作品情報

没落令嬢は真紅の皇太子に寵愛される~黄瑛国初恋譚~

「その声、他の男に聞かせるなど許さぬ」

あらすじ

「その声、他の男に聞かせるなど許さぬ」

 宮殿への装飾品を納める貧乏商家の一人娘、凛花(リンファ)は、春の街で美しい紅の髪の青年翔朱(ショウシュ)と出会う。彼の正体が先代皇帝の息子であるとも知らず恋に落ちた凛花は、櫻の舞い散る川辺で彼と甘く結ばれる。
 だが贅沢暮らしを目当てに凛花の父の後妻としてやってきた継母は、凛花の恋心も知らず勝手に娘の縁談を画策し……愛と陰謀の後宮ファンタジーロマンス!

作品情報

作:みずたま
絵:唯奈
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み

第一話

 橙紅《だいだい》色、明るい青、深い緑、そして珊瑚色。
 空にはためくさまざまな色の幟《のぼり》が、朝のさわやかな風を受けて一斉に翻る。青空に映えるその鮮やかな様子を、涂凛花《トウリンファ》は胸に大きな包みを抱え立ち止まって見上げていた。
(なんて、綺麗な色……)
 丁寧に整備された石畳の大通りで、空を仰ぎほうっとため息をつく凛花の横を数台の荷車がたがたと通り過ぎる。車輪が飛ばした細かい石の粒が萌黄色の襦裙《じゅくん》の裾にあたり、凛花は慌てて隅に避けた。「悪いねお嬢さん」と御者が遠くから元気に謝る声に、彼女も笑顔で頷く。今日は、街行く者みんなが掲げられた幟と同じように明るい表情をしているように思えた。活気のいい話し声や笑い声があちこちで湧き上がる。少し前までのどんよりとした空気が嘘のように順蓉《ジュンヨウ》の街は色めいていた。
 それもそのはず、この黄瑛《キエイ》国に、やっと春がやってくるのだ。冷たく寒い冬が終わるというだけではない。前皇帝の喪が明け、国の中心、黄瑛城がある順蓉の街にも明るい色を使うことがやっと許されたのだ。地味な色を纏い、静かに前王を悼む期間は終わった。次の皇帝陛下の即位へ向けて、街も城も、ようやく動きはじめる。
 即位の儀典を数ヶ月後に控え、国を挙げての祝い事に巨大首都順蓉では久しぶりに華やかな色が戻り始めた。あちこちで露店が開かれ、色とりどりの幟を立てる。この陽気のせいか買い物客も楽しそうだ。三層、四層建ての高い建物が立ち並ぶ料理店街では露台の手すりに鮮やかな布を幾本も垂らし、道ゆく人を誘っている。
 凛花も今日は浮き立つ気分で屋敷を出てきた。いつもより少し高く髪を結い上げ、襦裙はお気に入りの萌黄色だ。高い位置で締めた白帯には金の糸で櫻《さくら》の刺繍を施してある。これは彼女がつい先日仕上げたものだ。
 彼女は装飾品を扱う商家、涂家の一人娘として生まれた。実家の蔵には数多くの美しい細工物が並んでいる。小さな頃から職人たちのさまざまな針仕事に触れてきた彼女は、令嬢でありながら手仕事が大好きだった。だからついつい、凛花は街ゆく人の衣や帯の装飾といったものに目がいってしまうのだ。
(あ、あの襟、刺繍がとっても素敵)
(あの女性の簪、どんな素材なのかしら……)
 今までみんな華美な装いを避けていたので、喪が明けて男女ともにここぞとばかりに着飾っているように思えた。なんだか嬉しくなって、凛花はもう一度ゆっくりと街を眺めた。ふと、そのなかに一際きらめく黒の繻子《しゅす》が目に入った。思わず視線が引き寄せられる。
(わ、なんて素敵な黒。深い、深い黒。それに、縁がきらきらしてる。刺繍かな?)
 遠目でも上質なものとわかる輝く黒い布地を纏った人物は、雑踏のなかをゆったりと進んでいた。燃えるような紅の髪が一房、肩のあたりに垂れている。魅入られるようにしてその人物を目で追っていると、後ろから声をかけられた。
「凛花お嬢さん」
 聞き覚えのある声に彼女は振り向く。雑踏のなかでこちらに手を振っている青衣の青年は、雑貨店の息子、佑沈《ユーシェン》だった。涂家に昔から出入りする店の長男で、彼女のことも小さな頃から知っている。仕事熱心で真面目な青年だ。
「やっぱり! 凛花お嬢さんでしたか」
「佑沈さん! 久しぶりですね」
「お久しぶりです。びっくりしました。こんな朝早くからどうされました?」
「今日はいくつか用事があって……」
 凛花は胸の包みに目を落とす。そう、今日は凛花にとって、そして涂家にとっても大事な日だった。佑沈は驚いたように続ける。
「ご用事ですか? 涂家のお嬢さんが一人で出歩いているなんて、なにかの見間違いかと思ってしまいましたよ」
 彼女は苦笑いした。
「とても大事な用事があったんです。それに、もう私の家は昔とは違いますから。私一人のために馬車を出したりしたら無駄遣いですもの」
「そ、そんなこと……すみません、考えなしに」
 青年は目を見開くと、申し訳なさそうに頭を垂れ拱手《こうしゅ》(両手の指を胸の前で組んでおじぎをする挨拶)した。彼女の家の事情を思い出したのだ。
 もともと、涂家は黄瑛国でも十本の指に入るほどの名家だった。代々宮殿への装飾品を納めていて、後宮の妃たちからの受けもよかったのだ。だが、凛花の父の代になってから急速に取引が少なくなり、今では貧乏商家と噂されるようになってしまった。凛花など、商家同士の酒席で『涂家の没落令嬢』と揶揄されることもある。佑沈は遠慮がちに尋ねた。
「……お父上はお元気ですか?」
 商売が下向きなのもあり、凛花の父は最近体調を崩しがちだった。いまは彼女の兄が当主として実質家業を引き継いでいる。
「ええ、ありがとうございます。最近は少し起き上がれるようになってきたの。お薬が効いているのかもしれないわ」
「それはよかった。早く元気になって頂きたいですね!」
 凛花は柔らかく頷く。ふと、彼の妹のことを思い出した。
「佑沈さんこそ、小鈴《シャオリン》ちゃんは元気? お城へお勤めに上がって、もう二年くらいかしら。きっと、すごく大人になっているでしょうね」
 佑沈の妹は幼い頃から兄について屋敷にやってきていた。凛花は彼女を可愛がってよく遊んでいたが、十四の時に宮女として後宮で働けることになったのだ。苦しい家計を助けるため、小鈴は自ら進んで勤めに上がったという。凛花に懐いてくれていたので、彼女もしばらく寂しい思いをしていた。兄の佑沈は妹の話になると顔を盛大に輝かせた。
「あいつ、もうすぐ帰ってくるんです!」
「本当に? ……お休みを頂けるということ?」
 皇帝陛下のお住まい、鳳凰殿は黄瑛城のさらに奥にある。小さな町ならまるまるその敷地に入ってしまうとか、中には巨大な湖があるとか、いろいろな話が昔から語られているが、分厚い城壁の内は凛花たちのような民には窺い知ることができない。全て雲の上の出来事だ。凛花が曖昧に尋ねると彼は元気よく頷く。
「即位のお祝いの一環らしいです。手紙にそう書いてありました。ひと月ほど休めるそうで、父と母がそれはもう喜んで」
「ひと月! それはみんなとっても楽しみにしているでしょう」
(あんなに幼いのに、小鈴ちゃんはお家のことを考えて後宮に仕えようとしたんだもの。本当に偉い子だわ)
 凛花も笑顔になる。「お土産話をたくさん聞かせてくれるかしら」と尋ねた。
「そりゃもちろん、貴方のことを姉のように慕っていましたから」
 小鈴が城に上がって二年ほどだろうか。どんなに家族は嬉しいだろう。佑沈もにこにことしていたのだが、不意に声を顰めた。
「どうもその、妹が仕えていた夫人が結局一度もお召しがなかったようなんです。だから、宮女たちにも長めに休暇をお与えくださったのではないかと」
「え? お召しって……」
「あ、いや! すみません、こんなことお嬢さんに聞かせる話じゃなかったですね……。申し訳ない、忘れてください」
 佑沈は顔を真っ赤にする。そこで、凛花もなんとなく意味を察してしまい耳が熱くなった。
(あ、あのことね。きっと……陛下との、夜の)
 まだそのような経験のない凛花はどぎまぎとしてしまう。後宮に仕えるというのは、夫人のそういった面の世話もするということだ。なぜか小鈴が急に大人に思えてしまった。佑沈もしどろもどろになり、慌てて話題を変えてきた。
「ええとお嬢さん! と、ところでっ。今日は、どんなご用事なんですか? もしよろしければついていきますよ」
 凛花もあたふたと手を振って彼に話を合わせる。
「あ、ええと! いえ、もう用は終わったの。だから大丈夫よ。ありがとう」
「もう終わったのですか? それはそれは、よほど早起きされたんですね」
「ええ、朝一番で、官衙《かんが》(役所のこと)へ評賞儀の予選の結果を見にいってきたんです」
「ひょうしょうぎ……? もしかして、今噂の『天舞評賞儀《てんぶひょうしょうぎ》』ですか?」
「そうなの! あれに涂家も出品したの」
 凛花は意気込んで頷いた。興奮気味に顔を上気させている。『天舞《てんぶ》』とは、即位の儀で皇帝陛下へと捧げる祝いの舞のことだ。古代から伝わる神聖な儀式で、代々正殿の広間で厳かに行われる、本来なら一般人が見ることさえ叶わないものだ。だが今の皇太子様、すなわち次の皇帝になられる方はご自分の即位式典の際に、この舞を庶人らも観られるようにしたいとおっしゃられたという。国の皆で太平の世を祈りたいとの思し召しだそうだ。さらに、舞い手達が纏う衣装を広く民間から選ぶと下知された。『天舞評賞儀』と名付けられたこの選抜式がいま、黄瑛の民の関心を集めているのだ。佑沈は大きく頷いた。
「ああ、そうだったんですね。お城からの告示には本当に驚きました。どこもかしこもその噂でもちきりでしたもんね。さすが皇帝陛下になられるお方です。広いお考えをお持ちだ」
