作品情報

婚約破棄られ令嬢はビジネスオネェな騎士団長に溺愛されればいいのよっ!

「あたしは運命の男よ。あたし以外はあんたには釣り合わないわ」

あらすじ

「あたしは運命の男よ。あたし以外はあんたには釣り合わないわ」

 第一王子から婚約を破棄された侯爵家の令嬢エリーズは、自身の将来や王都への失望を胸に遠方の観光地を訪れる。そこで彼女に声をかけたのは、優しい眼差しとオネエ言葉の美丈夫、騎士団長アドルフォだった。
 明るく美しい彼と麗しの一夜を共にするエリーズ。だが彼を伴い家に帰るエリーズを待っていたのは、自分を捨てた王子の新しい婚約者との邂逅だった…。

作品情報

作:日野さつき
絵:まりきち
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み

「ほら、動いてみて……好きに、してみて」
 無理、とこたえたかった。
 そんなふしだらなことはできない――しかしエリーズの腰は蠢きはじめ、踊るように前後に動いていく。
 彼の灼熱を呑みこんだ淫肉は、さらにその熱を求めていた。腰をうねらせ屹立をねぶるようにしながら、止まらない淫戯に羞恥心がかき立てられていく。
「もっと部屋が明るかったら……エリーズのこと、よく見えたのにね」
 横たわった彼にまたがっての交合は、エリーズには刺激で満ち溢れたものだった。
 燭台ひとつの薄暗い部屋だが、それで十分なほど密着している。
 動くエリーズの眼下では、自身の乳房が卑猥に揺れ動いていた。見上げてくる彼の視線は獣欲に満ち、この蜜事を愉しんでいることを物語っている。
 やがて彼の両手がのびてきた。
 エリーズの両乳房を持ち上げるようにし、柔肉を味わっているかと思うと、今度は先端の赤い果実を指先で嬲りはじめる。
「あ……っ、まっ、……て」
「もっと胸の刺激がほしい?」
「ち、ちが……っ」
「こっちの締めつけは、そうはいってない……みたいだけど?」
 いうなり、それまでおとなしかった彼の腰が、下からエリーズを突き上げはじめた。
「あ――っ、ぅん……っん」
 みずから動くのをやめ、エリーズは彼に穿たれるままになっていた。自分から腰を動かしていたときと違う箇所をこすり上げられ、尾骨のあたりから快感が駆け上がっていく。
「う、うっ……ん、んっ! んぅ……っ」
「エリーズ、自分でも動いて」
 乳房への愛撫を続け、突き上げながら彼は笑う。ひどく淫靡な笑みだ。身体の芯に熱が増し、エリーズは蜜も情欲も強くこみ上げてくるのを感じた。
「もっとよくなって。よくなる場所を探して」
「……っ、う……んっ」
 突き上げる速度が緩み、エリーズは彼の胸に手をついた。
 屹立を自分の淫肉で愛撫するように、エリーズは腰を上下させる。
「は……っ、ぁ、あ……んっ」
 深くまで受け入れている灼熱は、エリーズがどれほど腰を振ってもたぎり続けていた。エリーズが溢れさせる蜜の音と吐息、そして切れ切れに漏れ出る甘い声に、彼の表情から余裕が消えはじめる。
「も、もう……っ、私……あぁ……っ」
「ずっとこうしていられたら、って……思ったことある?」
「い、いま……いまそう思ってる……っ、でも、でももう……もう……あ。あぁっ」
 彼を感じ、卑猥な時間を共有していたかった。
 エリーズの肌の敏感な部分を、彼はよく知っている。羞恥心から声をこらえ顔を伏せてしまうが、エリーズは彼にまたがり、快感を貪る時間に溺れそうになっていた。彼の屹立が雄々しくそそり立っているのは、エリーズに欲情し――彼もまた愉しんでいるからだ。
 快楽を共有できる時間を、エリーズは心から愛おしんでいた。
「い、いや……っ、まだ……まだ、もっとあなたと……っ」
「エリーズ……!」
 エリーズの名を呼んだ彼の突き上げが激しくなった。エリーズの腰をつかみ、思うままに抉り続ける。
「あっ、あぁ……っ!」
 そこが限界だった。
 腰の奥から身体全体へ、白い炎が瞬時に広がっていく。
 エリーズもまた彼の名を呼び、絶頂を迎えながらその胸にしなだれかかっていった。

「あら、楽しそう」
 声をかけられ、エリーズはとっさに口元をハンカチで覆った。
 慌てた態度に見えないよう注意する――人目を気にしていなかった。この街に知己はいないはずだったからだ。エリーズはすっかり一介の観光客として、気楽に過ごしていた。
「楽しそうでなによりだわ。フルーツは気に入って?」
「ええ、とてもおいしいです」
 返事をしながら振り返ったエリーズは、そこにいた相手の姿に戸惑っていた。
 聞こえてきた声は柔和な響きを持っており、余韻は生家の給仕長に似ていた。やわらかく、相手を身構えさせないもの。
 しかし声はとても低いものだった――まさしく目の前の男性が発していてもおかしくない、と思われるもの。
「あの」
 彼が話しかけてきた相手かどうか、自信がなくなってしまった。声の低い女性が話しかけてきた、と思っていたのだ。
「急に声をかけたりしてごめんなさいね」
 エリーズの思考が停止する。
 話しかけてきたのはこの男性で間違いないようだ。
 彼は整った顔立ちをしている上に、なにより目元の光が優しいことに目が引かれる。客引きや吹っかけてくる物売りたちのような、ぎらついたものはどこにも見当たらなかったため、エリーズはわずかにかたくしていた肩から力を抜いた。男性だろうが女性だろうが、好きなように話したらいい。
「フリアクでお見かけするとは思っていなくて。エリーズさんでしょう?」
「え、ええ」
 せっかく抜けた力がまた戻ってくる。
 ハンカチを口元に押し当て、どこかで挨拶だけでも交わしたことがあるだろうか、とエリーズは記憶の糸をたぐり寄せていく。
 彼はとても背が高く、頑丈そうな印象を持っていた。鍛練を欠かさない生活がうかがえる身体つきで、一瞬壁を前にしているような気分になった。しかし壁と違い、彼に威圧感はない。
「……失礼ですが、以前お会いしたことがありますか?」
「そういうのじゃないの」
 整った顔と微笑みを描いている口元。
 エリーズは黙って彼を見つめた。
 ざわ、と襟足が粟立つ感覚がする。
 ――見たことのある顔だ。
 浮かべているのが笑みだからすぐわからなかったが、確かに彼に見覚えがあった。
「以前騎士団の演習や式典に出席したとき、王都に滞在したことがあるんです。そのときに、一方的にこちらがお姿を拝見しておりました」
「では騎士団の……?」
 そう返事をしたエリーズは、まさか、と固唾を呑んでいた。全身が冷たい血液で満たされていく感覚がした。緊張にも警戒にも似ていて、エリーズの声はすこし低くなっている。
 悪戯っ子のような笑みを浮かべた彼は、大きな手でその口元を隠すと、くすくすと笑い出した。
 騎士団。式典。演習。
 記憶の湖を見渡していく。
 城に詰めるのは親衛隊だった。国内に鍛練場を持ち、そこにある寄宿舎で暮らしているのは王立騎士団だ。
「騎士団、長の……」
 なんの式典だったろうか、以前正装の騎士たちと短い時間対面したことがある。
 その先頭で彫像のような顔をしていた――あのときの彼だ。
「ええ、陛下より騎士団を任されております、アドルフォ・セブルロスと申します。どうぞよろしく」
 アドルフォ――ニカトリア王立騎士団の団長の名だ。
 先ほどまでの楽しい気分が急激に凍りつき消えていく。王立騎士団の鍛練場がフリアクに近いことを、エリーズはすっかり忘れていた。
 夕方の市は市場としては閑散としているものの、通りで足を止めるふたりに迷惑そうな視線を投げかけてくるひともいる。しかしアドルフォに気がつくと表情を変え、足早に立ち去っていった。
「やぁだ、そんな顔しないで! ここの……フリアクの果物、とってもおいしいでしょう? 料理はお口に合った? おいしい店を知ってるの、よかったらご馳走させてちょうだい」
「い、いえ、私は……」
「あなたみたいにきれいな子、ひとりで食べ歩きなんてしてたら男どもが次々声かけてきて厄介よ! あたしがついてたらそんな心配ないし、絶対に損はさせないから! ほら、こっち!」
 エリーズが断るなど、微塵も考えていない態度だった。さっさと彼は先に歩き出し、肩越しに振り返るとひらひらと手招いてくる。
「ちょっと、私はべつに……」
 そこまでいいかけたエリーズは、アドルフォではなく自分に周囲の視線が集まっていることに気がついた。その視線から逃れるように、慌てて彼の背を追いかける。
 厄介というならば、彼が声をかけてきたことが目下最大の厄介事だ。
 彼を見かけた式典後に、晩餐会が開かれたことがある。
 出席していたエリーズは、その席で彼の美丈夫さが女性たちの話題に上っていたことを思い出していた。
 強く美しい上に、彼は公爵家の嫡男なのだ。
 彼の浮いた話を誰か聞いたことはないか、と未婚の女性たちが熱心に話していたのである。
 だがそれも長く続かなかった。同席の男性があれはあまり態度がよくない男だ、と不快さを露わにし、雰囲気が悪くなったのだ。
 場を取り繕ってくれたのは、法官長を務める老齢の男性だった。噂話はときには毒になりますよ、と職務の厳しさに似つかわしくない優しい声で話してくれた。
 話題となった美丈夫の騎士団長に対して興味のなかったエリーズだが、それでもニカトリア王立騎士団の団長が変わりものだ、という噂は耳に届いている。
 彼は国内の鍛練場の寄宿舎に留まり、部下の育成に心血を注ぐ性分の男だと。王城を訪れることは滅多になく、自分の立場を政治的に利用しようという気配がないとも聞いていた。
 情報はあまりに少なく、断片すぎた。
 なによりそれが語られる声には、変わりものの騎士団長をおもしろがる響きがあった。エリーズは続きを聞く気になれなかった。むしろその会話の流れを切っていた覚えがある。
 エリーズにそれを話していたのは、ニカトリア国の王子だ。
 第一王子ベルナール・レオミュエル――エリーズの、元婚約者。
 一方的な婚約解消だったが、異を唱える資格もなく必要も感じなかった。
 将来への敷かれていた道筋が消えたエリーズは、その足で遠方の観光地であるフリアクにやってきている。王都を離れてゆっくりしたい、というエリーズの希望は、聞くものに様々な深読みをさせた結果、無事かなえられていた。
 まさかそこでベルナールのことを知る人物と顔を合わせる――声をかけられることになるとは、思ってもみなかった。
 ――アドルフォ・セブルロス。
 彼の態度がよくないというは、あの言葉遣いのことかもしれない。
 言葉遣いだけでなく、所作もまた女性的な優美なものだった。
 まかり間違っても彼は公爵家の人間だ。気軽に噂が立ち笑われるようなことがあってもいけないし、すべて芽は摘んだほうがいいだろう。それなのに堂々と振る舞っているのだから、公爵家があの所作をどう受け止めているかはさておき、彼自身はちょっとやそっとの噂や揶揄にくじけない性分なのかもしれない。
 先を歩くアドルフォは、軒を連ねる果実商などに気軽に声をかけながら進んでいっている。
 暗い気持ちになっていくエリーズと違い、前を進むアドルフォはやけに楽しそうだった。

