同級生社長は失恋の秘書を熱く抱き尽くす

同級生社長は失恋の秘書を熱く抱き尽くす

「あそこの信号までに決めろ。まっすぐ行けば駅。右に曲がったらホテル」

あらすじ

「あそこの信号までに決めろ。まっすぐ行けば駅。右に曲がったらホテル」

 想いを寄せていた年上の幼馴染に、とうとう失恋してしまった真白。
 大学時代からの友人で、今は真白の上司である亘は、泣きはらす真白を慰めながら迫る。
「手っ取り早く忘れさせてやろうか?」
 男女の関係になったところで自分たちの関係は変わらないはず。長年の片思いに疲れ切っていた真白は、亘のそんな誘いに……。

作品情報

作:本郷アキ
絵:KISERU

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本文お試し読み

第一章 失恋

 梅雨にはまだ少し早い五月の中旬。天気予報通りの青空が広がっている。
 緑豊かな庭園に囲まれたテラスの中心にいる二人から離れたところで、真白《ましろ》はぼんやりと宙を見ていた。
 招待客が空に放ったフラワーシャワーは、ひらひらと風に舞い、自分の心とは裏腹に二人の結婚を心底祝福しているかのようだった。
 肩までの茶色の髪が風になびく。せっかく綺麗に巻いた髪がボサボサだ。真白は必死に髪を手櫛で直し、二人に視線を送る。
 新郎の視線は新婦にしか注がれていない。自分の無駄な行動にため息が漏れた。
(雲一つない晴天……雨でも降ってたら、ざまぁみろとか思ってたのかな)
 少しでもそんな風に考えてしまう自分が嫌だ。最後まで祝福している顔をしなければならないのに。
 招待客を見送る二人を眺めながら、真白は人が少なくなるのを待っていた。ほとんどの招待客がいなくなり、周囲には真白を含む親族ばかりだ。真白もそろそろ挨拶に向かってもいい頃だろう。
 真白はきゅっと唇を噛みしめると、自分を落ち着かせるように深呼吸をした。ここで切り替えなければ、どうしたのかと心配させてしまう。
(大丈夫……こんなのもう慣れっこじゃない)
 ふぅと息を吐ききり、真白は精一杯の笑みを浮かべながら、中心にいる二人に近づいていった。
「由香里《ゆかり》ちゃん、宗佑《そうすけ》くん! おめでとう! 二人とも幸せになってよ!」
 真白に気づいた今日の主役二人がこちらを見て、幸せいっぱいの顔を見せる。宗佑の顔には言われなくてもと書いてあるし、由香里の表情はただただ幸福感に満ちていた。胸がじりじりと焼きつくように痛む。
 もう完全に手が届かなくなってしまう。どんなに好きでも、宗佑が真白を想う日は来ない。そんなの何年も前からわかっていたのに。覚悟だってしていたはずなのに。
 二人には幸せになってほしい。その気持ちに嘘はない。けれど、虚しさばかりはどうしようもなかった。
 幼馴染みである神薙宗佑と、真白の従姉妹である由香里は小学校からの同級生で、今年二十八歳になった真白の五歳上だ。そんな二人が結婚に至るまでには、筆舌に尽くしがたいほど困難な道のりがあった。
 宗佑の実家である神薙家は戦前、国内で三本の指に入る大財閥だった。現在でも銀行、ホテル、テレビ放送事業といった企業のトップに名を連ねていて、その影響力は非常に大きい。
 宗佑の父が社長を務める大手総合商社である神薙商事の純利益は、年間四千億円。従業員数は五万人。対して由香里はいわゆる一般家庭育ちだ。
 宗佑は三十二歳の若さで、後継者として神薙商事の専務を務めている。その重責は真白には到底計り知れないし、妻となる由香里へかかる心労をわかってあげることもできない。
「真白、来てくれてありがとう。そういう格好初めてみたな」
「そりゃ、披露宴にTシャツ、デニムで来る人いないでしょ」
 それもそうか、と宗佑が笑う。宗佑からしたら、デニムスタイルの方が見慣れているのだろうが、仕事着がスーツのため最近はスカートも穿くようになったのだ。それを宗佑が知らないのは当然だが。
「マンションに遊びにこいよ。俺らが結婚したって、お前が幼馴染みなのは変わらないんだから」
「そうだよ。まーちゃんは私たちの大切な家族なんだからね」
 由香里の言葉に真白は本心からの笑みを浮かべた。
 真白にとっても由香里は大切な家族だ。たとえ真白が宗佑を想おうが、それだけは変わらない。
「ありがと。でも新婚早々にお邪魔するのもね。落ち着いたら行くから」
 含みのある言い方をすると、宗佑は心底嫌そうな顔をした。結婚式の準備に待ってはくれない仕事で忙しく、なかなか二人きりになる時間はなかったはず。ようやく終わったのだから思う存分二人でいちゃいちゃすればいいじゃないかと思っただけなのに。
 真白は切なさを誤魔化すために、口元を緩めてにやりと笑った。
「私の前でいちゃいちゃしてくれてもいいよ?」
「バカ、誰がするか」
 宗佑に額を弾かれる。いたた、とわざとらしく額を押さえながら、いつものように話せている自分にほっとする。
「由香里ちゃんはしたそうだよ?」
「なっ、もうっ! まーちゃん!」
