し訳ない」
 かすかに息を弾ませ黒髪の青年が現れ、リルシーユは慌てて立ち上がり軽く膝を折った。彼女の夫となった人物、ジークフリード・バルセス。大国オーベルムでも有数の名門貴族、バルセス家の一員である。そして彼自身は、王国飛竜騎士団の若き団長という地位についていた。海の彼方の小さなちいさな島国、ローレンスとは比べ物にならないほどの財力と権力を持った一族の青年だ。緊張で少し声を上ずらせながら、リルシーユは目を伏せる。
「いえ、お気遣いなく……」
 ジークフリードはそこで立ち止まったまま、暫くの間動かなかった。
(ど、どうされたのかしら。お部屋に入ってこない……)
 リルシーユはおずおずと顔を上げた。二人の視線がかっちりと合わさる。黒鳶色の前髪が額に垂れ、灰墨の瞳が静かに彼女を見つめていた。
(この方が、ジークフリード・バルセス様……私の、旦那様。……やっぱり、覚え違いのはずはないわ。私はこの方を知っている。でも、ジークフリード様は……)
 リルシーユがじっとその顔に見入っているとジークフリードは無表情のまま、彼女から再びするりと視線を外してしまった。
「では行こうか」
 彼は唐突に、外出用の分厚いマントを差し出した。
「え……」
 リルシーユは驚いて彼を見上げる。よく見れば、夜着姿の彼女とは対照的に、ジークフリードは外出用の装いをしている。夫は夫婦としての挨拶もそこそこに、新妻を外へ連れだすつもりらしい。
「いったい、どちらに……」
「森へ」
(も、森?)
 ぶっきらぼうに返されて、彼女はそれ以上尋ねられなくなってしまう。扉を出て回廊へ向かうジークフリードに、リルシーユも慌ててマントを羽織った。不意に彼が振り向く。
「『楽器』はお持ちか? リルシーユ殿」
「楽器……?」
 思いもかけない言葉にリルシーユは一瞬ぽかんと彼を見つめ、やがて何度も頷いた。
「あ……笛なら、持っています。こちらに」
 彼女はいそいそと鏡台から銀製の横笛を取り出した。故郷、ローレンスから持ってきたものだ。彼女の大切な演奏道具でもある。リルシーユは、故郷で指折りの笛の名手であったのだ。
「それを忘れずに、ついて来られよ」
 向かった先は城館の中門だった。ジークフリードは待たせていた馬に軽々とまたがると、リルシーユへ腕を伸ばす。
「こちらへ。少し揺れるが、我慢して頂きたい」
 丁寧な手つきで彼はリルシーユを自分の前に乗せてくれた。馬には多少慣れているのだが、このように殿方に乗せてもらうのは初めてだった。しかも、新婚初夜である。
(もしかして、この国では初夜のしきたりがなにかあるのかしら……)
 なにがなんだかわからないまま、馬の背に揺られてバルセスの城館を後にする。やがてついたのは、広大な森の入口だった。
「寒くはないだろうか」
 寒国育ちのリルシーユにとっては穏やかな夜だ。だが彼女は無意識に外套の合わせに手をやった。
「大丈夫です。でも、あの……。ここは」
 目の前に広がる森。月の光が眩しいほどに樹々の葉を照らしている。リルシーユは不思議な面持ちで眺めた。
(少しだけ、故郷の雰囲気に似ているわ)
 そのとき、頭上で聴き慣れない音が響いた。ばさり、ばさりという大きな音だ。リルシーユはあたりを見回した。
「な、なんの音?」
 彼女が戸惑っていると、やがて木々の間の向こうでガサガサと音がする。何かが、近づいてきている。リルシーユは思わず隣のジークフリードを見上げた。だが、彼は微動だにしない。
(なにが、出てくるの……?)
