『あまあま授かりえっち』をテーマに5人の作家が贈る、読み切り短編集!
『あまあま授かりえっち』をテーマに5人の作家が贈る、珠玉の読み切り短編集。
上司と、後輩と、元彼と、教授と、ご主人様と…極まる愛をお楽しみ下さい!
◆各話あらすじ
「秘密の恋心とイケナイ関係」作:ひなの琴莉
ご主人様には婚約者がいるのに、愛し合ってしまったメイド。
彼のためと思って辞表を提出した直後に妊娠が発覚して、二人は……?
「六花に棘をひそめて」作:桜旗とうか
最後のセックスの後に連絡を絶って数か月。
妊娠が発覚して、もう他の人の物になったはずの元彼に連絡を取ると、なんと……?
「嫉妬」作:柴田花蓮
忙しい彼と会えない寂しさから、友人に誘われてつい合コンに出てしまった次の夜。
予想以上に激しい嫉妬を見せた大学教授の彼は、彼女を束縛して……?
「エリート課長に秘めた恋」作:まつやちかこ
地味子にお熱の営業課長と、自分に自信が持てない総務の地味子。
お酒の勢いでホテルへ行ったけど、彼との関係をなかったことにしたくて…?
「結婚願望の無いお局OL、後輩男子に篭絡される」作:更紗
「結婚願望は無いけど、子供は欲しい」と口走ったお局経理女子。
営業部の後輩男子に、「子供が欲しいなら俺の子を産んでください。その代わり――」と迫られて……?
作品情報
作:ひなの琴莉/桜旗とうか/柴田花蓮/まつやちかこ/更紗
絵:まりきち
デザイン:RIRI Design Works
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◆秘密の恋心とイケナイ関係 § ひなの琴莉
1
「私はこんなデザインの指輪なんて欲しくないわ。どうして気持ちをちゃんとわかってくれないのよ!」
投げられた指輪の箱が弧を描いて飛んだ。
ポチャっと水音が虚しく響き池に落ちた。
(なんてひどいことをするの?)
たまたま近くを通った私は、見てはいけない瞬間に出くわしてしまう。
三塚大志《みつかたいし》さんの婚約者である麗華《れいか》さんが、私の存在に気がついた。
会釈をすると、彼女は顔を歪め走り去っていく。
大志さんと目が合うと、力なく笑って縁側に腰をかけた。
「……追いかけなくていいのですか?」
「ええ。もういいです。加奈《かな》さんに恥ずかしいところを見られてしまいましたね」
背が高くて太陽の光が当たると髪の毛が茶色に輝く。切れ長の二重で茶色の瞳に見つめられると、心臓がドキッとしてしまう。
しかし、好きになってはいけない相手である。
なぜなら私は三塚家で使われている住み込み家政婦だからだ。
「あの指輪……。一生懸命デザインを考えていらっしゃいましたよね」
「そうでしたね。でも、何のためにやっていたのかわからなくなりました」
悲しそうに微笑まれると、切なくなる。
大志さんには生まれたときから許嫁がいた。彼女に気に入ってもらうために、一生懸命考えたデザインの婚約指環。それが無残にも投げられた。
まるで彼の心が捨てられてしまったような気がして、胸が苦しくなる。
耐えきれなくなった私は、池の中に飛び込んだ。
「何をやっているんですか!」
「私が絶対に見つけ出します。少々お待ちください!」
この広い池の中から指輪を見つけ出すのは至難の技だ。不可能に近いかもしれない。水は生臭いが一心不乱で探した。
「そんなことしなくていいです! 風邪をひいてしまう」
私は必死だった。
彼の気持ちを大切にしたかったからだ。
一向に池から出てこない私にしびれを切らしたのか、大志さんはスーツのジャケットを脱いで池の中に入ってくる。
「大志さん、そんなことなさらないでください!」
「僕のことで探してくれているのですよ」
家政婦である私にも気を遣って、分け隔てなく接してくれる。大志さんは本当に優しい。私は彼の人間性に心底惚れていた。
私たちは必死になって探した。
「ありました!」
奇跡的に指輪を見つけた。
「これを持ってお気持ちをしっかりと伝えてきてください」
「……ああ、そうですね」
指輪を受け取るとき、私の手をぎゅっと握ってくれた。それだけで私の頬が熱くなり心臓が破裂してしまいそうになる。こんな気持ちになっている私をお許しください。
「ありがとう」
「とんでもありません」
それから数日後、大志さんは麗華さんに会いにいった。
今度こそ結婚の日取りが決まるだろう。そう思いながら帰ってくるのを待っていた。
私の母は、未婚のまま私を出産した。
三塚家との出会いは近所の公園。
娘の私と母が遊んでいると、急に倒れた老人がいて母が咄嗟に救助し一命を取り止めた。