 由香里の顔が真っ赤に染まる。宗佑はそんな由香里を見て満更でもないという顔をした。あまりに自虐的過ぎて乾いた笑いが漏れる。
「やっぱりいちゃつくのは二人の時にしてください」
 真白が目を細めて呆れ顔を向けると、由香里はますます頬を染める。
(宗佑くん、ほんと由香里ちゃんの前だとデレデレ……)
 愛おしそうに目を細めた宗佑は、赤らんだ由香里の頬を指先で撫でた。
 もしかしたらここに真白がいることを忘れているのではないかと思うくらい、彼の目には由香里しか映っていない。
 宗佑に妹としか思われていないのは知っていたけれど、自分と由香里の差を見せつけられると苦しい。
(絶対に叶うことはないってわかるのに……どうして私は想うのをやめられないんだろう)
 お似合いの二人だ。高身長でモデル並みの美男美女。そして誰が見たって相思相愛。
 対して真白は、平凡な顔立ちに百五十五センチという並の身長。特筆すべきところはないが、良く言えば「ボーイッシュな感じで可愛い」。悪く言えば、色気がない。
 実際真白は、社会人になるまで数えるほどしかスカートを穿いたことがなかった。Tシャツにデニムが常で、ブランドのスニーカーが唯一のおしゃれだ。
 働きだしてからはスーツに合わせるべく肩まで髪を伸ばしていて、茶色く染めている。自分ではようやく女性になったような気がしていた。
 佇まいだけは楚々とした雰囲気があるのに、もともとのがさつさで台無しらしい。そう言ったのは誰だったか。
 由香里の持つ頼りなさそうな雰囲気のせいか、年齢的には由香里が上なのに、小さい頃から真白は彼女の姉だった。べつにそれが嫌だったわけではない。由香里を守るのだと正義感でいっぱいだったし、しっかり者だと言われると嬉しかった。
 由香里は一般家庭の出身だが、宗佑とは小学校が一緒で同じクラスだった。それがきっかけでよく遊ぶようになったらしい。真白は由香里のおまけでくっついていて、同級生だと宗佑を紹介されたのだ。
 会った時から、二人には誰も入り込めないような独特の空気があった。
 宗佑は由香里しか見ていなかったし、由香里も同じだ。二人とは五歳も離れているから、真白が宗佑を好きになった時にはもう遅かった。
 二人の付きあいには当然反対があった。家族からは反対されなかったものの、神薙家を取り巻く外野からの圧力が相当強かったのだ。
 由香里を一般庶民だと蔑み、宗佑に似合うのは自分だと言い張る、突然降って湧いてでてくる婚約者候補たち。
 どこから漏れているのか、由香里の個人情報などあってないようなもので、毎日のように脅迫じみたメールに手紙が届いた。それらにぶち切れたのはなんと言っても真白だったから忘れやしない。
 紆余曲折あり、宗佑が諦めず由香里への愛を貫いた結果、二人は今日を迎えることができたのだ。だから、幸せになってほしい気持ちは嘘ではない。
「なんか……よかった。二人が幸せそうで。宗佑くん、由香里ちゃんを泣かせないでよね。私ほど逞しくないんだから」
「わかってるよ」
 じわりと涙が滲んでくる。真白は涙を指先で拭いながら必死に笑顔を取り繕った。
 二人とも、真白が感極まったと思っているだろう。が、実際に抱えている想いはもっと複雑だ。
 真白の涙の中には、二人には決して言えない感情が多く含まれている。宗佑にも由香里にも一生隠し通すつもりの恋心が。
 由香里は潤んだ瞳を真白に向けて「ありがとう」と言ってきた。
「なにか困ったことがあったら、すぐに頼れよ」
 宗佑は髪をくしゃくしゃにかき乱してくる。
「なにするの!」
 真白は乱れた髪を手で直しながら叫んだ。好きな人の前では少しでも可愛くいたいという女性の心理が理解できないらしい。理解されても困るのだが。
 何年も何年の胸の中に閉じ込めてきた宗佑への恋心。
 冗談で誤魔化してはいたが、それでも溢れだしそうになるたびに蓋をして、なんとか彼の妹に徹してきた。そうしなければ、私を見てと言ってしまいそうだったから。
 真白が自分の恋心に気づいた時には、宗佑と由香里は婚約していた。告白などできるはずがない。
(そんなことしたら、宗佑くんが困るのわかりきってるし、由香里ちゃんは自分のせいでって傷つく)
 想いあう二人を何年も見てきた。
 婚約が結婚になっただけだ。
 それでも、結婚という一つの区切りは真白の胸を痛ませた。
 そろそろこの恋心に決着をつける時期なんじゃないの。
 もう二十八歳。いつまで初恋を引きずる気なの。自分の幸せを考えてもいいんじゃないの。
 誰かにそう言われている気がした。
「真白、本当に二次会来ないのか?」
「行くわけないでしょ。だって私親族枠だよ? そういうのは友達とね。そのために関係者向けと友人向けに披露宴二回やったんでしょう?」
「そうだけど」
「そのうち三人でまた食事しよ。惚気はその時聞いてあげるから」
 ちなみに今日の披露宴が友人向けのガーデンウェディングだ。
 この後は、友人たちが企画してくれた二次会へと行くらしい。真白も誘われてはいたが、そこは遠慮しておいた。