 現れたのは大きな生き物だった。馬の倍以上はある体と、地面に垂れた長い尻尾。爬虫類を思わせるその獣は輝く鱗に覆われていた。そして、巨大な翼。額には一本の見事な角が生えている。月の光に照らされた美しいその生き物は、二人に向かって両翼を広げて見せた。
「あ……。飛竜……」
 巨大なその姿にリルシーユは思わず後ずさりした。飛竜は、神の友とも呼ばれる気高く賢い獣だ。この翼のある生き物は世界の始まりから存在すると言われ、各地で神獣として敬われている。ジークフリードは大きな翼の持ち主に近寄り、頭を優しく撫でる。そして、リルシーユを見た。
「この飛竜に、貴女の演奏を聴かせてやってほしい」
 リルシーユはあっと小さく叫んだ。
(この飛竜は……じゃあ、やっぱり)
 自分はこの飛竜に会ったことがある。リルシーユははっきり確信した。
「……ファル。……この子は、ファルですね?」
 リルシーユは確かめるように尋ねた。飛竜は嬉しそうに翼をバタつかせ、きゅううと一声鳴いた。ジークフリードは目を僅かに見開く。
「ジークフリード様、あの……。私たち、以前にお会いしていますよね?」
「……覚えておいでだったか」
 夫となった騎士は静かに頷いた。彼女は、美しい飛竜と彼とを交互に見上げる。この翼の生えた聖なる生きものとの出会いはとても印象深いものだった。忘れるはずはない。
「もちろんです……! ファルのことを忘れるなんてできませんわ! 私の笛を喜んでくれて……貴方様ともお話ししました」
 その時のことが鮮明に思い出される。だが、彼は黙ったままだ。二人の間にぎこちない空気が流れる。リルシーユは思わず俯いた。
「……まさか、貴方様とまたお会いするなんて。それも、こんな」
「……こんな形とは思わなかった?」
 どこか気遣うように尋ねられる。
「ええ……」
(そう、そうよ。まさか、この方と結婚だなんて。だって……。あのときは、この方の名前さえ知らなかったし、私は、別の方と婚約していたのだもの)
 リルシーユは横笛を胸にぎゅっと握りしめた。

一話 二人と一匹の出会い

 透き通った旋律が樹々の間を流れ、風とともに葉を心地よく揺らす。薄い陽光に眩しそうに瞬きすると、リルシーユは構えていた横笛から唇をそっと離した。
(やっぱり、お母様の笛が一番いい音色になるわ)
 銀製の楽器の表面をそっと撫で、リルシーユ皇女はため息をついた。これは誕生日に母から贈られたものだ。リルシーユの一族が治めるローレンス王国は芸術の島とも呼ばれ、彼らの創り出す絵や音楽は海を挟んだ大陸の国々でも有名だ。第三皇女であるリルシーユの得意な楽器は横笛で、幼い頃からその才能溢れる音で皆を楽しませている。
「リルは笛がとっても似合うし、上手ね」
 今は亡き母に優しく褒められた言葉と、この美しい笛は大切な宝物だ。音楽はいつも彼女の心を喜びに満たしてくれる。けれども、今日に限っては何曲吹いても楽しい気分になれなかった。彼女はガゼボにある小さな台に頬杖をついた。
 明日、宮殿では二年ぶりに大演奏会が開かれる。数日前から、各国の賓客が海を渡って続々とこの島国へと訪れていた。『北に浮かぶ小さな王国』ローレンスの夏はとても短い。だが長く寒い一年の僅かなこのひとときだけは、花が咲き緑が溢れるのだ。二年に一度開かれる音楽の宴は、国王はじめ王族も参加し国の内外からの観客をもてなす。楽器作りなど芸術産業が主な収益源の小さな国にとって、この期間はとても大切な商取引の場でもあったのだ。
 リルシーユ皇女はふた月も前からこの日を心待ちにしてレッスンを重ねていた。彼女にとって、今回の演奏会は特別の意味を持っていた。なにしろ婚約者と初めて会えるのだ。
 半年ほど前、とうとう皇女にも婚約の話が持ち上がった。相手はとある同盟国の上級貴族の青年で、王族と血縁関係にあるという。小国ローレンスにとって、他国との婚姻は大切な政治戦略の一つだ。リルシーユはもちろん、この婚約を素直に受け入れた。
「皇女さま。どんな方でしょうね」
「せめて肖像画があれば……ねえ、ご様子がわかるのに」
「あら、肖像画は当てにならないというわ。皆さま良く描かせすぎて実際見たら、その違いに驚かれるそうよ」
「まぁ……! それでも、演奏会でお会いするのが楽しみですね、皇女様」
 あれこれ想像してはきゃっきゃと騒ぐ侍女たちに囲まれて、彼女も未来の夫と会える日を心待ちにしていた。
(テオドール様。どんな方かしら。お手紙ではとても丁寧な印象だけど……)
 婚姻は皇女として当然の義務とはいえ、やはり相手のことは気になる。仲良くして、幸せな毎日を過ごしたいとリルシーユも乙女らしい期待を抱いていた。ところが演奏会の数日前、先方から簡単な詫び状が届いた。婚約者は急な遠征を命じられ、ローレンスに来られなくなってしまったというのだ。
「リルや。そう気を落とすな……。また必ず伺うと書いてある。婚約者殿も残念に思っているに違いない」
 父王は優しく慰めてくれたが、リルシーユは肩を落とした。小国ゆえ、ローレンスの立場は非常に弱い。先方にとっては婚約者との逢瀬より自国の出征命令のほうが重いらしい。
(こちらが軽んじられているのは仕方のないことだけれど、式の前に一度でもお会いしたかった)
 さわやかな風が吹く森の中、石造りのガゼボでひとり、彼女はもう一度大きくため息をついた。ここは皇女の憩いの場所だった。島国というおおらかな国情もあり、夏の間は供のものなしで一人でも使える。いつもなら緑を楽しみ、楽器の練習に励むのだが、やはりどうしても気分が塞ぎがちになってしまう。
(だめね。こんなことじゃ。本番も綺麗な音にならないわ)
 気をとり直して彼女は再び銀の笛を構えた。雑念を払うように目を閉じて、音に集中していく。やがて周りの風も、葉の揺れる音も彼女の中で溶けてゆく。いつしかリルシーユは自分だけの世界で、時間が経つのを忘れ楽器を奏でていた。
 しばらくしてリルシーユは不意に手を止めた。なにかつるりとしたものに頬を撫でられた気がしたのだ。顔をあげると、目の前にキラキラと輝く大きなガラス玉が浮いている。
(な、なに……?)
