「このまま何の隔たりもなく、ナカに入りたい……」
あらすじ
「このまま何の隔たりもなく、ナカに入りたい……」
大手飲料メーカーの秘書課に勤めるアラサーOLの真央は、海辺のリゾートで開かれるイベントの担当役を突如押し付けられてしまう。
引き受ける代わりに二週間の有給休暇を勝ち取り、てきぱきと仕事をこなす真央だったが、リゾート客の逆ナンに困っている様子の男性を見かける。
年下らしいその彼は、真央が年甲斐もなく目を奪われるほどのイケメンで……!
作品情報
作:ぐるもり
絵:立花にっける
デザイン:BIZARRE DESIGN WORKS
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① 有休をください!
課長が有給休暇ということもあり、秘書課の主任である真央はいつもより少しだけ早めに出社する。すべてのパソコンを立ち上げると、真央の勤める『MATSUKI飲料』の新商品である糖質ゼロビールの広告写真が広がった。
開発担当が丸三年かけた渾身のビール。発売一か月で一億本売れたと社長が嬉しそうに話していたのも記憶に新しい。しかもその開発責任者はまだ若いと聞いた。若手も育ち、きっと『MATSUKI』の未来も明るいだろう。
そんな日本でも有数のMATSUKI飲料で真央は秘書課に配属されていた。元々、妥協を許せないこともあり、とにかくきっちり仕事をしていたことが認められ、四年前に秘書室に配属となった。ありがたいことに主任という役職もついて、益々仕事に精を出しているところだった。
(このビール、本当においしんだよねえ)
根っからのビール好きである真央は、パソコンのデスクトップを見るたびに味を思い出し自然と口元が緩む。糖質ゼロといううたい文句は色々気になるお年頃の真央にとってありがたいものだった。自社の物だからというひいきが無くても、今回の新商品はとても美味しかった。
(また今日も飲んじゃおうかな~)
そんなことを考えながら、問題なく立ち上がったパソコンを確認する。自デスクで共有ファイルを見ていると、上役の外出予定を記載するファイルにいくつか抜けがあった。その担当秘書はみな同じ。大きなため息を隠せずに、手元にある外出申請書を元にファイルの穴埋めをしていく。
「しかも、手土産所望って書いてあるじゃない。昨日のうちに準備したの?」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると、他の社員が次々と出社してくる。その中に昨日の手土産の買い出し担当がいたため、購入したかどうか確認すると、「え! 知りません! ファイルにありませんでした!」と慌てた返答が戻ってきた。やっぱり、と真央はたまらず頭を抱えた。
「今日必要なんですか?」
「うん。まあ、でも午後だから今日中に買ってくればいいから。ごめんね、朝から嫌な思いさせたね」
「大丈夫ですけど……主任、それって……」
「……うん、まあ松木さんだよね」
「やっぱり」
今会話に出てきた松木は、少々難ありな社員だ。やる気はあるように見える。それはとてもありがたい。しかしどうにも仕事の抜けが多い。一所懸命な分、周りが見えなくなりがちだ。何度か注意したものの、「すみません」と涙を流しながら謝られてしまうとどうにも強く言えない。
ならばと思って静観すれば、フォローしきれないミスが多々発生してしまい、結局は他のスタッフにも自分にも負担がのしかかってしまう。そうなってくると割り振れる仕事も限られてしまうのが現状だ。
しかし、松木はそれに納得しない。自分の能力以上の仕事を望み、言葉は悪いが付き合わされるのが真央の仕事になっていた。それに加え、縁故採用。現社長の従弟である専務の娘。もちろん縁故採用自体が悪いわけではない。松木の場合はそれを盾にしてしまっているため余計質《たち》が悪かった。
毎度毎度の失敗のあと、謝罪の最後にはいつも、お父様に相談します。と、わかっているのかそうでないのか、こちらがどうにもやりにくい台詞を残していくのだ。しかも、秘書課に異動になったのも、「お父様に相談」がかなり影響しているようだ。
社会人経験としては、三年目。秘書課勤務では三か月。そろそろ共有ファイルの使い方くらい覚えてほしいと真央は常々頭を痛めていた。松木が天然なのかしたたかなのか掴めないまま、真央や他のスタッフの疲労だけが蓄積される日が続いていた。
「ごめんなさい。今日朝礼でそれとなく注意するから」