 そう言って感心したように腕を組む。今までの慣例に囚われず、国民の技術や才能を広く発揮できる場を作りたいというお言葉は、早くも黄瑛国の民の心に、新皇帝への崇拝の念を湧き上がらせているのだ。
 涂家にとっても、この選抜儀式はなによりの朗報だった。評賞儀で涂家の品が高い評判を得られれば、取引が増えることは間違いない。没落しかけた家業を再び上向かせることができるのだ。復興の足がかりとするべく家人総出で図案や意匠、布選びなどを行い、出来上がった力作を提出した。今日はその第一次審査の結果が張り出される日だったのだ。
「私たちの家はいま宮殿のお取り引きはないけれど、評賞儀で夫人や貴族の方とか、どなたかのお目に留まれば、きっとまたうまくいくわ。お父様も元気になると思うの」
 凛花は期待を込めて包みを再び抱き締めた。数百点の応募のなかから無事、涂家の出品した羽衣が一次審査を通過したのだった。包みには二次審査へと進める割札が入っている。佑沈も顔を綻ばせ、一緒に喜んでくれた。
「いい結果になるといいですね。涂家の品は本当に良いものなんですから、きっと最優秀作品に選ばれますよ!」
「ありがとう。家のみんなでがんばったから、あとはお祈りするだけなんだけれど。佑沈さんも、小鈴ちゃんが帰ってきたら必ず知らせてくださいね!」
 涂家まで送っていくという佑沈を丁寧に断り、互いに良い知らせができるようにと笑顔で別れ、凛花は再び歩きはじめた。
(小鈴ちゃん、帰ってくるのね。楽しみだわ。後宮のお話たくさん聞かせてくれるかしら。どんなお食事とか、それからもちろん、夫人たちのお召し物がすっごく気になる……!)
 あれこれと尋ねたいことが浮かんできて、凛花は楽しくなってしまう。まだ午前中で日も昇りきっていない。凛花は爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。時間はあるし、布地や刺繍針を扱う馴染みの店にでも寄ろうか。そう思いついて、凛花は足取りも軽く方向を変えた。そこで、はたと立ち止まる。先ほど見つけた輝く黒布地が視界に飛び込んできたのだ。
(……あの黒い生地と紅い髪……。きっとさっきのひとだわ……! あんなに綺麗な光沢、そうそうあるわけないもの)
 街に溢れる鮮やかな色のなかで、一際鋭く光る黒。朱の髪との対比でよけいに美しい。もう一度、じっくり見てみたい。そう思って凛花は再び、吸い寄せられるように近づいていく。燃えるような紅髪を結い上げ、一房肩に垂らし、黒の袍衫《ほうさん》を纏った人物は颯爽と歩いていた。
(男の方よね。どうしよう……いきなり声をかけたら失礼かしら)
 男はいくつも店を通り過ぎてゆく。凛花はそろそろと後を追いかけながら、その生地はどこで誂《あつら》えましたか、なんて聞けるだろうか、怪しまれてしまうかもしれないとだんだん不安になってきた。と、青年は大きな店の横で角を曲がって見えなくなった。
「あ」
 小さく声を上げて、凛花は走った。細い通りにはもう誰もいない。建物に挟まれた空っぽの道が延々と向こうまで続いているだけだ。凛花は盛大にため息をついた。
(ざ、残念……。せめてもうちょっとだけ、近くで見ることができたらよかったんだけど)
 名残惜しかったが諦めることにして、凛花は大通りへ戻ろうと背を向けた。そのとき。
 ぼすん。なにかにぶつかる。
「きゃ」
 ごめんなさい、と謝る前に大きな手がぐい、と彼女の口を覆った。
(な、なに?)
 声をあげる間も無く肩を掴まれ、びたりと背中を壁に押しつけられてしまった。凛花は目を白黒させて、自分を押さえつけている人物を見上げた。真っ赤な髪が目に飛び込んでくる。赤い髪に、黒い服地。
(さ、さっきのひとだ……!)
「俺に、なにか用か」
 耳元で、突き刺すような低い声が尋ねる。凛花は震えあがった。首を思い切り横に振ろうとするのだが喉と口を強く押さえられているので全く動かない。
「ずっとついてきていただろう。物盗りか? それとも……」
(違います! 誤解です)
 そう言いたくても「んー! んー」と情けない呻き声にしかならない。凛花は瞳に涙を溜めて、懸命に首を横に振ってみせた。
(わ、私ったら! ……どうしよう)
 恐怖と不安で頭が真っ白になる。目の前の男の顔貌など全く目に入らなかった。凛花が必死に否定しているとやがて、再び耳元で声が聞こえた。
「殺意がないのであれば、それを証明してみろ。いいな」
 殺意なんて、そんなものあるわけない。彼女は震えながら何度も頷く。男の大きな手が、ゆっくりと唇から離れてゆく。肩はがっしりと掴まれたままだ。朱い髪の下、鋭い灰紫の瞳が彼女を捕らえている。
「……ごっ、ごめんなさい! あの、あの……、お召し物が、黒い繻子地《しゅすじ》が、とても素敵で……」
「……は?」
 男は気の抜けたような声を出した。
「……繻子地?」
 凛花は息を整え頷く。心臓がどくどくと波打っているのを感じながら、凛花は視線で男の纏う袍衫を示した。
「その、袍衫です。墨のように濃い黒、ほのかに光沢があって、見事な織りです。遠目からでも自然と惹きつけられてしまいました。縁どりの刺繍もとても細かくて凝った手法が使われていますよね。それで私、……どちらでお誂えになったのかお尋ねしたくて……、ほんとうに、申し訳ありません。大変失礼なことをしてしまいました!」
 こんな説明ではたして納得してもらえるだろうかと、凛花は緊張する。我ながら苦しい言い訳にしか聞こえない。しかし、本当のことなのだ。男はぽかんとした表情でこちらを見ている。そして、自分の衣に目を落とした。再び凛花に視線を戻したときには少しだけ、その瞳が柔らかくなっていた。
「お前は俺ではなく、この衣を追いかけたということか」
「そ、そうです! そうなんです」
 凛花は真面目な顔で何度も頷き頭を下げる。顎に軽く指をあて、しばらく凛花を見ていた男はやがてくすりと笑った。
「よくわかった。俺自身の風貌よりも、この衣は目立つということだな」
「はい! え? ……あ、いえ、その……」
 彼女は改めて目の前の青年の顔を見た。慌てすぎて全く気づかなかったが、青年は非常に整った顔をしていた。精悍な輪郭、切れ長の瞳。通った鼻筋と凛々しい眉。そして燃えるような紅髪、どちらかと言うと野性的な顔立ちなのに凛とした気品がある。布地ばかりに目がいっていたが、凛花はこんな美丈夫を見たことがなかった。
「も、申し訳ありません……!」
 凛花はなぜだか謝ってしまう。男はぐい、と彼女の顔を覗き込む。髪がはらりと垂れた。
「なぜ謝る? 俺の顔より衣が魅力的だということだろう?」
「いえ、その、貴方も、とても、その……」
 真っ赤になる凛花をよそに男は高らかに笑う。そして彼女の肩から手を外した。
「まあいい。お前に他意がないことはわかった。怖い思いをさせてすまなかった」
「いえ……。私こそ、とんだ失礼をお許しくださいませ」
「もういい。だが、そうか。やはり、自分で選んだのが良くなかったか」
 青年は独り言のようにぽそりと言って、自分の姿を見下ろす。
「この衣は街の者とだいぶ違うのか?」
 彼は両手を横に大きく広げてみせた。帯も見事だ。生地の質感といい、靴の造形といい際立っている。とてもではないが庶民が街をぶらつく装いではない。だが当人はそれがわからぬようで、ただただ困り顔だ。
(たぶん、身分の高い一族のご子息なんだわ。街にあまり馴染みがないのかもしれない)
 そう推理した凛花は、ためらないながら頷いた。
「そうですね、お祝いでもない限りほとんど見かけません」
「そうか、……そうなのだな。礼を言う」
 凛花は首を傾げた。なぜ礼を言われるのだろう。
「この出立ちは悪目立ちすると教えてくれた。その礼だ」
「わ、るめだち、ですか……? 私、そこまでのつもりでは」
「ああ、そうだろうな」
 赤い髪の青年は、「でも同じことだろ?」と白い歯を見せた。爽やかで嫌味のないその笑い方に凛花は目をぱちくりとさせる。なぜか凛花の胸のあたりが、ぽわりと温かくなってしまった。つられて思わず凛花も微笑む。青空のした、春の爽やかな風が二人の頬を撫でていった。
「さて、娘。折り入って頼みがある」
 青年は改めて彼女を真正面に捉えた。
「この衣を取り替えたい。俺を案内してくれ」
「取り替えるって、あの」
 なんとも突飛な頼みに、凛花は瞬きをした。
(え……。この方、何をおっしゃって……)
「あ、あの。なぜ……そこまでしなくても」
「なぜって、目立たぬ袍衫に着替えてこの街を歩きたいからだ。俺は一人で出歩くことがあまりなくて、店もうまく探せぬ」
 青年は照れ臭そうに鼻の頭を掻いている。一人で出歩かないなんてやはり、どこかの太守《たいしゅ》の息子かなにかなのだろう。凛花は先ほどからのこの青年の堂々たる振る舞いにも納得した。ますます、失礼なことをしてしまったと身が縮む思いになる。こうなったのもなにかの縁だろうと思った凛花は、詫びの意味もこめて、しっかりと頷いた。
「わ、わかりました! 私でよければご案内いたします。良い仕立て屋を存じておりますので」
 彼は顔を綻ばせた。
「そうか、ありがとう。よろしく頼む」
「あ、あの、わたし、凛花です。涂凛花と申します」
「俺は、翔し……翔だ」
 かすかに口籠りつつ、赤い髪の青年も名乗った。
「翔さま、とお呼びすればよろしいのですか?」
「うん。では行こう」
 満足げに頷くと、彼は歩きだす。真っ黒な繻子地が優雅な足捌きに揺れる。凛花は不思議な気持ちで青年の横に並んだ。

