「俺と二人きりの時は、裸で構わないのに」
あらすじ
「俺と二人きりの時は、裸で構わないのに」
自作恋愛小説の悪女リシアに転生したとあるアラサーOL。婚約破棄された挙句聖女を虐めた冤罪で処刑される自身の結末を知っているリシアは、ヤケ酒の最中に意気投合した謎のイケメン、ミックと一夜を過ごす。だが翌日突然現れた隣国カザル帝国の使者に、皇帝ミカエルからの求婚を伝えられる。カザルを訪ねたリシアを迎えた皇帝ミカエルは、なんと酒場で出会ったあのミック本人で……!
作品情報
作:江原里奈
絵:ちろりるら
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プロローグ
「信じられない……こんな……っ!」
長い髪を両手でぐしゃぐしゃにしながら、若い女性は尖った叫びをあげた。
それはたしかに、彼女にとって恐ろしいことだった。視線の先にある、黄金の装飾が施された楕円形の鏡に映ったのは『彼女自身』ではなかったのだから。
そこにいるのは、黒髪の美女――背はすらりと高く、身につけた淡い緑のドレスの豊かな胸元から、ほっそりと括れたウエストまでのラインを誇張する。
背まで流れるつややかな髪も、勝気そうなエメラルドグリーンの瞳も……すべてが、完璧なほど美しかった。
「リシア……、リシア・ヴァリアス……」
彼女は鏡の中の美女の名を、震える声で呼んだ。
それは、ウィスリー王国の有力貴族の一人娘だ。伯爵令嬢として何不自由なく育ち、幼馴染みのラトランド大公と婚約中の身の上である。
のちに、リシアが『稀代の悪女』と呼ばれることまで、まるで我が事のように知っている。なぜなら、彼女自身が悪女――リシア・ヴァリアスが登場する物語を作り出した張本人だからだ。
――鏡を見て蒼褪めている彼女が何者かと言えば、現代の日本という島国のしがないアラサー女性である。(仮にモブ子としておこう)
陰キャラなモブ子は、中学で友人たちに無視される、という陰湿なイジメを経験した。毎日泣きながら、なぜかロマンスファンタジー小説を書き上げた。
作文なんて苦手なのに、書いている時はなぜか無心になれた。大作を書き終ると、無視されたからって死ぬわけじゃないと達観することができ、心に余裕ができた。
もちろん、ロマンスの主人公は自分だ。友達がたくさんいて、イケメンから求愛されるヒロインを描くことで、傷ついた心が少しずつ癒えてきた……そりゃあ、ノート十冊分も書けば自信もつくというものだ。
そのお陰なのか、いつしかイジメの標的から外れていた。押し入れに放り込んだノートは、いつかどこかに消えていた。
月日が経ち、そんな話を書いたことさえ忘れていた。
「リシア、あなたは……」
鏡の中の白い額に、じわりと汗が浮き出た。
(あなたは……、死刑になる運命なの……)
言葉を続けようとして、あまりの恐ろしさにめまいがした。
それは作者だからこそ知る事実――リシア・ヴァリアスが、ラトランド大公に婚約破棄されたこと。婚約者を奪われた恨みで聖女・フィオナを殺す計画をして、人々に罵られながら処刑されるということを。
これから起こる選択をひとつでも見誤れば、それは命に関わるかもしれない。
(……とにかく、生きなきゃ! 話はそれからだわ)
拳をグイっと握り込み、運命に立ち向かうことを心に決めた。
1.婚約破棄からの逆転劇!?
――時間は、残酷なほどあっという間に流れていく。
この世界にリシアが適応する前に、彼女の婚約者は心変わりしていた。聖女・フィオナが王族に謁見したとき、彼女への恋情を露わにするトマスを間近に見た時は驚いたが、特にそれ以上の感情はなかった……なぜなら、それはこの世界で定められていることだから。
『聖女』という稀有な存在が現れるのは、この国では久々だ。他国にどれだけの聖なる存在がいるのか、それは教皇庁の秘密であり、貴族はおろか王族にさえ知らされていない。
(まぁ、そういう設定にしたのは私だけどね)
と、無駄にキラキラしているフィオナを見ながら、リシアはため息を漏らす。
フィオナは没落貴族・ロシュグラン子爵家の娘……父親が爵位を豪農に売って逃げたせいで、農家の下働きをさせられていた。
苦楽を共にした母が死に、礼拝堂で主神からのお告げを聞いたという。
聖なる力を使えるようになると、干ばつで農作物が枯れる寸前に雨乞いを成功させて農地を守った。国境沿いに現れた魔物を、懐柔して無力化したという話さえある。
ウィスリー王国を守った能力者が、宮廷で国賓として扱われるのは当然のこと。
しかも、その見た目が可憐で、誰もが一目で恋に落ちた。
お手本のような金髪碧眼、華奢で愛らしいフィオナはまるで天使そのもの。平民への慈悲を忘れない聖女に、貴族や王族は胸を打たれ、民衆は熱狂する。
貴族に生まれながらも屈辱を味わってきたこと、農民の下働きという身分に落とされたこと……数々の不幸があったとしても、それらは怒涛のハッピーエンドへのプレリュードに過ぎない。
すべての不幸は、これから権力者たちに寵愛されることで帳消しになるのだから。
(この話で、彼女が愛されるのは当然のことだわ……だって、私が決めたヒロインなんだもの)
リシアは楽しそうにおしゃべりする聖女と取り巻きたちを、遠くから眺める。
自己肯定感が低いモブ子は、自分とかけ離れたヒロイン像を作った。夢物語だからこそ、フィオナは誰からも好かれる――若い女性を批判するうるさい貴婦人方でさえ、取り巻きの一部になっているのがいい証拠だった。
「あらぁ、ご苦労されましたのね、聖女様。ロシュグラン子爵の件、わたくしも気にかけておりましたわ。それに、夫人がお亡くなりになっていたなんて……災難でしたのね」
「ありがとうございます、侯爵夫人。でも、そうした試練を与えてくださった神に感謝しておりますわ。お陰で皆様のお役に立てたのですから」
「その信仰心、お若いのに素晴らしいですわ! 同じ年頃の令嬢は、礼拝にさえ参加せず舞踏会やお茶会の準備ばかりしているというのに……」
扇で口元を隠した侯爵夫人は、リシアのほうを窺い見る。
(……あぁ、そうだったわね。すっかり、忘れていたわ)