彼こそが三塚大志さんの祖父だ。
元気になってから家に招待され状況を聞いてくれ、母子家庭であることと、仕事を探していることを伝えると、ちょうど住み込み家政婦が退職するとのことで、雇ってくれた。
それからこの家に仕えていて、私は小さい頃からここで生活をさせてもらっている。
彼はもう亡くなってしまったが、本当の孫のように可愛がってくれた。
高校生のとき私の母が亡くなった。
この家を出ていくつもりだったが、そのまま残って働かせてもらうことになった。しかも学費まで出してくれたのだ。この家には感謝しかない。
住み込み家政婦は私だけで、日勤で数人やってくる。
私の使命は、この家の皆様が生活しやすい環境になるようにお手伝いをさせてもらうこと。気持ちよく生活してもらうように、日々奉仕させてもらっていた。
夜になり、大志さんが帰ってきた。相当疲れているのか食事はいらないという。あまりいい結果ではなかったのかもしれない。
心配でたまらないが、呼ばれてもいないのに自分から彼の部屋に行くのは許されない。
一日が終わり自分の部屋に入って瞳を閉じるが、私はなかなか寝つくことができずぼんやりとしていた。
母が亡くなってから暗闇が苦手になった。母が事故に遭ったと知らせが入ったのは夜中だった。普段は夜に外出しない人だったが、久しぶりに同窓会があるからと言って出かけたのだ。それで帰らぬ人となってしまった。
眠れないときは、中庭で空気を吸うことが多い。
今日もベッドから抜け出し、夜風に当たりに行った。
空を眺めていると、天国にいる母親とつながっているような気持ちになる。
(お母さん……。大志さんのことが心配でたまりません。どうか元気になってほしいです)
願うような気持ちで手を合わせていた。
「眠れないのですか?」
背後から声が聞こえて振り返ると、そこには大志さんが立っていた。
私は慌てて立ち上がり頭を下げる。寝間着にカーディガン姿でまさか会ってしまうと思わなかった。
「はい……寝つけなくて。あ、あの、はしたない格好で出歩いてしまい申し訳ありません」
必死で謝るとクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「誰も怒っていないですよ。僕も眠れないので隣に座ってもいいですか?」
「もちろんでございます」
まさかの展開に私の心臓は壊れてしまいそうなほどドキドキとしていた。
麗華さんと仲直りできたのか気になっているが、自分から質問することは失礼にあたってしまう。黙って空を見ていると大志さんが口を開いた。
「彼女に会ってきました。そしてちゃんと自分の気持ちを伝えてきました」
「そうでしたか」
きっと仲直りができたのだ。ふたりは約束通り結婚をする。
結婚をしてしまえば大志さんは家から出ていくことになるだろう。寂しいが笑顔で送り出さなければいけない。
「麗華さんとは結婚できないと伝えてきました」
「えっ?」
「僕の心には住み着いている女性がいるからです」
まさか他に好きな女性がいるなんて知らなかった。
お家柄、政略結婚のようなものはあり得ると思っていたが、他に想い人がいて悩んでいるとは気がつかなかった。
「そうだったのですね。事情がいろいろあるかと思いますが、私は大志さんが一番幸せになれる道に進んでいけるように心から祈っています」
笑顔を向けると、大志さんが優しい表情を向けてきた。
「ありがとうございます」
目が合うと頬が熱くなる。私は彼の瞳も大好きだ。
(――つづく)
◆六花に棘をひそめて § 桜旗とうか
『清香《さやか》、会えない?』
元彼からの連絡なんて、たいていの場合はろくでもないことだろう。
スマホを裏返し、揺れ惑う心を宥める。
私はまだ、司《つかさ》を諦めきれていない。五年も経つのにまだ彼に惹かれている。
再びスマホが震え、おそるおそる画面を覗いた。
『明日十九時にあの店で待ってる』
いまさら、どんな顔して会えっていうのよ……。
●
笹崎《ささざき》司との出会いは、新入社員だった頃にまで遡る。
大手と名高い笠島《かさしま》ホールディングスに入社してすぐに、その出会いは訪れた。
いつものように総務部からの資材や配布物を回収し、八階の営業部へと帰ろうとエレベーターを待っていたときのこと。
一階から上がってきたそれには男性の先客がいて、幅を取る台車を申し訳なく思いながらガラガラと押し込んだ。
男性はゲスト用の入場証を首から提げていたので、お客様だとすぐにわかった。彼が向かうのは、法務部のある十五階。彼の襟元に目を向けると、金色のバッジが視界に入った。ひょっとして弁護士だろうか?