 正直、これ以上、幸せそうな二人を見ているのはきつかった。
 家族としての顔を保てなくなりそうだったのだ。
「惚気ないってば。約束よ、ちゃんと来てね。まーちゃんが一人暮らししてからあまり会えなくなっちゃって寂しいのよ?」
「まぁな、最近お前全然顔見せなかったよな。俺たちも式の準備で忙しくって連絡できてなかったけど、これからは少しは落ち着くから気兼ねせず来いよ」
「わかった。久しぶりに由香里ちゃんの手作りご飯食べたいしね。でも本当に仕事が忙しくって、土日しか時間が取れないの」
「平日に来いなんて言わないさ。夜外で飯食うのでもいいから。近々連絡する」
 宗佑の言葉に由香里もうんうんと首を縦に振った。
 結婚しても真白との関係はなにも変わらないのだと思ってくれるのは嬉しい。だが、二人が家族としての絆を深めていけばいくほど、きっと真白はその外へと追いやられるだろう。子どもができればなおのこと。その日はそう遠くないように思う。
「うん。じゃあ私帰るわ。二次会の写真あとで見せてね」
 真白が手を振ると、二人も笑顔で手を振り返してくれた。そして顔を見合わせてはにかむ。真白は未練を断ち切るように背を向けて、エレベーターホールへと向かった。
 預けていた荷物を受け取りホテルを出る頃には、外はすっかり薄暗くなっていた。
 引き出物の紙袋の重さが疲れに拍車をかける。だが、このまま帰る気にはなれず、真白はぼんやりと歩きながら駅を通り過ぎた。
 ホテルやビルが多く建ち並ぶエリアからしばらく道路沿いに歩いていくと、べつの路線の駅が見えてきた。普段はごみごみしている東京の街並みを嫌だと思うことの方が多いけれど、誰にも気にされず歩くのにはちょうどいい。
 たとえここで涙を流しながら歩いていたとしても、通り過ぎる人たちはきっと真白に目もくれないだろう。
(だいぶ前から覚悟はしてた。っていうか、もっと早く結婚するって思ってたもの)
 二人が婚約したのはおそらく真白がまだ中学生の頃だ。
 宗佑の役員就任に合わせての結婚だとはわかっていても、婚約から十年以上。パーティーなどで宗佑がどこぞの令嬢に声をかけられるたびに複雑な気持ちになったと、由香里から何度か聞いていた。
 やめてしまえばいいのに、そう口に出しそうになったのは一回や二回ではない。
 由香里の幸せを考えたら、なにも苦労するのがわかりきっている神薙家に嫁ぐ必要はない。男は宗佑だけではない。ほかにもっといい人がいる。
 そんな風に思う自分の気持ちが、嫉妬心ではないとは言い切れなかった。
 従姉妹の不幸を願うような卑怯な人間にはなりたくない。
 ふと目を向けると、飲食店の看板の前で、男女グループがたむろしていた。
 楽しそうな彼らの顔をほんの少し羨ましく思いながら、そろそろ自分もどこかに入ろうかと周囲を見回す。
(明日も休みだしね……飲みにでも行って忘れよ)
 ショッピングビルのショーウィンドウに映る、自分の姿が目に入る。
 真白は誰が見ても披露宴帰りだとわかるドレススタイルだ。
 全体が落ち着いたブルーで、花柄のあしらわれたレースとプリーツがミックスされたフレアタイプのワンピースは、真白の雰囲気を普段よりも優美に見せている。
 バレッタで留めたストレートの髪を耳にかけると、真珠のイヤリングが覗く。物憂げな自分の顔と、花が咲いたように笑っていた由香里の顔を比べてしまう。
(でも……可愛いって、言ってくれた)
 宗佑のそんな台詞一つで喜んでしまう自分が悲しい。
 妹として可愛い、だ。由香里に向ける目とまったく違うのもわかっているのに。
 由香里に向けていた愛おしげな表情を真白にも向けてくれたらと、何度思っただろう。
 目頭が熱くなってきて、鼻の奥がつんと痺れる。忘れようと思った矢先に思い出してしまう。何年、この一方通行の想いを抱えていれば忘れられるだろう。
 髪を撫でる宗佑の大きな手が好きだ。妹扱いどころかペット扱いされることの方が多かったけれど、宗佑の身内に入っているのだと思うと誇らしかった。
(会わなかったら……忘れられるかな……)
 宗佑との関係は変えられない。由香里とも。真白が急に連絡を取らなくなったら二人とも心配して家にまで乗り込んできそうだ。
 恋愛感情を霧散させるしかないのに、どうしたらこの気持ちが消えてなくなってくれるのか自分ではちっともわからない。
(本当は……告白して振られるのが一番いいんだろうけど……)
 由香里を傷つけたくない。三人の関係をギクシャクさせたくない。一人きりでどうにか乗り越えるしかないのだ。
 真白が店を探しながら歩いていると、ふと見覚えのある男性の姿が目に留まった。こちらに向かって歩いてくる姿を凝視する。やはり間違いない。
「亘《わたる》? こんなところでなにしてるの?」
 真白に気づいていなかったのか、名前を呼ばれて顔を上げた長身の男は、驚いた顔でこちらを見てくる。
「真白? つか、なんだその格好。結婚式にでも出たみたいだな」
 彼──喜多山《きたやま》亘は、真白が働く株式会社ラパンの社長だ。