「そうですね……でも、主任がまたいじめているって言われちゃうんじゃないですか?」
「まあ、それは仕方ないよ」
以前少し長めに指導したところ、時間外労働になってしまったことがある。その際、父親である専務にきつく注意をされたことと秘書課外で「若い子をいじめている」と噂されてしまった。しかし、課長もその他のスタッフも理解してくれているため真央は仕方ないとあきらめていた。
「私自身も言わずにはいられないからね。まあ、専務の目はちょっときついものがあるけど」
二人同時にため息が漏れる。お父様である専務とも働いているため、とにかく気を使う。真央は課長が居ない一日がとにかく何事もないようにと願うばかりだった。
「朝礼をはじめます。今日は課長が有給休暇のため、主任の根本が代行になります。外回りの記載が漏れていたので、各々共有ファイルへの記載を確認してください。それと、本日社長が急遽、外出のために手土産を所望しています。先方へのリストと購入するものを共有ファイルにあげていますので、本日の担当の方は確認してください」
代行ノートに書かれたお知らせ事項を読み上げ、今日の業務を確認していく。視界の端に映る松木がハッとした顔をしたのち、下を向いて目をぬぐう動作が見えた。
(また泣いてる……)
泣くくらいならメモでも取ってやることを覚えなさいと、声を大にして言いたかったが、お父様が入り口で見張っているためそれもできない。悔しさをぐっと押し殺して、平坦な声で続きを読み上げる。
「それから、当社が毎年出店している海の家『MATSUKIビアホール』の担当者が決まりました。当課からは、松木千奈さんが派遣されます。二週間の出張になりますので、担当各位の申し送りをよろしくお願いします」
え! という大きな声が聞こえたが、真央は無視する。MATSUKIは自社ビールや飲料、社員のアイデアをもとに作った料理を提供する海の家を展開している。期間限定のアルバイトを雇うとともに、料理や飲料を知った社員が数名派遣される。大体が三年目から五年目までの若い社員が担当になるが、今年は松木が選ばれた。期間は短いが、その間松木の世話をしなくていいとなると、ホッとしてしまうのが正直なところだった。
「それでは今日も互いにスケジュール確認し合いながら円滑に業務が進むようにお願いします」
締めの挨拶とともに、今日も忙しい一日が始まる。
◇◇◇
「今年の当社の海の家なんだけど、松木さんが行けないって言っているんで……根本さん、よろしくね」
「……はあ?」
よろしくね? なんて言われて、はいそうですか。と納得などできなかった。二週間松木がいないと喜んだのは昨日のことだ。どういうことだと尋ねる前に、課長からA4サイズの封筒を手渡される。その封筒には「根本真央《ねもとまお》」と、しっかり自分の名が書かれていた。
「……なぜ、私が」
最後の悪あがきが漏れ出る。真央の静かな怒りを感じ取ったのか、課長が視線を逸らす。
「いや、松木さんがね……自分はいけないから別の誰かにって……そんで、僕はもう行っても役に立たないし、根本さんはほら、しっかり……してるでしょ? て、適任かなって」
大手の会社でもこんなことがまかり通ってしまうのか。適任ってなんだ。こういった各地のイベントを通して、自社製品への理解を深め、よりよいステップアップにするための取り組みなのではないか。二週間、海に行く。考えようによってはリゾート気分ではないか。違うの? いや、三十を迎えた自分にとっては少々痛いリゾートじゃないか? と怒りとやるせなさがぐるぐると渦巻く。とにかく行きたくないと反論しようとしたが、課長の顔色と封筒を見るに、『お父様に相談します』が発動したんだろう。
お父様に相談されては、もうどうにもならないことを悟った。
「いや、僕もね入社時の規定にもあるし、成長にもつながるって言ったんだ。だけど専務がうちの娘に俗物的な商売をさせるのかってね……」
「そうなんですね……」
それならば仕方ない。なんてなるか! と真央はぎろりと課長を睨む。分かっている。お父様に相談されたらYESマンになるしかないということは重々分かっている。課長も頑張ってくれていたことも重々知っている。しかし、松木の世話をしなくていい二週間だけはどうしても譲れない。海の家に行けば世話をしなくていいと分かっているが、違うのだ。松木のいない通常業務をしたいだけなのだ。
(それできないのであれば!)
