作品情報

不機嫌な狼旦那様の溺愛婚事情~平凡伯爵令嬢は獣の独占欲に包まれて~

「君の匂いで──理性が持たない!」

あらすじ

「君の匂いで──理性が持たない!」

領地の負債を肩代わりしてもらったのと引き換えに、狼獣人公爵ユールの元へ嫁いだ伯爵令嬢のレイン。初対面から彼女にだけ不機嫌なユールと仕方なく迎えた初夜は、甘い想像とはかけ離れた荒々しさだった。優しい使用人たちの手前、愛されていなくとも公爵夫人らしく振る舞おうとレインは決意する。ユールもまた相変わらず不機嫌なままだったが、彼の愛撫は日に日に甘さを増してきて…

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作:ろいず
絵:風街いと

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第一章 プロローグ

「アッシュレイン様。どうかお気をつけて……」
 馬車に乗せてくれた執事の言葉にわたしは頷く。
「すぐ旦那様にどうにかして頂くよう、わたしも取り計らいますから、皆はお父様をお願いね」
「ええ。伯爵様はわたくし共で支えていきますから、アッシュレイン様はご自分の身を第一にして下さい」
 微笑んでわたしは走り始めた馬車の窓から、生まれ育った屋敷が小さくなっていくのを眺めた。次第に景色は農地へと変わっていく。
 一ヵ月前にわたし、アッシュレイン・グレゴリーは領地の負債と引き換えに、隣国の獣人族が治める国の公爵、ユール・スティグマへ嫁ぐことが決まった。
 今年十九歳になったグレゴリー伯爵家の一人娘であるわたし。
 わたしの身ひとつで領地の負債を補えるような物ではないにも拘らず、わたしは数時間前に夫となる人と顔を合わせ、婚姻式を済ませた。
 婚姻を証明する書類にサインを交わし、婚姻式で初めて旦那様となるユール様に誓いの口づけをしてもらう為に向き合う。
 本来ならば指輪を交換する事が一般的であるけれど、婚姻までがひと月足らずだったせいで指輪が間に合わず、口づけを婚姻の誓いとした。
 黒いタキシードの燕尾部分から見えた尻尾。獣人に着やすい服の作りが燕尾なのだろうと人族との違いに目をやる。
 初めての顔合わせで失礼にならないように目だけで彼を上から下まで見る。
 こげ茶色の髪は黒混じりで狼獣人族特有の三角の耳がピンと尖っている。同じ毛色の尻尾が彼の後ろで上下にゆっくりと動く。金色の目は鋭く野性味があり、高い鼻梁《びりょう》に整った顔立ち。服の上からでも分かる胸板の厚さは肩部分と脇部分の服を広く作ってあることから、逞しい筋肉の持ち主だと伺える。
 例えるのならば、雄々しい軍神の石像のよう。
 こんな造形美の人がわたしの夫となる人なのかと、気後れしてしまう。
 彼に比べて、わたしは平凡な顔立ちで肌も令嬢と呼ぶには白さが足りない。取柄と言えば、健康的なことだけ。
 彼と目が合った瞬間、その眉間には不機嫌そうな彫りの深いしわが刻まれた。
 ゴクリと息を呑み込むと、彼はわたしを見て一言呟く。
「アカギツネのようだ」
 その言葉の意味を、わたしは自分の髪の色だと受け入れればいいのか、何か別の意味があるのかを問い返せなかった。
 アカギツネのような赤毛にアーモンド色の瞳をしているけれど、アカギツネは猫のような犬科とも言われ、単独で動く動物。
 まさにわたしも単独で獣人族の国へ行く為に、その事とも取れる。
 わたしの肩にユール様の手が掛かり、顔が近付いてくるのを見てそっと目を閉じた。
 目を閉じてしばらくして、時間の感覚がよく分からないけれど、口づけはしたのだろうか?
 まだその実感というより、感触が唇に無い気がする。
 そっと片目を開けるとユール様の顔が近くにあって、とても眉間にしわが寄っていた。軽く触れるか触れないかの唇への口づけに慌てて目を閉じる。
 そして何も見ていませんとばかりに目を開ければ、彼の眉間からはしわが消えていた。
 家族間でも口づけは頬やおでこにするだろう事なのに、彼はまるで初めてのような感じだった。それとも、躊躇するほど口づけが嫌だったのだろうか?
「アッシュレインだな」
 想像していたよりも嫌そうな声音ではなく、優しく落ち着いた声に安堵して、わたしは微笑んで「はい」と答えた。
「長くて呼び辛いと思いますので、レインとお呼び下さい」
「そうか。レイン。俺の事は好きに呼ぶと良い」
「では、旦那様、と」
 初めての顔合わせで緊張しているのかもしれない。そう思い、ユール様の、旦那様の手を握る。
 旦那様はわたしに握られた手を凝視し、体が強張った気がする。
「あの、旦那様……?」
 わたしが顔を覗き込むと、苦虫を嚙み潰したような顔で唇を嚙みしめた旦那様は、乱暴に手を振り払った。
「あ……っ」
 よろけたわたしに手を伸ばして引き寄せてくれたけれど、もしかしてわたしはこの人に嫌われている? と、少なからず思った。
「俺は、一足先に婚姻証明を提出してくる。屋敷には後で、ゆっくり来い」
「あ、はい……」
 そう言葉を交わしただけで、旦那様は花嫁であるわたしを置いて早馬で帰ってしまった。 
 そしてわたしは遅れて一人、こうして馬車に揺られて旦那様とこれから自分が住む隣国へと向かっている。
「借金の負債に、干ばつで干上がった土地……わたし」
 こんなに条件の悪い三拍子を、旦那様は何故手に入れたかったのかが分からない。
 婚姻を承諾する手紙を送って直ぐに、ドレスや装飾品が贈られてきた事から、少なくとも望まれていない訳では無さそうだと思ってはいるのだけれど、婚姻式まで姿を一切現さないのはどうしてだったのか? それにあの不機嫌な顔に、深い眉間のしわは、この婚姻を嫌がっていたのだろうか?
 考えたところで、あと数時間後にはまた顔を合わせることになる。
 わたしは再び、窓の外に目をやる。
 秋の収穫を祝うこの時期は、人々は黄金の穂が風にたなびく小麦畑で歌いながら、手には鎌を持ち収穫に勤しむ頃だ。
 しかし、麦穂は実らず大地は大きくひび割れて干乾びている。この三年間は災害続きでグレゴリー領は疲弊《ひへい》しきっていた。人も、土地も、全てが。
 ことの発端はこのグレゴリー領の領主の伯爵夫人、つまりはわたしのお母様が亡くなってから始まった。