後に悪女として名を知られることになるリシアだが、すでにこの頃から貴婦人方から目の敵にされていたようだ。
いかにも高慢ちきな美人で、信仰心ゼロ。ラトランド大公の婚約者という後ろ盾がなければ、もっと酷い悪意を向けられていたかもしれない。
反リシア派筆頭の侯爵夫人は、過去にリシアの父・ヴァリアス伯爵にフラれたことがあるらしい。恋敵の娘に冷たいのは、アラサーのモブ子には理解できるがリシアとしては納得がいかないところだ。
顔を顰めた彼女に、フィオナが視線を移した。
「あっ、リシアじゃない! この前は、ありがとうね!」
青くて大きな目をキラキラさせながら、フィオナはリシアに駆け寄ってくる。
(苦手なタイプなのよねぇ……)
ヒロインとして憧れるけれど、実際に身近にいると邪魔くさい。悪意も邪気もゼロだけど、空気を読まないところがとにかく面倒。
それが、聖女に対する率直な意見だった。
リシアが言っている『この前』――それは、トマスが計画したピクニックのこと。婚約者とフィオナ、リシアの三人で出かけて以来、フィオナはリシアに対して馴れ馴れしく接してくる。
二人きりだと倫理的に良くないからという身勝手な理由で、トマスはリシアを誘っただけ。
もちろん断ろうと思ったが、フィオナが時間よりも早く伯爵邸に現れたことで使用人たちが魅惑されてしまい、仮病を装う間もなかった。
渋々行くことになったピクニックは悪夢のようだった。婚約者そっちのけで聖女様に夢中のトマスは、あまりに愚かすぎてむしろ笑えた。
そして、わかったのだ。ストーリー通りに行けば、こんな茶番が繰り返される……それこそ、何度も何度も。体裁を繕って聖女に親切にすればするほど心が荒んでいくなんて、皮肉すぎる展開だ。
それでブチ切れたら、即座にゲームオーバー。断頭台への第一歩を踏み出すことになる――。
(……さっさと離れなきゃ。聖女ともトマスとも)
今後の身の振り方を考えてから、リシアは賭けに出た。
できるだけ恭しく、丁寧すぎるほど丁寧に、フィオナにお辞儀をする。
「お久しぶりです、聖女様」
「リシア……! 私たち、お友達じゃない。そんな他人行儀にしないで!」
無邪気なフィオナを生ぬるく見ながら、リシアは伯爵令嬢としての矜持を持って微笑んだ。
「聖女様。わたくしは、聖女様と友達になったことはございませんわ」
「……リシア!?」
「先日は、わたくしの婚約者であるラトランド大公様に誘われたから同行しただけのこと。聖女様とわたくしに、個人的な関係はございませんわ。これまでも、そして、これからもそれは変わりません」
きっぱりと境界線を引くような……いや『友人扱い断固拒否』の発言に、当事者のフィオナよりも取り巻きたちが先に反応した。
「……あら、お心が狭いこと! ご自分の恋人が聖女様を慕っていらっしゃるのが、そんなに気に入らないのかしらね」
「仕方ないわよ、だって……」
「そうね。どんな美女だとしても、聖女様の魅力の前では色褪せて見えますわねぇ」
わざとらしく聞こえる貴婦人たちの囁きに、リシアは卒倒しそうになる。それは、中学生のモブ子が書いた小説のセリフそのままだったのだ。
そして、それは迫りくるあのシーンの前触れ――。
「あっ、トマス!?」
悪女に冷遇されて泣きそうなフィオナを庇うようにしながら、トマスがリシアの目の前に立ちはだかった。
見上げるほどの長身に、金髪碧眼が印象的な柔和な美貌……のはずが、今は心なしか表情が引きつっている。
「ラトランド大公様、ご機嫌よう」
婚約者とは言え、宮廷のような場所では王族に対しては敬称を用いるのが一般的だ。
軽く膝を折って挨拶をするリシアを見ても、トマスの感情が凪ぐことはなかった。
「見損なったぞ!」
――バシッ!
軽く右頬を叩かれ、その衝撃にショックを受ける。
無論、手加減はしているはず……だが、体に感じるよりも心が悲鳴をあげた。
楽士たちが奏でる音楽と華やいだ貴婦人たちのおしゃべり。そんな雅やかな空気に満ちていた大広間が、途端に緊張感と静けさに支配される。
公衆の面前で、婚約者に平手打ちされたリシアは言葉を失っている。
ショックを受けたように微かに熱っぽい頬に手を当てる彼女に、トマスは追い打ちをかけてくる。
「今の物言い、フィオナの美徳に嫉妬した憎しみからだろう! 親が決めた相手とはいえ、そんな冷たい女と結婚する苦痛を味わう必要はあるまい」
「えっ……?」
貴族たちが固唾を飲んで見守る中、トマスはさらに声を張り上げて言った。
「トマス・ラトランドは、ヴァリアス伯爵令嬢との婚約を破棄することを、今こそ主神に誓う!」
トマスはそう言いながら、フィオナの肩を抱く。その様子は、あたかもリシア・ヴァリアスに虐められた聖女を守ろうとする騎士のようだ。
白馬に乗った王子様は、ヒロインに優しく微笑む。昔から、ファンタジー世界ではそれが定番の筋書きだから、ある意味でそれは予定調和である。
そして、悪女にとって婚約破棄は破滅の兆候を示すものだった――。
* *
「ざぁっけんなよ……」
ダンッと、木製のカウンターにグラスを置いて、リシアは悪態をついた。
「なぁに、白馬の王子様気どりしてんだよ、馬鹿男! っつーか、白馬に蹴られて死ねっつーの!」
そんな彼女を、その場にいる人々は遠巻きに見守っている。
確実に、場違いなところにいるのは知っている。
ここは、一階が酒場で上が宿泊施設になっている建物。国内の有力貴族は王都に屋敷を構えているし、そうでなくとも血縁を頼って貴族の屋敷に滞在させてもらうものだ。
それゆえ、ここに集まるのは商いをやっている平民か下級貴族あたりになる。ここは店構えが重厚で、見るからに城下街の店舗の中では上等の部類だが、中に有力貴族が寝泊まりしているなんていう例外はないだろう。
だからこそ、ここを選んだ。宮廷に出入りする貴族たちに、弱みを見せたくなかった。
高価で上品なドレスを身にまとっているリシアは、平民でもなければ娼婦にも見えないはず。伯爵令嬢が一人でいるのは途方もなく非常識なのは、本人が一番よくわかっているのだが。
(一杯、引っかけるだけだって思ってたのに誤算だわぁ~!)