第二話

「ではお前の家は、帯や襟飾りを扱う商いをしているのか」
 翔は自分の衣と凛花の帯を興味深そうに見ている。
「ええ。当家の職人が図案を考えて、商品に仕上げています。私も一緒にやっていますが、とても楽しいお仕事ですよ」
 街を歩きながら、凛花は家業の説明をした。翔と名乗るこの青年が道中いろいろと尋ねてきたからだ。
「帯や袍衫の袖におめでたい図案を取り入れたり、季節のお花を刺繍したり、貴石を縫いつけたりして独自のお品に仕上げるんです」
「ほう。ひとつひとつ違うものを考えるのか? 大変な手間ではないか」
「でも、自分だけのお気に入りのものを見つける楽しみもありますよ。皆と違うものを身につけたいと思われる方が多いですから」
「そんなものなのか。衣はどれも同じと思っていた」
 感心しきりの翔に、凛花はにこりとする。彼は様々なことが気になるらしく、「あの店はなんだ」とか、「あの食べ物は」など、順蓉の街に好奇心がつきないようだった。
「翔様は、この街は初めてなのですか?」
 凛花の問いかけるような視線に、翔は苦笑いする。
「年に何度か来ている。だが、普段は馬車のなかから見るだけなんだ。このように立ち歩いたことはほとんどない」
「まぁ。翔様のお家はとても遠いのですね」
「そ、うだな。まあ、遠いといえば遠いな」
 彼は少しだけ口籠った。凛花がどういう意味か尋ねるか迷っているうちに、目当ての店が見えてきた。
「ああ、翔様。あちらです。仕立てが主のお店ですが、完成品もたくさん置いていますからきっと、翔様に合うものが見つかると思います」
 色鮮やかな布地が反物状に重ねられた店先では、店主が商品を並べていた。
「こんにちは。林荀《リンシュン》さん」
 禿頭の店主が振り向き、驚いた表情を見せた。
「おや、涂家のお嬢さんじゃありませんか! お久しぶりですね」
「みなさんお元気でしたか?」
「ええ、ええ。お陰さまで。今日はどうされましたか? そうそう、新しい生地がたくさん入荷しましたよ。明るい色がやっとこさ解禁になったのでね! 皆さん競って派手めの装いをされてます。ありがたいことですよ。ほんと、ご即位が待ち遠しいですねえ!」
 ぱきっとした緑の袍衫の袖を振って、店主はにこにことまくし立てる。景気も良くなったと嬉しそうだ。
「あの、今日はこの方に合う袍と下衣をお願いしたいのです」
「おや、こちらにですか? これはまた」
 店主は禿頭をつるりと煌めかせて片眉を上げた。そして、凛花をちらりと見る。揉み手をしている店主に、翔は腰に結んだ小袋を外してみせた。台の上にごとりと重たい音が響く。
「これで足りるか? 時間があまりないんだ」
 店主は絹の袋口から覗く大量の金貨に目を見張った。
「わ、わかりました! すぐ持ってきますからお待ちを。本当に、少しだけお待ちを!」
 彼は転がるようにして奥へ駆けていく。彼はその後ろ姿に、「特別地味なもので頼む」と楽しそうに声をかけた。
「時間がないって……?」
「ああ、まぁ、な」
 彼は曖昧に頷く。凛花がさらに口を開く前に店主が両手いっぱいの衣を抱えて走ってきた。
「まあ! 林荀さん。すごい量ですね」
「ええ、ええ。どれでもどうぞ、お好きなものを! 帯も揃えますか?」
「そうだな。頭から爪先まで、ごくごくありふれた格好にしたいんだ」
 街中で目立たぬようにな、と彼は愉快そうに凛花を見た。山と積まれた地味な袍衫を前に凛花はドギマギとしながら、一枚一枚を素早く選り分けていく。そうして四半刻もしないうちに『どこにでもいそうな』若者が出来上がった。翔は満足げに大きな姿見に映った自分を見た。
「なかなかいいんじゃないか?」
「……お似合いです。どこから見ても、目立たない、ええとそのう、普通の格好です」
 凛花は自分で何を言っているのかよくわからなくなってしまった。褒めているつもりだが、隣の店主も曖昧に頷くばかりである。
「そういえば、涂家はあの、天舞評賞儀に出品されると聞きましたよ。確か今日は一次審査の結果がわかる日では?」
 仕立て物業の彼らはそういった情報にも通じているらしい。その話で凛花はまた笑顔になった。
「ええ、そうなの。うちも通過していたんです! 本当に嬉しくて」
「それはそれは、おめでとうございます」
 店主は恭しく拱手した。翔がはたと姿見の前で手を止めてこちらを見た。
「評賞儀というと、今度の天舞の舞の衣装を選ぶというあれか?」
「翔様、ご存知なのですか? そうです。当家は羽衣を出品させて頂きました。もしかしたら、新しい皇帝陛下のお目に留まることになるかもしれないんです!」
 凛花は瞳を輝かせた。嬉しそうに店に並ぶ生地を見回す。
「素敵ですよね……。普段はお目にかかれない方が、私たち民の作品を見たいとおっしゃるなんて」
 とても光栄ですね、と笑う。
「そうそう。皇帝陛下が我らの方を向いてくださってるっていうのがまた、ありがたい気持ちになりますもんねえ」
 店主もしみじみとしている。翔はしばらく目をぱちくりと瞬かせていたが、やがて「そうか」と柔らかく微笑んだ。
(翔様、なんだかとても嬉しそう……)
 その表情は、なぜか凛花の心に強い印象を残した。勘定の間も、翔は店主に最近の景気など質問に余念がない。この布はどうやって運ばれてくるのか、隊商道に危険はあるのか、などいろいろ尋ねている。
(貴族のお坊ちゃんだと思うけど、それにしては街のことが気になるみたい。こういう方たちって、下々の事に関心がないと思っていたわ……)
 だから余計、この方のことはよくわからない、と凛花はさらに不思議な気持ちになった。ふと、彼が脱いだ印象的な黒の袍が目に留まる。そっと、布地に指を滑らせた。
(やっぱり素敵な生地。裾に真珠で刺繍してあるわ。こんな豪華なものって輿入れのお支度でも見たことないかも)
「やはり、それが気になるのか? 凛花」
 顔を上げると、翔の瞳が目の前にあった。整った顔を今更ながら意識してしまい、凛花は俯いてぱたぱたと布地をたたみ直す。
「も、申し訳ありません……つい」
 たたんだ袍衫を両手で差し出す。すると彼は首を横に振り「いい、お前にやる」と言い残し、店主へ挨拶して外へ出てしまった。凛花は慌てて彼を追いかけた。
「そんな、とんでもないです。こんな良いもの。とてもではありませんがいただけません!」
「案内してもらった礼だ。遠慮せずに受け取れ」
「後をつけるなどというご無礼を働いたのは私です。どうか、お気になさらずに」
 彼女は頑なに首を横に振りつづける。翔は腕を組み考え込んでしまった。顎に手をやりながら凛花を見ている。
「ふむ、ではこうしよう」
 翔はまた店の中へと戻り、店主と何やら話し込んでいた。
「この通りの先に、美味いものを出す店があるという。そこでお前の好きなものを食べる。代金は俺が払う。それなら良いか?」
 店から出てきた翔はまっすぐ彼女の瞳を覗き込んでくる。あまりに強い視線になぜか、くすぐったい気持ちになり凛花はくすくすと笑いだしてしまった。
「わかりました。ありがとうございます。私も美味しいもの、食べたいです」
「なら決まりだ。凛花はなにが好きだ? なにが食べたい?」
 歩きながら、翔はせっかちに尋ねてくる。目立たない身なりになってはいるが、その整った目鼻立ちゆえ、道ゆく人が何人も振り返っていた。当人は全くそのことに気づいた様子はない。
(なんだかとっても、無邪気な方……)
「では、杏饅頭《あんずまんじゅう》を。あのお店の名物なのですよ」
 にこりと笑う。翔も目を輝かせた。
「杏か。饅頭になっているのか? それはぜひ食べてみたい。杏といえば、酒しか飲んだことがない」
 通りを再び歩いていると、二人の背後でばたばたと慌ただしい足音がした。
「若様! 若様」
 凛花の隣で、翔がぴくりと肩を揺らす。彼女が振り向くと、馬を引いた細身の男がこちらに駆けてくるところだった。翔は軽くため息をつくと、立ち止まって振り返る。
「早かったな、櫂《カイ》」
「早かったな、ではありません! 若様、どれだけ探したと思っているのです」
 若者は翔より幾分背が低く、黒い髪を短く切り揃えている。黒い装束に身を包んでおり、どこかの武官のようだ。あちこちを走り回ったらしく大汗をかいて肩で息をしている。
「……っ若様、いったいこんなところで何を。おや、そのお召し物は……?」
「お前が遅いから、先に散歩していただけだ。そして、町歩きにふさわしい姿になってみたんだ」
 翔は少し気まずそうに答える。
「散歩? 私は馬の準備をすると言ったでしょう! なのに、いつのまにかふらふら歩き出して、迷子になってしまって!」
 櫂と呼ばれた青年は顔を青くし、震え声だ。
「迷子など、人聞きが悪いぞ、櫂。散歩だと言っているだろう」
「いえ、こういうのを世の中では迷子というのです」
 青年は目を三角にしている。腰に差した剣の柄が鈍く光った。護衛の方だろうか。凛花は恐る恐る様子を窺う。もしかして、翔はよほど大家の子息なのだろうか。
「それに、なんですこの娘は? こんな所でお遊びですか?」
 彼は凛花をぎらりと睨む。彼女は翔と出会った時と同じように縮み上がった。深く頭を下げる。
「し、失礼いたしました。あの、翔様をここまでご案内したのは私です。申し訳ありません」
「な、なんと……。お前が……」
「凛花、謝るな。お前は何も悪くない」
 翔は凛花を庇うように前に出た。櫂はそれでも収まらないようで、翔に厳しい目を向けている。
「この娘は凛花という。涂家の令嬢だ。俺の袍《ほう》がやたらと派手で目立つらしくてな、別のものを見立ててもらっていた。どうだ? 似合うだろう」
 翔は自慢げに袖を広げてくるりと回る。無邪気に見せびらかす紅髪の青年に、櫂は思い切り大きなため息をついた。
「全く……。少しはご自分のお立場を考えてください。このような時期にふらふらと」
「今しかできないこともある、と言ったはずだ」
 翔は堂々としている。さらに櫂が深く息を吐いた。
「はぁ、……ともかく帰りますよ。もう十分楽しまれたようですし」
 凛花をちらりと見る。
「いや、今からこの娘に礼をするつもりだったのだ。もうすこしだけ。いいだろう?」
「若様」
 黙って首を横に振られ、翔は不満げだ。
「翔様。あの、私は本当にお礼は結構です。お気になさらないでくださいませ」
 凛花はたまらなくなって二人の間に入った。そして、櫂に頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。私が失礼なことをしたのです。どうか、翔様にあまりお怒りにならないようお願いいたします」
「……若様がお前のせいではないというなら、そうなのだろう。さあ、行きますよ。『翔』さま」
 彼の名に力を入れると、櫂は歩きはじめた。翔はやれやれと言った風に肩を竦め、素直に従う。
「仕方ない。ではここまでだ、凛花。礼ができなくてすまない」
「とんでもないです。私、すみません……こんな感想、変かもしれませんけれど、あの……! とても、楽しかったです。ありがとうございます」
 翔は目を大きく見開いた。なぜか恥ずかしくなってしまい、彼女は慌てて持っていた袍をまた彼に差し出した。
「やはりそれは、お前に預ける」
「え、預けるって……」
「次会う時に返せ。そして、その時には必ず杏饅頭を食べさせてやる」
「え、翔……さま?」
 翔は櫂が引いてきた馬に颯爽と飛び乗った。
「礼をしないまま別れるのは嫌なんだ。それに、俺も楽しかった。すごく」
 そう笑うと、馬の腹に軽く蹴りを入れる。はっと掛け声をかけ、青年たちは順蓉の街へ消えていった。
 太陽のような笑顔を残したまま。
 凛花は小さくなる彼の赤い髪をしばらく、呆けたように見つめていた。
(な、んだったんだろう。あの方。本当に、嵐のような方)
 彼の預けた黒い袍を、春の風が楽しそうにめくり上げていった。