真央は何も言わず、いったん自デスクに戻る。そして、パソコン画面の有給休暇申請欄をものすごい勢いで埋め、課長に送信する。
「課長、届きましたか?」
真央の勢いに押されたのか、課長が慌てて社内メールを確認している。その間に真央はもう一度課長の所に戻る。高いヒールが秘書課フロアに鳴り響き、まわりが二人の動向を静かに見守っていることを教えてくれた。
「海の家、私が行きます」
「おお、ありがとう」
「そのかわり!」
海の家での仕事を終わったあと、二週間の有給休暇申請を申し出る。主任は目が点になったあと、パソコン画面と真央の間を何度も視線を行き来させ、最終的に「それは困る!」と騒ぎ出した。しかし、目の据わった真央に気づいたのか、ボソボソと「一週間になりませんか」とお伺いを立ててくる。
「受け入れて貰えないなら、行きません」
「そ、それはだねえ」
「出向後の二週間の有休! これが条件ですから!」
二週間の出向。そして、そのあとの二週間の有休。こうなったら海でのバカンスをとことん楽しんでやる! と真央は心に決めた。
② ナンパはお断り。美味しい飲み物と食べ物を楽しんでいって!
「MATSUKI糖質ゼロビールと、低糖質焼きそば三つお願いします!」
秘書課への申し送りを細かに行って、真央は海の家に出向していた。いつもパソコンと向き合って仕事をすることが多いため、外で働くのはとても新鮮で、まるで学生時代に戻ったようだ。
Tシャツにショートパンツ。年齢を考えると少量しんどい格好だが、動きやすさは抜群だ。この日のために糖質オフビールでダイエットしたかいもあるもんだと自分を褒めたたえたい。にやつく顔を抑えきれずにいると、客から声がかかる。
しかもこの後には二週間の有給休暇。近くのコテージを二週間貸し切り、のんびり過ごすつもりだ。(課長に泣きつかれたため、いつでも連絡や調整ができるようにパソコン持参だが)ネット環境も整っているため、映画も見放題。あとは海の家の最終日にスーパーと本屋に寄って食べ物を買うだけだ。楽しいバカンスが待っていると思うと心も体も軽くなる。
休みの間は、うまい酒とうまい魚を目いっぱい楽しんで、読書と昼寝をして過ごすのだと真央は心に誓っていた。今は大盛況な『MATSUKIビアガーデン』を少しでも楽しんでもらえるようにと全力を尽くすのみだった。
大きなトラブルもなく残るところあと二日となったとき、いつもとは違う客が一人ふらりとやってきた。
(う、わ。めっちゃイケメン)
接客をしている手を止めてしまうほどの目を引く男性だった。少したれ目ではっきりと縁取られた唇と通った鼻筋。芸能人かと一瞬見間違えてしまった。水着姿ではなく、黒シャツに、白のアンクルスキニーパンツをこれほど嫌味なく着こなせる男性はそうそういないだろう。
一人ということも、人目をひきつけた。時間にして数秒だが目を奪われてしまった。真央の視線に気づいたのだろうか、男性と視線がかち合う。まっすぐな視線に囚われて年甲斐もなく胸が高まる。
「すみません」
見ているのがばれたのだろう。心地よいテノールが鼓膜をゆらした。
「は……」
「今行きます!」
い、と返事をしようとしたが、真央よりも先に反応したのは、入社三年目の子だった。いつもはそんなに俊敏でないのに、なんてちょこっとだけ意地悪な考えが浮かんだが、これくらいの楽しみがないとやってられないだろうというのも本音だ。
注文なら誰でもいいだろうと真央は男性に背を向けた。
イケメンの出現に、浮き立つ心を隠せない社員の元気な声を背に、真央は他の接客にあたる。料理を運び終えて振り返ると、先ほどの男性が美味しそうにビールを飲み込んでいた。
しばらく思案するような顔を見せたのち、小さく頷いて見せた笑顔はかっこいいよりもかわいいが似合う笑顔だった。
「うまい」
そんな声が聞こえてくる。
(でしょう!)