ヴァリアス伯爵の別邸に戻れば酒なんて山ほどある……が、こんな風に酔ってやさぐれているところを父にも、メイドたちにも見せてはならない。とりあえず、彼女が何者かも、今日どんなことがあったのかも知らない人々の中で、孤独に飲みたいと思った。
しかしながら、ここの酒場の中で一番ガラが悪いのは間違いなくリシアである。
仕方がない……公衆の面前で婚約者から平手打ちされて、婚約破棄を言い渡されたばかり。そこまでの屈辱を経験して、平常心を保てるほうがどうかしている。
「ちょっと、マスター! もぅ、なくなっちゃったよ? さっさと注いで!」
と、空になったグラスを持って、カウンターの中でビクビクしている男に声をかける。
「勘弁してください、お客さん。うちの樽を一人で空にするおつもりですか!?」
「ケチねぇ、いくら払ったと思ってるのよ!」
「……そう言われましても」
「蒸留酒とか言ってもさ、どうせ、水で薄めてるんじゃないの? だって、ぜんっぜん酔わないわよ! どう考えてもおかしいでしょうが!」
「ひぇ……これ以上、営業妨害しないでください! 人を呼んで、外に出しますよ!」
そのやり取りを中断するように、一人の男がリシアの隣に座ってきた。
ここの宿泊客か、それとも上客なのか。彼の姿を見るや否や、マスターは一気に改まった様子になる。
「これはこれは旦那様、今晩は何をお作りしましょうか」
男はぶっきらぼうにこう言った。
「俺とこのお嬢さんに、ここで一番の酒を出してくれないか?」
「かしこまりました! 極上の酒をご用意いたします!」
男が懐から出した金貨を手渡すと、マスターは上機嫌で酒の準備を始める。
「誰、あんた? 話わかるじゃん」
多少は酔いが回っているリシアは、馴れ馴れしさ全開で彼の顔を覗き込んだ。
微かに躊躇したように目を伏せた男は、寡黙な性質のようだ。こちらも大して返事を求めていない場合は、むしろ相手が無口なほうが好都合だ。
年は三十代前半くらいだろうか――銀色の長い髪を後ろに撫でつけ一つにまとめている。その健康的な肌色に合う琥珀色の胴衣は銀糸の刺繍が施され、彼の筋肉質な体躯を引き立てていた。
ここのマスターの反応や酒場から追い出されそうな女性に酒を奢ってくれるのだから、それなりに教養やマナーのある紳士なのだろう。その雰囲気からすると、騎士階級だろうか。
無言のままでリシアを流し見る切れ長の赤い瞳は、飼い馴らされていない野性の猛禽類を思わせた。少々無骨な感じと相俟って、彼女の好みのど真ん中に命中する異性である。
「いや~ん、隣にイケメン! サービスいいわ、この店!」
酔っているからだろうか、思わず心の声が口をついて出てしまう。
ハッとしたのは相手も同じで、男は訝しそうに彼女を見つめた。
「イケメン? なんだ、それは……酒の種類か?」
「あっ、何でもないです。とりあえず、乾杯しましょうか!」
話をはぐらかそうと、自分のグラスを取って、彼のグラスに軽く合わせた。
「……俺はこの国の習慣がよくわからんのだが、知らない言葉も習慣もたくさんあるようだな」
それを聞いて、彼が異国の人間だと知った。
この辺りで見かける貴族や騎士の胴衣には、家紋らしきマークが刺繍されているのは見かける。しかし、男が身に着けているものほど精緻な刺繍はこれまで見たことがない。
ウィスリー王国内では手間暇がかかってしまう品でも、ところ変われば熟練した作業ができるお針子がたくさんいるのかもしれない。
「お兄さんは、どこの出身なの?」
「あ、ああ……今は、もうない国だ」
言われて、脳内に世界地図が甦ってきた。
長らく王朝が続いているウィスリー王国と違い、国境外では常に争いが起きていた。そうした地域では数十年もの乱世が続き、ようやく二年前に神聖カザル帝国として国の形が整ったという設定にしていたはず。
たくさんありすぎてよくわからないが、ウィスリーに近いところだとワニエ領主国やトゥランド領主国といった小国の名が浮かんできた。
「ああ、そうよね。内乱も酷かったし、カザルに統一されたのよね。本当に大変な時代だったわ……」
「そうだな……」
ため息交じりに、物思いに耽る男からは色気が滲み出ている。
思わず齧りつきたくなるような奇妙な衝動に駆られ、微かに残る理性で自分の欲望を抑えつけた。
(日本でよくないことは、ここでだってダメだわ!)
そう自戒する。この世界では、名門貴族の令嬢たるもの、清らかな身で親が決めた相手に嫁ぐものと相場が決まっているのだ。
モブ子だった頃もそんなおとぎ話のようなことを夢見ていた時期はあった。初めて付き合った相手と順風満帆にゴールインして、子どもができて幸せな家庭を築くって……けれども、残酷なほどに恋愛はうまくいかなかった。
(そう言えば、フラれたんだ、わたし……)
と、現世でのことを思い起こす。
この世界に転生する直前、失恋の腹いせで家呑みしていた。自分の存在意義って何だろうって思い悩んで、泣きながら飲みまくっていたのは覚えている。
便利さというのは、時に残酷だ。家の酒がなくなっても、コンビニには深夜でも酒が並んでいて、お金さえ出せばいくらでも売ってくれる。どんなにへべれけの相手にでも。
正気に戻りたくなくて、ひたすらに飲み続けていた気がして、どんよりとした気分になった。
(……私、死んだのよね?)
ゴミ部屋で孤独死したアラサーなんて、どう考えても悲惨だ。
それに比べたら、婚約破棄されても隣にイケメンが座って一緒に飲んでくれるファンタジー世界のほうが楽しいに決まっている。
そういうわけで、イケていないモブ子の記憶は意図的に『悪女』のものに差し替えることにした。
マスターが用意してくれた極上の酒に酔いながら、リシアは男との会話の糸口を掴んだ。
「……私もね、田舎にいた頃は、怪我した人たちのお世話をしたわ」
「ほぉ……そうだったのか!」
思いのほか関心を持ってくれた男に、微笑みながらさらに記憶を手繰り寄せる。
「そうよ、実家の隣の領土にある修道院……私にとっては、あそこが生まれ育った家みたいだったわ……」
この国には全寮制のアカデミーがあるが、受け入れるのは貴族の男性のみ。女性が高等教育を受けるなら、家庭教師を雇うか、修道院で学ぶかのいずれかである。
父のヴァリアス伯爵は財務官僚のため王都に滞在し、領地に戻るのは多くて年に二回。幼い頃に母を亡くしたリシアは、礼儀作法や語学などの素養を学ぶため、ヴァリアス伯爵領に隣接した教皇直轄領にある女子修道院で十年ほどの月日を過ごした。
リシアがいた女子修道院の先に、教皇庁とそれに付随する男性が暮らす男子修道院がある。その二つの修道院の中間地点に、合同ミサが執り行われる大聖堂と病人を看護するための療養施設が設けられていた。
普段は教皇庁に巡礼に来た信者や地域の住民のための施設だったが、隣国の内乱で傷ついた人々が教皇領にも流れ込んでくるので、設備や天幕を増設して受け入れていた。
その時に、看護要員としてリシアも交代で傷病人の世話をしていた。
専門的な医術を学んでいないから大した手伝いはできなかったけれど、困っている人のお世話をすることにやりがいを感じたことを思い出す。
「……修道女になったら、もっとたくさんの人を助けられるわ。きっと、心穏やかに生きていくことができるんじゃないかしら」
「えっ、レディーが修道女に!?」
驚いたように尋ねてくる男に、リシアはにやりと笑った。
婚約破棄された悪女が修道女になるなんて、彼女の生い立ちを知らない誰もが不思議がるだろう。
「あら、おかしいかしら? 私、これでも信仰心は篤いわよ……周りの人たちが思っているよりずーっと、ね」
「いや、それを疑っているわけではないのだが……」
彼が戸惑う理由は、彼女のように若い女性が修道女に志願するのが珍しいからか。
修道請願をするのは、世俗から縁を切り『神の娘』として主神と契約することを意味する。つまりは、結婚はおろか恋愛さえもご法度だ。
それゆえシスターの大半は、未亡人や離縁した貴婦人がほとんど。俗世を離れて静かに過ごしたい女性ばかりである。
平民なら若くても修道女になりたがることもある。しかし、それは信仰というより生活苦のためだ。経済的に問題がない立場でそれをするのは、奇異にも思える選択である。
(修道女になる理由も、それを選ぶ価値もあるわ。少なくとも、私には……)
これから、リシアがすべきなのは、この華やかな王都や宮廷から距離を置くことだ。
聖女と元婚約者がいない場所ならどこでもいい。ただ、物理的にも精神的にも距離を置くとしたら、国外に出るのが一番……すなわち、前にいた修道院に戻るのが最善の方法だ。
(とにかく死んだらダメ……しかも、処刑されるなんてまっぴらよ!)
