作品情報

エリート外科医と秘密の非常階段~淫らなくちづけに溺れて~

「口寂しくなったら、またキスしに来るから」

あらすじ

「口寂しくなったら、またキスしに来るから」

人の役に立ちお金も稼げる仕事がしたいと、努力を重ね外科医になった静香。男社会の中で気の強い女を演じ続ける静香にとって、人気のない非常階段は数少ない憩いの場所だった。同僚たちの陰口に傷つき、非常階段で一人泣いていた静香の背後に、突然葉室が現れる。高い技術と知識を持つ葉室もまた同僚たちのやっかみの対象だったが、静香の涙を見た葉室はいきなり彼女の唇を奪って…!

作品情報

作:雪宮凛
絵:岡舘いまり

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第一章 女医の涙と非常階段

 連日猛暑だった夏が終わり、カレンダーの日付上にはもう秋なのに、まだまだ残暑が厳しい九月。
 葉室《はむろ》総合病院第二手術室の扉のそばで、手術中のランプが消灯するのを今か今かと待つ家族がいた。
「……あっ」
 不意に音もなく消えたランプに気づいた誰かが声をあげれば、全員の視線が消灯したランプに向く。
 すぐさま立ち上がった家族が、手術室の扉へ次々と視線を向けた時、それはゆっくり開く。
 数秒ほど経った後、奥から手術着姿の執刀医が姿を見せ、彼らの前で立ち止まった。
「野崎《のざき》先生、妻の手術は……」
 隠しきれない不安が声に滲むせいで、患者の夫が呼びかける声はひどく震えている。
 一緒に長時間ここで待っていただろう、まだ十代の子供二人と、患者の両親の瞳にも不安の色が滲んでいた。
 彼らの顔を一通り見つめ、医師――野崎静香《しずか》は、目元の筋肉を緩め、口角をあげる。
「手術は上手くいきました。腫瘍もすべて取り除きましたので……しばらくすれば、麻酔も切れて目が覚めると思います」
 直後、彼女の口から滑らかに紡がれた手術結果を聞き、患者の家族に安堵と歓喜の笑顔が浮かんだ。
「っ! ありがとうございます、ありがとうございますっ!」
 家族がお互いに手に手を取って、「よかった!」と喜び合うなか、静香の言葉を聞いた父親は、彼女の手を取り涙声で感謝を伝え、何度も頭を下げた。
 その声を聞いてハッとしたのか、男性の後ろで喜びあっていた家族たちも、次々静香に向き直って感謝を伝えだす。
「このまま病室へ移動になりますので。また後ほど、様子を見にうかがいます」
 彼女がペコリと皆に向かって一礼し、ゆっくりその場を離れようと足を動かした。
 静香が執刀を終えた患者の旦那は、自分たちの前から去っていくどこまでも真っ直ぐな主治医の華奢な背中を瞳で追いかけ、もう一度深々と頭を下げた。

 患者の家族に挨拶を終えた後、静香は着替えをするために更衣室へ向かった。
 次の執刀は午後からだ。お昼時間をはさんで少し休憩が出来るため、手術中に着ていた半袖長ズボンの衣服から、別のものに一旦着替えていく。
 自分に割り当てられたロッカーの扉を開けば、中には色違いのスクラブ――伸縮性のあるセットアップが吊るされている。
 静香はそれを、院内で過ごす用と執刀時用に分け、色違いで何着か持っている。
 その中から、ベージュ色のものを選んで袖を通せば、無意識にホッと安堵の吐息が漏れ肩から力が抜けた。
 ロッカー内にあるスクラブのストックは、今静香が着ているベージュとネイビーの二色だ。
 ネイビーは執刀時に、ベージュはそれ以外と、いつの間にか無意識に自分の中で着る色をわけていた。
 もう何年も続いた習慣だ。同僚の医師や看護師たちも同じ認識をしているのもあり、今さら色を変えたり増やしたりする気にはなれなかった。

 スクラブの上から名札をつけた白衣を羽織り、更衣室を出た静香はそのまま外科患者が入院しているフロアへ向かう。
 急患が運び込まれた際に素早く対応できるよう、ここ数年履いているお気に入りのシューズが、キュッキュっと床を踏みしめる。
 静香が颯爽と廊下を歩くたび、羽織っている白衣の裾が揺れ、彼女の首元を吹き抜ける空気が、肩の辺りで切りそろえられた黒髪の毛先を揺らす。
 少しつり目気味な彼女の眼差しは、基本は真っ直ぐ前を見つめ、時々周囲へ向けられていた。
 執刀後に時間があれば、彼女はよく院内をブラつくようにしている。
 目的は患者の様子見と気分転換、そして運動不足解消だ。
 基本は外科の入院フロアか、手術室があるフロア。晴れていれば、時々中庭に出て日光浴をしている。
(お昼は、また一階のコンビニかな……)
 すれ違う患者たちに軽く会釈をしたり、「静香先生、こんにちは」と話しかけられる声に応えたりしながら、東と西にわかれているフロア内を一周していく。
 あと一時間もしないうちにお昼時だ。一階にあるコンビニで売っている菓子パンか、おにぎりか。
 早めに行かないと、欲しい商品が売り切れることもザラだしな、なんて内心苦笑しながら歩いていた脚が、ふと“ある話し声”を聞いて止まった。
「――たら、野崎先生が――」
 一、二メートル先にT字路になった廊下が見える。その先から、複数で話す男性の声が聞こえてきた。しかも自分の名前を呼ぶ声まで聞こえ、足の裏から根が生えたように動けなくなる。
 単に患者同士の雑談なら、静香は特に気にしたりせず無言で通り過ぎた。
 だけど今彼女の足は止まり、その場から動く気配がない。
 その原因は、聞こえてくるそれが普通の雑談の声量より声をひそめて喋っている点と、明らかに医師同士の会話だとわかる内容だったからだ。
「本当に困った人ですよね、野崎先生は」
「……っ!」
 このまま平静を装って彼らの前を通り過ぎた方がいいのか、と頭を悩ませる彼女の耳に、また自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、思わずビクっと両肩が震えた。
 この病院で働く医師の中で野崎という名字は静香しかいない。だから余計に気になってしまう。
「今日も三件手術でしたっけ?」
「あぁ、しかも今日は三〇五の女性患者の腫瘍摘出だとか。あんな小娘をなぜ担当に……外科部長は何を考えているのか」
 聞えてきたのは、ついさっき手術を終えた患者の話題だ。
 彼女の担当医を決める会議で、静香は外科部長直々に、「野崎君、任せてもいいかね?」と打診され、悩んだ末に頷き今日に至った。
 腫瘍の場所が見えづらいせいもあって、今回の手術の難易度は割と高かった。
 そんな高難易度手術の執刀を打診された当時、静香自身とても困惑したのを覚えている。
 けれど、指名されたのは、「彼女なら任せられる」という信頼の証なのではないか、とも思えた。
 自分たちを頼って来た患者に、技術不足な担当医をあてがうことこそ、最低な行為だ。
 これまでにも、「野崎君なら、どうする?」なんて、話をふられたり、担当を打診されたことは何度もあった。
 それと同じことが、高い技術レベルを求められる場で行われたという事実が、静香を頷かせる後押しになったのかもしれない。
 静香がここ数週間のことを思い出している間も、外科の同僚――先輩らしき男たちの嘲笑混じりな話し声が嫌でも聞こえてくる。
 静香は、自分を今回指名してくれた時の部長の笑顔や、自分に感謝を伝えてくれた患者の家族たちを必死に思い返し、下世話な会話から意識をそらそうとした。
「どうせ女を全面に出して、部長の愛人にでもなってるんじゃないですか?」
 ――私なら、あんな気が強いだけの愛嬌なしな女、ごめんですがね。
 それなのに、彼女がそばにいると気づかない男たちは、またも静香を嘲笑い、あまつさえ自分たちの上司に対する失言を口にしていた。

 静香は今しがた歩いて来た道を引き返し、途中で進路を変えるとそのまま人気のない通路を歩き続けた。
 数分もかからずたどり着いたのは、同じ階にある非常階段へ続く扉の前。静香はそれを、どこか慣れた手つきで開けた。
 続けてひと呼吸した後に瞬きを一つすれば、そこにはもう非常階段途中の踊り場が広がる。
「……っ、ぐすっ」
 残暑のせいで、まだ生ぬるさが残る風が頬を撫でていく。その感覚に気づいた瞬間、プツンと彼女の中で何かが切れ、朝家を出る前にしっかりアイメイクを施した瞳からポロリと涙がこぼれ、一粒流れ落ちたそれはたちまち溢れてしまい、自分の意思じゃ止められなくなった。
 この病院の外科チームで紅一点の静香は、気づけば本人が自覚してしまうほど良くも悪くも目立つ存在になっていた。
 三十歳にして外科部長から一目置かれる技術力を持っている彼女を、一人の医師として認める者たちは確かにいる。
 だけど、同じ外科の先輩医師――ことさら四十代後半あたりの者たちからは、「小娘が出しゃばるな」と毛嫌いされ、鬱陶しがられている。
 そのことを静香自身もなんとなくわかっていた。今日のように、陰口を叩かれている場面に遭遇した経験もある。
 今日のように一人隠れて泣いたことも一度や二度じゃない。
 だけど、“上司と寝て執刀を任せてもらっている”と彼らの認識を知ったのは初めてで、これまでずっと耐えてきたものが、彼女の中でとうとう決壊した。