 それは、ぱちぱちと瞬きをした。金色のガラス玉の中で、縦長の黒線がリルシーユをじっと見ている。あまりに見つめられて、吸い込まれそうになってしまう。すると、大人の拳ほどもありそうな瞳の持ち主は、キュウウと甲高い声で鳴いた。
「きゃっ」
 リルシーユは腰かけていた椅子からひっくり返りそうになった。その拍子に、生き物の全体が目に飛び込んでくる。爬虫類のように尖った顎から鋭い牙が覗いていて、額には小さな角。馬の二、三倍はありそうな堂々とした四肢の先には地面へと伸びる長い尻尾がついている。そして極めつけに、大きな翼を持っていた。その全てが白く輝く鱗に覆われている。薄い日差しを反射させて、翼を持った獣はきらきらと輝いていた。
(ひ、飛竜……)
 世界の創造から存在するといわれる「聖なる獣」を目の前に、リルシーユは体を硬直させた。彼らは非常に賢く穏やかな生き物だ。ローレンス城の礼拝堂には、飛竜が人を背に乗せ力強く飛ぶ様子が美しく描かれている。だが、実際に目にするのは初めてだ。
(礼拝堂の絵画と同じ……でも、もっともっと大きくて、白くて……)
 ガラスのような縦長の瞳で、ぱかっと口を開いて迫ってくる飛竜に、リルシーユは思わず笛を取り落としてしまった。飛竜は神と人間の友であり、危険な生き物ではない。そうはわかっていても身体が震えてしまう。足に力が入らない。喉に声が張り付いてしまって、掠れた息しか出てこないのだ。
(どどどうしよう……っ)
 震える彼女を珍しそうに見つめながら、飛竜はガゼボの柱の間からさらに顔を近づけてきた。そして、何かを訴えるようにくうううと鳴く。
「……ひっ」
 その途端、リルシーユの意識はぷつんと途切れた。ぐらりと身体が揺れて、自分が仰向けのまま後ろへ沈み込んでいくのを感じた。薄らいでいく意識の向こうで、「ファル、こら! 驚かせたらダメじゃないか」という焦った声と、肩を力強く支えられた気がした。

 ――飛竜はね、大昔にはこの国にもいたのよ――
 リルシーユの頭に、懐かしい母の声が響いた。幼いころ、皇女を寝かしつけながら彼女はいろいろなお伽噺をしてくれたのだ。
 ――ローレンスの姫の笛がとっても好きで、子守唄にしながら森でおひるねしていたんですって――
 ――ひりゅうは、お歌が好きなの?――
 ――そうよ。音楽が大好きないきものなの。リルも、いつか飛竜を見られるといいわね――
 ――おかあさまも、いっしょにいこうね!!――
 優しく微笑んだ母はもういない。夢だとわかっていても、温かな声に鼻がつんとしてくる。
(おかあさま、あのね……。わたし、ほんものの飛竜をみたわ……)
 夢うつつだった意識がだんだんとはっきりしてくる。
「……っ」
 彼女はガバリと起き上がってあたりを見回した。見慣れた森の木々と石の床。ここは、お気に入りのガゼボだ。
(私、どうしたんだったかしら……)
 頭がくらくらする。こめかみに手をあてていると、気遣わしげな声が聞こえた。
「大丈夫か?」
「ひっ……」
 耳慣れない男性の声だった。リルシーユは肩を硬張《こわば》らせて振り返る。見知らぬ青年が彼女の側に膝をついていた。真っ直ぐな黒鳶色の髪に灰墨の瞳。精悍な顔つきをした男は、騎士の礼装にサーコートを羽織っていた。ローレンスのものではないことはひと目でわかる。青年はハンカチーフを彼女に差し出してきた。
「すまない。ファルが失礼した。貴女を驚かせるつもりはなかったのだが」
「……ファル? あの……」
 リルシーユはおずおずと口を開く。
(この方は……? それに、ファルって誰かしら)
 ここは王族のごく私的な憩いの森で、許可なく入ることはできない。周辺には柵が張り巡らされているのだ。
「こ、ここは、立ち入りは許されていないはず……」
 彼女はうわずった声を出した。賊が侵入してきたのだろうか。だが今は短剣さえもっていない。
「それは……我々は」
 彼が説明しようと口を開くと、向こうからきゅうううという鳴き声が響いた。ばさばさと翼を開いてやってきたのは先ほど見た飛竜だった。
(やっぱり! 夢じゃなかった……でも、なぜここに……)
 見知らぬ青年と巨大な飛竜。今度こそリルシーユは悲鳴をあげようとした。ひゅうと息を吸い口を開ける。だが、大きな手がそっと彼女の唇を塞いだ。
