作品情報

溺レル人魚~うなずいたあの日から、私は元カレのペットです~

「その答え聞いても、俺とセックスできるの?」

あらすじ

「まだ、私のこと好き……?」
「その答え聞いても、俺とセックスできるの?」

会社を解雇されてしまった、仕事一筋OLの比奈。思い詰めて自殺しようとしていた所へ、元彼の継海が訪れる。

「死ぬくらいなら、俺のペットになりなよ」

――イラストレーターとして成功した彼の高級マンションで、「ペット」として愛される倒錯的な日々が始まる。
彼はひたすら優しいが、本心は見せない。
彼の想いは、果たしてまだ「愛」なのか――

作品情報

作:フォクシーズ武将
絵:フォクシーズ大使

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本文お試し読み

◆プロローグ 深藍

 沈むにつれて、水は温かくなった。
 脚を折らないと座れないほど狭いバスタブの中は、いつのまにか広い海に変わっていた。
 光の揺れる海の中を、比奈はどんどん深く落ちていく。ゆらゆらと髪の揺れる感触。頬をくすぐる泡。笑ってしまいそうなほど愉快で、心地いい。
――ああ、気持ちいい。こんな気持ち、久しぶり。
 水の中で思いきり両手両足を伸ばす。もはや重力すらも比奈を縛らない。何にも縛られず、何もしなくていい。最高の気分だった。
 比奈は、海が大好きだ。子供の頃から。それにこの海は特に、何だか懐かしい気がする。
 水の中で、そっと目を開いた。一面の深い紺碧。何重にも塗りこめられ、波の息吹にゆらゆらと揺れる数百種類の青のバリエーションが、目の前に広がっている。口から漏れ出た泡沫が、光に揺れながら上って行く。
 人魚は、死んだら泡になる。そんな話を思い出す。自分も、そんな風に消えていけるだろうか。
 なんてきれいな青だろう……
 ここ数日、何を見ても心が動かず、世界中の色が消えたような気がしていた。しかしこの青は確かに目を焼くほどに鮮やかで、心まで沁み通るほど息づいている。
 そうだ、この海を見たことがある。
 いつの記憶だったか、こんな風にこの自由な海に揺蕩ったことがある。やっと、ここに帰って来ることができたのだ。
 ――あれ……? そんなことあった……?
 ふと、違和感を覚える。
 比奈は昨日まで、何年もの間ずっと必死に働いてきた。海へ行った記憶などない。だが確かに、この鮮やかな紺碧とともに、深く温かい安らぎの海の印象が脳裏に焼き付いている。映画や、写真の光景だったかもしれない。
 いつの記憶だろう……?
 そう思った拍子に、ふんわり安らいでいた気持ちが、不意に不安に侵されていく。息ができない苦しさが、急に身に迫ってきた。
 どうしたんだろう、苦しい。息ができない。あれ、私、何してるんだっけ?
 必死にもがいた。もがいても、もう水面から差す光も見えない。比奈はあまりに深く沈みすぎた。
 助けて……
 ふと手を伸ばすと、誰かの手がそれをつかんだ気がした。
 わん、わん、わん、わん
 遠くで、海には不似合いな音が聞こえる。
 ただ、比奈にとっては、聞き覚えのある音だった。
 その奇妙な音とともに、つかまれた手が強く引かれる。急速に、水の中を引き上げられていく。水面に近づくにつれ、耳がきいんと痛くなる。やがてまぶたに光が差し――
 