そんなことを考えてチラチラ男性を見ていると、うっかり目が合ってしまった。さすがにばつが悪くてすぐに視線を外す。
すごく綺麗な人だったから興味が湧いたのだが、じろじろ見るなんて失礼だった。
でも、彼の声を聞いてみたいと思ってしまった。どんな声で、どんなふうに話すのだろう、と。
話題を探しながら外に目を向ける。このエレベーターは一面がガラス張り。私はそれが怖くて仕方なかった。だからというわけではなかったのだが。
「私、高所恐怖症で」
いきなりそんな暴露をされても困るだろうに、私の口はだいぶバカだ。だけど。
「僕は好きですよ。ここへ来るといい景色が見られるので楽しみにしているんです」
思いのほか話を広げてくれた。ほっと安堵したものの、彼が続けた言葉にげっそりとしてしまう。
「観覧車とか好きなんですよね」
「ひぃぃっ」
変な声が出てしまった私から顔を背けて、彼は可笑しそうに笑った。
「絶叫マシンとかも割と好きで」
「無理です! 死んじゃいます。落ちる……」
「でもお化け屋敷は苦手ですね」
「あっ、それは好きです。夜中のオフィスとかわくわくしません?」
「やめてください、想像しただけで怖い」
笑いながら嫌がる彼から目を逸らせなかった。
エレベーターが八階へ近づいていく。もう終わりだなと寂しく思いながら、リンと鳴る到着音を聞く。
「待って」
台車を押そうと力を込めたタイミングで、彼が呼び止めた。
「こちらの顧問弁護士をしている笹崎と言います。どうぞお見知りおきを」
渡された名刺を受け取りながら、どうお見知りおけばいいのだろうと首を傾げる。そして、慌てて私も名刺を取り出した。
「営業部に所属しています、南部《なんぶ》と申します」
「あとで連絡をします」
「はいっ。……え?」
ひらりと手を振られ、聞き直す間もなくエレベーターの扉が閉まってしまう。
社交辞令だろうと思っていたのだが、その日の夜に彼から連絡があった。食事に行かないかと誘ってくれ、私は迷いもなく即答する。軽率かなとも思いながら、相手は弁護士だし、という謎の安心感を得ていたのだと思う。
そうして、私たちは仕事が終わってから会うようになった。待ち合わせ場所は、笠島ビル近くにある和食料理店。
食事を楽しんだあとはお酒を飲みに行く。そうして、司と肌を重ねるようになるまでに時間はかからなかった。
初めてを捧げた相手。初めて恋をした人。だけど、初めての交際の申し込みだけはなかった。そのことについてあまりに気にしなかったのだが、一年ほど過ぎた春も間近いある日。
社長の秘書から呼び出しがあり、社長と面会することになった。そのときの嫌な予感はいまでも鮮明に覚えている。なにかがだめになる気配がしたのだ。
社長室の扉を叩いて、息苦しくなるくらいの重たい空気の中、私はこう言われた。
「君の将来を考えて、海外出向をお勧めしたいのだが」と。
実力を認められたなんて到底思えない。そのとき、私は入社二年。なんの成果も出していないのに、海外出向なんてどう考えてもおかしい。
断ればこの会社での未来はないだろう。これは、婉曲した解雇通告だ。
「笹崎くんとのことは目を瞑ってきたが、そろそろ潮時だと察してくれ」
司はやはり私との関係を遊びにしたかったのだろうか。だから、交際の申し込みはされなかった……?
それに、これは司への縁談を示唆している。
社長には一人娘がいて、司は社長のお気に入り。弁護士という肩書きも魅力的だろうし、なにもないほうがおかしいのだ。
嫌な予感は亀裂を生む。曖昧な関係は脆く崩れてしまう。私が我を通してもいいことなんてなにもないだろう。その日は考えたいと社長室を出たが、後日、海外出向を受け入れる旨を返事した。司に関係を終わらせたいと伝えたのはその少しあとだ。彼は冷たいくらい素っ気なく「わかった」と頷いただけ。
詰め寄られることもなく、その程度の関係だったのかと安堵したけれど、未練は残った。私は司を忘れられないだろう。
そうして五年。海外事業部で必死に働き、この冬にようやく帰還命令が下った。司のことは、ようやく思い出すことに痛みを覚えなくなっていたけれど、いまになって彼のほうから連絡をしてくるとは思わなかった。
彼らしい、文字だけの文面。
会いたいと思ってしまう。会ってしまったら、二度と彼を忘れられなくなる。
それでも、会いたい……。
まだ彼が好きでどうしようもないと、恋情が慟哭していた。
(――つづく)
◆嫉妬 § 柴田花蓮
「友梨佳? ねえ、あんた本当に大丈夫? 全然話、聞いてなかったでしょ」
「え? あ、ご、ごめん……何の話だったっけ……」
「もう! ほら、来月の旅行の話よ。とりあえず、話は別日にしようか……もう、今日は家に帰って寝たら? 大方、夜更かしでもして寝不足なんでしょ!」
「ああ、うん、そう……ごめん、今日は先に帰る」
「じゃあね。続きは明日にでも」
「うん」
迷惑をかけた親友に手を振り、今井友梨佳はカフェから自宅までの道のりを急ぎつつ――途中、ある場所に立ち寄る。そして自宅に戻り真っ先に飛び込んだのは寝室、ではなくトイレだった。
昨日は別に夜更かしなどしていない。でも、ここしばらく体調が悪いのは確かだった。風邪に似たような身体のけだるさ。かといって咳などの諸症状が出ているわけでもない。それに加えて、ここのところ月経も遅れている。なので最初はその影響で体調がおかしいのかと思っていた。でも、一回ならまだしも、二回も遅れるのは少し異常だと感じていた。それまで順調に月一回来ていたのに、こんなこと初めてだったからだ。
月経が遅れていて、微熱。身体もだるい――まさか?