生きるためなら、手段は問わない。傍から見たらおかしなことでも、悲劇を回避できるのなら悪魔にでも修道女にでも何でもなろう。
(……でも、そういう難しいことは、明日、考えればいいわよね)
城から逃げ出したリシアを、今頃、ヴァリアス伯爵は血眼になって探しているだろう。
とりあえず、辺境の屋敷に戻ることを父に伝えて、修道院のことはゆっくり考えよう。
「さっき、すっごいイヤなことがあったんだけど、どうでもよくなってきた! これもぜんぶ、お兄さんのお陰だわ!」
途端にイキイキとしてきた彼女を見て、隣の男はホッとしたように微笑んだ。
「……そうか! それは良かった!」
一見ワイルド系の美丈夫だが、目尻が僅かに下がるだけで何となく可愛らしくも見える。前世では、この男と同年代だから、そこはリシアと感覚がズレるのは仕方ない。
もっと、彼のことを知りたい……そんな好奇心を持ってしまうのも、アラサーの魂を持っているがゆえの大胆さだろうか。
「ねぇ、お兄さん、なんて呼べばいい? あたしのことはリシアって呼んで」
そう言ってにじり寄ったリシアに、一瞬、男は言葉を失った。
頬に赤みがさしたのは、さっきの蒸留酒の酔いが回ったせいだろうか。
「……よろしく、リシア。俺は……そうだな、昔の仲間からはミックと呼ばれていた。君も、よかったらそう呼んでくれ」
「じゃあ、ミック。よろしくね!」
握手をしようと差し出した手を取って、ミックは恭しく彼女の手の甲にキスをした。
ここが酒場なのに、貴族の作法を守ろうとする彼にリシアの好感度は右肩上がり……いや、それどころかバロメーターを振り切って、これまで出会った男性の中で一番好みに思える。
その証拠に、さっきトマスに打たれた右の頬が火照りのせいで軽く疼いた。
* *
いつの間にか、穏やかな灯りの下にいた。
微かに痛む頭は、飲み過ぎて羽目を外したせいなのか……どこかにぶつけたりしていなければいいな、とリシアは思った。
明らかに記憶は飛んでいるのに、肌に感じるぬくもりはいやに生々しい。
そう……彼女は上半身裸の男の胸で、眠らされていたのだ。
「……えっ!?」
「起きたか」
あまりのことに身じろいだリシアに、その男……ミックは瞼をゆっくりと開けながら呟いた。
「こ、ここは……!?」
木製の天井には傾斜があり、大きな天窓からは夜空が見える。
穏やかな色味に落とされたランプがぶら下がっている。小さな箪笥と寝台しかない、簡素だが小ざっぱりとした空間を、夜空の星々とオレンジの光が照らし出していた。
「ああ、俺の部屋だ。君が酔っ払って倒れそうになったから連れてきた。酒場の三階だな」
たしかに、カウンターで女性客が倒れたら、それこそ商売の邪魔である。
そんな理由で、初対面の男の部屋にお持ち帰りされてしまうこと自体、貴族の娘として恥ずかしい。
それを気にして黙り込んでいると、彼は宥めるように呟いた。
「大丈夫だ、何もしていないから」
言われなくとも、その辺りの察しはついた。多少の乱れはあるが、服はきちんと着たままだ。
この時代の女性の服は複雑で、手出しをするハードルは高そうな気はする。コルセットで腰の細さを誇張し、スカートも人為的に裾を膨らませているから、着るのも脱がせるのもメイドの手がなければ難しい。
「俺は、レディーがいやがるような真似はしない」
誓うように重ねて言ってくる辺り、律儀さを感じさせる。
ミックは女性が嫌がることは、絶対しないような気がした。どこまでも、紳士的で優しい。なぜなのか、わからないけれども、知り合って間もないのに信頼してしまう自分がいる。
「ごめんなさいね、迷惑かけちゃって……」
「いや……俺も、少し酔ってしまってな。あいにくソファーがなくて、つい一緒に寝てしまった。男ばかりの環境が長くて、雑魚寝が当たり前だったから失礼した」
起き直った彼の裸体が、ばっちり視界に入る。
(えっ、こんなマッチョなの!?)
着衣のままだと均整が取れている体躯だとしか思わなかったが、その胸板を一見すれば騎士という身分に違わぬ筋肉がついているのがわかる。
実戦を経験してきた兵士しか持たない、彫刻のように美しく獰猛な肉体。健康的な小麦色の肌には所々に古傷があり、これまでの人生が過酷だったのを何より物語っていた。
「……これは……」
胸にある、一際大きな傷跡を指差した。
心臓の上にある古傷だ。ここを狙われたら、さすがに出血多量で死ぬ可能性がある。
「ああ、歩兵だった時のものだろう。相手も本気で殺しにかかってくる。何度も、その辺りは刺されたな」
あっさりとそんな体験を話す。おそらく、常人が予想さえできない壮絶な半生を歩んできたのだろう。
「……本当に、大変だったのね……」
「それが当たり前だったから……だが、この傷が癒えたからこそ、君と出会えたんだ」
ミックはリシアの手を取って、逞しい胸に引き寄せてくる。
二人きりの薄暗い部屋に、上半身裸で極上の肉体を持つ男。そして、彼から囁かれる甘い言葉……こんなドキドキするようなシチュエーションには、なかなか出くわさない。
それこそ、映画や小説の夢物語だ。少なくとも、モブ子にとっては……。
階下には、ヴァイオリン弾きが奏でる陽気な音楽に合わせて、男たちの拍子外れの歌声がここまで聞こえてくる。その音楽に合わせるように、彼の心臓の高鳴りが伝わってきた。
これほど好みの異性に抱かれるなんて、最初で最後。王都を離れて田舎に引きこもっても、修道院に行っても、彼女は孤独のうちに生を終えるはずだ。
(だったら、一回くらい思い出があってもいいじゃない!)