 静香が医師を志したきっかけは、女手一つで自分を育ててくれた母だった。
 将来お金をたくさん稼いで、お母さんに楽をさせてあげたい。なんて、今考えると下心しかない志望動機だったかもしれない。
 物心ついた頃から、静香にとっての家族は、母と、母方の祖父母だけだった。
 父親の顔なんて知らないし、これまで一度も会ったことがない。
 離婚していたのか、死別したのか、今まで聞いたこともないし、これからもそれはしないつもりでいる。
 向こうから話されれば、もちろんしっかり聞こうと思っている。けれど母の口から、父の話題が出たためしはなかった。
 小さな娘を育てるために、彼女は昼も夜も働いていた。
 疲れてクタクタになって帰ってきても、娘が起きていれば努めて明るく振舞っていた母の姿を、今でも鮮明に覚えている。
 元々なのか、母と祖父母が話し合って引っ越したのか、静香たちが暮らすアパートと祖父母の家は近い距離にあった。
 そのため、母が仕事で長時間家に居ない時や、保育園や学校の迎えに来られない時などは、よく祖父や祖母が代わりに来てくれた。
 病気で臥《ふ》せっている時に看病してくれたのは、八割が祖父母と記憶している。残りの二割――母が看病してくれた時、彼女はいつも苦しそうに顔をしかめていた。
「ごめんね、静香」
 小学生の頃、クラスで流行ったインフルエンザをもらってきてしまい、高熱を出したことがある。
 熱のせいで寝込んでいた時の記憶なんてもう覚えてすらいないのに、涙声で謝る母の声だけは今でもはっきり思い出せる。
 そんな子供時代を過ごしてきたせいか、静香は中学生になる頃には将来について考えるようになっていた。
 お金を稼げる仕事を目標に掲げ、方向性を絞るうえで彼女が考えたのは“人の役に立つこと”だった。
 その二点から医師という仕事にたどり着き、元々勉強が好きだった静香は、猛勉強の末に国立大学の医学部を受験、合格した。
 医大生の間は、奨学金制度を利用しながら専門的な勉強に励み、努力を重ね卒業。今では大病院の外科医として日々患者たちと向き合っている。
 医学部を卒業し、研修医を経て、後輩の面倒を見る立場にもなって数年。気づけばもう三十歳。立派なアラサーになっていた。
 そんな日々の中で、静香の心を時折ザワつかせているのが、先輩医師たちの陰口だ。
 これまでに何度も、「女のくせに出しゃばるな」と、静香を見下す男たちの声を偶然聞いてしまう機会はあった。
 同僚の医師たちは女性医師を軽視する傾向があるみたいだ。もちろん、同期や先輩、後輩など、大学で知り合った女性たちが、今も立派に医師として活躍していることを静香は知っている。
 しかし、運の悪いことに、この葉室総合病院の外科チームに、女性医師は静香一人だけなのだ。

 非常階段の踊り場に出た静香は、背後で扉が閉まる音を聞きながら、乱暴に踊り場の手すりを握りしめる。
 外気温と時折吹く風にさらされているからか、手すりはやけに冷たい。
 手のひらから伝わる冷たさが、心の内からふくれあがる熱をわずかに吸い取ってくれる。
「……っ、ふ、うぅ」
 だけど、中和出来ない熱量の方が多いせいで、静香の身体は頬周辺を皮切りにみるみる火照りだした。
 気づけば、冷却が追いつかない熱は涙に変わっていて、静香の瞳からボロボロ零れ落ちていく。
(私が、何をしたって言うの――)
 滅多に人が寄り付かない非常階段でも、いつ誰に見られるか、聞いているかわからない。
 こんな弱りきった姿を他に見られたくないと、静香は唇を噛みしめて必死に声を殺す。けれど、一度あふれ出た涙を止めるなんて芸当は出来ず、彼女はたった一人で悔し涙を流し続けた。
 男ばかりの外科で、先輩たちと対等に渡り合えるように、静香はこの病院に勤めてから“気の強い女を演じる”ようになった。
 元来彼女は、冷静沈着でありながらも、どちらかと言えば内気で大人しい性格だ。病院での強気な静香しか知らない同僚たちが、素の彼女を見ればあまりのギャップに驚くのは間違いない。
 それほど真逆な性格を、静香はほぼ毎日演じ続けている。
 男ばかりな外科で、女だからとバカにされないように。
 男性医師と対等な立場に立てるよう、静香は今でも努力を続けている。
 日々の勉強はもちろん、手術のシミュレーションをくり返して、技術や速度を向上させるなど出来ることはすべてやった。
 そのお陰もあり、彼女の実力はここの外科内で一、二を争うまでに成長していた。
 男性医師たちによる陰口は、実力があり過ぎる静香に対する妬みがほとんど、と言ってもいいのかもしれない。
 けれど、言われている当人はそれに気づかず、ただ純粋に、女だから先輩たちにウザったがられていると思っていた。
(早く、泣き止まないと)
 呼び出し用の携帯は首からストラップをつけて持ち歩いているけれど、いつまでも一人でいるわけにもいかない。
 とりあえず涙を拭こうと、ズボンのポケットに入れておいたハンカチを取り出し、目元を擦らないように涙を拭きとっていく。
 その時、不意にカツンと階段を踏み鳴らす音が聞こえた。
 ――誰か、いるっ!
「……っ」
 背後から聞こえた音に、持っていたハンカチを咄嗟に白衣のポケットに入れ、静香は慌てて振り向いた。
 勢いよく変わった視界に、上の階から降りてきた様子の男性医師の姿が映り込む。
 所々はねたダークブラウンのくせ毛と、スッと細められた鋭さがある眼差しがまず目についた。
 静香と色違い――ディープグリーンのスクラブを着て、その上に白衣を羽織っている。
 彼は同じ外科に勤務する先輩――葉室要《かなめ》。
 名字でもわかるように彼はここの院長の息子だ。そのせいもあってか、病院内では、“将来の院長様”なんてもっぱらな噂まである。
 三十五歳にして、この病院の外科医の中じゃ一番の腕を持っている、という話もチラホラ聞いたことがある。
 静香自身、彼が執刀する手術に、補佐として何度か参加した。そのたびに彼女は、葉室に純粋なまでの尊敬を感じるようになった。
 スピード、正確さ、状況に合わせた臨機応変な対応力、どれをとっても素晴らしい。その一言に尽きる手際の良さは、正真正銘の実力者に違いないと静香は感服している。
 そんな人が今、泣き止めない自分の前にあらわれたこの状況を、少しばかり恨めしく思ってしまう。
「泣いてんのか?」
 決して広くない踊り場で、静香と数歩分距離をあけて立ち止まった葉室が、おもむろに口を開いた。
「……っ!」
 聞えてきた声に驚くあまり、静香の肩が反射的に揺れてしまう。けれど、動揺がバレれば、イエスと言っているのと同じと思って、慌てて意識を切り替えた。
「泣いてません」
 声が震えないように、普段の口調と変わらない声を意識して唐突な問いかけを否定する。
 常に病院で気を張って過ごす静香にとって、いくら尊敬の念を抱く葉室が相手でも、今はどうしても警戒心が先立ってしまう。
 簡単に考えれば、弱っている自分を、家族でもない誰かに見られるのが嫌なだけ。子供っぽい考えをする自分に、内心苦笑いがこぼれかける。
 だけどこの虚勢が、今出来る精一杯の強がりだ。
(よかった、いつも通り……)
 平然とした態度を崩さず、しっかり否定出来たことがなんだか少し嬉しくなる。そのせいか、張りつめていた緊張の糸がゆっくり解けていく気がした。
「嘘つき」
「……っ」
 だけど、無意識にフーッと息を吐いていた時、呟くような低音の指摘が聞こえ、心臓がドクンと一際強く鼓動した。
 同時に、緊張の糸がまたピンと張ったのがわかってしまい、思わず大きく瞳を見開いてしまう。
 これじゃ、動揺が全然隠せてないじゃないかと、心の片隅で自分へ叱責する幻聴まで聞こえそうだ。
 ドクドクと鳴り止まない心音に気を取られていれば、見開いた目元――丁度左目の涙袋のあたりに少しひんやりした熱を感じた。
 無意識にその正体を探ろうとして、キョロキョロと目を動かしてしまう。
 すると、さっきまで上階へ続く階段そばにいたはずの葉室の姿が目に留まった。
 そしてもう一点。彼が静香へのばしただろう白衣に隠れた右腕も視界の端に見えた。
 目元に感じる熱は、もしかして彼の指なのかも。なんて意識した瞬間、ついさっき大きく跳ねたばかりの心臓がより一層激しいリズムを刻みだす。
「普段、院内じゃ嘘でガッチガチに武装してるくせに」
 ――こういう時だけ下手だな、お前。
 無意識に現実逃避したいと思ったのか、「あれ? 葉室先生って瞬間移動なんて使えたっけ?」なんて馬鹿げたことを考えてしまう。
 その途端に、耳に届いた葉室の声が、静香の努力――図星とも言える点をあっさり見抜いていく。
 視線の先にある口角が上がり、鋭かった目元が緩く弧を描く。どこか静香を小馬鹿にする笑いを零す様子が、やけにはっきり見えた。
 彼と視線が交わった瞬間、静香の体内を巡る血液が一気に熱を帯びだす。
 同時に、彼女の脳内に白いもやが立ち込め、意識をあやふやにし身体の主から理性を奪っていく。
(バカに、された)
 “ただ一点だけ”はっきりわかった認識を、不思議と強く意識させられる。
「――っ!」
 急に頭の中が真っ白になって、全身がマグマのように熱い。
 静香は湧き上がる熱と怒りに浮かされるまま衝動的にふり上げた右手を、葉室の頬めがけてふり下ろす。
 けれど、彼女の手は標的まで届かなかった。
 瞬きをする静香の目に映るのは、葉室に手首を掴まれた自分の右手だ。
 そんな状態じゃ、いくら力を入れたって思い通りに腕は動かない。
(……あっ)
 自分の身に起きたことを静香が理解していれば、ふと視線の先に見た無骨な指先に黒い欠片が付着しているのが見えた。
 ――あれは、私の、マスカラ?
 付着物の正体を察したからか、目元に感じた熱が葉室の指だったことも、芋づる式に理解していく。
 元々泣いていたのもあって、多少メイクが崩れても構わない。
 欠伸をして思わず目元を擦った、など、言い訳はいくらでも思いつく。
 その辺りは追々対応するとして、と考える静香の心に、「早くこの場から――葉室先生のそばから離れたい」という想いが強くなる。
(え?)
 そんな時、手首を握る葉室の手にほんの少し力がこもった。
「――っ!」
 何事かと思って瞬きをした勢いで彼を凝視する。葉室は特に何も言わず、突然静香の腕をクイっと引き、その身体ごと自分の方へ引き寄せた。
 咄嗟のことに上手くバランスを取るのが遅れて、ほんの数秒その場でたたらを踏んでしまう。
 このまま倒れるわけにはいかないと、静香は体勢を立て直そうと必死になる。
そんな中、視界に少し影が差し込んだことに気づいて、おずおずと顔ごと視線を上げる。
「……っ!」
 次の瞬間、唇に何かが触れたと気づいた彼女は思わず息をのんだ。
 驚くあまり数秒呼吸を忘れたものの、我に返った後、唇から伝わったやわらかさやあたたかさ、そしてどこかカサついた感触を脳が認識する。
 少し間を置いた後、自分の唇に触れたものが“葉室の唇”であり、自分がキスをされたことを嫌でも理解してしまう。
 唇が離れたと思った直後、ワザとらしくチュッとリップ音を立て、葉室は短く二度目のキスをしてきた。
 まるで、「俺たちは今、キスしたんだぞ」と、静香に状況を把握させるような行動だ。
 予期せぬ形でファーストキスを奪われたことを理解した静香の頬にじわりと熱が差していく。
 頬を起点に熱はみるみる広がっていき、顔全体と首の辺りが一際熱く火照りだすのがわかった。
 突然の火照りに軽くパニックを起こした静香は、現状への対処法がわからないあまり身体を強張らせてしまう。
「な、なっ……何、をっ!」
 怒りに任せ精一杯叫ぶと、期待に反して実際にはか細く震えた声がこぼれていく。
「院内って禁煙だろう? だから口寂しくて……何か誤魔化す方法探してたんだ」
 希望と真逆な現実に困惑する静香を尻目に、それまで掴んでいた彼女の腕を離した葉室は、チラリと院内へ続く非常口を見つめる。
「手っ取り早く誤魔化せる方法が見つかってよかったぜ」
 彼は再度静香の方へふり向くと、何故かニヤリと意地悪く口角を上げて笑った。
「……?」
 これまで、仕事が絡んだ最低限の言葉しかかわした記憶のない相手なせいか、彼の発した言葉の意味すべてをすぐ理解出来そうにない。
 真意がわからないと言いたげに、静香はキョトンと首を傾げてしまう。
「俺が口寂しくなったら、その都度キス一回な」
「……へっ?」
 自分が言いたいことだけ口にした葉室は、院内へ戻るのか非常口までの短い距離を歩きだす。
 途中、ゆるりと上げた片手をひらりと揺らしたかと思えば、すぐに彼の背中は扉の向こうへ消えていく。
 非常口の扉が閉まるのとほぼ同時に、突然の宣言を聞いて唖然とする静香の口から気の抜けた声が漏れた。