身体の不調の原因を考えた時、真っ先に思い当たったのが「妊娠」だった。
でも、まさか。だって心当たりは――まだ確定したわけでもないが色々と考えてしまい、先ほどは親友の橋田里香に迷惑をかける程ぼーっとしてしまった友梨佳だったが、
「……陽性」
帰る前にドラッグストアで購入した妊娠検査薬の結果は陽性。そして、友梨佳にはこうなるに至る心当たりがあった。
友梨佳は念のために検査薬の結果部分をスマホで撮影した後、自室へ引きこもりベッドの上に寝ころびながら「心当たり」の出来事をゆっくりと思い返すのだった。
*
友梨佳は現在大学四年。卒業と就職も決まり、都内で一人暮らしをしながら、残りの大学生活を満喫している真っ最中だ。
特に親友の橋田里香とはゼミが同じで、一緒にいる機会は多い。とはいえ、昨年里香に彼氏が出来てからは、二人というより三人でいる機会が多いので、友梨佳はどことなく気を遣ってはいるのだが。
「友梨佳は彼氏作らないの? 勿体ないなあ、可愛いのに。せっかくの大学生活、勉強ばかりじゃつまんないよ?」
「俺、紹介してあげようか? あ、じゃあ今度飲み会しようよ」
そんな友梨佳に、里香も、その彼氏の安達雄二も、頻繁に飲み会に誘ってくる。友梨佳に彼氏が出来れば二対二でお互い余計な気を遣うこともないと、二人も考えているのかもしれない。
「ありがとう。でも、違う機会に」
そんな誘いを、友梨佳は色んな口実で断り続けていた。
愛らしい顔立ちに、比較的グラマラスな体型。派手なメイクや服装をしなくても、素直で穏やかな性格も手伝って、そういったものは溢れんばかりの魅力として友梨佳を彩っている。それゆえ、いきなり学内で知らない男性に声をかけられることもあり困ることもあるが、そういうときは大抵、一緒にいる里香が追い払ってくれる。飲み会も、頻繁に誘いは受けるものの、明らかに出会いを目的とした飲み会は苦手だし、そもそも飲み会自体が苦手だった。だから、基本的に友梨佳は飲み会には参加しないようにしているのだが、友梨佳がそういった飲み会に参加しないのには、そういうのとは別の理由もあった。それは――
「……飲み会? 行ってきたらいいんじゃないか?」
「出会い目的の飲み会に? ふーん……先生、そんなこと言うの。心配じゃないんだ?」
「俺は友梨佳を信じているからね。それに友梨佳が嫌なら行かなければいい。だろ?」
授業が全て終了する頃には日も完全に落ちている。職員もほとんど帰る中、唯一灯かりのついている研究室の中で、友梨佳はある男性と話をしていた。勿論、ただ話しているだけではない。会話を交わす友梨佳は彼の膝の上に座っている。そして彼はそんな友梨佳を膝に抱いたまま、パソコンの操作をしたり書物を読んで書類に文字を記入したりしている。
男性の名は、泉 拓哉。友梨佳が「先生」と呼んでいた通り、彼は友梨佳の通う大学で、二十九という若さにして教授をしている、本物の「先生」だった。そして友梨佳の「彼氏」でもある。
拓哉は、在学中にとある研究成果が海外の専門誌にも取り上げられ、その後海外の研究所で働きながら企業との共同研究も行ってきた実績を認められ、今年から教授として大学で働き始めたのだ。すらりと背も高く、甘いマスクに涼し気な雰囲気はいわゆる「肉食系」ではなく「草食系男子」を思わせるらしく、学科の女学生からは「マスコット」的存在としてみられているらしい。
そんな拓哉は理系学部の教授であり、友梨佳は文学部なので文系。当然同じ系列ではないので、二人が授業で知り合うということはない。実際、友梨佳と拓哉が知り合ったのでは授業ではなく、「図書館」だった。図書館を利用していた時、偶然そこに調べ物をしていた拓哉もやってきていて、前をよく見ていなかった拓哉が友梨佳にぶつかって――と、まるで少女漫画のようなきっかけで出会った二人だったものの、お互い何か感じるものがあったというか、一目ぼれ同士だったというか。それ以降、図書館で顔を合わすことが多くなり、やがて二人でゆっくり話すために友梨佳が教授室に行くようになり――現在に至る。
とはいえこのご時世も鑑みて、大学教授と学生の恋愛はおおっぴらには出来ない。なので、平日はこうして、授業がすべて終わって人がほとんどいない時間に、教授室でこっそりと過ごすようにしている。
そんな拓哉は友梨佳のことを大切に考えてくれているようで、友梨佳がせっかくの大学生活を謳歌できるようにと、キス以上のことはしないと決めているらしい。友梨佳にしてみれば、彼氏の存在を皆に、特に親友の里香にも話せない分、拓哉と「繋がり」を持ちたいと思うものの、そこは年上で考え方も大人な拓哉にいつもあしらわれてしまう。