第三話

「お兄様! ただ今帰りました。どこにいらっしゃるの?」
 涂家の屋敷に帰り着くと、凛花は兄を探して奥へと急いだ。没落商家と揶揄されてはいるが、屋敷はかなり広い。だが使用人を減らした今ではがらんとして静かだ。時おり小鳥がのんびり囀る中庭を抜けた先、父の書院に兄の曹端《ソウタン》の姿が見えた。透かし彫りの木枠を嵌め込んだ円窓から、暖かな陽が幾すじもの光線となって差し込んでいる。父が体調を崩してから、兄はここで過ごすことが増えた。前はかなりの遊び人で、家業にはほぼ無関心だったのだが最近は打って変わって真面目に事業に取り組んでいる。
「おかえり。凛花。随分と遅かったじゃないか。街で迷子にでもなったか?」
 凛花が姿を見せると、兄は筆を動かす手を止めて顔を上げた。疲れた表情をしている。このところ評賞儀の準備に追われていたからだろう。
「ち、違うってば。でも、ごめんなさい。少し寄り道していたの」
 迷子という言葉で翔のことがぱっと頭に浮かび、わたわたと否定する。
「冗談だよ。さあ、結果を聞かせておくれ、妹よ」
 兄は悪戯っぽく眉を上げ両手を広げた。そうすると、遊び人だった頃にすっと戻る。華やかと言っていい顔で、凛花の兄はかなりのもてっぷりだったようだ。
「ほら、見て!」
 彼女は勢い込んで包みから割札を取り出し、兄へと差し出した。彼は恭しく受け取り、破顔する。
「大丈夫だとは思ってたけど、これでなんとか次の審査へ進めるんだな。よかった」
 兄妹はほっと顔を見合わせる。一族の復興がかかっているだけに兄は心配だったようだ。すると、向こうの奥から派手な色の襦裙を纏った女性が現れた。継母の楊蘭《ヨウラン》だ。彼女は大袈裟なため息をついて、書院へ入ってくる。
「もしかしたら門前払いされるんじゃないかと思っていました。でも通過できてよかったわね」
「そんなこと……。大丈夫って言ったじゃないの、お母様。うちの羽衣は確かな品物ですもの」
「そういうことじゃないのよ、凛花。旦那様が宮廷のお取引の場から外されてから、役所は涂家を毛嫌いしていたから。私は、そもそも評賞儀に通るなんて思えなかったのよ」
 品の良し悪しに関わらずね、と彼女は不満そうに答えた。
「ああもう! あの話を素直に受けていれば、今頃はきっと宮廷の一番御用達になれていたはずなのに」
 兄は嘆いている継母を見て小さく息を吐く。
「母上。その話はやめましょう。私は父上のことを尊敬しています。だからこそ今、家のためにできることをやっているんです」
「ああそう、そうよね。貴方たち兄妹は父上のことが大好きですものね」
 楊蘭は不機嫌そうに裾を翻し、茶を用意し始めた。兄と互いに顔を見合わせ、凛花も彼女を手伝う。楊蘭は今日も高々と髪を盛り上げて結っていた。黒髪で、華やかな真珠の簪が上品に揺れる。
 凛花と兄、曹端の生母は、凛花が幼い頃に亡くなっている。継母の楊蘭は後妻として涂家に嫁いできたのだ。当時勢いのあった大商家への輿入れということで、彼女は豊かな暮らしを楽しんでいたのだが、その後の没落で割を食ってしまった。楊蘭はそれがとにかく不満らしく、時おり「あの頃の暮らしが懐かしい」とこぼす。今も「このお茶だって何等級も下げたものなのよ」と盆に乗せた茶を恨めしそうに見ていた。兄はひと口啜ると、楊蘭に向き直った。
「私はこの茶で十分ですよ。それに、母上のおっしゃるあのお話、というのは賄賂のことでしょう。父が断るのは当たり前です」
 黄瑛国は十五代続く歴史のある神聖で偉大な王朝だ。だが、この数十年は政治や経済の場で賄賂が横行しているのもまた真実だった。それはひそやかな無言の律であり、上級官吏や貴族から袖の下を要求されれば、商家や庶民はそれに従わざるを得ない。逆らって機嫌を損ねれば援助も取引も打ち切られ、商いを続けることは困難になる。
 だが凛花の父は清廉潔白が信条の人であり、政治の悪習の流れを思い切って断ち切ろうとしたのだ。誠実な商売をしていれば必ず報われると信じてのことだったが、結果、涂家は宮廷から締め出しを食らってしまった。己の正義と、家を落ちぶれさせてしまったことの板挟みになり、ついに彼は体調を崩してしまった。凛花はいつも父が使っていた卓を見る。
(でも、お父様は間違っていないと思う。莫大なお金を官吏に払わないと取引できないなんて、やっぱりおかしいもの)
 凛花は父を誇りに思っていたし、兄の曹端もそれは同じだった。だから今はきっぱりと遊びをやめこうして家業を支えている。
「我々のような爪弾きにされた家でも評賞儀の本選に進めた。次の皇帝陛下は公明正大な方だとわかって、私は嬉しくて仕方ありませんよ」
「まあ、これでやっと私たちにもまた商機が巡って来たわけね。あとは最終審議にいけるかどうかだわ」
 兄の言葉に応えながら、楊蘭は室内にある縁飾りや、羽衣の商品を平板な顔で見回した。美しく派手好きな継母には、まだ一言も二言もありそうだ。
「あら、凛花。その包みはなに?」
 楊蘭は凛花が持っていた包み――翔から預かった黒繻子の袍衫が入っている――を指差した。
「あ、これは……あの。か、買い物をしたの。素敵な布地があったから。そっ、それよりも。お母様。途中で佑沈さんにあったのよ」
「佑沈? ああ。出入りの小間物店のね」
 なぜかどぎまぎとしてしまい、凛花は咄嗟に話を変えた。なんとなく、翔のことを秘密にしておきたかったのだ。楊蘭は昔から兄妹にあまり関心はなく、凛花は冷たくされたことはないが、特に愛されていると感じたこともなかった。だが、父が凛花をとても可愛がることにはそういい気分ではなかったようだ。今もいきなり話を変えた凛花に彼女は少し不満げな表情を見せたが、何も言わなかった。
「最近あまり会ってなかったが、彼、元気だったかい?」
 佑沈をよく知る兄が尋ねる。
「ええ。とっても。あのね、佑沈さんの妹、小鈴ちゃんが後宮でお勤めしていたでしょう? 今度帰って来れるんですって」
「そうなのか? へえ! 宮女になった娘さんは皆一生後宮で過ごすんだと思っていたよ」
「今回は特別みたい。即位のお祝いだからなんですって」
「そうなのか……。とにかく、それは佑沈もご家族もさぞ嬉しいだろうね」
 同じく妹を持つ兄として、佑沈の気持ちがわかるのだろうか、兄は穏やかに笑った。だが楊蘭は、
「前王陛下の夫人がたは皆稜園(皇帝の陵墓のある土地)に移られるんでしょう? とっても豪華だけど寂しいところだと聞くわ。私なら耐えられない。あの子も帰ってこれるなら、さっさと輿入れ先を探した方がいいかもしれないわね」
 と、現実的だ。
「そんな、お母様。小鈴ちゃんはたしか十五、六よ。まだまだそんなお話……」
「あらあら。この子は呑気ね。もう十分お嫁にいける年よ」
「でも私よりも年下だわ」
 楊蘭は呆れたように凛花を見た。
「貴方にそういうお話がないのは、今までお父様がいい顔をしなかったからよ。頑なに輿入れを断り続けているうちに、とうとうこちらの家格が下がってしまって、縁組話が無くなってしまっただけなの」
 楊蘭のあけすけな言い方に、気まずい空気が流れる。慌てた兄が凛花をからかった。
「いいじゃないか。これでお前も、家を気にせず好いた男と一緒になれるだろ」
「べっ、別にそんなひとはいませんっ」
 凛花はぱっと顔を赤くした。なぜかまた翔の顔がふわんと浮かんだからだ。彼女は慌てて首を横に振る。
「もしこの評賞儀がうまくいかなかったら、凛花の貰い手は真剣に私が探さないとね」
 楊蘭の思わせぶりな言い方に凛花は目を丸くする。
「え?」
「あらぁ。だってそうでしょう? 少しでもお金や力のあるお家に嫁いで、涂家のことを支えてくれなくちゃ」
 楊蘭は美しい顔で当然のように微笑んだ。
「お父様が元気になる見込みがないなら、貴方たち兄妹が頑張らないとね?」
 びっくりしている妹に、兄は慌ててとりなす。
「そんなことないから、安心しろ。評賞儀も、なにもかも上手くいくに決まってる」
 楊蘭のことを小さく睨みながら、兄は凛花に笑顔を向けた。
「とにかく、今は評賞儀の本選にいけるよう祈ろう」
「ええ、そうね……」
 凛花は曖昧に頷いた。
 その夜、凛花は丸鏡のついた鏡台を前に、髪を梳いていた。洗いたての髪を夜の風が撫でるたび、寒くてぶるっと肩を震わせる。立ち上がり垂れ幕を下ろすと、空気の流れに蝋燭の炎がゆらめいた。
(輿入れ、か……)
 凛花も一応は商家の令嬢である。そんなこと考えたこともないとは言えない。だが楊蘭の言うように家が落ちぶれてしまったからこそ、凛花はまだまだ、輿入れや結婚に関しては夢を見ていられたのだ。
(好きになった殿方と添い遂げられるというのは、それだけで幸せなことなのかもしれないわ)
 彼女は何気なく例の包みを開いた。現れた黒い衣をそっと撫でる。襟元には銀糸で細かい吉兆文様が刺繍されていた。つい、顔を近づけてじっとその技法を観察してしまう。不意に、翔の香りが鼻を掠めた。兄や父とは違う、大人の男性の落ち着いた匂い。あの、爽やかで堂々とした笑顔が蘇る。思わず凛花は顔を赤らめた。
(私ったら、な、なに考えてるのかしら。……こんな広い街でまた会えるはずないじゃないっ)
 彼女はぶんぶんと頭を振った。名前しか知らない、ほんの数刻、店に案内しただけの人だ。この街の人間でさえないのに。凛花はばたばたと部屋の中を横切り、寝台へ勢いよく上ると上掛けに潜り込んだ。
(そうよ。もう、会えないに決まってるわ)
 そんなのは当たり前だ。でもちょっと寂しい。
 彼女をからかうように、消えかけの蝋燭が楽しそうに揺れた。
 だが、凛花の予想に反して、翔との再会は意外と早くやってきたのだ。

