「結婚をしま……あ、違う。お付き合いを前提に結婚しませんか」
あらすじ
「結婚をしま……あ、違う。お付き合いを前提に結婚しませんか」
スーパーとコンビニの掛け持ちバイトで貧しい家計を支える千明(ちあき)。彼女の前に現れたのは、一見しただけで住む世界が違うと感じる完璧な容姿の男性、一冴(かずさ)だった。
だが彼は買い物ひとつまともに出来ない世間知らずで、店に来るたび名言ならぬ迷言を残していく。超のつくセレブなはずの彼が、まさか自分目当てに店に来ているとは思わず、千明は……。
作品情報
作:桜旗とうか
絵:よしざわ未菜子
配信ストア様一覧
本文お試し読み
プロローグ
毎日が平穏に過ぎていく。
大きな山も深い谷もない、そんな日常を送っていた。
私の人生に特大イベントは存在せず、波瀾万丈もなく、あるとすればブラック企業に勤めたことくらいだったから、神様ありがとう――と思っていたのだけれど。
「あの……」
ある日、男性に声を掛けられた。
完全無欠ともいえる完璧な容姿をしたその人は、一見するだけでも品の良さそうな男性で、住む世界が違うなと感じる。
「いらっしゃいませ」
私はそう応じた。
彼は思案したのちに口を開く。
「結婚をしたいので、買い物を教えてください」
日本語がまるで理解できなかった。
一.
楠見千明《くすみちあき》と書かれた名札を、エプロンの定位置に噛ませる。バックヤードで鏡を見て身だしなみを整えた。
ポロシャツの襟は今回もきれいに洗濯ができた。ベージュのチノパンも汚れてない。白いスニーカーは最近買い換えたばかり。黒いエプロンはちょっとすり切れ気味だが仕方ない。
「よし」
私は、鷹倉《たかくら》ホールディングスのオフィスビル一階に入るコンビニでアルバイト生活をしていた。
きれいなオフィスビルは出勤するだけでワクワクしてしまう。上層階に上がったことなんてないが、鷹倉ホールディングスは国内大手の商社だ。働く人はみんな超のつくエリート。有名大学出身なんて人も珍しくはない。
私も、鷹倉ホールディングスは無理だとしても、オフィスで働く正社員をしたかった。スーツを着こなして、契約をバンバン取るやり手の女性営業なんて憧れる。
……いや、私も五年ほど正社員をしていたのだ。
経済的な理由で大学には行けず、高卒で社会に出た。それでも雇ってくれる会社があったので、私なりに一生懸命働いてきたつもりだったのだが、毎日上司に怒られる。残業はやって当たり前。手当が出るわけでもなく、休日出勤しないと上司の怒号が飛ぶ。それが怖くて二十連勤したときは死ぬかと思った。
朝は始発で出社。帰りは終電後。タクシー代がもったいなくて会社に泊まり込むことも珍しくなかった。
食事を摂る時間がなくて倒れ、病院に運ばれたときに気づいたのだ。
この会社、ブラックだ……と。
そこから一年がかりでどうにか退職したが、そのあとの仕事が見つからなかった。高卒で正社員になるには厳しい世の中なのかと肩を落としながら、再就職活動中に見かけた、このコンビニの求人情報。鷹倉ホールディングスのオフィスビルに入り込んでいて、時給も並のバイトより格段によかった。
すぐに連絡をして雇ってもらうことができ、いまに至っている。
とはいえ、生活が楽なわけではない。実家には来年大学受験を控えた双子の弟がいるが、母子家庭ということもあって経済状況はいつも逼迫している。父は行方知れず。
弟たちにはちゃんと働ける環境くらいは整えられるようになりたいから、私は掛け持ちでアルバイトをしていた。
仕送りくらいしかできないしね。
そうして、今日も穏やかな日常が過ぎていくはずだった。
「いらっしゃいませー!」
バックヤードから店内に出る。その際の第一声は必ずお声がけから始まるのだ。大きな声を出すと気持ちが上がる。最初は恥ずかしかったけれど、慣れとは怖い。いまではほかの従業員には負けない、くらいの意気込みで声を出しまくっていた。
腕時計を見る。九時十五分……少し過ぎ。朝のラッシュを終えて店内が落ち着いた時間。夜番の人たちが帰っていく。この時間は、品出し担当とレジ担当の二人いれば問題がない程度の客足になる。今日一緒に仕事をするのは母親くらいの年齢の女性。最近腰を痛めたばかりなので、品出しは私がやるのが必然だ。
飲料を出し、デザートを出し、お菓子を出す。陳列棚はパッケージが見えるようにきれいに並べながら、パンという大物が残っているなとげっそりした。
ほかの商品より軽いが、量がある。鷹倉ホールディングスの社員は、どういうわけかお弁当よりパンを買っていく人が多いのだ。手軽に食べられるからだろうが、毎日カレーパンという人もいるからちょっと心配になる。
パン売り場に行って、せっせと品出しを始めた。屈伸運動が多いので頭がふらふらしてしまうのは、たぶん私が下手だからだろう。
食パンを手に取った。『鷹倉』と渋いフォントでデザインされたブランドマークが入っている。興味をそそられて裏面を見た。プライベートブランドのようだ。
鷹倉ホールディングスの仕事は幅広いと聞くが、その中には食に関するものもあるようだ。食品商品の開発、飲食店やスーパーの運営などをしていると店長が言っていた。
この商品、ちょっと目立ってほしいな。
ポップをかっこよく作ってみようか。陳列棚を派手に飾ってみる? その前に一度買って試食したいな。
そんなことを考えてワクワクする。
「あの……」
「はい、いらっしゃいませ!」
でも、すぐに思考が中断された。お客様の声に笑顔を作って振り向く。
「結婚したいので、買い物を教えてください」
「ご結婚ですね、かしこまりま……」
空気が凍った。たぶん、時間も止まったし息も止まった。復唱して承るのは条件反射だが、こんな条件反射、いまはいらない。
結婚を承ってどうするというのか。
「……かしこまれませんでした。なにをお探しでしょうか」
恥ずかしくて顔がちゃんと上げられない。ちらりとお客様を見る。
男性だ。ベージュのスーツ。ネイビーのネクタイに淡いブルーのシャツを着ている。おシャレな鷹倉の社員でも、あまり見ないカラーだ。それを品良く着こなしている男性の顔が気になった。
視線を上げると、悲鳴が出そうになる。人の世に、こんな美形が存在しているって奇跡では? と思うほどのスーパーイケメン。優しげな目元に通った鼻筋。唇の形もいいとか、羨ましい。
自然にスタイリングされた髪も彼によく似合っている。
私の問いかけに、男性が首を傾けた。
「はじめて来たんです。なにを買えばいいんでしょうか?」
鷹倉と渋いパッケージの食パンを落としそうになる。
「さ、さあ……?」
このコンビニには毎日いろんなお客様が来店する。鷹倉の社員をはじめ、出入りしている業者、営業に来た他社の人。目の前の道を歩く人だってふらりと入ってこられるのだ。もちろん、問い合わせも多岐にわたる。
お手洗いを貸してほしいとか、新商品はどこか。道を尋ねられることも珍しくない。だけど、なにを買えばいいかなんて聞かれたのははじめてだ。
「……では、あなたが手にしている食パンをください」
「はい。こちらになります」
陳列棚を示すと、彼は首を横に振った。
「その手に持っているものを売ってください」
「は、はい……こちらで……」
陳列棚から取らなくていいの? 手から受け取って大丈夫? いや、問題はないけど、気分的に微妙じゃない?
そんなことを考えながら、手にしていた食パンを差し出す。男性はそっとそれを取り上げた。
「ありがとうございます」
ぱっと笑う笑顔が爽やかな人だ。人好きする笑顔というか、好感度が爆上がりする。
「いえ……」
「…………」
「…………?」
食パンを受け取った彼は、しばらくその場に固まった。どうしたのだろうかと首を傾げると、彼も首を傾げた。
「ほかにもお探しものがございますか?」
「これはどうすればいいのでしょうか?」
「……は、はい?」
仕立てのいいスーツに身を包んだ美青年が、食パンを手に困っている。
……いや、困るところあった?
「代金を支払いたいのですが」
「レジがあちらにございますが」
「……えぇっと……」
あれ。私なにか難しいこと言った?
ちょこちょこと右へ左へ、文字通り右往左往する男性はちょっと可愛い。いや、可愛いと思っている場合ではない。なぜレジへ行けないのか。
「その……トレーを持ってきていただくような方式ではないのでしょうか」
「……違います……ね」
デパート式ってこと?
このコンビニは鷹倉のビルに入ってはいるけれど、ごく普通のコンビニなのでそんなサービスはしていない。落ち着いているから対応してもいいけれど、それは過剰サービスとも言えないだろうか。どうしようかな……と思案しかけたとき。
「一冴《かずさ》さん!」
店内に男性がもう一人入ってきた。三十代くらいだろうか。こちらも爽やかな好青年だ。鷹倉の社員はみんなレベルが高いという話だが、なるほどイケメンの宝庫か。
「二条《にじょう》……、その、お会計はどうすれば……」
お会計はどうすれば? え?
明らかに困惑する、一冴さんというらしい男性に二条と呼ばれた男性が苦笑いする。そして、一冴さんの肩を叩いて食パンを取り上げた。
「申し訳ありません。お会計をお願いできますか。恐縮ですが、あなたにお願いをしたいのですが」
「は、はい。かしこまりました」
直感した。
この人たちはたぶん普通じゃない。買い物できない人なんて普通なわけがない。
食パンを受け取ってレジへ向かう。二台あるうちの、休止中の一台を使ってお会計をしていると、二条さんの少し後ろで一冴さんがしゅんとしている。
事情がまったくわからないのだが、彼はたぶんコンビニで買い物をしたかったのだろう。それがうまくできなかっ……コンビニで買い物できない人ってなに?