同世代の男の子に比べたら何もかも大人である拓哉に、少しでも嫉妬させたい、焦らせたいと思ってこうして飲み会の話を振ってみるも、拓哉はそれくらいでは動じないらしい。まあ、友梨佳が飲み会自体苦手ということを拓哉が知っているので、友梨佳が簡単にそんな飲み会に行かないことを分かっているのかもしれないけれど。
「先生、先生って嫉妬することあるの?」
「あるよ」
「……私、そんなに魅力ないかなあ。先生、私に関することで全然、嫉妬しないんだもの」
「それは友梨佳が、俺が嫉妬するようなことをしないからだろう? 友梨佳は良い子だから」
拓哉はそう言って、頬を膨らませる友梨佳に軽い口づけをする。友梨佳は不服に思うものの、こうやって二人きりで過ごせる時間に満足していた。
「ねえ先生、先生も私に嫉妬させるようなこと、しちゃだめだよ?」
「ああ。俺は心配ない」
「ふふ、約束よ」
友梨佳は嬉しそうにそう言うと、拓哉にお返しのキスをして膝の上から降りた。そして、拓哉の仕事が終わるまで室内の応接セットに座っておとなしく待つのだった。
(――つづく)
◆エリート課長に秘めた恋 § まつやちかこ
休み明けは、だいたいにおいて憂鬱なものだ。
特に、今週の私にとっては、憂鬱の度合いが格別だった。そして気まずさも。
「────、おはよう」
「…………お、はようございます」
めったにないことが、起こってほしくない時に限って起こるのはなぜだろう。そんなことを今考えても仕方ないけど、考えたくなるぐらいに、このタイミングは勘弁してほしかった。
逃げようのない朝のエレベーターで、一緒になるなんて。しかも隣同士に。
「………………」
新宮《にいみや》課長は、どう思っているのだろう。今、顔を見る勇気はとてもないけれど、さっきの表情からすると、多少のぎこちなさはあっても基本的には平然としているようだった。
考えているうちにエレベーターは、営業課のある六階に着き、課長は降りてゆく。振り返ることなく。
……やっぱり、あの夜のことは、酔った勢いだったんだ。
わかってはいたけど。
私だって、そうだったけど。
事の始まりは、先週金曜日に催された飲み会。
営業一課が大きな取引案件を成立させて、祝勝会をすることになった。そこに、私が所属する経理課が、いつも世話になっているからと招かれたのだ。
「では、頑張った一課の我々と、支えてくれた経理の皆さんに、乾杯!」
「カンパーイ!」
私が短大を出てすぐ入社した商事会社は、そんなに大きくはないけど、二つの課が集まれば三十人近くにはなる。
居酒屋ではなく、日本料理店の個室を借り切っての宴会というのは、私にとって初めての経験で、少し緊張していた。経理だけの飲み会と違ってやたらはしゃいだ雰囲気もあり、たぶん皆うわついていた。営業の人たちによる出し物まであって、大学サークルの忘年会みたいだとも思った。十二月に入ったから、実際、少し早い忘年会を兼ねていたのかもしれない。
そして、出し物が終わってひと息ついた頃。
ふと気がつくと、周りに座っていた人はいつの間にか別の席に移動していて、隣には思いもよらない人が座っていた。
営業一課の課長である、新宮さん。
そうだと気づいて、心臓の鼓動がちょっと速くなった。いろいろと噂の聞こえてくる人だから。
東京の有名大学を卒業、入社当時からエリート社員の呼び声高く、二十七歳の若さで係長、二年前には三十二歳で課長になった。仕事ができるだけではなく、百八十センチを超えているだろう長身と、誰もが認めるイケメン顔の持ち主。
そんなふうなら妬まれるのが普通だと思うけど、表立って反発したりする人は、不思議といないらしい。つまりは信頼が厚いのだ。
まさに完璧で、当然ながら女子社員の憧れの的でもある。
天は二物も三物も、与える人には与えるらしい。
与えられていない物があるとすれば、目下、特定の彼女だろうか。少なくとも噂では、そういう相手がいるという話は聞かない。聞こえてくるのは、社内で有名な美人をあっさり袖にしたとか、若手の八割からバレンタインにチョコをもらったとか。私みたいな地味女子から見れば、派手な話ばかりだ。
私は、地方の短大卒で、試験を受けた中でどうにか受かった今の会社にそのまま入社した。総務に四年所属して、今年の四月に経理へ異動。総合職でなく一般職入社だから、任される仕事は、ほとんどが基本的な書類仕事や手続きの処理。つまりはごくごく普通の女子社員だ。
そんな私が、将来有望なエリートである課長の横に座っている。顔を合わせたことがないわけではないものの、まったく緊張せずにいるというのは難しかった。
だがとりあえずは。