心の中で思わずそう叫んでしまう。MATSUKIの糖質ゼロビールは本当に美味しい。根っからのビール好きである真央をうならせた逸品で、それが自社のものとなれば喜びもひとしおだ。糖質ゼロビールなんて作れっこない、とライバル会社にバカにされながらも、健康ブームに乗れる商品をと開発を押し切った開発チームを間近で見ていた。決して焦らせず、自分たちが納得できるものをと資金に糸目をつけず社員を後押ししていたのを知っていた。中には嫌味を言う上役もいたが、社長の懐の大きさを知れた。
自分は商品開発とはかけ離れた部署だが、社員一同で開発したものだと自負していた。慣れない立ち仕事を頑張ったごほうびのような笑顔と誉め言葉に、真央の心がふんわりと温かくなった
「ねえねえ、お兄さん一人?」
「よかったら一緒に飲もうよ」
しかし、どうにもイケメンという人種は人を寄せ付けるようだ。ちょうど食事をしていた女性二人もその笑顔に見惚れたのだろう。声をかけながら男性の両隣へ腰掛ける。かわいらしい女性二人が男性に声をかけた。店内ナンパ行為などの声掛けは禁止、と看板にでかでかと書いてあるが二人には見えないようだ。
「いえ、一人で楽しんでいますので」
「そんなこと言わないで! お兄さんめっちゃイケメンだからお話したいな」
「名前は? 年はいくつ?」
男性の返答にもめげない。あんまりだったら注意しなければ、と思っていたが、男性はにこやかに対応している。
(まんざらでもないのかな?)
そんな風に思いながらも、真央は何かあれば止めなければ、と注意を払うように気をつけていた。
「いいじゃん、少し話すだけでもいいからさ」
「あ、実は逆ナン待ち? どっちにする? 私は二人いっぺんでもいいよ!」
「あんたあからさますぎ!」
ぎゃはは、と少し不快な笑い声が響く。周りの客も女性二人の声の大きさに押されて次々と席を立ち始めた。
「ね、こんなに誘ってるのに無視?」
「ちょっと感じ悪いですよ、お兄さん」
にこやかに笑っていた男性から表情が落ちていく。それを察知したのか、女性二人の表情にも怒りと焦りがにじみ出ている。周りの雰囲気も察知した真央は三人のテーブルに向かう。
「はい、ちょっとごめんなさいね」
「ちょっとなによ、おばさん」
右、左と女性囲まれた男性の前に真央が割り込む。おばさん、と言われたことにちょっとカチンときたが今はそれどころではない。もうこの際おばさんでもいい。
「ナンパ、お断りですよ」
「は?」
訝し気な返事だが仕方ない。真央は男性を背中に隠し、にっこり微笑む。
「その水着、似合ってるね。どこで買ったの?」
怒りが爆発する前に話題をすり替える。はあ? と言われてしまったが、真央は怯まない。
「かわいいね。二人ともよく似合っている」
「え、そ、う?」
真央は微笑みを崩さない。そうしているうちに、二人のこわばった表情が崩れていく。
「うん。色も素敵。センスいいね」
「まあ、ね。めっちゃ時間かけて選んだんだよね」
「そっかあ。なら、そんな素敵な水着とかわいい君たちに今の顔は似合わないよね」
真央の問いかけに二人から気まずい雰囲気が流れてくる。
「ね? 今年のうちの新商品、めちゃくちゃ美味しいんだよ。糖質ゼロビール。うちの開発部が時間をかけて作ったんだよ。あなたたちと同じくらいの若手が頑張ってくれたの。だからあなたたちみたいなかわいい若い子に飲んでほしいな」