 ***

 屋敷の書斎で陽も落ちぬうちから、ガラス瓶に入ったウイスキーを片手にお父様はお酒に酔いどれ、ソファに座ってテーブルの上に足を放り投げていた。
「お父様。またお酒を飲んでいらっしゃるのですか? それ以上はお体に障りますから、お控えになった方が……」
 全てを言い終える前に、お父様は手に持っていたグラスを壁に投げつける。
「うるさい! お前に何が分かる!」
「お父様……」
「私の、私のアンジュリーが……もう何処にも居ないなんて」
 お母様の名前を呟き、お父様の目から溢れ出た涙は、わたしにも痛いほどよく分かる。お父様とお母様は大変仲が良く、わたしもお母様が大好きだった。
 素朴な見た目の女性ではあったけれど、天真爛漫で人柄がよく領民にも愛された人。
 領民に気をかけていたお母様は、領民が流行病にかかっている事を気にして、自ら看病に赴き、そして自分も流行病にかかって亡くなってしまった。
「あれほど、領民の事など放っておけと言ったのに……どうしてだ」
 お父様の嘆きも理解できた。でもわたし達は国から土地を賜り、領民に支えられてこその領主だ。領民を放っておける人ではなかったのだ。
 お母様という人は、そしてお父様も以前は領民に尽くしていた人。
 でもお母様を失い、この三年間でお父様は変わってしまった。
 お酒に逃げて領地を、領民を、全てを投げ出してしまい、追い打ちをかけるように、災害が起こり、それは三年間続いている。
 最初の頃は水が干上がり、お父様も水を汲み上げる風車を建て、川からの水の取り入れで田畑を守ろうとした。けれど、その後に竜巻が起きて風車は壊れ、直すにはお金が必要でお金を工面したものの、川自体が干上がってしまっていた。
 原因を調べたところ水脈近くの山で大岩が崩れ、大岩を退かさなければ川に水が流れない。しかし、そこでもお金が必要になり、お父様の心も折れてしまったのだ。
 わたしも出来る限り領民と力を合わせて持ち直そうとしているけれど、わたし達に出来る事などたかが知れている。
 その為に領地の経営は悪化の一途を辿っていた。
 国へ援助金を申し入れたものの受理されず、このままでは爵位さえ危ぶまれているというのに、お父様はお酒に逃げてばかりの日々。
 意を決して口を開く。
「お父様。いい加減になさいませ! このグレゴリー領はお母様が愛した土地です。それを放置し続ければどうなるのかぐらい、お父様にも分かるはずです!」
「……」
 俯いたお父様に話が通じただろうかと、側に寄って肩に手を置く。
「お父様。もう前を向いて生きていきましょう? 領民の為にも、お母様の為にも」
 ピクリとお父様の肩が動き、わたしを泣き笑いのような顔で見上げた。
「領民の為? なら、アッシュレイン。お前はこの領地の為に自分を差し出せるか?」
「はい。わたしはグレゴリー領で育った娘です。領土の為なら、今以上に領民と力を合わせて、身を粉にして働きます。ですからお父様も一緒に……」
「これを見てもか?」 
 そう言い、お父様は立ち上がるとふらつく足で書斎机の方へ歩き、机の上に山積みになっていた書類から一枚の書類をわたしに投げて寄越した。
『グレゴリー領の負債を肩代わりする代わりに、グレゴリー伯爵家の娘アッシュレインをスティグマ公爵家へ嫁がせること。領地の経営は公爵家の指示の元で行うこと』
 要約すれば、そのような契約が読み取れた。
 十五の時に社交界へデビューする前、貴族名鑑に一通り目を通したけれど、公爵家は数が少ない分、新たに公爵になった人が居れば、この領地にも話くらいは届くはず。
「お父様、このスティグマ公爵様という方を存じ上げないのですが、騙されておいでなのではないですか……?」
 もしこれが本当だとすれば、この領地にとっても我が伯爵家にとっても良い縁談と言える。領地の経営に口を挟めない事だけが難点なだけで。
「それはそうだろう。スティグマ公爵様は隣国の獣人貴族様だからな。お前が知らないのも無理はない。こんなやせ細った領地が欲しいなど、酔狂なものだ。ハッ」
 吐き捨てるように力なく笑うお父様に、ああ、決断をするしかなかったのだなと、わたしは受け入れた。
 お父様も領地と娘を天秤にかけ領地を選んだ。やはり領主としての判断はまだ持っていたことが、わたしは嬉しかった。
「お父様。わたしはスティグマ公爵様の元へ嫁ぎます。ですから、どうか気に病まないでください。お父様は正しい判断でグレゴリー領の民を選んだのです」
「うるさい! お前など、お前など……何処へでも……っ、ふ、ぐっ」
「はい。お父様、分かっています」
 お父様を抱きしめて、肩越しに「すまない。不甲斐ない」と言う声を耳に、わたしは頷きながら背を撫でる。
 お母様が亡くなってからこんなにも小さくなってしまった背中に、お父様自身もわたしの知らないところでの葛藤があったのだろうと思う。せめて、災害が続かなければこうした結果にはならなかったかもしれない。
 お父様が泣き疲れて寝てしまった後で執事を呼び、お父様を寝室へ運んでもらった。
 自分の部屋に戻ってから、わたしも少しだけ泣いた。
 領地の事に忙しく、社交界に顔を出していないせいで行き遅れではあったが、こうした形での婚姻を望んでいた訳では無い。
 それに獣人とは文字通り、獣と人を半々に受け継いでいる種族で己の獣属性を活かしての生活を基盤としている。
 細かい事は苦手でそれを補う技術を人族のわたし達が補い、わたし達が苦手とする戦闘を彼等は請け負ってもくれる為に、荒事が得意とも聞く。
「どうか、優しく誠実な人でありますように……」
 わたしは祈り願った。この領地の現状を知り、憐れんで手を差し伸べてくれた親切なご仁であるようにと。
 おそらく、公爵家のような身分の高い家柄に、伯爵家の娘が嫁ぐことを望まれるというのは、相手側に問題があるはずだ。
 年老いた人かもしれない。きっと後妻のような形なのだろう。
 わたしは全てを知るのが怖くて、相手の事を何ひとつ調べずにいた。
 どんな目に遭っても父と領民の為に、耐えてみせると心に決めて。
 お父様が承諾の旨を書簡で送り、すぐに山のような流行のドレスや装飾品が我が家に届き、負債も肩代わりをしてくれた書類が届いた。

