「――私をこんなに愚か者にさせるのは、この世でお前だけだ」
あらすじ
「――私をこんなに愚か者にさせるのは、この世でお前だけだ」
持参金目当ての夫とその愛人に毒殺された令嬢・アイリーン。死の瞬間、彼女が抱いたのはただ一つ、後見人・イアンに再び会いたいという切実な願いだった。目を覚ますと、時は結婚前の18歳に巻き戻っていた。イアンは名門公爵家の当主で、元軍人の「救国の英雄」。アイリーンとは20歳も年が離れ、まるで父親のような存在。叶うはずもない初恋を胸に、今度こそイアンに想いを伝える彼女だが、彼の反応は戸惑いと迷いを感じさせる。だがその裏で、イアンは自らの気持ちを深く隠していた。未来を有する彼女を、一時の気の迷いや欲情で乱してはならない――「ずっと愛し続けてきた。前の人生から……」イアンの積年の想い、そして死に戻りの秘密とは?
作品情報
作:江原里奈
絵:八美☆わん
配信ストア様一覧
2/7(金)ピッコマ様にて先行配信開始!(一部ストア様にて予約受付中!)
本文お試し読み
1 呪われた求婚状とおじさま公爵への告白
「お前に求婚状が届いている」
部屋の中に、低いがよく通る声が響く。
それを聞いた栗色の髪の少女――アイリーン・クラフトンは、表情を強張らせた。
(……ついに、この日が来たのね!)
絶望に打ちひしがれながら、彼女はこの屋敷の主が手にする書状を凝視する。
封筒に印刷されているのは見覚えがある紋章。それがレディング伯爵家の当主チャールズからのものだとアイリーンは知っていた。
二十代半ばのチャールズは金髪碧眼で、貴婦人方に好まれる容姿をしている。
大学を出てから世界各地を遊学した経歴のせいか機知に富み、社交界では一、二を争う魅力的な美青年だと見做されている。
いったいどんな令嬢が若き伯爵の心を射止めるかと皆が噂したが、それが自分だとは思ってもいなかったアイリーンである。
チャールズからパートナーの申し出を受けて以来、何度か舞踏会にエスコートしてもらった。
婚約の話が出たのは、自然の流れ。母であるクラフトン男爵夫人の薦めで、チャールズと婚約したのが一年前である。
婚約期間は人それぞれだが、早い人は半年もしないうちに結婚が決まる。
人気者のチャールズが、本気で自分のことを愛しているとは思えなかった。そのうち、他の女性に目移りし、先方から婚約破棄されるだろう。
そう思っていたのに――。
先代アヴィントン公爵とその内縁の妻だった母の葬儀を終えて間もないこの時期、なぜ彼から求婚状が届いたのか理解に苦しむ。
無言のままのアイリーンに、公爵家を継いだばかりのイアン・アヴィントンは感情がまるで見えない冷たい美貌を向けた。
イアンは、チャールズとは違ったタイプの美形である。
銀髪に薄紫色の双眸、美貌とすらりとした長身。誇り高きエルニア王国陸軍出身という経歴が頷ける均整の取れた容姿に、今年で三十八歳というのが信じられないほどの若々しさを保つイアンに憧憬の眼差しを向ける貴婦人は多い。
チャールズが朗らかな太陽だとしたら、イアンは凛とした月のよう。
(なんて素敵な方なんでしょう……)
初めて見た瞬間から、アイリーンはずっと彼に対して憧れと畏怖の念を抱いていた。
こんなときでさえ、その容姿や佇まいに見惚れてしまうほどだ。
だからこそ、求婚状に対する答えを冷ややかに促す視線がつらい。
「……喪が明けないうちに、わたくしが嫁ぐわけにはいきません」
黒いスカートの裾をギュッと掴んで、アイリーンは絞り出すように言葉を紡いだ。
「今のお前にとって、伯爵夫人の座につくことは最善の選択だと思うが」
それはアイリーンの後見人として、当然とも言える意見だった。
そう……母が亡くなった今、このアヴィントン公爵家にアイリーンが居続けること自体が不自然なのだ。
イアンも独身であるが、彼を狙っている貴婦人は数多い。
血のつながりがなく、戸籍上の関係もないアイリーンがこのまま屋敷に居座っていたら、アヴィントン公爵家の存続にも支障が出てしまうだろう。