第四話

 あの、黒と赤を纏った青年との鮮烈な出会いからひと月、凛花は再び順蓉の街を歩いていた。父親の薬湯を求めに来たのだ。
 相変わらず馬車は使っていない。「馬車くらい用意させる。涂家の女子が自分の足で頻繁に歩き回るなどやはり賛成できない」と兄も継母も渋い顔をするが、凛花はあれから何かにつけて自分で出歩くようにしていたのだ。もちろん理由はひとつ。
 春真っ盛り、櫻も旺盛に花開いてさらに活気を増している街を横目に凛花は軽くため息をついた。
(……いるわけないってわかってるけど。ついつい探しちゃうな)
 窮屈なほどの人通りのなかで、あの朱髪がちらりとでもどこかに見えはしないかときょろきょろしている自分に、凛花はすこし呆れてしまう。預かった黒い衣を丁寧に包んで、いつも持ち歩くようにもしていた。
(だって、翔様は持っていろっておっしゃられたもの)
 なぜか言い訳がましく心のなかで呟く。そして、「また会おう」と笑った彼の明るく野性的な瞳を思い出しては軽く頭を振る。最近は気づけばそんなことの繰り返しだ。つい先日、評賞儀で涂家の羽衣は本選へ進むことが叶った。皆で手を取り合い喜びあうなか、凛花は翔にもこの嬉しさを伝えられたら、と強く願ったものだ。
 やがて、トーン、トーンと調子の良い太鼓の音が凛花の耳に届いた。中央の大きな広場に近づくにつれ、太鼓の音に笛や銅鑼が重なり、賑やかな音楽が始まる。青空の下に響く明るい旋律につられて、周りの人々がそちらへと引き寄せられていく。
(お祭りでもやってるのかしら、楽しそうな音……)
 がやがやとした雰囲気に凛花も誘われるようにしてそちらへ向かった。広場の中心では、芸人の一座が曲芸を披露していた。とてつもなく大きな毛氈《もうせん》(分厚い敷物)を広げ、赤い鉢巻を締めた少年が驚くような軽業を見せている。くるくると回りながら高く飛んだり、回転する駒の上に片足で着地したり。
 真っ青な空の下で、太鼓の音と鐘の音が次第に高まり、雰囲気が盛り上がってゆく。喪中はこのような催しは禁止されていたので、皆久しぶりの娯楽に興奮気味だ。あちこちで囃し立てる声が飛び、歓声が起こる。凛花も顔を輝かせて立ち止まり、思い切り背伸びをした。
(なかなか見えない……! 向こうに回ってみようかしら)
 どこかよく見える場所はと顔をあちこちに向けた、その先。一台の馬車が止まっていた。毛艶の良い、黒光りする上等な馬に引かれた馬車。黒の車体には金色で複雑な彫りが施されている、かなり豪華な乗り物だ。
(まさか……、もしかして……)
 凛花は胸がきゅんと鳴ったような気がした。はたして、そこから青年が降りてきた。豪華な乗り物と比べてかなり地味な袍衫、深紅の髪と印象的な強い瞳。それはまっすぐに凛花に向けられている。
「また、会ったな」
 賑やかな音楽を背に翔は、明るく笑った。