 ***

 ガタンと、馬車の停まる音と共に扉が開きタラップが足元に用意される。馬車から降りて周りを見渡せば、黒と灰色の鉱石を使ったレンガ造りの豪邸の前に、ずらりと並ぶ同じお仕着せの獣人達。
 わたしに手を差し伸べてくれたのは執事長らしき、角を頭から生やした老齢の男性獣人だった。
「お疲れ様でした。奥様」
 奥様と呼ばれ微笑まれると、自分が貴婦人扱いを受けている気がするが、領地経営で忙しくしてはいたが、自分は貴族であったと思い出す。
 随分と貴族から遠ざかっていた日々に、苦笑いが漏れそうになる。
「ありがとうございます。わたしは、アッシュレイン・グレゴリーと、いえ、アッシュレイン・スティグマと申します。今日から宜しくお願い致します」
 スカートの袖を摘まみ上げて軽く頭を下げると、周りは慌てた様子で眉を下げていた。
「奥様。我々、スティグマ家に仕える者達にその様な丁寧な挨拶は不要です。公爵様に叱責を受けてしまいます」
「まぁ! でも……、仲良くして下さると嬉しいです」
 わたしは穏やかに見えるように微笑むと、彼等も表情を緩ませる。
 旦那様は不機嫌そうな顔をしている方だから、この人達も苦労しているのかもしれない。そう思うと、少しだけ親近感が湧く。彼等に荷物を運び入れるのをお願いし、わたしは運び終えるまでの間に、応接室でお茶を出してもらった。
「公爵様の奥方様が、貴女のような方で安心致しました」
「本当にね。あたし達獣人を顎で使うようなお人だったらどうしようかと、皆で奥様が来るまで心配していたんですよ」
 先程の老執事はガゼル獣人で執事長のエルギス。そしてふくよかな体型のカンガルー獣人で家政婦長のバネッサが、人の好い笑みを浮かべて交互に相槌を打つ。
「わたしも、獣人族の方が気さくな方々で安心しました。旦那様は少し、わたしを嫌っていらっしゃる気がしたので……人族は受け入れられないのかと思っていました」
「そんな事はありません!」
「公爵様が? 有り得ませんよ。奥様をお迎えするのを楽しみにしていらっしゃったんですよ!」
「でも、わたしは彼の事を何ひとつ知りませんし、婚姻式でも不機嫌そうでした」
 二人は顔を見合わせると、ずいっと身を乗り出して、わたしに彼の事を教えてくれる。
 年齢は二十五歳でご両親から爵位を継ぐと、領地経営の為に各地を視察して回ったりと、真面目過ぎるきらいがあるぐらいだと。
「あと公爵様はですねー……っと」
 二人はわたしの傍から離れると、表情を変えて出入り口の方へ腰を曲げる。
「おかえりなさいませ。公爵様」
 出入り口に旦那様が立ち、その表情はやはり不機嫌だった。
「おかえりなさいませ。旦那様」
 二人に遅れてわたしも挨拶を口にする。
「……ああ」
 少しの沈黙が重く、どうすればいいかと悩めば、バネッサが間に入ってくれた。
「坊ちゃんは駆け回ったのでしょうから、お風呂をご用意していますから入ってきてください。あ、爪も切ってもらうように言ってありますからね。その後、軽く食事をとって下さいな」
 爪も切るものなのね。わたしは自分の爪を見る。
 婚姻式だからと、伯爵家のメイドが一生懸命洗って香油を着けてくれた。
 男性側もそういうものなのかしら? と思っている間に、旦那様とバネッサは仲が良さそうに言い合っている。
「バネッサ、坊ちゃんは止めてくれ」
「あたしにとっちゃ公爵になろうと、坊ちゃんが生まれた時からの付き合いですからね。公私は分けていますから。ほら、早くして下さい。奥様の湯あみはこちらでしておきますから」
 半ば追い出されるように旦那様はバネッサに背を押され、エルギスはその後をついて行った。
 バネッサはわたしに笑顔を向けると、「行きましょうか」と手を取る。
 何処へ? とは、聞かなくても湯あみなのだろうと、少しだけ気恥ずかしさがある。
 バネッサに連れられ、わたしのものだという夫人用の部屋へと案内してもらう。
 白い木材を使った調度品が並び、わたしの荷物が地味な茶系が多くて浮いてしまい、申し訳ない感じがする。
 白い箪笥に白い姿見と化粧台。よく見れば、穂麦のレリーフが彫られていた。
 珍しい物をレリーフにするのね。とは思うけれど、どこかホッとしてしまう。
 数キロ離れたグレゴリー領の穂麦畑のような温かさが、身近にあるような気がする。
「さあ、奥様。湯あみの準備が出来ましたよ」
「はい。あの、湯あみくらいなら、わたし一人でも大丈夫よ?」
「今日は大事な日ですからね。そうは参りません」
「……はい。でも、恥ずかしいわ」
 バネッサと他に三人のメイドが控えていて、思わずたじろいでしまう。
 小柄な三人のメイドは丸く小さな耳に長く細長い尻尾の、ネズミの獣人で、同じ灰色の髪に黒い目。顔つきもよく似ている。
「あたしは、ライカと申します! 若奥様付きのメイドの一人になります!」
「私達も奥様付きのメイドです。ライカの姉のミモリと申します。この子は末のリナリアです。三姉妹揃って、誠心誠意お仕え致しますから、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします! 若奥様!」
 三人はにっこりと笑顔で挨拶をし、わたしも笑顔を返す。
「よろしくね。ミモリ、ライカ、リナリア」
「うふふ。若奥様に名前呼ばれちゃった!」
 はしゃぐ三人を、バネッサが「ほらほら、喋ってないで湯あみの支度をお手伝いなさい!」と叱りつける。
 恥じらいながらも着ていた服を脱ぐのを手伝われ、白いバスタブへ身を浸ける。
「奥様は少し、肉付きをよくした方が良いですね」
「お胸はともかく、肋骨が浮いているのは良くないですよ」
「うちのコック長は昔、王宮で腕を振るっていたので、味は絶品ですから。奥様もすぐにふくよかになられますよ。バネッサメイド長みたいに」
「どういう事だい? 口の減らない娘達だね」
 体を海綿で洗われながら、まるで昔からの知り合いのように接してくれるメイド達に、わたしは恥ずかしさを忘れて笑う。
「うふふ。頑張ってお肉をつけるわ」
 まるで亡き母のように温かい眼差しでバネッサは微笑み、他の三人も笑顔を返してくれた。そして軽食も食べるように言われて、薄いパン生地に野菜と漬け込み肉のロールを少しだけ食べさせて貰った。味は優しい甘さに少しの辛さがあるもので、ハチミツとマスタードで漬け込んだ物なのだと聞いた。
 湯あみが終わり、薄い生地のバスローブだけを着せられると心許無《こころもとな》さに胸の前を握り締める。
 バネッサに夫婦の寝室へと連れていかれると、先に旦那様が大きなベッドに腰を掛けて待っていた。
「では、ご用がある時は、サイドテーブルに置いてある呼び鈴を鳴らして下さいな」
 彼女はそれだけ言い終えると、寝室の扉を静かに閉めて出ていった。
 二人きりにされてしまうと沈黙が重く感じてしまう。
 旦那様はやはり不機嫌そうな顔で、今にも威嚇してきそうな野生の獣のようだ。
 でもこのお屋敷で働く人達は、この人にとても親しみを抱いているようだし、夫婦になるのだから仲良くしていけるように、わたしも努力しなくてはね。
 旦那様の前に歩み寄り、わたしは口を開く。
「旦那様。わたしは身一つしか持ち合わせませんが、あなたの立派な妻となれるように努めていきますね」