 ラパンは洋菓子事業、ワイナリー経営、食品販売事業などを行う喜多山ホールディングスの子会社で、グループトップは亘の父が勤めている。
 亘は宗佑とはまた違った魅力を持つ男だ。行き交う人の多い繁華街でたやすく見つけられるくらい背が高く、顔立ちは美しいと表現するに十分なほど整っている。
 仕事ではワックスできっちりとまとめている黒髪を今は無造作に流していた。ワイシャツにスラックスという装いで、ライトブルーの薄手のジャケットを腕にかけ歩く姿は、ショーモデルと言われても頷ける。
 切れ長の目に高い鼻梁は冷淡にも見えるのだが、近づきがたい印象はない。笑みを浮かべると男女問わず彼に見蕩れる人が後を絶たず、そのせいか人懐っこくも見える。ラフな格好をしていても隠しきれない品の良さがあるのは、実際に彼の育ちがいいからだろう。
 いつも自信に満ちあふれていて、それが佇まいや仕草すべてに現れていると真白は感じるくらいだ。仕事でも彼がいるだけで安心感があるし、とても頼りがいもある。
 亘と気安く呼んでいるのは、彼が真白の大学時代の友人だからだ。
 就職活動に全滅した真白に、宗佑は神薙商事への入社を勧めてきた。だがそんなコネ入社は絶対に嫌だと断ったところで、亘から自分の会社を手伝ってほしいと申し出があったのだ。
(手伝ってほしいなんて、私が困ってるから助けてくれただけなんだろうけど)
 一応、社内では社長呼びで敬語だが、仕事以外では昔と同じように名前で呼んでいる。彼も同じようにしていた。
「みたいっていうか、結婚式の帰りなの。ねぇ、暇ならさ、これから飲みに付きあってくれない?」
 真白が誘うと迷いもなく亘は頷いた。
「あぁ、ちょうど食事に出たところだからいいけど」
「私、今日失恋したから奢って」
「はっ? 失恋?」
 亘が驚きを露わにしてこちらを見てくる。
 それも当たり前かと真白は笑った。
 亘とは男友達のような関係で、大学の頃はそれこそ互いの家に泊まって雑魚寝していたくらいだ。もちろん色恋に発展するようなことはなにもない。
 彼になら話してもいいかと思ったのは、宗佑と亘の境遇が似ていたからかもしれないし、ただの気まぐれかもしれない。今まで誰にも話せなかった胸の内を、今夜だけは誰かに聞いてほしかった。
「そ、長年の恋が今日終わったの。ということで、ほら行こう!」
「訳わかんねぇ」
 そう言いながらも亘は真白の後をついてくる。
 行き先は決めていなかったけれど、プライベートでしかも気の置けない相手だ。美味しければどこだって文句は言わないと知っている。それに真白も亘も食べるのが大好きで、美味しい飲み屋、レストラン、カフェ情報はインプットされ常に更新している。
「エレベーター待つの面倒だから一階にある店がいいな」
「じゃああそこは? たまに行くけどけっこううまい」
 亘が指差した先にあるのは、落ち着いた雰囲気の創作居酒屋だ。看板から判断するにそこそこの値段がするのか、ビルの前に若い人の姿はない。
「うん、行こう行こう」
 創作居酒屋は土曜日だけあって混雑していた。空いているのはカウンター席だけだ。
「やっぱ混んでるよな。ほかにするか?」
「カウンターでべつによくない?」
「お前がそう言うならいいけど」
 亘は申し訳なさそうな顔をしたが、真白としては今日は酒が飲めればいいのだ。店員の案内でカウンターに隣りあって座る。
 頼んだ二人分のビールが運ばれてくると、真白は乾杯もせずにグラスを空けた。
「はぁ……っ、美味しい!」
「いい飲みっぷりだけどな。乾杯くらいしないか?」
「なにに乾杯するの? 失恋したって言ってるでしょ。告白もできないままに終わったんだから。乾杯は二杯目ね」
「失恋したなら、二杯目はなにに乾杯するんだよ」
「亘に。偶然私と会ってくれてありがとうって」
 亘はふぅんと興味なさげにビールを傾けた。
 しかしどうやら興味がないわけではなく、自分の中で情報を整理していたらしい。亘は真白の格好をもう一度見て「もしかして」と呟いた。
「今日片思いの相手の結婚式だったのか?」
「ピンポーン。大正解」
 なるべく暗くならないように声に出したつもりだが、強がりなのはバレバレだろう。亘は嘆息しながら呆れたように口に出す。
「そんなの欠席すりゃあいいのに」
「できるわけないでしょ。親族なんだから」
 亘がぎょっとしたのがわかった。真白が親族の誰かに失恋したと思っているのだろう。禁断の恋では決してなかったのだが。
(まぁ、私の立ち位置としては近いけどね)
 真白は空のグラスを傾けて、動きを止める。
 亘も真白に付きあってくれるつもりなのか、いつもより早くグラスが空いた。近くにいた店員におかわりを頼んで、真白は空のグラスを端に置く。
「私の従姉妹が相手なの。好きな人は五個上の幼馴染み」
 真白がビールを飲んでいる間に頼んでくれたのか、つまみが次々とテーブルに運ばれてくる。
「ちゃんと食ってから飲めよ」
「うん、いただきます」