「頼むから、騒がないでくれ。我らは決して怪しいものではない。貴女を傷つけるつもりも全くない。水を求めて飛んでいたら迷い込んでしまった。ここが誰かの領地とは知らなかったんだ」
 焦りを含んだ早口で、青年はリルシーユの耳元に話しかける。
「私はこの国の人間ではない。だが、騒がれると非常にまずい」
 リルシーユは青年を見た。真剣な瞳と目が合う。彼の瞳に嘘はなさそうだ。ここが王族の土地であることも、リルシーユの身分もわかっていないようだった。
「この飛竜……、ファルの翼を少しだけ休めたい。だいぶ長い距離を飛んで疲れている。少しのあいだでいい、どうか、見なかったことに」
 飛竜を気遣うように見て、青年は膝をつき、胸に手を当て彼女に頭を下げた。
(騎士の礼装……。それに、品のある所作。今はたくさん外国の方が訪れているから、その中の一人かもしれないわ)
 困りきった青年の様子に、彼女は静かに頷いた。青年はほっと息を吐くと、深く礼をした。
「ありがとう、ご令嬢。感謝する」
「いえ……。あの、水場をお探しでしたらあちらに小さい川があります。どうぞこちらへ」
 彼女が指差した先に、水の流れる音が聞こえる。リルシーユは立ち上がり青年を川へと案内した。清涼な水の流れを見つけると、ファルは嬉しそうに首を伸ばし水を飲み始めた。
「ありがたい。これであいつの体力も持ち直すだろう」
「ファル……とは、その飛竜の名前なのですね」
 青年はゆっくり頷く。
「水場を探しながら飛んでいたのだがなかなか見つからず、なぜかファルが吸い寄せられるようにこちらへ降りてしまった」
「そうだったのですね……」
 彼はリルシーユのことを見る。彼女が持つ銀の横笛を示して、
「おそらく、貴女の笛の音に惹かれたのだと思う。こいつは音楽が好きなので。申し訳ない。驚かせてしまった」
 と苦笑いした。
「私の笛、ですか?」
「ああ。上空を飛んでいたら美しい音色が響いてきたんだ。そうしたらファルが興奮してしまって。さすが、ローレンスとは本当に芸術の国なのだな」
 二頭立ての馬車ほどもありそうな白い飛竜は、尻尾と翼をパタパタさせて、リルシーユを見ている。飛竜は音楽が好きなのよ、という母の言葉が思い出された。ファルの瞳は好奇心いっぱいにきらきらと輝いている。
(壁画よりも、ずっとずっと綺麗だわ)
「あなた、とても美しいのね……」
 邪気のない飛竜の仕草に、リルシーユも素直な感想を漏らした。青年は彼女を驚いたように見つめる。リルシーユは慌てて手を振った。
「あっ、あの! もちろん初めはびっくりしてその、頭がくらくらしてしまいましたけれど! こうして見ると、とても綺麗だなと……。それに、私の笛が好きだと思ってくれたのですよね。とても嬉しいです」
 リルシーユはファルにむかって笑いかける。先ほどまでは気持ちが塞いでいただけに、なんだか慰められたような気になる。ファルは、彼女に答えるように顎をぱかりと開けた。どうやら笑っているらしい。キュキュキュ、と甲高い音が響いた。飛竜は彼女のそばにある果物の入った籠を鼻先でつんつんとつついた。侍女が用意してくれたものだ。
「こら、ファル。食い意地を張るな」
「きゅきゅきゅ!」
 青年が慌てて嗜める。
「も、申し訳ない……。こいつは、その、こんな見た目でもまだ飛竜としては幼いんだ」
「葡萄が食べたいの? どうぞ、ファル。少しだけど」
 彼女は背伸びして籠をファルへ差し出した。飛竜はさらに目を輝かせて、口を大きく開けた。リルシーユは思わず笑ってしまう。もう、怖いと思う気持ちは消えていた。
「まぁ、食いしん坊さんなのね。でも、喉につかえないようにゆっくりね」
「ファ、ファル! お、お前は」
 一口でぱくりとカゴごと平らげそうな勢いに、青年はあたふたと慌てて籠を引っ張り上げた。そのやりとりがなぜか微笑ましく思えてしまい、リルシーユは自然と微笑んでいた。
「お二人は、仲がよろしいのですね。まるで互いに言葉がわかっているようですわ」
 彼は一瞬、虚をつかれたようにリルシーユを見た。はっとしたように顔を逸らすと、「こいつとは幼い頃から共にいたから」とぽそぽそ答える。
「貴方は、この音が好きなの?」
 リルシーユは銀製の楽器をファルに掲げてみせた。飛竜はパタパタとうれしそうに翼をばたつかせる。たしかに見た目は厳《いかめ》しいが、無邪気な様子が可愛らしい。
「それはうれしいわ。ありがとう」