アイリーンもそれを実感しているが、イアンの口からそれを仄めかされると胸が抉られるような心地がする。
(そうよね……イアン様にとって、私はただの厄介者に過ぎないんだわ……)
それは前々から感じていた。いや、事実と言っても過言ではないだろう。
先代公爵とアイリーンの母……クラフトン男爵夫人が恋仲になったのは、イアンの実母であるアヴィントン公爵夫人が存命中のことだった。
公爵夫人は夫の浮気が原因で悩み、気鬱の病になってしまった。別荘での療養中に亡くなったのは、自害だという噂がある。
そんな因縁もあり、先代公爵とクラフトン男爵夫人が馬車の事故で同時にこの世を去ると、公爵夫人の呪いではないかと皆が恐れおののいた。
公爵夫人の亡霊が、夫と愛人に復讐したのだと……。
それを聞くにつけ、愛人の娘であるアイリーンは肩身が狭い思いをした。
きっと、公爵夫人の息子のイアンも世間の意見とさほど変わらぬ心象を抱いているだろう。
そもそも、クラフトン男爵夫人と先代公爵は正式な婚姻をしていない。
二人が再婚していたら、アイリーンはイアンの義母の連れ子という戸籍上のつながりは持っていただろう。だが、実際そうではないから所詮は赤の他人……厄介者なのだ。
しかし、ありがたいことに先代公爵はアイリーンを孫のように可愛がってくれた。男爵夫人とアイリーンへの経済的な支援を、公的文書に書き残してくれるほどだった。
すなわち、アイリーンが結婚か経済的に自立をするまではイアンが彼女の後見人になること、結婚する場合は彼女に対して公爵家が持参金を出すこと、と記されていたのだ。
それゆえ、アイリーンには結婚するまで公爵邸にいる権利があるが、イアンはさっさと彼女をどこかに嫁がせたいのだろう。
彼女が誰かと結婚するまでが、イアンに課された義務だからだ。
(でも、どうすればいいの? チャールズとは、絶対に結婚したくないわ……ずっと、このままここにいたい。そんな我儘を言ったら、イアン様はどうされるかしら?)
胸に疼く感情を隠すために、アイリーンはそっと目を伏せた。
――実は、アイリーンは一度死んでいる。毒を盛られて殺されたのだ。
前世のアイリーンは、チャールズ・レディングに対して警戒心を持っていなかった。
それゆえ、求婚状が来るとすぐに結婚をして、レディング伯爵夫人になった。
当時もイアンに対して秘めた想いはあったが、それだけの理由でアヴィントン公爵家に居続けることは彼の迷惑になる、とあきらめたのだ。
それに、イアンも彼女の縁談を喜んでいるように見えたから、チャールズからの求婚を断る理由もなかった。
しかし、あのときは知らなかった……チャールズの素行の悪さも、アヴィントン公爵家の持参金が欲しくて彼女に近づいたということも。
結婚生活の向こうに破滅的な未来しかないとわかっていたら、違う選択ができただろうに。
彼女はチャールズの愛人であるメイド長に毒を盛られて死んだ。亡くなる寸前に脳裏に浮かんだのは、夫への憤りでもメイド長への恨みでもない。
もう一度イアンに会いたいということだった。
もし人生をやり直すことができるなら、ずっと秘めていた彼への想いを伝えたい……アイリーンはそう思いながら息を引き取った。
……そして、それがまさに今だ!
死後の世界に行ったと思ったら、なぜか時間が三年前に巻き戻っていた。
まだ、チャールズと結婚する前の十八歳の頃に――。
なぜそんなことになったのか、その理由はわからない。
考えて答えが見つからないことにあれこれ悩むのは時間の無駄だ。そのため、これは神が自分を憐れんで与えてくれたチャンスだと、アイリーンは前向きに捉えることにした。
自分がいるのがレディング伯爵家ではなく、アヴィントン公爵家だと知ったときは安堵のあまり涙が溢れ出た。
『助かったの……? ああ、神よ……』
さほど信心深くないアイリーンも、このときばかりは神に感謝した。
死の淵から救われ、人生をもう一度やり直すチャンスをもらえたのだ、と――。
(――つづきのお試し読みは各ストア様をご覧ください!)