本当に、この人は何者なのだろうか。
「一冴さん。百十円です」
「二条、カードは持ってきてないの?」
「いや……あのね、一冴さん」
ごにょごにょと二条さんが一冴さんに耳打ちをする。すると、一冴さんがぱあっと明るい表情を見せた。
なにを言ったのだろう。
「……あ、でも財布持ってきてないよ」
「買い物をしに来るなら持ってきましょうよ」
「二条がいるからいいかなと思って」
「いますけど。いますけども」
そうじゃないだろ、と肩を落とす二条さんに笑ってしまった。
「じゃあ、一冴さんこれ」
二条さんが小銭を一冴さんに渡す。それを握り締めて、一冴さんがおずおずと私に代金を差し出してきた。なにこの構図。
トレーを差し出そうとしたが、一冴さんの後ろで二条さんが、両手を合わせて「ごめん、手で受け取って」と口パクする。
まったくよくわからないが、言われたとおりに手で受け取ると、一冴さんがさらにぱあっと表情を明るくした。
本当に可愛い人だな、なんてつい和んでしまう。
小銭を受け取ったあと、レシートを返す。すると一冴さんは驚いた様子で私の手を見つめ、ぎゅっと手ごとレシートを受け取った。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
定型文を口にすると、一冴さんがコクコクと頷いて言う。
「必ずまた来ます」
そうして二人が店を出ていく。
変わったお客様だったなと思っていると、パートのおばさんが近づいてきてにまっと笑った。
「副社長、美形だったわねぇ」
「え?」
「育ちが良すぎてコンビニで買い物なんてしなさそうよね。全然慣れてない感じ、可愛かったわぁ」
「ちょ、ちょっと待って……ください……副社長……?」
「あら、千明ちゃん知らない? ベージュのスーツ着てた人、鷹倉一冴さんよ。鷹倉ホールディングスの次期社長」
「おうふっ」
奇っ怪な反応をしても、今日ばかりは許されるだろう。
* * *
今日、僕は意気込んで会社に来た。
少し前になるが、好きな人ができたと二条に打ち明けたことが発端だ。二条は僕の恋愛には協力的で、自発的な恋愛なら応援しますよ、と常々言ってくれていたから打ち明けたのだ。が、一階のコンビニ店員だというと、「まずははじめてのお遣いをしましょう」と言われた。
コンビニ店員に恋をしたのなら、店に入って買い物をしたほうが声を掛けやすい。それは道理だ。けれど、僕はあいにくとコンビニで買い物をしたことがなかった。
鷹倉家は代々大企業を背負う古い家柄で、住み込みの使用人が何人もいるような家だ。家事はすべて使用人が担ってくれる。学生時代も今現在も送迎があるので、公共交通機関を使うのは新幹線か飛行機くらいだ。ローカルな電車やバスには乗ったことがなかった。
恵まれた暮らしをしているという自覚はある。しかし、それを疑問に思うことはなかった。僕はこういう人生を歩いて行くのだろう。政略結婚も当然のこととして受け止めていた。いつか、父の選んだ相手と見合いをして結婚をする。不本意でもそれを承服していたのだ。
恋なんてしない。する必要もない。そう思っていた。
だけど、あの人の笑顔を見たとき、心臓を打ち抜かれたかと思った。
ガラス張りの店舗の奥で、弾けるような笑顔を見せる彼女から目が離せなくなって、急速に恋をした。
近づきたいと思ってコンビニの前を何度も通りかかったが、行き交う人が皆僕を呼び止める。こそこそ入ることはできなかったし、なにより自動ドアが開かなかった。
立ち尽くす僕を不審に思う社員が、具合が悪いのだろうかと救急車を呼びかけたほどだ。
僕と彼女との間には、壁が一枚あった。それは、透けて見えるのに、とても分厚かったのだ。
そんな近況を知る二条が、なにかあったのかと僕に尋ねた。だから好きな人がいると答えたのだ。そして言われた。
「一冴さんって世間知らずですからね」と。
コンビニには入れない。一般的な買い物をしたことがない。電車の乗り方なんて知らない。料理もしないし流行も詳しくなかった。
僕が、世間を知っているとはとても言えない。
そんな状態だから、はじめてのお遣いから始めましょうなんて言われてしまうのだ。
二十八にもなって初めてのお遣い。
……正直、ちょっとワクワクしたが、結果は大爆笑で終わった。なにがいけなかったのか。
二条からは、社内にある自動販売機でコーヒーを買ってみろという指示が出た。僕は使う機会に恵まれなかったが、ちょっと舐めすぎだ。営業部に行けばずらりと自動販売機が並んでいるし、小銭を入れてボタンを押すだけだということは知っている。それくらいできると思って自動販売機前に立って、呆然としてしまった。紙カップに注がれるタイプのものしかコーヒーはなく、ボタンがびっくりするくらい付いているのだ。
氷だの、砂糖だのミルクだのとよくわからない。押せば量を増減させられるのだろうということはなんとなくわかったのだが、うまくできなかった。
さらには、小銭がなくて五百円玉を入れたら、全部十円玉で返却されて不具合なのではないかと訝しんだほど。
そんなこんなで、はじめてのお遣いは三十分かかった。二条は副社長室で大笑いだった。
だが、予習はしたのだ。コンビニでもうまくやれる気がしていたのだが、あの大失態。
「……はぁ」
「一冴さん、鬱陶しいです」
コンビニを出てオフィスのエレベーターに乗った。それから何度ため息をついただろう。二条の先ほどの言葉も三回目だ。
「いまのは落胆のため息だ」
「ひとつ前のため息は?」
「楠見さんからもらったレシートへの喜び」
「ちなみに聞きますけど、ふたつ前は?」
「彼女と話せて感無量だから」
「一冴さん、本当に鬱陶しいし気持ち悪いです」
エレベーターのかごの中で二条がそれとなく距離を取った。
「……二条。僕は盛大に失敗をしてしまったんだけど、どこだと思う?」
「失敗したことはわかってるんですね」
ならよかったと言う秘書をちらりと見遣る。
二条ならばコンビニで買い物など朝飯前だろう。なぜ僕は、皆が普通にやっていることができないのだろうか。
「財布を忘れたのはよくなかった」
「そうですね。でも自分がいたので結果オーライですよ。失敗というほどじゃありません。財布を忘れてくる客なんて割といますし」
「食パンひとつというのもよくなかった。店ごと買うつもりで……」
「そんな迷惑なことしないでください。出禁になりますよ」
「え……そうなのか?」
商品が売り切れれば店は儲かる。次の発注にも繋がるのだしいいことばかりだと思っていたが……たしかにいきなりすべて買い占めるのはよくないか。都合もあるだろう。事前に連絡をしてから買い占めよう。
「そうですよ。食パンひとつで迷惑に思う店員なんていませんよ。コンビニってそういう場所ですし」
「そうか。じゃあなにがいけなかったんだろうか。楠見さん、ちょっと引いてた気がするんだ」
「自分は外にいたので会話を聞いてなかったんですが、彼女に声を掛けたじゃないですか。あの瞬間から困惑してましたよ。なに言ったんですか?」
たしかに少し戸惑った様子だった。承れませんと言われてしまったし、振られてしまったのだろうか。
落胆しながらごにょごにょと呟く。
「結婚したいから買い物を教えてほしいと」
「コンビニですよ? ジュエリーショップと間違えてません?」
「さすがにそこまでばかじゃない」
「開口一番がそれだったら、俺でも引きますよ」
チン、とエレベーターが到着音を告げる。まるでこの恋は終了しましたと言わんばかりのタイミングで恨めしく思えた。
「好きな人とは結婚を考えてお付き合いをしたい。だったら、結婚前提のお付き合いをはじめから意識してもらうべきだ。そのために僕は彼女と話がしたかった。でも僕は買い物の仕方がわからなかったし、彼女が商品を出していたから声を掛けた。……これのどこがいけないんだ」
「言いたいことはわかるんですけど、言ってることがわかりません。おかしいでしょ、結婚したいから買い物を教えてくれなんて。中略しすぎて湧いてるのかと思いますよ」
エレベーターを降りて副社長室に向かったが、どんよりとした空気まで引き連れてしまいそうだ。
「じゃあ僕はなんて声を掛ければよかったんだ?」
「適当な商品を見繕って、売り場はどこですかとか聞けばよかったんですよ」
「そうしたじゃないか」
「変化球すぎて別の目的になってるんですよ」
二条の言うことは難しい。
「……とりあえず、今日は失敗したけど、もう一度挑戦してみる」
「一万円札とかはなるべく使わないでくださいね。コンビニって釣り銭が不足気味なので」
「そうなのか。じゃあ、十万円くらいあらかじめ両替をしていけばいいか」
「ゼロが多い。ふたつくらい多い。千円で充分です。両替もしなくていいですよ」
「いや、だめだ。小銭じゃないと。二条が言ったんだろ。小銭なら彼女に触れると」
二条が耳打ちをしてきたのは、僕が支払いをすれば楠見さんと図らずも触れる機会があるかもしれないということだった。実際、彼女の手に触れることができたし、握ることまでできてしまった。
柔らかかったなぁ……。
小さな手の感触を思い出す。
「……なんだろうな。一冴さんが言うと途端に気色悪いんですよね」
「失礼な。それより二条。額縁を買ってきてくれ」
「額縁?」
「楠見さんがくれたレシートを飾りたい」
「……気色悪っ」
二.
あの日以来、一冴さんは毎日コンビニへやってきた。
アヒルのポーチを握り締めて、そわそわしながら入ってきた日は申し訳ないが笑ったし、和んでしまった。
なぜアヒルのポーチなのか。
思わず外に目を向けると、二条さんが「可愛いでしょ」と言いたげな顔で腰に手を当ててふんぞり返っていた。おそらく二条さんが持たせたのだろう。
そんな一冴さんは、毎回名言ならぬ迷言を残していく。
「結婚をしま……あ、違う。お付き合いを前提に結婚しませんか」とか。
「プロポーズしたいので指輪を買いに行きま……、その前に家を買いましょう」とか。
訂正したあとのほうがいつもぶっ飛んでいる。昨日は「はじめていただいたレシートは額縁に入れました。記念写真も撮って……」と、金の額縁入りレシートとのツーショットという、斜め上のシチュエーション写真を見せられて困惑したほどだ。
あの人、大丈夫かな。
そこはかとない不安を覚えながら、今日は駅前にある総合スーパーに出勤した。そこで私は掛け持ちのアルバイトをしている。
メインはこちらのスーパーでのアルバイト。空いた時間にコンビニのバイトといった具合だ。どうしてもコンビニのシフトは短時間になりがちなので、こういう働き方が私にはしっくりくる。
本当は正社員で働くのがいいとわかっているのだが、ブラック企業勤めのトラウマがなかなか消えなくてまだ怖い。それに、弟たちの受験は待ってくれない。ここで体調を崩したら、元も子もないのだ。弟二人には、ちゃんと大学を出てほしい。学歴だけで仕事の選択肢を狭めてほしくない。
「おはよう。千明ちゃん、聞いた?」
「なにがですか?」
始業前の更衣室で、パートの房木《ふさき》さんが切り出した会話に応じる。
「今日、親会社の偉い人が視察に来るんだって」
「へぇー。たまにありますよね。私たちにはあんまり関係ない話ですけど、社員さんたちがピリピリしますもんね」
「まあね。でも売り場は見るみたいだから、いつも以上に笑顔でねってマネージャーが言ってたよ」
「まあ、そのへんは」
いつもどおりだ。
親会社の役員が現場視察に来ることは稀にある。いつも貫禄のある年配の男性たちがやってくるのだけれど。
「……あれ。このスーパーの親会社って……どこでしたっけ」
「鷹倉ホールディングスだけど」
「たか……くら……? え、いつから!?」
「千明ちゃんが入ったときにはすでに鷹倉傘下だったけど」
待って待って待って待って。
ということは、あの人が来る可能性がなきにしもあらず? いやでも副社長が来るはずなんて……。
「鷹倉ホールディングスが親会社だとまずいの?」
「そうじゃなくて……えっと、なんと言いますか」
ごにょごにょ口ごもりながら、先日コンビニで起きたことを房木さんに話した。すると、彼女は目を輝かせて「それでそれで?」と応じてくる。
「いや……変わった人もいるなぁと思って。いまどきコンビニで買い物しないとかあり得ませんよ。ライフラインと言って過言じゃないわけですし」
「そうだけど、鷹倉の御曹司なら超お金持ちのお坊ちゃんなわけじゃない? 庶民の使うコンビニと無縁でも納得……」
「スーパーの親会社を経営してる一族ですよ?」
普通買い物くらいできるでしょ、とぼやくと、房木さんがケラケラと笑った。
「じゃあ、その副社長が来て、千明ちゃんは嫌だったわけだ?」
「嫌というか……お客様ですし。でも、ジュエリーショップと勘違いしてるっぽくて」
「さすがにそれはないと思うけど」
「結婚したいから買い物を教えてくれって、びっくりしません?」
「まあねぇ……」
私は、房木さんにひとつ嘘をついた。
あの副社長が来店して嫌だったかと聞かれたが、全然そうは思わなかった。一生懸命買い物をしようとしている姿が可愛くて、新鮮に見えたのだ。
小さい子どもの、はじめてのお遣い的な。その親の心境的な。そんな気持ちだった。
「副社長の気まぐれだと思うので、そのうち飽きると思うんですけどね」
「わかんないわよ? 猛アプローチなわけでしょ。めくるめく恋の予感しかしないじゃない」
「いや……鷹倉の副社長が私と恋愛なんてしませんよ」
房木さんは大げさなくらいの身振り、手振りで「夢があるわぁ~」なんて言っていた。あるわけないと思うけど。
でも、そうなったら……ちょっと嬉しいかもしれない。
「あ、そうだ千明ちゃん。来たよ、ジャガイモ!」
「お、おぉぉー」
「明日やるけど来るでしょ、料理教室!」
「行きます!」
「決まりね。明日、楽しみにしてる!」
房木さんの実家は農家らしく、定期的に栽培している野菜が送られてくるのだそうだ。その中には大量のジャガイモが毎回含まれていて、一人では食べきれないからと調理場を借りて料理教室を開いている。
少しの参加費は支払うのだが、圧倒的破格で料理が楽しめるのは魅力的だ。
料理は嫌いじゃない。無心になれるし、美味しくできたら幸せだ。でも、自炊となると面倒な料理は作らない。一人で頑張る意味もない。だから、料理教室でちょっと凝った料理を、近所の人や子どもたちを招いてワイワイ作るのは楽しかった。
「よし、それじゃあ今日も頑張ろうね!」
「はい」
スマホに料理教室のスケジュールを入力したあと売り場へ向かい、朝礼を済ませて仕事に勤しむ。いつもと変わらない時間の連続だ。
お昼前の猛ラッシュをヘトヘトになりながらしのぎ、お昼休憩は早めに取るように言われてお弁当を買い、休憩から戻っていそいそと清掃に励んだ。今日は親会社の人が来るので念入りに清掃をしろとのお達しだった。
一冴さんが来たりするのかなぁ。
仕事中はどんな顔をしてるんだろう。ほんわかした印象だから、空気も和やかなのかもしれない。そんな会社なら私も働いてみたかった。
……あれだけの一流企業に、私が入社できるわけがないんだけど。
鷹倉のオフィスで働く自分を想像してみて、ないないと一人苦笑いする。
「楠見さん、お辞儀だけして」
マネージャーにこそっとそう言われ、雑巾と洗剤を片手に立ち上がり、お辞儀をした。
親会社の役員がやってきたのだ。
床をじっと見つめる。足音が複数近づいてくる。先頭は白衣の作業服。足下は動きやすさ重視のスニーカー。おそらく、食品部門統括だ。
次は、ベージュのスーツだった。きれいに磨かれた革靴。
……ベージュか。
鷹倉の社員でも珍しいなと思ったのを覚えている。一冴さん以外にも着る人がいたんだなと思って、ちらりと顔を上げた。
「……っ!」
男性と目が合う。この世に存在していることが奇跡ともいえる、超絶美形だ。
一冴さん! 一冴さんだ!