「君は、お飾りの妻でいい」
「え……?」
 動揺するわたしの腕を掴むと、そのままベッドへ押し倒してバスローブを左右に開く。胸をはだけられて羞恥に頬が熱くなり、悲鳴が出そうになるのを必死に呑み込んだ。
「チッ」
 舌打ちの後、バスローブの腰紐が解かれる。
 ショックだった。
 初めての夫婦の営みは甘く記憶に残るものだと、実家のメイド達は言っていたのに、乱暴に裸を見られ、舌打ちをされるなんて誰が思うだろう。
 泣いては自分がより惨めになるだけだと顔を横に向けると、顎を指で真正面に向けられ口づけられる。
 それはぎこちなくゆっくりと、角度を変えて何度も繰り返された。
「っ、ん……っ、はぁ」
 酸素を吸う機会がなかなか得られず、息が上がり頭はぼうっとして意識が飛びそうになっていく。
 シュルッと布を解く音がして目だけその音を追えば、旦那様が自分のバスローブを紐解いて脱ぎ捨てていた。
 見た目通り鍛え抜かれた筋肉質な体躯をしている。本当に軍神のようだ。
 けれど今のわたしには、それが恐ろしく思える。逃れようのない体格差に、小さく震えが走る。
「体に触るが、良いか?」
 すでに組敷いた後で了承を得る必要性が? と言えるはずもなく、ただ頷く。
 男性特有の武骨で大きな手が頬を触る。その手は優しく、そのまま首筋をなぞる。
 ぞくっとした感覚に小さく吐息が漏れていく。
「はぁ……、っ」
「ここか」
 何がだろう? と思う暇もなく、首筋を舌で舐められて吸われた。
 腰の骨が下の方でぞくぞくと変に疼き始め、首筋を甘噛みされるとベッドのシーツを握り締めて言い難い疼きに堪える。
「んっ、うぅ」
 堪える度に首筋が吸われて噛まれ、いつの間にか片手で胸も揉まれていた。
 やわやわと揉みしだかれて胸の先端が弄られると、首筋の比ではない感覚に声があがってしまう。
「あ、んんっ」
 鼻にかかったような甘い声が自分の声だなんて、恥ずかしい。
 声を出さないように下唇を噛んでいると、乳房を強く握られて痛さに声が出てしまった。
「痛ぅ……うぅっ、痛い、です」
「爪は、切ったんだがな」
 男性が爪を切る理由は女性の体を傷つけない為の処置なのね。と、今更知ったところで握る力の加減が問題。言って良いか迷ったけれど、結局言う事にした。
「いえ、あの、力が強い、です……」
「そうか」
 彼はわたしの首筋から顔を上げると、胸へと舌を這わせた。
 片方の手は軽い力を入れて指で紙縒《こよ》るように左右に頂を摘まんで弄り、片方の胸は口に含まれて舌で転がされた。
「んっ、ん、あ、ぅ」
 途切れ途切れに漏れ出る声を自分の手の甲で押さえて、片手でシーツを握り締める。
 探るように舌が動き歯を立てられて、その度に身悶えしてしまう。
 力加減を抑えられただけで、こんなにも体が反応して声が抑えられなくなるなんて、思いもしなかった。
 永遠に続くような羞恥と、体の中に燻ぶる熱が溜まるような感覚が、わたしを翻弄していく。
「も、もう……ぅ、はぁ、ん」
 この痺れるような感覚から逃れたくて、左右に首を振ると胸から顔を上げた旦那様と目が合う。
 また眉間にしわが寄り、噛みつくような口づけで唇が塞がれた。
「んっぅう」
 舌で歯列をなぞられて口を開けると熱い舌に口腔内を舐め尽くされ、舌が絡まって吸い上げられる。下腹部に旦那様の手が這い、誰にも許した事のない場所が左右に開かれて指が入ってきた。
 異物感に体が強張《こわば》って、身動きをする事すら自分の意思では覚束ない。
「濡れているな」
 濡れる? 何を言っているのだろうと思っていたけれど、旦那様の指が動く度にくちゅくちゅと水音がわたしの股の間から響く。
 恥ずかしい音に止めて欲しくて、追いすがるような目で旦那様を見ながら声を出した。
「やっぁ、旦那、さまぁっ」
 指と旦那様の体が動きを止める。
「……レイン」
 熱のこもった声に「旦那様」と応えれば、指が自分の中から引き抜かれ、これで終わったのかと一瞬ホッとしたのも束の間、ギシリとベッドが軋む。両足を左右に広げられると旦那様が間に割り込んだ。
 その時、旦那様の下半身にある、今にもお腹につきそうなほど反り返った雄々しいものを見てしまった。
 領地で飼っていた馬が興奮した時の太さで長さはそれよりも長い。血管の浮き出たそれが近付き、割れ目に当てがわれる。
「あっ、いゃ……――ッ!」
 挿入された痛みに涙が零れて頬を濡らしていく。
「狭いな」
 旦那様の労わりの無い無情な言葉と共に、挿入されたものは奥へとねじり入れるように進む。
「痛ぃ……っ、動かな……っ」
 痛さを我慢して声を出して訴えると、旦那様の動きは止まり、下腹部は広げられた痛みと今なお、内部にある異物で引き攣れる。 
「なら、止めるが?」
 旦那様の言葉にハッとして、わたしは自分の立場を思いだす。
 ここで嫌だと言えば、グレゴリー領の人々はどうなるのだろうかと……わたしが我慢すれば、全て丸く収まる。
 グッと痛みを堪えて、必死に言葉を口に出す。
「大丈夫、です。は、初めてなので……。旦那様の、お好きなように」
「そうか」
 顔が近付いて額に唇が押し当てられる。
 頬にも唇が押し当てられ、涙の跡を舌で舐められた。優しいキスはまるで労わっているような気さえしてしまう。
 けれど行為は再開され、腰を両手で持たれて少しだけ浮くと腰を引き寄せられ、ゆっくりと深く交わっていく。
「あ、ああっ、んくぅ……っ」
 腰を動かされる度に漏れ出てしまう声が止められず、シーツを握って痛さを身代わりにするように只々、硬く手の内側にシーツを引き寄せた。
 体の中で旦那様の一部がわたしの処女地を暴いていく。もう自分は乙女では無くなってしまった。
 結婚相手に捧げるために大事にしていて、これで本懐を遂げたというのにズキンズキンとお腹の奥は痛くて、幸せだとは思えない。
「うぅっ、旦那、様……っ」
「狭くて半分しか入っていない。少し力を抜けるか?」
 半分? こんなに時間を掛けて痛い思いをしたのに、半分……少しだけ気が遠くなった。
 そのせいで体の力が抜けたのか、ずんっと旦那様がわたしの腰を突き上げ、お互いの肌が密着する。
「あっぅぅっ」
「っ、くっ」
 ズクズクとした痛みに動けずにいると、旦那様の手がわたしの腹の上を撫でる。
「女性は柔らかいな」
 お腹を触られるたびに、中にある剛直をお腹の内側でも外側からも感じられ、むずむずとした変な感覚が湧き上がった。
「ぁ、ふ、くぅ」
「ん、くすぐったいのか?」
 旦那様が手を止めると膣内が熱くて、変な感じがする。
 涙を手で拭かれ、しばらくお互いの吐息だけが聞こえていた。
「そろそろ動いても大丈夫か?」
「え……」
「キツすぎる」
 旦那様が腰を引くと痛み以外の何かが媚壁から伝わる。
「っ、んぅぅ」
 この感覚がなんなのかが分からない。
 けれど、旦那様にまた奥まで腰を沈められて、わたしは嬌声を上げていた。
「ああっ、やぁ、んんっ」
 ああ、わたしの声が恥ずかしい。そう思うのに、旦那様に腰を動かされるたびにはしたない声が止まらず、旦那様に口づけをされながら、熱い吐精が脈打って出るのを体の中で受け取った。  