 正直フレンチのフルコースを食べた後で食欲はなかったが、しぶしぶだし巻き卵を口に運ぶ。口の中でふわりと広がる出汁が甘くて優しくて美味しかった。
「ほら、こっちも食え」
 山菜の天ぷらを目の前に差しだされて、無言で口に含む。飲み込んだタイミングで、今度はアスパラの肉巻きを口元に運ばれる。
「美味しい」
「腹減ってるともっと落ち込むだろ。食ったら話せよ?」
「うん」
(そういえば……宗佑くんは、由香里ちゃんが作る家庭料理が好きなのよね。料理と言えばシェフが作る高級料理に慣れてるくせに)
 宗佑を思い出すと、堪えていた涙がまたじわりと滲んでくる。
 いったいどれだけ泣けば、宗佑を忘れられるのだろう。
「はぁ……食い倒れるくらい、暴飲暴食したい気分」
「ふっ、いいな。また行くか? 大学の頃みたいに」
「えぇぇ、休みの日まで社長の顔見るの嫌なんですけど」
 真白が言うと、亘が相好を崩しながら「ひでぇ」と返す。
 亘の言う通り、腹が満たされると落ち込んでいた気分が多少浮上してくる。ショックでなにも入らないと思っていたが、食べていると美味しく感じるのだから空腹だったのだろう。
「土日は会わなくなったもんね」
「部下を土日までこき使うのは忍びなくってな。お前が付きあってくれるならいくらでも誘う」
「まぁいいけどさ」
 働き始めてからは仕事帰りに食事をすることの方が多いが、親友と言っても差し支えないくらいの仲だ。
「従姉妹と幼馴染みか……お前はその二人と仲がいいのか?」
「うん、子どもの頃から遊んでたから」
「そうか。で、お前は歯を食いしばってでも笑ってみせたんだろ」
 亘はよく頑張ったと言うように、真白の頭を軽く叩いてきた。
「よくわかったね。ちゃんとお幸せにって言ってきたよ」
「そりゃ、わかるさ。何年も見てるからな」
 真白は泣き笑いのような表情で頷いた。
 頑張らないでいられるのは亘のそばだけだ。付きあいは長くとも、宗佑と由香里と一緒にいる時は、心底楽しくはいられない。
「必死に、頑張ったよ。私の気持ちなんて知らずに、二人して惚気てるし。二人が幸せならいいかって我慢してたけど……本当は、辛かった」
 亘は頷いて、今度は髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でてきた。涙腺がどうにかなってしまっているのか、ますます涙が止まらない。
「あ~だめだ。止まんないや」
 真白は勢いよく二杯目のグラスを傾けて、おしぼりを顔に押し当てた。
 誰かに一緒にいてほしいと思っていたけれど、亘と一緒にいるとだめだ。弱くなっても受け止めてくれるのがわかるから、甘えてしまいたくなる。
「いつから好きだったんだ?」
 亘は、真白がもたれかかってもいいように肩を抱いて支えてくる。カウンターとはいえ混雑しているから、泣き顔をほかの人に見えないようにしてくれているのだろう。その気遣いが嬉しい。
「中学生くらい……かな。二人が婚約したって聞いて、自分でも驚くくらいショックだったの。初めてそこで、私、宗佑くんのこと好きだったんだって気づいた」
 それまで宗佑は兄のような存在だった。
 真白は一人っ子で、わりとしっかり者だ。だが、真白が小さい頃からしっかりしていたのは由香里のせいでもあった。
 真白が小学生の頃だろうか。由香里の両親が離婚問題で揉めていた時、由香里はよく真白の家に預けられていた。由香里は風が吹けば倒れてしまいそうなほど細く、弱々しかった。
 妹が欲しかった真白は、不安そうに小さくなる従姉妹を姉として守らなければと強く思ったのだ。
(実際は、宗佑くんががっちり守ってたんだけど……)
 両親のことで泣く由香里を慰めて一番近くにいたのはやはり宗佑だ。
 守るのだと決意したところで当時小学生の自分にはなにもできなかった。ただ冗談を言って笑いを取ったり、一緒に遊んだり。その程度のことしか。
 ただ、宗佑は由香里だけではなく、真白のことも区別なく優しくしてくれた。一人っ子の真白が唯一甘えられる存在だった。
「五つ上って言ってなかったか? お前が中学生ってことは、そいつは高校生か大学生だろ? 婚約って……いくらなんでも早いよな?」
「あぁ……うん、家の事情かな」
 さすがに宗佑の実家について触れるわけにはいかない。それに二人がなぜ高校時代に婚約したのかを真白は詳しくは知らなかった。
 真白が誤魔化したのがわかったのか、亘はそれ以上なにも聞いてはこなかった。
 亘との距離感は昔から心地いい。こちらが触れてほしくないところには決して踏み込んでこない。だから、上司と部下という関係になっても友人であり続けることができる。
「お前とこういう話するの、初めてだよな」
「そうだね……っていうか、失恋するのわかりきってたから、そんな情けない話したくなかったの。しかも亘、私を最初、女だとすら思ってなかったでしょ」
「あぁ……まぁな」
 大学での出会いのきっかけは、些細なことだ。
 たまたま隣になり話しかけられ仲良くなったのだが、なんとその時、亘は真白を男だと思っていたらしい。入学して一ヶ月、コートを脱ぎ薄着になったことで、ようやく真白の胸の膨らみに気づいたらしい。