腰を折って、二人に視線を合わせる。ちょっと目を逸らされたが、小さく頷いたのが見えた。
(よし)
真央は、ゆっくり立ち上がり、振り返る。目を真ん丸にした男性に向けてゆっくり微笑む。
「ビール二つお願いします!」
別テーブルに二人を案内するとき、「ごめんね」と小さな声が聞こえたからよしとしよう。
③ また会いたい
「二週間、皆さまお疲れさまでした」
一番の年長株である真央がそう口にすると、全員が揃ったあいさつを返してくれる。片付けは委託したイベント会社が行ってくれるため、真央たちは終業と共に解散になる。売上も今までにない数字を叩きだし、おそらく出向したスタッフに手当として分配されるであろう。そう考えると今回の経験も中々悪くなかったと思える。
「根本さん、帰りはどうしますか? 直帰ですか? よかったら送っていきますよ」
スタッフの一人に声をかけられたが、なんとなく嫌な雰囲気を察して真央は大丈夫と断る。
「私、これから有休なんだ。だからここでお別れ。お疲れさまでした」
「え! あ、そ、そうなん、ですか。あの、根本さんって秘書課、でしたっけ」
「……そうですけど」
自分よりいくつも下の若い男性だ。何故引き止められるかさっぱりわからない。けれども、肌で感じる雰囲気は、上役との外出中に上から下までじっくりじっくり舐めまわされるように見られた時と同じものだ。真央は何か言おうとする相手を遮るように腕時計を確認する。
「ごめんなさい。私、バスに間に合わなくなっちゃうから。もし何かあったら秘書課の根元まで社内メールして。パソコンは持ってきているからいつでも確認できるし」
じゃ、と言って真央は振り返ることなくバス停に向かう。
いやらしい視線から逃れられることができてほっと息を吐く。仕事柄こういったことに遭遇することは多々あるため、逃げるのが一番と知っていた。
(大方、年上なら男日照りだろうしちょっとイケるって思ったところでしょ)
馬鹿にして。と年齢で安くみられたことに憤慨しながら熱の残る砂の上を歩く。しかし、今の真央に怒っている暇はない。
滞在用の荷物は昨日まとめて発送しているが、食料を買い出ししなければならない。悠長に話している暇はなく、楽しいバカンスの準備をする必要があった。
日を浴びて未だ熱の残る砂浜を駆けると、これから始まる非日常に心が弾んだ。しかし、弾んだ心と相反するようにバスの時間が迫っている。都内であれば時刻表よりも遅く来ることが当たり前だが、田舎はどうだろうか。乗る人がいなければ時間より早く来るだろうか。そんなことを考えていると、遠くに赤いバスが見える。
(やばい。間に合わないかも)
すでにバス停にはバスが停まっている。待って! と声を出し走るが無情にもバスは走り去っていく。
「うっそでしょ~!」
幸先悪いスタートだと思ってバス停の時間を確認する。次に来るのは一時間後。なんていうことだと頭を抱える。
(仕方ない、タクシーかな)
そんなことを思ってスマートフォンを取り出す。近くのタクシー会社を検索していると、後ろからまた名前を呼ぶ声が聞こえた。
「根本さん、バス行っちゃいました? 送りますよ!」
げえ、と声が漏れたことを許してほしい。これから始まるバカンスに彼の存在は必要ない。そう思っても周りがはやし立て、一緒に働いていたとはいえ、名前しか知らない彼も強気になっているようだ。先ほど真央が駆けてきた砂浜の足跡をなぞるようにこちらむかって駆け出している。
(ほんとやめて~同調圧力!)