胸中で叫んだのは、嬉しいからではない。いや、嬉しいけれども、予想外のほうが大きくてびっくり――いや、嬉しくはないんだって。
手から雑巾も洗剤もするりと滑って落ちた。
来ないと思っていたのに、どうして来るの? 副社長暇なの? そんなわけないか。
少し後方に目を向けた。やっぱり二条さんもいる。
一冴さんが足を止めたので、一団が動きを止めた。これはなんだかまずい状況な気がする。
「二条」
「はい」
それだけのやり取り。でも、二条さんは進み出て私が落とした雑巾と洗剤を拾ってくれる。
「売り場をきれいに保ってくださってありがとうございます」
声を掛けてくれたのは、一冴さんだった。
「は……はい……」
「今日も頑張ってください」
穏やかな笑みを浮かべ、柔らかな口調でそんなことを言われた。
もともと物腰は柔らかな人だったけれど、私の知っている一冴さんはちょっと困っていて、アヒルのポーチを持たされてしまう、ものすごく和んでしまう可愛らしい人。
艶やかな笑顔で視線を奪ってしまうような人ではなかった。
ゆったりと彼が歩き出すと、一団が再び歩を進める。一冴さんを中心に人が動いていく。彼の言葉で、時間さえ止まってしまうのだろう。
鷹倉一冴は、間違いなく人を率いる立場の人。私ではとても手の届かない、ずっとずっと高い場所にいる人なのだ。
遠すぎる……。
胸がきゅうっと切なく疼いた。いつもとは違う、副社長としての顔をほんの少しだけ覗けた気がする。
でも。……でも。
そのあとに一冴さんがこっそりガッツポーズをしていたのを、私は見逃さなかった。
「お疲れ様でしたー!」
私の今日の勤務は十六時まで。本当はもう少し働きたいのだけれど、シフト制だとこういうこともある。
「今日の夕飯はなににしようかなぁ」
献立を考えながら、裏口から出て正面入り口へと回る。従業員がバックヤードから売り場へ私服で出ることは禁止だ。
「まったく思いつかない……お惣菜にしちゃおうかな……」
たまには手抜きもいいかな、なんて考えながら正面入り口まで来ると、スーツ姿の男性がちょこちょこと近づいてきた。
「楠見さん。いま帰りですか?」
「……か、ずささん……」
とっくに帰ったと思っていたのに、こんなところにいるから後ずさってしまう。
「もう戻られたものとばかり……」
「僕もいま終わったんです。帰社する予定だったんですけど、楠見さんの姿が見えたので来ちゃいました」
無邪気に言われて「あ、はい」と答える私はとても間抜けだろう。
「今日は楠見さんとお会いできて幸せでした。ここでも働いていらっしゃるんですね」
「はい。コンビニもスーパーもシフト制なので、空き時間がもったいなくて」
死に物狂いでお金を稼がなければならないなんて、彼に向かってはちょっと言いたくない。
「あまり無理はなさらないでくださいね。僕は毎日あなたに会えると嬉しいですが、体調を崩されたら、是が非でも家を探し出して看病に行くでしょうから」
やりそうだ。本当にこの人ならやりかねない。しかもスーパーは鷹倉の系列だから、副社長権限でデータベースの閲覧ができるだろう。
……うちに来るのだけは絶対だめ……!
とにかくぼろなのだ。アパートそのものの作りが古いし、室内も壁紙があちこち剥がれている。家具を入れたらぎゅうぎゅうになるのでテーブルくらいしか置いていない。それも、実家で使っていた折りたたみ式の古いものだ。
壁は薄いし隙間風もすごい。冬は凍えそうだし夏は虫と戦う日々。
絶対寝込めない……!
「大丈夫です。身体、丈夫ですから」
嘘はない。風邪は年に一回も引かないくらい丈夫にできている。
「それなら安心ですね。無理はだめですよ」
単に興味がないだけかもしれないが、一冴さんは私の働き方についてなにか言うことがない。友達と会う機会があって、掛け持ちでアルバイトをしていると言うと、たいていの場合「正社員になればいいのに」と返ってくる。
もちろん正社員は保障が充実しているからいいとは思うのだけれど、やっぱり昔の記憶が蘇ってきてしまう。それはまだ怖かった。
一冴さんが私の顔を覗き込んでくる。首を傾げると、嬉しそうな顔で笑ってくれた。
「楠見さんはこれからご予定は?」
「お買い物をして帰ろうかと思って……」
「お買い物! 僕も少しは買い物ができるようになりました。ご一緒していいですか?」
“買い物ができるようになりました”という言葉の破壊力がすさまじい。普通はできるものなのだが、鷹倉一冴に関していえばもう、できないのが普通と思うほうが驚かなくてい……いや、だから驚くってば。
「どうぞ」
そう言って、カゴを手に店内へ入る。
昼間見た彼は静かな雰囲気で大勢の人を引き連れてきていたが、いまは右へ左へ顔を向け、「わぁ!」「わぁぁ!」の連続だ。
「一冴さん……楽しいですか?」
「楽しいです。スーパーを見に来ることは何度かありましたけど、買い物ははじめてですから」
コンビニで買い物できるようになったのが最近なのだから、不思議ではない。
「そういえば二条さんは?」
「…………、あ」
これは絶対だめな『あ』だ。
二条さんは基本的に、一冴さんの影同然に付き添っている。秘書兼世話係といったところだ。その二条さんの姿がなかったから、なにか理由があって外していたのだろう。そこに私がやってきて、一冴さんが一緒に来てしまった、といったところか。
「二条さんに連絡しましょう。僕は無事ですって伝えてください!」
「大丈夫ですよ。たぶん」
「だめです」
強めに迫ると、渋々の様子で一冴さんがスマホを取り出して電話を掛け始める。すぐに応答があり、電話の向こうで二条さんが怒鳴っている声が漏れてきた。ご立腹だ。
「二条、大丈夫だ。今日は戻っていい。僕は楠見さんとデートをして帰るから」
それだけを言って電話を切る一冴さんを、じとっと見上げる。
「デート……?」
「はい。カップルが買い物をしたあとは、どちらかの部屋に行ってお鍋が定番だと聞きました」
「どこ情報ですか、それ」
「二条です」
二条さん!
いや、ちょっと待って。お鍋……か。
「お鍋、いいですね」
「本当ですか?」
「あ、でもうちに来るのはだめです。一冴さんの家にも行きませんよ」
先回りして言うと、一冴さんが見る間にしゅんとしてしまう。
絶対無理でしょ。私の家はボロアパートだからだめ。だったら一冴さんの家に、とはならない。この人の家を見ることそのものがまず怖い。とんでもない豪邸に住んでいたらどうしよう。
それに、やっぱり緊張をしてしまう。
「……お店に行きましょう。お鍋の専門店があるんです」
「楠見さんとお食事……! 嬉しいです」
ぎゅうっと手を握られる。カゴの取っ手ごと握られたので痛い。
「じゃあ、お買い物はやめて……」
「え。続けないんですか? 僕、ここでもお買い物を経験してみたいのですが」
相変わらずパワーワードが連発されている気がする。
お買い物経験……。
ちょっと遠い目をして店内で呆けていると、腕をくいと引っ張られた。
「楠見さん。どうしてあの野菜は値段が違うんでしょうか?」
野菜売り場に出された大きなポップを見て一冴さんが首を捻る。
ああ、そっか。
一冴さんは野菜や果物の売られている姿を知らないのかもしれない。
スーパーに視察へ来るといっても、そんなときは店の雰囲気や従業員、お客様の様子などを見に来ているのであって、売り物を見るのは二の次なのだろう。だったら物珍しいのも理解できる。
「小松菜とほうれん草の違いですよ。今日はほうれん草が特売なので安いんです」
「でも……同じですよ? 見分けなんて付かないんじゃ……」
「私たちは、慣れないうちはお尻で見分けてますよ。赤いのがほうれん草。そうでないのが小松菜」
すると今度は果物に興味を持ち、彼がオレンジとグレープフルーツを手にする。だいたいはぱっと見でわかるが、ものすごく似た種類もある。そんなときは手触りで見分けていると言うと、彼は目を輝かせた。
魚や肉は見分けがつくようだが、魚肉ソーセージを片手に好奇心を爆発させる姿は大企業の副社長の姿ではなかった。
結局店内をぐるりと回ったのだが、従業員が一冴さんを見るたびに頭を下げている。さすがにここでは目立ってしまうかと彼の腕を引っ張った。
「あんまりたくさん買うとお店に行くとき邪魔になりますから、これくらいで」
「あの……楠見さん。僕、レジ打ちというものをしてみたいです」
この好奇心旺盛な副社長を相手に振り回されないのなんて、たぶん二条さんくらいだ。だけど、今日は私がちゃんと対応できそうだ。
「セルフレジがあるのでやってみます?」
「できるんですか?」
「はじめてだと楽しいかもしれません。操作方法はお教えできますし」
そうして彼をセルフレジへと案内する。商品のバーコードを読み取らせるだけだから簡単だ。
買い物袋をセットして、カゴを置く。一度彼の前でやって見せたあと「どうぞ」と彼に場所を譲った。が。
「……楠見さん……ピって鳴りません」
わかりやすくしょげる一冴さんを見て笑ってしまう。バーコードを読み取るにも方向があるし、角度も重要だと伝えると、彼は目を見開いて驚いていた。
「僕、本当にこういうことには疎くて……」
「ときどきびっくりしちゃいますけど、一生懸命勉強されているのは伝わりますよ」
「楠見さんと話したい一心なんです」
セルフレジで四苦八苦する一冴さんを見ながら、彼の手にちょっとだけ触れる。
「こうするとスムーズですよ」
コツを伝えると彼は喜んでくれ、すぐに覚えてくれる。でも、なぜか手はぎゅうっと握ったままだ。
「一冴さん……手を離していただかないと」
「あの、楠見さん」
じいっと見つめられ、だんだん居心地が悪くなってくる。周囲の視線が痛いくらい突き刺さってきているのだが、一冴さんは気にした様子がないどころか、肩を掴んで真剣な顔をし始めた。
一冴さん……いつも告白しようとはしてくれるんだけど失敗してるのよね……。
いつも結婚にいきなり飛んでしまうので、返事をしかねてしまうのだけれど。
「僕と結婚……いや、まずはお付き合いからはじめ……たいので、結婚しませんか」
一周回った!
今度こそちゃんとした言葉が聞けそうだと思ったのに。というか人目を気にしない彼は本当に一生懸命なのだが、グサグサと視線が突き刺さるのはやっぱり恥ずかしい。
「……と、とりあえずお会計をしましょう。次の人が待っていますから」
一冴さんの背中を押して、お会計をする。
彼が、アヒルのポーチを取り出そうとしたのは全力で止めた。
鍋料理の専門店へ向かった。
いろいろなお鍋を楽しめるのが売りだが、今日は寄せ鍋を頼んだ。私が好きなのはもちろん、変わり種は一冴さんも食べたことがあるようだったからだ。
「……ビールのおかわりを……」
でも、心臓が破裂しそうだ。個室で向かい合って座ったのはいいが、一冴さんがずっとこちらを見ている。その視線から逃げたくてもじもじしていると、彼はさらに機嫌よさげにするのでどうしていいかわからない。だから、ビールを飲むしかなかった。
「楠見さん、お酒強いんですね」
「い、いえっ、全然ちっとも……」
ぶんぶんと首を左右に振る。
追加で出てきたビールジョッキを手に取り、再びグビグビと飲み干した。
「一冴さんも飲みませんか」
「僕、下戸なんです」
おうふっ。
「の、飲めないんですか?」
「はい。代わりに二条が飲みます。付き合いの席などでは僕が二条を送って帰ることになるので、無理に勧められることもありません」
ぐつぐつと煮える白菜を凝視した。このままでは、私はだいぶ酔っ払ってしまう。いい加減にやめないと絶対にまずい。
「楠見さん。白菜食べますか?」
「えっ、はいっ、いただきます」
すると彼は自分の器に白菜を取り分け始めた。首を傾げると、一冴さんが隣をポンポンと叩く。
「こっち、来てください」
「ど、どどうしてですか?」
動揺しすぎた。そんな自分にさらにうろたえて右へ左へと視線をさまよわせる。
「僕、恋人に食べさせてあげるのが夢だったんです。よくあるじゃないですか。『あーん』というやつが」
飲んでいたビールをぶほっと吹き出した。
どこから突っ込めばいい? いまだに告白成功してないですけど? お鍋の白菜で「あーん」をすると熱いですよ?