 第一印象は大切だ。
 はじめて訪れたその街――フリアクの印象はよかった。
 フリアクは大河に沿って展開した街であり、その背には広大な平原を有している。
 一年を通して温暖な気候に守られた街を吹く風はやや乾いたものだ。吹かれていると気分がいい。
 甘みが強いが後味のさっぱりした果物が名産の土地だ。ほかにも大河を使い、あちらこちらの土地から様々な果物や物資が入ってきている。
 現在の季節は街を上げての豊穣祭が終わった後で、訪れる姿は商人が目立ち、観光目的の顔は少ないようだった。
 出自であるバスバストル侯爵家の身元は伏せ、一介の旅人として訪れてからの日々を、エリーズは心から楽しんでいたのだ。
 身元を知るものがいない――それがこれほど解放感のあるものだとは、これまで知らずにいた。
 ひとりで歩き回ることも、自分の身の回りを手ずから整えていくことも、エリーズには苦にならなかった。
 大河を見渡せる丘からの景色の美しさは、すぐに目に馴染み当たり前のものになっていた。
 だが食事や果物のおいしさは、いつもエリーズにとって新鮮な驚きをもたらしてくれた。
 フリアクに滞在して半月ほど、強い香辛料が使われた料理の数々に飽きる気配はなさそうだ。おなじ料理を頼んでも、店によって味が違う。とくに安価な大衆食堂や屋台では、日によって出てくる料理の味や材料が違うこともあった。
 どれもこれもエリーズには楽しい出来事だ。
 いずれこの土地を離れる日がくるだろうが、それまでは気軽な食事を楽しむことにしていた。
 食事を楽しむための長い散歩が、エリーズの日課になっている。しかしアドルフォに連れられて入った一帯は、エリーズがあまり近づいていない場所だった。このあたりはいつも静かで道は清潔だ。
 そこは高級店が軒を連ね、おそらくゆっくり会話を楽しみながら、という趣旨の店が多い。そういった店も楽しそうだが、いまは大衆食堂や屋台のにぎやかさがおもしろかった。
 そのうちの一軒にアドルフォは足を進めていく。
 店に入るなり空気に色がついたように感じた。すっきりとした香が焚かれているようだ。
「いらっしゃいませ」
 出迎えた店員の姿と内装が調和を見せており、整っているが一歩引いた色味だった。
 一瞥した店内は、壁で仕切られた個室がいくつも並んでいるものらしい。大声で話す騒がしい酔漢がおらず、遠くで話す不明瞭な声が聞こえるだけだ。
「ご無沙汰しちゃったわね」
「お待ちしておりました。二名さまでよろしいでしょうか?」
「ええ。静かに話したいの、いい?」
「かしこまりました、ご案内いたします」
 馴染みの店らしい。通されたのは、奥まった位置にある個室だった。
 周囲にほかの客は通されていないのか、かすかな話し声どころか気配すらしない。確かに静かに話すには最適そうだ。しかしこの男との食事に静けさが必要なのか、エリーズは判断しかねていた。
 注文した飲みものが運ばれ、向かい合ったアドルフォと乾杯をした。考えてばかりいてもしょうがない、とエリーズはひとまず運ばれた飲みものを楽しむことにする。
 飲みものはいくつかの果物を搾ったもので、よく冷えていておいしかった。暖かい気候の土地なのに、氷室の管理がいいのかどの店でも冷えた飲みものが供される。
「いい飲みっぷりじゃない、お酒は?」
「私はお酒は飲まないんです」
「合わなかったことでも?」
 そういってアドルフォが傾けたジョッキには、なみなみと酒が満たされていた。
「母方は強いんですが、父方が弱いんです。どちらに似たかわかりませんし、痛い目に遭いたくありませんから」
「痛い目に遭っても遭っても飲んじゃうひとがいるのがお酒だものね」
「団長さまはお強いんですか?」
 返事の代わりにアドルフォは吹き出し、それから笑い出した。
「団長さまだなんてやめて! アドルフォでいいわ」
「い、いえそんな」
「なんだったらアデラでもいいわよ、両親くらいしかそう呼ばないけど」
「あ、アデラ?」
 それは女児につける名だった。
「かわいいでしょ? 幼名よ――いまもあたしに似合ってたらいいんだけど」
 その名を幼名としてアドルフォに与えたなら、名付け親や肉親はずいぶんと思い切った名を決めたものだ。
 口角を上げたアドルフォは、店員を呼ぶといくつか料理を頼んだ。
「あとの料理は任せるわね」
「かしこまりました」
「ここの料理、なんでもおいしいから安心して」
 下がっていく店員が、深々とお辞儀をする。その表情は微笑んでいた。
「楽しみです。でもフリアクの料理で外れに当たったことは、まだ一度もないんです」
「それはよかったわ! このあたりっていまは観光客のこと全然考えてない時期だから、退屈してないか心配になって声をかけたのよ」
「そうなんですか?」
 気楽に過ごしていたが、エリーズの名も顔も知っている相手がいたのだ。
 ――王都で起きていることは、どのくらい彼の耳に入っているのだろう。
 城で通達された婚約破棄から、ひと月と少しが経っている。そこから流れた時間は、エリーズにはとても目まぐるしいものだ。騎士団に届けられる情報として考えたとき、第一王子の婚約破棄はどのくらいの重要度だろう。
「そんなにかたい顔しないで、平原のほうは見た? 野生馬の群れがいるから、運がよかったらなかなかいいものが見られるわよ。飼い慣らされてない馬って、つかみどころのない感じがするの」
「野生馬ですか」
「うちの調教師が、そこの馬をつかまえて調教してるのよ。城で厩舎を見たことはある?」
 城のことを思い出すと、のどになにか詰まったようになった。エリーズは軽く首を振り、飲みものでそれを嚥下する。
「自由に歩き回っていたわけではないので」
 城に出向いたときのエリーズは、次期王妃としてふさわしいか――そう審査する教育係たちと過ごす時間がほとんどだった。落ちてはならない試験だ。合格するのは当然のことで、特別喜ばしいことではなかった。
「城って広いじゃない? ちょっとした散歩くらいできそうだけど」
「アドルフォさまは散歩されていたのですか?」
「ううん、あんまり城にはいかないようにしてるから。いっても滞在時間は極力短く」
 料理が運ばれてきた。青野菜の前菜と、干し果物とチーズ。乾いている果物からは甘い香りが漂っている。
「お城での滞在時間を短くというのは……?」
「耳に入ってないかしら、あたしの家の話って」
 セブルロス公爵――すぐに思い当たるのは、アドルフォから見て祖父に当たる人物が、国賊の疑いを向けられたことだ。
 いまでは冤罪だったとされているが、一時期セブルロス公爵家は追放処分を受け、みな国外脱出していたと聞いている。
 エリーズにとっては遠い過去の出来事のように思えたが、アドルフォがまずそれを口にするなら、そんな生易しい扱いは失礼なものかもしれない。
「その顔なら、思い当たってるわね。だったら話がはやいわ」
 料理を彼が手ずから取り分けてくれた。
 チーズの臭気が独特で、口に入れたエリーズは眉を軽く寄せた。一瞬で鼻腔からのどまでチーズ臭で満たされる。アドルフォはまた笑い、鼻をつまんでチーズを自分の口に放りこんだ。
「においに慣れたら、最高においしいのよね」
 前菜に出されるもので、フリアクでは日常的に食べられるものだった。間違いなく美味だ。だがエリーズはいまでも一瞬臭いが気になってしまう。
「……で、あたしが城にのこのこ顔出すと、嫌味いってくるじーさんたちが多いのよ。全員ぶん殴っちゃうわけにいかないでしょ?」
「ひとりでも殴ったら、大変なことになりそう」
「大丈夫、あたしって結構我慢強いの――あたしの祖父は我慢しない質だったから、大事になったのよ。うちの教訓ね」
 むかついても殴らない――確かに大切だ。
 長椅子の背もたれに身体を預けながらも、アドルフォの手はテーブルの鈴を鳴らしている。ほどなく現れた店員に飲みものを追加で注文した。続いて焼き立ての肉料理や、蒸した野菜にチーズが添えられた料理が運ばれてくる。
 店員が出入りするなか、彼は野生馬のたくましさを話していた。自由闊達に見える平原での暮らしでは、生き残れるのは結局のところ強い個体だけだ。馬群はどうしても強固になっていく。
「馬って頭がいいから、人間との暮らしを理解したらいい相棒になるわ。いまは気性の荒い馬が厩舎にいて……黒馬なんだけど、惚れ惚れするくらいきれいなの」
「そんなに?」
「エリーズに見てもらいたいくらいだわ」
 草原をゆく野生馬の群れはきっと美しいだろう。アドルフォの口振りを信じることができたし、エリーズもいつかそれを目にしたいと思いはじめていた。
 どちらともなくテーブルに並んだ料理に手をつけはじめ、エリーズはこの気軽な食事に身構えなくなっていた。
 アドルフォは街であまり近寄らないほうがいい区画や、市でとくに新鮮な果物が手に入る店を教えてくれた。
 供される料理は丁寧さを感じるものが多く、彩りもよく目を楽しませてくれた。
 彼との食事はとても楽しいものだった。ここでなら酒気を試してもいいのではないかと思ってしまうほどだ。アドルフォは酒を楽しみ、料理を楽しんでいる。そこに同席できて、エリーズは嬉しくなっていた。
「あの……さっき、話がはやいっておっしゃってましたけど」
 楽しいからこそ、エリーズは確かめておきたくなっていた。
「……私のことで、耳に入っていることはありますか」
 アドルフォのことばかり聞き出していることを、エリーズはうっすらと後ろめたく感じていた。
「婚約のこと?」
「……ええ」
 耳に入っていたか。
 そのことに驚かなかった。隠し事をしなくていいのだ、とどこかほっとし、エリーズはグラスの表面についた水滴を指先でぬぐった。
「急なことだったので、正式発表はありましたが……周囲に迷惑をかける結果になっていて」
「急?」
「はい。ベルナールさまと面会になったと思ったら、そこで婚約破棄を申し渡されて」
 こんな話は、誰ともしていなかった。
 王都も生家も離れたせいか、楽しい食事のせいか、胸にしまってあったものが引き出されようとしていた。
「それでエリーズは文句いったの? ベルナール殿下に」
「いいえ、そんなことは」
「いいたいことなかったの?」
 アドルフォが心底驚いた、という顔をする。表情がよく変わり、見ていておもしろいくらいだ。
「とくには……」
「そうなの? 文句も出てこないような男だったんなら、べつにたいしたことじゃないわね」
 さらりといわれ、エリーズは笑った。
 生家にとっては一大事だった。
 エリーズにも一大事だ。きっとこの先、王都に集うような相手との縁談は見込めない。両親がそう嘆くのを聞いた。ただエリーズは縁談などどうでもよかった。周囲が揉め、悲しんだりするのがいやだった。
 ――遠方で暮らす騎士団長にすれば、たいしたことではないのだ。
 王都を遠く離れた現在のエリーズも、もうたいしたことではないと考えていいのだろうか。
「家同士でのいざこざは、勝手にやっててもらえばいいわ。エリーズがどうともいう気になれないなら、そのていどだもの」
 テーブルの向かいから、アドルフォが身を乗り出してくる。
「あいつの乗り換え先って、どんな? 見た?」
「ええ……一度お会いしました。ワトォリ男爵の」
 ――エリーズ、すまないが婚約をなかったことにしてほしい。
 呼び出された城で、そう口にした婚約者のとなりには、かわいらしい女性がいた。子細を聞く前から内容は察せられていた。ふたりは手を取り合っていたし、気遣わしげに目線を交わし寄り添っていた。よく婚約解消となる前からそんな態度でいられたものだ、といまではそう思う。
 ――僕はやっと、ひとを愛することを知ったんだ。
「ワトォリ男爵? けっこう城から離れてるのにねぇ。距離どころか、身分も正直そんなに親しくなるような格じゃないわ。知り合うきっかけなんてなさそうなのに。釣り合いが取れないと、後々本人が大変そうよね」
 王城を中央にすえたニカトリア国の国土は、細長いものだ。
 いうなら、エリーズのバスバストル家の領地は北端にあり、アドルフォのセブルロス家の領地は南端に近かったはずだ。ここフリアクはセブルロス家の領地に近い。そしてワトォリ男爵家の領地はさらに南、隣国に近かった。
「私が――バスバストル家の人間が王子と婚約していることを、よく思っていないひともいましたから。そのひとたちが引き合わせたようです。べつに隠すことじゃない、って王子がそう話してましたよ」
 ――彼女のことを理解すれば、どれだけすばらしい人物かエリーズにも理解できる。
 そう話していたベルナールは、心の底から信じているようだった。騒然としていた周囲の大臣たちの様子は、愛し合うふたりの目に入っていなかったらしい。
 そのときのエリーズは、婚約破棄以降の混乱のことを思っていた。尻拭いに駆り出されたくなかったのだ。
「まあ、ぼんくらそうな王子だったしさ、新しい子と仲良くやってくんじゃない?」
「ぼ、ぼんくらだなんて……」
「こまかいとこなんて知らないけど、いきなりどっかから連れてきた女とよろしくやってる時点で駄目よ。隠れて遊ぶならともかく、表舞台に引っ張り出す? それが暗殺者だったらおしまいじゃない? あたしたち騎士団や警護がどれだけがんばっても、本人に守られてる自覚がなかったらどうにもならないわ」
「守ってたんですか?」
 そんな事態になっているとは知らなかった。
「ううん、たとえ話よ」
 アドルフォは平然という。
「いつどこであっても、ぼんくらはぼんくら。そういうことよ。そのお相手だって、引き合わされてのこのこ出ていって居座るなんて、王族の結婚をわかってるのかしら」
 王族の結婚。
 その席にエリーズはすわっていたはずだったが、いまは気楽な食事の席に腰を落ち着けている。
「内乱なりを誰かが仕掛ける、いい機会になりかねないのよねぇ」
 にんまりと笑ったアドルフォの顔は、酒気のためかうっすらと赤くなり、ひどく艶めいていた。
 第一印象は大切だ。
 ――この男はどうだろう。
 アドルフォを前にして、エリーズはすでに警戒心を抱かなくなっている。彼と話をしているのは楽しかった。言葉遣いもやわらかい彼の声質によく合っていて、すでに耳に馴染んでいた。
 せめてこの半分でよかったから、ベルナールとの会話が楽しかったらよかったのに。
 そんな後悔が胸に広がっていく。
 エリーズと元婚約者はまったく気が合わなかった。政略結婚としては些末な問題だ。だが政略結婚だったのだ、成し遂げられて当然のものだった。
 もう少しだけでもベルナールとの時間を大切にしようとしていたら、違った結果になったかもしれない。
「ね、もっと食べられる? 鶏皮使った料理においしいのがあるんだけど」
「量はちょっと……でもおいしそう」
「じゃあ注文するわね。団員の子たち以外と食事するのひさしぶりなの、すごく楽しいわ」
 楽しいといって笑顔になってくれる――そのことに、エリーズは心の底から嬉しくなっていた。

