作品情報

引っ込み思案な捨てられ令嬢は寡黙な公爵に溺愛される

「もっと強く抱きしめてもいいんだな? 思うがままに、君に触れたいんだ」

あらすじ

「もっと強く抱きしめてもいいんだな? 思うがままに、君に触れたいんだ」

 王家主催の晩餐会で、エレインは幼い頃からの婚約者に婚約解消を告げられてしまう。それも、婚約者を奪ったのはエレインの幼馴染みの子爵令嬢。
 呆然とするエレインは嘲笑の的になるが、そこに国王の甥である公爵ルーファスが「ならば自分が結婚を請いたい」と名乗り出る。
 瞬く間に始まった新婚生活だが、ルーファスはいつもエレインに素っ気なくて……。

作品情報

作:沙布らぶ
絵:高辻有

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 第一章 突然の求婚

 ランズベルト王国の中枢を担う宮殿の一角――舞踏会の間では、今宵、王家主催の晩餐会が開かれていた。
 若い貴族の子女たちが競って美しく着飾り、他の貴族たちと談笑する晩餐会。リィドールズ伯爵家の令嬢であるエレインも例に漏れず参加したが、彼女は呆然としたまま広間に立ち尽くしていた。
「……リック? 今、なんて言ったの……」
 背まで伸ばした美しい金髪が、動揺で軽く揺れた。
 母譲りの翡翠のごとく美しい瞳には薄い涙の膜がかかり、その顔色は蒼白という度合いを越している。
「だから、説明してやっただろう? エレイン――僕は君との婚約を解消させてもらう。僕にとってはマーリアこそが運命の女性だったんだ……君との婚約生活も悪くはなかったが、如何せん刺激が少なすぎてね」
 酷薄な笑みを浮かべてエレインに相対しているのは、ハルバートン伯爵令息であるリックだ。彼とはまだお互いが幼い頃、家同士の話し合いで婚約が決まった。
 エレインが社交界デビューをしてからも、彼は家の仕事が忙しいという理由で彼女との結婚を先送りにしていたのだが――どうやら、本当の理由はそこにあったらしい。
「その点、マーリアは完璧だ。彼女はいつだって僕に愛を囁いてくれるし――君みたいに観劇だ読書だと、子どもっぽいことばかりしている人ではないからね」
「い、いつからマーリアと……? だって、マーリア……あなたは――」
 戸惑うようなエレインの視線が、ふいとリックの傍らに流れた。
 貴公子の胸にしなだれかかっている赤毛の少女――マーリアは、幼い頃からエレインの友人だった。母親同士の仲がよく、彼女は何度もエレインの元へ遊びに来ては王都の流行などを教えてくれていたのだ。
「ごめんなさい、エレイン。でも仕方がないでしょう? 人を好きになってしまう心は止められないわ――それに、リックも私の気持ちに応えてくれた……あなたには本当に悪いことをしたと思っているけど、そう、これも運命なの」
 言葉こそ謝罪を述べるそれであったが、マーリアの表情は勝ち誇っていた。
 ――昔から、彼女はエレインが身に着けているものやお気に入りのものを欲しがった。
 父に買ってもらったばかりのぬいぐるみを譲ってほしいとお願いされたり、新しいドレスの色が似合わないから交換しようと言われたり――その時その時で彼女の願いをできるだけ尊重してきたエレインだったが、まさか婚約者まで欲しいと言われるとは考えていなかった。
「そういうわけだ。僕はマーリアと結婚する……君との婚約は、今この場で解消させてもらうよ」
 エレインの真っ白になった頭では、リックが言っていることはよく理解できていなかった。
 本来、貴族同士の婚姻には相応の利権が絡む。それゆえに婚約に絡む事柄はそう簡単に破談にしたり、また結び付けたりするのが難しいはずだ。
(ということは――リックのご両親は、最初からこの話を知って……)
 高齢である彼の両親はとにかく息子に甘く、彼が望んだことはなんでも叶えようとしてしまう。恐らく、今回の婚約破棄についてもリックから話は聞いていたのだろう。
「……ねぇ、あれってリィドールズ伯爵の……」
「あぁ、可哀想なもんだとは思うが、相手がカレツッア子爵の娘か――社交界でも人気で、好色家のヘンリッツァ侯爵からも声をかけられたと聞く。アレが相手じゃ、捨てられても仕方がないよな」
 背後からぽそぽそと聞こえる声に、血の気が引いていくのを感じる。
 これが、自分一人の時に聞かされた話だったらもっと冷静でいられたかもしれない。
 だが、今日は王家が主催する晩餐会だ。エレインの父親であるリィドールズ伯爵も、妻を伴って出席している。
(よりによって今日は――お父様とお母様も、会場にいらしているのに……)
 恥をかくのが自分一人であったなら、どれだけ気持ちが楽だっただろう。
 少し離れた場所にいる両親も、今頃この騒ぎを聞きつけているに違いない。周囲の貴族たちが心無い言葉を交わすことで、自分だけではなく優しい両親の心が傷つかないかが心配だった。
「そういうわけなの。ごめんなさいね、エレイン? でも、あなたならきっと他に素敵な相手を見つけられるはずよ」
「ま、待って……」
 面白くて仕方がないと言わんばかりの声音で語りかけてくるマーリアとリックに、エレインは追いすがろうとした。
 自分に、なにか至らないことがあったのではないだろうか――だが、手を取り合った二人はどんどんエレインから遠ざかっていく。
(どうして、こんなことに……)
 この短い時間で、一体何が起こったのだろう。
 茫然自失のエレインはその場に崩れ落ち、へたりこんだまま動けなくなってしまった。
 周囲で貴族たちが囁き合う声も、どこか遠い。
 おそらく自分が哀れまれたり、嘲られたりしているのだろうということは漠然と理解できたが、言葉の意味を理解することができないのだ。
 突如告げられた婚約破棄の言葉と、友人だと思っていた幼馴染みからの裏切り――あまりに大きすぎる衝撃に、エレインの頭は言葉を理解することをやめてしまったかのようだった。
(これから、どうすればいいの? わたしはリックのところに嫁ぐって決まっていたのに――わからない。なにを、どうしていいのか……)
 大きな目を更に見開き、ただぼんやりとした表情を浮かべているエレインに声をかけてくる者はいない。
 皆、彼女を遠巻きに眺めながらひそひそと声を潜めて言葉を交わし合うだけだ。
「失礼、通してもらえないだろうか。……悪いな」
 ――と、そんな彼女が唯一拾えた声があった。
 凛としていて、どこまでもよく通るような若い男の声――人込みをかき分けて現れた黒髪の青年が、ふとエレインの前で歩みを止める。
(……この方がつけているのは――エルーカ勲章……?)