「……怖くはないのか」
「ええ。突然で、びっくりしましたけれど……それに、音楽が好きなんて、この子はとてもいい子に見えます。そういえば、昔はこのローレンスにも飛竜がいて音楽を好んだそうですよ」
 彼女はにっこりと笑う。青年は一瞬目を瞬いた。
「……いろいろすまない。数刻、休ませてくれたらすぐに発つ」
 くるりと彼は背を向けてしまった。ファルは水辺で翼を折りたたんでいたが、なにか不満な様子できゅうきゅうと声を上げ始めた。
「だめだ、ファル。おとなしくしていろ」
「どうかされたのですか?」
「あ、いや。その。貴女の音が聴きたいといっているんだが……すまない。聞き流してくれ」
 彼は困り顔で答えた。だが、リルシーユは少しの間考えて頷いた。
「ファル。貴方にぜひ、この曲を聴いてほしいわ。私の作った曲よ。本当は、今夜テオドールさまに聴かせる曲だったの。でも、できなくなってしまったから、誰かに聴いてもらえたらわたし、すごく嬉しいわ」
 すこし寂しそうに笑うと、リルシーユは笛を構える。
「テオドール?」
 青年は訝しげな表情になった。
「ええ。私の婚約者さまです」
 夢見るような表情でリルシーユは頷いた。
「婚約者……がおられるのか」
「はい。本当は今日、お会いできるはずだったのですけれど……」
 リルシーユは俯く。青年は深く聞いていいものか躊躇っているようだった。
「ご、ごめんなさい。このようなお話、ご興味ないですよね。私ったら……! お会いしたばかりの方に愚痴をこぼしてしまいました。どうかお許しくださいませ」
 急いで謝ると、青年は「いえ、気になさらず。貴女の邪魔をしたのはこちらだ」と小さく微笑んだ。
「それに、貴女のような令嬢と婚約できるとは、その青年も、とても幸運だ」
 彼女は真っ赤になって首を横に振る。
「そんな……。あちらの方は私との婚約はあまり嬉しくないのですわ。こんな田舎の小さな国の……」
 こんな小さな国の王族、と言いかけて彼女ははっと口をつぐむ。王族であることは明かさぬ方がいいと思ったのだ。
「そんなことはない。相手もきっと貴女に会うことを望んでいるはずだ」
 少し照れくさそうに言う青年に、彼女も思わず赤面した。
「あ、ありがとうございます……私、テオドール様のいい妻になれるよう、頑張りますわ」
 彼女はなぜか、見知らぬ青年に向かって決意表明をしてしまった。川のせせらぎの音が楽しそうに流れる。
「……事情はわからぬが、幸せな結婚になるよう私も祈っておこう」
 彼はゆっくりと笑みを深めた。名も知らぬ青年に励まされてしまった。少しだけどきどきとしている自分に気がついて、リルシーユは慌てて瞳を逸らした。ファルが急かすようにぱたぱたと尻尾で地面を叩いている。
「あ、ごめんなさいね。では、どうか聞いてくださいませ」
 銀の横笛を構えると、すっとリルシーユの表情が変わった。彼女の紡ぎ出す旋律が森のなかを流れ始めると、樹々や、虫や花たちまでもがその優しく美しい音色に耳を澄ませた。ファルが瞳を煌めかせ、耳を立てて聴き入っている。その横で青年は、音楽へ身を委ねているリルシーユを食い入るように見つめていた。
 最後の音が風に溶けてゆく。リルシーユはゆっくりと楽器を手放した。
「良い演奏だった」
 青年は感嘆し、深い敬意を示すように片手を胸に当てた。そこへ、遠くから声が聞こえてくる。
「リルシーユさま。皇女さま! どちらですか? そろそろお戻りになられませんとご準備が」
(侍女たちだわ)
 彼女ははっと立ち上がった。
「大変、見つかってしまいますわ! ごめんなさい。引き止めたりして」
 ガサガサと葉が揺れる。
「気になさらず。貴女は早く行かれよ」
 リルシーユは軽く膝を折ると慌てて駆け出した。彼らのいる場所とは反対方向で、「私はここよ」と大きな声で答えるのが聞こえる。ファルがその後を追いかけようと翼を広げ始めた。青年はすかさず飛竜を押さえた。
「だめだファル。見つかってしまうぞ。彼女はわざと向こうで大声を出してくれたんだから」
 ファルは不満げに鼻息を吐いた。
「仕方ないだろう。ここはオーベルムではない。お前を見たら皆驚いてしまう。やっかいなことは避けるんだ。それに、どうやら彼女は……リルシーユ殿は、とても身分が高かったようだ」