        ●

「おはよう! よく眠れた?」
 起き出して間もなく、朝食も摂っていないうちにアドルフォは宿を訪ねてきた。着替えては済ませていたが、まだ若干寝惚けた感じがしている。昨夜宿まで送ってくれた顔を、また朝から見るとは思ってもみなかった。
「……アドルフォさん? あの……」
「こんないい男がほかにいると思う? エリーズ、予定はある?」
「い、いいえ」
「決まってないなら、馬を見にいかない? 野生馬! 黒馬! 大草原! ほかになにもないから、絶対馬のこと目に焼きつけることになるわ」
 誘いの言葉を口にしているが、アドルフォのなかではエリーズが一緒に出かけていくのは決定事項らしかった。
「朝食は?」
「まだで……」
「じゃあ途中でなにか買いましょう、ポーチで待ってるわね。宿の支配人にも話を通しておくから、エリーズはなにも心配しないで!」
 目の前でドアが閉められた。応対したドア先でひとり立ち尽くし、エリーズは目をこすった。
「う、馬?」
 見てみたい、と昨夜食事をしながら思ったのは確かだが、それをアドルフォに伝えていない。そのうち、いつか。翌日に即見物しようという考えではなかったのだから。
 目的地は騎士団の鍛練場と思っていいのだろうか。距離はどのくらいだろう。鍛練場のことは街でまったく耳に入らなかったのだから、近くではなさそうだ。
 とりあえず、と動きやすそうな、裾捌きの楽なスカートを選び、かかとの低いブーツを履いた。
 ポーチに出ずとも、アドルフォが楽しげに話す声が聞こえてくる。話し相手になっているのは、宿の従業員で、見た目にそぐわない速度で立ち働く老女の声である。
「お待たせしました」
「はやかったじゃない! 急かしちゃったかしら」
 思った通り、アドルフォのとなりで従業員の老女が頭を下げてきた。
「なにか軽いものをお持ちになりませんか? 団長さまもいかがでしょう、少々お待ちいただければ……」
「いいのよ、気にしないで! 途中でなにか適当に見繕うわ――さ、エリーズいきましょう」
 ポーチには年季の入った、これまでに目にしたことのないかたちの馬車が停まっていた。外観からしてひどく頑健で、威圧感を覚えるほどだ。
 アドルフォが手ずからそのドアを開くが、おもてに向かって開くものではなく、ドアは横に滑っていった。
「眺めがいいから楽しみにしてて!」
 エリーズに乗りこむよううながしてくる。
「アドルフォさま、その……目的地はどのくらい離れて」
「今日はあたしに任せてちょうだい」
「い、いえ、昨日もお世話になりましたし……公務はどうなさるんですか?」
 フリアクに入ってから、騎士団の話も耳に入っていなかった。アドルフォが団長とはいえ、好き勝手に遊んではいられないはずだ。
「気にしないでってば、馬を見にいきましょ!」
「お仕事の邪魔に……」
「邪魔どころか、エリーズがきてくれたらお休みできるわ! 来客があったら、ほっておけないもの。馬見物して、そのあとなにかおいしいもの食べましょ」
「いってらっしゃいませ」
 老女がまた頭を下げる。
 ――体のいいサボりの口実か。
 そうと知ったところで、気軽に出かけていけるものではない。しかしアドルフォの大きな手で背中を押されると、簡単にエリーズの足は前に動いていた。彼のにこにこ顔を見上げるが、手の力は弱まらないでいる。
「ねっ」
 エリーズは諦め、おとなしく馬車に乗りこんでいった。

 馬車に乗ったまま軽食の買いものができるのだと、はじめてエリーズは知った。
 馬車道にはいくつかそういった店があり、とくにおいしいとアドルフォが勧める店で軽食を買うことになった。
 油紙に包まれた揚げものを、野菜とかためのパンで挟んだものだ。つくりおきではなく、手に取ると熱かった。エリーズはかじりつくことに彼の目を気にしてしまったが、アドルフォは気にしていない。
 ちまちまとパンをかじっているうちに、馬車はフリアクを出ていた。
 街は外周を煉瓦の壁や木の柵で囲んでいる。
 防壁としては若干心許ない。侵入しようとできてしまう弱いものなのだが、街の内外の区切りを明確にしていた。フリアクは大河に向けては検問などがあり、行き来はかなり制限されているようだ。それに対し、平原にはかなり自由な印象になる。こちらは視野をさえぎるものがないため、物見台だけのほうが利便性が高そうだった。
 外へと走る馬車は、ガタガタと重くかたい音を響かせている。その割には揺れがなく、エリーズは満腹になると視線を窓やドアに向けていった。
「どうかした?」
 大きな馬車の席は大きな長椅子といってよかった。身体をのばしたアドルフォと並んでいても、十分な広さがある。
「こんなにドアの大きい馬車ははじめてなんです。こちらでも見かけたことがなかった気が……」
「ええ、有事には狙撃部隊が使うの――嬉しいことに、あたしが知る限り実戦に使われたことはないけど」
「狙撃部隊?」
 エリーズにすれば剣呑な言葉だ。思わずアドルフォの顔を見つめた。
「そういうときにはドアを開いて使うの。弓を扱える子を配備して、盾で守りながらそこから射るのよ」
「じゃあ、これは……戦闘用の」
「そうなるわね」
 エリーズはあらためてドアに目を向けた。
 横滑りして開いたドアは、そのまま固定できるのだろう。盾をどう扱うかわからないが、走る馬車から矢が放てるなら、有事には強みになるかもしれない。
「もしかして、なにかあったのですか? 騎士団で備えを進めているとか」
「そんなんじゃないのよ。街に出るときに使って、車輪とか部品なんかにガタがきてないかついでに調べてるの」
「アドルフォさまが街にいらしてたのは」
「たんなる息抜きよ。きてよかったわ、エリーズに会えたんですもの――有事の準備は常日頃からだけど、全部無駄に終わってくれないと困るでしょ」
「……乗り回していて、いいのでしょうか」
「いいの。鍛練場なんかがそばにあるなんて、フリアクのひとたちにしたら正直嬉しくないでしょ? 隠さないで、逆にこういうのを準備してるって見せてたほうが、街のひとも安心できるかと思って」
 良いことのようで、適当なことにも聞こえる。どうとも返事がしづらくて、エリーズは話題を変えることにした。
「宿の方ともお知り合いだったんですか? 今朝の」
「去年の冬にあのひとが重い咳しててね、たまたまそのときに話をしたことがあるの。働きものだし、おもしろいひとよ。咳が軽くなってよかったわ」
「それはなによりですね」
 ふと目を向けた窓の外には、広大な草原が広がっている。遠方には濃淡をまとった山脈がそびえているが、たどり着くにはどれだけの時間がかかるか予想もできない。
 なにもない、といってしまえばそこまでだ。
 しかし有事にはここが戦場になりかねない。エリーズはなかなか想像ができなかった。実際の戦闘も破壊も目にしたことがないのだ。
 眼前の光景は壊れ、戦場に隣接するフリアクの住人たちは様々な決断をしなくてはいけなくなるのだろう。
 ここに王立騎士団の鍛練場があるということが、なにかの牽制になっているのかもしれない――そこまで考えかけたとき、ひざに置いてあったエリーズの手をアドルフォがにぎってきた。
「エリーズ、考えなくていいわ」
 となりにすわったアドルフォの微笑みは、悠然としたものだ。
 ――それを目にしたものを、心底安心させるような。
「私は」
「すごく顔に出てたわよ。いまエリーズが考えたようなことは、全部あたしたちが備えてるの。無駄で終わるようにだけ祈ってやって」
 アドルフォの手が離れていく。彼の手はとても心地よかった。思わず追いかけてにぎりたくなって、エリーズはとっさに自分の手を頬に当てていた。
 いくら気さくな相手だからといって、それは度を超している。
 そんなことを束の間に考えていると、アドルフォが心配そうに目を細めた。
「エリーズ、今日ってちゃんと寝られた? 眠っててかまわないわよ、着いたら起こすから」
「……距離はどのくらいあるのですか?」
「とくに立ち寄るような場所もないし、まっすぐ向かうだけだから、そんなにはかからないわ。御者には馬群を見つけたら止めるようにいってあるけど、ここだと街から近いし、まだ見られないと思うのよね」
 アドルフォは軽く腰を上げると、手をのばして左右の窓のカーテンを閉じた。
 おもてからの光がさえぎられ、眠るのにほどよい暗さになっている。
 幼いころに熱を出し、昼からベッドで横になっていたときのことを思い出した。ちょうどおなじくらいの明るさで、あのときは熱で朦朧とし、うたた寝をくり返すうちに深い眠りに落ちていた。
 いまも眠れるだろうか。
 アドルフォは大きなあくびをし、エリーズも追従するようにあくびが出ていたのだった。