第二章 終わりの見えない気まぐれ

 外科担当の医師葉室要を知らない、なんてスタッフの方が、この病院内では珍しいかもしれない。
 確信にも似た気持ちを抱けるほど、彼は色んな意味で有名人だ。
 葉室総合病院院長の息子としてはもちろん、外科医としての技術はこの病院内で十中八九ナンバーワン。
 現外科部長にも一目置かれている存在であり、看護師たちの間では、次の部長は葉室じゃないかという噂で持ちきりなことを静香は知っている。
 仕事面ではかなりパーフェクトに近い男という印象だ。
 その反面、彼の性格、言動は万人受けしない。
 百八十センチ超えの長身に加え、目つきが鋭いせいで、転院してきたばかりの患者さんが度々彼を怖がっている話を、看護師経由で聞くことがある。
 けれど、彼が担当についた患者さんたちは何度も葉室と接するうちに“とても良い先生だ”と評価しているらしい。
 理由の一端は、不安がる患者たちのどんな些細な質問に対しても、相手がわかるまで説明しているからに違いない。
 静香はその場面に、これまで何度か出くわしたことがあった。
 決して笑顔を見せたり、優しい口調で話したりしない。そんな葉室と何度か接し、彼が懇切丁寧に治療方針や手術について説明する姿を見ているうちに、患者たちの緊張も次第に取れて、信頼しているみたいだ。

 病院内に葉室が戻ってから数分。階段の踊り場で一人になった後も、動悸は治まってくれず心底困った。
(あぁ、もう……何なのよ、本当に)
 無意識にはぁ、と吐き出したため息を聞く人間は自分以外誰もいないことに、内心酷く安堵してしまう。
 吐息がやけに熱いのも、頬や首筋、耳元の辺りが妙に熱っぽい気がするのも、残暑のせいなのか、なんて考えながら気を紛らわす。
 その熱源を突き止めようとしてなのか、静香の指先が無意識に顔へのび、唇へたどり着いた。
 リップが所々取れた唇を指の腹で撫でた瞬間、頭の中にあの男――葉室の声がよみがえる。
「普段、院内じゃ嘘でガッチガチに武装してるくせに」
 あの口ぶりは、非常階段で静香が一人になることを知っているように聞こえた。もしかしたら彼は、ここで静香が泣いていることも知っているのかもしれない。
 最悪な場面を見られたと肩を落としたまま、気持ちまでズーンと落ち込み、なかなか浮上してくれそうにない。
「俺が口寂しくなったら、その都度キス一回な」
 もう少し時間をズラしていたら、バレなかったのかも。なんて考えた瞬間、今度はさっきと違う彼の声が頭の中によみがえる。
「どうして、あんなこと……」
 葉室に対して、仕事にしか興味のない人と思っていた静香にとって、たった数分前の出来事は衝撃でしかなかった。
 まさか彼まで、嫌味しか言わない先輩医師たちと同類なのだろうか。
 紅一点な自分をからかって、陰で笑うような人なのか……と、つい悪い方に考えてしまう。
 いくら悩んだところで、真相はわからないうえに、葉室がそばに居ない今は確かめるすべもない。
 静香はただ戸惑うしかなく、「嘘よ……」「まさか、ねぇ?」と、しばらく独り言に近い自問自答をくり返した。
 これまで葉室に抱いてきた印象と真逆な言動を目の当たりにした衝撃は、彼女を混乱させるには十分すぎるインパクトだ。
 普段なら考えなくていいことで悩んでしまうせいで、術後で疲労した脳が余計に疲れていく気がした。

 非常階段でのことは、葉室が泣いていた自分を元気づけるためにからかい半分でついた嘘。
 あの日からしばらく悩み抜いた静香は、一つの結論を導き出し、それを “事実”と思い込もうとしていた。
 だけど現実は、彼女の願いを簡単に裏切っていく。
 ある日、外科の定例会議が終わり、皆散り散りに会議室を出て行った後。たまたま最後に部屋を出た静香の手首を誰かが唐突に掴んできた。
「……えっ?」
 突然何だと驚いてふり向けば、自分を見下ろす葉室と目が合う。
「こっち」
 驚いた様子でパチリと瞬きをする静香への説明なんて一切なしに、葉室は彼女の手を引いて歩きだした。
 どういう訳か、会議に出ていた医師たちの大半が去って行った方向と真逆の通路を彼は静香と一緒に歩き続ける。
 何か用事があるなら話しかければいいのに、彼は無言のまま立ち止まってくれない。
 唐突な葉室の行動の意図が知りたい一心で、「は、葉室先生!」と何度も名前を呼ぶ。
 けれど、葉室はまったく反応を見せず歩くだけだ。
 掴まれた手を離してもらいたくて、時々揺らしてみても効果はゼロ。
 気づけば、患者への個別説明や少人数での話し合いの際利用している小会議室の前に連れてこられた。
 会議室のドアを開けた彼に、先に中へ入るよう促され、言われるまま歩を進める。すぐに後ろから自分と違う足音も聞こえ、葉室も会議室の中へ入って来たのがわかった。
 ――まではよかったのに、間髪入れず静香の耳に、“ガチャリ”とドアの鍵を閉める音が届く。
「っ! いきなり何なんで……っ!」
 聞えてきたそれに驚いた静香は、慌てて後ろをふり向き抗議の声を上げた。
 けれど、張り上げた声は不意をつくように重ねられた唇に遮られてしまう。
(なっ! 何、これ……)
 唇に触れる自分とは違う熱を持つカサついたそれは、どこか覚えのある感触だ。
 頭の中が一瞬真っ白になりかけた静香は、声と一緒に呼吸を忘れかけた。
 霧が晴れて意識と思考がクリアになるまで、実際はきっと数秒程度。だけど静香にとってその数秒は、数分以上の感覚に思えて仕方ない。
 どうしてそんな錯覚を起こしたのか、体験した本人にはさっぱりわからない。
 彼女が理解した数少ない情報は、自分に唇を重ね、キスをしてきた相手が葉室ということ。
 キスをした瞬間、条件反射で大きく目を見開き身体が無意識に強張ったこと、くらいだった。
 会議が終わってまだほんの数分。されどたった数分間に自分を襲ってくる衝撃の数々が、あまりにも強烈すぎる。そのせいで理解がまったく追いつかない。
 見開いたままだった目を無意識にパチパチと瞬かせていると、重なっていた彼の唇がゆっくり離れていく。
 口元に感じていた熱が引いていく感覚に、「あぁ、終わった」と静香は内心安堵した。
「……んっ!」
 のもつかの間、二人の唇は葉室からのキスでもう一度重なってしまう。
 てっきり一度で終わると思っていたキスに、静香は思わず身体を強張らせた。
 ただでさえ理解が追いつかず混乱しているのに、続けざまのキスで頭の中がかき乱され、何も考えられなくなる。
 パチパチと瞬きをくり返す静香の姿に、一体彼は何を思うのか。
 いくら静香が考えたところで、きっと一パーセントもわからない。
 ほんのひと時静香が現実逃避をしている間も、強張りが解けない身体へ、白衣に覆われた葉室の太い腕と指の節々が骨ばった手がスルリとのびていく。
 自分の身体に触れる熱を、頭の片隅で認識しているのに、払いのけようとする力が出ず、ただ触れられるまま葉室を受け入れてしまう。
「……っ、は」
 脳内が半クラッシュ状態に陥った静香の背中に、ゆっくりと葉室の両腕がまわされるのが感覚でわかった。
 同時に、彼は静香の唇を解放して、何故かクスッと小さく笑いを零す。
 そのかすかな声をどこか遠くに聞く静香の背中にまわされていた腕も解かれ、葉室に支えられていた彼女の身体は解放された。
 小会議室に入ってから自分の身に起きた出来事への理解が追いつかないまま、静香は今もなおただ唖然と立ち尽くすばかり。
 そんな彼女の黒く艶々したボブヘアーに指を通した葉室は特に何も言わず一足先に部屋を出て行った。