 青年は身を低くして茂みに隠れた。同じように伏せているファルが鼻先を彼の腕にちょこんとつけてきた。
「……そうだな。ファル。彼女の笛は素晴らしかったな」
 どこか上の空で青年はリルシーユの消えた森を見つめていた。

 その夜、リルシーユは真っ白で、しあわせな夢を見た。
 ――死が二人を分つまで、ともに支え合うことを誓いますか?――
どこかから聞こえる厳粛な声に小さく頷く。ヴェールに覆われた彼女の顔をそっと外したのは顔の見えない男だった。それでも彼女はしあわせな気持ちで応えた。
 ――はい、誓います――
 恥じらいを含んだ表情で誓いを立てる。遠くで、飛竜の咆哮が響いた気がした。

「あの時は失礼した。貴女が皇女とも知らず、無礼なことを」 
 今も変わらず輝く鱗の飛竜を見てリルシーユは微笑んだ。
「いえ。私も、オーベルムの騎士団の方とは知らず……。ファル、元気だったのね。私のこと、覚えていてくれて嬉しいわ」
 リルシーユはジークフリードを見た。この再会に驚いているのは自分だけだ。
(この方は、婚約者が私だといつからご存知だったのかしら……?)
 ふと疑問が湧いてくる。
『テオドール様のいい妻になれるよう頑張りますわ』
 同時に、目の前の人物に先の婚約者のことを嬉しそうに話していた自分が甦って、胸が痛くなった。今思えば本当にまぬけな話だ。
(……きっと、あの時からもう、テオドール様は私のことなんて欠片も考えていらっしゃらなかったのね)
 考えたくなくても思い出してしまう、苦い記憶。彼女は苦しげにぎゅっと胸に手を当てた。

 ジークフリードとの森での出会いの数カ月後、皇女の婚約は破談になったのである。

二話 突然の婚約破棄と、新しい婿殿

「リル、リルや……。少しいいかな」
 演奏会が無事終わり、数ヶ月が経ったころ。ローレンスは本格的な冬を迎えていた。リルシーユはいつも通り笛のレッスンの後、暖炉を前に刺繍をしていた。ローレンスでは花嫁のヴェールに色とりどりの糸で花を刺繍するのだ。色鮮やかで幸せな結婚生活を送れるようにとの祈りが込められている。リルシーユはこの冬、侍女たちとともに婚礼の準備を進めていた。
 遠慮がちに開かれた扉からリルシーユの父親、ローレンス王が顔を覗かせている。普段は明るい父王が珍しく暗い顔をしている。リルシーユは針を動かす手を止めて父を招き入れた。
「もちろんですわ、お父様。どうかなさったの?」
「実はな。リルや……。大事な話があるのだ。この数日どう切り出すべきか悩んでいたのだが」
「なぁに? お父様? そんなに言いにくいことなの?」
 リルシーユはからかうように軽く笑ってみせた。心配性な父は、たまにとても小さなことを気にかけるのだ。先日も「私は痩せなければリルの婚約者に笑われてしまうだろうか?」などと自分のお腹の肉を掴みながら周りに尋ねていた。
 彼は書状を手にしていた。何度も読み返したのか、羊皮紙には皺が寄っている。さんざん躊躇った後、彼はようやく意を決したように娘を見た。
「数日前にな、お前の婚約者、テオドール殿のお父上から書状が届いたのだ」
「……? そうなの? 知らなかったわ」
 リルシーユは首を傾げる。何かあったのかしら。父は怒ったような目をしている。これは、滅多にないことだ。
「実はな、テオドール殿が出奔されたそうなのだ。今のところ、行方がわからぬらしい」
「……え?」
「どうやら、先の遠征中にテオドール殿は怪我をしたそうだ」
「まぁ……っ! そんな……! お怪我はひどいのですか?」
 リルシーユは焦って立ち上がる。ここで呑気に刺繍などしている間に、そんな大変な目に遭っていたとは。
「私、わたし、テオドール様の元へ参ります。ね、いいでしょうお父様。心配ですもの。船を……船を出してくださいませ」
 慌てふためくリルシーユの様子を、父王は困ったように見つめた。
「リルや。落ち着きなさい。これは少し前の話なのだよ」
「じゃ、じゃあ大丈夫なのですか……? いえ、でも、行方がわからないっていったい……」
「テオドール殿は怪我をした土地にしばらく逗留し療養することになったそうだ。そして、その、あー、なんだ」
 父王は言いにくそうに口籠もる。リルシーユはなんだかとても嫌な予感がした。暖炉の火は赤々と燃えているのに、やけに寒く感じる。父王はさらにためらったあと、やっと話を続けた。