突っ込むところしか見つからなくて困惑する。
「お鍋で……やるんですか?」
「鍋ではやらないものですか?」
そういうわけではないだろうが、ではやりましょうというのもおかしな話だし、隣に座ったらされたいみたいだ。彼の隣に座るには勇気がいる。でも私はまだ正常な意識を保っていられるので、悶え転がりそうなくらい恥ずかしい。しかしこれ以上お酒を飲むと絶対だめになる。
「……あ。違いますね。僕があなたの隣に行かないと」
違う違う違う。違う場所が違う。
口をパクパクさせたが、うまく言葉にならず一冴さんが席を移動した。
「楠見さん、白菜でいいですか? お豆腐もありますけど」
「それはだいぶ熱いので」
「あ、そっか」
私まで論点がずれてしまっている。冷静を保たなければ、と必死にビールを飲んでしまうあたりがもう冷静じゃない。
「楠見さん。あーん、してください」
「ほほほ、んとうに、やるんですか!?」
器を手に、白菜をお箸で持ち上げる一冴さんが不思議そうな顔をした。
「恋人って、食べさせ合うものでは?」
「永久に食事が進みませんし、普通はしませんよ」
「……そう……なんですね」
しゅんとしてしまった一冴さんに良心が痛む。
「で、でもっ、こういう場所は特別です。ちょっとくらいなら……」
ぱっと表情を明るくする彼は見ていて本当に飽きない。会社でもこんな感じなのだろうか。ふんわり系の上司って、空気がギスギスしなくていい。
羨ましいな。
ビールを飲み干して追加を頼む。運ばれてくるとそれをまたグビグビと飲んだ。もう、なるようになれ。
「一冴さん。食べさせてください」
「は、はい……、どうぞ」
差し出された白菜にパクリと食いつく。
「んー! 美味しいです!」
正直、味が変わっているわけではない。でも、こういうシチュエーションが楽しくて、より美味しく感じているのだろう。
「それはよかったです……」
「一冴さんも食べませんか。私のですけど……」
自分の器を持って一冴さんに勧めてみると、彼がふいと顔を背けた。
嫌だったかな……?
「一冴さん?」
「あの、ちょっとだけ待ってください」
そう言って顔を覆い隠してしまったが、首筋や耳がやけに赤い。
あれ、これってもしかして照れてる……?
ちょっとにんまりしてしまった。お酒も手伝って、頭がふわふわしている。彼に悪戯したい。
「一冴さぁーん。照れなくて大丈夫ですよー?」
「……楠見さん、酔ってませんか?」
「ちょっと酔っちゃってますけど、平気です。ほらぁ、あーん」
完全にお酒が回っているし、絡みに行ってしまっているが、かまわず「ほらぁ」と白菜を彼の口元に押しつけた。
一冴さんが遠慮がちにぱくりと食べてくれる。
「……味がほとんどわからないんですけど」
「じゃあもう一口?」
「そういうことではなくて……楠見さん、近いです」
照れる一冴さん、可愛い。
ビールをグビグビ飲んだ。
「近いとだめですか?」
「だめじゃないですけど、いまはだめです。ドキドキしてしまうので……」
「そんなの、私も一緒れすよー?」
あ、だめだ。呂律が回らなくなってきた。このあとは意識を失うようにして寝て終わる。まずいなぁ、と意識の片隅ではわかっているのに、飲んだお酒がすぐにどこかへ消えてくれるはずもない。
「楠見さんも、僕にドキドキしてくれますか?」
「はい、もちろん。鷹倉の副社長なんて雲の上の人かなーって思ってましたけど、可愛いし」
「可愛いって、男に使う言葉じゃないと思うんですよね」
「嫌ぁ?」
眠い。寝落ちそう。
「……楠見さん、酔ってますよね。帰りましょうか」
「まだビール二杯しか飲んでない……」
テーブルの上にあるジョッキを数えて不満を言う自分を、冷静に痛々しいなと見つめる私がいた。
「店員さんにさっき空になったジョッキを渡してたじゃないですか」
「一冴さんは、どうしていつも結婚しようって言っちゃうんですかー? 順番を守ってくれたら、私も……」
「え?」
一冴さんの肩にすり寄る。温かいし、いい匂いがする。
「……そうですよね。何事もまずはシンプルに伝えないと。楠見さん。僕と付き合っ――、寝ちゃってる……」
一冴さんの声を遠くに聞きながら、心地よいまどろみに沈んでしまった。
「楠見さん。起きませんか」
よしよしと頭を撫でられる。大きな手が頬を撫で、唇にそっと触れた。
「んー……」
まだ寝ていたい。ごろんと寝返りを打つと、程良いスプリングに身体を受け止められる。
「楠見さん。起きて」
ちゅっと音を立てて、柔らかい感触が瞼に落ちた。
「んー、まだ寝るぅー」
「寝かせてあげたいのはやまやまなんですが……襲ってしまいそうなんですけど」
瞼を半分ほど持ち上げる。
あたりは暗いけれど、光が差し込んできて真っ暗ではなかった。手触りのいいシーツと、ふかふかの毛布が身体を包んでいる。
「……楠見さん」
前髪がふわりと揺れた。目を向けると一冴さんの顔が目の前にあって、さすがに目が覚めてしまう。
「一冴さ、……ん……っ!」
唇が重ねられ、言葉も呼吸も奪われた。
すぐに離れていったけれど、確実にキスをされた。
「一冴さん……、あの……」
いま、どういう状況?
困惑しながら彼の服を引っ張った。
「千明さん、もう一回……」
そう言われて再び唇が重なる。優しく啄まれ、唇を擦り合わせるように少しずつ角度を変えられる。
キスってこんなにふわふわして気持ちいいんだ……。
ぎゅっと目を瞑って、やっぱりこういう行為は恥ずかしいなと思いながらも一冴さんにされるままになっていた。
「千明さん、口、少しだけ開けて」
顎を親指で軽く下げられると、自然と口が開く。そうして彼が再び口づけた。
「っ……!」
薄く開いた唇の隙間から、ねっとりとしたものが差し込まれる。唇を舐め、歯列をなぞり、少しずつ侵入してくるそれが、彼の舌だと気づくまで時間がかかった。
「んっ……んっ」
口蓋を舐められ、私の舌先に彼の舌が触れる。
「ふ……っん……」
やがて、彼の舌が私の舌を絡め取った。裏側を丁寧に舐め上げられ、だんだん奥へと入ってくる。
「んっ、んっぅ……!」
うそ……キスってこんなに深くするものなの……?
軽いキスも、深いキスもあることくらい知っているけれど、こんなに奥深くにまで入り込まれるとは思ってもみなかった。
唾液が流し込まれて、くちゅくちゅと粘った水音が立つ。
「ふ……ぅ、んっ……」
両手を取られ、彼の指が絡められる。そのままベッドへ押しつけられると、一冴さんの体重が身体の上に乗せられた。
脚の間に、彼の膝が押し込まれる。少しずつ私の脚を左右に開かせながら、キスがどんどん深くなっていく。
「んっ……ふ、んんっ……ん、ぁっ……」
唇が一瞬離れたタイミングで荒く呼吸を繰り返す。
頭がぼうっとするのはお酒のせいだろうか。それとも、キスをされて酸欠状態だから……?
「千明さん……」
上擦って掠れた声が零れた。
「もっと触っていいですか?」
ぼんやりとした頭でも、それの意味するところはわかる。
一冴さんとなら……大丈夫。
経験がないのでやっぱり怖いけれど、彼なら優しくしてくれるだろう。会うたびに、失敗をしているけれど気持ちを伝えてくれる。その気持ちが嬉しくて、ちゃんと応えたいとも思っている。
「はい……」
頷くと、一冴さんが首筋に顔を埋めた。ねっとりと舐め上げられ、身体が震える。
「っ……」
「大丈夫ですか? 舐められるのは嫌い?」
「そ、そうじゃなくて……はじめての感触で……」
なにもかもがはじめてなのだ。舐められればびっくりする。触られたらドキドキする。当たり前のことだけれど、困惑してしまった。
「だったら、ひとつずつ覚えてください」
耳にキスをされ、舌が這わされる。ぞくぞくと背筋に言葉では表現しきれない感覚が走った。
「っ……ふ……っ」
「耳は好きそうですね」
服越しに身体を撫でられる。肩から鎖骨を通り、胸の膨らみに沿って脇腹へ。腰、臍を辿って下腹部を彼の指先がなぞった。
そうして、服の下へ手が滑り込まされてたくし上げられる。促されるように腕を上げさせられて、頭から服を抜かれた。下着姿を晒すのが恥ずかしくて手で胸元を隠したけれど、その手は彼にやんわりと解かれてしまった。
「下着も外してしまいますね」
「えっ……で、でも……見えちゃう……」
「見せてください」
顔から火を噴くかと思った。
見たいものなの? すごく恥ずかしいよ?
あわあわとしているうちにブラのホックが外され、身体から引き剥がされてしまう。
「一冴さん……これ、恥ずかしすぎて死んじゃいそうです……」
「そうやって恥じらってくれると、僕は嬉しいです」
そういうものなのか。でも、じたばたと暴れ出したくなる。
彼が顔を寄せて、鎖骨に吸い付いた。キスをして、舐めて、少しだけ吸い上げられる。顔を上げた一冴さんが嬉しそうに目を細めて笑った。
「僕の、印」
指先で一点を示されて目をしばたたかせる。
「印……?」
「キスマーク。服を着れば見えないから大丈夫ですよ」
もう、恥ずかしさで絶対に気絶してしまう。
顔を覆い隠して、どうにかこの羞恥心から逃げたかった。
「千明さん、可愛い」
甘く囁かれ、彼の手が胸の膨らみにあてがわれる。
「か……、一冴、さん……待っ……」
手を押さえて必死に制止したが、彼の指先はすでに胸の飾りを捕らえられていた。指の腹で擦られたあと、立ち上がった肉粒をきゅっと摘ままれる。
「っ……」
「本当に……可愛すぎてどうにかなりそうです」
両腕を掴まれ、ベッドに押しつけられた。隠す術のなくなった開かれた胸元に彼が吸い付く。
「っ……、んっ……」
口に含まれた粒が舌先でさらに硬く尖らされていく。疼くような感覚が身体に走っているが、それがどこからもたらされているのかわからない。
「やっ……一冴さん……っ、変……」
「これ、嫌ですか?」
首を横に振った。
嫌かと聞かれたら嫌じゃない。だけど、なにが起こっているのかわからなくて怖いのだ。
「変な感覚がして……どこかもわからないし……」
「……それはひょっとしたら、このあたりじゃないですか?」
下腹部にそろりと手を当てられる。
「あっ……」
ビクンと身体が跳ねた。一冴さんの言うとおり、下腹部になにかを感じる。
「千明さん。こっちも脱ぎましょう」
「えっ!?」
色気ゼロのデニムパンツに彼が手を掛けた。待ってと声を掛けるよりも早くするりと脱がされてしまう。
「やっ、だめっ、一冴さん見ちゃだめです……!」
彼の顔をぐいと押しのける。こんなことになるなんて思っていなかった。お付き合いできたらいいな、なんて夢みたいなことを思っていたけれど、ちゃんと気持ちを伝えてもらって、交際を申し込まれてお返事をして……そのあとの話だと思っていたから今日、こんなことにまで進むなんて露ほども考えていなかったのだ。
「どうして? きれいですよ?」
「ち、違うの……、あの、だって……色気ゼロ……」
下着は上下バラバラなうえに、ショーツは履き心地を重視したコットン。なんだったらイチゴ柄で、可愛くてお気に入りだけどちょっと幼い印象は拭えない。
「も、もうちょっとセクシーな下着も……持ってるし……」
だからどうしたと、言いながら自分でも思ってしまった。セクシーな下着だったらよかったのか。
「千明さん。なにも気にしなくて大丈夫です」
ちゅっとキスをされたけれど、一冴さんならもっと色気のある女性の相手だってしてきたはず。絶対にがっかりされちゃう。
「僕が見ているのは千明さんです。セクシーな下着を身につけた千明さんも素敵だと思うし、見てみたいと思いますけど、あなたはいまのままで充分魅力的ですよ」
「ほ、本当に……? がっかりしないですか?」
「しませんよ。下着、全部取ってしまっていいですか?」
恥ずかしかったし、自信もないけれど、思い切って頷いた。
彼の手がショーツに掛けられ、滑るような手つきで剥ぎ取っていく。
「は、恥ずかし……」
隠すものがなにもない。一冴さんはじっと見ているし、手は押さえられたままで逃げることもできない。
「僕、千明さんとこうして過ごせる日を夢見ていました」
胸に吸い付かれて舐められる。下腹部がやはりジンジンとしてきて、膝を擦り合わせた。
「少し脚を開いてください」
戸惑う私にかまわず、彼の手が脚の間に滑らされ、やんわりと左右に割る。
「やっ、こんなの……み、見えちゃ……」
「全部見せてください。千明さんのすべてを知りたいです」
一冴さんの手が内腿をなぞった。
「やっ……、んっ……」
くすぐったい。触れ方が優しすぎて、想像もしていない反応を身体が勝手にしてしまう。
少しずつ指先が内側へと迫った。ドキドキと、期待なのか恐怖なのかわからない感情が渦巻いてくる。彼の顔をじっと見上げた。助けてほしい。心臓が破裂しそうだ。だけど。
「千明さん……、そんなに見つめられたら……」
唇を塞がれる。舌を入れられ、呼吸が奪われた。
「んっ、ふ……」
先ほどまで優しく触れていた手が、秘部へと急速に進んで秘裂を割る。
「っ! ん、んっぅ!」
ぬるりと指先が滑らされて目を見開いた。
この感触はなに……?