 * * *

「賑やかな音がしたから、馬車から顔を出したんだ。そうしたら、お前を見つけた」
 翔は凛花の前に立ち嬉しそうに笑う。驚いたのと、嬉しいのと、恥ずかしいのとでどんな顔をしていいのか、凛花はわからない。小さく拱手するのが精いっぱいだ。
「まさか、お会いできると思っていなかったので、驚きました……お久しぶりです」
「そうか? 俺は必ず会えると思っていたぞ」
 彼は自信ありげに腰に手を当てた。
「なにせ、前回の礼がまだなのだからな。あれからずっと凛花のことを気にかけていた」
 お前は違うのか? と顔を覗きこまれ、凛花はよけいにどぎまぎと俯いてしまう。
「いえ、そのような……」
 私も、とてもお会いしたかったのです、と素直に言いたかったが、凛花は胸が詰まってうまく話せない。
「まぁいい。ほら、次の芸が始まるぞ」
 彼は広場の方を顎でしゃくってみせる。凛花は恥ずかしさをごまかすように、慌ててそちらに目を向けた。先ほどの赤い鉢巻の軽業少年とお下げ髪の少女が、鮮やかな色手鞠をいくつも空中に投げながら踊ったり逆立ちしたりしている。宙を舞った鞠はひとつも落ちることなく、見事に彼らの手の中へ吸い込まれていった。次には少女の頭の上に林檎が置かれた。屈強な青年が短剣を遠くから投げつけ、林檎を見事にすっぱりと半分に切って見せたときには周りでおお、という感嘆の声が上がった。次から次に披露される大技を息を呑んで見つめている凛花の隣で、翔も目を輝かせて手を打っていた。
 翔は先日凛花が見立てた袍衫を身につけていた。地味な出立ちのはずなのだが、やはり彼はどこか気品があって、街の者たちとは違うように感じた。しかし、無邪気に芸を楽しむ姿は他の青年たちと変わらない。ついこの前出会ったばかりなのに、彼が心からこの場を楽しんでいるのがとてもよく伝わってくる。
(なんだか不思議。この方の笑うお顔を見ると、私、すごく嬉しい気分になる)
 楽しそうな翔の顔を隣で見上げていると、視線に気づいた彼がちらりとこちらを見た。優しく緩んだその表情に、凛花は思わず笑いかける。一瞬、翔は驚いたように目を見開くと、芸人たちへふい、と視線を戻した。凛花は気づかなかったろうが、頭上を飛ぶ鳥からは背の高い彼の耳がほんのり赤く染まったのがよく見えたことだろう。
 やがて最後に、一際大きな銅鑼の音が広場に響き渡り、一座は一斉に拱手した。芸が終わったのだ。あたりは大きな拍手と歓声に包まれる。
「いよっ! よかったよ!」
「こんな楽しい時間、本当に久しぶりだった! ありがとよ」
 激励の言葉が飛び交い、凛花と翔も盛大な拍手を送った。そのなかを、軽業の鉢巻少年と美しいお下げの少女が籠を掲げて人々の間を歩き始めた。皆、思い思いの額の小銭を投げ入れてゆく。二人の近くには少年がやってきた。彼女は懐から銀貨を数枚取り出し、籠のなかに広げられた布の上に丁寧に置いた。翔は皆のその様子を不思議そうに見ている。
「やっと喪が明けたでしょう。今までは彼らも芸を披露できませんでしたから、大変だったと思います」
 余興を禁じられれば、芸人一座の彼らは生きる術がない。慣れない別の日雇い仕事をしながら芸を磨きつつ、じっと時期を待つしかないのだ。翔ははっとした顔になる。     
「出稼ぎ……。お前の言う通りだ。……俺はそこまで考えてはいなかった」
 ぽそりと呟く。少年が差し出した籠は所々編み紐が切れていて、中の布も色褪せている。
「よかったらこれを使ってね」
 凛花は懐から手巾を取り出した。淡い水色の布地に、凛花が花を刺繍をしたものだ。少年は恐縮してぶんぶん頭を横に振った。
「い、いいです。そんな綺麗な布、もったいないよ」
「気にしないで。素敵な芸を見せてもらったんだもの。これはお礼よ」
彼女は安心させるように少年の目線に合わせて屈んだ。
「あんな小さな駒の上でくるくる回ったり……、火のついた槍をものすごい速さで捌いたり、本当にすごかったよ! 見せてくれてありがとう。とっても楽しかったの」
「ほんと? いっぱい練習したから……。久しぶりにみんなの前で見せられて、僕も嬉しいんだ。一座のみんなも喜んでるんだよ。やっと仕事ができたからね。今日は今からお祝いなんだって」
 少年は喜びを隠しきれないように笑う。翔は少し離れたところで生真面目な表情を浮かべ二人を見ていたが、不意に待たせていた馬車へと戻り、小袋を持ってきた。ずっしりと重いそれを少年の持つ籠に入れる。うわ、と重さに驚いた鉢巻頭の少年は、「こんなに……」と信じられない表情で翔を見上げる。そして、
「ありがとう!! お兄ちゃんに皇帝様のご加護があらんことを!」
 と高らかに叫んだ。翔は何度も頭を下げる少年の頭を無言でぐりぐりと撫でた。そして、背中をぽんと叩いて見送る。なにか考えていたような表情だったが、やがて凛花を振り返った。
「さあ、約束通り杏饅頭を食べにいくぞ」
 そう言って翔は、凛花の手を引いて櫂の待つ馬車へ向かう。
 凛花は小さな頃、馬車が苦手だった。ガタガタとした揺れでお尻が跳ねて痛くなるし、かと思うと急にがたんと止まったりするし、外もほとんど見えない。あまりに長い間乗っていると気分が悪くなるのだ。だから、今でもそう好きな乗り物ではない。けれども翔の馬車は違った。上質な絹地がかけられた天蓋のなかは乗り物とは思えないくらいの豪華だったのだ。座席は分厚い敷物で覆われ、いくつもの肘当て用のふかふかした円座や肘掛けが置かれている。櫂がうまく馬を御しているのか、振動もほとんど感じない。ちょこんと端に腰掛け、目を白黒させている凛花に翔は戸惑い気味に尋ねた。
「もしかして、……これも派手すぎたか? かなり目立つだろうか」
「あ……ええと、そう、ですね。そうかもしれません」
 凛花は苦笑いした。
「外はそんなに目立たない、と思います。それよりも中の豪華さに驚いてしまって……」
 彼女は肘休めの枕にそっと手を乗せた。異国の織のようだ。四隅に朱糸の縁飾りがついている。
「ぜんぜん揺れないし、乗り心地もとてもいいです。それにこの肘置き、見てください! ここの縁飾りがとっても可愛いです」
 はしゃいだ様子で、ほら、と大きな肘置きを両手で翔に掲げてみせる。細かいところまで作り込まれているものにはつい嬉しくなってしまう凛花だったが、はっとした顔になった。
「あ、申し訳ありません……。つい、あの」
 もごもごと恥ずかしそうに大きな肘置きを元の場所に戻すと、持ち歩いていた包みをそそくさと取り出した。
「こちらは先日お預かりしたお召し物です。お返しいたします」
「ん? 律儀に持ち歩いているのか」
「だって、お約束しましたもの」
「俺としてはお前に会う方便のつもりだったのだが……まぁ、いい。とにかく、前に行きそびれた店へ行こう。櫂」
 翔が側にある鈴を引っ張ると、チリンと上品な音が鳴り、御者台から先日の細面の青年が顔を見せた。挨拶の代わりか、凛花に向かってかすかに頷いてみせる。緊張しつつ、凛花も丁寧に挨拶を返した。前回の出会いのこともあるし、この目つきの鋭い青年にはあまり歓迎されていないような気がしたのだ。
「例の仕立て屋の近くにある料理店に連れて行ってくれ」
 翔の指示に頷くと、櫂はすぐに前を向いてしまった。
「櫂は小さな頃から誰にでもあんな調子なんだ。別に怒ってるわけではないから安心しろ。あれで、いろいろと心配性なんだ」
 肩を竦めて見せる。櫂のぶっきらぼうには慣れている様子だった。
「お二人は幼い頃からご一緒なのですか?」
「ああ。俺は、櫂の母親に育ててもらったようなものだ」
「まぁ。では、ご兄弟のような関係なのですね」
(この前も慌てて翔様を探していたし、すごく心配そうなお顔をしてたから、二人はとても仲がいいんだろうな)
 凛花は車内の豪華な内装を改めて見回した。この方は、どんな立場の人なのだろう。再びの疑問を浮かべつつ、凛花は音もなく滑っていく馬車に身を委ねた。
 目指した店はちょうど昼どきの大賑わいで、店をはみ出し通りまで椅子と几《つくえ》をいくつも並べ、がやがやとしていた。甘味はもちろん、揚げ物や汁物の湯気と香ばしい匂いがあたりに満ちている。食器の触れ合う音やあちこちで湧く笑い声を、翔は少し驚いたように眺めている。
「すごい人数だな。皆、食べるのと話すので忙しそうだ……」
 人々の熱気に圧倒された様子だ。
「あまり、こういうお店へは来られませんか?」
「ああ。滅多に来ない。それに、食事中はほとんど喋らぬ」
 翔は短く答える。瞳に、少しだけ影がさした気がした。彼はぱっと凛花を振り返る。
「俺のことより、お前のことを聞かせてくれ」
 空いている卓に凛花を座らせ、周りの見よう見まねで店員をつかまえる。「この店の杏饅頭を食べたいのだが、どうすればいい?」と丁寧に尋ねると、目当てのものが運ばれてくるまで赤い髪の青年は凛花を質問責めにした。
「兄弟はいるのか? 涂家はほかにどんなものを作る? 職人は多いのか?」
「兄がいます。とても頼りになるお兄様です。涂家は今、街の方向けの気軽につけられる襟や刺繍の襟巻きなどを扱っていて、お兄様が中心になって引っ張ってくれているんです」
 翔が尋ねるままに、凛花は答える。向かい合わせになった彼の顔は好奇心に満ちている。杏饅頭が運ばれてくるとさらにその顔は輝いた。子供の手ほどもある饅頭は黄味がかった色で、皮はふっくらと湯気をあげている。
「ほう、いい香りだ」
「小さな子もお年寄りも、みんな大好きですよ。優しい色で私も大好きです」
 花茶の香りと杏の香りが混ざって、二人の鼻をくすぐる。半分に割ると、湯気がふわりとあがり白い餡子が顔を覗かせる。翔は丁寧に小さくちぎって口に入れようとしたが、凛花はそれを止めた。
「翔様。杏饅頭の美味しい食べ方はこうです。見てくださいね」
 彼女は大きく口を開け、ほんのり橙色の皮にかぶりついた。熱さにはふはふとなりながら、「ほうやって、たべるんです」と翔に見せる。彼は思わず笑ってそれに倣った。
「こうか?」大きな饅頭に頭からかぶりつく。
「熱っ」
 眉を顰めながらも彼は饅頭と格闘し始めた。凛花はそんな無邪気な翔の様子にまた、心がくすぐったくなる。
「……私、小さな頃にこの辺りで迷子になったことがあるんです。お父様のお仕事についていくと大騒ぎして連れて行ってもらったのに、馬車ががたがた揺れるのが嫌でお父様のお膝から逃げちゃったの。でも知らない場所はこわくて、通りにしゃがんで大声で泣いていました」
 翔は穏やかな顔で彼女の話を聞いていた。花茶をこくりと飲んで、凛花は懐かしそうに続ける。
「このお店の奥さんが私に声をかけてくれて、お父様に言伝てくださったの。待っている間、このお饅頭をくれました。甘くてあったかくて、本当に美味しかったの。その時からずっとここのお店が好きなんです」
「……そんなことがあったのだな。心細いときに、甘いものはとても効果がある。店の者も親切な人間でよかった。……だが」
 彼は急に悪戯っぽい顔になった。
「大声で泣き喚く凛花はさぞ可愛かったろうな」
 どきり、と心臓が強く胸を打った。
「……そんなことじゃなくて……っ。それに、泣き喚いているのに可愛いも何もありませんわ!」
 ふい、と横を向いてしまう。頬がかっと熱くなったのを見られたくなかったのだ。
(か、かわいい? 私のことを? 可愛いって……!)
「し、翔様は……? 小さな頃はどんなお子様でしたか?」
「俺か? 俺は……。そうだな。行儀が悪いとよく叱られていた。あまり庭を走ってはいけないとも言われて、これが辛かった」
「やんちゃなお子様だったのですね。お父様やお母様はお困りになったでしょ?」
「いや、二人とは訳あって離れていた。俺を叱ったのはもっぱら櫂の母だ」
 彼は懐かしそうな表情になった。櫂は茶屋の外で馬の面倒を見ている。一緒にどうだと翔が誘っても頑として譲らなかったのだ。
「あいつは真面目なんだが、たまには付き合ってくれてもいいものを」
 翔はすこし拗ねたように零す。
 櫂は翔のことを若様と呼んでいた。なにか事情があったのだろうか。凛花はついついそこを考えてしまう。
(どうして、こんなにこの方のことが気になるのかしら。もっともっと知りたくなってしまうのって、私、おかしくないかな……)