 非常階段の踊り場で聞いた、「口寂しくなったらキスさせろ」宣言を、静香は単なる冗談ととらえていた。
 それなのに彼女の願いも虚しく、“会議直後のキス事件”を発端に葉室要はキス魔に変貌していった。
 数日に一度や二日連続など、彼に捕まる日時予測は困難。
 それだけで終わらず、キスを要求される場所も予測が難しい始末だ。
 外科の入院病棟で捕まるのはもちろん、手術後の着替え終わりの通路なんてこともある。
 時に一階の待合室横で、「野崎先生」と呼ばれ捕まってしまい、周囲に患者たちが居て逃げられない状況になることもあった。
 そして二人きりになった途端、葉室は予告なく静香の唇を奪っていく。
「ニコチン切れた……」
 なんてボヤいた直後にキスをされることもあり、彼の奇行が五回を超えた頃から、「あの予告は本気だったんだ」と、頭の中で妙に納得する自分に気づく。
 葉室曰く“口寂しさを紛らわせるキス”らしいけれど、正直彼の都合に付き合う気になんてなれなかった。
 それなのに、どうして静香は彼に何度もつかまっているのか。
 理由は簡単。葉室がしつこいからである。
 捕獲される回数が両手になった頃から、静香は毎回、「どうすればキスを回避出来るか」を考えるようになった。
 すぐに思いついたのは、「葉室先生のそばに居なければいい」という単純なもの。
 書類仕事をする時などに利用する医局の壁にかけられたホワイトボードには、日々その日に行われる手術予定が書き出されている。
 どの手術室を使うか、大まかな手術予定時間、そして執刀医の名前がズラリと並ぶ一覧。
 ボードを見る際、静香がこれまで気にかけていたのは、自分の記憶と一覧を照らし合わせることくらいだった。
 けれど、回避策を見出してからは、葉室のスケジュールも気にかけ、出来るだけ彼との接触を回避しようとした。
 それなのに――。
「野崎先生、電話鳴ってますよ」
 ある日、入院病棟担当の看護師と話し込んでいる最中、別の看護師から携帯電話の着信を指摘された。
 自分の失態を反省した静香は、看護師たちにお礼を言いながら一人その場を離れていく。
 内心、「まさか……」と思いながら首からぶら下げている携帯を手に取る。すると液晶に“葉室”の文字が表示されていて、条件反射のあまり、「うげ……」と嫌悪丸出しのボヤきが口から零れた。
 ついさっきまで居た場所から数メートルほど離れた所で立ち止まると、動きの鈍くなった指を動かし、携帯を通話モードへ切り替える。
「何でしょうか、葉室先生」
 こんなことで嫌がっていてはいけない。もしかしたら本当に急用かもしれないと、必死に心を落ち着かせながら、電話の向こうにいる相手へ話しかけた。
「――地下一階のリネン室」
 それなのに、たった数秒の通話時間でプツンと電話が切れてしまう。
 耳元で聞こえた葉室の声は、一方的に場所を伝えるだけのもの。
 静香は通話終了を知らせる音を聞きながら、こめかみがピクピク痙攣する感覚を覚え、一度周囲を警戒し視線を走らせる。
 誰も近くに居ないと分かった途端、静香は盛大なため息を吐いた。
(これで、行かなきゃ……はぁ)
 自分がすべき行動を悩みながら、すでに通話が切れた携帯を操作し、過去の着信履歴に目を向ける。そこにズラッと並んでいる名前のほとんどが“葉室要”だ。
 葉室との攻防に活路を見出した静香を裏切るように、ここ数日彼からの呼び出し電話が絶えない。
 緊急の電話なら留守電にメッセージを入れるなり、自分を探しに来るだろうと最初は着信を無視していた。
 だけど葉室はどちらの行動も起こさず、ただ定期的に静香へ電話をかけてくるだけ。
 一人ポツンとたたずむ通路で、何度目かわからないため息を吐き、「葉室先生が飽きるまで付き合うしかないのか……」と、自分に逃げ場が無いことを悟った。

 葉室から指定されたリネン室に到着した静香は、つい周囲を警戒しながら、コンコンとドアをノックした。
 すると中からドアが開き、先に来て待っていたらしい葉室と目が合う。
 無言のまま、一歩下がる彼から視線をそらした静香はリネン室の中へ入ろうと歩を進めた。
(あぁ、逃げたい……)
 気を抜けば心の中でボヤく本音が声になりかねないと、思わず口元に力が入る。
 だけど静香ももう三十歳。いい歳をした大人が子供じみた言動をするわけにもいかず、「さっさと終わって……」と新たなボヤキを心の中に留めた。
 入口から数歩進んだあたりで静香が立ち止まれば、すぐさま彼女の腰に葉室の片腕がスルリと回される。
 未だ慣れない感覚に、文句の一つでも言おうと口を開くと同時に、グイっと強い力で彼の胸元へ引き寄せられる。
「んっ、ふ――」
 そして息つく暇も無く、葉室はいとも簡単に静香の唇を奪っていった。
 腰に回される腕に一瞬身体が強張り、塞がれる唇に数秒呼吸を忘れた。
 真っ白になりかけた頭を必死に働かせ、静香は自分が置かれた状況――葉室に口付けられた現実を認識する。
 もう何度目か数えるのすら面倒なほど、目の前にいる男にキスされてきた。
 本気で嫌なら、しつこく電話がかかってきても徹底的に無視すればいいだけのこと。
 それなのに静香は毎度律儀に彼の元へ来て、今のように一方的なキスをされる。すべてされるがままの状態だ。
 不意に、背後からキキィと物音がかすかに聞こえ、パタンと扉が閉まる音が続く。葉室がドアを閉めたのかもしれないと、思わずホッとする。
(誰かに見られたら大問題だものね)
 きっと彼も、そのことはちゃんとわかっているはず。
 なんて考え、ひとまず腰に回された腕から逃れたくて、軽く身動ぎをして訴えてみる。
 けれど彼の腕は離れていかず、それどころか、「暴れるな」とでも言うように腰を抱くそれに力が入った。
「もう……いい、でしょう……んんっ」
「まだ足りない」
 そのせいで二人の距離はより一層近くなる。
 一度キスをしたなら、さっさと止めてくれればいいのに、その後数分経っても、葉室が静香を解放してくれる気配はゼロだ。
 息継ぎのためにほんの一瞬唇が離れた隙をついて顔を背け、必死に抵抗しても無駄だった。その都度彼の手でグイっと顔の向きを正されては、何度もキスがくり返される。
 この習慣が始まった頃は、チュッと触れるだけのキスを一度すれば、すぐに解放されていた。
 だけど、日を追うごとにキスの回数が増えていき、キスの深さも変わり、濃厚で深いものになっている。
「――っ! ん、ふっ、はぁ」
 息苦しさを感じた静香がわずかに唇を開けた時、そこに出来た隙間から突如葉室の舌がヌルっと割り込んできた。
 やけに熱く火照る肉厚な舌に戸惑う静香は、思わず手近にあった彼の白衣を握りしめる。
 きっと葉室は、困惑する静香のことなんてお見通しだ。そして構うことなく、彼女の歯列をなぞり、敏感な粘膜を舐っていく。
(早く、出ていって)
「……っ、ンン」
 どうにか葉室の舌を押し出そうと、自分のそれを押しつけグッと舌先に力を込めた。だけど彼は出ていくどころか、静香の小さな舌を易々と絡めとっていく。
 葉室は自身の舌で、時に弱く、時に激しく、静香の口内を愛撫し続ける。
「んっ、んんっ、ぁ」
 諦めきれず、静香も必死に舌を動かすものの、その度に彼の舌につかまってしまう。
 クチュリと舌の側面にある敏感な部分を愛撫されれば、全身から一瞬力が抜けそうになった。
 時間が経つにつれ、一方的な愛撫が生み出す快感は、少しずつ静香の理性と意識を溶かしていく。
 彼女の口端から時折漏れる吐息は、数回に一度熱と色気が混ざったものに変わった。
 羞恥心を煽る音のせいで、耳や頬、そして首の辺りを酷く熱くなる。
 学生時代は勉強漬け、医者になってからは偽りの仮面を被っての生活。そんな日々の弊害は、静香を恋愛と縁遠い女にしてしまったことだ。
 多少なりとも、素敵だなと思う男性が居なかったわけじゃない。けれど、恋愛より少しでも知識や技術を身に着けたい欲の方がいつも勝ってしまう。
 その結果、ようやくキス魔から解放された頃には、静香の顔は茹でだこのように真っ赤になり、身体の至る所から火照りを感じるようになっていた。

 リネン室で舌をねじ込まれて以降、どういう訳か、葉室からのキスは深くていやらしく、長時間になるパターンが増えた。
 慣れない口づけに毎度顔を赤く火照らせ、ついには腰が抜けた静香を見て、葉室はいつだったか、「ガキか」と小馬鹿にした様子でボヤいたことがある。
 その態度にムカつくあまり、彼の足の甲を思いっきり踏んだことは後悔していない。あの日ほど、「ピンヒールでも履いていれば」なんて、ついらしくないことを考えた。
「い、いつまでこんなこと続けるんですか!」
「んー……もうしばらく?」
 やっぱりからかわれている気がして、つい声を荒げたことも一度や二度じゃない。だけど彼は特に気にする様子も無く、静香が不満げな態度をとるたび、「禁煙、付き合ってくれよ」と、力なく笑うのだ。

 自宅があるマンションと、病院を行き来し、少し時間があれば時々必要なものを買いに出かける。
 最早ルーティーンに近い生活を、静香はこれまで何年も続けてきた。
 勤務中もそうだ。基本は、手術の成功、患者の容態を考えて集中する毎日。
 時々会議に出席、あとは患者や看護師たちとの交流。それが彼女にとって、“当たり前な”日々。
 それなのに、葉室に秘密を知られてから、彼女の中にあった“不変な毎日”が確実に変わった。
 静香自身それを認識しながら、「早く葉室先生が飽きてくれればいい」と心の中で願う。けれど、日々彼と二人きりで過ごすたった数分の時間は、静香の中に新しい気持ちを密かにに根付かせている。当人は、まだ芽吹いていないその想いを自覚すら出来ていなかった。

 残暑が終わり、頬を撫でる風も冷えてきた秋深まるある日。
 静香は一人、また非常階段の踊り場に来て景色を眺めていた。
 紅葉が綺麗な木々を見下ろす視界は、ふとした瞬間に歪んでいく。
 原因が自分の涙だと悟った静香の脳裏に、偶然聞いてしまった男性医師たちの会話がよみがえる。