水音がするのはキスのせいなのか、それとも彼に触られているからなのかわからない。
ぬるぬると秘裂をなぞる指が花芯を捕らえた。
「……っふ……、んっ、ん、ぁっ、んっ」
強い刺激に腰が引ける。でも、痛いわけではない。
膝を合わせて彼の手を止めようとしたけれど、蜜口に指が押し込まれてしまった。
「っ……あっ、やっ……く、っあ、は……っ」
苦しい。苦しい。痛いし、変な感じがする。
「かず……さ、さん……んっ、あ……っ」
「早く千明さんの中に入りたいです……」
恍惚とした表情を浮かべ、彼がそう呟いた。でも、指を入れられただけでこんなにも痛くて苦しいのに、その先へ進むなんて経験がなくたって無理だとわかる。
「い、痛い……です……」
中で指が蠢くたびに擦れて痛い。
一冴さんは私の頭を撫でたあと、身体をずらして脚の間へ身体を滑り込ませ秘所へと顔を寄せた。
「……え、か、一冴さん待って!」
ぐいと彼の頭を押さえて制止する。だめだめだめ、なにする気なの……!
「千明さん……手を離してほしいです」
「だ、だめです! 一冴さんもご存じですよね。私、今日めちゃくちゃ掃除しました」
「それがなにか?」
「埃被っただろうし、汗もかいたし……絶対汚れてますから!」
「シャワーを浴びてもあなたはきっと同じことを言う。それなら僕が全身を舐めてきれいにしますよ」
目を見開いた。
一冴さんなら本当にやりかねない。
「僕、そのままの千明さんを味わいたいです」
手を取られ、そのまま指を絡めて繋がれた。
「だめ……絶対、だめです……」
「どうしても?」
「だめ……!」
「……だけど、美味しそう……」
ぱくりと花芯に吸い付かれた。
「あぁっ……、あっ、や……だめって……言ったのに……」
舌を這わされ、ぬちぬちと音を立てながら蜜を吸われる。恥ずかしさとはじめての感覚に頭がくらくらしそうだ。
「でも、どんどん溢れてきてますよ。可愛いですよね、そういうところ」
上機嫌に一冴さんが私の秘所を舐め回す。ズッと蜜を啜り、舌で肉芽を捏ねてじっくりと愛撫された。
「んっ……ぁ……あっ……」
敏感に膨らむ芯が舌で擦られるたび、唇で食まれるたびに腰が揺れる。
「一冴……さん……っ」
「上手ですよ。もっといっぱい感じてください」
蜜口に指を入れられても、先ほどのような痛みはない。苦しいけれど、中を弄られると仰け反ってしまうくらいには違う感覚を捕まえられている。
「あっ……ん、ふ……あぁっ……!」
びくびくと身体が震えはじめて、怖くなった。このまま続けられたら絶対にどうにかなってしまう。
「一冴さん……、怖い……」
「僕の手をしっかり握って。傍にいますから」
彼にやめてくれるつもりはないようだ。それどころか、ますます執拗な愛撫が施されていく。
「あっ……あ、あ……っや、だめ……あ、あぁぁっ!」
がくがくと身体が痙攣する。自分のものではないように震えて、力が入らない。
「は……っあ……」
「千明さん……可愛いです、すごく」
一冴さんが覆い被さってきて、労るようなキスを何度もくれる。怖かったけれど、感覚を超えたその先はあまりにも心地いい。
こんな感覚があるなんて知らなかった。
「は、恥ずかしい……です……」
「このまま僕のことも受け入れてください」
ああ……やっぱりこのまま一冴さんと……。
胸がきゅうっと締めつけられた。ドキドキする。緊張もする。でも、やっぱりワクワクもしてしまう。
一冴さんが服を脱いだあと、ベッドサイドから避妊具のパッケージを取り出す。
目を向けると、視界の端で見て背景のものを捉えてしまって顔を覆い隠した。やっぱりこういうものは見ないほうがいい。恥ずかしいし、しっかり見てしまうと怖いとも聞く。
「千明さん?」
「あ、あの……一冴さん。私……どなたともお付き合いをしたことがなくて……だ、大丈夫でしょうか……」
一応確認をしておかなければと思った。うまくできないことも、なにをやっても恥ずかしいことも。
一冴さんはにこりと笑って頷く。
「はい、大丈……、…………」
「? 一冴さん……?」
「…………」
硬直した彼が、見る間にへなへなと脱力していく。彼自身はもちろんだが、視界に映っていた何某かまでもが明らかに勢いを失っていてぎょっとした。
やっぱり経験がないのは嫌なのだろうか。面倒くさいという話も聞くし、慣れている女性のほうがいいという噂も耳にしたことがある。
一冴さんなら経験も豊富だろうから、やっぱりはじめては面倒でしかないのかもしれない。
「あ、あの……一冴さん……ごめんなさい……」
「いえ、そうではなくて……」
ではどうしたのだろうか。私に明らかな落ち度があると思うのだけれど。
目をしばたたかせて首を傾げると、一冴さんが私を抱き起こした。
「あの、千明さん。僕、すごくあなたを抱きたいです」
「は、はい……」
「だけど、一度も告白に成功していなくて、まだお付き合いも正式にしていない状態だったことをすっかり忘れていました」
「……え?」
そういう理由?
「僕、千明さんのことはすごく大事にしたくて、結婚もしたいと思えるくらい大好きなんです。それなのに、あなたがお酒に酔っていつもより色っぽくて、我慢しきれなくなってしまいました」
「あ、あの一冴さん……」
「すみません。お酒に酔ったあなたを襲おうと……いや、これは完全に襲っていますが、勢いで既成事実を作ろうとしてしまいました」
「だ、大丈夫です……、私も嫌だったらもっと抵抗しますし……」
二人でおろおろする姿は滑稽でしかない。しかも、揃いも揃って全裸で正座という、とても笑い話にはできない姿だ。
「でも、千明さんがだめだということをしてしまいました……」
完全に落ち込んでいる彼をどうすれば慰められるだろう。
お酒を飲み過ぎた私がいけないのだし、彼にさほどの非はないように思うのだけれど。
「あの……一応確認をしたいのですが、一冴さんは私がだれともお付き合いをしたことがないと知ったから嫌になったということでは……」
「全然違います。というか、それは薄々気づいていました」
そ、そっか。知ってたんだ……、そっか。
今度は私が泣きたくなって肩を落とす。
「千明さん」
手をぎゅっと握られた。
「僕と、お付き合いをしてください。ちゃんと、結婚も考えていただけるようなお付き合いをしたいです」
「…………」
「……あの、千明さん」
「! 普通に告白されました!」
「……え、はい。千明さんにもっとシンプルにと言われたので。告白なんてはじめてだから、どうすればあなたに結婚してもらえるだろうかということばかり考えてしまって」
この人はちょっと先走りすぎなのだ。
「……はじめてなんですか? 告白するの」
「はい。いつもなんとなく付き合い始めていたので……」
なるほど……。流れで恋人になる人もいるようだし、彼の場合はそういう恋愛が多かったのだろう。
「それで千明さん……。お返事をいただきたいです。すぐに無理ならお待ちします」
「いえ。私でよければ、ぜひよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞ末永くよろしくお願いします」
やっぱり二人揃ってベッドの上でお辞儀をする。どういう状況だろうか、これは。
「やっと、千明さんとちゃんとお付き合いができます」
「はい。……なんだか照れますね」
「順番はだいぶ変わってしまいましたし、……その、いまから続けましょうという空気でもなくなってしまって……」
たしかにここから再スタートを切るには難しい空気だ。
二人で顔を見合わせて笑った。
「千明さん。今夜はこのまま一緒に眠りませんか。よければ、腕枕でも」
「は、はい……っ。お願いしますっ」
カップルの憧れのシチュエーションといえば、やはり腕枕は定番だろうと思う。
一冴さんが私を抱きしめて、そのままベッドに横たえてくれる。
「服、着ますか? 寒くないですか?」
「……か、一冴さんが温めてくださるんですよね……?」
「もちろんです。一晩中大切に抱きしめて眠ります」
肌をぴとりとつけて、その夜は彼の腕の中で眠った。
* * *
ヴ……と振動が聞こえた瞬間にスマホを取り上げ、通話状態に切り替えた。
隣で眠る彼女の頬にキスをしたあと、ベッドを出る。シャツ一枚を羽織って部屋を移り、受話器を耳に当てた。
「どうした?」
『夜分にすみません。一冴さんの耳に入れておきたいことがあったので』
二条からの連絡は基本的に昼夜を問わない。特に、深夜にかかってくる電話はあまりいい話ではなかった。
『明日の午後、社長がお戻りになります』
やっぱり、いい話じゃなかった。
「そう。……迎えに行かないといけない感じ?」
『いや、それは俺が対応しますよ。一冴さん、明日は大きな商談があったでしょ』
ここのところ、社内も快適だったのだ。父が長期出張に出ていて留守にしていたから、監視の目がなかった。そのお陰で千明さんと知り合えて、距離を縮めることができたのだが、今後はそうもいかなくなる。
明日の商談は鷹倉ホールディングスにとって重要な仕事だ。商談を成立させれば仕事はいまより忙しくなる。それに加えて父の帰国だ。
千明さんがうちの社員だったならどれだけよかっただろう。会う時間の都合が付けやすい。事情を説明しやすい。連絡を取りやすい。……全部、僕の都合だ。
『そういえば一冴さん。楠見さんとはちゃんとデートできました?』
「した。今日は鍋料理を食べて、いま彼女が部屋にいる」
『いやいやいや。そんな庶民がする普通のデートじゃなくて。てか鍋って』
「お前が言ったんだろう。恋人なら鍋料理を食べて“あーん”だとかなんとか……」
『俺、一冴さんのピュアさを舐めてたかもしれない。実践したんですか? 面白すぎでしょ』
……またからかわれたらしい。思わずスマホを耳から離して画面を見つめた。別に二条の顔が映っているわけではないが、なんとなく腹立たしい。
「切るよ。お前と話してるより千明さんの傍にいたい」
『ねえ、一冴さん。俺が言ってるデートってあなたが普段するデートのことですよ』
首を傾げた。レストランで食事をしてホテルに部屋を用意するだけの、なにが楽しいのだろうか。
「僕は千明さんが教えてくれるデートのほうが楽しい。食事なんていつでも誘えるだろ」
『一冴さんはそうでしょうよ。でも、普通はドレスコードのあるレストランなんて滅多に行きません。ホテルの最上階をいつでも使える状態にしておくようなこともなければ、ロビーに入るだけで人が飛んできてもてなされる経験もしないわけですよ』
「……そうなのか?」
二条がため息をつく。
『一冴さん、どセレブだからなぁ……』
「普通と違うことはわかってる。だから千明さんの見ている景色を僕も共有しようと……」
『逆もやらなきゃ意味ないでしょ。一冴さんと付き合うってことは、鷹倉ホールディングスとも付き合うってことです。そういうことを楠見さんに知ってもらって、理解を得なきゃ』
「そう……か。そうだな」
いままで付き合ってきた女性は、似たような環境か、僕の日常に憧れている人ばかりだった。だから、向こうから希望されることは多かったのだ。ハイブランドと区分されるブランドでの買い物や施設の貸し切り、特別扱い。それを皆望んでいた。
でも、千明さんは違う。僕を、雲の上の人だと言ったのだ。見ている景色が根本的に違うことを、驕ることなく理解しなければならない。
『だいたい、楠見さんに見せている一冴さんの姿って、本当に大企業の副社長かなと思う節もあるわけで』
「……いつもどおりのつもりだけど」
『いや、アヒルのポーチを握り締める副社長がいる会社って、相当不審だと思いますよ。こいつ大丈夫かな、くらいのことは俺でも思います。進行形で』
「お前が渡したんだよね……!?」
『面白そうだったんで』
千明さんの好感度が上がると言われて持たされたアヒルのポーチがいまは恨めしい。どんな目で彼女は僕を見ていたのだろうか。
「二条をちょっと信じられなくなりそうだよ」
『年長者の言うことは、まあ聞いておいて損はないですって。それじゃあ、夜分にすみませんでした。また月曜にお迎えに上がります』
「よろしく」
電話を切って、ふっと息を吐いた。
千明さんと過ごす時間は僕にとってかけがえのない経験ばかりだ。これからも彼女の見ている景色を知りたいし、ずっと一緒に過ごせたら幸せだと思う。
「逆も知ってもらう必要……か」
二条の言うことには納得をする。だけど、本当に彼女は楽しんでくれるだろうか。
「……ただの食事なんかでいいのかな……」
彼女に与えてもらう以上のものを、僕は返せない気がする。毎日が輝くような時間や気持ちを、千明さんにも贈れているのだろうか。
「とりあえず、アヒルのポーチはどうにかしないとな。……可愛いけど」
そんなことを考えながら部屋を出て寝室に戻った。
ベッドで気持ちよさそうに寝息を立てる千明さんの姿に安堵し、彼女の隣に潜り込む。
抱きしめると、彼女がすり寄ってきてくれる。それが可愛い。それだけのことが嬉しい。
だからこそ、慎重にならざるを得ない。父は、絶対に千明さんとの結婚を認めないだろう。ましてや僕が一目惚れをして口説き倒したなんて言ったら、猛反対するに決まっている。父が望むのは鷹倉の利益だ。
「大切にします。……必ず」
三.