 朝日の眩しさかと思い目を開けると、陽は高く上がっていた。
 寝すぎたと体を起こすとズキリとお腹が痛み、片目を閉じて昨夜の事を思い出して、いつの間に自分は寝てしまったのかと、小さな溜め息が出る。
 初めは痛いばかりで痛みを逃そうとばかりしていたのに、そのうち突き上げられる度に甘く上ずった声が出て、痛みだけではないものを逃がそうと必死になっていた気がする。
 それを思い出すと、恥ずかしさで茹で上がってしまいそう。
「このまま寝ている訳にもいかないわね」
 ベッドから出ると自分の体が清められ、寝間着に着替えさせられていた事に気付く。旦那様が? と思ったけれど、きっとメイド達だろう。
「お飾りの妻……ね」
 鼻の奥がつんと痛く涙が溢れ出る。
 婚姻式の時から感じていた旦那様の不機嫌さを考えれば、自分は愛など無い婚姻を結んだのだと分かる事なのに、どこかで期待してしまった。
 こんな平凡で爵位さえも不釣り合いな妻で、領土の負債を肩代わりしてくれただけでも本当にありがたい事。それ以上に何を望んでしまったのだろう。
 使用人達の手前、初夜をするしかなかったのだわ。
 眉間にしわを寄せていたのが、その証拠よね。
「バカね。わたしも彼も」
 その時、ふわっと良い香りがして窓際を見れば、ガラスのコップを花瓶にしたのか白く小さな花がぎゅうぎゅうと押し込まれていた。
 不格好に押し込まれた花を近くで見たくて、痛みでぎこちない足取りをしつつ窓際まで歩く。
 雑に摘んだのか不揃いな長さの茎に、水も溢れ出しそうになっている。
 使用人がしたにしては仕事が雑だけど、今のわたしにはこの花が慰めてくれているようで愛おしく感じた。  
 お飾りの妻だもの、これが最初で最後の夫婦の営み。
 痛みはいつか消えるものだから、きっと大丈夫よ。
 愛されていないならいないで、わたしはこの公爵家を夫人として屋敷を回す役目を果たせばいい。
 幸い使用人達は気さくで良い人達だもの。お飾りの妻とはいえ、悪いようにはならないはず。お母様が亡くなってからの三年間に比べれば、きっとなんともない。
 そう思っていたのだけれど、その日の夜も、旦那様はわたしを抱いた。
 旦那様がよく分からない。
 体を求められ、わたしを扱う手は優しく、それは次第に快楽に変わっていく。
 旦那様はわたしの体中に口付けをして、まるで自分の物だと言わんばかりに首に甘噛みを繰り返す。
 次の日もそのまた次の日も、毎夜のように。
 彼がわたしを抱く都度、丁寧になっていく愛撫に勘違いしそうになる。
 愛されているのではないかと――
 体に残る赤い鬱血痕に、身支度を手伝ってくれるメイド達も、「公爵様は独占欲の塊ですね」と笑われたが、胸がズキリと痛み泣き出したくなる。
 彼は跡継ぎが欲しいだけ。だって終わるとわたしの腹を優しく撫でて、愛おしそうな目で見てから眠りにつくのを知っているから。
 跡継ぎを産むのもお飾りの妻の役目で、愛など期待してはいけないと自分に叱咤する。
 それでも、浅ましいわたしの心は彼に夫婦の愛を求めてしまう。