 もう、目の前の青年がどんな人間だろうとどうでもよかった。
 ただ、エレインの目に飛び込んできたのは彼が身に着けている勲章だ。侯爵位以上の貴族しか着用を許されない純白の礼装に、十字と星をあしらった略綬――この国の貴族ならば、一目で彼が高位の貴族で、かつ能力の高い文官だということがわかっただろう。
「あなた、は……?」
「ルーファス。ルーファス・メイフィールド」
 短く名前を告げた彼は、地面に座り込んだままだったエレインの前に跪いてそっと手を差し出してきた。
 メイフィールド――その名前は、エレインでもしっかりと知っている。
「メイフィールド公爵閣下……?」
「あぁ、そうだ。君は――エレイン・リィドールズ伯爵令嬢で間違いはないか?」
 問いかけに、エレインはゆっくりと頷いた。
 未だ混乱で頭の中がぼんやりしていたが、メイフィールド公爵の名前を聞いて少しだけ意識が明瞭になった気がする。
 現国王、ベンジャミン三世の甥であり、人事院に奉職しているメイフィールド公爵――歴代最年少で文官最高位の勲章であるエルーカ勲章を受け取ったとして、ずいぶん前に話題になっていた。
「間違い……ありませんが」
「そうか。それはよかった」
 何がよかったのかの意味がわからないまま、エレインは首を傾げた。少なくとも彼女にとっては、この状況は「よかった」と表せるものではない。
「あの――わたしに、何か御用でも?」
「あぁ。君に用があってここに来た……立てるか?」
 差し出された手にそっと指を乗せると、ルーファスはエレインの体を支えながら立ち上がらせてくれる。
 会場は、突然現れた公爵の姿にざわめきを隠せない――遠くの方で、エレインの母であるリィドールズ伯爵夫人が口元に手を当てているのが見えた。
「随分と騒がしいと思っていたんだが、君は……先ほどハルバートン伯爵の息子に婚約破棄を宣言された。俺の認識は間違っていないだろうか」
「……間違ってはおりません。あの、公爵閣下――どうしてそのようなことを……?」
 公衆の面前で婚約破棄の事実を認めさせられることは、エレインの名誉と自尊心をひどく傷つける。
 自分にも至らないところがあったかもしれないし、それ以上にマーリアが魅力的だったのかもしれない。
 だが、どれも今となっては可能性の話でしかなかった。エレインにとっての現実は、自分が婚約者に捨てられたというものだけだ。
「事実の確認をしただけだ。間違いがないのなら――俺が、あなたとの結婚を請うこともできるだろうかと思って」
「……は?」
 二人を包んでいたどよめきが、さらに大きくなる。
 若くして公爵位を継ぎ、国王や王太子からの信頼も厚いメイフィールド公爵――まだ独身である彼に近づき、なんとかして公爵夫人の座を勝ち取りたいという女性は少なくない。
 だが、当のルーファス自身は驚くほど女性の噂がなかった。エレインがそうした噂に疎いというのもあるが、伝え聞く話では男色の噂が出るほどに潔癖な女性関係を誇っているらしい。
「婚約の話については、なにも心配しなくていい。こちらからハルバートン伯爵家に連絡を取ることも可能だ。……エレイン嬢、一つ考えてみてはくれないだろうか」
「え、あの……結婚ですか? わ、わたしと……?」
 その問いかけに、ルーファスはゆっくりと頷いた。
 ルーファスの言葉をエレインが理解するまで多少の時間はかかったが、それを咀嚼した瞬間、ふわりと胸が温かくなる。
「でも、そんないきなり――」
 心配はしなくていいと声をかけてくれたのはありがたい。けれど、婚約関係のこととなれば彼の一存で決められるほど簡単なことではないだろう。
 いくらルーファスが国王の甥であっても、そこまでの権限や権力はないはずだ。
 じっとこちらを見つめてくるルーファスの視線から逃れるように、エレインはふっと顔をそむけた。
 すると、また人のざわめきが大きくなる――今度は誰が来たのだと顔を上げたエレインは、左右に割れた人垣の中から現れた初老の男性を見て絶句した。
「どうしたのかね、ルーファス? 人だかりの中心にいるだなんて、お前にしては珍しいじゃないか」
「……陛下」
 当代国王、ベンジャミン三世。ルーファスの伯父であり、この晩餐会の主催者である国王が、酒杯を片手にエレインたちの前に現れたのだ。
(こ、国王陛下の耳にまで、この騒ぎが届いてしまったの……?)