 たくさんの目がエリーズを見ていた。
 素知らぬ振りのできる状態ではなく、エリーズは微笑んでそちらに会釈をする。
 たったそれだけのことなのに、宿舎の窓や通路からエリーズに視線を注いでいた男たちは一様に沸き立った。エリーズに視線を注いでいるのは鍛練場の騎士団員たちだ。どの顔もまだ若く、遠目にも身体が大きい。
「あんたたち、行儀よくしてちょうだい!」
 アドルフォの一喝に、彼らは「はい」とも「おう」とも「えい」ともつかない声を発する。うわん、と反響し不思議な余韻が残った。
 それが耳に残っている間にも、エリーズはアドルフォに背中を押されている。
「お客さまを前に落ち着きをなくすなんて、うちの子たちもまだまだね。さ、エリーズ、こっちよ」
 騎士団が所有するその鍛練場は、平原のただなかに建っていた。
 見渡す景色のなか、たったひとつの建造物だ。
 馬車でエリーズが尋ねたときには、到着までたいしてかからない、とアドルフォは話していた。しかしいざ到着してみると、すでに陽が傾きかけている。
 フリアクを出るときに買ったものが、揚げものを使った重めの食べものでよかった。エリーズは空腹を覚えている。ずっと馬車の揺れは少ないと思っていたのに、地面に立ってみるとじわじわと小刻みな揺れが続いているように感じていた。
 到着したばかりなのに、エリーズは身体を休ませたくなっている。
 これから馬を見てフリアクに戻って――考えるだけでくたくたになりそうだ。
 頑丈そうな建物に案内され、騎士団員たちの視線から外れると急に気が楽になった。ほっと息をつくと、アドルフォが声を上げて笑う。
「びっくりした?」
「少し。私がお邪魔して、やっぱりご迷惑では……」
 足を踏み入れた建物は石造りだった。声や足音がよく響き、おもてより幾分か寒い。
「気にしないで。あたしがご招待したんですもの、いいのいいの」
「こういうことって、よくあることなんですか?」
「たまに隊商とか旅芸人が寄ってくれるんだけど、個人的な招待ははじめてね」
「そう、だったんですか」
 エリーズが驚いた声を出すと、アドルフォは歩速を緩めとなりに並んだ。
「なぁに? なにか気になる?」
「……頻繁にひとを呼んで、なんというか……臨時休業をしているのかと」
「まさかぁ、そこまであたしもズル休みしないわよ――その分、街でおいしいものを食べたりするけどね」
 エリーズに声をかけたときは、偶然ぶらりと息抜きに出かけたところだったのだ――そうアドルフォは続けた。
 歩く間にも、ひとの気配とも声ともつかないものが近づき、取り巻いたかと思うと消えていく。天井に隙間がつくられており、そこから音が流れてくるようだ。
 そちらに目を向けたエリーズに、アドルフォはうなずいた。
「目敏いわね」
「あの隙間、なんですか?」
 ただの隙間ではなく、天井――つまり二階の床に溝ができていることになる。
「万一ここで戦闘になったとき……とき、じゃないわね。戦闘の後に使うの」
 エリーズが首をかしげると、アドルフォは酷薄そうな笑みを口元に浮かべた。
「血糊の掃除って、大変なのよ。せっかくの石造りなんですもの、一気に水を流して掃除をするの」
「え……っ」
 エリーズはつい天井に目を向けていた。
 生命のやり取りがおこなわれるなら、場所など選ばないだろう。フリアクの道端でも、生家の庭でも、王城でも。それがどこであってもおかしくないのだ。
「まあ、あたしの知る限り、そういう使われ方をしたことは一回もないわね。大体、騎士団の建物ってみんなああいう天井になってるの。血糊の掃除はともかく、大掃除のときなんかに便利よ」
「……大掃除、ですか」
「掃除ってちまちまやってられないじゃない? 一気に水を流して、換気して乾かして、それでおしまい」
「本来の用途とその使い方には、大差はなさそうですね」
 廊下を進み、渡り廊下に出る。風がひどく湿っていた。エリーズは渡り廊下の屋根の先、そこに広がる空模様に驚かされる。
 遠方に控える山々の濃淡と、その遙か上空が一望できた。染み出したように現れた黒い雲が、両腕を広げて山々を覆い隠そうとしているように映る。
 こちらに影響が及ばないほど遠方だろうが、空や大地が暗雲に飲まれていくようで、一瞬恐ろしくなった。
 さらに足を踏み入れた次の建物は、これまでとおなじ石造りのものだった。こちらも天井に隙間があるが、壁に彫刻が施されている。彫りこまれた蔓薔薇の陰影が美しかった。
 建物の用途が変わるのだろう、明かり取りの窓も色硝子がはめられている。雰囲気がぐっと明るくなっていた。
 エリーズが天井の隙間を見上げていると、アドルフォが低く笑った。
「あたしが生きてる間は、できたら血の掃除なんてしないでおきたいわ」
「あの隙間がつくってあるのが、無駄に終わるように祈りましょうか」
「そうして。それだけじゃなくて、あたしたちが鍛練してるのも、全部無駄でいいのよ」
「いやになったりは……」
「性に合ってるっていうのかしら。うちの子たちもね、無駄死にどころか無駄に生きようって子ばかりよ。なんていうか、鍛練って生きるためにするものじゃない? 死ぬため殺すためじゃなくて……そう思ってやっていきたいの」
 ホールに出ると、アドルフォの足は中央にある階段を上っていく。彼の背に続き、エリーズは鼻先をかすめる湿ったにおいに気がついていた。
 馬のいる厩舎どころか、アドルフォの足は外に向かわなかった。案内についてあれこれ尋ねるのも失礼かもしれない。そう考え足を動かすエリーズは、二階の長い廊下を進んでいた。
 二階も一階同様に、屋内は整えられたものだ。明るい雰囲気であり、絨毯も壁紙もやわらかい色味のものが使われている。
 廊下の左右には等間隔にいくつかのドアがあり、アドルフォがそのひとつを開いた。
「ここよ、どうぞ」
 そこは二間続きの部屋だった。アドルフォが進んでいく。客間らしく、掃除の行き届いた部屋のベッドには覆いがされている。フリアクで長逗留している宿から荷物を移したら、そのままくつろげそうなものだ。
「エリーズ、こっちこっち」
 アドルフォはやけに大振りの長椅子を通り過ぎ、テラスにつながる両開きのガラスドアに手をかけている。
 開かれたガラスドアの先に踏み出したエリーズは、感嘆の声を漏らしていた。
「……きれい!」
「でしょう? いま白い花が咲いてるあたりあるでしょ、あの方向に、朝方馬の群れが姿を見せるの」
 見渡す限り赤く色づいた平原で、無数の草花が風に頭を揺らしている。
 馬車から眺めた景色も美しかったが、テラスから見下ろす平原はまたべつの美しさを持っていた。
 どこまでも広がり、果てがないようにさえ感じる。平原を取り囲む山々まではあまりに遠く、平原の上空は晴れている。
 いつまででも眺めていられそうだったが、不意に鐘の音が聞こえてきた。
 我に返ったエリーズがアドルフォを見ると、
「夕食の時間が近いって合図よ」
 エリーズはアドルフォにうなずきながら、空の様子に目を奪われていた。
 平原と遠い山々とで、空の色が見事に違っている。
 湿ったにおいは相変わらずで、もしかすると一雨降るかもしれない。
「テラスはほかの部屋ともつながってるから、気が向いたら散歩してみて。星空も見事なのよ」
「あの、フリアクには……」
「うちの子たちが使ってる建物はべつだから、気兼ねしないでいいわ。こっちは来客用の部屋とか、資料室があるだけだから」
 アドルフォと室内に戻る。ガラスドアを閉めると、彼は艶然と微笑んだ。
「エリーズはこの部屋使ってくれる? 用事があったときにひとりだとアレだから、あたしはとなりを使うわ」
「え、あの……部屋を使うって……」
「あら、降り出したわね」
 ガラスドアの向こうをのぞきこむようにし、アドルフォが声を上げた。おなじくとなりに立ってみると、遠方で雨が降り出している。だがあまりにも遠く、建物が濡れることはないのでは、と思ってしまうほどだ。
「馬を見るの、ちょっと難しいかもしれないわ」
 唸るアドルフォは、さも残念そうにしている。
「あの、それなんですが、馬を見るといっても……私はもう戻らないと……」
 眉をひそめていた顔が、くるりと裏返るよう表情が変わる。心底驚いたような顔になっていた。
「エリーズったらこの時間に戻るの? もしかして予定でも思い出した?」
「い、いえ、そういうわけでは……ただ、日帰りだとばかり思っていたので」
「宿の主人には話してあるんだし、遠慮しないでくつろいでいってよ。食事はこっちの一階にある食堂でいいかしら。あっちのほうが広いけど、団員と一緒だとやかましいかもしれないわ、みんなとは別々に食べましょ。うちの料理人、抜群に腕がいいのよ」
「私、なんの支度もしてきてなくて……」
「やぁだ、いくらなんでも、お客さまの用意くらいあるわよ!」
 先ほどよりも高い鐘の音が聞こえてきた。今度のものは連続で鳴らされ、ガラスドアがビリビリとふるえている。
「食堂にきて、って合図よ。あたしたちも腹ごしらえしましょうか」
 エリーズは逡巡したものの、アドルフォについて部屋を出た。
 朝から馬車で延々と揺られている。
 疲れていたし、空腹だし――またフリアクに戻る方法をエリーズは持っていない。断固として帰るとがんばったら、アドルフォは馬車を出してくれるだろうか。
 ――そこまでして、フリアクに戻りたいだろうか。
「先にここで待ってて」
 階下にある食堂の席にひとり着き、エリーズは窓の外に視線を投げかけた。
 室内の燭台の光を受け、エリーズ自身の姿が映りこんでいる。その先へと目を凝らす。敷地内の木立が揺れる様子から、風が強くなっているのがわかった。雨は依然遠くで降り続いているが、その距離が徐々に近づいているようだ。
「お待たせ!」
 アドルフォは若い料理人をともなって食堂に入ってきた。
 料理人はカートを押しており、用意された料理の芳香が漂っている。
「あたしもご一緒させてもらうわね」
 アドルフォと向かい合ったテーブルに、大皿の料理が配膳されていく。目が合ったときに料理人は微笑み、アドルフォは自慢げに腕がいいのだ、と紹介してくれた。
「ずっと順番で料理当番をまわしていたんだけど、この子の腕が抜群だから、専任になってもらったの」
「ありがとうございます、恐縮です!」
 笑顔でそういい、彼はせかせかと食堂を出ていった。肉の煮込み料理がメインだが、どの料理も冷めてもおいしいものだった。
 食事をしながら騎士団の話をあれこれと聞いた。楽しい時間は過ぎるのがはやく、食事の時間を終了させたのは急に強くなった雨足だ。
 それは窓ガラスを激しく叩くほどになっていたのだった。