「っ、ぷはっ……!」
 比奈は水面からざばあと顔を出した。
 バスタブのふちに裸の胸を押し付けて、げほげほ咳き込む。驚くほどの水が口から溢れていった。
 お湯は温かいのに、がたがたと体が震えている。息が通って行くたびに喉が痛くなって、焼けついたかのようにひりひりした。
 ――息をするって、本当に大変……やっぱり、生きてると、息苦しい。
 わん、わん、わん、わん
 まだ詰まったように感覚の鈍い耳に、再びあの音が届く。
 ガクガク震える足を叱咤して、立ち上がる。ぐらりと眩暈がした。びしょ濡れのまま、あちこちぶつかりながら浴室を出る。
 比奈がもう五年近く暮らす一Kアパートの見慣れた居間に、濡れた足を踏み入れる。使い古したローデスクの上で、スマホが犬の声で鳴きながら震えていた。
 わん、わん、わん、わん
 黄昏の日も落ちた薄暗い部屋の中で、ディスプレイの光をぼんやりと見つめる。
 そうか……この音は……
 やっと思い出した。犬の鳴き声は、ある人からの着信音だった。
 かつてはこの音が鳴るたびに嬉しかった。しかし、いつからか煩わしくて仕方がなくなっていた音だ。
 びしょ濡れの手でスマホを取る。水分でうまく感知しないディスプレイに苦心して指を押し付け、何とか通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
 虚ろな声で語りかける。すると、着信音以上に聴きたくなかったひとの声が聞こえてきた。
『もしもし、比奈?』
 少し甘みのある、落ち着いた低い声。その声をきいた瞬間、ズキンと心臓が痛んだ。
「……うん」
『声、枯れてんじゃん、風邪?』
「……ううん」
『仕事辞めたって聞いたから、死んでないかと思って』
 図星だよ――と心の中で憎しみを込めて言う。今、彼からの電話が来なければ、つつがなくバスタブで溺死できていたはずだった。
「残念、生きてるよ。せっかく仕事辞めたもん。自由万歳」
『そっか』
 精一杯の空元気で告げたが、彼はあっさりと受け流した。
『あのさ、今から行っていい?』
「……は?」
 思わず素が出る。冗談じゃない、今一番会いたくないひとなのに、と比奈は胸の内で毒づく。
「……いいけど」
 しかし、比奈の口は無意識の内にそう返していた。こぼれた声は、ひどく哀れっぽく自分の耳に届く。
 電話は、それだけで切られた。びしょ濡れで全裸のまま、比奈は呆然と立ち尽くした。
 黄昏の最後の光が、もう自分の手もともよく見えないほど真っ暗な部屋に、ひとすじの綺麗な線を引いていた。