 それこそ卒倒しそうなほどに驚いたエレインだったが、ベンジャミン三世に腰を折ったルーファスの顔色が変わることはなかった。
「これ、ルーファス……むやみに女性に触れるものではないぞ」
「申し訳ございません、陛下。その――こちらの女性はリィドールズ伯爵令嬢です。今しがた、結婚の申し込みをしておりました」
「えっ!?」
 ルーファスが発した言葉に、エレインは思わず素っ頓狂な声を上げた。
 驚いたのはいきなりそのような話をされた国王の方も同じだったらしい。たっぷりと蓄えた髭を撫でつけたベンジャミン三世は、深く息を吐いてからルーファスをたしなめた。
「結婚? そのような話は聞いていないが――ルーファス、結果だけを述べるのはお前の悪い癖だ。職務の時のように順序を追って、何があったのかを説明してくれ」
「……かしこまりました。元々、リィドールズ伯爵令嬢はハルバートン伯爵令息と婚約をしていた様子――それが、この場で婚約の破棄を宣言されているところを目撃いたしました」
 淡々と、事務的にこれまでの流れを説明していくルーファスに、エレインは口を挟むことができなかった。
 自分がどのような経緯でリックに婚約破棄をされたのかを、国王の前で語られる――恥ずかしさで倒れてしまうのではないかと思ったが、いざ本当にそれをされると、頭の中がぼんやりしてあらゆる感情を感じなくなってしまう気がした。
「ほう――話を聞いている分には、伯爵令嬢には非がないと思えるが……一方的な婚約破棄とは、ハルバートン伯爵家も何を考えておるやら。それで、お前が正式に彼女に求婚したのか?」
「はい。とはいえ、伝統的な求婚を行ったわけではありません。彼女や、彼女のご両親の同意があれば、すぐにでも公爵邸に戻り準備を進める所存です」
 表情一つ変えず、まるで定時の報告のように締めくくったルーファスに、国王は深く息を吐いた。
「……エレインと申したか」
「は、はいっ! リィドールズ伯爵家のエレインでございます……」
「甥の言葉に間違いはあるか? 真実を申してみよ……これの言葉が事実と違っているというなら、しっかりと訂正しておくれ」
 威厳に満ちた国王の視線に射貫かれて、エレインの体は氷のように強張ってしまった。
(本当に、どうしてこんなことになってしまったの……)
 婚約破棄という個人の話が、ベンジャミン三世にまで伝わってしまうなど誰が想像できただろう。
 じっとこちらを見つめてくる王の視線に耐えかねたエレインは、諦めたように頷いた。
「公爵様のおっしゃる通りです。なにも、間違いはございません……」
「そうかそうか――では、ハルバートン伯爵の一人息子との婚約は反故になったということだな。……しかし、これだけの人数の前でわざわざ婚約破棄を口に出すとは、あまり褒められたものではないな」
 納得したように頷いたベンジャミン三世は、それから甥の方へと視線を向けた。
「一方的な求婚では婚約の成立は認められぬ。彼女の意思を尊重せよ、ルーファス」
「心得ております」
「ならばいいが……エレインよ、ルーファスが驚かせたな。今宵は思うところもあろうが――せめて夜会を楽しんでいっておくれ」
 最後にエレインにそう告げて、国王ベンジャミン三世は侍従たちが控えている玉座へと向かっていった。
「め、滅相もございません……!」
 後に残されたエレインは咄嗟に頭を下げて国王を見送ったが、その最中に宮廷楽団による演奏の曲目が変わった。
 それを合図にするかのように、それまでエレインの周囲を取り囲んでいた貴族たちはバラバラと散っていき、食事に戻る者やホールに出てダンスを楽しむ者――今まで何もなかったかのように晩餐会が再開された。
「エレイン……! 一体どういうこと、何があったというの……?」
「お、お母様……」
 人混みが完全に散ってしまうと、すぐにエレインの母であるリィドールズ伯爵夫人が娘の元へとやってきた。
 傍らに立つルーファスに一礼をしながらも、彼女は婚約を反故にされた娘に心配そうな視線を送る。
「なにがあったのかと思ったけれど、国王陛下までいらっしゃるなんて……それにその、公爵閣下が――」
 駆け寄ってきた母に続いて父である伯爵もエレインの元にやってきたが、彼は母とは違い、すぐにルーファスに頭を下げて挨拶をした。
「リィドールズ伯爵。よかった、ちょうどお話に伺おうかと」
「公爵閣下――突然の出来事に、未だ頭が混乱しております。娘も同じく、状況が呑み込めていないものかと……」
 娘と同じくあまり気が強くないリィドールズ伯爵は、ちらりとエレインの方を見てから困ったような表情を浮かべた。
「なるほど、話が性急すぎましたか。……では、後日使いの者を伯爵邸に向かわせます。恐らく、ハルバートン伯爵との話し合いもあるでしょうから――それまでに、俺が言ったことについて考えておいてくれ」
 最後の一言はエレインに向けられたものだったが、とっさになんと返していいのかがわからなかった。
 父に頭を下げた後でルーファスはその場から去ってしまい、後には両親とエレインだけが残される。
 まるで嵐が過ぎ去ったかのような怒涛の展開を終えたエレインは、呆然としてその場に立ち尽くしながらも、どこか冷静に今の状況を分析しようとしていた。
(さっきの言葉、って――やっぱり、結婚のことよね? ルーファス様が、わたしに結婚を請うって……)
 自分よりも高位の貴族、それも男性に結婚を請われてしまえば、エレインがそれを退けるのは難しいだろう。
 なにより、国中の有力貴族たちが集う晩餐会で一度婚約の破棄を告げられているのだ。エレインの令嬢としての価値はこの時点で大きく下がってしまっている。
「エレイン――突然のことで驚いただろうが、よく考えておきなさい。リック君のご両親とは、私の方から話をしておくから」