一人じゃないと分かったとたん強気になるところも気に食わない。自分の評判が落ちようとも、はっきり言ってやろうと身構えていると、一台の車が真央の前に止まった。
なんだ! と振り返ると、どこかで見たことある男性が運転席から下りてくる。
「根本さん」
「……はい?」
あっちもこっちもなんだ。と眉間に皺がよる。そうしていると、背後から味方の力を得た名もなき男性が迫っていた。
「今から俺の彼女ってことで、いいね?」
「はい?」
なにが良いんだ。とっさに出かけた言葉は、男性の背中に寄って遮られた。
「俺の彼女になにか、用?」
自分ではない誰かに向けられた声の強さと隠してくれた背中の広さに真央はどきりと胸を高鳴らせた。
「か、かのじょ?」
焦った声は近づいてくることもなかった。「そうですか」という情けない声のあとに、しゃくしゃくと砂を踏む音が聞こえてきた。はやし立てた集団に戻っていったのだろうと察知して、背中から顔を出す。
「まだ、もう少し待って」
指示に従うように、真央は顔を引っ込める。
「こっち見てる。疑ってるかな」
「……あの」
そろりと顔を上げて助けてくれた男性をまじまじと見つめる。こんな風に助けてくれる知り合いはいないと考えていると、ぱちりと目が合った。
「行った方がいいかも」
乗って。と言われて真央はぱちぱちと瞬きをする。怪しさ満点だと思いつつも、あの舐めるような視線が続いていることにぞっとしてしまう。
「でも……」
知らない人の車に乗るなんてと戸惑っていると、大きな手が頭に乗せられた。
「大丈夫」
ふんわりと見せてくれた笑顔には見覚えがあった。真央の大好きなビールをとっても美味しそうに飲んでいた男性の笑顔と重なった。その時初めて彼の正体を知った。
「あ、あの時の逆ナン君」
「え、今頃気づいたの? でも、これで知らない人じゃないってわかったでしょ? それともまだ今夜のワンチャン狙いの男の相手をしたい?」
「それは、」
嫌だ。そう思って真央は何か打開策はないかと考える。そして、タクシーが来るまで一緒に待ってもらうのは? と、提案した。
「後をつけられてもいいならそれでもいいけど?」
「……そこまでするかな」
「するよ。絶対」
何が絶対なのだ、と真央は訝し気に表情を歪める。微笑みを崩さない男性は強引さがあれども、嫌悪感はない。先ほどの舐めまわすような視線も全くない。色々な人を見てきた真央の勘が、彼は大丈夫と言っていた。
「……名前、教えて」
「よっしゃ。俺は生島蛍《いくしまけい》。蛍って呼んで」
「蛍くん、でいい?」
呼び捨てはハードルが高い。もちろんと快い返事をもらい、真央は案内されるがまま車に乗り込む。
「まだ見てる……?」
「うん。案外本気だったかもね」
「どうかなあ。だとしてもあのやり方はあんまり好きじゃない」
だろうね、と相槌を打ったところで車がゆっくりと発進する。集団が遠くなっていくのを確認すると、知らずに安堵のため息が漏れた。
「助かりました。ありがとうございます」
「俺も助けてもらったからね」
「そうでしたね」
ふふ、と自然と笑いがこぼれる。海沿いの国道をまっすぐ走ると、西に沈む夕日を映した海がキラキラと反射している。今まで忙しくて海を見る余裕が無かったが、こんなにも綺麗だったのだと今更気づく。
「綺麗……」
思ったことがそのまま口にする。すると、隣でかみ殺したような笑いが聞こえてきた。
「本当だ……綺麗だね」
蛍の言葉に真央はどきりと鼓動が弾む。視線だけこちらに寄こしたため、まるで自分に言われているような気がしてしまった。
(自意識過剰だわ……)
「忙しかったから景色を楽しむ暇もなかったよね」
「あ、え、えぇ……」
やはり自分に向けた言葉ではなかった。真央は変な反応をしなくて良かったとこっそり息を吐いた。夕方の道路は少なからず混雑があるものの、都内とは違い緩やかに進んでいく。
会話が弾むわけでもなく、真央はじっと外を見つめる。赤信号で止まったとき、水面で何が跳ねるのが見えた。
「なにか跳ねた……」
「あぁ、この辺は浜辺近くにもイルカが出ることがあるっていうよ」
こうして話している間も弱い波の向こう側で、数度水が大きく動いている。
「イルカかぁ……」
サイドウィンドウに顔を近づけて、跳ねる何かの正体を探ろうとする。しかし、夕日が反射してキラキラ輝いているせいか全く分からない。
イルカといえば子供の頃水族館のショーで見た以来だ。大人になって見る機会はなく、見つからないと分かっていても探してしまう。
「見つかった?」
「ううん、全然」
「イルカが見たいの? それなら、近くにも水族館があるよ」
そうなの? と、真央は反応する。まだ間に合うから見に行くかと聞かれて、真央は少しだけ考えて首を横に振った。
「ありがとう。大丈夫」
イルカが見たいわけではない。子供の頃のように何も考えずに楽しめることに思いを馳せていただけだと気づいたからだ。
「そう。つれないなあ」
「二週間こっちにいるし、機会があったら行ってみるね」
ここまで口にして、「もしかして誘われていた?」と、気づいた。しかし気づいたところでどうにもならないのが真央の本音だ。信号が青に変わり、ゆっくりと車が動き出す。
(――つづきは本編で!)