「そう言えば、今度外科部長が学会で出張すると聞きましたけど……同行者に誰を指名するんでしょうね」
 今日予定していた手術を終えた彼女は、気分転換を兼ねて院内をブラついていた。
 すると不意をつくように、静香が歩く通路から別方向にのびる通路――その数メートル先から話し声が聞こえてくる。
「部長はギリギリまで同行者を決めないから、ついて行くこっちも荷造りとか大変だよな」
 思わず立ち止まって、ちらりと柱の影から様子をうかがえば、外科の先輩医師が別の科の男性医師と話している様子が見えた。
 外科の先輩は、普段から静香に嫌味を言う人だ。盗み聞きをしたなんて知られたら、また嫌味ったらしくお小言を言ってくるかもしれない。
 ここは二人に気づかなかったふりをして通り過ぎるのがベストかもしれない。
「何の話をしているんですか?」
 なんて考えていたら第三者の声が聞こえ、その場を立ち去ろうとしていた静香の動きを鈍らせた。
 思わず留まってしまった静香は、歩きだすタイミングが掴めず困惑した。
 彼女の耳は、その間も数メートル先で続く会話を拾っていく。
「今度外科部長が学会で出張するでしょう? お供は誰になるのかなって話してた所だよ」
 会話に新しく参加したのは、若い印象を受ける男性の声だ。研修医の誰かか、なんてつい考えてしまう。
「あぁ、それなら僕知ってますよ。たまたま、外科部長とうちの部長が話してるの聞いちゃって」
 ――野崎先生らしいですよ。
「……っ!」
 別の科の先生から投げかけられた問いに答える声が、不意に自分の名前を紡ぐ。
 その声を聞いた瞬間、静香は来た道を引き返し、そのまま逃げるように非常階段へ避難していた。
(学会の出張……断っちゃおうかな)
 いつもの避難場所にやってくる原因を思い出したせいか、喉に空気がつかえている気がして、盛大なため息としてそれを吐き出す。
 彼らが噂していた同行の件は確かに事実だ。
 数日前、初めて、「一緒にどうかね?」と誘われ、驚きと戸惑いを感じたことを思い出す。
 すぐにその場で返事が出来れば良かったけれど、静香はまだ明確な返事をしていない。
 滅多に無い交流の場に参加でき、様々な意見が聞けるという同行者特典は、正直とても魅力的で知識欲をそそられる。
 けれど、さっきの陰口を聞いた手前、仮に出張に同行したとしても、純粋に知識を吸収するなんて出来そうにない。
 出世欲塗れの下心を持ち部長に少しでも自分を売り込むため、今回の出張に同行したい先輩たちは多い。
 静香の同行を本格的に知れば、きっと彼女を毛嫌いする人たちからのあたりが強くなる。出張当日まではもちろん、出張を終えた後も陰口を叩かれたり、ネチネチ嫌味を言われるのは簡単に想像出来る。
(やっぱり断ろうかな……)
 自分の中で左右にゆらゆら揺れていた気持ちの針が、マイナス思考へ大きく傾いていく。
 集中出来ない状態じゃ、逆に部長に迷惑をかけるかもしれない。
 なんて、もっともらしい言い訳を頭の中で羅列していた時、カツンカツンと階段を踏み鳴らす足音が聞こえた。
「あ、こんな所に居た」
 誰かと思って、目尻に溜まった涙を咄嗟に拭って振り向けば、“あの日”と同じ上の階から階段を降りてくる葉室の姿が目につく。
 またキスされるのかと、静香は警戒するあまり、一歩下がり距離を取った。
「まーた泣いてやがったのか」
 ――何悩んでんだよ、お前は。
 そんな彼女の隣へやってきた葉室は、キス魔になってから初めて、静香の唇を奪わず不思議そうに首を傾げた。

「他人のひがみなんか気にせず、行ってくりゃいいだろ」
「そんな簡単に、割り切って考えられる問題じゃないから困ってるんじゃない!」
 結局あれから、「愚痴りたいなら愚痴ればいい」と言い出す葉室の話術に乗せられ、静香は先程あったことや出張のこと、自分の想いをポツポツ吐き出してしまった。
 こちらの警戒に反して何も仕掛けて来ない葉室に拍子抜けしたせいか、静香はいつもの強気キャラの仮面を被り忘れて口調が素に戻ってしまう。
 しかも、優しく声をかけられるせいで、何度も目に涙が浮かんだ。
 最初に素の自分を出してしまった手前、今更いつもの仮面を被る気になんてなれず、葉室が嫌悪感を示さないのをいいことに、そのまま話を続けている。
 最初は出張のことだけ話すつもりが、一度グチり始めたせいか、止め時が見つからない。
 葉室からストップがかからない状況に甘え、気づけば仕事中虚勢を張っていたことも、女だからと日々見下される悔しさも、すべて言葉にしていた。
 静香の愚痴を聞く彼の口から時折、「うわぁ……」やら、「ふーん」なんてかすかな声量の相づちが零れる。
 それは、静香にとって潤滑油代わりにしかならず、かれこれ十分近くほぼノンストップで喋り続けてしまった。
 冬が近づく今、冷たい風に晒される場所に黙って立ち続ければ、寒さで身体が震えてくるはずだ。
 だけど静香は、特別寒さを感じたりしていない。嫌な記憶を思い出しながら喋っていたせいで感情が昂り、身体が知らないうちに火照っていたのかもしれない。
 だけど、ほとんど黙って聞き役に徹してくれていた葉室は違う。
「…………」
 ちらりと隣へ視線を向ければ、「寒くなってきたな」とぼやく声が聞こえる。
(さっさと話を切り上げて。何か温かいものでも奢らなきゃ)
 院内にある自販機に、ホットの飲み物があったはずだ。なんて、自販機が並ぶエリアを思い出しながら、もう一度葉室を見上げる。
「葉室先生……出張、代わってくれません?」
 葉室も静香の視線に気づいて視線を合わせてくれた。その瞬間、「中に入りましょう」と口にするはずが、静香は違う言葉を口にしてしまう。
「……っ!」
 自分で言った言葉なのに、「えっ?」と驚きを隠せない静香は咄嗟に口を噤む。
 何故葉室に代役を打診したのかと、数秒前の自分の気持ちを思い返してみると、“思わず本心が”口をついて出たとしか思えなかった。
 葉室に愚痴をこぼしたからと言って、「気持ちを切り替えて出張のお供へ!」なんて考えられそうにない。
 そこで、代役を頼む相手を考えた時、真っ先に思いつく顔が他の誰でもない葉室だったりする。
 ここ最近の奇行に戸惑いは拭えないものの、彼の腕や知識は確かなもの。きっと部長に同行すれば、彼はまたステップアップ出来るはず。
 そんな、願いを無意識に込めた打診の声を静香が発し、ひと呼吸置いた直後。
「はぁ? お前それ、マジで言ってんのか?」
 心底面倒くさいと言いたげなため息と訝しげな声が聞こえてきた。
 しかも、眉間に皺を寄せた葉室の呆れた視線まで貰ってしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。

 結局静香は、残念そうな表情を浮かべる外科部長に何度も頭を下げ、出張の件を丁重に辞退した。
 今度都合が合った時は是非に、と“次”を軽く打診されるも、ひとまず笑ってごまかし明確な返事は避けておく。
 それから十日後、部長が出張へ出発する日がやってきた。今日から彼は、別の男性医師を供につけ二泊三日の出張へ向かう。朝一の新幹線に乗ると言っていたので、朝からその二人の姿を見ていない。
 悩みの種がなくなった静香は、いつも通りに仕事を終えると、帰宅していく職員たちから少し遅れ病院の裏手にある通用口へ向かった。
 警備員に挨拶をして外へ出れば、すっかり暗くなった空が目につく。
(……もうすぐ八時、か)
 数秒ほどそのまま夜空を見上げ、ふと時間が気になり、視線を自身の左手首へ向ける。
 愛用している腕時計を見れば、もうすぐ長針が頂点――夜八時を指そうとしていた。
 手元へ向けていた視線を上げて辺りを見回す。仕事を終えて帰宅する職員の波が丁度途切れているのか、静香以外に人影はなさそうだ。
(よかった、誰もいなくて……)
 ほんのひと時でも落ち着ける空間が出来たことに、静香はホッと息を吐きだす。
 そして無意識に安堵した彼女は、ひと呼吸置いて通用口を離れ歩きだす。目指すは職員専用の駐車場だ。

◇  ◇  ◇

 時間は数カ月ほど遡った梅雨の時期。連日雨が続くなか貴重な晴れ間がのぞく日のこと。
 その日要は休憩時間を利用して、滅多に人の来ない非常階段の踊り場にいた。転落防止用の柵に上半身を預けて、そこへもたれかかりながら一服する。
 彼にとって、このタバコ休憩は仕事中の貴重な息抜きだ。
 ぼんやりと空を見上げていた時、不意に下の階から、「グスッ」と鼻をすする音が聞こえる。
(また、泣いてんのか……あいつ)
 音につられるように、柵に片腕をついた要は、上半身を少しばかり前のめりにして真下にある下階の踊り場を覗き込む。
 視線の先で見つけたのは、今の時期貴重な太陽光に照らされる黒髪と、医師を表す白衣の白の二色。
「……グスッ、私が、何したって言うの」
 同時に、同じ外科で働く女性医師の嗚咽が耳に届く。聞く人間の心を揺さぶる音だ。
 視線の先に居るだろう人物の姿を脳裏に思い描いた瞬間、彼は口に咥えていたタバコのフィルターへ無意識に歯を立てる。
 苛立ちと困惑、そして――行動を起こせない自分へのもどかしさに、要は心の中で盛大に舌打ちをした。

 要が医者を志した動機に、大層な理由なんて無かった。
 院長をしている父から、「好きな職に就いて構わない」と言われたものの、特別なりたい職業が思いつかなかった、と言った方が正確かもしれない。
 それなら、敷かれたレールの上を歩く未来で構わないと、彼は医学部のある大学を受験し見事合格した。
 研修医時代は、一定期間ごとに様々な科でお世話になり、それぞれの特徴を学んできた。結果、一番自分に合った外科医の道を選び、気づけばもう三十五歳だ。
 研修医時代、お世話になった大学病院で医者たちの裏の顔――患者には決して見せない姿を、要は何度か目にする機会があった。
 下心満載の上司へのごますりに、属する派閥の対立。同期同士での蹴落とし合いなど、患者には決して見せられない面ばかりだ。
 研修医の頃から、要の優秀さは抜きん出ていた。そのためか、研修終了が間近に迫った頃、大学病院から、「このまま働き続けないか」と誘いがかかったこともある。
 けれど要は、そこで働く医師たち大半に嫌悪感しか抱けなかった。
 丁重に、だけどきっぱりと誘いを断った後、彼は勤務先として父親が経営する病院を選んだ。
 そこからかれこれ十年近く。研修医時代より殺伐としていないが、この病院にも自分本位な医者が一部居ること知った。
 そのせいか、人間関係がこの上なく煩わしくなった要は、医師や看護師たちと仕事以外での付き合いを断っている。
 もちろん仕事の時は話をするし、連携を怠ったりしない。けれど、一歩病院の外へ出れば、それまで。
 なんて生活を続けていたせいか、気づけば要は院内で孤立――“一匹狼の葉室先生”になっていた。
 だからと言って、今更躍起となって親しくなろうとは思えない。
 先輩医師たちに、「ウチの派閥へ来ないか」やら、「院長と懇意になりたいから橋渡しをしてくれ」といったニュアンスの話題を持ちかけられる方がよっぽど面倒だ。
 医師として働く間、終始孤立を選ぶか、組織内のパワーバランスに取り込まれるか、二つの未来を頭の中で天秤にかけた時、五秒もせず答えは決まった。