スマホのアラームが轟音を立てた。
「ひゃああっ!?」
飛び起きて、スマホを探す。鞄はどこだっただろう。枕元を探すと、色っぽい声が聞こえてきてさらに慌てた。
「あわわわ……アラームうるさい……鞄どこだっけ……」
あたふたしていると、ベッドからごろんと転がり落ちてしまう。え、ベッド?
待って。いまはどういう状況?
「千明さん、おはようございます」
「おはようございま……、…………」
そうだ。私、昨夜は一冴さんの部屋に……。
記憶を手繰り寄せていく。汗が噴き出し始めたのは言うまでもない。
緊張のあまりにお酒を飲みまくり、酔っ払って、そのあとの記憶がない。でも、一冴さんと一線を越えかけたところは覚えている。
そのあとになにか言われた気もするのだけれど、このあたりも記憶がない。まずい。
「と、とにかくアラームを止めないと。何度も鳴っちゃう……鞄……」
「鞄ならそこのソファに置きましたよ」
「ありがとうございます。ご迷惑をおかけしてすみません!」
教えられたソファまで駆け寄り、鞄からスマホを引っ張り出してアラームを停止させる。
「今日はこのあとなにかご予定が?」
パサリと肩からなにか掛けられた。ナイトローブ……だろうか。ものすごく肌触りがいい。
「はい。友達と約束があって」
振り返って一冴さんを見上げると、わかりやすくしゅんとしている。
「そうですか。気をつけて出掛けてください。自宅まで送りますよ」
言葉は大人の対応なんだけど、顔がすごい落ち込んでる……。このまま帰るの、なんか可哀想になっちゃうよ……。
「……か、一冴さんは、今日なにかご予定が……!?」
「いえ。今日は休みですし、千明さんの時間が合えばどこかへ出掛けようかと思っていたくらいです」
それで落ち込んでるのか。
まあ、私も一冴さんと出掛けてみたい気もする。どこへ行っても楽しんでくれそうだし。
「……あっ。じゃあ、ちょっとだけ待ってもらっていいですか」
「はい」
急いで房木さんにメッセージを打ち込む。
今日は彼女の料理教室だから、一冴さんと一緒に参加できるかもしれない。
打ち込んだメッセージを送信すると、すぐに房木さんから「大丈夫!」と返事が来た。
「一冴さん。友達の料理教室なんですが、一緒に行きませんか?」
「いいんですか?」
「はい。コロッケを作る予定なんです。一冴さんも一緒に作りましょう」
「……コロッケって作れるんですか?」
「作れますよ」
やっぱり一冴さんは料理も疎いようだ。となると、きっと楽しんでくれる。
ぎゅっと抱きしめられ、こめかみにキスをされる。
距離が近いな、と笑ったところで、ふと記憶が蘇ってきた。
「…………っっ!」
「千明さん?」
私、一冴さんに付き合おうって言われたんだった! しかも、よろしくお願いしますと返事をした気がする。
いや、でも記憶がまだ曖昧だ。
「……あの……私、昨夜なにか……言ったり……」
「…………、特にはしてないと思いますね」
「お付き合いがどうとか……」
ごにょごにょと聞くと、一冴さんは笑って私の手を引く。
「それより、コロッケ楽しみです。千明さんの手作り」
「一冴さんも作るんですよ? 一緒に頑張りましょうね」
そう言うと、彼は目を輝かせた。なにが彼の心に刺さったのかはわからないが、嬉しそうでなによりだ。
「その前に、一度着替えに戻りたいです。いいですか?」
房木さんに私服は見られているし、昨日と同じ服は絶対にまずい。
「それならお送りします」
ぼろアパートを彼に見られる……。断るべきかな。でもなぁ……。
嬉しそうに支度を始める一冴さんを見ると、断りづらい。
「……うち、けっこうぼろのアパートなんですが……びっくりしないでくださいね……」
「大丈夫です」
そうして一冴さんに自宅まで送ってもらったけれど、やっぱりちょっとびっくりした顔をしていた。
「いらっしゃーい! 待ってたよ!」
房木さんの料理教室には、いつも近所のママさんたちがやってくる。
彼女自身も子どもが一人いるシングルマザーで、子どもたちと一緒に料理を勉強できるのが楽しい。
「お邪魔します」
私はいつも教室が始まる前に来て、房木さんの準備を手伝うことにしていた。
「おぉ。その人がさっき言ってた付き添いの人……あれ、昨日見た気がするんだけど」
房木さんが首を捻る。
彼女には、付き添いの人が一人増えるということしか話していない。しかし、さすがに昨日の今日では覚えていても当然か。一冴さん、若いし見た目がいいからやけに目立ってたもんな。
「鷹倉です。昨日、お見かけしましたね。たしか房木さん……だったかな」
「! え、うそ。どこから突っ込めばいい!?」
房木さんが声を上げる。
私も驚いて、思わず一冴さんの腕を掴んだ。
「一冴さん、知ってるんですか!?」
「知ってるというか、昨日お見かけしました。名札がついていたじゃないですか」
「ついてますけど。店内の視察でしたよね?」
「僕は店だけを見に行っているわけではなく、社員や従業員の様子も見に行っていますよ。だから、あの日店にいた人の顔と名前くらいは記憶にありますが」
鷹倉副社長のスペックを舐めていた。まさか顔と名前まで一致させて記憶しているなんて思わないじゃない。
「ねえ、千明ちゃん」
房木さんが肘で私をつつく。
「彼が昨日言ってた人よね?」
「はい、まあ……」
「んふふっ。あとで詳しく聞かせてよ。なにがどうなってこうなったのか」
にんまりとした顔で言う房木さんに苦笑いを浮かべながら準備を始める。
調理器具の用意や材料の分配をしていると、一冴さんもしばらくは後ろを付いて歩いていた。だけど、いつの間にか房木さんの子どもに捕まって、一緒に遊び始めている。
「ねぇねぇ、千明ちゃん」
「はい?」
「鷹倉さんとお付き合いすることにしたの?」
「えぇっと……どうだろう……」
昨夜のことは時間とともに思い出した。間違いなく一冴さんに付き合おうと言われたし、それに返事もしたはずだ。だけど、今朝一冴さんに聞いたときははぐらかすように話題を変えられた。それは、やっぱり取り消したいという意味なのだろうか。
「まあ、鷹倉さんと付き合うのは大変そうよね」
「はい。いろいろと物珍しいみたいで。私とは住む世界が違うなーって思います」
「ああ、デートするにもドレス必須よね」
「……え?」
準備していた食器が手から滑り落ちそうになった。
デートに必須?
「どうしてデートでドレス……」
「だって、鷹倉の御曹司なわけでしょ。超がつくセレブだよ。ドレスコード有りのレストランなんて普通に行くでしょ」
……なるほど……!
考えてみればそのとおりだ。
住む世界が違うと理解をしながらも、私が彼の世界を覗き見る可能性なんて一ミリも考えなかった。
彼が私と同じ水準の暮らしをするなんてあり得ないし、お付き合いをすることになれば絶対に彼の生活水準に合わせなければならなくなる。
「セレブ生活ってやっぱり憧れない?」
「いえ……私は全然……」
夢にも思ったことがない。おしゃれなドレスを着て食事をするなんて想像すらしたことがなかった。でも、一冴さんと付き合っていくならそれが普通になる。
「セレブって……お金かかるんですね……」
「それ以上にお金持ってるから」
房木さんは笑って言うが、私が彼と付き合っていくなんて無理じゃない?
食事ひとつに思い切り背伸びをしなければいけない。三食もやし炒めなんて彼は絶対に食べない。
コンビニでの買い物をつい最近初体験したらしい彼と、私の見る景色が同じだなんて、なぜ思えていたのだろう。
「鷹倉さんに見初められるなんて羨ましいわぁ」
「見初められるって……物珍しいだけだと思いますけど」
「そうかな? わたし、鷹倉さんは千明ちゃんのこと本気だと直感したけど。こういう勘は当たるのよ」
むふっと笑う房木さんに「まさか」と苦笑いを返す。
「いつかプロポーズされたりしてね。そのときは教えて! 楽しみにしてる!」
「い、いやいや……」
首を横に振ったが、冷や汗が止まらなかった。
だって一冴さんはずっと、付き合うよりも先に結婚をしたいと言っていたのだ。少なくとも、結婚願望はあるのだろう。
もしも――。
今朝それとなく話題を逸らされたのが、昨夜の言葉を取り消したい彼の気持ちだったとして、私が忘れた振りをしていればそのままうやむやになるのだろうか。
せっかく告白してくれたのにな……。
だからといって、「一冴さんは私の彼氏ですよね」と確認するのもおかしいし、ちょっと傲慢すぎないだろうか。
やっぱり、このままなかったことにしたほうがいいよね。どう考えても釣り合わないし。
ぐるぐると逡巡していると、ほかの参加者さんがやってきた。
房木さんが手を叩いて「よーし、じゃあ始めましょう!」と声を上げる。
それぞれが調理台についたのはいいが、全員の目が私に向いていて変な汗がまた出てきた。
「千明さん。僕もお手伝いできるように頑張りますね」
次元違いの美形が、私の肩に手を置いて目を輝かせているのだから、珍妙な光景に見えても仕方がない。
「じゃあ、ジャガイモの皮を剥いてもらっていいですか?」
ピーラーとジャガイモを渡すと、一冴さんは案の定困惑していた。
「どうやって剥くんですか?」
「えーっと……」
房木さんは、ジャガイモの皮を剥いてから味付けをしつつ茹でていくスタイルなのだが、一冴さんに皮剥きはハードルが高いだろうか。茹でてから剥くべき?
首を捻る。
「こうして……ですね」
一冴さんの手を握ってピーラーの使い方を説明すると、彼が思いっきりもじもじし始めた。
「千明さんに手を触ってもらえるなんて幸せです」
キス以上のことを昨夜しましたけどね。……という言葉は飲み込む。
「一冴さん、怪我をするので真面目にお願いします」
唇を尖らせて窘めると、はっとした様子で一冴さんが真面目な表情をした。
私の前で見せる顔とは違う顔が、彼にはきっとたくさんある。黙っていればちょっと近寄りがたいくらいの美形だけれど、物腰が柔らかいので話してみるとふんわりしている。
仕事中はどんな顔をするのだろう。
一人のときはどうだろう。
ほかの人といるときは?