恋愛というよりは、奇妙な生存本能からそう思う。
「……ミック、あなたの好きにして……」
彼の逞しい首筋に手を回して、そう囁きかけた。
嫌なことはしないって、彼は約束してくれた。それは裏を返せば、こちらが望むならそうしたいという意味じゃないか。
だから、拒絶されないってわかっている。何度も死にかけた彼なら、命の尊さを知っているはず。
酔っ払ってやさぐれた女との出会いも、二人きりでこの部屋で過ごす時間も、この人生で二度と繰り返すことがない貴重なことだから。
「リシア……」
震える声で名を呼ばれ、唇に与えられるキスの感触に身も心も湧き立った。
口づけは、最初は優しかった。少しずつ激しさを増し、何度も角度を変え、唇も舌も余すところなく貪られる。
「……んっ」
さっき飲んだ酒の香りが漂い、酩酊が再び訪れる。
ドレスの胸の辺りをまさぐられると、敏感に肉体が反応した。
この時代の衣服には、現代のように胸をきっちりと覆うものがない。端にフリルをあしらった柔らかな肌着の上に、薄手の絹のドレスを着ているだけだ。
コルセットは胸の下を支えるに過ぎない。膨らみの部分は、とてつもなく無防備だ。
大きな胸の形をたしかめられるように触られるだけで、肉体が反応して先端の部分が硬くなってしまう。
「ふぅ……ん、ミック……っ」
嫌がる素振りも見せない令嬢に、彼の愛撫は大胆なものに変わった。
「いや、じゃないのか……?」
「……いや、よ」
「えっ!?」
「……してくれないと、イ・ヤ!」
酔っ払いの謎のおねだりに場が和んで、どちらからともなく二人はクスクスと笑い合った。
よくわからないけれど、澱んでいた気分がすっかり晴れていく気がした。酒の力もミックの魅力もすごい……リシアは、彼がドレスのスカートを乱すのを見ながら、そう思った。
「好き……あなたも、そうだといいんだけど」
出会ったばかりの男を相手に、こんなことを言っている自分がわからない。
でも、そう思った……本能的な部分で、彼と結ばれたくて堪らない。
「……もちろんだ、リシア。君以外のことなんて、もう見えない」
「ん……、あぁ……ん……っ」
パニエの膨らみを除け、ドロワーズをずり下げて、しっとりと濡れた部分に触れてくる。
それだけで、内側から蜜が溢れ出るのが恥ずかしかった。
「もう、こんなに濡らして……」
「……っ」
「どれだけの男を、惑わせてきたんだ……? この魅惑的な花で……」
彼がそう勘違いするのも当然だった。こんな酒場に出入りする女なら、そして、会ったばかりの男を誘うなら、よもや純潔な乙女だとは思うまい。
この期に及んで、色々説明しても仕方ない。リシアは何も答えずに、彼の愛撫に身を任せることにした。
「ふぁ……、あぁ……っ!」
舌先で百合の花のような造形を嘗められ、指と唇で愛されると蕩けそうになる。
こんなに丁寧に愛撫を施してくれるなんて嘘みたいだ。大概の男は自分の欲望を優先するはずで、女性のことを考えない奴が多かったから。
彼の触れるところから、熱が溢れてどうしようもなくなってくる。
「あ……ぁ、あ、ん……っ」
「いやに、きついな。もしかして、初めて……なのか?」
こんなに濡れていても、そうとわかるものなのか。
指先を潜り込ませた途端に尋ねられて、リシアはようやく首を縦に振った。
「そうか……そう、だったのか!」
うれしそうに、ミックは呟いた。
ただの行きずりの情事なのに、そんな些細なことがうれしいなんて愚かしい。だけど、そんな単純さと雄々しい見た目とのギャップがありすぎて、むしろ愛しさを感じてしまう。
「そうよ。だから、優しくしてくれないと怒るから!」
「当たり前だ! 君みたいなレディーが、俺を……俺なんかを受け入れてくれるんだから、大事にする! 一生かけて、大事にするって約束する!」
そんな口約束、聞いたところで仕方ない。
どんなにイケメンでも、初めての相手でも、これっきりだ。今後一切、会うことはないはず。
だからこそ、割り切って楽しみたい。最初で最後の体験なんだから、その気持ちは強かった。
でも、ミックは人生で唯一の相手としては最高だ。心にできた傷口に、優しく軟膏を塗ってもらっているような、何だかくすぐったくも温かい気分にしてくれる。
「うん、大事にして……」
その言葉に頷くと、彼は丹念に彼女の蜜口を刺激した。
舌先を深く挿れられ、花襞が内側から解けてしまうまでいじられる。指先が狭所に潜り込む時は少し圧迫感もあったけれど、初めてを奪われるという状況に変に興奮してしまう。
むしろ、処女のままで内壁をいじられる背徳的な快楽に、奥から蜜が溢れ出た。
「……痛くないか?」
「だ、大丈夫……」
「そうか、濡れているからな。もっと、慣らさないといけない……」
欲望を抑えて奉仕してくれているのが、痛いくらいによくわかった。
初めてなのに、こんなに感じるなんてまるで夢のよう。指先で肉体の内側までいじられ、官能を探られると、腰が砕けてしまいそうなほどに体が疼いてくる。
指を二本に増やされても、違和感は薄れてきた。知らぬ間に感じていた緊張が解れてきたのがわかる。
「ふ……ぅ、んっ……」
「少しは、緩んできたか……?」
気遣ってくれるのが、うれしかった。
包皮をめくられ、その下に隠れる小さな真珠をいじられた。愛でるようにグリグリと捏ねられると、甘い痺れが背を駆け抜ける。
蜜壺をじわりと探られる感覚とはまた別の、とてつもなく激しい悦楽が襲ってくる。
「ひゃ……んっ、あっ、ああ……っ!」
肉体の奥にマグマが溜まったような感覚があり、それが昇りつめて一気に爆ぜた。
この快感を知らないわけではない。ただ、処女のリシアが肉欲を貪る姿を見せるなんて、酔いがあってもやっぱり恥ずかしかった。
(……やだ……もっと、自分勝手な男なら、気楽だったのに……)
心の中のぼやきが聞こえたのか、頬を赤らめる彼女をミックは抱き寄せた。
「もう、いいか? 君の中に入りたくて、ずっと我慢してたんだ……」
その囁きに、ジンと腹の奥まった部分が甘く疼く。
リシアも同じ気持ちで、彼のことを欲しがっていた。
「……いいわ」
小さい声で答えると、ようやくミックは下肢で張り詰めたものを出した。
両足を持ち上げられ、胸につくほどに抱えられる。じっとりと露に濡れた花園は、初めての肉体には大きすぎる凶器も予想外に柔らかく迎え入れた。
「あっ、ああ……、んっ……っ」
時間をかけて、じっくりと愛撫を施された。
そのせいなのか、圧迫感はあったがほとんど痛みは感じずに済んだ。おかしいほどに気持ちが高ぶって、もっと密着したくて仕方がない。鈍い痛みと快楽がないまぜになった感覚に酔いそうになる。
熱くて逞しい分身は、リシアの内部に育まれて硬さと大きさが増してくる。奥を突かれ揺さぶられると、快楽と同じくらいの幸福感に包まれていく。
「あっ……あ、ぁ、ミック……っ!」
「……リシア、愛してる……!」
快楽の淵に堕ちる前に聞こえたのは、口先だけの愛の言葉。
一晩の相手にそんなことを囁くなんて、おかしすぎる……そう思ったけれど、その言葉は甘く彼女の心に響いた。
* *
謎の男と夢のような夜を過ごした翌日、リシアは田舎に戻ると父に伝えた。
ヴァリアス伯爵は婚約破棄された娘を憐れみ、朝帰りの理由も昨晩どこにいたかさえ聞かなかった。
「そうか……お前の好きにするといい。望むなら、他にいい花婿候補を探してやるから!」