 遠回しではあったが、父が言っている言葉の意味も理解できた。
 メイフィールド公爵家は王家とも血筋の繋がりがあり、現当主であるルーファスも人事院で高い功績を挙げている。
 エレインにとっても、また伯爵家にとっても、この話を断るという選択肢はないはずだ。
(それどころか、むしろ歓迎しなくちゃいけないのよね。本当だったら、あり得ないようなお話なんだから――)
 晩餐会のその後、どうやって屋敷まで帰ったのかをエレインはよく覚えていない。
 頭の中はルーファスから告げられた言葉がグルグルと回り、それ以外はなにも考えられなかった。家族で何度か話し合いをしたが、無論両親はエレインにこの話を受けてもらいたいようでもある。
(お話は、お受けするべきよね。わたし自身、これから先のことなんてなにも決まっていないんだもの)
 晩餐会が終わってからも数日の間考え続けたエレインは、結果として求婚を受けることを決めたのだった。
 父とリックの両親が話し合った結果、正式にエレインとリックの婚約が破棄されたというのもある。
 もちろん両親はその決定を喜んでくれたし、話が伝わるや否や公爵家からも山のような贈答品が届いた。国内では入手が難しいような東方産の絹織物に、大ぶりな宝石たち――エレインの実家も決して困窮しているわけではないが、毎日のように届けられる贈り物に両親も絶句していた。
 大量に送りつけられる荷物を全て受け取ることはできないと手紙を書くと、今度は代わりに花が届けられるようになった。邪魔にならないように毎日一輪ずつ――それを運ばされる従者も大変だとは思ったが、高価な品々よりは花の方がずっと気分が楽だ。
 そうして、エレインは彼の元に嫁ぐまでの数か月間を花とともに過ごした。
 事前に送られてきた純白のドレスと宝石たちを身にまとい、エレインはメイフィールド公爵家に嫁ぐこととなった。
(話が決まってからは、あっという間だったわ……)
 幼い頃から決められていた婚約者と結婚すると思っていたエレインの人生は、この数か月で一変した。
 メイフィールド公爵家は、現国王の弟である先代メイフィールド公爵が臣に下って興った家だ。とはいえ、その爵位自体はもう何代も前から存在している。歴史ある公爵家に嫁ぐにあたり、エレインも教養や知識をしっかりと学びなおすことになった。
「エレイン、準備はできた?」
「は、はい――大丈夫です、お母様」
 エレインの結婚を誰よりも喜んでくれたのは母だった。
 彼女の婚約が正式に破棄された時には悲しんでいたようだったが、毎日のようにルーファスから贈り物が届けられると、やがて人事院での彼の功績について詳しく調べてみることにしたらしい。
「あんなに誠実な方はそうそういないのだから、ご迷惑にならないようになさい。それと、公爵家の女主人として恥ずかしくないよう、務めを果たすのですよ」
 気合いが入っているのは父よりも母の方で、エレインは毎日のようにそんな言葉を聞かされながら花嫁修業に打ち込んできた。
「公爵家の方が既にいらしています。……なにかあったら、手紙を書きなさい」
「ありがとうございます、お母様」
 婚儀の際にまた顔を合わせることにはなっているが、エレインは先に公爵家へ向かうことが決まっていた。
 本当は父にも挨拶をしたかったが、彼はまだ準備が終わっていないらしい。
 今まで育ててくれた使用人たちにも丁寧に礼を述べてから、エレインは公爵家側で用意された四頭立ての馬車に乗って屋敷を発った。
 貴族の住宅が立ち並ぶ一角の中で、メイフィールド公爵家の邸宅は最も奥まった場所にある。それだけ敷地が広く、広大な屋敷と庭を有する豪華な建物は、屋敷を発ってすぐエレインの目に飛び込んできた。
(ここが――メイフィールド公爵家)
 白亜の豪邸、と呼ぶにこれほどふさわしい邸宅は存在しないだろう。
 陽光に照らされてまばゆく輝く邸宅を彩るように、庭には色とりどりの花々が植えられている。更に二階建ての建物自体も、石造りの厳かな雰囲気でエレインを出迎えた。
 国一番の貴族の家ということもあり、その敷地の広さは実家であるリィドールズ伯爵邸が霞んで見えるほどだ。
 馬車が止まると、すぐに従者たちが馬車の扉を開け、屋敷へ向かう道を準備してくれる。その先で待っているのは、黒いお仕着せを身にまとった若い女性だった。
「エレイン様でございますね? 侍女のシエラでございます。旦那様より、エレイン様の身の回りのお世話を仰せつかっております」
 ゆっくりと腰を折る侍女に、エレインもつられて頭を下げた。公爵家の侍女ということもあり、その佇まいは凛としている。
「え、エレイン・リィドールズです。その……今日から、お世話になります」
「私どもに頭など下げていただく必要はございません! エレイン様は本日より、このメイフィールド公爵家の女主人となるのですから――使用人に頭を下げてはいけませんわ」
 柔らかい口調で窘められて、エレインは小さく頷いた。
 確かに、公爵家の人間があちこちに頭を下げていては他の貴族にも示しがつかない。とはいえ、こうして挨拶をしてしまうのはエレインの癖でもあった。
「すみません……できるだけ気を付けます」
「慣れないこともたくさんあるかと思いますが、そこは追々――さぁ、エレイン様。どうぞ屋敷の中へ……旦那様も首を長くしてお待ちですよ」
 シエラの言葉に頷いて、エレインは屋敷の中へと足を踏み入れる。
 体を包むドレスが体に絡みついてやや動きにくいが、他の侍女たちがトレーンを持ち上げてくれた。結婚式が行われるのは本館の横にある別館で、エレインはまず本館の控室に通された。
「御髪とお化粧をこちらで直してから、会場へ向かっていただきます。本日は司祭様もお呼びしておりますので、まずは結婚の宣誓を――本日は王太子殿下もいらっしゃっておいでですから、そこからは披露宴ということになります」