「翔様は」
 さらに尋ねようとした時、向こうの席でがちゃんと器の割れる大きな音が響いた。それに、男の怒声が重なる。周りの目が一斉にそちらへ向いた。
「こいつが俺の財布を盗みやがった!」
 派手な色の羽織を肩にかけた遊び人風の男が少年の手を握りあげている。赤い鉢巻をした少年だ。
(あの子……。さっきの曲芸の男の子だ)
 彼は掴まれた手に小さな革袋を握っている。
「何言ってんだ! これはアンタが今落としたんだろ。僕は拾おうとして……っ」
「嘘つけ!」
 怒鳴り声が響く。遊び人の男は酔っ払っているのか、目の焦点があまり合っていない。
「どうせ、拾うと見せかけて盗るつもりだったんだろう? その証拠にほら」
 男は少年が腰にぶら下げている袋を指さした。
「そっちの小袋。それこそ盗んだやつだろう。そんな綺麗な袋、お前みたいな見窄《みすぼ》らしい格好のやつに全然似合ってないぜ。どっかの女からスリとったんだな。なぁ、そうだろみんな」
 男はわざとらしく大きな声で周りを見わたす。少年の近くの者は慌てて自分の懐や腰紐を確かめだした。ざわざわと嫌な空気が辺りを支配してゆく。少年は顔を引き攣らせて叫んだ。
「これは僕たちの稼ぎだ! さっきあっちの広場で芸をしてたんだ。この袋は僕が、もらったんだ!」
「へえ?」
 男は少年から袋をむしり取り卓の上に乱暴に広げた。じゃらりと出てきた銀貨に混じって金貨も大量に入っている。男は目をむいた。
「……お前。金貨まであるじゃねえか! ますます怪しいぞ。官吏に突き出してやる。汚いコソ泥め」
 少年は悔しそうに男を睨みつけ、そんなことするわけないだろ! と叫ぶ。騒ぎに気づいた店主がオロオロとしている。
「やめるんだ、この酔っ払い」
 見ると、凛花の隣にいたはずの翔がつかつかと遊び人に近づいていた。易々と男の手をひねって掴み上げる。男は情けない声で「イタタタ」と叫び慌てて少年から手を離した。凛花はすかさずその子へ駆け寄った。
「大丈夫?」
「あ、さっきの、お姉さん……」
 彼は唇を噛み締め、俯いてしまった。固く握った拳が震えている。凛花は無性に怒りに駆られ、すっくと立ち上がった。卓に放られた小袋を掲げて男を睨む。
「そこのお方。この袋は私のものです」
 周りから驚きのどよめきが上がる。みな、やっぱり、という顔で少年を見ている。彼女は続けた。
「私が先ほど、あげたんです。この少年は広場で素晴らしい芸を見せてくれました。元の袋が傷んでいたから、ぜひ貰ってほしいと私がお願いしたんです。先ほどの曲芸を楽しんだ方もこの中にたくさんいらっしゃいますよね?」
 客の大半がうんうんと頷く。皆、その流れで今食事を楽しんでいるのだ。
「本当に、とても素晴らしい一座でしたから、そのお礼をしただけです。この子が盗んだなんて大変な侮辱です! 謝ってください」
 凛花は遊び人をきっと睨みつけた。男はぷるぷると髭を震わせる。
「なにをこの女……!」
 一歩出ようとした所に、翔の腕がぐい、と回された。
「まだやるつもりか? 完全にお前の負けだろう。余計なことでこれ以上俺の興を削ぐな」
 鋭い声で囁くと、翔はそのまま男をぐるりと背中へ回し、そして勢いよく店の外へ投げ飛ばした。やんやと喝采が起きる。翔は少年を肩にかつぎ、凛花の手をとり大声を上げた。
「あれはただの酔っ払いで、親切な子どもを泥棒呼ばわりする下衆な奴だ。しかも、女に手を挙げようとまでした。この二人の勇敢な行動こそ賞賛されるべきだろう? ここにいる順蓉の市民は真《まこと》を見抜けないほど間抜けではないはずだが?」
「その通り!」「ボウズもお嬢さんもよく言った」と、盛大な拍手が彼らに贈られる。翔は満足げに頷くと、店主へ顔を向けた。
「騒がしくして悪かった」
「いえっ。とんでもございません。アレはタチの悪い酔っ払いで、困ってたんです」
「ここにいる皆の飲み食いは俺が持つ。櫂、あとは頼んだぞ」
 翔は様子を見に来た櫂に少年を預けると、凛花の手を取り外へ向かった。
「急げ」
 訳がわからないまま、引っ張られるようにして外に出る。酔っ払いは顔を真っ赤にして二人を待ち伏せていた。赤髪の青年は目を輝かせ、楽しそうに笑った。
「逃げるぞ! 凛花」
 凛花の手をしっかりと握りなおし、彼は走り出す。
「翔さま!?」
「あんなの相手にするほど暇ではない。さあ、はやく!」
 二人は順蓉の通りを駆け出した。
 どのくらい走ったのだろう。翔に手を引かれるまま、凛花は順蓉の雑多な街並みを文字通り駆け抜け続けた。向こうに大きな川面が見えてくる頃、彼女はとうとう立ち止まってしまう。
「し、翔様……っ、私、もう走れませんっ……」
 いつのまにか街の西の方まで来てしまったらしい。黄瑛河は大陸を南北に流れる巨大な河川で、ここから大海へと続いているのだ。そのため商業船が多く停泊して、宿や商店が立ち並ぶ。ここは港としても賑やかな界隈だった。翔は大きな桟橋の真ん中で立ち止まり、息を切らしている凛花の背中を撫でてやる。
「大丈夫か? さすがにここまで来ればあの馬鹿も追いかけてこないだろう。俺も、こんなに走ったのは久しぶりだ」
 そしてなにを思い出したのか、急にくく、と笑い出した。
「凛花、見たか? あの男の顔。怒りで髭がぷるぷると震えていた……」
「し、翔さま……」
 男の滑稽な様子を凛花も思い出して、我慢できずに吹き出してしまった。まだ肩で息をしているのに、おかしくてたまらない。翔と一緒に笑い合う。行き交う行商人が怪訝な視線を送ってきて、二人で慌てて口を閉じた。再びちらりと目を合わせる。彼はまだ笑みを残して、「ああいう奴はきっと待ち伏せしていると思ったんだ。走らせて悪かったな」と謝る。
「いえ……私は大丈夫です。でも、あの男の子は大丈夫でしょうか」
「ああ。櫂に任せたから一座のところまで送っていくはずだ。それに、周りの客が味方になってくれるだろう」
 さっきのことはすぐに街の噂になるだろう。大恥をかいた男は当分あのあたりには寄り付かないはずだ。凛花はあの場で皆の食事代金を肩代わりした翔の機転に感心してしまった。
「ことを円滑に運ぶときに、金は非常に役に立つ」
 真面目な顔でそういうと翔は、「これは師の受け売りだがな」と悪戯っぽく笑った。そして、目の前に広がる巨大な運河を見渡した。
「やはり、街は楽しいな」
「でも、やっぱり大胆すぎます。あとで櫂さんに叱られてしまうのではないですか?」
「なんだ。心配してくれるのか? 大丈夫だ。今のうちだけならあいつもそんなには怒らないさ」
 翔は目を細めて海に出る船を見送る。
「それに、お前がとても頼もしかったから。思わず助けたくなったのだ。あの少年を庇うときの凛花は優しく強かった」
 彼は眩しそうに凛花を見る。その視線が柔らかくて、少しだけ甘さを含んでいるような気がして、凛花は胸の辺りがぎゅっと熱くなる。凛花はどう答えていいかわからなくなってしまい、苦し紛れにこちらにゆっくりと近づく鮮やかな色の船を指さした。
「あ、可愛い色ですね! あの船、ね! 私小さいとき何度か乗ったことがあります、遊覧船が来ていて……隣の県までお父様のお仕事についていったの」
 二階建てになっている船は、さまざまな朱色を重ねて塗っており、屋根にはぎらぎらとした鳳凰を模した彫刻が乗っかっている。「可愛い」というより、どちらかというとどぎつい派手な外装の屋形船だった。
「あれは屋形船というやつか。ずいぶん派手な色目だな。乗れるのだろうか。俺は軍艦しか知らないんだが」
「どなたかの持ち物ではなくて観光船なら、誰でも乗れると思いますが……」
 彼は桟橋の手すりに身を乗り出して手をかざしている。興味津々の様子だ。
「おや、お兄さんたち、あれに乗りたいのかい? もうすぐこっちに着くからよかったら乗せてやるよ。今日はさっぱりでね、貸切にできるぜ」
 調子の良い掛け声に、翔が振り向く。船の客引きの男が気安い様子で二人の前にやってきた。
「あの船に乗ることができるのか?」
「ああ。もちろんだよ。こっちもちょうど客を探してたんだ」
 男は客を捕まえられたと上機嫌だ。翔の肩に手を置いてにこにこしながら船着場を指差す。客が降りてくるのを待って、促されるまま二人は後についていった。数人の男女が渡し板からこちらに降り立ち、金を払うとそれぞれの方向へと散ってゆく。女性たちが襟元や髪を恥ずかしそうに直しているのが、凛花は妙に気になった。
「あ、あの、これは、遊覧船ですよね……?」
「へ? あ、ああ、まあね。遊覧船みたいなものですよね」
 男は間の抜けたような声を出したが、安心させるように何度も頷いた。
「大丈夫大丈夫。中はちゃんと湯も使えるようになってるよ。寝台も綺麗に取り替えてるし、安心しな。お嬢さん」
「え? お湯……って」
 状況がよく飲み込めないまま、凛花と翔は背中を押されるようにして船へと乗せられてしまった。
「とにかく、楽しんどいで」
 そう言って、客引きは派手な屋形舟の船頭に合図を送る。足元が大きくぐらりと揺れ、翔はすかさず凛花を支えた。すでに船はゆっくりと川面を進み始めている。
「なんだか妙なことを言う男だな」
 首を傾げながら二人は顔を見合わせる。
「とにかく、上へ行ってみよう。眺めもいいはずだ」
 船には急な木の階段があり、そこから二階へ登れるようになっていた。身軽な様子で翔はすいすいと上へ昇る。一瞬静かになったあと、急に笑い声が響いた。
「なんだ、こういうことか」
「翔様?」
「凛花、気をつけて上がってこい。まぁ、眺めだけはいいぞ」
 愉快そうな声につられ、彼女も恐る恐る急な木の階段に足をかけた。翔がぐっと手を伸ばし彼女を引き上げる。
「あ……」
 部屋の様子を見た凛花は小さく叫び声をあげた。胸に両手をあて、息を呑む。
 船室には大きく開けられた丸窓がいくつか並んでいる。そこからは順蓉の街が見渡せて、眺めはとても良さそうだ。が、凛花が驚いたのはそこではなかった。桃色の薄布が天井から何本もひらひらとかけられ、蝋燭が隅でぼんやりと灯されている。中央に大きな、ゆうに大人三人は大の字になれるほどの寝台がどんと置いてある。全体に、昼間とは思えない妖しげな雰囲気が漂っていた。
(ま、まさか……ここって……)
 凛花は耳がかあっと熱くなるのを感じた。遊び人だった兄の話を思い出したのだ。
(そういえば、船の上で恋人たちが過ごすことのできる場所があるって……。ここって……そういうこと?)
 凛花は急に身体がぎくしゃくとしてしまう。こんな船を可愛いと言ってしまったばかりに、翔とそういう場所に来てしまったのだ。寝台の横には熱い湯を張ったたらいが置いてあり、何の演出か、赤い花びらが何枚もどぎつい様子で浮かんでいる。これは、これでは自分が翔を恋人宿に連れ込んだようなものではないか。凛花は足がガクガクと震えだすのを感じた。
 翔の方は特に気にした様子もなく、部屋を一渡りもの珍しそうに眺めると両開きの大きな窓へと向かう。外が小さな露台になっていてこちらからも広く運河が見渡せた。
「とてもいい眺めだ。こっちへ来てみろ、凛花」
「翔、様。も、もうしわけ、申し訳ございません……! わたし、私、知らなくて……っ」
 恥ずかしさと、申し訳なさで凛花は翔の顔をまともに見ることができなかった。じわりと涙が浮かぶ。
(な、なんて所へお誘いしてしまったんだろう……! 私、この方には迷惑をかけてばかり……。いくらなんでもこんなの失礼すぎるわ)
「凛花。どうした? 何を謝る」
 翔は驚いたように凛花の顔を覗き込んだ。
「と、とんだ無礼を……。私、決してそんなつもりでは、こんないかがわしい所へお連れしてしまって、本当に申し訳ございません」
 額を擦り付けんばかりに謝る凛花を見て、翔は彼女の言いたいことを察したのか黙りこんでしまった。少しの沈黙の後、彼はため息をついて、赤い髪をかきあげた。
「……凛花。お前がわざとじゃないことくらいわかるし、俺だって、ここがそういう場だとは知らずに乗り込んだ。お互い様だろう? そんなに謝らないでくれ。なんだか寂しい」
 傷ついたような口調に、凛花ははっとして顔をあげた。少し口を尖らせた翔と目が合う。