知りたいことはたくさんある。不思議な人だけれど憎めなくて、あり得ないと思いながらも惹かれていく。
一冴さんをじっと見つめていると、つるっとジャガイモを滑らせた。
「うわっ」
「危ないっ」
ジャガイモがポーンと放物線を描いて明後日の方向へ飛んでいった。いや、そんな飛び方は普通しないのだけれども。
「一冴さん、怪我はないですか!?」
手をがしっと掴んで聞くと、彼は嬉しそうに笑った。
「大丈夫です。あんまり見られると緊張しますね」
「……す、すみません……」
ちょっと見すぎた。
恥ずかしくなって俯いている間に、一冴さんはジャガイモを探しに行く。どこまで飛んでいったの。
ほどなくして彼が戻ってくると「隣の台まで飛んでました」と笑う。だれにも当たらなくてよかった。
ジャガイモを鍋に入れて茹で始めたあとは、タマネギのみじん切りに勤しむ。さすがに一冴さんが包丁を使うと危なっかしいので私がやったけれど、隣で彼がずっと「染みる……」と言ってめそめそしていたのは、失礼ながら可愛かった。
「実家で働いてくれるシェフに感謝しないと」と言い出したときはさすがに彼を二度見したけれど、やっぱり、生活の次元が違う。普通は実家にシェフなんていない。
どんな家なんだろう、と遠くを見つめながら、できあがったジャガイモと下準備をしたタマネギを混ぜて成形し、揚げていく。
一冴さんがエプロン姿で指先をパン粉だらけにして、顔に小麦粉を付けている姿なんて二条さんでも見たことないんじゃないかな、なんて少しの優越感に浸った。
できあがったコロッケはだいぶ歪だったけれど、一冴さんは目を輝かせて一人で五つも平らげていた。
料理教室が終わったのは、午後三時過ぎ。
一冴さんは、たくさん作りすぎてしまったコロッケをお土産に持たされて嬉しそうだ。
「千明さん。このあとなんですが、どこか出掛けますか?」
コインパーキングに停めた彼の車に乗り込んだあと、そう尋ねられて時計を見た。
「時間が少し半端ですよね」
「千明さんは、普段どういったところへ出掛けられるんでしょうか?」
普段か。
出掛けること自体が稀なので返答に困る。
なんと答えようかなと思案していると、一冴さんに手をそっと握られた。
「……ねえ、千明さん」
甘い声で囁かれる。一冴さんってこんなにいい声だったんだ……。
身震いするくらい艶やかな声に首をすくめた。
「昨夜も伝えたんですが、お酒のせいで忘れてしまっているのかもしれないし、改めて言いますね」
心臓が高鳴っていく。
「千明さんが好きです。僕と付き合ってくれませんか?」
「……で、でも……」
「……昨夜は前向きな返事をくれましたよ」
どうして渋るの、と聞かれて口ごもる。
昨夜は、彼がちゃんと付き合おうと言ってくれて嬉しかった。舞い上がって、軽い気持ちで受けたけれど、房木さんに指摘されて気づいたのだ。釣り合いがまるで取れていない。
「価値観が違いすぎるというか……」
「やっぱり気になりますか?」
「だ、だって……私は三食もやし炒めを食べたりしますし」
「はい」
「アパート見ましたよね。ああいうところで暮らすのが精一杯ですし」
「ほかには?」
「実家も貧乏です!」
消えたくなるくらい恥ずかしいけれど、決して富裕層ではないことはちゃんと伝えなければならない。
ぎゅっと目を瞑った。
「千明さん」
彼の手が頬に振れる。指先が顎へ滑って持ち上げられると、唇が重ねられた。
「それは僕と付き合えない理由になりませんよ」
「でも、周りはやっぱり気にすると思います……よ?」
「そうかもしれませんが、僕があなたじゃないとだめなんですよ」
前髪が触れ合うほど近くで彼を見つめる。
「一冴さんなら恋人くらい……」
「いたことはあります。だけど、みんながほしいのは僕じゃなくて、僕を取り巻く環境なんです。でも、千明さんは違うと確信しています。……大切にします。だから、僕と付き合ってみませんか。試してみるだけでも。ね?」
「かっ、一冴さんいつも結婚とか言うし」
「それはすみません。僕は結婚を前提にお付き合いをしたいと思っているので。でも、先走りすぎていました。…………、しばらくは断腸の思いで自重します」
本当につらそうな顔で言うから吹き出してしまった。
「千明さん。なにがあっても僕が守ります。それだけは信じてください」
この人を疑う余地なんて私にはない。だから、こくんと頷いた。
「……一冴さんとお付き合いしてみたいです」
「はい。大好きです、千明さん」
額にキスをされる。優しいキスが彼の気持ちのすべてのようで嬉しかった。
「あの、さっきの質問なんですけど。どこに出掛けるかって……」
「はい」
「私、普段はあまり出掛けないんですけど、行ってみたいところがあるんです」
「どこへでも連れて行ってあげます。教えて、千明さん」
ちゅっ、ちゅっとキスが降る。
「……水族館に行きたいです。デートの定番」
「いいですよ。いつにします? 僕はいまからでもいいですけど」
「じゃあ……いまからでもいいですか?」
「もちろん」
彼の服の袖を摘まんで見上げると、優しい笑顔で答えてくれる。
「いろんなことをお互いに知っていきましょうね、千明さん」
不安がまるでないわけではないけれど、一冴さんとなら少しずつ進んでいける気がする。この人なら大丈夫。そう思えた。
「どこの水族館に行きましょうか?」
「あ。行きたいところがあるんです。えっと……ここなんですけど」
スマホで検索をして場所を知らせると、一冴さんは二つ返事で車を走らせた。
水族館での一冴さんは想像どおりというか、子どものように目を輝かせて水槽を食い入るように見つめていた。
魚の知識はけっこうあるのに、水族館が珍しいらしく、家族連れの子どもとほぼ同列に張り付いていた姿は面白い。
クラゲがきれいだとか、熱帯魚を飼育してみたいだとか。ペンギンの可愛さに頬を緩ませながらぐるりと一周して出口から出た。
これはこれで楽しいのだけれど、一冴さんはどうだろう。ちらりと彼を見上げると、目がキラキラしていてぎょっとした。今度はなにに胸をときめかせたのだろうか。
「一冴さん、どうしました?」
「あそこにあるサメのポーチが可愛いなと思って」
お土産売り場に積まれた、灰色のサメ型ポーチを指さされ、なるほどと納得をする。歯をむき出しにしているが、なんとなく表情が抜けていて可愛い。
「アヒルのポーチは一冴さんが選ばれたんですか?」
「これは二条に持たされたものです」
やっぱり二条さんか。あのときのドヤ顔は忘れられない。
「でも、僕は千明さんとの思い出のほうがいいので、あのポーチと交換しようかな」
彼ならハイブランドの財布なんて普通に持っているだろうし、わざわざサメのポーチにしなくてもと思ったが、はじめてコンビニに来たときの会話を思い返して、この人はたぶん現金を持ち歩かないのだろうと想像ができた。となると、彼が普段使う財布は現金を入れるためのものではない可能性がある。
「ポーチでお買い物をされるのって、コンビニだけですか?」
「ええ。普段はカードで支払うので」
やっぱりそうか。
実はこの水族館のチケットを買うのも、一冴さんは戸惑っていたのだ。彼は少し気恥ずかしそうにしていたけれど、私がいきなり高級レストランに連れて行かれたらと想像したら、戸惑うのも無理はないなと納得ができた。
それに、彼には二条さんがずっとついて歩いていたはずだ。今日は一緒ではないけれど、出勤してくる彼はいつも二条さんと一緒だった。私には一冴さんがどれくらいの資産家なのか想像も付かないけれど、房木さん曰く「超セレブ」らしいので、出退勤の送迎なんてたぶん当たり前。その役目を二条さんが担っていて、あれこれとサポートをしているのだろう。
彼は、戸惑いながらも一生懸命私に合わせようとしてくれている。
「一冴さんが嫌でなければ、あのサメのポーチをプレゼントしたいです」
「……いいんですか?」
「はい。またコンビニでもお会いしたいですし。使ってるところ、見たいなって」
手をぎゅうっと握られた。一冴さんって、なにも言わなくても全部感情が表に出ちゃうんだなぁ……。
いまは感極まりかけている。
「ちょっとだけ待っていてくださいね」
一冴さんの手を離し、サメのポーチを買いに行く。いい歳をした大人の男性に――しかも大企業の副社長に贈るものではないけれど、私にはこれが精一杯だ。高価なプレゼントなんてできない。
ぎゅっとサメを握り締めてお会計を終えたあと、一冴さんの元まで戻った。が、たった数分程度の間に、彼が女性に取り囲まれている。
一人だったらやっぱりこうなっちゃうのか。
聞こえてくる声は異口同音で「遊びに行きませんか」だった。彼ならおろおろしそうな場面だし、ちょっと待とうかなと思ったのだけれど。
「ごめんね。恋人が一緒だから離れてもらっていいかな」
そうきっぱりと言い切ったあと、私に近づいてぎゅうっと抱きしめられた。
まさかの瞬殺で周囲も私も唖然としてしまう。
「千明さん。次はどこに行きますか?」
「え……あ……えぇっと……、じゃあ、こっち」
腕を引くと、一冴さんが私の肩を抱く。驚いて見上げると、冷たげな笑みを零していて二度驚いた。
一冴さんって、こんな顔もするんだ……。
「一瞬で取り囲まれていて驚きました」
「一人でいると、声を掛けられることはよくありますね」
やっぱり。一冴さんって本当に美形だもんなぁ……。
「一冴さんならうまくかわすのかなと思ってました。あんなにはっきり言うなんて想像していなかったというか」
「それはあなたに誤解を与える言動ですよね」
目を見開いた。
たしかに、あの場面で一冴さんが曖昧な態度を取ったら、私は絶対不安になっただろう。
「どうでもいい人と一緒なら、周囲に角を立てるようなことをわざわざしませんが、千明さんは特別な人なので」
たぶん彼は、私が戻ってきたことに気づいていて、敢えてああいった言動をしてくれたのかもしれない。
ぎゅっと彼の袖を握った。
住む世界が違う。ずっと付き合っていけるわけじゃないのかもしれない。だけど、好きになる気持ちを止められない。
「千明さん……?」
彼が不思議そうに私を覗き込んだ。
「好きです。一冴さん」
「はい。……僕も好きですよ」
照れくさそうに笑う彼が顔を近づけてくる。吐息が触れ合うほど近づいたところで、彼がはっとしたように動きを止めた。
「……どうしよう。いますごくキスしたいんですが」
土産売り場を少し出ただけの場所。太陽はすでに沈んでいるけれど、人の往来はまだ多い。
一冴さんが困った顔をする。ここに来て人目を気にしていることに驚いたが、これも彼なりの気遣いなのだろう。
「じゃあ……あれなんてどうですか?」
少し先で煌びやかな明かりを灯す観覧車を指さすと、彼は私の手を掴んで歩き出した。
「観覧車なんて、子どものころ以来です」
「私も……子どものころが最後ですね」
うちはとにかく貧乏だったので、遊園地やテーマパークに行った経験は数えるほどしかない。いつも双子の弟に合わせて乗り物を選び、最後はみんなで観覧車に乗った。おとなしく座っていられない弟たちにゴンドラを揺らされて怖い思いもしたけれど、あの時間はやっぱり楽しかったといまなら思える。
観覧車のチケットを買って、一冴さんと二人で乗り込んだ。
ゆったりとした動きで上昇していく様を見つめていると、昔を思い出す。
「あっ、そうだ。一冴さん、サメのポーチ買ってきましたよ」
先ほど買ったばかりのポーチが入った袋を取り出すと、向かい側に座っていた彼が私の隣へ場所を移した。
肩を抱かれ、こめかみにキスをされる。
「ありがとうございます。もらっていいですか?」
手からするりと取り上げられたそれは、彼の膝の上に置かれた。
……実はいらなかったんじゃないだろうかと不安になったが、一冴さんの手に顎を捉えられる。少しずつ距離が近づいてきて、そっと唇を重ねられた。
「んっ……」
一度離れて、もう一度重なる。今度は舌を差し入れられ、強く腰を引き寄せられた。
「っふ……んっ……」
くちゅくちゅと水音を立てながら、彼の舌が口内を舐め尽くしていく。丁寧に、ゆっくりと味わうようなその動きに身震いがした。
「一冴さん……」
「ねえ、千明さん。もしよかったら、今夜もうちに泊まりませんか」
その誘いがどういう意味かなんて、経験値の少ない私でもわかる。昨夜は中断されてしまったけれど、今度はきっと――。
「いいんですか……? 昨夜もお邪魔しましたよ……?」
「僕としては、あなたを帰したくないんですけどね」
指を絡めて手を繋がれる。
心臓がドキドキとうるさい。期待してしまう気持ちを抑えられない。
「いきなり同棲をしようというのは、事を急きすぎていると思うんです」
ものすごく真面目にそんなことを言うが、結婚をと繰り返していたことはどうなったのだろうか。
「……あ。でも結婚はしたいです。すぐにでも」
「どう違うんでしょうか……?」
すると一冴さんは途端にもじもじし始めた。彼の頭の中を見られるなら覗いてみたいとさえ思う。
「恋人関係を否定するつもりはないのですが、やっぱりちょっと浮ついた感じがしませんか。僕は千明さんとの人生を真剣に考えたいんです」
「でも、お付き合いをしてみないとわからないこともありますよね。私と一冴さんは育った環境がまるで違うので、想像も付かないことが多いですし」
普段の彼はどんな顔をしているのか。なにが好きでなにが嫌いなのか。私たちは知り合って間もないので知らないことが圧倒的に多い。
「はい。なので、千明さんに僕のことを少しでも知っていただきたいです。都合のいい日を教えてください」
「わ、わかりました……」
言葉がもつれる。
彼がふと見せた顔がいつもと違って、完璧すぎるほどの微笑だったからだろうか。
一冴さんはきっと普段からこんなふうに笑うのだ。私の前で見せる彼の姿は、本来のものでありながらも決してだれかに見せている姿ではないのかもしれない。
私の前でだけ見せてくれる表情なのだとしたら……嬉しいな。
彼の手に髪を梳かされる。優しく撫でられながら、距離が縮められていく。熱に浮かされるように「好きです」と繰り返しながらキスをくれる彼に、私も精一杯で応えた。
観覧車が地上に近づいていく。ゆったりとした時間の流れは、それでも一瞬で終わってしまうのだ。
そうして地上へ戻ってゴンドラを下りるとき、一冴さんは私に手を差し出してくれた。その手を取って大きな花火を咲かせるような観覧車をあとにする。
ちょっとロマンチックだったな……とうっとりしていたのだけれど。
「千明さん。サメ、可愛いですね。大事にしますね」
ポーチを手にした彼は、相変わらず子どものようにはしゃいで嬉しそうだった。
一冴さんの自宅まで、流されるように戻ってきてしまった。
その外観や内装を改めてまじまじと見たが、ため息が零れるばかりだ。
彼が暮らしているマンションはセキュリティもサービスも至れり尽くせりだった。ロビーはどこのホテルだろうと思うくらい豪奢な作りだったし、コンシェルジュは当たり前のようにいる。警備員さんもいた。ほかにも、このマンションの一階だけでほとんどのことが完結してしまう。買い物代行だとか、クリーニングだとか。すべてマンションがサービスでおこなってくれるため、ここの住人は暮らすだけで不自由をしない設計になっている。いわゆるセレブ向けに提供されているマンションなのだ。
彼の部屋は最上階にあり、そのワンフロアがすべて一冴さんのものらしい。ほかの部屋はほとんど使っていないようだが、管理のために二条さんがときどき泊まるらしい。
「千明さん、こっち向いて」
玄関に入った私を、後ろから彼が抱きしめる。優しく、遠慮がちに触れてくる手がくすぐったい。
肩を掴まれて身体を返されると、唇が重ねられた。
啄んで、舐められて唇を開かれていく。隙間から舌が差し込まれ、絡め取られた。
「っ……んっ……」
彼の動きに応えようとすると水音が立ち、それがやけに大きく耳に付く。
「んっ……ふ……」
頭がくらくらした。思考が一冴さんで満たされていく。彼とのキスは眩暈がするくらい気持ちいい。
彼の腕に縋ってキスに応えていると、腰を抱き寄せられた。
「ベッド、行きましょうか」
囁かれる声が甘くて無意識に頷く。すると、膝裏に手を入れられて抱き上げられた。
驚いたけれど、あまりにも軽々と抱き上げられてしまったので抵抗するタイミングを失ってしまう。ぎゅっと一冴さんに抱きつくと、嬉しそうにキスをしてくれた。
心臓の音がうるさい。ドキドキしすぎて息苦しくなってくる。恥ずかしい。いろんな感情が入り交じって、なにか話そうと思うのになにも言葉が思い浮かばなかった。
寝室の扉が開かれる。
そうして、ベッドへ横たえられると一冴さんが覆い被さってきた。
じゃれつくように額や頬、耳にキスをされながら身体を撫でられる。そっと、触れるか触れないかくらいの優しい仕草でなぞられて身を捩った。
「千明さん、好きです」
耳元に囁かれる声が甘い。
服の隙間から手を入れられ、肌に直接触れられる。温かな手が遠慮がちに、気遣わしげに這わされて少しくすぐったい。
服が徐々にたくし上げられ、頭を抜かれた。ブラのホックが外されて身体を晒すと、彼が唇を寄せる。
「んっ……」
かすかな感触で触れたあと、舌が這わされた。
「ん……ぁっ」
昨日はお酒が入っていたけれど、今日はそれがない。これは……かなり恥ずかしい。
一冴さんの舌が身体を舐め、ゆっくりと敏感な場所を探っていく。そうして、胸の先端を舐められたとき、身体が自分でも驚くくらい跳ね上がった。
「っふ……あっん……」
肉粒を口に含まれ、舌で硬く尖らされる。ピンと立ち上げられて痛いような、でも刺激されると気持ちいいような、複雑な感覚がした。
「んっぅ……ふ……あ、んっ」
声が抑えられない。しかも、自分のものではないような、甘ったるい声が出てしまうのが恥ずかしくて口を押さえた。けれど、一冴さんが私の手を取ってベッドに押しつける。
「気持ちいいところを知りたいので、声は抑えないでください」
優しく、諭すように言われて思わず頷いてしまった。
胸元にキスをされ、柔肉が彼の手で形を変えられる。ゆっくり、ゆっくりと焦らすように触れられて羞恥心にどうにかなりそうだ。
抵抗するように彼の頭を押さえると、胸先を甘く噛まれた。
「っ……あ、あっ……」
吸われて腰が浮くと、スカートがするりと脱がされる。
「一冴さん……っ」
あまりに自然に剥がされてしまい、縋るように彼の腕を掴んだ。
「大丈夫ですよ」
頭を撫でられると安心できるけれど、やっぱりちょっと心細い。変ではないだろうか。この先は怖くないだろうか。ちゃんとできるだろうか……?