 その後もコミュニケーションは仕事中だけに留め、要は手術や会議に忙殺される日々を過ごした。
 多忙を極める業務の間、時折出来る休憩時間、彼はふらりとある場所を目指す。
 そこは、滅多に人の来ない非常階段の踊り場だ。そこで紫煙を燻らせる間、要は何も考えずにいられ、唯一心からリラックス出来る。要にとって数少ない癒しのひと時だった。
 けれど数年前、外科に新しく配属された女医――野崎静香があらわれてから、彼の癒し空間に自覚無しの来客が訪れるようになった。
「女が、医者になっちゃいけないって言うの?」
 始まりはいつだったか、要自身も覚えていない。いつもと同じようにタバコをふかしていた彼の耳に、突然涙声が届いた瞬間、要は“強気の仮面を外した後輩”を認識した。
 その後、一人で休憩していると、数回に一度のペースで一人隠れて泣く彼女を見かけるようになった。
 外科の先輩たちが、静香に対する陰口を囁き合う現場に遭遇しかけたこともあったせいか、涙の理由はすぐ見当がついた。
(でも……見られたくないし、聞かれたくないよな、泣いてる所なんて)
 本当なら、すぐ駆け寄って愚痴でも何でも聞いてあげられればいいのかもしれない。
 けれど、自分たちの性別は真逆。静香が泣いている理由を察する身として、声をかけること自体を要は躊躇うしかなかった。

 静香の秘密を偶然知ってからしばらく。彼女が一人で涙を流す姿を目撃してしまう回数が二桁になって久しい頃。
 相変わらず要は、どうしたものかと頭を悩ませるばかりで、一向に行動を起こせずにいた。
 二人の接点は単に同僚というくらいで、特別親しい間柄じゃない。そんな男がいきなり、「大丈夫か?」なんて声をかければ、怖がるか嫌悪するかの二択に決まっている。
 要自身、相手にどんな印象を抱かれようと、特に気にしたりしなかった。
 それは、自分の発言で相手が怒ったりする場合も同様。多少面倒だとは思うが、男相手なら、割と自分の意見をズバズバ言う性格だ。
 とは言っても、相手が女性や子供、気弱そうな男相手なら、多少発言には配慮する冷静さも持っている。
 自分の性格や言動、それらが相手に与える印象について、経験と分析を重ねてきた要が、静香相手に初めて頭を悩ませている。
 静香がこの病院に勤めて数年、要は要なりに、野崎静香という医師を見てきたつもりだ。
 静香が執刀する手術を見学したり、要自身が執刀する手術の補佐役を任せる機会も一度や二度じゃない。
 加えて、会議の席で意見を求められれば、きちんと自身の考えを口にする。
 例え先輩や部長が相手でも、遠慮なんて一切せず意見する強気な彼女を、要はこれまで何十回と見てきた。
 周りの男たちにも引けを取らない“勝気な言動”は、野崎静香の性格そのもの。
 疑いもしなかったそんな認識が、この数カ月でガラガラ崩れ落ちていく音が頭の中に何度も響いた。
 自分以外この場に居ないと思っているせいか、静香は時折疲れた声でため息を吐くことがある。
 泣き虫な彼女にとって、皆の前で貫こうとしている“強気キャラ”は、もしかしたらしんどいのかもしれない。
 時折、静香が患者と話をしている所を見かけたこともあった。
 その時の彼女は、先輩医師たちの前で鋭くする視線を目尻と一緒にやわらげて、不安そうな患者たちに寄り添っているように見えた。
 きっとその姿こそが“本当の野崎静香”なんだろう。
 優しくて泣き虫で、この上なく自分のことに不器用な彼女の涙を見るたび、要は一人考えた。
 陰口を叩かれ傷ついた気持ちを、ほんのひと時でも忘れさせてやりたい。
 その方法を考えながら、要は今日もまた紫煙をくゆらせる。
(流石に俺も、そろそろ禁煙考えなきゃ、だよなぁ……)
 ぼんやり空を見上げていた視線が、ふと短くなったタバコに向いた。
 現在三十代半ば。一度汚れた肺はもう綺麗にはならないと理解しながら、つい惰性的に続けていた喫煙とも、そろそろ縁を切らなければと最近思うようになった。
 だからと言って、いつまで禁煙の意欲が続くか、正直要にも未知の世界だ。
 口寂しくなったら、飴を舐めたり、ガムを噛んだりすればいいのかと、安直な方法を思案する彼の耳は、今日もまた下の階から“彼女のすすり泣く声”をキャッチする。
(そうだ。いいこと考えた)
 次の瞬間要は妙案を閃いた。自分の口寂しさを紛らわせ、静香の気を紛らわせられる――一石二鳥な解決策を。

第三章 酔っ払い女が知らない気持ち

 静香が仕事を終えてから一時間後。彼女は葉室の誘いを受け、彼がたまに来るというダイニングバーに連れてきてもらった。
「穏健派な部長が、まさか町田《まちだ》先生を連れてくとは……あいつ、出世欲の塊みたいな男じゃねぇか」
「私も驚きました」
 カウンター席に並んで座り、葉室はノンアルコールのワインを、静香はノンアルコールのカクテルを嗜みながら、数点頼んだ食事に手を付けていく。
 二人の話題は、もっぱら同僚医師たちに関するものばかりだ。
 静香を嫌悪する先輩たちの過去のやらかしや秘密など、酒の席で笑い話に出来る程度の内容がほとんど。けれど彼女にとっては初耳な情報を、葉室はたくさん教えてくれる。
 流石勤続年数が上なだけはあるな、と思う反面、彼が語る情報量の多さには正直驚かされっぱなしだ。
 葉室は単独行動を好むと思っていたせいもあり、こんなにも情報通だとは思いもしなかった。
「……何か?」
「あ、いや、その……葉室先生って、飲み会とか参加しないって聞きますし、お一人で悠々自適に過ごされる方なんだと思っていたので」
 不思議に思うあまり、ついつい彼の顔を凝視していたのかもしれない。
 首を傾げる葉室の様子に、本心を少し混ぜた言い訳を口にした所、何故かクスリと笑う声が聞こえた。
「俺だって、年がら年中うるさいおっさん連中は嫌いだ。人付き合いも正直面倒くさい」
「そ、それじゃあどうして……他の先生たちの秘密をたくさん知ってるんですか?」
 本人の口から想像通りすぎる実態を説明され、余計に静香の頭の中は混乱するしかない。
 戸惑いの表情を浮かべる静香を見つめる葉室は、ただただ愉快だと言いたげに笑みを深めるだけ。
「いつ、誰が通るかわからない……そんな通路で話し込んでるあっちがいけないんだよ。あとは……流石に全部の飲み会に行かねぇ訳にもいかないからな……。のん兵衛たちは、酔うと口が軽くなる」
「…………」
 もしかしたら、静香が親しくする看護師たちから色々教えてもらっているように、葉室には葉室なりのネットワークでもあるのかもしれない。
 なんて想像したものつかの間、頭の中に浮かんだ考えを否定する声が聞こえ、静香は思わず口を噤んでしまう。
 葉室曰く、彼は自分から積極的に情報収集をしたわけじゃないらしい。
 目的地へ向かう途中や、医局で仕事をしている時などに、近くに彼が居ると気づかない先輩たちの“お喋り”を、彼は“偶然”耳にするだけ。
 飲み会の席も同じ。どうしても断れない飲み会に嫌々参加して、お酒が入って酔った先生たちの面白おかしい“お喋り”は、宴会場の端っこで大人しく飲む彼にまで聞こえてくる。
「そんな情報収集の仕方は……アリ、なんでしょうか?」
「秘密の話したきゃ、当人たちの家とか料亭の個室とか……最悪空いてる会議室でも使えばいいんだよ。患者がいつ通るかわからない場所でベラベラ喋ってるあっちが悪い」
 自分の意見を淡々と語る葉室は、中身の減ったグラスをテーブルに置くと提供されたばかりの料理に、割りばしを持った手をのばす。
 店内に居る数人の料理人が、各自担当している区画でカウンター席に設置された鉄板を使って料理をする。客の注文に合わせ、目の前で調理してくれる点が、お店の特徴らしい。
 今葉室が割りばしをのばしたのは、赤みが強いソースのかかった、数切れ分のレアステーキだ。丁度半分の量を取り分けた彼は、「ほらよ」と言って、手に持っていた小皿を静香の目の前へ置いてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「……ん」
 ペコリと頭を下げる静香を目に留めた彼は、残っていた分をもう一つの小皿に移し、自分のもとへ置き、一切れ口へ運ぶ。
「…………」
 その様子をしばらく見つめた後、せっかくだからと取り分けてもらったステーキを口にする。
 甘酸っぱいソースと柔らかいお肉の食感を堪能しつつ、つい聞いたばかりの主張について考えてしまう。
 葉室が言ったことは、正直普通なら誰もが思いつく正論でしかない。
 壁に耳あり障子に目あり、なんてことわざもあるくらい。少し考えれば、病院の通路で話す内容の選択くらい出来るはず。
 だけど葉室の話から考えてみると、先輩医師たちはそれが出来ないのかもしれない。
 お酒の席で酔っ払い口が軽くなる点は、不可抗力かも、なんて思ったものの、すぐに頭の中でそれを却下する。
(葉室先生の言い方……一度や二度じゃないんだろうな)
 淡々とした口ぶりのなかに時折滲む呆れ。十中八九先輩たちに向けられた彼の感情を感じ取った静香は、内心ため息を吐く。
「私も先生も……町田先生たちに良い感情持ってませんね」
「あいつらに良い感情持つ奴なんて、騙されるバカくらいだよ」
 毒舌めいた返しを聞いた静香の口から、「あはは……」と戸惑いが滲む空笑いが漏れる。
 患者に対し、先輩医師たちも誠実に接し日々診察や手術をしていることは知っている。
 だけど彼らの裏――強烈すぎるオフを知ってしまった手前、素直に尊敬などは出来なさそうだ。
 そんな彼らと違って、目の前に居るのは、「キスさせろ」と妙な関係を迫り、それを半強制的に続けさせている変な男。
 静香が嫌悪する先輩たちとは、また違った意味で個性が強い人でもある。
 それを理解しながら、静香はここ最近、葉室に対して前より親しみやすさを感じている。
 弱みと素の自分を知られ、病院内で唯一気を張らなくていい相手として彼を認識しているせいかもしれない。