「彼は……その、世話をしてくれた地元の娘と懇ろになり、そのまま二人で逃げたというんだ」
 父王は震える手で書状を彼女に見せる。詫びの言葉とともに、『婚礼を取りやめたい』という一文が飛び込んできた。
「……ど、ういうこと……」
 リルシーユはいつのまにか自分の手が震えているのに気づいた。すごく寒い、のに、喉がカラカラに渇いている。
「リル……。先方は、テオドール殿とお前の婚約を解消したいと言ってきた」
「そ、そのようなこと……。わたし、今、こうやって準備を……っ。だって……。前のお手紙では、会うのを楽しみにしていると書いてくださって……、お、女の方って……」
 頭のなかがぐちゃぐちゃと混乱してしまって、何を言っているのか自分でもわからない。父王はリルシーユの手を取った。
「そうだ。その通りだ。貴族の青年が、婚約者のいる身分でありながら、どことも知れぬ街の娘と姿を消したのだ……。許せぬ。実に、馬鹿にしておる。いかにローレンスが小国であろうともこれは、我らを完全に冒涜している」
 父王は人の良い顔を怒りに歪めている。他国との婚姻は国を豊かにするための大切な道筋の一つだ。職人たちは冬の間新たな取引のために商品作りに励み、新しい船を何隻も揃え、国を挙げて皇女の門出へ準備していた。たかが一枚の書状で白紙にされてしまうなど、到底許容できることではない。
 婚姻は時に国の命運さえ左右する。娘の傷心以上に、父王もこれには大きな打撃を受けていた。二人は手を取りあいしばらく立ち尽くしてしまう。
(どうしよう……。こんなことになるなんて)
 怒っていいのか嘆き悲しむべきかわからない。政略結婚によって、国に利益をもたらすことが皇女としての役割だと信じていた。それをこんな形で奪われてしまったのだ。途方に暮れた気持ちで、やがてリルシーユはがっくりとうなだれた。
「……お父様、ごめんなさい」
「お前が謝ることはないんだよ。リルや」
「いえ、私がもっと、もっと……なにかできたら」
「リル。お前は悪くない……。あの馬鹿貴族に全ての責任があるのだから」
 必死で娘を励まそうとする父王だったが、健康的な顔にはくまが浮かんでいる。リルシーユはそれを見てさらに悲しくなった。
「わたしは大丈夫……。お父様、たくさん支度をしてくださったのに……みんなにも、本当に申し訳ないわ……」
「あまり気を落とすな。すぐに抗議の文をしたためる。予定通り婚儀を行ってもらおう、な、リルや」
 そんなことが叶うだろうか。二人が愛のために出奔したのなら、リルシーユにできることなど何もない気がした。愛そうとしてはいたが、彼とは互いに顔も知らぬのだ。だが、父のために、リルシーユは頷くしかなかった。
「皇女さま……」
「なんてこと……」
 侍女たちはみな顔を寄せ合い慰めてくれる。だが、彼女たちの口はおそらくとても軽い。このことはすぐに国中に広まってしまうだろう。リルシーユは婚約者に逃げられた皇女として有名になるのだ。
 憔悴しきった様子で父が部屋から出ていくと、リルシーユは呆然としたまま長椅子に腰を下ろす。窓の外では、枯れた木が虚に枝を灰空に向けていた。
(お父様、とても気落ちしていらっしゃったわ……)
 父は国王だ。皇女の婚礼は大切な国を守る手段でもあったのだから、無理もない。こんなことになってしまってはきっと、次の婚約者など見つからない。たとえリルシーユに非はなくとも、彼女は傷ものであり、縁起の悪い花嫁となってしまった。刺しかけの刺繍の鮮やかな色が、なんだか痛々しい。顔を背けると、大好きな笛が目に入った。
(お母さま……。ごめんなさい、私、皇女として、失敗してしまったみたい)
 笛の音はいつも彼女を慰めてくれたが、今回ばかりは、それに触れる気にもなれなかった。彼女は夏の日に出会った白く美しい飛竜のことを思い出した。
(あの子、ファルといったかしら、あの時はあんなに幸せな気持ちで音を奏でたのにな……)
 今は、こんなに悲しい。静かな冬のローレンスで、彼女はひとり涙をこぼした。
 結局、ローレンス王の抗議も虚しく婚約の破談は翻ることはなかった。父王は心痛のあまり体調を崩した。ちょうどその頃、長雨が続き作物の出来が悪くなったり、製造された楽器の質も落ちるなど、ローレンスにとっての災難が続いた。国内に重い雰囲気が漂いだすと、誰からともなく、こんな言葉を口にするようになった。