        ●

 四日経っても、雨は止まなかった。
 広大な平原の上空に、厚い雨雲はまるで居座っているかのようだった。
 窓にへばりつくようにして空をにらむと、エリーズの背後でアドルフォが笑う。
「雨雲なんて見て、エリーズは物好きね」
「……私は馬を見にきたはずなんですよね」
「この雨じゃあね――ぼーっとしてれば?」
 部屋の長椅子でアドルフォは身体をのばし、気楽な笑みを浮かべている。
 来客であるエリーズのそばに、アドルフォはこれまでつき添うようにしてくれていた。この四日間ずっとだ。彼と過ごす時間は楽しいが、いい加減仕事に差し障りもあるだろう。エリーズは落ち着かない気分になっている。
 ――雨が止まないのは誰のせいでもない。
 この長雨のなか、馬を見たいという気分はどこかにいってしまっている。
「アドルフォさま、騎士団の馬車をお借りして、私がフリアクに戻るわけには……」
「うーん、ちょっと難しいのよねぇ」
 唸るアドルフォにエリーズがそう尋ねるのは、これがはじめてではなかった。
「四日も経ったら、そりゃ退屈するわよね」
 アドルフォの返答はいつも色よくないものだ。
 行きも帰りも、アドルフォはエリーズを馬車で送っていくつもりだったという。
 馬車は騎士団の所有物であり、使用するにはできるだけなにかしらの名目がほしいらしい。
 名目さえあれば、それはアドルフォの私用ではなくなる。
 今回エリーズを連れ帰っているが、フリアクの視察と建物の補修関係者への挨拶というのが使用理由だ。
 最近アドルフォがよく使う名目らしい。
 その名目は書類上に残される。
 エリーズが借りている着替えについても、なにかしら書類に残るのだろう。もしかすると滞在したことも記録に残る。そのあたりについて尋ねると、アドルフォには「うまいことやるわよ」とはぐらかされてしまっていた。
 うまくやるにしても、雨のなか泥道を走れば馬車の補修の手間が変わる。そこの理由を考えるのが面倒らしかった。
「みなさんの仕事もあるのに、私がいつまでもいたら」
「かまわないわ。あたしがいないからって立ちゆかなくなるなら、それこそ団の運営が間違ってるってことじゃない?」
 アドルフォは長椅子の座面を何度か軽く叩いた。
 ここにおいで、という誘いだ。
 長椅子は大きいものだが、身をのばした彼の横にエリーズが腰を下ろせば、それで手一杯になる。知り合ったばかりの男女が、気軽に身を置いていい距離ではなかった。だがこの四日間という時間で、エリーズはなんら気負うことなくそこに腰を下ろせるようになっていた。
 アドルフォの身体に寄り添う格好になったが、気にせずエリーズは身体の力を抜いていく。寄りかかってしまっても、おそらくアドルフォはいやな顔ひとつしないだろう。
 エリーズは彼のそばにいることを気に入り、気に入っている自分にひどく驚いていた。
「アドルフォさま、こういう長雨ってよくあるんですか?」
「そうねぇ、この時期は結構多いわね――このあたりからとなりの国にかけて、そろそろ雨季に入るし」
「……雨季?」
「となりの国ほど雨が降るわけじゃないけど、影響は受ける感じで……」
「もしかして……雨になるってわかってました……?」
 アドルフォの顔に自分の顔を近づけ、エリーズは目を見開いた。彼は目を逸らしたが、半身を起こすとエリーズの背をぱんぱんと叩く。ここにすわらない? というのとおなじ強さだ。
「着いた途端に降るなんて思ってなかったわよ、さすがに。でも滞在中のどこかで雨雲は近づいてくるかなー、とは思ってたわ」
 その雨はいまも降り、窓の外は昼だというのに薄暗い。
「わかっていたならどうして……こんな立ち往生してたら、迷惑だってかけてしまいます」
 ため息を落としたエリーズに、アドルフォは真剣な顔つきになった。
「あたしが迷惑がってると思う?」
「これのどこが迷惑じゃないっていうの?」
 ぽろ、とつい地金に近い言葉遣いが出て、エリーズは口元を手で覆った。滞在がのび、アドルフォと過ごす時間が長くなるにつれ、どうしても言葉遣いが崩れはじめている。
「いいじゃない、お行儀良くしてなくても」
 また笑ってくれたらよかったのに、アドルフォは真剣な目で囁いてきた。
「……でも」
「あたしはエリーズともっと仲良くなりたいわ。腹を割っていられるような」
 アドルフォとそうなれたらいいのに――エリーズは思い切って彼の胸に体重をかけてみた。
「もっと乗っかっていいわよ」
 彼の言葉遣いはずっと女性的なものだ。そうしている理由はわからないし、尋ねていいものか判断ができない。
「訊いても……?」
「なぁに? 法にふれないことならいいわよ」
「……こんなふうに、誰かを簡単にふところに入れるの?」
 アドルフォとの距離が近い。
 女性的な言葉を選んで使うなら、もしかしたら彼は男性に興味があるのかもしれない。そのあたりを尋ねていいかもわからないし、それを知りたいと思っている自分にもエリーズは驚いている。
 ――一番知りたいことは、彼にとって自分がどう見えているかだった。
 婚約破棄され、ふらふらとひとり旅をしている姿は、どんなふうに受け止められているのだろう。
「エリーズがはじめてっていったら、信じてくれる?」
 探る響きがあり、エリーズはうつむいた。
「そういえば私、アドルフォさまが既婚者かどうかも知らないでいますね。こんなに近くにすわって、奥さまがいらしたら怒られてしまいそう」
 口から出た声には、アドルフォのものとおなじく探るような響きがあった。
 目を上げると、アドルフォが笑い出した。エリーズも笑い、彼の手に肩を抱き寄せられても抵抗をしないでいた。
「あたし、未婚よ」
 抵抗をするどころか、アドルフォの胸に包まれて嬉しくなっている。
「こんな感じだからかしら、まわりも縁談を持ちこまないの」
「アドルフォさまはその、女性には」
「いま、とってもドキドキしてるわ。エリーズったら無防備ね」
 無防備なのは確かだった。
 知己というわけでもないのに、流されるまま鍛練場まで着いてきてしまった。雨だからといって滞在して――こんなにも近くにいる。
「せめてふたりきりのときくらい、あたしのこと名前で呼んで。他人行儀なのはいやなの……エリーズとは、とくに」
 雨の音が遠くなっていた。
 かわりに自分の心臓の音がやけに大きく聞こえている。
「アドルフォ、どうして私に……声をかけたんですか?」
「声? ああ、フリアクで? それと、他人行儀はやめてってば」
「そう。私のこと……知ってたでしょう? その――婚約破棄のことも」
 アドルフォの指先が、エリーズの頬をなぞった。彼の浮かべた微笑みは優しい。エリーズはその微笑みを好きになっていた。
「前に城で見かけたとき、ベルナール殿下と一緒だったわ」
 エリーズは瞬いた。
 ほとんど思い出すことのない、元婚約者だ。
「エリーズ、すっごくつまらなそうだったの。見た目の悪くない王子と婚約してて、これから王妃になろうって子が、全然楽しくなさそうにしてた。ちょっとくらいはしゃいでたっていいのにね。書状の奏上する文官みたいな顔して、王子とお茶飲むのも仕事だからだって感じで」
「……私、そんなだった?」
 意外ではなかった。
 エリーズのなかには、婚約者だったベルナールといて楽しかった思い出がない。
 ベルナールは美しい顔をした、類い希なる美声の持ち主だった。
 夜会で披露していた詩吟では、いつも招かれた令嬢たちをうっとりさせていた。それを楽しみにしてやってくる令嬢は多いようだったし、ベルナールにもその自覚はあっただろう。
 ――エリーズがそこに興味を持てたらよかったのだが。
「少なくとも、あたしにはそんなふうに見えたの。だからフリアクで見かけて――ひとりで楽しそうにしてるもんだから、声をかけずにいられなくなったのよ」
 ちいさいころから、家の決めた誰かに嫁ぐのだと思っていた。それは決められたことだったからだ。
 第一王子であるベルナールとの婚約が決まったのは、エリーズが十四歳だった四年ほど前のことだ。
 未来の王妃と目され、周囲の扱いが変わり――それらのすべてが、エリーズには居心地の悪いものだった。
 目前にあるアドルフォの目がかすかに揺れている。
 まだ親交を持って日の浅いアドルフォとは、一緒にいるだけで楽しく、気持ちが落ち着いた。近くにいることが嬉しい相手などはじめてだ――とくに異性では。
「どうせなら、お城でも声をかけてくれたらよかったのに」
 アドルフォの手のひらが頬を包んでくる。
「さすがに城内では無理よ。なにより殿下の婚約者でしょう? 気軽に近寄ったら、うちのじーさんの件もあるし……なにか企んでるって騒ぐ奴が出そうだもの。それでもね――すごくエリーズから目を離せなくなってたのよ。気丈に振る舞ってるエリーズのこと、ほんとはずっと見てたかった」
 気丈だったと思ったなら、無理をしながら過ごしているように見えたのだろう。
「でもフリアクで楽しそうにしてるエリーズのほうは、見ていたいとかそういうのじゃなかったわ。考えるより先に、声をかけてたもの」
「……ひとりで、果物を買い食いしてるところだったのに?」
「そうよ! 嬉しそうに頬張って、見ただけで楽しくなったもの!」
 ふたりで笑っていると、アドルフォの腕が抱きしめてきた。やんわりとしたものだが、エリーズはかまわず身体を預けていく。そのことに迷いがなくなっていた。
「ほかになにか訊きたいことある? いまならなんでもこたえちゃいそう」
 なんでも――エリーズは自分の鼓動の音がさらに大きくなるのを聞いていた。
「アドルフォは……くちづけってしたことある?」
 驚いたのか、アドルフォの目がわずかに見開かれ、重い光が宿っていった。その光に獰猛さを感じたが、エリーズは彼の腕から逃れようとしなかった。
 呼吸をひとつする間もあらば、アドルフォの顔が近づいてくる。
 アドルフォのくちびるが重ねられ、ふれたやわらかい感触のせいか、背中にぞくぞくとしたものが広がっていった。
 強弱をつけてくちびるを押しつけられるうちに、エリーズはアドルフォの襟をつかんでいた。
 くちびるは離れていったが、アドルフォの腕に抱きすくめられた。
「あ……っ」
 身体がすべて心臓になってしまった。それは熱く打ち、巡っていく血液はエリーズの指に力をこめさせた――彼から離れたくない。
「エリーズ、もっと相手のことが欲しくなるキスってわかる?」
「し、しらな……」
 ひたいにアドルフォの息が当たる。
 かろうじてこたえたエリーズのくちびるを、ふたたびアドルフォはふさいできた。
 くちびるが重なっただけでなく、ぬるりとしたものが蠢いている。エリーズのくちびるをなぞり、強引さを持った動きで内側に入ってきた。
 ――舌。
 エリーズはきつく目を閉じ、襟を強くにぎっていた指から力を抜いた。アドルフォにすべて委ねたくなっている。それでもまだ肩は強張り、エリーズは自分がひどく緊張しているのだと悟っていた。
「……ん……」
 断続的に湿った音が聞こえてくる。音と与えられる刺激はつながっていた。片手で抱きかかえられ、もう一方の手のひらがエリーズのあごを支えてくる。
 アドルフォの舌は口内を思うままにまさぐっていった。上顎も舌の裏も、すべてを探っていく。濡れた音を聞き、エリーズは自分が彼の舌に快感を覚えていることに驚いていた。胸や下腹部にひどい疼きが生じている。
「う……っん……」
 口内が愛撫され、呼吸もままならなくなっていき、エリーズの身体から力が抜けていった。ぴちゃぴちゃと唾液の交じり合う音を聞き、舌を吸い上げられ、もっとこうしていたいと願うようになっている。
 やめてと抗うべきかもしれなかった。知り合ったばかりのアドルフォとこうしている時間を、エリーズはいまでは楽しんでいる。ほかの男性だったらどうだっただろう――エリーズからも舌を絡めるように動かすと、アドルフォは愛撫を緩やかなものにした。くちびるのはしから唾液がこぼれ落ちていく。
「ん、く……っ」
 時々見かける、若い団員たちの顔が頭をよぎった。精悍な顔立ちの誰であっても、こうやってくちづけたいと思えない。
 背中を支えてくれていた彼の手から力が抜けていく。このくちづけが終わるのだと理解した。アドルフォのくちびるが離れるのが寂しくてたまらなかったが、彼の腕はエリーズを抱きしめた。これまでで一番強い疼きがエリーズの身体を貫いていく。
「アドルフォ……っ」
 ただ彼の名を呼んだだけなのに、媚びるような声になっている。
 アドルフォがのどの奥を鳴らすような短い笑い声を漏らし、エリーズのくちびるのはしを舌でなぞった。
 彼の頬にみずから頬ずりしていき、エリーズは思い切って身体に腕をまわしていく。アドルフォの身体は大きく、包まれて眠ったら心地よさそうだった。
「エリーズ……あたしはあなたのこと、すごく欲しくなってる」
 ――相手を欲しくなる。
 はじめてくちづけをしたエリーズでも、疼きを覚えている部分のことはわかる。すべて性感帯だった。彼とのくちづけで、エリーズの身体は火を点けられた。足の間にも疼く部分がある。そこは男性を――欲情した男性器を受け入れる部分だ。
 ――アドルフォが、ほしい。
「私……」
 自分がどう思っているか言葉で伝えなくとも、上擦った声とふるえた吐息だけで十分だったようだ。
 アドルフォは花開くような笑みを浮かべ、エリーズを引き寄せてきた。身体を密着させ、エリーズは彼と長椅子に身体を横たえた。
「エリーズ……城であなたを見たときから、ずっとこうしたかったっていったら……信じる?」
「……ほんとに?」
 まさかそんな、という気持ちで、エリーズは高い声を出していた。
 笑い声を聞きながら、エリーズは彼に抱きすくめられる。ああ、と胸の奥から声が漏れ出た。
 うっとりするほど心地いい。
「エリーズの身体、こんなに細いのね」
「そ、そうかしら? こうやって抱きしめられるなんて、母さまと父さま以来だわ」
 エリーズは短く笑う。
 父はともかく、母に抱きしめられたのは最近だった。
 ベルナールとの婚約が破棄となったエリーズを、母はひどく憐れんでいた。
 エリーズにはこれ以上ないケチがついたのだ。
 この先良縁はあるだろうか。いまのところは色恋沙汰がどうこうというより、エリーズに――バスバストル家に対する好奇心の目が強いだろう。
 王子に捨てられた令嬢は、これからどうするのか。
 破談の際、多額の賠償金をいただいている。生家の資産からして、エリーズは生涯なにもしなくても生きていけるだろう――それを指し、生きているといっていいのかわからないが。
「抱きしめられて、どうかしら」
「気持ち……いいわ。とっても」
「……こんなのでいいなら、いくらでも」
 アドルフォの身体は大きい。エリーズをすっぽりと包みこみ、とろけるような温度を与えてくれる。
 いっそ眠ってしまいそうな心地よさがあるのに、いまだエリーズの身体は疼いていた。
「アドルフォ、私……」
 自分自身がなにをいおうとしているかわかっていないまま、エリーズの口は動き出していた。
 しかしそこから先をいう前に、おもてから鐘の音が聞こえてきた――夕食のしらせだ。
 アドルフォの腕から力が抜ける。
「……ちょっと、顔を出してくるわね」