父はそう言って、彼女の気持ちを尊重してくれた。
しかし、真面目だけが取り柄の伯爵が、そんな真似をできるわけがないと思う。そもそも、ラトランド大公家との縁談が、リシアにとっては唯一無二の縁談だったはず。
ウィスリー王国の貴族社会において、婚姻においては爵位や身分の序列が何より重視される。伯爵と同じか位が上だと、年齢が釣り合う未婚男性はそんなに多くはない。万が一、可能性があるとしても、大公との婚約破棄が皆の記憶から薄れるまでは無理だろう。
ひとまず花婿候補探しの件は丁重に断って、リシアは故郷に戻ることにした。二日酔いで何度も馬車を止めさせる羽目になったが、一刻も早く王都から離れたい気持ちが勝った。
ぼんやりと窓の外に流れる景色を眺めながら、昨晩のことを思い出す。トマスに婚約破棄された夜、初めて会った男の胸に抱かれて眠りに落ちたことを……。
しかし、酔いがさめて翌朝になってみると、自分がいる状況を客観視して青ざめた。
どんな相手でも、初対面の男に純潔を奪われるなど、レディーにあるまじき醜聞だ。非常識なことをしたと反省して、熟睡しているミックを置いて逃げるように帰ってきた。
(旅の恥はかき捨てって言うわ。さっさと忘れよう……)
一生に一度のことと思って、心の奥底にしまい込むことに決めた。
婚約者にフラれた胸の痛みと、夢のような初体験の記憶と共に――。
ヴァリアス伯爵領の本宅は、大きな門をくぐっても建物が見えないほどに広大な屋敷だ。
庭には色とりどりの美しい薔薇が咲いており、馬車に気づいた手入れ中の庭師たちが彼女に向かって深々とお辞儀をした。
車寄せには白髪に長い髭を垂らした執事と、メイドが数人待ち構えている。
「お帰りなさいませ、リシアお嬢様!」
事前練習でもしたかのような息が合った挨拶をされ、リシアは完全に面食らった。
恐らくは王都で起きた大事件を、みな知っているのだろう……使用人たちの態度がいやに優しく、時に憐れみさえも滲んでいるのを感じ取って、居たたまれない気分になる。
しかし、何を卑屈になることがあるだろう。婚約破棄されたのは事実だけど、別に罪を犯したわけではない。
知らない間に聖女によってトマスが魅惑され、一方的にリシアが傷つけられただけのこと。
そう思ったら、クサクサしていた気分が落ち着いてきた。
(……そうよ、私は何も悪くないわ! 修道院に行くまでの間は、のんびり過ごさせてもらわなきゃ)
家人はリシア一人だけなのに、無駄に屋敷は大きかった。当然ながら、与えられた居室も五つ星ホテルかと思うほどに優雅で快適そのものだ。
小花柄の壁紙に天鵞絨のカーテン、猫脚の優美な家具類。無論、現世では骨董品の部類に属するもので、下手をすると美術館に収蔵されているような代物だ。
こんな素晴らしい部屋を自由に使っていいと言われたら、どんよりしていた気分も晴れ渡る。
食事で案内されたダイニングルームは、それ以上の素晴らしさだ。見ているだけで心ときめく調度品の数々。前菜から食後のデザートに至るまで一品一品を運んでくれる贅沢なディナーまで、すべてがリシアの嗜好に合致して、とても洗練されている。
(ここで一生暮らすのもいいかなぁ……でも……)
夢見心地な気分に水を差すのは、聖女フィオナの存在である。
王都からさほど遠からず、二日もかければ辿り着くような場所にいるのは、安全とは言えない選択だった。
少なくとも、この領地内でも聖女を賛美する者たちがいる。これからリシアが己の悪名を返上しようとあがいても、フィオナの魅力に打ち勝てるとは思えない。
なぜなら、彼女は悪女であり聖女はヒロインなのだ。下手をすると『聖女様ファン』に命を狙われる可能性がある……そして、そうした狂信者はもしかしたらこの屋敷内にも潜り込むかもしれない。
(やっぱり、初志貫徹よね! 修道女にならなきゃ!)
死亡エンドを回避することを考えると、それ以外に方法は見当たらなかった。
しかし、いきなり若い令嬢が修道請願をするなんて無謀である。例え、修道院で十年暮らしていた経験があるとしても、トマスに婚約破棄されて傷ついているとしても、だ。
貴族の社会以上に、修道院は物事の順序や秩序を重んじる組織だ。この世界のヒエラルキーにおいては、各国の君主たちより聖職者たちのほうが上に属しており、厳格さについても段違いだ。
聖女フィオナは、修道院の上部組織である教皇庁が認めた異能者だ。先日、彼女とひと悶着起こしたばかりの身としては、計画を慎重に進める必要があると判断した。
(まずは、院長先生に手紙を出すことから始めよう)
そう気持ちを改めると、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
かつての学び舎に挨拶状をしたためるため、便箋を選んでいたところ、メイドのマリーがおずおずとした様子で部屋に入ってくる。
「お忙しいところ申し訳ございません、リシアお嬢様。下にお客様がお待ちでございます」
「あなた、何年ここに勤めているの? お客様の対応は、アーサーが全部するはずよ」
不機嫌そうに唇を尖らせると、マリーは肩を縮こまらせた。
ヴァリアス伯爵が不在なのに、屋敷内に訪問者を通すなんて不用心すぎる。家人が若い令嬢しかいない伯爵邸で何かあったら、いったい誰が責任を取るのだろう。
(そうよ、熱狂的な聖女様ファンが襲ってくるかもしれないのよ?)
非力な令嬢を守るにしては執事のアーサーは老齢だし、従者のエドワードは弱そうで頼りにならない。
リシアがいる間だけでも腕が立つ護衛を雇ってもらえるよう、後でアーサーに直談判しなくてはいけない。
「いえ……申し訳ございません。でも、お嬢様に御用がおありのようでして」
不機嫌を露わにする女主人に、マリーは慌てて言葉を続けた。
「誰?」
「それは……」
遣いを寄越した相手の名を聞くや否や、背筋が凍りついた。
精緻な彫刻が施された螺旋階段を降りていくと、扉が解放された大広間からアーサーと客人の話し声が聞こえてきた。
ヴァリアス伯爵家の執事は口数が少ない老人で、ここに来てから一週間が経つが笑い声はおろか無駄口を叩いているところすら見たことがない。それなのに、今は満面の笑顔を見せているではないか。
「これは、リシアお嬢様!」
アーサーが姿勢を正す背後に、いくつもの酒樽が並んでいるのが見えた。
この屋敷に酒を運んでくる客など、見たことも聞いたこともない。なぜなら、リシアが王都の酒場で暴れそうになったほど、この国の酒はやたらと薄くて不味いのだ。
しかし、どうしたことだろう……辺りに漂うのは、何とも芳しい香り。酒樽から漂う匂いに、危うく鼻をクンクンさせそうになった。
(だめよ! 伯爵令嬢がそんな真似したらダメ!!)
先日の酒場の件を反省するリシアに、敬礼してきたのは肌が浅黒く茶色の髪を持つ青年だ。
マリーが嘘をついていないという証拠に、彼のお仕着せは異国の鮮やかなブルーが使われ、金糸でその国の象徴となるマークが刺繍されている。
「リシアお嬢様、ご紹介いたします。こちらの方は、神聖カザル帝国外相のマザール卿でございます」
「初めまして、伯爵令嬢。この度は、急な非礼を心よりお詫びいたします」
「いえ……マザール卿、遠路はるばるようこそいらっしゃいました」
伯爵令嬢としての威厳を保つため、リシアはなるべく冷静沈着な素振りをした。
酒樽の中身が気になってソワソワしているのを、悟られてはならない……絶対に、だ!