第二章 夜会

 黒と灰色で出来た豪邸に使われているレンガは、人族では重すぎて使われていない鉱石だが、獣人族の力ならば余裕で持ち運べるとあって、頑丈で重い鉱石を生活に取り入れて使うのだという。
「お屋敷と同じ鉱石で窯を作るの?」
「ええ。この鉱石は火にも強いですからね」
 わたしは裏庭で使用人達が焼き窯を作ると言うので、どんな物なのかを好奇心を抑えきれずについてきた。
 ただ、わたしが行った時にはドーム状に並べられたレンガで作った窯は、完成にほぼ近かった。
 わたしが最初の日に食べさせて貰った薄焼きのパンも、この窯と同じ物で作っていたらしく、パンやパイなどを作るのに昔から獣人族に伝わっている物だと教えてくれた。
「わたしにも何か作れないかしら?」
「奥様がお料理……ですか?」
「ええ。わたし、故郷では領民と一緒に色々作ったのよ。小麦が採れていた領地だったから、パンをこねて木の実を混ぜ込んで収穫祭には食べたり、バターをいっぱい使ったパイも作ったわね」
 ほんの少し前までは当たり前だった事なのに、今はそれが叶わない。
「なら、奥様が今日は一品、公爵様に作って夕飯にお出ししましょうか」 
「良いの? でも旦那様にお出しするのは、少し自信がないわ」
「公爵様なら奥様が作ったと知ったら、独り占めしてでも食べてしまいますよ」
「ああ、違いないねぇ。坊ちゃんは奥様が好き過ぎて、目も当てられないからねぇ」
 和気藹々とした使用人達の言葉に、わたしは何も言えずに口元に笑みを浮かべて、心だけが沈んでいく。
 旦那様はわたし以外とは普通に接している事が、わたしを苦しめる。
 彼はわたしにだけ不機嫌そうな顔をして、会話もほとんどない。
 そんなわたしの作ったパンを、独り占めになんてする訳が無いわ。
 自分の気持ちを誤魔化すように、わたしはパン生地をこね続けた。そのおかげか、出来栄えはとてもよかったけれどやはり夕飯にお出しするのは躊躇《ためら》われた。
「やっぱり駄目よ。皆のお夕飯にでもしてね」
「奥様、上手く出来ていますよ。自信を持って下さい」
 わたしは首を左右に振って、少し休むわと言い自分の部屋へと戻った。
 ベッドにうつ伏せになり、枕へ顔を押し付ける。
 途端に涙が溢れて枕を濡らしていく。泣けば自分が惨めになるだけなのに、止める術がわたしの中に見付けられない。
 気付けば眠っていたようで、とっぷりと夜も更けていた。わたしの体の上には薄掛けの毛布が掛けられ、そしていつもは夫婦の寝室に置かれている不器用な花の贈り物が、化粧台の上にあった。
 誰の贈り物なのか使用人達に聞いても、妙な笑顔で笑うだけで「不器用ですねぇ」と言い、分からずじまい。
 心の片隅に旦那様かもしれないという思いはあるが、その淡い期待が打ち砕かれるのが怖くて有耶無耶にしてしまっている。
 それでもこの花の贈り物が嬉しくて、悲しみに暮れるわたしの心に沁み渡っていく。
 コップから一輪だけ花を抜き取り、花の指輪を作って自分の指に飾ってみた。
 婚姻の印の指輪は、今も貰えていない。
 自分の唇を指でなぞり、誓いの口づけを思い出す。
 あのぎこちない軽く触れただけのキスが、今ではよく分からなくなる。
 毎日のように夜、唇を重ね合わせる事に意味はあるのかが分からない。
 再び目を閉じると眠気で瞼がウトウトと上下する。その時、部屋の扉が静かに開いた。
 誰だろう? 声を掛けた方が良いのか、このまま寝てしまった方が良いのか考えつつも瞼が重い。
 その人はわたしの傍に来て髪を撫で、額に口づけを落とした。
「旦那様……?」
「眠っていて良い」
「……はい」
 なんだか旦那様が優しい気がして、嬉しくて、でも何処かで泣きだしそうで、気付かれたくないわたしはそのまま眠りについた。
 夢かもしれないと思ったのは半々で、次の日に起きた時にわたしの指から花で作った指輪が無くなっていたこと。
 シーツの下もベッドの間も探したけれど、何処にもなかった。
 化粧台の上にはコップの花は無かったけれど、代わりに男らしい大きな字で『パンは美味かった』と、旦那様の文字で羊皮紙の置手紙があった。
「本当に、旦那様が分かりません」
 胸にそっと手紙を抱きしめて、わたしは目を伏せる。
 あなたは優しいのか、わたしを嫌っているのか、どちらなのだろう。
 