        ●

 アドルフォに「どう?」と問われたので、エリーズは「ええ」とこたえていた。
 その短いやり取りで、エリーズが団員たちと夕食をともにすることが決まった。
 ちょうど彼とふたりきりで食事を摂ることに、少し及び腰になっていたところだった。
 後悔はしていないが、エリーズは自分の行動に戸惑っている。
 ――アドルフォとくちづけをした。
「みんなエリーズに挨拶をしたがってたの。今日は夕食を一緒に、って話したら喜んでたわ」
 滞在四日にして、エリーズは騎士団員たちと夕食を摂るべく、彼らの集まっている食堂に足を向けた。
 アドルフォの先導で食堂に入ると、総勢三十名ほどの団員たちに出迎えられた。テーブルで直立した彼らの姿は物々しかったが、その顔はどれも若く、エリーズを歓迎しているのがわかった。
「夕食はエリーズ嬢がご一緒するわ。あんまり羽目を外さないでね――着席!」
 はじめて対峙したときとおなじく、彼らは「はい」とも「おう」とも「えい」ともつかない声を返事としていた。
 何本ものテーブルが並べられた食堂は広く、城での晩餐会を思い出させる。
「みんな! 手を貸して!」
 厨房から大皿が持ち出されると、席に着いた彼らの半数以上が立ち上がり、配膳を手伝いはじめた。肉料理と、前菜と、スープと、と順序はかまわず並べられていく。広さのあるテーブルが、あっという間に料理や食器で埋め尽くされた。
 持ち出されたのは料理だけではなく、酒樽まで現れてエリーズは目を瞠る。
「息抜きの赤い水なの。目をつぶってやってね」
 となりの席でアドルフォが囁くと、ワインがなみなみと注がれているグラスを両手にした団員がやってきた。
「団長、エリーズさん、失礼します! 今日はご一緒できて嬉しいです!」
 そういって赤毛の彼は、アドルフォとエリーズそれぞれの前にグラスを置いた。
「ありがとうございます、私も嬉しいです。ただ、せっかくなのですが私はお酒は飲めなくて」
「そうなんですか? 失礼しました!」
 彼はそんなことがあるのか、といわんばかりの、驚いた顔をしている。
「いいわよ、置いておいて。あたしが飲むから」
「はい、失礼しました!」
 彼は一礼すると、きびすを返して自分の席に戻っていく。
「エリーズ、あの子は東方部隊の隊長なのよ。機転の利く子で頼りにしてるの」
「東方?」
「ええ。国の東西南北で部隊を分けてるのよ。あの子は東の出身だから、東方部隊――エリーズ、グラスを持つだけ持ってくれる?」
 グラスを手にアドルフォが立ち上がると、団員たちもそれにならいはじめた。アドルフォの目配せにエリーズもおなじく席を立つ。
 アドルフォがグラスを掲げると、食堂から音が消え水を打ったようになる。
「天の慈しみと祝福に感謝いたします、我々の精神と肉体を支えてくださり感謝いたします――乾杯!」
 アドルフォの朗々とした声に、「はい」とも「おう」とも「えい」ともつかない無数の声が続いた。
 着席した団員たちが、一斉に食事に取りかかる。
 膨大な量の料理が吸いこまれるように消えていく。うまい、もっと、それ取って、うまい、うまい。楽しげな声と食器を扱う音に混じり、エリーズも食事をはじめた。
 となりの席のアドルフォも健啖家だ。どこを向いても旺盛な食欲を露わにしているのに、誰もが食事の摂り方が美しかった。
 気分のいい夕餉の席であり、エリーズは食事を楽しむことができた。
 どこからともなく現れた団員が、ボウルを抱えている。
「エリーズさん、おかわりはいかがですか?」
「いえ、十分いただいています。ありがとうございます」
「エリーズはあたしたちと違って小食なのよ。気遣いありがとね」
 最初に皿に取り分けた料理をいまだにつついているのは、集まった顔のなかエリーズだけのようだった。どの大皿も空になっていて、団員たちがどこからか持ってきた乾物を空けている。
 どこからともなく現れた団員が、抱えた大振りの麻袋をエリーズにしめす。
「エリーズさん、ナッツをお持ちしました!」
「い、いえ、食事をいただいていますので」
「エリーズはまだ食べ終わってないわ、欲しくなったら取りにいくから大丈夫よ。気遣いありがとね」
 そういってくれたアドルフォの空になった皿に、団員はナッツを山のように盛って立ち去っていった。
 食後に食べるには重いのでは、と食堂で視線を巡らせると、新しい酒樽が持ちこまれている。
 どこからともなく現れた団員が、歓声とともに開けられる新しい樽を指差す。
「エリーズさん、新しく開けるワイン、香りがいいって評判のやつなんです。味見しませんか?」
「い、いえ……乾杯したときの分だけで」
「エリーズはあんたたちみたいに、いくらでも飲めるわけじゃないのよ。気遣いありがとね」
 ワインを飲むことにはなんら咎めがないようで、団員たちの夕食はただの酒宴になってきている。食事を終えたエリーズは、自分と同年代かそれより少し年上の彼らが、陽気に飲み歌い出すのを眺めていた。
 どこからともなく現れた団員が、赤い顔を充血した目元をこする。
「エリーズさん、王室づきになるには、詩吟が得意じゃないといけないってほんとうですか? 王も王子も、王妃たちも詩吟がお好きだと。よかったら俺たちエリーズさんに歌います!」
「詩吟が条件というのは聞いたことはないですが……そんな噂があるんですか? 私には歌は……」
「エリーズは詩吟の先生じゃないんだから、そんなの知らないでしょうよ。歌わないで大丈夫よ、気遣いありがとね」
 アドルフォが断ったものの、それは間に合わなかった。周囲にいた団員が歌い出し、それ以外なにも聞こえなくなる。
 見ればアドルフォは苦笑いをしていた。まだ酔っていない団員が、歌い出した酔漢を引きずって部屋のすみに連れていく。
 披露されているそれは、詩吟どころか子供向けの牧歌だ。
 いっそ一緒に歌い出してみようかと思うくらい、酔漢は笑顔で歌っている。
 王室づきは詩吟が条件――そんな話があるなら驚きだ。
 ただ王も王子も詩吟を愛している。
 そして寵妃も。
 寵妃カミーユ――エリーズの又従姉妹であり、縁談が持ち上がった発端だ。
 又従姉妹のカミーユが王の寵妃となり、第四王子を出産した。
 まだ数年前のことであり、第四王子ダヴィド誕生のその年に、エリーズと第一王子ベルナールは婚約したのだ。ダヴィドは第四王子のため、王位継承権はかなり後ろとなり、そのため次期後継者の範疇にいない。のびのびと育てられていることは、手放しに喜んでいいだろう。
 ダヴィドが生まれ、急にエリーズの生家バスバストル家の政治的な位置が上がってしまった。ベルナールにワトォリ男爵の娘を引き合わせたのも、実際バスバストル家の待遇をよく思わない連中だろう。
 王室に振りまわされているようだ、と思いながら、エリーズは頬杖をついた。
「エリーズ、どうかした?」
 アドルフォに肩を揺すられ、エリーズははっと我に返った。
「顔が赤いわ、間違えてワイン飲んだりした?」
「い、いいえ、飲んでは……」
 頬杖をするなんて、と自分の作法を欠いた態度に驚いてしまう。ただふれていた頬が熱かったし、身体がふわふわしていた。
「ここ、お酒くさくなってるけど、もしかしてそのせいかしら。どうするエリーズ、部屋に戻る?」
「そうさせてもらってもいいかしら。楽しい夕食でした」
「よかった――みんなはしゃいじゃってるから、そっと抜けちゃいましょ」
 ワインを一滴も飲んでいないが、食堂に漂うにおいで酔ってしまったのかもしれない。アドルフォの提案もあって、エリーズはそこで席を立つことにした。
 歌ったり踊ったりと騒ぎを楽しんでいる団員の邪魔にならないよう、エリーズは食堂を出ていった。
「エリーズ、送るわ」
 食堂を出てきたアドルフォが、手をにぎってくる。消えたと思っていた身体の疼きが急によみがえり、エリーズは彼以上に慌てて首を振る――だが彼の手をにぎり返していた。
「ひとりで平気だから、アドルフォは残って」
「でも」
「沐浴して、もう休みます。みなさんにご一緒できて楽しかったと……伝えられそうだったら」
「……そうね。エリーズ、おやすみなさい」
 アドルフォの指が艶めかしく動いた。エリーズは指の間を揉みしだくように刺激され、それから彼の手から解放された。
「おやすみなさい」
 うなずきあって背を向けたが、ずっとアドルフォの視線を感じていた。開かれているドアから食堂の喧噪が聞こえてくる。
 それは建物を移り雨音に取って代わられるまで、エリーズの耳に届いていたのだった。