「も、申しわけ」
「こら、謝るなと言ったろう」
 凛花の唇にそっと翔の人差し指が乗せられた。冷たくて、優しい触れ方。
「せっかく船に乗ったんだ。景色を楽しもう、な?」
 眉を下げて笑う。彼の穏やかな口調に、凛花の胸はじんわりとあたたかくなる。つられるように微笑んで、彼女も静かに頷いた。
 ぎいい、とかすかに軋んで船はゆっくりと運河を下ってゆく。広い海に出る前に、ぐるりと迂回してまたこの渡し場へ戻るらしかった。咲き頃の櫻の樹が河沿いに数十本と連なって、こちらからは薄桃色の光の列のように見える。この辺りは櫻の名所にもなっていて、道沿いに沢山の人が見物に訪れていた。
「翔様! 櫻です」
 午後の柔らかな日差しに照らされた樹々は誇らしげに枝いっぱいに咲き誇る。船からの眺めはまさに桃源郷のようだ。花びらがふわふわと羽のように舞うのを眺めながら、凛花と翔は露台から花見を心ゆくまで楽しむ。
「美しいな。黄瑛では、花といえば蘭や牡丹と言われるが、櫻も見事だ」
 翔は連なる櫻の樹に感嘆のため息をつく。
「ええ。大輪の花の華々しさのようなものはありませんが、櫻は、ひとつひとつ花が重なれば見事な眺めになります。こうやってお花見もできますし、順蓉の人たちはみんな、この季節が大好きだと思います。しばらくは街のあちらこちらでお花見の宴会がありそうですね」
「そうか。宴会か。皆、大勢でこの季節を楽しむのだな……」
 翔は少し羨ましそうに花見の人々を見た。
「お前といると、この地のことが自然と伝わる。やはりあの時、出会えてよかった」
 褒められた出会いではなかったけれどな、と翔は屈託なく笑った。頬が熱くなって、凛花はあたふたと口元を押さえる。ふと翔の、高い位置で結い上げた髪を見た。
「翔様は、街であまり目立たない格好がお好きなのですよね?」
「あ、ああ。なるべくそう心がけているが、なかなか難しい」
「では、御髪を降ろした方がいいですよ。最近、男の方はこのようにまっすぐ下ろしている方が多いです。お兄様もよくこんな感じで……」
 凛花は、髪を束ねている金の環に手を伸ばした。それは驚くほど簡単に外れ、美しい紅髪がばさりと翔の肩に垂れた。からんと音を立て、床に金輪が転がる。
「あ……。ごめんなさい、外れて」
 拾おうと、凛花が屈み込んだとき、翔の腕が彼女をぐい、と引き寄せた。そのまま、逞しい胸に抱き込まれる。
(な、に……? 翔、さ、ま?)
 驚いて瞬きしたその刹那、唇を重ねられた。
かすかに杏の香りがする柔らかな感触が、凛花の唇を撫でるようにかすめ、そしてふい、と離れていく。
(……え。……え?)
 言葉が、出てこない。凛花はただ、瞳を大きく開けるしかできない。翔は、真剣な瞳で凛花を見つめていた。
「……街の若者はこのようなことはしないのか?」
 恥ずかしそうに微笑む。そして瞳を逸らした。その仕草は、凜花の心臓をがしりと掴んだ。
「わ、わかりません! わた、わたし、知らないもの……」
 重ねられた唇がまだ熱い。どうしていいか分からず俯く彼女の手を優しく、だがしっかりと翔の大きな手が掴んだ。そして再び、凛花は翔の胸に抱き込まれた。背中に回された腕と、がっしりとした胸板。彼の全てから男性を感じてしまい、凛花はくらくらとする。
「……顔をあげて。凛花」
 甘さを含んだ囁きが耳たぶに優しく落ちる。彼女は知らないうちに素直に顎を上げた。つ、と翔の指が顎に添えられる。
「お前とは会ったばかりだ。なのに、お前がとても、好ましい。俺はおかしいのか? 街の者はこんな気持ちになったりしないか?」
 緊張でぎゅっと閉じたままの唇に、翔の指が再び躊躇いがちに触れる。
「頼む。何か言ってくれ」
 切ないほどの声音。凛花は首をかすかに横に振った。
「おかしいなんて、そんなこと、ない、です……。わたし、嬉しくて、どうしていいかわからない……の。翔様」
はは、と翔は微かに笑う。ほっとしたようなため息とともに、「可愛いな。凛花」とまた、彼女の唇を塞いだ。今度はゆっくりと、いとしむように。
(ど、どうしよう。嬉しくて、切なくて、くらくらして、ふわふわで……)
翔の形の良い唇は柔らかく、あたたかい。何度も彼女の唇の上を行き来する。やがて、舌が躊躇いがちに触れた。凛花が僅かに口を開けると、するりと唇を割って入り込んでくる。口内で舌と舌とが出会い、何度も絡められ、だんだんと口づけは激しくなってゆく。ふわふわとした気分と、部屋に漂う花の香りがあいまって、凛花はふらりとよろめいた。もう、立っていられない。
「おっと」
 翔がすかさず彼女を支えた。
「ご、ごめんなさ……」
「お前がほしい。どうしても」
 言葉を遮るように激しく唇を重ねられる。彼女の背中をしっかりと支えたまま、その唇は額へ、頬へ、やがて首へ、耳へと愛おしげにちゅ、ちゅ、と音を立てた。背中に回されていた手がゆっくりと背骨を撫で上げる。
「……ぁ」
 凛花の奥で、なにか得体のしれない感覚が生まれ、思わずうわずった声が出てしまった。
(な、なにこの、こえ……。私の声なの?)
 恥ずかしさで身が固くなる。そこへ、くすりと笑い声が落ちた。おろした前髪の隙間から、妖しい色気を纏った翔の瞳が覗いている。
「その声、可愛い。もっともっと、聞きたい。触れたい」
 そうして彼女はいつのまにか楽々と抱き上げられてしまっていた。
「翔、さま?」
 大切なものを運ぶように、翔は凛花を抱き上げゆっくりと中央の寝台へ向かう。慎重に彼女を白い敷布の上にそっと座らせるともう一度、その胸にぎゅっと抱きしめた。そして尋ねる。
「嫌か?」
 さっきまでの太陽のごとき堂々とした翔ではない。躊躇いがちで、思いを持て余しているような問いかけに、胸の底からどうしようもない愛しさが湧き上がる。凛花は首を微かに横に振った。翔を見上げるその瞳は、うるりと潤んでいる。こくりと彼の喉仏が上下した。
「よかった」
 子供のように無邪気な笑顔を見せると、翔は彼女の唇を食んだ。髪を優しく撫で、もう片方の手で凛花の手を大きく包む。心地よさに、凛花のこわばっていた肩は次第に緩んでいく。だが、髪を撫でていた指がするすると首へ降り、ゆっくりと胸に近づき、衣の上からほのかな膨らみに辿り着いた時、凛花はまた淡い声をあげてしまった。
「ふあっ……」
 その声の甘さに、凛花は自分で驚く。さっきからこんな声ばかり。自分はいったいどうなってしまうのか。
 翔の手はしばらくやわやわと大きく彼女の胸を揉んでいたが、不意にするっと合わせ目のあいだへ侵入してきた。
「っ……あ」
 胸の先を、するりと指の腹で撫でられる。生まれて初めて感じる、痛いような、痺れるような甘い疼き。
「は、ぅ…」
「可愛いな。尖ってきた」
 羞恥と快感でおかしくなりそうだ。凛花は目を潤ませて翔を見上げる。喉から鎖骨にかけての肌は上気してほの赤く染まっている。翔がすりすりと手のひらで胸の先端を撫で上げると、さらに肌の赤味が増し、切なげなため息が漏れた。膨らみを揉みしだかれ、今度は二つの乳首をくりくりと摘まれる。その度に、ぴくぴくと身体が跳ねてしまう。
「ぁぁっ、や、やだ……」
 両ももの内側をぞくぞくとした疼きが這いあがってくる。彼女は思わず太ももを擦り寄せた。
(な、に、私の感覚、どうなっちゃうの……?)
 凛花の戸惑いが伝わったのか、翔が耳元で語りかける。
「心配するな、お前を気持ちよくしたいだけだ。怖がらせるようなことはしない」
「しょ、さま……、でも、わた、わたし、なんか、へん」
 喘ぎのような息のあいだで、辛うじて翔へ言葉をつなぐ。
「善くはないか……? ここ、こんなに愛らしく尖っているのに」
 翔は乳首を撫でる指をひたと止める。怖いのに、へんなのに、なぜか、もっとしてほしい。触れてほしいと心の奥底で願っている。
「だって……。気持ち良くなってしまいそうで、こわいの」
「……っ」
 翔は再び彼女を強く抱きしめ、その髪に頬を埋めた。引き締まった身体が袍衫の上からでも感じられ、心臓のどくどくという響きが凛花にまで伝わってきた。髪にかかる息が熱く、荒い。彼女の腰になにかがあたった。硬く、熱を持ったなにか。その意味を、凛花は本能で感じとる。翔も、凛花に欲情しているのだ。
「俺もだ。お前が可愛らしくて、箍《たが》が外れそうで、怖い」
 彼は眉を下げて困ったように笑う。そして、彼女の肌着をいくらか乱暴に剥いだ。露わになった両の乳首は紅い木の実のようにぴんと尖って上を向いている。翔は無我夢中な様子でそれをちゅる、と口に含んだ。
「あっ、あっ」
 片方は指でくるくると円を描くように撫でられ、もう片方の先端は口の中で舌に絡めとられている。痺れるような快感に、甘い喘ぎが止まらない。触られるたびに、じゅわり、と太ももの間からなにかが滲み出てくる。それは、理性をどんどんと溶かしてゆく。まだ未知の、密かな、妖しげな欲が凛花の下半身の奥で生まれていた。
「ここは?」
 既に裸体となった翔は掠れた声で尋ねながら、とうとう彼女の両足をそっと広げる。柔毛の間をぱくりと開けられ、凛花は思わず小さく口にした。
「やっ……。みないで……」
「なぜ? こんなに……」
 少し楽しそうに、彼はさらに凛花の両膝を広げた。船室には蝋燭が数本灯されていて、日は落ちかけているが彼女の肢体を眺めるには十分な明るさがあった。見られていると思うだけで、ぞくぞくと背中に震えが走る。凛花は羞恥と快感に溺れそうになっていた。
「綺麗だ。凛花のここ。ぜんぶ」
 それに、これ。翔がそう呟いて、彼女の中心、震える花芯に触れる。今彼女の意識はすべてそこに集中していた。そっと撫でられただけで、がくんと腰が跳ねる。
「ひ、」
(そこ、はだめっ……! ほんとにおかしくなっちゃう)
 足を閉じたいのに、膝をかちりと押さえつけられて動けない。翔はそこを少しずつ、少しずつ蹂躙してゆく。
「ぁ……や、ぁ……っゃっ」
 彼が花芯にぬるぬると触れるたびに、その下から蜜が溢れる。自分で全く制御できない快感に、つま先はぴんと張り、腰がどんどん反っていってしまう。やがて、まだ何の侵入も許したことのない裂け目につぷりとした違和感が入った。翔の指がそっと差し込まれたのだ。
「大丈夫か? 痛くないか?」
 ゆっくりと、どこまでも優しく抜き差しされる彼の指。花芽をくにくにと擦られながらの快感に、凛花のなかでなにかが弾けそうになる。
「や、ぃやぁ……ひぅっ」
 両の乳首が固くきゅ、と締まった。痛いとか、痛くないとか、もう、なにもわからない。彼は蜜壺のなかを掻き回すように指を動かした。
「し、しょ、さま……っも、もっ……」
「いいから、ぜんぶ、善くなれ」
 翔様。心も、体も、快感と、彼のことでいっぱいになる。凛花はうわ言のように翔の名を呼ぶ。荒い息のまま、翔に唇を塞がれたとき、波のようなうねりがかけ上がり、のけぞると同時に彼女は達した。声にならない声が喉の奥からかすかな悲鳴となって零れる。白い敷布に落ちる、はっ、はっという荒い息とぽたりとした透明な蜜。愛しげに、「可愛い」と何度も囁かれながら、頬を撫でられる。
「凛花。俺の、目を見ろ」
 初めての感覚にびくびくと震え続ける彼女を抱きしめて、翔が押し殺した声で囁く。まだ痺れたままの頭で、凛花はぼんやりと翔を見つめた。垂れた赤い髪は夕陽に照らされ燃えているようだ。瞳は恐ろしいほど真剣にこちらに向けられていて、その切羽詰まった視線に、凛花はたまらず両の腕を彼の背中へ回す。引き締まった筋肉に、じわりと汗が浮き出ている。欲の棒がそそり立ち、彼女の下腹部へと当たっていた。
「もう、我慢できない。お前と、繋がりたい……。だが、痛い思いはさせたくないんだ」
「わ、わたし、大丈夫です……。私も翔様と……。ぜんぶ、知りたい」
 凛花にも破瓜の知識くらいはあった。とても痛いし、苦しいと聞いている。だが、彼になら、翔になら、その痛みさえ捧げたいと強く思った。こんなに、自分を優しく見つめてくれる目の前の青年に。凛花はぎゅっと敷き布を握り締めた。

(――つづきは本編で!)

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