 ***
 
「夜会の招待状?」
「ええ。公爵夫妻での初めてお二人揃っての夜会ですからね。あたし等も気合いを入れて、奥様を仕上げますよ」
 バネッサに採寸をされながら、わたしは眉を下げる。
 相変わらず、旦那様はわたしを見る度に眉間にしわを寄せるし、尻尾は上下に揺れている。
 まるで牛がハエを追い払う時のような動きで、わたしはそんなに嫌われているのかと、チクリと胸が痛くなってしまう。
「わたしは獣人族の夜会は初めてで、失礼が無いか不安だわ。それに旦那様も、不安要素のあるわたしを伴って参加はしないかもしれないもの……」
「夜会は人族と変わりゃしませんよ。ここだけの話ですけどね、坊ちゃんは奥様をお迎えする前、一緒に踊る時に失敗しない為だけに、夜会という夜会へ参加して踊り倒していたんですよ」
「……そうなの」
 それはただ単に、独身最後を謳歌する為なのでは? と口に出かかり、旦那様とわたしの仲が良いと信じている使用人達の夢を壊してはいけないと口を閉ざして、笑みだけを浮かべる。
「そうだ。奥様、坊ちゃんとお揃いのドレスを新調いたしましょう」
「それは良いですね!」
「なら、私は公爵様の生地色をエルギス執事長に聞いてきます!」
「宝飾屋も呼んでドレスに合わせてはどうですか?」
 ぽんぽんと会話を飛ばして、メイド三人組とバネッサは、わたしが口を挟む暇もなく慌ただしく動き出す。
 即実行がこの公爵家では当たり前なのか、午後には仕立て屋が呼ばれデザイン画を見せられていた。
「旦那様はワイン色の生地に黒と金の飾りを着けるそうです。奥様は髪が赤いので、逆に黒地にワイン色と金の飾りをしてはどうです?」
「だったら、公爵家の狼と剣の家紋を金糸の刺繍で刺してみるのは、どうですか?」
「えっと……、あなた達に任せるわ」
 やはりここでも元気なメイド達に口を挟めず、色々とアドバイスをもらい、わたしは引き攣った笑顔で疲れ切っていた。
 領地で走り回っていた時とは違う疲労感に、ふうと息を吐く。
 それから数日して、ドレスの仮縫いや装飾品も決めたりと、忙しくも楽しい日々を過ごさせてもらった。
 伯爵家とは言えど、我が家はどちらかと言えば田舎の貴族でしかなく、こうしてドレスを自分に合わせて作ってもらったのは子供の時ぶりだから、とても楽しい思いをさせて貰っている。
 旦那様と一緒の夜会を思えば、嬉しくないかと言えば素直に嬉しい気持ちが勝る。
 夫婦で参加の夜会はわたしの憧れ。
 夫にエスコートされ、ファーストダンスは勿論、二回目のダンスも一緒に踊れる。
 わたしには婚約者が居なかったから、二回続けて踊る事は無かったし、三回目も同じ相手で踊れるのは夫婦だけの特権。
 お母様とお父様は、いつも目を合わせて楽しそうに踊っていたのを覚えている。
 わたしも将来は……と、幼心に夢を見ていた。
「あっ、そういえば最近踊っていないから、まだ踊れるかしら?」
 領地の経営に忙しすぎて、夜会はおろかお茶会にすら参加していなかったのよね。
 十五歳でデビューして一年ぐらいしか社交界に居なかったから、今更ながら不安が募る。
 実家から持ってきた荷物の中から服を引きずり出して、道具置き場から箒とハタキを拝借し、使用人達に見付からないように庭園の奥へと隠れる。
 森に囲まれているから何処までが庭園か少し境目が曖昧だけど、ここなら人目にはつかないだろう。
 屋敷から拝借した箒とハタキを簡単に縛って服を着せ、簡易の案山子《かかし》を作る。
「旦那様は背が高いから、もう少し上かしら」
 案山子を微調整して、わたしはスカートを指で摘まみお辞儀をする。
 そして案山子の手を取って、簡単なワルツを鼻で歌いながら踊り始めた。
 きっと獣人の旦那様は運動神経が良いから、リードをしてくれるだろう。
 楽しい夜会になると良いのだけど……。
 しばらく踊っているとガサガサと物音が近付き、わたしは急いで案山子を元の箒とハタキに戻して服を茂みに隠す。
 振り向くといつもより不機嫌な顔、と言うより怒った表情の旦那様が居た。
 声を出したいのに、ピリピリとした空気に体がすくんで言葉が出ない。
「相手は誰だ!」
「え……?」
 吠えるような怒気を含んだ声にビクリと肩が上がり、周りの木々から鳥が一斉に飛び立った。
「こんな場所で逢引きかっ!」
 ジリッと旦那様が近付くと、怖さに自然と足が一歩後ろに下がってしまう。
 それが気に入らなかったのか、わたしの腕を掴むと歩き出す。
 腕を痛いほど掴まれて、わたしもついて歩くしかなく旦那様の歩幅は大きく、わたしの歩幅になど合わせてはくれない。
「旦那様! 話を、話を聞いて下さい!」
 必死に声を掛けても、怒りに任せて歩く旦那様は耳を傾けてはくれず、屋敷の使用人達も声を掛けられずにオロオロとしていた。
「公爵様! 何をしておいでなのですか!」
 執事長としてエルギスが止めようとしてくれたけれど、旦那様のひと睨みで彼も後退りそうになるのを必死に堪えていたようだ。
「誰も入ってくるな! 分かったな!」
 寝室に入れられ、旦那様は荒々しく扉を閉じた。
 床でへたり込んだわたしはいつの間にか涙が流れていたのか、パタパタと床の絨毯《じゅうたん》に雫を落とす。
 見上げた旦那様はピクピクと鼻にしわを寄せて怒鳴ろうと口を開いて、わたしと目を合わせるとそれを止め、額を乱暴に片手で押さえた。
「君は、俺の妻だ」
 怒りを抑えた声で絞り出すように彼が言う。
「はい。ヒクッ、っ、ごめ、なさい。誤解、です」
 泣かずに声を出そうとすると、喉の奥が痛くて余計に声は出し辛く、涙が溢れてしまう。
「アッシュレイン。君は、俺のものだ」
 手が伸ばされ、抱きしめられた……と思ったのに、ビリッという音に背中で留めていたクルミボタンが弾き飛ぶ。
「あ……っ、嫌、止めて下さいっ」
「誤解だと言うなら、証拠が必要だろう」
「証拠……?」
 旦那様が何を言っているのか分からず、戸惑っているうちに服は無理やり引き裂かれるように脱がされ、コルセットの紐も引き千切られる。
 震える手で旦那様を押し退かそうとしてもビクともせず、下着まで剥ぎ取られ体を隠す物は何も無くなった。 
「お願いですから……ふ、っ、わたしの、話を」
「今は、余計な話は聞きたくない」
「旦那様……っ」
 太ももに手を掛けられ股を開かされて、彼の指で秘所を暴かれる。
 いつもより乱暴で、隘路《あいろ》を指が探るように襞《ひだ》をなぞっていく。
 証拠とは、わたしが旦那様以外の男性に抱かれたかを調べること?
 酷いと思うのに、わたしには旦那様を止める力が無い。
「いやぁ、ぅぅ」
 身をよじっても指は前後に動き、初夜からずっと旦那様に与えられ続けた快感に、逃れることが出来ないまま喘がされる。
「いつも通り、狭いな」
 指が粘膜を掻きまわして淫猥な音を立て抜き差しを繰り返し、体の芯に熱く籠る塊が解放されたがり、もっと強い刺激を求めてしまいそう。
「んっ、んぅ」
 必死に歯を食いしばり耐えていても、彼がわたしの反応する箇所を執拗に責め立て、目の前が白くなって体が浮遊感に満たされた時には、絶頂に屈していた。
 吐息を乱しながら意識が何処かに行っていると、カチャカチャと金属の音がして目を向ければベルトのバックルを外し、スラックスの前部分から張り詰めた雄々しいものが顔を出す。
 まだ体に力が入らず床で倒れていると、うつ伏せにされた。
 腰を持ち上げられ、臀部《でんぶ》の割れ目から蜜口に旦那様の先端が押し当てられ、蜜液で濡れたそこは拒む事無く受け入れた。床と内部に納まったものに薄い腹は押し付けられて、嫌でも旦那様の動きをいつもより強く感じる。
「あ、はぁ……っ、んっ、んっ、あっ、はぁ」
 旦那様が穿つ度に声が漏れるけれど、床に押さえつけられているせいか途切れ途切れにしか出ない。
 床の絨毯を掴むわたしの両手の上に旦那様の手も重なり、強く握られる。
「レイン。浮気は、許さない」
「わたしは、浮気なんて――ッ」
 最奥まで穿たれて圧迫感に仰け反ると、二度三度と抽挿が繰り返し、結合部分は密着をより深くした。
 ガブリと首筋を後ろから噛まれ、隙間なく蜜壺内の熱杭が蜜口の入り口で生き物のようにドクリドクリと脈打ちながら、奥へと精を吐き出す。
「あああっ、熱いのが……んんーっ」
「レイン。俺のものだ。誰にも、渡さない」
 旦那様の荒い呼吸が耳朶にかかり、ゾクリとした独占欲丸出しの言葉にふるりと震えると、両手から手が離れ、背中からも旦那様の汗ばんだ筋肉質な体の重さが無くなる。
 繋がったままの下半身はまだ熱いまま。
 後ろから体を引き寄せるように持ち上げられ、旦那様の膝の上に座るような形にさせられると、旦那様の両手で両腕を引っ張られてぐちゅりと、彼の白濁とわたしの体液が交じり合った音を立てながら下から突き上げられた。
「ああっ!」
 内壁からを臍《へそ》の裏を擦られて、お腹の上からも旦那様の形が盛り上がっているのが見える。えぐるように突き上げられる度に体は浮きそうになり腕を引かれ、引き戻されて最奥を押し上げられる。
「あっ、んっ、やっ、旦那様、もう、ひっ、あっ」
「アッシュレイン。君は、誰のものだ?」
 引き寄せられ背中越しに心臓の鼓動の早さと、熱い吐息を感じた。
「あなたの、旦那様のもの、です」
「そうだ。このユール・スティグマの妻だ」
 腕を持つ手を放され、顎を掴んで無理な体勢で口づけを交わす。
 お互いに乱れた吐息で空気を奪い合うように唇を重ね合わせ、唇が離れた時には唾液で出来た銀の糸が引いていた。
 手は自由になったけれど、旦那様は下半身を自由にはしてくれず四つん這いの恰好で後ろから前後に腰を揺さぶられ、わたしは啼かされ続ける。
 抜かないままで何度も熱い飛沫を胎内で受けながら、わたしは気絶するように意識を手放した。

