「──俺の初めての人になって欲しいんだ」
あらすじ
「──俺の初めての人になって欲しいんだ」
もう二度と、恋もセックスもしない。初体験で身体のことを笑われて以降人との交流を避けてきた地味OL、早乙女桃加。ある日、書類整理をしていると、御曹司で社長の大神穣がやって来た。資料に手を伸ばしたそのとき、桃加は倒れ込み、彼の前で胸元を盛大に晒してしまう。ああ、やばい。厳しく冷たいと噂の穣に身構える桃加。しかし穣は、一緒にトラウマを克服してほしいと申し出て──。
作品情報
作:蒼凪美郷
絵:青日晴
デザイン:RIRI Design Works
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序章
もう二度と恋もセックスなんかしない。そう心に決めていた。
自分のコンプレックスを嗤われるかもしれないなら、誰にも肌なんて見せたくない。
恋もセックスもしなくても生きていける。
そう思っていたから他人との間に壁を作ってまで自分を護るようになった。
あんな思いはもう二度としたくない。
──だけど信じられないことに、私は今、男の人とホテルに来ている。
私の前にシャワーを浴び終えた彼の短い茶色の髪は、とっくに乾いた様子だ。普段はぴしっと七三分けにされているのに、今は無造作に彼の額を覆っている。
いつも眉間に皺を寄せて強い眼光を携えている眼差しも、普段よりも優しい。誰も寄せ付けようとしない一匹狼な雰囲気はどこにも見当たらない。
「……あの、大神《おおがみ》社長」
「今はその、社長というのはよしてくれ。良ければ、名前で呼んでくれないか?」
苦笑をこぼした彼に私は頷きを返した。立場上、名前で呼ぶのは遠慮があったけれど、このあとを考えたら今はそのほうがいいだろうと思ったから。
私も穣《ゆたか》さんも、真っ白なバスローブを羽織っている。場所はキングサイズのベッドの上。
「……穣さん。本当に私でいいんですか?」
これから私は彼とする《・・》。
初めてのセックス以降一度も経験していないセカンドバージンな私が、同じ傷を持った彼の童貞卒業を手伝うために。
第一章
昔は何てことなかったのに、今では男の人に話しかけるのにとても勇気が要る。
「栗宮《くりみや》さん」
長い前髪と眼鏡で隠しているから、相手に私の表情が伝わることはない。
緊張を押し隠して私に声を掛けられた男性は、それまでしていた同僚との談笑をぴたりと止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
「この資料ですが、一部データが間違っているので訂正をお願いします」
「あ、あぁ……ごめん。すぐ直すよ」
「よろしくお願いします」
私の手元にはいくつかの付箋を貼ったファイル。それを相手に手渡してぺこりと頭を下げ、私は早々に自分の席へと戻っていく。
「はぁ……びっくりした。静かに後ろに立つなよ……」
「早乙女《さおとめ》さんってほんと何考えてんのか分かんないよな。にこりともしないし」
「桃加《ももか》って可愛い名前してるくせになぁ……はぁ、関わりたくねぇー……」
(聞ーこーえーてーまーすーよー?)