「我が主は、最も国境に近いヴァリアス伯爵領との交易を望んでおります。不躾かとは思いますが、まずはお近づきの印として、我が国の特産物である葡萄酒をお持ちいたしました」
「葡萄酒……!」
それを聞いて、リシアは小さく慄いた。
内乱が激化する前は、領土を接するワニエ領主国とヴァリアス伯爵家は良好な関係を築いていた。ウィスリー王国で特産とされるチーズやビスケットを輸出し、相手方からは酒類を輸入していたと聞く。
過去の経緯を考えれば、かつてのワニエ領を統べる帝国皇帝が、伯爵家に接触してくるのはさほど不思議なことではないのだ。
「カザルは複数の領土の集合体でございます。各地で葡萄が収穫できますので、以前よりも多様な味わいを楽しんでいただけると思います。ぜひとも、お嬢様のほうから伯爵にこの味をお伝えいただければ……」
そう説明しながら、マザール卿はあらかじめ用意していたグラスに、樽から葡萄酒を注いだ。
「リシアお嬢様、カザルの葡萄酒は高級品でございます。この一杯をもし酒場で飲めば、わたくしのひと月分の稼ぎが一瞬でなくなるかと!」
「……あら、アーサー。あなた、伯爵家の報酬に文句がおありなの?」
「滅相もございません! 伯爵にはご内密に……」
浮かれる執事に釘を刺してから、優雅な手つきでマザール卿からグラスを受け取った。
ゆっくりと香りを楽しみ、さほど期待せずに一口飲んだ。
(うぁ……! なに、これ!?)
あまりの驚きに、もう一口飲んだ。そして、最終的に欲求に抗えずグラスの中身を飲み干した。
(恐ろしいわ……この世界で飲んだどの酒より、おいしい……!)
あまりのことに言葉を失ったリシアを見守るマザール卿は、説明を付け加えた。
「わが国が誇るのは、葡萄の品質だけではございません。国家事業として醸造技術も最先端のものを開発して、取り入れております。お嬢様のお気に召すといいのですが……」
「そうなの。醸造技術の差なのね!」
そう言われて、ようやく納得した。
この味わいは、前世で飲んだ高級ワインと同等だ。数年でも寝かせれば、一本数百万というヴィンテージワインに変化しそうな予感がする。
(そんな素晴らしいものを、三樽も持ってくるなんてすごい国だわ!)
感動のあまり、感想を述べる声が微かに震えてしまう。
「とてもおいしいですわ! 都にいるお父様にも送っておきますね」
「ありがとうございます、お嬢様! 我が主も、自慢の酒がお嬢様のお口に合うと知って、さぞかし満足すると思います!」
ホッとした様子の青年に、リシアは心底感謝していた。
王都にいるヴァリアス伯爵に一樽送るとしても、残りの二樽でしばらくは楽しめるはずだ。
(俗世にサヨナラするのは、これを飲み切った後でもいいわよね)
今後のスケジュールを組み直しながら、酒樽が使用人らの手によって厨房に運ばれていくのを満足そうに見守った。
小説では、神聖カザル帝国について語られるのはほんの一部分だ。
リシアがいた修道院のある教皇直轄領と、ワニエ領主国とトゥランド領主国の紛争地帯が近かったことで、その説明に一ページ費やしただけだった。
それは、神聖カザル帝国の皇帝についても同じである。紛争および十数にわたる領主国を統べた英雄にして、奴隷から成り上がった初代皇帝ミカエル一世――下剋上と冷酷な脇役が好みだったモブ子は、彼に『冷酷皇帝』と別名をつけた。
設定として思い入れはあったし、凝ったつもりだ。むしろ、薄情なラトランド大公よりもミカエルのほうがいい男じゃないかと思い直して、一瞬、フィオナを彼とくっつけようかと考えた時期もある。
しかし、実際に書き始めると、宮廷の色恋沙汰だけでページを割かれ、隣国のことまで描写をする余裕がなかった。いくら冷酷皇帝が好みでも隣国との外交や戦乱などの血生臭いサイドストーリーを描くのが億劫で、結局、時間切れになってしまった。
自分が考えた小説の設定は覚えていても、実際にこの世界に来てみると細かな部分はあれこれ違っていたり、予想以上に深い歴史があったりする。
しかも、悪女リシアの記憶は最悪だった。
修道院では生真面目だったのに、大公との婚約発表を機に王都で暮らし始めてからは人が変わった。異性の視線を集めることが一番の楽しみで、派手なドレスを着て毎晩のように舞踏会に繰り出すものだから、貴婦人たちのやっかみを買った。
敵意ばかりを受けている美女が、誰からも愛されるフィオナを憎む心理は、よく理解できる。
ただ、今後、本格的に修道女になるには院長先生の機嫌を取らねばならない。
かつて修道院で歴史を教えていた彼女の知的な嗜好を考えると、ウィスリー以外のカザルの歴史についても明るいほうが勉強熱心で、修道女としての資質があると思われるはず。
それゆえ、アーサーに頼んでカザルについての書物を入手して、暇な時間に読み解いた。母国語ではない言葉で書かれたものも多いが、修道院の頃にカザルの共通語は習得しているから何とかなった。
勉強すれば修道女への道が拓けるだけではなく、定期的に来訪するマザール卿との話題作りもできて一石二鳥だ。
(こんなに頑張るなんて、期末テストの前みたい)
葡萄酒でほろ酔い気分になりながら、楽しい学びの時間は過ぎていった。
さほど頻繁でもなく、間を空けるわけでもない。
そんな絶妙のタイミングで、マザール卿の訪問は続いた。
それとなくリシアの食の好みを聞き出しては、違う地方の酒や特産物を持参する。しかも、ウィスリー王国の上等品を凌駕するほどの品がもたらされるのはうれしい驚きだった。
その訪問の度に、リシアはマザール卿にカザルのことを質問した。帝国の歴史や文化に関する書物は読破したものの、そもそも最近統一されたばかりなので本としてまとめられていない部分が多いはずだ。
「リシアお嬢様には、我が主が感動しております……酒の種類ばかりではなく、我が国の歴史にまで造詣が深いなんて!」
瞳を輝かせるマザール卿に、リシアは微笑んだ。
美味しい酒を作る土壌と技術がある国に、興味が湧かないなんて酒好きとしてはありえない。
「あら、皇帝陛下が? わたくしのほうこそ感動していますわ。こんなに素晴らしいお土産を毎回いただけるなんて」
「良かったですね、お嬢様! もし王都に留まっていたら、こうしてマザール卿が頻繁にお越しになれなかったでしょうに」
伯爵家に長年仕えた執事の意見に、たしかにそうだと頷いた。
マザール卿は元々ワニエ領主国の騎士だったと聞く。ワニエはカザルの西側に位置しており、教皇直轄領やウィスリー、マライナの各王国と接する貿易の要衝だ。
冷酷皇帝の側近として、外交交渉や貿易ルート確保をするのが外相であるマザール卿の役割らしい。王都へ行く途中なのか他の国々に行くついでなのか、いつも大量の貨物と共にヴァリアス伯爵邸まで挨拶に来てくれる。
初対面では彼を警戒していたものの、今では彼の訪問時には彼と彼の部下たちに、食事やお茶をご馳走するのが慣例となっていた。