「お、王太子殿下がいらしているんですか?」
「国王陛下の名代と聞いております。王太子のバーナード殿下は旦那様の従兄で、最高学府に通っていた時分もご学友でしたから」
 今更ながら、その家系の華麗さを聞いただけでも眩暈がしそうだ。
 王家とも繋がり深いメイフィールド公爵家に、いよいよ自分が嫁ぐ――そう思うだけで、どっと冷や汗をかいてしまう。
「エレイン様? 顔色が優れないようですが……少しお休みになりますか?」
「いえ――だ、大丈夫です。今更ながらに緊張してしまっただけで……」
 一年前の自分だったら、このようなことは夢にも思わなかっただろう。
 淑女たれと教育を受けてはきたが、早い段階で婚約者が決まったこともあって、リック以外の男性の妻になる未来を想像したことがなかった。
(そういえば――あれから、ルーファス様にはお会いしていないんだっけ)
 求婚されてからの数か月間、エレインとルーファスの間のやり取りは数えるほどしかない。向こうも執務が忙しいというのがあって、毎日送られてくる花と、それ以前の贈答品以外は手紙のやり取りも控えめだった。
 ただ、手紙をくれる時はルーファスも言葉を尽くしてくれる。
 季節のこと、領地のこと、そしてエレインが好きな演劇や王都で流行っているものの話――彼なりに一生懸命心を砕いてくれているというのがわかって、エレインも手紙を眺めているだけで嬉しくなった。
(わたしは――本当に、ルーファス様の妻になるのね……)
 顔を合わせた回数は少なくとも、心は通っていると信じたい。
 始まりは少しだけ特殊だったけれど、こうしてみるとシエラたち屋敷の使用人もエレインに悪い感情を抱いているわけではなさそうだった。
「それでは――別館にお連れしてもよろしいでしょうか?」
「はい……準備はできています。シエラ、どうかよろしく」
 決意を秘めたまなざしで頷いたエレインを、シエラは屋敷の別館まで案内してくれた。大きなホールがあるそこは、本館と渡り廊下で繋がっている。
「披露宴が終わりましたら、こちらを通ってお部屋に戻っていただきます。その際も、私どもがご案内いたしますね」
「あ、ありがとう。……わたしの部屋は、もう用意されているの?」
「もちろんでございます。寝室は旦那様とご一緒となりますが、隣には私室もご用意しております。必要であれば、他に部屋を増やすこともできますので――」
 にっこりと微笑まれながらそんなことを言われて、エレインは思わず首を横に振った。
 すると、大ぶりな真珠の耳飾りが軽く頬に当たる。
「う……い、いえ、部屋は増やさなくていいです……」
 身に施された装飾品の数々が、ずっしりと体にのしかかってくる。
 緊張も相まってなかなか足が上手く動かないけれど、既に来賓たちは別館に集っている。
「シ、シエラ――その、ルーファス様ももう中に?」
「はい。エレイン様のご到着をお待ちしている状況ですが……本当に大丈夫ですか? お腹が痛いとか、熱があるとか……」
 どうやら自分の顔色はかなり悪いらしい。
 ひたすら緊張しているだけなので病気ではないのだが、シエラから見ると大分具合が悪そうに見えるようだ。
「熱はないわ。お腹も痛くないし――ただ、ひどく緊張してしまって。あまり……ルーファス様ご自身と、お話をしたこともなかったし」
 過ぎたことを思い出しても仕方がないことは理解している。だが、幼い頃から顔を知っていて、何度も言葉を交わしたリックと比べると、エレインはルーファスのことを何も知らないのだ。
「そうですね……お話自体も急なものでしたから、エレイン様が緊張なさるお気持ちも無理のないことかと思います。きっと、旦那様もそれについては十分に理解をされているかと」
 いきなり結婚を申し込まれたことにも驚いたし、彼の家柄が自分のそれとあまりにかけ離れているのもどうやったって気が引けてしまう。
 本来、王家に連なる公爵家ともなれば同等の家格から妻を娶るか、王族の姫君と婚姻を結んだりすることの方が多い。この国の爵位制度において、七つしかない公爵家の権力は絶大であり、その分厳しくもあった。
「大丈夫ですよ、エレイン様――なにがあっても、旦那様はエレイン様のことを守ってくださいます。じゃないと、国王陛下の前で求婚などなさいませんわ」
「そ……それもそうね。えぇ――ありがとう、シエラ……」
 シエラの言葉に背中を押されて、エレインはそっと会場の中へと足を踏み入れる。
 王太子も列席しているという会場はとても広く、列席者の大半は公爵家側の人間だ。
(――大丈夫。大丈夫よ……ルーファス様を、信じて)
 エレインは頭の中に、一輪の花を思い浮かべた。
 国内でもほとんど見ることができない、とても貴重な青薔薇――王立の研究機関にある植物園でだけ咲くというその花を、ルーファスは昨日、エレインに贈ってくれていた。
 柔らかな香りと鮮やかな色合い――エレインの金髪によく似あうその花を、ルーファスはどんな思いで贈ってくれたのだろう。きっと、悪いようには思っていないはずだ。
 それでも、長年結婚を考えていた婚約者から裏切られた彼女の心には、どこか拭えない不信感が残っている。必死にそれを振り払いながら、エレインは夫となる男の元へと一歩を踏み出した。
「エレイン――」
 おそらく自分は、とても不安そうな表情をしているのだろう。
 司祭の前で彼女を待っていたルーファスは、エレインの顔を見てそっとこちらへ歩み寄ってきた。
 新郎が突然花嫁の元に歩き出したことで会場は騒然としたが、彼はそんなことは全く気になっていないようだ。
「大丈夫か?」
 大股でエレインの元に近寄ってきたルーファスは、気遣わしげな声とともにそっとエレインの肩に手を回した。