向こうはひそひそと声を潜めているつもりなのだろうが、彼らの陰口は一字一句漏れることなく私の耳にまで届いている。
こんな陰口は慣れているので今更傷ついたりはしないけれど。
確かに私は他の女性社員に比べれば華がない。黒い前髪は目元を隠しそうなほど長いし、髪型だってただ単に櫛で梳いておろしただけ。
うちの会社に制服はないため仕事に相応しいオフィスカジュアルを意識した服装にしているものの、色は黒と灰色と紺色のいずれか。お化粧だって最低限。だけど、実は眼鏡だけは毎日赤や緑などのお洒落なフレームのものでローテーションしているなんて誰も気付いていないだろう。
私の地味さは他人と壁を作るため。でも、お洒落がしたくないわけじゃないのでせめて眼鏡は──と思ったのだ。ちなみに度は入っていない。
(私が本当は明るい性格をしていた、なんて言っても誰も信じないだろうなぁ……)
訂正された資料が来るまで他の仕事をしようとパソコンのモニターと向き合う。
スリープ状態で真っ暗になっていた画面に一瞬映った地味な姿には、まだ明るく振舞えていたあの頃の面影ひとつ残っていない。
私が地味で内向的に振舞うようになったのは、あの出来事のせいだ。
誰にでも忘れたい記憶のひとつやふたつはあると思う。
私の場合、その記憶は高校三年生のある夏のことを示す。
両親が定食屋を営んでおりよくお店の手伝いで接客をしていたおかげか、今よりも遥かに明るく社交的だった頃だ。
友達だってまあまあいたし、異性相手でも分け隔てなく喋れることもできたし、成績だって悪くなかった。
毎日が楽しくて仕方ないくらい賑やかな日々。
けれど、私には誰にも言えない身体的な悩みがあった。
夏休みに入る前、初めての彼氏ができた。相手は三年生で初めて同じクラスになった同級生。
誰に対しても優しく爽やかな笑顔が印象的な男の子で、彼の周りはいつも人で溢れていた。女子からの人気も高かったらしい。
そんな人から生まれて初めてされた告白に私は舞い上がっていたのだろう。
付き合って一ヶ月もしないときに、初めて訪れた彼の部屋でそういう雰囲気になった。
当然ながら、私が長らく抱えている身体的な悩みが頭に過る。でも、彼に嫌われたくないという想いのほうが強かった。何より自分の身体に自信がないとこぼした私に「俺はどんな桃加も好きだよ」と言ってくれたから。
なのに、私の裸を見て彼は笑ったのだ。
『何だよ、その胸! ウケる!』
侮蔑するようなものではなく、あくまで友人をからかうような笑い方だったけれど、私が傷つくには充分な威力があった。いいや、あり過ぎた。
彼が笑ったのは、私の胸──乳輪の真ん中で凹んだように収まっている乳首だ。
私の悩みはこのことだった。自分の身体はおかしいかもしれないとずっと思い悩んでいた。
だって、修学旅行でお風呂が一緒になった同級生の胸はみんなそうじゃなかった。張りのあるふくらみの先でツンとしていた。他人の身体(しかも裸)をじろじろと観察するなんて変態のすることだと、ほんの一瞬しか目に入らないようにしたけれど。
でも、このときまで自分と他人の身体なんて比較しようもなかった。このとき初めて目の当たりにして、私の身体はおかしいって強く思ってしまったのだ。
それからずっと親にも友人にも打ち明けることができずに私の中で強いコンプレックスとなっている。
──その部分を、勇気を持って晒したのに。
彼は私の劣等意識を見事に刺激してくれた上に、ざっくりと心に傷を作ってくれた。
でも、そのときの私はいじらしい乙女だった。その場で泣いてしまいたいくらいには悲しい気持ちになったのに、彼に嫌われたくない一心で微笑んだ。そんな風に笑うなんてひどいなぁ、と曖昧に。
おかげで初体験は散々に終わった。ただただ痛くて、不快で。少女漫画で見たような幸せな時間などどこにもなくて。
だけど、これで終わりじゃない。
夏休みが明けて登校した私を待っていたのは、主に男子から送られる好奇な視線だった。
彼が友人に面白おかしく暴露してくれやがったのだ。放課後に忘れ物を取りに戻ったとき、「アイツの胸、凹んでんだぜ」と笑っている現場に遭遇したから知っている。
怒りが沸くよりも、悲しいという言葉しか浮かばなかった。
何よりも悲しかったのは、その場に当時仲が良かった同性の友人の姿もあったことだ。
あとで知ったことだけれど、彼の人当たりの良さは全て上辺だけで裏の顔は相当だったらしい。他校に複数の彼女がいたとかなんとか。私の友人は彼のことが好きで、遊びでも彼から告白された私のことが憎かったそうだ。
初めて好きになった人に弄ばれ、仲良しだと思っていた友には裏切られ──この一件が私の中でトラウマと化した。
こうして私はこれまでの「明るく快活な早乙女桃加」を陰に潜ませ、「地味で大人しい早乙女桃加」となって他者との間に壁を作るようになったのだ。
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