 十五分ほどして、チャイムが鳴った。
 あれ、あいつ鍵持ってないっけ……
 ふとそう思ってしまってから、以前律儀に返されたことを思い出す。
「……開いてる」
 ぶっきらぼうに言い捨てた。
 ガチャリと扉が開く音がしても、玄関の方を振りかえる勇気はない。
 電話の後、何とか体を拭き、部屋着を纏いはした。だが、震える手で髪がうまく拭けなかったので、滴る水で肩が濡れている。
「お疲れー」
 能天気な声が玄関から聞こえてくる。ぎゅうっと胸が痛むのを、拳を握ってこらえる。
「……濡れてんじゃん」
 近づいた声が、ほとんど手の届くほどの距離で言う。
 傍に投げ捨ててあったタオルがふわりと頭に乗せられ、大きな手がわしわしと比奈の頭を拭き始める。思わず、その手を払いのけた。
「やめてよ……!」
 震えた、甲高い声が出た。何も隠せていない声だ。鼓動は胸が軋むほど高まっている。
「え、ごめん」
 気にしているのかいないのか、飄々と答えて彼は座布団に腰を下ろす。
 持参したらしいコンビニ袋から缶ビールを二つ取り出し、机に並べた。一つを手に取って、プルタブを引く。ぷしっと炭酸の爽やかな音がする。以前は比奈も愛してやまなかった、ビールの鮮烈な味が思い出された。
「こっちは、比奈の」
 そう言って、もう一つの缶を差し出してくる。仕方なく振り向くと、男性の割に綺麗な白い手が、真っ直ぐ差し出されている。
 彼の顔を見ないようにしながら、比奈はそれを受け取った。まだ手が小刻みに震えているせいで、缶の中の液体が揺れる感触が伝わる。
「開けようか?」
「いいよ……」
 半ばむきになって、震える指先を何度か滑らせながらプルタブを引く。揺すったせいで、真っ白な泡が溢れて指先にこぼれた。
「かんぱい」
 彼が缶を突きつけてきたので、比奈も仕方なく無言でかちりとふちを合わせる。
「お疲れ、比奈」
 勝手に言って、彼はビールを煽った。気が進まなかったが、仕方なく比奈も缶に口をつけてみる。
 やっぱり、味がしない……
 ここ数日の食事と同じく、まるで味が感じられなかった。
 しかし、かすかに違和感がある。
 あれ……?
 味はしないが、何だか痺れるような、熱いような感覚があった。不意に、喉が鳴った。ぐっと、大きく飲み干すと、止まらなかった。比奈はごくごくと飲み続け、一気にひと缶を飲み干してしまった。
「ははっ、まじかよ」
 一気飲みして荒く息をついている比奈を、彼は軽やかな声で笑う。アルコールに弱い比奈は、早くもほわりと体が火照り始めた。揺れる視線を、恐る恐る彼の方へ向ける。
 そして、案の定後悔した。
 一ノ瀬継海――彼は比奈の元同僚だ。デザインチームに所属し、WEBやグラフィックのデザイナーをしていたが、比奈に先んじること一年、急に会社を辞めた。今はフリーランスのイラストレーターとして、それなりにうまくやっているらしい。最近は海外旅行ばかり行っているらしいことを、SNSで見かけていた。
 柔らかに波打つ、眉にかかる長さの髪は、染めているわけではなく、生まれながらの淡い栗色。幼く見える中性的な細面に、つんと通った鼻梁、薄い上品な唇。どこか外国人めいた儚い印象から「ラファエロ」というよくわからない愛称で呼ばれている、社内でも評判の美青年だった。
 三年に渡って、めまぐるしい過酷な職場に耐えた戦友。――そして、その内の半年間だけ、彼は比奈の恋人だった。
 顔を見てしまえば、どうなるかはわかっていた。一年ぶりに見る懐かしい笑顔に、比奈の心はぐちゃぐちゃになる。
「何がおかしいのよ……!」
 声を荒げて、比奈はビールの空き缶を壁に投げつけた。人生で初めて、そんな子供じみたやつ当たりをした。缶はわずかに残っていた液体の染みを壁に散らして、床に転がった。
「何しに来たの? 急に来ないでよ、もう少しだったんだから! もう少しで――」
「もう少しで、死ねるとこだった?」
 継海は驚いた様子もなく、静かに比奈を見つめていた。彼の言葉に、はっと息を呑む。
「何、で……」
 愕然と言葉を失って見つめる。
「やっぱり、そうなんだ……」
 継海は悲痛に眉を寄せて目を伏せる。何でそんな悲しそうな顔するんだろう。今悲しそうな顔をしていいのは、比奈のはずなのに。
 沈黙は、彼の言葉への肯定を意味してしまう。それでも、比奈には為すすべがなかった。蛍光灯の明かりが揺れる。そろそろ電球の替え時だ、などとどうでもいいことが脳裏をよぎった。
 何も言葉を継げずにいると、しばらくして継海が口を開いた。
「死ぬことないじゃん……」
 不機嫌に、ただそれだけぽつりとつぶやく。
 何もわかっていないくせに……
 比奈は言い返そうとしたが、唇が凍りついたように動かなかった。もう言い返すのも、言い争うのも億劫だった。
 昨日から、心はずっと凪のようで、湧き上がった感情も長く続かないのだ。そのせいか、世界の色も、好物の味も感じない。比奈は、もう自分の心は死んでいるのだと思った。継海の顔を見て、一瞬さざ波だったかに思えた感情も、もう消え失せている。
 もう何も考えたくない。放っておいて……
 誰にも求められない人間が一人消えた所で、何も変わらないはずだ。継海だって、この一年比奈無しで生きてきたのではないか。比奈のことを必要ないと判断したからこそ、別れることを承諾したのではないか。今さら、彼のどんな言葉にも心動かされることはない。
 そう、思っていたが――
「死ぬくらいなら――俺のペットになってよ」
 彼が何気なく継いだ言葉に、比奈は目をみはる。
「は……?」
 理解が追い付かず、思わず聞き返した。
「俺のペットになってよ」
「うそ、ほんとにそう言ったの?」
 聞き返しても同じ言葉が返ってきたことに愕然とし、声を高めてもう一度問う。自殺寸前の自分以上に、目の前の人物の方が頭がおかしいのではないかと思えた。継海は宝石のように澄んだ瞳で、まっすぐ比奈を見つめている。
「いいじゃん、ペット」
 そして、真顔でそう返してくる。
 別れて一年、初めて知る元彼の変態性である。比奈は言葉も出ず、唖然としてしまう。
「住む場所も、食事もタダだよ。一日ごろごろしてればいい――俺に可愛がられてさえいれば」
 異常な言葉を並べながらも、澄んだ瞳は真剣に見据えたままだ。彼が本気であることは明らかだった。
 多分、比奈は疲れていたのだろう。まだ髪も濡れている。バスタブには湯も張ったままだ。今の比奈には、彼の異常性を指摘する余裕がなかった。むしろ、凪ぎに沈んだ比奈の頭は、正常なら考えられないような発想をしてしまう。
 ――ほんとだ、それって悪くないかも
 呆然と継海を見つめた。考えなければいけないことは頭から締め出されてしまい、比奈の頭にはどうでもいいことばかりが去来する。
 継海って、目を伏せると瞼の形が綺麗……
「どうする? 比奈」
 彼がまっすぐ見つめて問いかける。深い紺碧の継海の瞳。魔法使いが魔術をかける宝石のようだと思った。いや、それよりも――海に似ている。比奈が沈みたかった海に。
 継海の瞳の中に、沈めればいいのに……
「――俺のペットになる?」
 皆がラファエロと呼ぶ、薄い上品な唇が弧を描く。
 ぼんやりと揺蕩うような気持ちで、比奈はゆっくりとうなづいた。

(――つづきは本編で!)  

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