「出張行かないんなら、その日暇だろう? 飯奢るぞ、いつも付き合ってもらってる詫びだ」
 今日ここに来たのだって、出張代役を断られた日から連日食事に誘われた結果だったりする。
 葉室自身、静香をふり回している自覚はあったことに、正直最初は驚かされた。
 驚くあまり、非常階段で食事の話が出た時は思わず断ってしまった。一種の条件反射だったのかもしれない。
 けれど彼はその後、何度も静香を食事に誘ってきた。その間も、やっぱり口寂しさを紛らわすキスは継続だ。
 そんなやりとりがしばらく続いたある日、葉室の呼び出しに渋々応じて彼のものとへ行くと、やっぱりその日も口づけられてしまった。
 しかも、執拗に口内を彼の舌で愛撫されたせいで、その時静香の意識は半分飛びかけていた。
 何度しても慣れない行為への恥ずかしさと、若干の酸素不足で頭がクラクラする中、「俺と飯行くの……そんなに嫌、か?」と、彼は急に弱々しく尋ねてきた。

 その時はいつも以上に心臓がうるさかったのを覚えている。
 今二人で食事をしている状況から見ても、結局は自分の根負けなんだと考えれば、妙に納得する自分がいた。
 静香の素を知ってもバカにせず、度々愚痴を聞いてくれて、外科の先生たちが苦手という共通認識を持っている。
 変態キス魔という難点はあるものの、最近新しく知った葉室の好ましいと思える面を天秤にかけて、ギリギリ均衡が取れるくらいに、静香の中で彼への評価は高かった。
 非常階段の秘密を知られて以降、彼には驚かされてばかりだ。
 いつも仕事では、必要最低限な会話しかしてこなかったのに、“初めて知る”彼を、何度も見てきた。
 外科の医師たちの大半は自分を認めていないし、外科部長は少し認めてくれているかもしれないけれど、きっと中立派。そして葉室先生は、基本我関せずの人間。
 この病院で働き始めてから、ずっと思い込んできた認識を、ここ一、二か月の間に一部覆されたのは、きっと気のせいじゃない。
 意味合いは違うけれど、葉室も静香も“どこか孤立している”医師。
 傍から見れば、一匹狼同士の傷の舐め合いにも見えるかもしれない不思議な関係を、静香は心の底から嫌いになれない。
 それどころか、素直になりきれない自分に対して、時折見せる葉室の優しい言動に、ほんの少しむず痒く感じる不思議な感覚を抱き始めていた。

(あれ? 私……)
 毎朝、自宅のベッドの上で目覚めた時のように、静香の意識はゆっくり覚醒していく。
 だけど彼女は不意に自分の状態に疑問を抱いた。
 いつもなら一分と経たず目が覚めるはずなのに、いくら待ってもどこか意識がふわふわしている気がする
 時々頭までクラっと揺らぐ感覚に襲われながら、自宅でも病院の仮眠室でもない知らない天井を見上げる。
 照明の明るさを最低限にしているのか、視界に広がる景色は全体的に薄暗い。
 そんな状況でも、自分がベッドの上に横たわっていることは、天井を見上げる体勢と手のひらから伝わるシーツの感触で察せた。
 までは良かったけれど、いくら考えても自分が今いる場所の見当がつかない。
 しかも、いつまで経っても頭がすっきりしないせいで、考えも上手くまとまらず、静香は次第に困惑した。
 起き上がって周りを確認すれば、一発で疑問の答えはわかる、いや、最悪手がかりくらいは掴めるかもしれない。
 だけど今は動きたくない。起き上がるのが億劫だと、頭の中に浮かんだ考えを仕方なく却下する。
(とりあえず、もう一度目を閉じて考えよう)
 どうして自分は知らない場所にいるんだろう。最大の問題点を見直すために、静香は目をゆっくり瞑って、今日一日のことを思い出す。
 朝はいつもと同じ時間に起きて身支度をし、自宅を出て病院へ向かった。
 部長に出張同行を求められたのもあり、元々担当患者の手術日程を調整した影響で、今日は執刀を任された手術はゼロだ。
 そのためもっぱらサポートか書類仕事、あとは患者のケアが多かった気がする。
 そして無事一日の仕事を終えた後は、葉室から誘われ食事に――。
「ンンッ!」
 彼と二人でダイニングバーへ行った所まで思い出せた時、突然静香の唇に柔らかい熱が重なった。
 驚くあまり、カッと目を見開くと、すぐ目の前に葉室の顔面ドアップが映り込む。
(は、葉室先生!)
 何度も口づけられ嫌でも覚えてしまったキスの感触と、さっきまで居なかったはずの人物の登場に驚くあまり、無意識にヒュっと喉が鳴った。
 反動で少し息苦しさを感じた時、重なっていた唇が解放される。
「な、な……」
(なんで貴方がここにいるんですか!)
 咄嗟に新鮮な空気を吸った静香は、疑問をぶつけるために口を開いた。それなのに、葉室が突然あらわれたことに驚くあまり唇が震え上手く言葉が出てこない。
 言葉の代わりに、わずかに開いた唇からハッハッと短い呼吸がくり返される。
 目覚めた静香の前から一向に退かない葉室は、たった数センチの距離間でこちらを見つめたまま、離れる気配すら見せない。
 彼の視線に耐え切れず、フイッと目をそらすのと同時に、じんわり頬のあたりが熱くなるのがわかった。

 その後、葉室がスッと視界から消えたと思えば、「起こすぞ」と耳元で彼の声が聞こえるのと同時に背中に太い腕が回った。
 そのままベッドの上で抱き起された瞬間、クラっと視界が揺らぐ。
「お、おいっ! 大丈夫か?」
 無意識に額へ手をのばして頭を軽く支える静香の耳元で、酷く焦った彼の声が聞こえた。
 静香を楽な姿勢にさせようとしてなのか、背中に回っていた葉室の腕が、身体を支えるように肩へ移動していく。
 彼はベッド端に座ると、自分に寄りかかれとばかりに肩を抱き寄せてくるので、素直に広い胸板へ頭をコテンと預けた。
(あぁ、私本当どうしたのかな……)
 すぐ近くから葉室の体温を感じるせいか、今の体勢がどこか彼に呼び出され抱き寄せられた時のそれに似ている気がした。
 耳元で聞こえる自分じゃない心音の音を聞いているだけで、不思議とホッとするのは何故だろう。
「まだ酔いが醒めてないのかもしれない。やっぱり一旦横になって」
 未だはっきりしない頭でぼんやり考えこんでいると、困惑を滲ませた葉室のボヤキが耳元で聞こえた。
「え? 私、酔ってませんよ?」
 唐突に襲ってきた驚きに、考えごとをしていた脳内に巨大な疑問符が浮かび上がる。
 ため息混じりに聞こえた、「酔いが醒めてないのかも」という言葉が自分へ向けられたことに、静香はひどく戸惑った。
 慌てて彼の胸元から顔を離して、すぐに近くにある顔を見上げる。
 すると二人の目が合った瞬間、葉室の口から盛大なため息が吐き出された。
「いや……だってお前、酒飲んだじゃん」
「へっ?」
 暗に、「え? 覚えてないの?」とじろりと目を向けられたけれど、ズキンと鈍く痛む頭の中に飲酒をした記憶なんて残っていない。
 彼と食事に行った先で飲んだのは、ノンアルコールのものだったはず。それなのにどうして、とただでさえ状況把握しきれない静香を、頭を抱えて叫びたい衝動が襲った。

 二人でダイニングバーに行った後に、食事をしながら話をした。と、静香が今思い出せる記憶はここまでと話せば、葉室がその後について補足してくれる。
「どうせ運転するのは俺なんだから、野崎先生は普通に酒飲んでいいって。ほらこの辺、カクテルとかの名前結構あるし」
 彼はあの場で、静香が自分に合わせてノンアルコールを選んでいると考えたらしい。
 そこでメニュー表を静香に手渡した後、しばらく眉を下げて戸惑いの表情を浮かべた彼女は、「飲みやすそうだから」とカシスオレンジを注文したそうだ。
 静香が時折家で飲むのはもっぱら缶チューハイだっため、飲んだことがないので味の想像がつかないまま、雰囲気だけで注文していた、と彼が教えてくれる。
 すると、ぼんやりと当時のことを思い出せた。
 カクテルを実際飲んでみたら、なんだかジュースみたいに思えて、チューハイと大差なく感じたのだ。
 静香が思わず、「甘くて飲みやすかったです」とニコニコ笑顔を浮かべて感想を零した途端、苦笑混じりの指摘が入った。
「まぁ、ほとんどオレンジジュースだからな」
(あ、やっぱりそうなんだ)予想がおおよそ当たっていたことに嬉しさが増したのか、彼女の笑みがより深くなる。
 カクテルを注文した後は、またしばらく料理とお酒を堪能しつつ、二人揃って愚痴をこぼしたりしていたらしい。
 その間、静香はカシスオレンジを気に入った様子で、二、三回おかわりしていた。
「俺が気づいた時には、お前酔いつぶれてて、声かけても起きねぇしよ」
「あぁ……だから頭が少し痛いんですね」
 起き抜けから時々頭が鈍く痛む原因を解明できたことに、静香は内心ホッとした。
 同時に、また葉室に迷惑をかけた事実もわかってしまい、思わず肩を落とす。
 その様子をそばで見ていた彼は不思議そうに、「どうかしたか?」と首を傾げるせいで余計にいたたまれない。
「普段からただでさえ色々愚痴を聞いてもらっているのに、酔いつぶれて介抱されるなんて、この上なく申し訳なくて……」
 お酒が抜けきっていないせいか、身体が少し重く動きも鈍い。
 静香は謝罪を口にしながらも、アルコールとは違う熱で火照りだした頬を隠すために両手で顔を覆った。
「ははっ、何を今さら。こっちだって、いつもお前のこと呼び出してるじゃねぇか」
 手のひらで覆いきれない赤みが差した耳に、ケラリと笑う葉室の声が届く。どこか機嫌良さそうな彼の口調は、普段仕事中に接する敬語が抜けてかなり砕けていた。
 思い返すと、最近彼と二人きりになる時は割とそっちの口調になることが多い気がする。
 仕事中は“野崎先生”と呼ぶのに、二人の時は“お前”やら“野崎”と呼ばれることも増えた。
 その態度に静香は特に嫌悪したりしない。むしろ、気を張ってばかりの院内で、タメ口で気楽に話を聞いてくれる貴重な存在として、葉室に感謝したい気持ちさえ抱いている。
(まぁ欲を言えば)
 ――禁煙のためのキスも無くなってくれればパーフェクトなんだけど。
 なんて願望を脳裏に思い浮かべながら、チラッと葉室を見上げる。
 静香の視線に気づいた彼もこちらを見つめ返してきたので、反射的にスッと視線をそらした。
 目が合った瞬間、葉室は目を細めほほ笑んだ気がした。
 まるで恋人を相手にするような表情を直視したせいで、働きが鈍っている頭が余計混乱していく。
 無意識に胸――心臓の辺りへ手をのばすと、指先を通してドクドクとやけに激しい心音が伝わってくる。
 一方的にキスされた時の鼓動に似ている気がして、「落ち着け、落ち着け」と何度も心の中で自分へ言い聞かせる。
 このまま黙り込むわけにもいかず、どうしようと静香は必死に話題を探した。
(あ、そう言えば……)
 葉室の登場ですっかり頭からすっぽ抜けていた疑問を思い出し、静香はおもむろに疑問を口にする。
「……ここはどこですか? どこかホテル、とか?」
「どこって……俺の家だけど?」
「……はい?」
 もしかしたら、お店の近くにあるホテルとかかもしれない。
 なんて考えたのもつかの間、想像を裏切る答えが聞こえ静香は衝撃を受けた。
「おーい、大丈夫かー?」
 唖然とするあまりすっかり黙り込んだ彼女の目の前で、葉室は何度もヒラヒラと手をふる。
 けれど、いくら声をかけた所で、しばし放心状態の彼女は、何の反応も返せなかった。