 その時の亘の視線は何年経っても忘れられない。真白の胸と顔を行き来して動揺する様は思い出すと笑みがこみ上げてくる。
 髪はショートだったし、Tシャツにデニム姿で華やかな女子大生という風体ではなかったから仕方ないのだが。
「たしかに、お前が女だって知った時は衝撃だった。なんであんな勘違いしたんだろうな」
「あの時の亘の顔、今でも思い出せる。『お前、まさか女?』って言われたのよ。失礼だよね」
 男兄弟で育っているから、女の子の甲高い声がとても苦手だと亘は言っていた。それでいてモテるから頻繁に話しかけられていて、よけいに苦手意識が増したらしいが。
 女とわかったからといって、一度縮めた亘との関係が離れることはなく、その後も付きあいは続いた。
 女を感じさせない真白といるのが亘も楽だったのか、ラパンの起ち上げ前には、市場調査だと言ってスイーツ巡りに付きあわされた。実のところ亘はかなりの甘党で、自分の食べたいスイーツを作りたいからと会社を起ち上げたらしい。
「悪かったって。今は女としか思ってねぇよ」
「どちらかといえば、女ってくらいでしょ。自分でもわかってるんだから」
 由香里のように楚々とした雰囲気に憧れたこともある。たとえば服装を変えて髪型を変えたら、多少は近づくだろう。だが、あからさまに由香里を意識しているようなファッションはできなかった。
(そういえば、亘って恋人いるのかな? そういう話、しないからなぁ)
 大学時代からかなりモテていたから、今だってそう変わらないだろう。むしろ大人の魅力がプラスされた今の方がかっこよさは倍増しているのではないか。
 過去にはそれなりに恋人がいたはずだが、亘が女性を苦手としているのを知っているから深くは聞かなかった。
「女は女だけど……お前はほかの女とは違うよ」
「ふぅん、ありがとう」
 よくわからないがとりあえず礼を言うと、亘は呆れたように真白の肩を抱き寄せてきた。
「これで気づかないんだもんなぁ……」
 亘は遠くを見つめながら、ため息と共に言葉を吐きだす。
「気づかないってなにをよ?」
「なぁ、そいつのこと忘れたいんだろ?」
 突然変わった話に、真白はきょとんとしながらも頷いた。
「当たり前でしょ。忘れられるなら忘れたい。でもあの人……隙あらば頭を撫でてきたり、ほっぺた抓ったり、可愛いなとか言ったりするの。『え、なんなの? もしかしたら私のこと好きなの?』って期待しちゃうようなことばっかり。そんなわけないんだけどね。顔を合わせるたびにそれだから、なかなか諦めがつかなくて。あ~もう泣きたくないのに!」
 話が戻ると、切なさまで思い出してしまう。これでは諦めるなんて到底できそうにない。
 真白はグラスの三分の一ほどが残っているビールを一気に呷った。
「おかわりください」
 すぐに店員が新しいビールをカウンター越しに渡してくれる。それをまた半分まで飲み、深く息を吐きだした。
「なんだろう……諦めたいのに諦められないのは、宗佑くんが私の気持ちにちっとも気がついてないからだと思う。好きなことに気づいてもらえないのが、すごく悔しいの」
 涙が滲んで声が震えてくる。
 俯いて顔を隠した真白の頭に大きな手のひらがぽんと載せられた。
「それは悔しいな。何年も好きだったのに」
「宗佑くんもそうやって頭撫でてくるのよ……私のことなんて、妹としか思ってないくせに」
「あぁ、たしかにきついよな」
 そうだ。妹としか思っていないのに、やたらと触ってくるからよけいに期待してしまう。
 真白には恋愛経験が不足している。恋愛感情を持ったのは宗佑が初めてで、誰かと付きあったことさえない。だから家族愛でしかない行為にすら甘さを感じてしまうのだろうか。
「ううん、やっぱりおかしいよね?」
「え?」
 突然ガバッと顔を上げた真白に亘が驚いたような顔をした。だが頭に置いた手は外されなかった。
「だって、普通、なんとも思ってない相手の頭撫でる? 撫でないでしょ?」
 だからといって宗佑の気持ちが真白にあるだなんて勘違いはしない。
 ただ、宗佑の距離感がおかしいと言っているだけだ。真白は由香里と仲が良くても、由香里と直接的な触れあいはしないし、由香里だってしてこない。
 頭を撫でられると嬉しい。可愛いと言ってもらえたらもっと嬉しい。そういう一つ一つの出来事が重なり、恋になった。
 宗佑は結婚しても変わらないから、もともと人たらしなのだろう。身内として特別扱いする相手には甘いのだ。
 それが忘れられない一つの理由なのではないかと思った。
「そうだな、普通はしないよな」
 亘はなぜか呆れたような表情で同意を示した。
 宗佑が由香里を好きなのなんて一目瞭然。
 真白に触れてくるのは、由香里の従姉妹だから、宗佑にとっては妹のようなものだからだ。そんなのわかっているけれど。
「でも……抱きしめるのは由香里ちゃんしかしなかったの。私がどんなにねだっても、ずるい、私もって手を伸ばしても、これは由香里だけの特権だって言って。私だって抱きしめてほしかったのに」