 触れてくる体温の熱さに、思わずエレインの声がひっくり返る。
「は、はい……あの」
「顔色が悪い。コルセットを締めすぎていないか……?」
「……コルセットは、大丈夫です。少し緊張していて……」
 顔を覗き込んできたルーファスは、エレインがそう答えると安堵したように息を吐いた。どうやら本気で、コルセットの締めすぎを心配していたらしい。
「少し人が多かったか……申し訳ない。関係者をできるだけ絞ったんだが……」
「は、はい。存じております。王太子殿下もいらしていると……」
「我が家とは切っても切れない縁だからな。だが――そうだな。結婚式の最中は、俺は君のそばから離れない。もしどうしても辛くなってしまったら声をかけてくれ」
 真摯なまなざしで見つめてくるルーファスに、エレインはこくりと頷いた。
 飾り気のない言葉ではあるけれど、彼が発するそれは何故か妙な説得力がある。彼がそばにいてくれると言った瞬間にエレインの胸にのしかかっていたおもりのようなものがふっと取れた気がする。
「あー……公爵閣下? そろそろよろしいですかな」
「……失礼。ではエレイン、こちらへ」
 気遣わしげにエレインのことを見つめていたルーファスだったが、控えていた司祭がゴホンと咳払いをする。
 途端に頬がかぁっと熱くなったが、ルーファスは何事もなかったかのように司祭に一礼すると、そっとエレインの腰に手を回して体を支えてくれた。
「歩けるか?」
「は、はい……」
 緊張は相変わらずだったが、不思議とルーファスのそばにいると不安が少しずつ解消されていく気がした。
 そうして神に誓いを立て、無事に結婚式を終えた二人は、そのまま大規模な披露宴の会場へと向かうこととなった。
「やぁ従弟殿! この度は本当におめでとう。僕もこの前の晩餐会で見ていたよ――いやぁ、あの頭の固い従弟殿とは思えないくらいの熱烈な求婚! 吟遊詩人(トルバドゥール)たちがこぞって題材にしそうな、劇的な愛の告白だったじゃないか!」
「は……」
 披露宴であちこちの賓客に挨拶をし、参列者たちが酒を酌み交わし歓談に興じる中、エレインたちの元に一人の若い男性がやってきた。
 ルーファスのことを「従弟殿」と呼ぶその男性は、彼とは対照的なまばゆい金髪を揺らし、人懐っこい笑顔でエレインとルーファスを交互に見比べた。
「……殿下、お戯れもいい加減に。妻が困惑しております」
「妻! あのメイフィールド公爵から妻なんて言葉を聞けるなんて……やっぱり父上にお願いして、名代としての出席を許可してもらって正解だったなぁ」
「お、王太子殿下……?」
 エレインたちの前にやってきた青年は、現国王の嫡男であり、国政の多くを任されている王太子――バーナードだった。
 従弟のバーナードは学生時代からの友人でもあり、今日も二人の結婚を祝うために披露宴に顔を出してくれていた。
「リィドールズ伯爵令嬢……あぁ、いや。もうメイフィールド公爵夫人とお呼びしなければならないね。でも、従弟殿の奥方は僕の友人も同然だろう? エレインって呼んでもいいかい?」
「は、はぁ……」
 早口でまくしたてながらにこにこと笑い続けるバーナード王太子の姿に、エレインはすっかり呆気に取られて口を開けた。
「あ、そうだ! エレイン、僕のことはバーニーと呼んでくれよ。婚約者も友人も皆そう呼ぶんだ。呼んでくれないのはこのカタブツの従弟殿だけ……」
「殿下――バーナード王太子殿下。……妻が完全に混乱しています。人の話を聞いてください」
 怒涛の喋りに圧倒されるエレインとバーナードの間に入りこんだルーファスは、呆れたように深く息を吐いた。すると、バーナードはまたころころと笑って話し始める。
 威厳溢れる国王とは対照的に、王太子は母譲りの天真爛漫さを持つとは聞いたことがあった。
 もちろんエレインはバーナードと直接話したことはないが、この性格で民からの人気が高いのも頷ける。彼の言葉には、つい話を聞き入ってしまうような魅力があった。
「おっと失敬。いや、でも本当に嬉しいんだよ。今まで従弟殿には全然女性の噂なんてなかったし、公爵領に戻った先代のメイフィールド公爵も心配していただろう?」
「余計なお世話です。大体、エレインはあなたの妹でもなければ婚約者でもない。愛称で呼ばせるのはやめてください」
「え、でもルーファスの妻は……僕の従妹ということになるだろう? 遠慮しなくていいからね、エレイン。私的な場では、僕たちは家族のようなものさ」
 渋面を浮かべるルーファスとは対照的に、バーナードは笑顔を絶やさず喋り続ける。
 将来的には彼の臣下として執務を支えることになるルーファスは、今にも胃が張り裂けそうだと言わんばかりに腹部を擦っていた。
「母上もエレインに会いたがっていたから、今度お茶会に招くと言っていたよ。……あぁ、そうだ。それと一つだけ――大事なことを伝え忘れるところだった」
 母上、つまり王妃から茶会の誘いが届いたら、エレインは絶対に断れない。
 晩餐会では大勢の貴族たちの前で大きな騒ぎを起こしてしまい、あれから一度も社交界には顔を出していなかった。
 今までは結婚の準備があるからと断っていたが、メイフィールド公爵夫人となってしまえばそう簡単に誘いを断ることはできなくなるだろう。
(でも――ある程度は、覚悟していたことだわ。それも責務の一つだもの)
 自分に言い聞かせるように小さく頷いたエレインだったが、一方でルーファスはどこか硬い表情を浮かべていた。
「……ハルバートン伯爵令息のことですか」
 その言葉に、エレインはハッとして顔を上げる。
 まさか、今ここでかつての婚約者の話を聞くとは思わなかった。ルーファスの表情からして、恐らくあまりよくない話題だろう。