 時間が経つにつれ、鈍っていた思考力が少しずつ戻っていく。
 完全に意識がスッキリしたわけじゃないけれど、起きた直後よりは葉室とのやりとりがスムーズになっていった。
「あの近くにホテルなんて都合がいい場所なんかねぇよ。かと言って、お前の家がどこにあるかなんて知らないし……ひとまず俺の家に連れてくるしかないだろう」
 自身の失態に落ち込む最中、求めていた答えが聞けたのに、静香は少しも嬉しいと思えなかった。
 葉室の自宅と聞いた瞬間、「だから知らない部屋なわけね!」と半ば無理矢理納得する自分に気づきながら、店での失態を後悔する。
 カクテルをすすめられた時、「少しなら……」なんて好奇心を押し殺して、頑なにノンアルコールを注文すればよかった。
 起きた直後より幾分はっきりした頭で、「カクテルの飲みやすさに騙されて、アルコール度数で後悔する」なんて過去に聞いた話を思い出す。
 今回のやらかしはまさにそれだ。
「今更グチグチ後悔するより、今日はもう泊まってけ」
 自問自答を続け、一人ため息を吐きながら落ち込む静香を見て何を思ったのか、葉室の口から唐突な提案が飛び出す。
「と、泊まるなんてそんなっ!」
 ここが彼の自宅と知った時以上の驚きを感じ、反射的に顔を上げた静香は慌ててふるふると首を横にふった。
 勤務終わりからかれこれ数時間、迷惑をかけっぱなしな彼にこれ以上世話になりたくない。何より、付き合ってもいない男の部屋に泊まるのはマズいと、酔いが少し醒め戻って来た理性が首をふらせる。
「タクシー呼んでください、今すぐ帰りま、うわっ!」
 彼女の声は中途半端に途切れ、気づいた時には一度起こしてもらったはずの上半身が、再びベッドに沈んでいた。
「どうせ明日休みなんだから、このまま泊まっていけ。もうすぐ日付変わるんだぞ。そんな時間に、――女を一人で家に帰すバカがどこにいる」
「――っ!」
 突然反転した視界に驚くあまり瞬きをする静香の耳に葉室のため息が届いた。
 慌てて起き上がろうと思い身動ぎをしたものの、腰のあたりに回った葉室の太い腕に邪魔される。
 しかも、ジタバタしたせいで彼が話す内容が一部途切れて上手く聞き取れなかった。
 だけど、葉室が静香を帰す気がないことは理解出来た。と言っても、その意味を考えた時に“二種類の意味”が頭の中を過ぎる。
 純粋に“静香を心配して”帰らせまいとしているのか、少しでも“下心があって”帰らせまいとしているのか。
(前者、よね。絶対)
 脳裏に二つの選択肢を浮かべておきながら、後者の可能性があるわけないじゃないとすぐに思い至った。
 どうして否定する前提の選択肢を思いついたのか、自分でもよくわからないままコテンと首を傾げる。
 すると、さっきまで腰にあったはずの腕が背中にまわった。
 服越しのソワソワした感覚に気づいて何が起きたのかと思った時、ギュッと身体全体が大きな熱に抱きすくめられていく。
 両手を胸の前に出してガードする暇も無く抱き寄せられたせいで、頬や手のひらから自分とは違うぬくもりが伝わってくる。
 あまりに距離が近すぎて、思わず、「えっ?」と小さく声をあげて驚いたのは仕方ない気がした。
「葉室先生」
 葉室が何を考えて行動しているのかさっぱりわからない。少しでも情報が欲しいと、静香は声を上げる。
「どうし……ンンッ!」
 そのままひと呼吸置いた後、「何故こんなことを?」と頭の中に浮かんだいくつもの疑問をまとめて聞こうと言葉を続けた。
 はずなのに、開口数秒で静香の唇は唐突すぎる口づけによって塞がれる。
 そのせいでせっかく口に出した疑問の答えは得られず、ほとんど強制終了状態に近い。
 重なった唇も、身体を抱きしめる腕も、全身で感じる体温も。すべて病院でするキスと同じ。唯一違う点は、二人が“今”いる場所だけ。

 葉室とよく話すようになるまで、彼自身のことを全然知らなかった。いや、知ろうとすらしなかったと言った方が正しいかもしれない。
 仕事に関して尊敬の念はあっても、どこか近寄りがたい人と勝手に思い込んでいた過去の自分に教えてあげたい。
 彼は仕事熱心なだけじゃなく、話してみれば少しぶっきらぼうで優しい人だ、と。
 そして、予想外の言動で、静香を翻弄し続け、その反応を見て楽しんでいる変人という、一番重要なことも忘れちゃいけない。

 突然のハグとキスをされた瞬間、身体を強張らせた静香は驚きを隠せず目を見開いた。
 けれど、すぐにまたいつもと同じ“タバコ代わりの行為”だと思い至り、強張った身体からほんの少し力が抜けた。
「ん、ぁ……先生っ! ちょ、とま……ふぁ、ンン」
 このままなら、すぐに解放される。なんて静香が抱いた期待を裏切るように、葉室の唇は離れる様子はなく、チュッチュと何度も口づけられてしまう。
 もしかして、病院でする時よりも長いんじゃ、なんて思うほどキスの雨が止む気配はなかった。
「かわいいな、ほんと……」
 息継ぎのために唇を少し離す時、葉室は時折小さな声でポツリと呟きをこぼす。
 気を抜いていれば聞き逃しそうな声だ。実際、何回か聞こえない時もあって、静香は戸惑いながら頭の中に疑問符をいくつも浮かべている。
 何の話か聞き返そうと思ったところで、息継ぎをする数秒が終われば、また唇が重なっていく。そのくり返しのせいで上手く声が出せず、静香は話すチャンスをつかめずにいた。
「ふ、ン……は、ふ、ぅンン」
 何度目かの息継ぎをした時、わずかに開けた口元から、スルッと彼の舌が口内に侵入してきた。
 口内に突然感じた異物感に、条件反射で身体がビクっと震えてしまう。
 葉室が舌を割り入れてくる深くて濃厚な口づけは、もう何度も病院で経験したことがある。
 未だ慣れない濃厚なキスを、素直に受け入れられる機会なんて絶対無いと確信めいた気持ちを抱いてしまう。
 その間も、自分と違う熱くて肉厚な感触を、静香の舌先は敏感に感じ取っていく。
 舌先で感じた熱がすぐに快感へ変わるせいで、静香は自分の意思と関係なく身体がビクビクと震えてしまう。
 そう彼女に教え込んだのは、他の誰でもない今一緒に居る彼だ。
 不意に、静香を抱きすくめる葉室の腕に力が入ったのと同時に、ほんの少し身体の向きが変わる。
 仰向けでも横向きでもない、どこか中途半端な角度で固定されていた身体が横向きにされる。
 パチッと瞬きをした視界に、ふと葉室の顔が映り込む。これまで見てきた中で、一番近距離じゃ、と考えていれば、また彼の口づけが降ってきた。

「やっぱり……帰り、ます……」
「だからもう遅いって。俺は気にしないから、お前も気にせず泊まってけ」
 ベッドの上で葉室に抱きしめられたまま時間はゆっくり過ぎていく。
 キスの合間に再度帰宅を主張してみたけれど、頷いてもらえないどころか、「帰る」と言った直後のキスは、当然のように舌を割り入れられ、彼の舌が縮こまった静香の舌や歯茎を容赦なく舐めていく。
 室内にピチャピチャ響くいやらしい水音が、ただでさえ羞恥で爆発寸前の思考をかき乱していく。
 しかも、ほんの少し酔いが醒めたお陰ですっきりしたと思っていた意識が、息吐く暇もない執拗なキスのせいでまた少しずつ曖昧になり始めた。
「先生……葉室、せんせ……」
 夜もすっかり更けたせいか、眠気も襲ってきたから余計に厄介だ。
 最初の頃はしっかり喋っていたはずなのに、いつからかキスの合間に静香が声に出すのは、自分を抱きしめる男の名前だけになっていた。
「大丈夫だ、ここにいる」
 どこか縋るようにも聞こえる彼女の声に、慈愛に満ちた声と視線が応えていく。
 彼女の細いウエストを抱きしめる力強い腕も相まって、葉室のすべてに包み込まれているんじゃ、と勘違いしそうになる。
 静香が戸惑いを抱き続ける中二人の唇は尚も重なって、その回数がもう何十回目かになった頃、睡魔に負けた彼女はゆっくりと夢の中へ旅立っていった。
「好きだ――静香」
 完全に意識が途絶える直前、耳元で葉室が何かを囁いたような気がした。だけど静香のぼんやりした脳が認識したのは彼の吐息だけで、どんな言葉を言われたかまでは、まったく聞き取れなかった。

(――つづきは本編で!)

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