 湯を使いベッドに身体を投げ出すと、長い長いため息が出ていた。
 すぐに頭のなかが、アドルフォとのくちづけのことでいっぱいになってしまう。アドルフォに対し気を許し過ぎている気がしなくもないが、もっと一緒にいたいとまで思いはじめていた。
 いま眠ったら、アドルフォの夢を見られそうだ。
 燭台の明かりはひとつを残して落とし、雨音を子守歌に早々にベッドに入ろう――そう思ったとき、ドアが叩かれた。
 エリーズの心臓が跳ね上がる。
 誰が訪ねてきたのか、誰何せずともわかったからだ。
「……アドルフォ」
 つぶやき、エリーズはドアの前に立った。
「どなた?」
「あたしよ」
 ドアを開くと、ランプを手にしたアドルフォが立っている。湿った雨のにおいをまとったアドルフォは、ドアにそっと手をかけてきた。
「なにかあった?」
「おやすみって挨拶だけだと思う?」
「ここで……ドアのところでいい? それともなかに?」
「やだ、まさかエリーズ、あたしのことをこんな寒々しいところで追い返すつもり?」
 アドルフォの表情に、エリーズは胸の奥がかき混ぜられたようになっていた。彼が部屋に入ってきたら、もう後戻りはできないのだと理解している。
 彼は――エリーズが追い返すと思っていない。
 エリーズが一歩後ろに下がると、アドルフォはドアを開いた。
「おやすみの……挨拶?」
「……おやすみのキスをしにきたの」
 断る理由がなかった。いやだと思えない。彼とくちづけたいという衝動が胸で暴れはじめている。
 アドルフォが部屋に入り、その背でドアが閉じられる。エリーズはその手から燭台を受け取り、かたわらのチェストに置いた。
「……エリーズ」
 エリーズに覆い被さるようにして、アドルフォがくちびるを重ねてくる。自分からくちびるを開き、エリーズは彼の舌にこたえた。
 舌の交わる音は雨音にかき消されそうだ。添えられたアドルフォの手であごを持ち上げられ、エリーズは目を閉じたまま口内を愛撫されるままになる。
「……ぅ、っ……ん……」
 舌を絡めているのに、全身が呼応していた。ずきずきとした疼きは、彼の片手が背中を撫でると耐えがたいほど高まった。両膝と内股にエリーズは力を入れていた。
「……キスの続きをしてもいい?」
 くちびるが離れ、鼻先をふれ合わせたアドルフォが尋ねてきた。
「続き……?」
「エリーズと一緒に眠りたいの」
 ゆっくりとアドルフォが抱きしめてくる。そのどこかでエリーズが拒めば、彼は抱擁を解いたかもしれない。だがエリーズは拒まず、抱きしめてくるアドルフォに身体をすり寄せるようにした。もっと彼の温度を感じてみたくなっていた。
「……ベッドにいきましょうか」
 軽々とアドルフォに抱き上げられ、エリーズはその肩にすがりついた。
 乏しい部屋の光源でも、彼の表情を見ることができた――この数日で、ここまで緊張した顔つきははじめてだ。
 寝室のベッドにエリーズを下ろしたアドルフォは、襟元を緩めながら微笑みかけてくる。
「エリーズはほんとうに無防備ね」
 ベッドに乗ってきたアドルフォは、エリーズにまたがり自分の胸元をはだけさせていく。薄明かりでも彼の素肌は美しかった。
 エリーズが手をのばそうとすると、それをつかみアドルフォは歯を立ててくる。
「こんな薄着で、ほかの奴の前に出たら駄目よ」
「あ……」
 自分の身体を見下ろし、エリーズははっとする。
 眠ろうとしていたところだった――絹一枚の身体の線が露わになった状態で、エリーズはドアを開けていたのだ。
「すぐに飛びかかって、食べちゃおうかと思ったわ」
「……もう、食べちゃう気はなくなった?」
 エリーズは自分の発言のはしたなさに頬が熱くなっていった。一度口から出た言葉は取り戻せない。
「ご、ごめんなさい、私……」
 顔を覆ったエリーズの手を取り、アドルフォはそれを自分の下腹部に誘導していった。
「あ……っ」
 布越しでも、そこに強固なものが隠されているとわかる。長大なものをアドルフォの手のひらに包まれながら感じ、エリーズは目を泳がせる。
 これが男性器で、女性器を貫くもので――過去に習った知識が頭をよぎっていく。身体の芯が疼いている。そこに受け入れるのだ、とエリーズはひとり納得し、さらに顔が熱くなっていった。
「エリーズ、閨房教育ってどのくらい……ああもう、こんな野暮なことを訊こうなんて思ってなかったのに……」
 にぎっていた手を解放したアドルフォは、まだエリーズにまたがっていた。しっかりと骨盤のあたりを抑えこまれていたが、エリーズはかろうじて上半身を起こしてみる。
「なにをどうするか、は……教わって――でも私……ま、まだ誰とも」
 結婚の日まで純潔を保つべし、とも教わっている。
 それは王妃として求められることだった。夫である王に対し貞淑さは不可欠だ。
 いまのエリーズは誰とも婚約せず、なんら束縛を受けていなかった。だからこそ夜の部屋にアドルフォが踏み入ることを許したのだし、彼の情欲にふれても振り払うことなどしなかった。
 エリーズはすでに――彼に向かって許してしまっている。
「誰とも? そ……そうなの? どうしてよ、こんなにイイ女ほっといて、なに考えてるの……!」
 起こした半身をアドルフォに抱きしめられ、エリーズはふれ合った彼の頬もまた熱いことを知った。
「いけなかった、かしら……? だ、抱きしめられたときに、拒んだことはあって……経験がないのって、もしかして面倒な相手だったりするの?」
「そんなわけないでしょう! そんなこと思ってたら……こんなに余裕がなくなったりしないわよ」
「アドルフォ、余裕……ないの?」
 彼の手のひらがエリーズのあごをなぞり、下りていった首と鎖骨を暖める。
「すごく……アドルフォの手、気持ちいいわ」
「エリーズ」
「お、おかしいでしょ? いまとても恥ずかしいの、くちづけも抱きしめられるのも、全部恥ずかしいのに……嬉しいの」
 アドルフォが天を仰ぐようにした。彼ののどにひたいを押し詰めると、鼻先にある喉仏がふるえている。
「やっぱり、余裕なんて持てそうにないわ」
 夜着にアドルフォの手がかかったと思うや否や、紐が解かれボタンが外され、エリーズの肌が剥き出しにされていく。
「えっ、アドルフォ……あ、あのっ」
「我慢なんてあたしの性分には合わないわ。無理は身体によくないもの――エリーズ、あたしはあなたのこと欲しくてたまらないのよ。そうでもなかったら、あんな抑えの効かなくなったもの……ズボンの上からだってさわらせないわ」
 またがっていたアドルフォが降りていった――そう思ったときには、エリーズの夜着はベッドから放り出されているところだった。
「い……いつからそういうふうに……」
 エリーズはそこで言葉を句切っていた。
 身体を隠すようにしていた腕を退かし、アドルフォに向けて開いていく。
 すでに緩めてあった襟元を、アドルフォは解放しにかかっていた。彼はその手を休めず、エリーズにのしかかってきた。
 くちびるを寄せ、舌を交え、エリーズは彼のこたえを体感していた。
 ――尋ねるのは、それこそ野暮かもしれない。
 彼は話していた――城でエリーズを見かけ、目が離せなくなっていたのだと。
 エリーズはその言葉を疑っていなかった。
 いまのエリーズがその状態だからだ。
 アドルフォがそこにいれば、目を離せなくなる。
 これだけそばにいてアドルフォとくちづけているというのに、エリーズは満足できていなかった。もっと、と身体の奥から欲望の声が聞こえている。
 一糸まとわぬ姿になったエリーズの前で、アドルフォもまたすべて脱ぎ捨てようとしていた。
「エリーズ、そんなにまじまじ見てないの。あたしだって恥ずかしいんだから」
「駄目? み、見て……みたい、かも」
「え、見たい? まあ……そうねぇ、見たい気持ちはわからなくもないけど……」
 そういいながらもアドルフォは、最後の一枚を脱ぎ捨てるときには背中を向けていた。わずかな照明に照らされた彼の背中は美しい。
「アドルフォ、きれいね」
 背中に手のひらを押しつけた。
 身じろいだだけで、アドルフォは抵抗しなかった。手のひらに力をこめる。やわらかく温かい彼の肌の弾力に、エリーズは自然と微笑んでいた。
 彼にいやがる素振りがなく、エリーズはその背に抱きついていった。自分の肌に彼の視線が注がれていないいま、奔放に動くことができた。乳房を押しつけ、アドルフォに身体に腕をまわした。
「あったかくて……アドルフォの背中、気持ちいいわ」
「……楽しんでいただけてるみたいで、光栄だわ」
 まわしていた腕――手をアドルフォに取られた。彼の手に導かれ、エリーズはそこにあるものにふれることになった。
「……えっ、えぇ……っ、えっ」
「エリーズのせいで、さっきよりもっと……こんな有様よ」
 まだエリーズは実物を目にしていなかった。さっきよりどうなってしまったのか、まったくわからない。
 だがそれはひどく熱かった。
 かたく、反り返り、アドルフォに手を取られたエリーズは振り払えない。アドルフォの手に包まれながら、それをにぎったエリーズの手指が上下に動き愛撫する。アドルフォが熱い吐息を漏らすのが聞こえていた。
 彼の背中に耳を密着させていると、心臓がはやく打つ音を聞くことができた。エリーズもおなじように早鐘を打っている。
 男性器は刺激の果てに、射精をするはずだ。
 ――このまま、そうなるのだろうか。
「あ……アドルフォ……っ?」
 彼の肩が大きく肩が上下する。なにかを堪えているような呼吸に、エリーズはじっとアドルフォがどうするつもりでいるのか様子をうかがった。
 咳払いをしたアドルフォは、エリーズの指を自由にした。
 密着していた彼の背から離れ、エリーズはベッドで足を崩す。まだ手指に彼の情欲の温度が残っているようだった。腿の間がひどく疼いている。
「エリーズ」
「あっ」
 一瞬ぼんやりした隙に、アドルフォは身を反転させていた。
 鼻先をつき合わせたアドルフォに押し倒され、エリーズはシーツに身体を押しつけられている。
 やわらかいシーツとアドルフォの体温に挟まれ、エリーズはすっかり全身の力を抜いていた――それも束の間だった。身じろいだアドルフォが強張ったものを押しつけてくると、ふたたび身体に力がこもってしまう。
「アドルフォ、私……どうしたら」
 自分でもはじめて聞くほど、不安げに揺れた声が出ていた。
 エリーズは彼とこのまま親密な時間を過ごしたかった。アドルフォの体温をもっと感じていたい。彼に温められるほどに愛おしさを自覚する。
「私……あなたのこと」
 こんな気持ちははじめてだった。
 アドルフォが顎先にくちづけてくる。足に当たった屹立がぴくりと身じろぎ、エリーズは言葉を飲みこんだ。
 かかっていたアドルフォの重みが軽くなり、彼のくちびるがうなじに向かっていく。
「あ……っ」
 肌がわずかにこすられるだけで、エリーズは自分が激しい欲望を孕んでいる事実を突きつけられる。淫肉の奥が重い疼きに満たされていた。こんなことをアドルフォが知ったら、どんな顔をするだろう。軽蔑されるだろうか――彼の屹立を肌で感じながらも、エリーズはそんな心配をしていた。
「エリーズ――すごく、きれい」
 アドルフォのくちびるが、エリーズの全身をついばみはじめる。
「アド……ルフォ」
 シーツのこすれるかすかな音と、アドルフォが肌に吸いつく音。そこにエリーズの切れ切れの吐息が混じっていく。肩や鎖骨、乳房の周辺を、ゆっくり彼のくちびるは散策している。吸い上げられた後、ちくりと痛みが残った。その後には甘い余韻が残っている。
「あっ……ぅ、うん……っ」
 もどかしくなって首を振ると、暗い天井が目に入る。明かりが乏しいとはいえ、おたがいを視認できる部屋で肌をさらしている。その相手がアドルフォであることが嬉しかった。
「やっ……ぅん……っ」
 アドルフォのくちびるが、かたいしこりのようになった乳首に吸いついた。扱いはとても優しいものだ。舌先とくちびるでなぞり、しめつけ、肌を撫でるアドルフォの鼻息までもがエリーズを身震いさせる。
「……んっ、そんな……ところ……っ、あぁ……っ」
 アドルフォはこたえず、もう一方の乳房を手のひらで弄びはじめた。
「あぅ……っ」
 丹念な愛撫にエリーズは背中を浮かせてしまう。アドルフォの舌に身悶えしつつ、エリーズは内股をすり合わせていた。異性とこうしてベッドに入るなどはじめてだ。
 なのにエリーズは、閉じたその奥をアドルフォで満たされたくなっている。
 その気持ちがあったからか、アドルフォの身体が下方に向かったとき、エリーズはゆるゆると双脚を開いていっていた。
 ひざの間に身体を割りこませた彼の愛撫は、着実に腹部を目指し降りていく。やわらかい腹部に歯を立て、そっと皮膚に食いこませる。エリーズはいっそ強く噛んでほしくなっていた。
「や……あぁ……っ、も、……っと、アドルフォ……私を……っ」
「……急かさないで。慌てなくても、エリーズのこと逃がすつもりはないから」
 さらに彼はエリーズの下腹部にくちづけの雨を降らせはじめた。
 下生えを撫でつけた指が、うっすらと開いていた扉にかかった。こじ開けられるとき、やけに濡れた音が聞こえていた。
「ん……っ」
 誰かの眼前にさらしたことなどない場所だ。
 獣欲の興奮のなか、はしたなく濡れたそこをアドルフォの舌が前後しはじめた。
「……あぁ……ま……待って、そんなところ……っ、ぁあっ……んぅ……っ」
 アドルフォの舌は鋭敏な蕾を愛撫し、淫泉に沈めた指を内側でかき混ぜてくる。くちゅくちゅとぬかるんだ音は、上がれば上がるだけ快感となってエリーズに声を漏らさせた。
「あっあ、ぅ、……っん、あぁ……っ」
 アドルフォが与えてくるものは、これまでで一番微細な刺激だった。なのにエリーズの花芯は悦び、泉は蜜を溢れさせる。腰の奥が高まっていた。未経験のエリーズの身体は、高まりの先にいきたがっている。もっともっと、とせがんでしまいそうで、エリーズは手で口元を覆っていた。
「ん……ぅ、っん……っ」
 エリーズは花芯をいじめる舌先に集中していた。腰が蠢きそうになるが、いつの間にかアドルフォにしっかりと抱えこまれている。
「あ……あぁっ……っ、ん……あ……っ」
 なにが起きたか理解できないほど、強く魅惑的な衝撃が身体を駆け抜けていく。腰が躍るのをおさえられず、気がつけばアドルフォに身体を抱きしめられていた。
「アドルフォ……」
「きれいよ、エリーズ」
 彼の手のひらが身体を伝い降りていく。脇腹を撫でた手が下腹部――恥丘をやんわりと揉みはじめる。
「……っ、私、どうしたの……?」
「イッたのよ。それもはじめて? そこまでは閨房教育でもさすがに教えないかしら」
 アドルフォの指が淫裂に添えられ、エリーズは一瞬身体に力を入れていた。
「……んっ」
 すぐに脱力したものの、彼の指先が花芯にふれた。たったそれだけの刺激を、エリーズは痛みと錯覚していた。感覚が鋭敏になっている。
 エリーズは添えられるだけでアドルフォの指が動かずにいることにほっとし、同時に刺激を与えられたくなっていく。
「エリーズ、あなたの蕾、ぴくぴくしてるのわかる? あたしの指に当たってるの」
「え……」
「とってもちいさいのに、たくさん感じてるのね。かわいいわ」
 ぐ、と指先に力がこめられた。花芯が圧される。今度は痛みではなく、もどかしい快感が生まれ、エリーズは甘い息を漏らしていた。
 アドルフォのくちびるが、耳朶をそっと噛んでくる。やわらかい感覚なのに、エリーズの全身の性感帯が反応してしまう。
「……ん……っ」
「あたしがすっごく欲しくなってるの、わかるでしょ?」
 うなずき、エリーズは足に当たっている屹立の熱にうっとりする。
「エリーズ……」
 アドルフォが言葉を続けた。
 耳を疑うような卑猥な言葉で、しかしそれは自分たちがまさにおこなっている行為だった。
 エリーズの耳を高ぶらせたのは、卑猥な内容ではなかった。
 いつもの女性的な言葉遣いながら、彼のそれは雄の声になっていたからだ。
「アドルフォ……私も……あなたがほしいの……」
 思い切ってエリーズは手をのばした。
 そこにはアドルフォの屹立があり、エリーズとおなじく獣欲に駆られた姿になっている。
 ふれ、幹を指先でなぞり、そっとにぎりこむ。
 自分の大胆さにエリーズは驚いていた。
 誰かに劣情を覚えたことはこれまでなく、それを分かち合いたいと思ったのははじめてだ――家や将来への縛りもなくなったとき、こんなにも劣情のままに動いてしまうのか。
 身体を起こしていくアドルフォから、五月雨のくちづけが頬やひたいに降り注ぐ。彼の身体の下敷きになるが、重さを感じなかった。心地よい体温と彼のにおい。
 エリーズは身体の力を抜く。
 ひざをつかまれ、両足を大きく開かされる。されるがままになったエリーズは、一切力を入れなかった。
 双脚の間でアドルフォが身を沈めていく。
「あ……っ」
 あてがわれた鈴口に、膣口が押し広げられる。一気に押しこまれた熱に、エリーズは胸を大きく上下させた。
 身をもって劣情を受け止めたエリーズは、顔をのぞきこんでくる彼の肩にすがりついていた。
「アドルフォ……う、ん……っ」
 熱と重さと――押し広げられる感覚。
 痛みはなく、恥毛と恥骨とがこすり合わされると、エリーズは身体の奥にじわりと熱が広がるのを感じた。忙しない瞬きのなか、アドルフォが身じろぐとその熱も密度を増す。
「アドルフォ、ほんとうに……全部、あなたが」
 その熱はアドルフォの劣情だ。
 彼を内側に抱えこみ、エリーズはそのことを喜んでいた。
「そうよ、エリーズのなかに……ああ、じっとしてられない。エリーズ、あなたを教えて」
 アドルフォの腰が緩やかに前後しはじめた。
「ぅ、あん……っ」
 引き抜かれ、押しこまれ――これまで隠していた部分への圧力に、エリーズは彼にまわした腕に力をこめていた。
「エリーズ……イイわ――あたし取り乱しそう」
「……っふ、あ……っ、あ、熱い……っ、アドルフォの……ああっ」
 抽挿は緩やかで、しかしかけられる圧力が変わっていた。もっと奥を目指しているかのように、アドルフォの腰は容赦なく淫道を抉りはじめている。
「ずっとあなたのことを……城で見かけてから、あたしの頭にずっとエリーズがいたのよ」
「そん、な……? あ、ぁう……っ」
 腰を打ちつけられるごとに、熱を植えつけられるようだった。こすり上げられながら、エリーズはしとどに蜜を垂れ流していた。淫道に宿ったもどかしい熱は、すぐに甘い声が漏れる快感になっていく。
「アドルフォ……そこ、あぁ……っ、おかしいの――いやっ、気持ちいい……っ」
「気持ちよくなって、エリーズ。ずっとあなたを抱きたいって思ってた。あたしに教えて――ほかの誰も知らない、あなたのいやらしいところをもっと教えて」
 アドルフォがもたらすのは、紛れもない快感だった。
 翻弄されるエリーズは、獣欲に責め立てられるまま、彼の背に爪を立てていた。下腹部はすべて淫靡な火で燃え盛っている。
「や、ぅ……んっ、こん、な……っ、ああっ」
「エリーズ、きれいよ。雌の顔もきれい」
 囁き、アドルフォが抱きすくめてくる。身体の密着度合いが上がり、さらに深いところまで亀頭が沈みこんできた。
「あ! あぁ……、アドルフォ……な、にかくるの……っ」
 腰や背中が緊張している。強張りはじめたエリーズを貫きながら、アドルフォが顔をのぞきこんできた。燭台の光で浮き上がったその顔は、ひどく淫靡なものだった。彼は獣欲を満たしている。そのことが嬉しい。エリーズは爪先でシーツをかいた。
「あ、アドルフォ、私……っ、くる……あぅ……っん」
「もっと見てたいのに――あたしももう、イキそう……っ」
 身体の芯でなにかが弾けたのはそのときだった。
 エリーズは短く叫び、アドルフォの腕のなかでその身を跳ねさせていた。
 アドルフォの腕の力が増したのはそのときで、彼が呻く声を聞いた。苦しげで、しかし満足そうな声だった。彼はその声だけで、エリーズの全身にぞくぞくとした悦楽の波を起こさせる。
「……ぅ、ん……っ」
 穿たれた淫道の深い場所で、アドルフォが樹液を吐き出している。長く屹立はふるえ、それが終わったころにはアドルフォの腕の力は緩くなっていた。
 エリーズのとなりに身体を投げ出した彼の体温は熱く、やはり心地よいものだった。
 快感の余韻に浸り、エリーズは彼の手のひらが乳房を撫でるのを見下ろす。その手を止めようとすると、アドルフォはエリーズを抱きしめてきた。どちらからともなく、くすくすと笑いはじめる。抱きしめ合って笑い、エリーズはアドルフォの胸に顔を埋めた。
「エリーズ、どうかしたの? 思ったことはちゃんとあたしには話してね」
「……知り合って、まだちょっとしか経ってないのに」
 婚約中にベルナールから手をにぎられ、抱き寄せられたことがある。
 そのときの態度や目つきには、性的なものがあった。エリーズは純潔を保つことを理由に、即座にそれを拒んでいた。ベルナールはそんなつもりはないと笑っていた。エリーズがそう受け止めたことが残念だ、と。
 ――堅苦しく、おたがいの間に距離をつくるやり取りだった。
 純潔の重要性を盾にしたが、エリーズは単にいやだったのだ。
 それなのに、アドルフォと肌を合わせて横たわっている。
「あたしの思いが通じたのよ、きっと。長いことエリーズのこと、うじうじ考えてたんだもの」
「……私のこと、そんなふうに?」
「あたし執念深いのよ」
 アドルフォは上掛けを引き寄せ、おたがいの身体を包んでいく。
「アドルフォ、みなさんのところには」
「みんなほっといても平気よ、子供じゃないんだもの。今夜はエリーズの顔を見ながら寝るって決めたの」
 おなじ枕を使い身を寄せていると、それだけでも心地よくなってくる。
 アドルフォの体温を身近に、エリーズはあっという間に眠りに落ちていた。