「課長、お注ぎしましょうか?」
持っているグラスが空になったのを見計らって、すかさず声をかける。
「ああ、ありがとう竹本《たけもと》さん」
傾けられたグラスにビールを注ぎながら、こぼさないようにこぼさないように、と心の中で呪文のように繰り返した。私はこういうことがあまり上手ではなく、自分の分を注ぐ時にもしょっちゅう、飲み物をあふれさせてしまう。幸いに、今回はうまくいった。
テーブルに置こうとしたビール瓶を、ひょいと奪われる。
「飲むか?」
「──あ、いただきます」
少し間を置いてしまったのは、あまりアルコールに強くないから。今日はすでに、場の雰囲気もあって、グラス四杯ぐらいは飲んでいる。五杯目はちょっと不安だったが、課長にすすめられては断りにくい。
いっぱいになったグラスに口をつける。と同時に。
「無理して飲むなよ。嫌なら残しとけ」
思わず隣を見上げた。まともに目が合ってしまい、慌てて顔をそらす。
総務や経理で仕事をしていると、書類や手続きなどの受付で、必然的にいろんな社員と顔を合わせる。人の入れ替わりや出張が多い営業各課はその機会が一番多くて、だいたいは一般社員が自ら来るものだけど、新宮課長は自分の分だけでなく、決裁した他の社員の分まで持ってくる時がよくある。
だから、受付窓口として対応することの多い女子社員は、週に一・二度はこの人を見かけていると思う。もちろん、私が応対する時もある。けどあくまでも業務上だから、そんなにいろいろと話をするわけではない。
そして、今夜はともかく、普段から合同の飲み会や行事があるわけでもない。つまりは顔見知り程度としか言えないはずなのだけど。
「酒、弱いんじゃないのか。俺の前で無理する必要ない」
なぜ、そんなことを知っているのか。
「……どうして、ご存じなんですか」
「今もだけど、注がれる時いつも、困ったみたいな顔してるから。飲めないなら断ったらいいんだぞ」
また思わず、課長の顔を見てしまう。なぜだか真面目に、じっと見返されることが面映ゆくて、再び目をそらす。
──間近で見ると、やっぱりかっこいいな。そんなことをつい考える。
私も女子の端くれだから、イケメンを見るとそれなりに嬉しいし気持ちも浮き立つ。でもそれは芸能人を見てときめくようなもので、相手とどうにかなりたいとか望んだりはしない。彼らは、私とは別世界の人なのだから。
「……なかなか、そうはできませんよ。課長は違うかもしれませんけど」
ああ、だめだ。こんなひがみっぽい言い方は。
「ふ、雰囲気とかありますし、全く飲めないならともかく、やっぱり失礼でしょう」
言い足すと、課長が苦笑いをしたような気配を感じた。
「竹本さんらしいな、その真面目な言い方」
「すみません──面白味、ないですよね」
まただ。今日の私はどうしたのだろう。普段は抑えている気持ちが、課長の隣にいるとどうしてか、口をついて出てきてしまう……そうして、昔のことが思い出されてしまう。
大学時代に付き合った、唯一の彼氏とのことが。
『和奏《わかな》ってさ、いい子だけど、真面目すぎて面白くないんだよな』
別れる前にはよく、そう言われていた。新宮課長ほどじゃないけど背が高くてイケメンで、女の子とは付き合い慣れている雰囲気を醸し出している人気者だった。そんな人がどうして私に交際を申し込んできたのか、今でも不思議だ。付き合ったことのないタイプだからと、好奇心を持たれただけかもしれなかった。
けれど交際経験のなかった私は、付き合ってと言われただけで頭に血がのぼってしまった。毎日が嬉しくて楽しくて、有頂天になっていた──たった二週間でバージンを捧げることにも、抵抗を感じないほど。
今考えれば、浮かれていた自分がバカみたいだけど。
「身の程を知る」ということをよくよく学べたのだから、あの経験は必要な物だったのだと思っている。別れを告げられた時のつらささえも、授業料を払ったようなもの。
だから私は、自分のことをよくわかっている。真面目だけが取り柄の、何の面白味もない女──
「そうか?」
はっと我に返った。課長が何に対してそう言ったのかすぐにはわからないほど、思いが沈み込んでいた。
「え、何ですか?」
「面白味がないなんて、思わないけどな。俺は、竹本さんのそういう、真面目なとこ、……可愛いと思うけど」
三たび、驚いて振り返る。課長はこちらを見ずに、私が注いだビールをゆっくりと飲み下していた。
──元彼と別れて以降、男の人は私にとっては縁遠い存在だと考えていた。課長のような目立つ人は特に。
そんな相手から、さっきのようなことを言われたら、落ち着けと戒めても勝手に心は騒ぐ。可愛い? 私が?