「その通りだ。ルーファス、君があの場でエレインに結婚を申し込んだことで、ハルバートン伯爵令息……えぇと、リックだっけ? 彼が大層恥をかいたと喧伝しているみたいでね」
「恥をかいたのはエレインの方です。あのような大衆の面前で婚約の破棄など、良識ある貴族の振る舞いじゃない」
「わかっているさ。君もエレインも何も悪くない――ただ、僕のところまで話が聞こえてきているということは、相当言いふらしているみたいだね」
 それまで柔らかく細められていたバーナードの目が、鋭い光を灯した。、
 低く従弟に耳打ちをする表情は、ルーファスにそっくりだ。
「ご忠告痛み入ります。……警戒と、動向の観察をしておきます」
「そうしてくれ。――さて、長々と捕まえてしまって悪かったね。エレイン、今度はぜひ私の婚約者も交えて楽しくお茶でも飲もうじゃないか!」
 だが、身にまとう鋭い雰囲気をエレインが感じたのはほんの一瞬のことだった。
 再びぱっと表情を明るくしたバーナードは、そう言ってひらひらと手を振り行ってしまう。
「……嵐のような方だろう?」
「え、えぇ」
「母君である王妃様にそっくりな方だ。だが、国王陛下と同じ隙のなさと秀でた頭脳を持っている。――あの方ほど、次代のランズベルト王国を率いるにふさわしい方はいない」
 淡々とした口調ではあったが、ルーファスははっきりとそう言った。そこには彼の、バーナードに対する確かな信頼がにじみ出ている。
「それは――わたしにもわかりました。わたしが緊張しているのを知って、あんな風に明るく話しかけてくださって……」
「いや、あれは本人の性格だが――それでも、君の緊張が少しでも解れたのならよかった」
 そう言いながら、ルーファスは薄く微笑んだ。
(ルーファス様が笑ったところ、初めて見たかも……)
 見慣れないその笑顔に、胸の辺りが温かくなる。彼としても、エレインがこれ以上緊張しないように心を砕いてくれていたのだ。
 その後も、エレインの両親や他の貴族たちがひっきりなしに二人の元を訪れるので、宴が終わった時刻はかなり遅くになってしまった。
 酒が入ると年長の貴族がこぞってルーファスに酌をしたがり、彼がそれを断る。そういったやり取りを何度か繰り返してから、ルーファスは深く息を吐いて立ち上がった。
「――シエラ、控えているか」
「こちらにおります、旦那様」
「エレインと俺はそろそろ休む。来賓の皆様をそれぞれの部屋へ案内してくれ」
 ルーファスが声をかけると、どこからともなくシエラが出てきて腰を折った。
 すっかり酒精が支配している空間の中で所在なさげにしていたエレインも、その言葉でルーファスの方に視線を向ける。
「かしこまりました。……エレイン様は、私がお部屋までお連れしてよろしいですか? 御髪を解いて、一度お化粧を落とさなければなりません」
「あぁ、そうしてくれ。俺は――先に部屋に戻る」
 ルーファスの方も、列席した膨大な人数の客人の相手をするのはかなり疲れていたらしい。一度大きく息を吐いた後で、彼はそっとエレインの方に向き直った。
「では――部屋で待っている」
「は、はい……」
 漆黒の瞳がじっと自分の目を覗き込んでくるので、エレインはどきどきしながら言葉を返した。
 神に誓約を立て、多くの人の前で披露宴を行った後――なにがあるのかは、流石のエレインも理解している。
「さぁ、エレイン様。参りましょう――先に湯浴みをして、お化粧も落としてしまいましょうね」
 シエラに促されるがまま、エレインは本館にある湯殿で体を清められ、複雑に編み込まれていた髪を解かれた。肌にくすみが残らないようにしっかりと化粧を落とした後は、数人の侍女たちの手でたっぷりと薔薇の匂いの香油を塗り込められた。
「あ、あのっ……こんなにたくさんの香油を使っては、流石に――」
「なにを仰います。これからが大切なのですよ? 女性の華やかさを演出するのに、香りはなによりも大切なものです。芳しい香りと言うのは殿方の本能を刺激するものなのですから」
 香油はただでさえ希少なのに、それをこんなにふんだんに――それも、公爵家で使われるようなものは精製水で薄めたただの香水ではない。量を間違えれば噎せ返ってしまいそうなほどのそれを塗りたくられて、エレインは疲労困憊で浴室を後にすることになった。
「さぁ、お肌のお手入れが終わったら次は御髪ですよ。エレイン様の美しい金髪に、もっと良い香りを――」
「髪はっ……髪は大丈夫ですから! お気遣いは、嬉しいんですが……」
 普段あまり自分の意見を口に出せない性格のエレインも、流石にそれは固辞した。このままでは全身薔薇の香りを振りまいて寝台に上がることになってしまう。
「そうですか……?」
 残念そうな表情を浮かべる侍女には申し訳ないが、なんとか髪にまで香油を塗られるのは回避した。
 そうして薄手の寝間着に着替えたエレインは、シエラに案内されてルーファスが待つ寝室へと向かう。寝室といっても、部屋はエレインの私室のすぐ隣だ。
「旦那様、エレイン様のお支度が整いましたよ」
 コツコツと扉をノックする音を聞いて、エレインの緊張はさらに膨れ上がった。
 下手をすれば、結婚式のその時よりも強い緊張感に見舞われていたかもしれない。
 一言返事があった後に扉が開かれると、シエラはエレインに向けてにっこりと微笑んで見せた。
「それではエレイン様、こちらへ」
「は、はいっ! ……し、失礼します」
 返事が不格好にひっくり返ってしまったのも恥ずかしかったが、ルーファスはそれを笑ったりはしなかった。
 俯いていた顔を上げると、彼は寝台の上で足を組んで座っていた。傍らに本が置かれているところを見るに、エレインがこの部屋を訪れるまで読書をしていたのだろう。
「それでは、私は失礼いたします。何かございましたらお呼びください」
 エレインが一歩部屋の中へ足を踏み入れると、シエラは一礼して去っていく。