いろんな不安に押しつぶされそうだ。
彼の顔に手を伸ばしたけれど、指先が震えていることに気づいてとっさに引っ込めた。緊張が一冴さんに伝わってしまう。不安が露呈する。それはきっと良くないことだと思って顔を背けた。
「千明さん」
目元にキスをされる。そして、彼は着ているものを脱いで私を抱き起こしてくれた。後ろ向きに座らされ、一冴さんが背後から包み込むように抱きしめてくれる。
「僕は肌を合わせて抱きしめると落ち着くんですけど、千明さんはどうですか?」
「……ちょ、ちょっとだけ……落ち着きました……」
それでもまだ、声が震える。
「続けるの、嫌ならやめましょうか」
「ち、違……っ、あの……緊張してしまって……あと、うまくできるかなとか……」
「そんなこと、気にしないで」
首筋にちゅっと吸い付かれた。背筋にぞくぞくとした感覚が走って首をすくめると、今度は耳に舌が這わされる。
「んっ……、や、一冴さん……っ」
逃げたくても逃がしてもらえず、身体をくねらせた。
「千明さん、もっと触っていいですか?」
優しい声で聞かれると、すぐに頷いてしまう自分が恥ずかしくて、ちょっとだけ後悔をしてしまう。
彼の手が下着越しの秘裂をなぞった。
「っ……んんっ……」
やんわりと脚を開くように促されたあと、ショーツの隙間から彼の指が忍び込んでくる。とっさに腕を掴んで抵抗したけれど、頬や耳にキスをされて力が抜けてしまった。
直接秘裂を割られ、肉芽を指先に捉えられる。
「んっ……」
ぬちぬちと音がして、顔が火を噴きそうに熱くなった。けれど、優しく花芯を擦られる快感には抗えない。
一冴さんにもたれ掛かるように促されると、一気に快感が全身を支配していく。
「んんっ……っあ……っ」
ビクッと身体が跳ね上がった。耳元で一冴さんの熱っぽい吐息が聞こえて、おそるおそる彼を振り返る。
「一冴さん……」
名前を呼ぶと唇が重ねられた。舌を絡ませ合って、呼吸も思考も奪われていく。
「んっ……ふ……」
身体を彼のほうへ向けると、腰を抱かれてショーツが剥ぎ取られた。そっと脚の間に手が沿わされ、中心へと向かって上ってくる。再び秘所を弄られたとき、ぬるりと彼の指が滑った。
「あっ……や……っん……」
「嫌……?」
不安そうな声で聞かれて首を横に振る。嫌なわけではない。ただ、自分の身体が想像以上に反応していることが恥ずかしいのだ。
「な……なんか、変……で……」
「変じゃないですよ。いつもの千明さんも、いまの千明さんも、僕は大好きです」
そっとベッドに横たえられる。顔や身体にキスを落としながら、彼の手が私の脚を大きく開いた。
慌てて閉じようとしたけれど、彼の身体が滑り込まされる。脇腹から臍へと舌を這わされ、腰が浮いた。
ゾクゾクする。背筋に電流が走るようなもどかしい疼きを、どうすればやり過ごせるだろう。
腰を掴まれると秘部に温かい吐息が触れ、ねっとりと舐め上げられた。
「あっ……あ、んっ……」
花芯を吸われると頭が真っ白になる。無意識に彼の頭を押さえて、引き剥がそうとしているのかねだっているのかさえ、自分ではわからなかった。
「あぁっ……、や、んっ……あっ」
ヌチヌチと水音が立つ。蜜口に舌を差し入れられ、ジュルと蜜を吸われた。
恥ずかしすぎて消えたい。でも、一冴さんがこんなことをしてくれていることが嬉しい。
「っ……、あ、あ、んっ……あぁっ……」
肉芽を舐められると声が止まらなくなる。強く快感をもたらされて、目の前がチカチカと白くなった。
「あっ……んんっ……ふ……、あっ、は……んっ!」
四肢が強張って、身体が仰け反る。ビクビクと震えながら、感覚が一気に弾けた。
「あああっ……あ、あっん……や、あっ」
心地よかった快感が、鋭いものへと変わっていく。彼が敏感な芽を食むたびに身体が跳ね上がった。
「千明さん……気持ちよさそう……」
うっとりとした声で言われて羞恥心に襲われる。たしかに気持ちいい。敏感に反応しすぎてしまっているが、それでも彼が触れてくれる優しい愛撫が気持ちよくて、やめてほしいと言えない。
「あっ……んっ……一冴さん……っ、……あ、あっ」
彼の指がぬるぬると愛液を絡め取り、蜜口へと押し込まれた。
「っ……は……あ、あっ……んっ」
「苦しくないですか?」
ぬちゅぬちゅと音を立てながら内側を擦られ、身体をくねらせる。
「やっ……あ、そこ……だめ……っ」
腹側の膣壁を押し擦られると耐えきれない快感に襲われた。
一冴さんの腕を掴んで制止してみたが、そっと指を絡めて繋がれてどけられてしまう。
「ここが千明さんの好きな場所ですね……」
愛おしげにそんなことを言いながら、執拗なほど同じ場所を擦られた。
「ああっ……あ、んっ……ふ、あっ……」
「千明さん、好きです。全部、大好きです……」
ぐちゅぐちゅといやらしく音を立てられ、彼の声は半分も耳に届かない。
「やっ……あ、一冴……さんっ……、変に……なっちゃ……あっ」
下腹部が熱く痺れてくる。逃げだそうともがいてみても、力がろくに入らなくてシーツを掴むだけで精一杯だった。
「あぁっ……あ、んっぅ……、あ、ああっ……!」
先ほどよりも深く大きな絶頂の波に飲まれていく。激しく身体がのたうって、全身が別の生き物のようになった錯覚を覚えた。
「はぁ……っ、あ……、んんっ……」
ほどなくして快感から解放されたが、あまりの衝撃に身体が重い。指の一本も動かしたくないと、蕩けた頭で考えた。が、すぐに一冴さんが覆い被さってくる。
「千明さん……いい……ですか……?」
窺うように聞かれて目を見開く。
そっか……。これで終わりなわけないよね……。
頭を撫でられ、優しいキスをされた。壊れ物を扱うように優しく触れてくれる彼に手を伸ばす。
「はい。……いいですよ……」
ほっと安堵したような表情を見せたあと、一冴さんが避妊具を装着して身体をぴたりとくっつけてきた。
ゆっくりと息を吐く彼を見上げると、照れくさそうな笑みを返される。
一冴さんも緊張しているのかもしれない。
「ゆっくりしますね」
瞼にキスをされたあと蜜口に彼のものが押し当てられた。
「んっ……」
少しずつ、ゆっくりと押し入ってくるのがわかる。隘路を開かれる痛みに眉根を寄せると、宥めるようなキスが降った。
ぬぷ、ぬぷと内側が熱に侵されていく。はじめては痛むものだと聞いていたけれど、想像していたほどではなかった。
痛くないわけではないのだけれど、それよりも一冴さんをもっと感じたいと疼いてしまう。
腰を浮かせると、一冴さんが苦しげな表情をした。
「ッ……、千明さん……」
「あ、あの……ごめん……なさい……痛かったですか……?」
「そうではなくて……、気持ちよくて……。もう少し強くしたいです……」
恥ずかしそうに言われて、彼の首筋へ腕を回す。
「いいですよ。一冴さんの好きに……してください」
「千明さん……それはだめです……、そういうことを言ったら……」
片手で顔を覆う彼を見上げた。なにかいけないことを言っただろうか。
「一冴さ――、……あ、ああっ……!」
腰を掴まれ、ぐっと熱塊を押し込まれる。目の前が白く光って、なにが起きたのが理解できなかった。
「は……っあ、あっ……んっ……」
「痛くなかったですか……、ごめんなさい、乱暴にして……」
ちゅっとキスをされる。
急に強く打ち込まれたので驚いたが、痛みはあまり感じなかった。それに、乱暴だとも思わなかったけれど。
「大丈夫です、……ちょっとびっくりしましたけど」
「痛かったり、苦しかったりしたら教えてください」
指を絡めて繋がれた手がベッドに押しつけられた。ゆっくりと引き抜かれ、やはりゆっくりとした動きで押し込まれる。
「んっ……ふ……っ」
指でされたときほど強い快感ではないが、これはこれで背筋を這い上がる鈍い快感に溺れそうだ。
「あ……っ、んっあ……」
深い場所まで開かれていくせいで、突かれるたびに目の前が白くなる。
「っ……あぁっ……一冴さ、……あっ、んっ」
奥を擦られ、膣壁が彼のものを締めつけた。
「千明さん……気持ちいいです……」
徐々に一冴さんの動きが大きく、速くなっていく。内側を抉られる感覚に腰が浮いて、彼へと押しつけた。
そっと彼の手が腰を掴んで引き寄せる。
「っあ……」
最奥まで届くと、経験したことのない感覚に全身が支配された。彼が腰を打ち付けるたび、意識が飛んでしまいそうだ。
「あぁっ……、あ、一冴さ……あ、あっ……や、っだめ……」
肌がぶつかり合う音が大きくなっていく。
「んっ……あ、ああぁっ……!」
押し寄せてくる絶頂に抗えず昇り詰めた。
内側で彼の欲望が膨らんで爆ぜると、強く抱きしめられる。
「……千明さん……大好きです……」
呼吸を荒らげながら彼がそんなことを呟いた。
「私もです……、一冴さん」
胸元に顔を伏せる彼の髪に指を絡ませて撫でると、たまらなく幸せな気持ちになる。
こんな瞬間があるのだと知って、少し照れくさく思いながら一冴さんを見上げた。目が合って、お互いにはにかみながらキスを交わす。
とても幸福な時間だった。
(――つづきは本編で!)