いや、一介の経理課員である私のことなど、課長のような人が特別に気に留めるはずもない。だからさっきの言葉は、ただの社交辞令に違いない。妙なことを考えてはだめだ。
──けれど。
思い返せば、総務の頃も、こんなことがあった。
(――つづく)
◆結婚願望の無いお局OL、後輩男子に篭絡される § 更紗
「本当に、貴女は無防備過ぎる」
細く鋭く目を眇めた端正な顔を前に、古川藍子《ふるかわらんこ》は狼狽していた。
押しつけられた背に当たる壁がひやりと冷たい。緊張で汗ばんだ身体の熱が吸い取られていくようだ。
だというのに体温はじわじわと上昇していた。酒など一滴も飲んでいないのに、頬が炙られたように火照っている。
鼻先に突きつけられた眉目秀麗な顔立ちを凝視しながら、藍子は目まぐるしく思考を巡らせていた。
一体何がどうなってこんな事態になったのか、と。
彼女は大いに混乱していた。
横目でそっと右を見やれば、壁に置かれた紺色のスーツの腕が檻となって自分を捕えている。左側にはつい先程入ってきたばかりのモダンなデザインの扉があるが、生憎両手を頭上で拘束されているせいで扉に手を伸ばすことも出来なければ、眼前で不敵に微笑む常とは違った後輩から逃げることもかなわない。
とどのつまり、彼女は壁際に追い詰められていた。
酔って潰れていた筈の後輩社員、嶺重一哉《みねしげかずや》によって。
「ちょ、あの、嶺重く―――」
「結婚願望は無くても、子供は欲しい。……そう言いましたよね、藍子さん?」
長めの前髪から理知的な瞳がちらと姿を現し薄く弧を描いた。後輩の名を呼ぼうとした藍子の声は遮られ、代わりに酒の席で口にした自らの台詞を聞かされる。
そのしっかりとした口調に驚き藍子はぽかんと口を開けた。
今し方、たった五分前まで呂律が回っていなかった彼はどこに消えたのかと瞠目する。混乱を忘れてまじまじ顔を観察すれば、光る鬼灯《ほおずき》に似た部屋の照明に彩られた彼の虹彩が、確かな意思を持ってじっと藍子を捉えていた。
嶺重の意識はどこからどう見ても明瞭に見えた。
生え際の中心できっちり分けられた黒く艶やかな前髪の元、晒された綺麗な額はやや汗ばんではいるものの、その下にある整った眉も切れ長の双眸にも酔いの気配は感じられない。
強い酒の匂いを身に纏っているのに、彼はまるで何事も無かったかのように平然としている。
飲み会の最中に時折彼を見ていたが確か相当な量を飲まされていた筈だ。
てっきり酔い潰れているのだと思い込んでいた。彼もそういう素振りを見せていた。つい先程までは。
だから手近にあったホテルに彼を放り込み、自分はさっさと退散するつもりだったのだ。終電を逃した深夜ともなればそうするしか術はなかった。
なのに今の彼はどうだ。
普段のデキる後輩らしさは少しも損なわれていない。それどころか酒の席で自分が言った他愛ない言葉を一言一句違えずに覚えている。
そのうえホテルの扉を開けた途端豹変し、肩を貸していた自分を壁に押し付けこうして拘束までしてみせたのだ。
どういうつもりなのか、そしてなぜその話を蒸し返すのかと視線で問うと、再び「言いましたよね?」と念を押すように確認された。吐息が頬にかかるほど整った顔を寄せられて、焦った藍子は渋々頷いた。
「い、言ったけど……」
「なら、俺にしませんか」
「は?」
藍子の両手首を絡め取り壁に押しつけている後輩、嶺重がそう囁きながらにっこりと満面の笑みを浮かべた。思わず間抜けな声を出し聞き返すと、きらきらしい眩《まばゆ》い笑顔が深みを増す。
「藍子さんを孕ませる相手として、俺を選びませんかと言っているんですよ」
いや待て。お前は何を言っているんだ、と言いたくても口に出来ないのは後輩の視線が普段と全く違う種類のものだったからだ。
誘うような視線は酷く蠱惑的で、藍子の肌をぶわりと粟立たせた。慌てて拘束から逃れようと身を捩るも、その拍子に開いた脚の隙間に膝をねじ込まれて動けない。
「っ……」
「逃げないでください」
本気なのか、と信じられない心地の彼女を艶めいた声が押し留める。
藍子さん、と自分を呼ぶ声音は普段とは全く違う。いつもの彼ならこんな風に色を含んだ呼び方はしない。
よく懐いた可愛らしい犬のように親しみを込めた目で見られた事はあっても、こんな獲物を前にした飢えた狼のような視線を向けられた事は無かった。
これは誰だ? と藍子は内心自問自答した。
つい先程まで、藍子は会社の飲み会という社交の場にいた。
短大を卒業し、二十歳で社会人となり早九年。最初は参加する度に胃が潰れそうな思いをした催しも、立派なお局社員となった今では幹事を務めるまでに成長した。今日もそうだった。