 妙な静寂が流れる空間で、二人は見つめ合ったまましばらく言葉を発することはなかった。
「――エレイン」
「っは、い……」
「そこに立っていては寒いだろう。こちらへ」
 そう促されて、エレインは重たい足を引きずるようにベッドへ歩いた。
 ルーファスの傍らに腰を下ろすと、途端に胸の鼓動が強く、早くなっていく。
(これって――つまり、そういうことよね。ちゃんと……家庭教師には、話を聞いてあるし……)
 男女の褥のことは、あくまで話として聞いた程度の知識しかない。
 どうすれば子ができるのかは家庭教師からの授業の一環で聞いていたが、婚儀を行った初夜の褥でそういうことをするという話は知っていても、それ以降のことはよくわからないままだった。
 未知の不安に駆られたエレインは、いつしかぎゅっと手を握ったまま小さく震えていた。
「エレイン。……そんなにきつく手を握っていては、君の手に傷がついてしまう」
「えっ……あ、す、すみません」
「気付いていなかったのか。それと、謝る必要はない――ほら、手を開いて」
 落ち着いたルーファスの声音は、強い緊張をほんの少し和らげてくれる。
 頑なに握り締めていた手にそっと触れられて、エレインは深く息を吐いた。少しだけ高い彼の体温が手指から伝わって心地よい。
「今日は疲れただろう。どれだけ人を絞っても、招く人数が多くなってしまって……」
「い、いえ。覚悟はしていました……ただ、先代公爵様にお会いできなかったのが残念です」
 ルーファスの父――王弟であった先代のメイフィールド公爵は、今日の結婚式を欠席していた。
 早い段階で公爵位を息子に譲り領地に隠居した先代の公爵だったが、昨年の冬に屋敷の中で転倒して腰を痛めてしまったらしい。
「父も君に会いたがっていた。だが、どうしても――今の状態で領地から出てくると、たくさんの人の手を借りなければならない。昔からそういうのが嫌いな人なんだ」
 息子同様に理知に富んだ立派な人物であることは聞いているが、そういう経緯からエレインは先代公爵と顔を合わせたことがなかった。
 一応伯爵家側から謝罪の手紙を出したものの、その返事も「エレインが公爵家に嫁げばそのうち会えるのだから、過度な心配はしないように」という簡潔なものであった。
「そのうち、時間ができたら君をメイフィールド公爵領に連れていきたい。温暖な気候で過ごしやすいし――きっと君も気に入るだろう」
「えぇ……そうですね。その時はぜひ」
 元々王族の直轄領であった公爵領は、広大かつ肥沃な土地だと聞いたことがある。エレインの実家であるリィドールズ伯爵領は北の方にあるので、温かい土地というのは憧れだ。
「そうだ、ルーファス様。あの……お花、ずっとありがとうございました。どのお花もとっても綺麗で……頂いたものは、全て部屋に飾っていたんです。毎日どんな花が届けられるのかって、すごく楽しみで」
「あぁ――そうか。最初は不躾にあれこれと贈ってしまったが、君が気に入ってくれたのならよかった」
 確かに宝石やドレスの類は驚いたが、一輪一輪ルーファスが選んだ花は見ているだけで心が潤うようだった。
 緊張してばかりの結婚ではあったけれど、確かにエレインは彼の優しさを感じていたし、そこに見え隠れする気遣いもよく理解していた。
「ずっと君に謝らなければと思っていたんだ」
「謝る? なにをですか……?」
「俺は、君の意見を無視して結婚の話を進めてしまっただろう。晩餐会の日――声高に婚約の破棄を宣言されている君を見て、体が勝手に動いた」
 ルーファスの言葉に、エレインはじっと聞き入った。
 確かに、彼からのいきなりの求婚はかなり驚いた。その後国王までが声をかけてきたのには心臓が飛び出そうになってしまったし、そこから数日間は本当にこれが現実なのかと疑ったほどだ。
 だけど、彼がその選択をしてくれたおかげで自分は今ここにいる――そう答えようとしたエレインだったが、次の瞬間にルーファスが口にした言葉に、頭の中が真っ白く塗り潰された。
「だが、貴族の結婚とはそういうものだ。君も理解しているとは思うが……他に想う者がいるなら、俺は……君が愛人を作っても、構わないと思っている」
「は――」
 愛人という一言に、周囲から全ての音が消えたような気がした。
(あ、愛人? いきなりどうしてそんなことを――ルーファス様は、わたしに愛人を作れと言っているの?)
 それとも、エレインには他に好きな人がいると本気で思っているのだろうか。
 高貴な身分の女性は夫以外の男性を愛人として囲うことがあったが、少なくともエレインはそんなことを考えたこともない。
「ルーファス様? わ、わたしは――」
「無茶な結婚だったということは、俺も十分に承知しているつもりだ。だから、公爵家の妻として最低限の務めさえ果たしてくれれば、他には何も求めない」
 きっぱりとした口調で告げられて、今度こそエレインは絶句した。
 それまで感じていた彼へのほのかな信頼を、簡単に打ち崩す一言。まるでエレインが愛人をもって当然だとでも言わんばかりの口ぶりに、さっと血の気が引いていく。
(なにか――なにかを、言わなくちゃ。黙っていてはルーファス様にも誤解されてしまう……)
 そうは思うものの、頭の中が急激に漂白されて言葉が出てこない。
 普段からあまり自分の意見を口にしないエレインは、思ったことを直情的に言葉にすることに慣れていなかった。
「無論、この褥も……妻としての、最低限の務めだと思ってくれていい」
「そんな――ん、ぅうっ……」
 ぐっと迫ってきたルーファスが、そっとエレインの唇を奪う。

(――つづきは本編で!)

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