 隣から大きなため息が聞こえて、身体を引き寄せられる。目の前が陰り、自分の顔が亘の胸元に埋まったのがわかる。
「悔しいなぁ……っ、私の気持ちを知りもしないで……だったら、もっとはっきり区別してくれればよかったのに。妹だなんて思われない方がよかった」
 溢れた涙はすべて亘のシャツに吸い込まれていく。
「はいはい、全部吐きだせ」
 顔を洗い立ての清潔な香りのするシャツに擦りつける。
 いつもだったら文句を言われそうな行動だが、亘はなにも言わずに宥めるような手つきで背中を叩いてきた。
(私は……いつだって、由香里ちゃんが羨ましかった)
 自分とは違っておしとやかな女性であることも。宗佑の愛情を一身に受けているところも。
 けれど、二人のことが大好きだったから、絶対に気づかれたくなかった。宗佑に頭を撫でられるたび、赤くなりそうな顔を誤魔化すのは大変だった。
 気づかれなくてよかったと考えるべきなのに、気づいてほしかった自分もいる。宗佑と由香里への家族愛はそのままに、恋心だけをすっぱり忘れられる方法があればいいのに。
「由香里ちゃんに嫉妬してる自分が嫌なの……っ。口では幸せになってとか言ってるのに……心のどこかで、もしも二人が別れたらなんて少しでも考えてしまう自分が嫌で仕方がない」
「普通だろ、それ。当たり前だ。恋敵の応援なんてできるかよ」
 当たり前だと言われたことに驚いて、真白は顔を上げる。きっと今、化粧が崩れてひどい顔をしているだろうが、気にする余裕はなかった。
「普通……なの?」
「嫉妬くらいするだろう。俺だってする」
 亘は切なげに眉を寄せて、なぜか真白から目を逸らす。
 もしかしたら彼も、真白と同じように辛い恋をしたのかもしれない。
「亘も?」
「あぁ。お幸せにって言えただけ偉いよ、お前は。俺だったら無理だ」
 幸せになってほしい。嘘ではないけれど、本当でもない。心のどこかに相手を羨む気持ちがある。二人の不幸を願ってしまいそうになる自分もいる。
 けれど、おかしくない。それが普通だと亘は言う。
「うん、ありがとう」
 そうか、それでもいいのかと気持ちが軽くなった。
 真白が身体を離すと、涙に濡れた顔に清潔そうなハンカチを押し当てられる。
「顔がひどいぞ」
「その言い方がひどいよ」
 ぷっと二人同時に噴きだす。いつの間にか涙は止まっていた。
 片思いの期間が長過ぎて、心の中で折り合いはまだつかない。気持ちが軽くなっても忘れられるわけではないから。宗佑の顔を見るだけで恋心は簡単に復活してしまうだろう。
 今までがそうだったのだ。何度諦めようと思ったところで、できなかった。
 けれど、今笑っていられるのは間違いなく亘のおかげだ。泣きながら朝を迎えることも覚悟していたから、普通に笑えている自分が不思議だった。
「その男を忘れたい?」
 亘の手が伸びてきて、指先で目元を拭われる。指先が黒くなっているから、おそらくマスカラで目の下が黒くなったのを取ってくれたのだろう。
「そんな方法があればね」
「手っ取り早く忘れさせてやろうか?」
「ちょっとっ、なに言ってるの……ふふっ」
 真白は堪えきれずにふきだした。
 なんだか亘の台詞がキザで恥ずかしくなってしまった。だって忘れさせてやろうか、なんてまるで真白を誘っているみたいではないか。
「ベタなのは自分でもわかってるよ。でも俺は、落ち込んでるお前を放っておけない。家に帰ってまた一人で泣くのがわかってるのに、帰したくない。だから、俺でよければ慰めてやる」
 真白は亘の言葉に息を呑む。
 その言い方では、そういう意味で慰めると言っているように聞こえる。経験のない真白だがそれなりに耳年増だ。
(でも……これ勘違いだったら、ものすごく恥ずかしい……。きっと朝まで飲みに付きあうとかそういうことだよ。だって、亘が私にそんなこと言うわけない)
 酔っていて聞き間違えたかもしれない。
 式場でもかなり酒を飲んだがまったく酔えなかった。今になって酒が回っている可能性もある。
「慰めるって……変な意味に聞こえるからやめて」
「合ってるよ。お前を抱いて慰めてやるって意味で言ってる」
「は……? え、あ……いや……ちょっと待って」
 ばくばくと心臓の音が頭の中に鳴り響く。それをどうにか誤魔化すため、必死に平静を取り繕った挙げ句、言わなくていいことを口に出してしまう。
「私、面倒くさいことに処女なの」
 違う。そんな話がしたかったのではない。
 なぜ処女発言をしたのか。かなり動揺している自覚はあるが、処女だから面倒でしょう、なんて返したら、真白が受け入れていると取られかねない。
 違う、と真白が言い訳を口にする前に、亘がさして驚きもせずに頷いた。
「中学生から引きずってんならそうだろうな。とりあえず出るぞ。それ以上飲んで忘れられるのは嫌だからな」
 亘は伝票を手に精算を済ませてしまう。
 あまりの困惑の最中にいるため「ごちそうさま」の一言も出てこない。彼は真白の手を取り店を後にした。
(手……手……っ!)