もちろん、若い令嬢の一人住まいである。不祥事を防ぐ目的で執事のアーサーが傍らに控え、王都にいる父の配慮で遣わされた護衛の騎士たちが広間の前にいる。
(聖女様ファンが紛れ込まない限り、ここも安泰だわね)
漂う紅茶の香りを楽しみ、白磁に青い花柄のティーカップを口元に運ぶ。
彼女の斜め前の席に坐したマザール卿は、彼女の気品溢れる仕種を見守りながら今回の訪問の用件を切り出す。
「もし、お気持ちがあれば……の話ですが」
執事がマリーと話しているのを確認してから、マザール卿はこう切り出した。
「我が主は、いま花嫁候補を探している最中でございます」
カザルについて詳しくなくとも、マザール卿の主が独り身なのは周知の事実である。
戦禍の中に恋人を置き去りにしただの、敵国の姫の求愛を無下に断っただの、冷酷皇帝と呼ばれるにふさわしい武勇伝はいくらでもある。
ゴシップが絶えない冷酷皇帝だけに、彼を取り巻く恋模様については興味津々だ。
「……花嫁候補、ですって?」
身を乗り出して聞き耳を立てるリシアに、彼は言葉を続けた。
「はい、我が国の皇后となられるお方です。もしもの話ですが、お嬢様が立候補していただけるなら、今なら当選確定かと」
「当選確実?」
「もちろんです! 陛下の腹心の部下であるわたくしが、お嬢様を全力で推薦いたしますので……これは、またとないチャンスでございますよ!」
まるでバーゲン品か選挙活動で聞いたようなフレーズだが、それなりに魅惑的な誘い文句ではある。
そもそもカザルは建国されて数年、領土が広く文化も雑多な未開の地だ。葡萄酒などの食文化を先に知って好意的な印象を持っているリシア以外の令嬢は、マザール卿の誘いに震え慄くことだろう。
冷酷皇帝が奴隷階級出身であること、そして、彼がカザル統一の戦いで残虐な殺戮を繰り広げたことも影響して、関係国の王族や高位の貴族は娘を差し出すのをためらっている。
しかし、そもそも戦争や戦乱で人を殺さない武将がこれまでいただろうか。元の世界で学ばされた世界史の教科書には、残虐非道な指導者たちが溢れていた気がする。
思案する様子の彼女に、マザール卿がさらにセールストークを付け加えてきた。
「それはすなわち、我が国の各地方の美酒が毎日飲み放題……ということでございます」
「のっ、飲み放題!?」
当選確実にはさほどそそられなかったけれど、毎日飲み放題はまるで夢のようだ。しかも、十分に試飲させてもらった後だと、理性よりも本能が先に反応していた。
「立候補いたしますわ、わたくし……」
「本当でございますか!?」
「なりますわ、神聖カザル帝国の皇后に!」
拳を握りしめて意気揚々と決意表明をするリシアに、マザール卿は感極まった様子で瞳を潤ませる。
「……お嬢様、ありがとうございます! これで、陛下に殺されなくてすみます!!」
忙しいだろうに、せっせと屋敷に通ってきていたマザール卿の意図がようやくわかった。
(さすが、冷酷皇帝……部下の命をかけての嫁探しだったのね)
そんな二人の会話に不穏なものを感じたのか、アーサーが止めに入った。
「なりません、お嬢様! こういうことは、まずは旦那様のご意向をお伺いしませんと!」
それもそうだが、こういうことは本人の合意があれば進みが早いに決まっている。
うかうかする間に、リシア以上の食道楽で酒好きの令嬢が現れたら大変だ。
「言っておくけど、飲み放題……あっ、いえ、結婚するのはこのわたくしよ! お父様にはきちんとお話するから、今は邪魔をしないでちょうだい!」
「ですが、お嬢様……お相手は……」
あんなに酒のお裾分けを喜んでいた彼がブルブル震えているのを見ると、思っていた以上に冷酷皇帝は恐れられているらしい。
(ふーん、おもしろいじゃない! どんな男なのか、この目でたしかめてくるわよ)
なんとなくワクワクしてくる。
『当選確実』に比べて、修道女になるまでの道程は平坦なものではない。院長先生からは手紙の返事がきて慰めの言葉を貰いはしたが、未婚の伯爵令嬢の修道請願は、前例がないため教皇庁の許可を取るのに手間取りそうだと聞く。
(結婚は想定外だけど、この国を離れられるからいいかも)
アーサーの動揺を他所に、リシアはほくそ笑んだ。
破滅エンドの回避を考えれば、冷酷皇帝と結婚するのは悪くない選択だ。皇帝が暮らしている帝都は、修道院がある教皇直轄領の遥か東側にある。そこは異文化と交錯する土地柄、異国の商人が多く治安が悪い。
さすがに、そんな遠方まで聖女は追ってこないだろう。
「わたくし、リシア・ヴァリタスは神聖カザル帝国皇帝ミカエル陛下と結婚いたしますわ」
再びためらいない口調で言い切った伯爵令嬢を目の当たりにして、老いた執事はどんよりとした気分で項垂れるのだった。
ラトランド大公に婚約破棄されたリシア・ヴァリアスが、神聖カザル帝国の冷酷皇帝に輿入れする――その衝撃的なニュースは、瞬く間に王都にまで届いていた。
すぐにヴァリアス伯爵が娘の決意を翻すべく屋敷に戻ったが、すべては徒労に終わった。
「未婚のまま修道女になるのと、隣国の英雄の妻として皇后になるのと……もし、お父様がわたくしの立場ならどちらを選びますか?」
それは、改めて考えるまでもない。
リシアは聖女フィオナをいじめた稀代の悪女として、民衆にも貴族たちにも忌み嫌われている。ここの領土内ではさほど耳に入ってこないものの、王都には二人のやり取りの『目撃者』がいる上、ゴシップ誌の記者の手によって面白おかしく歪められてしまっている。
ふつうに考えたら、リシアは崇めるほどの美貌の持ち主であり身分も申し分ない。求婚してくる男性がいてもおかしくないが、やはり状況が悪すぎる。
王族と破談になった悪女に、求婚する猛者は誰もいない。少なくとも、ヴァリアス伯爵が王都で探そうとしても、娘に釣り合う未婚男性は見当たらない予感がある。
……とは言え、伯爵令嬢が未婚で修道女になるなど前代未聞だ。
彼女のほうが乗り気な縁談であれば、父親の立場としても反対する理由はない。
しかも、相手は神聖カザル帝国の皇帝の地位を持つ男――特産の葡萄酒や食品類などを定期的にヴァリアス領に届けていると聞いて、領主としてありがたいと思っていた。
他国の王族から結婚を申し込まれて断ることは、ほぼ不可能である。本人が病気だったりすれば自国内で改めて花嫁候補を探したりもするが、今回はリシアが快諾しているから無理だろう。
自分の娘が冷酷皇帝の妻として幸せになれる未来などまったく想像できない。
しかし、こう答えるより他なかった。
「お前の望み通りになさい……ただ、浮かれるのは禁物だ。皇后の地位は重いものだぞ。皇帝の補佐として、執務をがんばるのだ」
「ありがとうございます、お父様!」
娘の華やいだ笑顔に、ヴァリアス伯爵の心労はほんの少し軽くなった。
(――つづきは本編で!)