        ●

「ねえさん、書類はこちらになります!」
 満面の笑みの団員に、エリーズは引き攣った笑顔を浮かべる。
「ありがとうございます――あの、ねえさんというの、やめていただけると……」
「とんでもない! お帰りお待ちしてます!」
 団員は笑顔のまま数歩下がっていく。
 鍛練場を去ることになり、見送りなどないと思っていた。だが短時間の間にぞろぞろと団員たちは集まりはじめ、エリーズが王都に届ける書類を受け取ったときには、ほぼ全員が揃っている状態だ。
「忘れものはない? 全部足りてる?」
 エリーズの腕から書類を引っこ抜くようにし、アドルフォは団員に声をかける。
「おそらく完璧です!」
「そう、そういうときはもっと自信持って断言して。じゃあいってくるわね」
 アドルフォにうながされたエリーズは、逃げこむように馬車に乗りこんだ。
「いってらっしゃいませ!」
「お気をつけて!」
 元気な声がいくつも上がる。
 昨日からやっと晴れ間が訪れ、エリーズはフリアクに戻ることになっていた。

 騎士団は定期的に、王都ラナークに報告を兼ねた書類提出をしている。いまはその時期にははやいものの、エリーズのために馬車を出し、そのまま書類を届けるとアドルフォが決めていた。
 アドルフォは王都に向かうが、エリーズはまだそちらに戻るつもりはなかった。
 しかし生家を発ってからというもの、フリアク到着と宿泊先を知らせる手紙を出したきりだ。
 それ以来、一度も便りをしたためていない。
 里心がついたわけではないが、やけに母の顔を思い出していた。贈りものをつけて手紙を送ってみようか。あまりにもフリアクで送るひとりの生活は気楽だった。いまさらながら、肉親をないがしろにしすぎた気になってくる。
「どうせだし、ラナークにいく前に、あたしもフリアクでちょっと息抜きしていこうかしら」
「最近息抜きしてばかりなんじゃ」
 走り出した馬車でアドルフォはすっかり気を抜いている。
「いいじゃない、あたしと一緒だと楽しいわよ!」
「自信あるのね」
「当たり前でしょ、あたしはエリーズと一緒にいて楽しいもの」
 向かいの座席には、預かった書類を束ねたものを詰めこんだ箱が置かれている。エリーズが目を向けると、アドルフォはその箱から一部取り出した。
「これは……賓客があったとか、通常と違うことが起きたときにつくるやつね」
 エリーズに書類を渡してきたアドルフォは、席で身体をのばして両手を広げて見せる。自信たっぷりの表情を崩さないアドルフォの腕に、エリーズもエリーズで遠慮なく抱かれていった。
 アドルフォの腕のなか、エリーズは書類の束を開くか迷っていた。
「これは……私が見ていいものなのかしら」
「ついでにあたしも内容を確認するからいいのよ」
 アドルフォを心地のいい背もたれ代わりにし、それならば、とエリーズは綴じられた書類の束を繰っていった。
 書類にはどれも美しい筆跡がずらずらと並んでいる。
 物品の購入履歴や、馬車の保守点検の記録――そして賓客あり、と別紙にエリーズの名が綴られていた。
「私?」
「お客さまだもの、記録は残るわ」
『フリアクを来訪されていたバスバストル侯爵家令嬢、エリーズ・バスバストル女史を、団員の士気向上のため講師としてお招きしました。王室に寄り添われた経験・視点から、平安維持の必要性をお話しいただきました。生憎の雨天のため馬車を使うことができず、一週間の滞在となりました』
「……私、講師だったの?」
「最高の講師だったわ。みんなの士気、すっごく上がってたもの」
 ではそういうことなのだろう。
 騎士団内ではすでに、エリーズとアドルフォの関係は公認となっていた。
 それもそのはずで、アドルフォに隠そうという意思はなかったのだ。
 堂々とした態度だった――はじめて肌を重ねた夜からずっと、アドルフォはエリーズの部屋で休むようになっていた。はじめての夜の翌朝には、食堂で団員に向け、エリーズを賓客ではなく自分の妻として見てもらいたい、と言い放っていた。
 その結果が団員たちによる「ねえさん」呼びだ。
 騎士団には庶民も多いが、貴族も混じっている。この先エリーズが彼と過ごしていたことは、伝聞に予測も混じって広がっていくだろう。
 ――この先。
 未来のことを考えようとすると、気持ちが沈んでいってしまう。
「フリアクでエリーズはどうするの?」
「両親に手紙を書こうかと思ってるの」
「いい縁があった、って報告してみる?」
 間近で目を合わせたアドルフォは、自分の顔を指差した。
「それって」
「これ以上の縁ってないと思うけど」
「……アドルフォは、それでいいの?」
「まあ、どんな返事でも、エリーズのこと離す気はないんだけどね」
 どうやら本気のようだ――エリーズは書類を胸に抱え、アドルフォに寄りかかる。
 王子との婚約破棄で、この先良縁はないのだと思っていた。
 少なくともニカトリア国内では望めないだろう。
 自分が誰かに嫁ぎたいのか、エリーズとしてもわからなくなっていた。
 そうあるべき、という家が用意した道筋に沿って育ち、エリーズはそこから外れた。外れたところから自分がもといた場所を眺めたとき、そこに戻りたいと思えなかった。
 ずっと誰かに恋心を抱いたことがない。
 婚約前にもこれといって恋はしていなかった。
 婚約後は、嫁ぐべき相手以外に恋愛感情を持つなどあってはならなかった――残念なのは、エリーズがベルナールに恋心を抱けなかったことだ。彼に気持ちを向けていたら、事態は変わっただろうか。
 ――アドルフォとだったら、一緒におなじ道を歩いたときどう感じるのだろう。
 彼と一緒にいると、エリーズは胸のなかが温かいものに満たされる。
 上位貴族といってもいいのに、その枠組みから外れているからだろうか。騎士団の指揮を執る立場であっても、時間の大半を鍛練場で過ごすのは珍しい。
 エリーズはアドルフォを上目遣いにする。
 彼もまたエリーズを見下ろしていて、目を細めた。
「なぁに? 見蕩れてるの?」
 この言葉遣いも、エリーズはすぐに慣れてしまっていた。アドルフォのほかには、女性的な言葉遣いで暮らす男性を知らない。
「そういえばアドルフォ、幼名はアデラだって」
「そうよ、かわいいでしょ」
「どうしてまた」
「男に女の名を、って?」
 アドルフォのくちびるがひたいに押し当てられる。
「あたしがちいさいころは、セブルロス一族はまだ国外をうろうろしてたの。ニカトリアに戻る算段を整えてたところで――国内で賊の汚名と懸賞金が撤廃されても、国外にそれが周知されるには時間がかかるわ。追っ手から逃げて国外をうろうろしてたのに、今度は急いで戻らないと危険だって状態になって」
「そんな大変な……」
 大変な上に、それほど昔のことでもなかった。せいぜい二十年ていどだ。
「苦労知らずに見えるでしょ? 逃げるときの目眩ましに、女の子の格好して過ごしてたのよ。十歳くらいまでは、女の子として暮らしてたから」
 エリーズはアドルフォの頬をつまもうとしてみる。うまくつまめず、代わりに指先を押しこんだ。
「女の子として暮らすとね、男たちのいやぁな態度を見ることがあるの。でもそればっかりでもなくて、女の子だから、って助けてもらえることもある。めんどくさいわよね」
「どちらにしても、大変な状況だったのね。話し方もアデラとして暮らしていたときの名残……?」
「だってほら、あたしってかわいいでしょ。どうしゃべってもかわいいんだもの、変える必要もないかな、って」
 いまはかわいらしいというより、精悍な顔つきなのだが――エリーズは異を唱えず、ぱらぱらと書類をめくっていった。
 定期報告の書類には、これといって興味を引くものはなかった。
 やがてふたりで窓の外を眺め、出かけてきた目的を達成していないことに気がついた。
「私……馬、見なかったわ。厩舎ものぞかなかったし」
 なにをしに出かけたのか、とエリーズは呆然とした声を出していた。
「大丈夫よ、また次の機会にしましょう」
「……そんなに頻繁にお邪魔できないわ」
「どうして? みんなにエリーズのこと紹介してあるのに?」
 ――賓客ではなく自分の妻として見てもらいたい。
「つ、妻だなんて……あんなこといって、アドルフォ」
「どうして? あたしはエリーズと添い遂げる気でいるわよ」
「……本気?」
 驚いてアドルフォを見上げると、まじめな顔でうなずいている。
「王都の用事を済ませたら、正装して求婚する予定なの。そのときまで驚くのは待ってて――ところで脈ありだって思ってていいのよね?」
「求婚するって決めるの、はやくない?」
「婚約が破棄されたって聞いてから、いつ動くかずっと考えてたのよ、こっちは」
 うそ、と口から出そうになっていたが、すんでのところで飲みこんだ。
 執念深いと自称するだけあるのだ、アドルフォの言葉は信じていい。
 エリーズとしても信じたかった。
 遠く離れても、エリーズを思ってくれていたひとがいる。そしてエリーズがそのひとに向けて抱いているものは、確実に愛情だといえた。それを口にする代わりに、エリーズはアドルフォの顎先にくちづけだ。
「エリーズ、キスする場所を間違えてるわ」
 おたがいのくちびるが重なるなり、アドルフォは舌を割りこませてくる。
 それは迂闊だといえた――そこで大きく馬車が揺れたのだ。
 エリーズの犬歯によって、アドルフォは舌を負傷することになったのだった。

(――つづきは本編で!)

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