 繋がれた手が熱くなって汗ばんでくる。亘の手も熱いと思うのは気のせいだろうか。
 真白は前を歩く亘の後をただ着いていく。繋がれた手を振り払うこともできない。
 亘に慰めてもらうなんて考えもしなかった。けれど亘の提案を不快に思っていないことに気づくと、真白の胸にさらに動揺が広がる。
「どこ、行くの?」
 問いかける声が震えていなかったか自信はない。
「お前の返事待ちだけど、あそこの信号までに決めろ。まっすぐ行けば駅。右に曲がったらホテル」
 右に曲がったらと言いながら彼が指差した方向には、都会の街並みにふさわしく煌びやかにライトアップされた高層ビルが建ち並んでいる。
 そのうちの一つは世界的にも有名な五つ星ホテルだ。当然だが真白は、そういう目的のためにホテルに行ったことは一度もない。
(冗談じゃ……ないんだよね)
 亘はそんな悪趣味な冗談を言うタイプではないし、落ち込んでいる友人をからかって楽しむタイプでもない。
 どうするべきだろう。普段なら迷うはずもないことだ。
 友人としか思えない相手とベッドを共にするのは無理だとはっきり言えばいい。亘は「そうか」の一言で済ませてくれるだろう。
(どうして私は……迷ってるの……)
 信号までに決めろと言われて、一歩ずつ足を進めるたびに緊張感が増していく。
 こくりと喉が鳴る。
 亘が、こんな提案をしてきたのは初めてだった。今まで自分たちの間には恋愛めいた空気は一切なかったのだから。
 いつもの自分だったら「一人で泣くから大丈夫」と無理にでも笑って返していただろう。冗談にして、絶対に受け入れなかったはず。
 迷っているのは、本当は一人でいたくない、本当は一人で泣きたくない。その気持ちを簡単に見破られてしまったことに驚いたからだ。
 よく言うではないか。失恋したら、また新しい恋をすればいいと。
 亘と恋愛関係になれるとは思えないが、気持ちを切り替えるきっかけにはなるかもしれない。
 それに、一度くらい、男性に愛されてみたかった。隠しきれない自分の本音はこれだ。好きな人ではなくても亘なら、と。こんなチャンスはもうないのではないか、と。
 彼は友人として、見ていられなかっただけ。おそらく、男女の関係になったところで自分たちの関係は変わらないはずだ。
 亘はそれがわかっているから、寂しいのなら慰めてやると言ってくれている。これをきっかけに、真白の気持ちが上向きに変わればいいと。
 真白はもう長年の片思いに疲れ切っていた。
 自分の気持ちにけりがつく可能性が少しでもあるのなら。だが、友人を利用するのは気が引ける。
 心は揺れたが、信号に着く前に真白の気持ちは決まっていたように思う。
「それも、いいかもね」
 真白は繋がれた手を強く握り返した。
 亘の足がぴたりと止まり、真白を射貫くように見つめてくる。
「俺は本気だぞ。酔った勢いでつけ込んでるけど……後悔はさせない」
 後悔はさせないなんて、なんとも男らしい。こんな時なのに笑いそうになってしまう。
 場数を踏んでいなければ出てこない言葉である。それなりに経験のある亘なら、おそらく真白の動揺ごと受け止めてくれるだろう。
 熱を帯びた亘の視線は、まるで真白を好きだと言っているかのようで、友人として慰めてくれるだけとわかっていても胸がときめく。今さら亘の外見に見蕩れる自分に驚いた。
 この手を取らなかったら、朝まであの二人を思い出して切なさを噛みしめていただろう。そんなのはもう嫌だ。心の底から二人が幸せになるのを祝いたい。
「私も……後悔しない」
 酔った勢いでもなんでもいい。
 次に宗佑と由香里に会った時、心から祝福しおめでとうと言えるのなら。

(――つづきは本編で!)

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