「俺がいてほしいときは言ってくれ。理由は聞かない」
あらすじ
「俺がいてほしいときは言ってくれ。理由は聞かない」
5年前、初恋である上司の雪仁と体を重ねた珠紀。しかしある理由で大きな後悔を味わった彼女は、傷ついた心を抱え二度と恋はしないと誓う――そして現在、珠紀はフリーのウエディング・プランナーとして起業。クライアントとの打ち合わせに向かうと、何故かそこで待つのは花嫁の兄・幸仁であった。胸にこみあげる感情を抑え、彼の話を聞くと『多忙な花嫁のため、結婚式当日までの七週間・式場となる別荘で式準備をしてほしい』とのこと。泡と消え想いに蓋をしたはずの初恋を辿るように、雪仁との共同生活が始まった――……
作品情報
作:長曽根モヒート
絵:アヒル森下
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1
空港の到着ロビーに入って数歩も歩かないうちに、スマートフォンがけたたましく着信を告げた。きっとアシスタントの岩崎《いわさき》みのりからだろう。彼女にはホノルルの空港を出るときに到着時間を連絡していた。
珠紀《たまき》はすぐさま大きなスーツケースを通路の隅のほうに移動させ、電話を受ける。
「時間ぴったりね。無事に戻ったから安心して」
『よかった。長旅お疲れ様です、社長。帰国早々ですけど、送ったメッセージは確認してもらえました?』
「ちょっと待って」
電話を繋いだまま、画面を操作して未読だったメッセージをチェックした。
「え……伊佐美《いさみ》さんが仕事でグアムに行った? だって、これから会うはずだったでしょ?」
新しいクライアントとの顔合わせを一時間後に控えていたはずが、仕事の都合で相手が急遽グアムに行ってしまったというのだ。ただでさえ通常よりもかなりタイトなスケジュールを希望している花嫁なのに、本人なしでどうやって結婚式の用意をしろというのだろう。
『そうなんです。戻りは二週間後になるとのことで』
「二週間って……」
思わずうめいて頭を抱える。これが身内のみでやるささやかな結婚式ならまだなんとかなったかもしれない。いや、それでも七週間なんてぎりぎりだ。それがさらに二週間も削られるなんて……。
今回の花嫁は世界的に有名なモデルだった。問い合わせがあったときは難しいスケジュールに悩んだけれど、去年大きなプランニング会社を退社してフリーになったばかりの珠紀にとって、今回のような大きなチャンスは逃せなかった。けれど今回ばかりは判断を誤ったかもしれない。だって、たった五週間でいったい何ができるの?
でも会社を立ちあげたときに珠紀は自分に誓いを立てた。フリーになったからには、もう会社の意向や提携会社の都合なんて考えなくていい。どんな状況でも全力を尽くして、クライアントにとって最高の一日を迎えさせる。この仕事は自分にとって天職なのだ。
初心を思い出し、くじけそうになる気持ちをふたたび奮い立たせて珠紀は冷静になろうとひとつ深呼吸した。
「それじゃあ、リモート会議ができるか確認しましょう。料理やケーキなんかは仕方ないにしても、ほかの部分を画面越しでも進められるようリストを作るわ」
『いえ、それが……』
「何?」
『代わりの人を空港に向かわせるから、自分が帰国するまではその人と話を進めてほしいそうです』
「代わりの人?」
花嫁の母親だろうか。珠紀は空いた手でスーツケースを掴み、歩きながら到着ロビーに目をやった。電話のあいだに乗客の波は一段落ついていて人はまばらだ。それらしき人物を探していると、ふと一人の人物に視線が吸い寄せられた。
すらりとした男性だ。上品なダークグレーのスーツに深紅のネクタイときっちり後ろに流した清潔感ある黒髪。日焼けとは無縁の白い肌に銀縁のスクエア形メガネ。無機質なガラスの奥にある綺麗な黒い目が、まっすぐこちらに向いていた。
そんなまさか。
珠紀はとたんに喉がからからになったような気がした。電話の向こうでみのりが何か話している。けれどアシスタントの声も騒がしい空港の雑音もいまはすべてが遠くに追いやられ、男性の存在だけがやけにはっきりと珠紀の世界に浮かびあがっていた。
驚いたのは、彼の類い希な顔立ちのせいではなかった――五年ぶり。自然とその言葉が頭に浮かぶ。
『社長?』
みのりの声にはっとする。
「あ……ごめんなさい。少しぼうっとしてしまって」
答えながらも、視線はまだ彼に釘付けになっていた。
『やっぱりお疲れなんじゃないですか? ハワイから帰国してそのまま次の仕事に向かうなんて無茶ですよ』
「ええ、そうね。これが終わったらゆっくり休むわ。それより、代わりの人って誰なの?」
『クライアントのお兄さんだそうです。ええっと名前は笠間《かざま》……』
「雪仁《ゆきひと》」
無意識に口にしたとたん、全身に震えが走る。
やっぱり。あれは他人のそら似でもなければ白昼夢でもない。あそこに立っている彼は、間違いなく笠間雪仁本人なのだ。
胸にこみあげる感情が喜びなのか困惑なのか、珠紀は自分でもよくわからなかった。彼が花嫁の兄ですって? 妹がいることすら知らなかった。とはいえ、かつて珠紀が彼について知っていたことなどほとんどなかったけれど。
「ありがとう。またあとで連絡するわ。何かあったら情報はメッセージで入れておいて」
電話を切って顔をあげると、彼がすぐそばまで歩み寄っていた。視線がぶつかり合う。珠紀は無意識に奥歯を噛みしめた。
「久しぶりだな、白河《しらかわ》」
彼は低く静かな声で告げた。たった一言発するだけで、一瞥するだけで、胸の奥がじんと震える。これまでに何度、この顔や声を懐かしく思っただろう――正解は、数え切れないほど。
つい状況を忘れてしまいそうな自分に気づき、珠紀は内心舌打ちをした。
しっかりして。わたしはもう彼の部下じゃない。仕事を受けたプロなのよ――台風並みに荒れ狂う感情を押し隠し、少しでも威厳を取り戻そうとわずかに顎をあげ、背筋を伸ばす。この五年で培った作り笑いを必死で浮かべた。
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