「皇女の破談が国に良くない音を運んできた」
 そんな声があちこちで聞かれるようになり、やがては皇女本人の耳にも入るようになった。
「皇女様ができることなどなかったのですから、気を落とされませんように」
 侍女たちは慰めてくれる。だが彼女はやはり、自分を責め落ち込む日が続いてしまう。何かしなければと外に出ても、「あれ、リルシーユ皇女よ」、「最近天気も悪いし、作物も取れない。あの方の破談から、ローレンスは沈み始めている」
 そんな声が聞こえてしまう。リルシーユは大好きな笛を吹くことができなくなってしまった。彼女の音が不幸を招くと思われているのに、無邪気にレッスンできるわけがなかった。皇女も、小さな国も、失意に沈んでいた。
 だが数週間後、事態は一変する。落胆のあまり伏せっていた父王がリルシーユの元へ飛び込んできたのだ。
「リル! 新しい婿殿が見つかったぞ! 相手はなんと! 大国オーベルムの騎士団長だ」

「リルシーユ殿?」
 月が森を照らす。目の前のジークフリードは気遣わしげに彼女を見つめていた。ひやりとした風に身を震わせて、リルシーユは物思いから我に返る。
「ごめんなさい……。すこし、その……いろいろと思い出してしまって」
「……無理もない。貴女にとっては辛いことだったろう」
 先ほどまでの硬い表情とは違い、いまのジークフリードはやわらかく、優しげだ。リルシーユはなんだか不思議な気持ちになる。森で出会った時も、この青年は自分の話を静かに聞いてくれていたのだ。今も彼は多くを語らないが、気遣わしげな表情だけは同じだった。二人の間に沈黙が流れる。月夜の森でファルが急かすようにきゅ、と声をあげた。
「……っあ。笛を吹くのですよね!」
 新婚初夜にしてはとても変わった申し出だといえるだろう。だがリルシーユは素直に楽器を構えた。少し手が震える。
(うまく、吹けるかしら。最近はほとんど触っていなかったから……) 
「きゅうう?」
 ファルが元気づけるような声で鳴いた。飛竜の期待に満ちた瞳にはなんの翳りもない。隣に立つジークフリードも、真剣に彼女を見つめている。リルシーユは深呼吸すると、楽器にそっと唇をあてがった。
 その夜、オーベルム国の森に初めて彼女の音楽が流れた。美しい旋律に、夜の動植物たちも、そっと耳を澄ましているように静まり返る。飛竜と騎士は、静かに耳を傾けていた。やがて、音色を残して演奏が終わると、ファルは満足げに長い尾をゆったりとならし、眠りについた。
(吹けた、わ……。よかった。久しぶりに、何も考えずに、楽器を触れた)
 この国に来てはじめて少しだけ、ほっとした気持ちになれた気がする。知らず、目尻に涙が浮かんでしまった。ファルの醸し出す純粋な空気に救われた気がしたのだ。
「ジークフリード様。ファルに会わせてくださって、ありがとうございます」
 彼女は深く腰を折った。
「こちらこそ、こいつは最近気が立っていたので、とても助かった……。あ……泣いて、おられるのか……?」
 ジークフリードが焦った声になった。
「……ご、ごめんなさい。嬉しくて……。ほんとうに、ありがとうございます。私、久しぶりに音を出せました。もう、吹けないかもしれないと思っていましたから」
「それは、いったい……」
 もの問いたげな視線に、リルシーユは慌てて首を振った。国もとでの噂話で心を痛めていたなんて、弱さを曝け出すようなことは言えなかった。
(やだ、私また、この方に本音を漏らしてしまいそうになってる)
 彼女は顔を上げ、外交用の笑顔に切り替えた。
「いえ、なんでもありませんわ。それよりも、今回は、私のような者を娶っていただき……、とても感謝しております」
 彼女が最後まで言い終わる前にジークフリードが鋭く遮った。
「ご自分をそのように卑下するものではない」
 彼女はキョトンとした。
「いや、その、貴女は我がバルセス家に益をもたらす身だ。そのように考えなくとも良い」
 ジークフリードはリルシーユの目を見ないようにして早口で言う。彼も、再び硬い表情に戻っていた。夜気がマントを煽り、ランタンに浮かび上がるリルシーユの緩く結んだ髪が揺れる。ジークフリードは丸まったファルの翼を撫でた。
「夜に連れ出してすまない。皇女。帰って眠られるといい」
 短く告げると、彼は歩きだした。

(――つづきは本編で!)

おすすめの記事