 目が覚めた時いつもの花は無く、それが一層わたしの悲しみを深くする。
 体の中に残る熱と痛みが引かないまま、まるで何事も無かったようにわたしはその日を過ごした。使用人達も夫婦の間に口を挟める訳もなく、心配そうな目を向けてくるがわたしにはそれに応える言葉が無い。
 おそらくは、あの簡易で作った案山子が密会の相手に見えたのだろうけれど、疑われるほどに、わたしは旦那様に信用がない。それだけの話。
 数日間はお互いに顔も合わせない生活で、夜も別々で眠りにつく。

 夜会の日だというのに、旦那様に声すらかけてもらえない。
 ドレスも届いていない。メイド達は「この国でも指折りの職人ですから、細かい場所にも拘っていて仕上がりはギリギリと噂は耳にしていますから。今日中には届きますよ」とは言っていたけれど、本当に届くのかも分からないから、メイド達も困った顔をする。
 もしかしたら、旦那様が断ってしまったかもしれない。
 信用を失ったわたしはこの公爵家にいる意味が見いだせず、花を求めて庭園を歩いた。
 庭園は入り口が白い薔薇のアーチで、そこを潜ると噴水を中心とする迷路のように円を描いて赤い薔薇が植えてある。
「ここでは無い、のね」
 あの素朴で野花のような白い花は、この手入れされた庭園には無いと言うより、似合わない。
 わたしと同じで、ここでは異質の存在。
 庭園を出ようとして、いつの間にか顔つきの鋭い大型の犬がわたしを見ていた。
 大きさはわたしと大差ない程の大きさだけど、顔つきのわりに恐ろしさは感じない。
 黒に茶色い毛が混じっていて、旦那様の耳と尻尾に似ている。
「迷子?」
 声をかけると犬は近寄ってきて、尻尾を上に立て上下に振る。
「普通は左右に振るものよね?」
 わたしは犬の尻尾を左右に小さく弄ると、犬は余計に上下に振る。
「顔は怖いけど、あなたは良い子ね」
 頭を撫でれば体をわたしに摺り寄せて、軽くスカートの端を引っ張りわたしに道案内をするように歩いては振り向く。
「何処に行くの?」
 犬に先導されるまま歩くと少し開けたところに、白い木材で出来たガゼボが建っていた。わたしの部屋の調度品と同じような穂麦のレリーフが支柱に彫られてある。
 正面の丸い窪みにはスティグマ公爵家の紋章が彫られていた。
 狼の紋章に犬を見れば、この子は犬ではなくもしかして狼だろうか? と首を傾げると、犬は前足でガゼボの中の椅子に座れと言うように手を小さく掻く。
 わたしが座ると、また尻尾を上下に振り膝の上に顎を乗せてくる。
 犬の頭を撫でながら目を見れば、目の色も金色で旦那様とお揃いだと気付く。
「旦那様によく似ているわね」
 ガバッと顔を上げて、犬はわたしから飛びのく。
 耳を下にさげて彼は走り出した。その姿は直ぐに無くなってしまい、取り残されたわたしは肩を落とす。
「折角、お友達が出来たと思ったのに……」
 でも公爵家で犬を飼いたいなんて我が儘は通じないわよね。
 獣人国では動物を愛玩用に飼育はしない。その動物と同じ獣人の人を侮辱する行為に当たるから、動物はこの国では自由に生きている。
 馬車等に使われる馬は、動物というより精霊に近い生き物だから早さも馬力も違う。
 見た目も馬に似ているものもあれば、異なるものも多いらしい。
 話によると空を飛ぶこともできる馬も居るのだとか。
 物思いにふけっていると、またあの犬が帰ってきた。
「おかえりなさい」
 犬は口に何かを咥えていた。わたしの膝にそれを置くと、見上げながら尾を上下に振る。
 膝の上に散らばる白い花びらの花はわたしが探していた、不器用な花だった。
 目が熱い。鼻の奥がつんとして涙が花の上に零れ落ちると、犬は鼻を鳴らしてわたしの顔を舐める。
 慰めようとしているのか、そのまま押し倒されて犬の首に手を回して抱き着く。犬は驚いて毛をぶわっと逆立てた。
 その様子が少しだけ可笑しくて笑うと、犬はわたしの頬に頭を擦り付ける。
「ありがとう。あなたは優しいのね」
 指で涙を拭き取って、犬の両頬を両手で包み込む。
 犬が首を伸ばそうとするのを手で制すと、彼は鼻の上にしわを寄せて「なんでだ?」 と言わんばかりの不機嫌な顔をする。
 本当に旦那様と似ている犬だ。
「駄目よ。わたしは旦那様のものだから、あなたにも唇は近付けさせられないわ」
 自分で言って、それがおかしな感じでわたしは笑ってしまう。
「ふふふっ。おかしいわね。信用ひとつされていない妻なのにね」
 わたしは立ち上がると、彼を撫でてから中庭を抜けて裏庭へと回る。
 犬は耳を下げたまま、トボトボとわたしについて歩く。
 わたしは茂みに手を伸ばし、隠していた箒とハタキに服を引きずり出す。
「良かった。まだあったわ」
 犬は首を傾げてフンフンと鼻で服の匂いを嗅ぐ。
「この服はね、お母様の服なの。男物なのは、農作業を手伝っているのをお父様に見付かったら、怒られてしまうからなのよ。ふふふっ。わたしもこっそりここで、ダンスの練習に案山子を作って踊っていたら、旦那様に怒られてしまったわ。お母様は笑って許してもらっていたけど、わたしは嫌われてしまったみたい」
 情けないと苦笑いをしてまた歩き出すと、犬はその場で肩を下げたように頭を項垂れて耳を下げたまま、わたしを追ってこなかった。
 毛並みのいい立派な子だから、ここら辺でもちゃんと生きていけている子なのだろう。わたしも、泣いてばかりじゃ駄目。ちゃんとここで生きていかなくては。
 屋敷に戻り、道具入れに箒とハタキを返して自分の部屋へ戻る。
 部屋へ戻ると夜会のドレスが仕上がったのか、ドレッサーの前に置いてあった。
 手に取って布の光沢と質感に、仮縫いの時とは別の上質な布を使ってもらったのだと気付いて、口元は勝手に綻んでいく。
 金細工にはスティグマ家の紋章が刻印され、黒地の布部分にも金糸で刺繍があしらわれ、赤い布地の上には金糸で作られた細かなレースが付けられている。
 確か獣人国でも指折りの仕立て屋だと聞いたけれど、これほどの美しいドレスならば人気も納得できる。
 獣人は細かい作業が苦手な種族ではあるけれど、得意な種族もわずかにいて、その人達の頑張りがこうしたことに使われているのかもしれない。
 コンコンとノックの音と共に「失礼いたします」と、メイド達が箱を抱えて入ってきた。
「奥様! お帰りになられていたんですね! 良かったぁ~」
「公爵様がピリピリしているから、奥様に逃げられてしまったんじゃないかって、あたし達心配していて」
「ねー。あっ、奥様。夜会のドレスをご覧になりましたか? 装飾品も今届いたんですよ」
 口々に喋るネズミのメイド三姉妹は、お喋りだけれど働き者でわたしの心配までしてくれる優しい子達だ。
「心配をかけてごめんなさいね。少し庭園を散歩していたの」
 最近はわたしに腫れ物扱いで皆が接していたから、こんなに賑やかなのも久しぶりで嬉しい。
「あっ、それでドレスのスカートが汚れているんですね」
「夜会の準備もありますし、湯あみをして、準備をしましょう!」
「化粧の子と、軽食をコック長にお願いしてきますね!」
 キャッキャとはしゃいだ声をあげ、三人はくるくると動き言うや否や装飾品を床に積み重ねると走っていく。遠くで「屋敷の中を走るんじゃないよ!」と、バネッサの叱る声が響く。
 湯あみの準備をしている間に軽食を食べて、食べ終わると湯あみが始まり、爪の先まで綺麗に磨き上げが始まり、爪には爪紅も塗られ金色の小さな粒が飾られる。
 コルセットを「無理」という限界まで絞られてしまった。
 髪もハーフアップにしてもらい、金の薔薇飾りを着けてもらう。
 平凡な顔の作りのおかげか、化粧映えが良いのが何とも言えない。
 まさに化粧で化けたとしか言えないし、化粧係のメイドの腕も良いのだろう。 
「奥様、素敵ですね」
「うふふ。ありがとう。あなた達の腕が良いからね」
 あとは旦那様の支度が出来れば、いよいよ初めて二人で参加する夜会。
 わたしの支度に時間が掛かってしまったから、もう支度を終えているかもしれない。
 機嫌を直してくれていたら良いのだけど……そう思いながら、わたしは旦那様を待っていた。
「奥様! 旦那様が玄関ホールで待っています!」
「あっ、はい! 直ぐに」
 ドレスを摘まみ上げて廊下を早歩きして広い玄関ホールへ出ると、髪を上げた盛装の旦那様は見惚れるほど美しく雄々しかった。
 旦那様はわたしを見ると、表情が固まっていた。
「遅くなってしまって、申し訳ありません」
「……っ、レインか」
「? はい。あなたのアッシュレインです。似合って……いませんか?」
 姿見で見たわたしは別人のようで、とても綺麗だと思ったのだけれど、似合っていなかっただろうか?
「いや、に、に」
 うぐぐっと声を出しながら、険しい顔になっていく旦那様にわたしは俯いてしまう。
 褒める事が難しいのならば、無理をなさらなくても良いのに。
 周りの使用人達から、はぁっと小さく溜め息が聞こえ、ようやく旦那様はわたしに「似合っている」と、声を出した。
「ご無理をなさらなくても、大丈夫ですよ。分かっておりますから」
 わたしもつい溜め息が出そうになり、慌てて扇子で口元を覆う。
「その、だな……、悪いが、夜会には、俺一人で行く」
「え……?」
 スコンと足元の床を消し去られたような感覚がした。
 わたしと夜会に行くために迎えに来てくれた、そう思っていたのに……違うの?
「そう、ですか……分かりました」
 なんとか出した声と笑顔で、わたしは彼を見送った。
 泣いたりなんかしない。この喉の痛みも、胸の痛みも、傷ついてなどいない。
 初めから、夜会へ行く事を約束していた訳じゃ無いもの。
 勝手に舞い上がって、使わなくてもいいお金を散財してドレスを作って……。
 しかも、旦那様のお気に召さなかった物を。
「奥様……」
「酷いですよ。公爵様!」
「あんまりです!」
 わたしの気持ちを汲むように、三人のメイドは口々に不満を出す。
「あなた達が頑張ってくれたのに、ごめんなさいね。着替えを手伝ってくれるかしら?」
 お飾りの妻は、社交には出さないのね。
 それならドレスを作る前に言ってくれれば良いのに、こんな嫌な気分にさせるなんて、この間の浮気話の意趣返しなのかしら?
 今度こそ溜め息を吐き、わたしは着替えを済ませると布団へもぐりこんだ。
 次の日、化粧台の上に不器用な花が飾られていたけれど、わたしの心は晴れなかった。

(――つづきは本編で!)

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