幹事という役柄は中々に責任が重い。全員から参加費を集めたり、酔いつぶれた者達の介抱や送迎など雑事の全てがのし掛かる。
しかし大変なだけあって多少の役得もあった。
経理という藍子の業務上、他部署の人間に顔を覚えてもらうことで無茶な領収書が回って来なくなったり、費用と収益のバランスが崩れた部門に改善提案を促す際にも耳を傾けてもらいやすくなった。
いわば自分の仕事がしやすくなるという相乗効果があったのだ。
それに藍子はめっぽう酒に弱く、舐める程度の量でも頭がくらくらとしてしまうため、飲み会では基本食べる方に回っていた。だから介抱役としても都合が良かった。
送迎を引き受ければ無理に飲めない酒を勧められる事も無く気分も楽だった。新人の頃は上司に勧められた酒を断り切れず、トイレで嘔吐した苦い記憶もある。今ではパワハラ扱いになるのだろうが、当時は当たり前の事とされていた。
つまり幹事という役割は大変ではあるものの藍子にとっては業務を円滑に回すための一つの手段になっていたのだ。
それなのに、なぜ今自分は年下の後輩に迫られるなどという状況に陥っているのだろうか。
藍子はわけがわからなかった。
確かに先程彼が口にした言葉を自分は言った。言ったが、それは酒の席での戯言だ。
半分本気で半分冗談。よくある他愛ないお喋りだ。それなのに、なぜか後輩はその言葉に食いついている。
その時の会話に彼は混ざっていなかった筈なのに、どうしてこうもはっきり聞かれていたのだろうか。
「あの……嶺重くん?」
「なんですか藍子さん」
名を呼べば、いつもと同じように爽やかな笑顔で呼び返される。
自分の事を名字で呼ばないのは彼だけだ。指導を始めた頃は注意していたものの、あまりにも頑なに変えてくれないので今では諦めた。社外では使い分けてくれたし、藍子自身それほど嫌だとは思わなかったから許して、今では定着していた。
「酔ってる……のよね?」
なんとなく答えを予想しながらも藍子は問うた。
「いいえ。すみません、本当は俺、うわばみなんです」
「っえ? そ、そうなのっ?」
「はい」
つい先程まで泥酔して足下も覚束なかった筈の男にそう告げられ、藍子は目を瞠る。
ならばホテルに入るまでの彼の姿は偽りか。
ぐったりと自分の肩にもたれ掛かっていたのも、笑い上戸のようにくすくすと楽し気に、嬉しそうに笑っていたのも、すべて。
彼が入社してから六年間、ずっと酒には弱いのだと思っていた。なのに今更認識を改められた。これまで飲み会の度に彼の介抱をしていた自分は何だったのかと眉を顰める。
すると一向に自分を解放する様子の無い後輩は、余裕ありげな表情を崩しばつの悪そうな顔をした。
「貴女に構って欲しくて、ずっと弱い振りをしていたんです」
「うそ……」
「本当ですよ」
「ど……んっ!?」
どうしてそんな嘘を、と続ける前に唇を塞がれ藍子は言葉を飲み込まされた。
混乱が許容量を越えてぎょっとしたまま目を大きく開く。焦点も合わないほど間近に迫った黒い瞳が、陶然と自分を見つめていた。
もう長いこと共に仕事をしてきたというのに、彼の目はこんなにも濃い色をしていたのかと気付かされる。
口付けは深い酒の香りと味がして、藍子の脳髄をくらくらと酩酊させた。
「ふ、ぁ、っ、んんっ」
「はは、本当、可愛い……」
咄嗟に顔を背けようとしたが、壁に着いていた手で素早く頬を掴まれ阻まれる。押し付けられた唇は驚くほど熱く、やはり酔っているのでは、酒の勢いでこんな事をしているのではと藍子に思わせた。
けれどその考えを払拭するような動きが彼女の思考を塗り替える。
かぷり、と下唇を食まれて柔く甘噛みされた拍子に唇を開けば、隙を突いたようにぬるりと舌が滑り込んだ。
酒の名残をのせた熱い舌がちろちろと先端で舌の横側を擽る。次に歯列、上顎といった具合に下から上へと順繰りに内側を舐り、しまいにはどちらのものともつかない唾液をずるりと音を立てて啜り上げた。大きく響いた水音が藍子の鼓膜を痺れさせ、腰元からぞわぞわした得も言えぬ感覚を立ち上らせていく。
彼の口内に残っていた酒が唾液を通じて自分に染み込んでいく気がした。元々酒が弱いせいもあり幹事を引き受けていた藍子にとって、微量の酒気でも十分過ぎるほど酔いが回り始めていた。
「待っ……!」
息継ぎの隙間に声を上げようとしたが、許さないと告げるように更に深い口付けを重ねられた。仕方なく重なった唇の下方に歯を軽く突き立てると、漸く唇が解放される。
緊張と羞恥と、唇に与えられた熱とで浅く息を繰り返しながら、藍子は上目遣いに策士を見上げた。綺麗で、かつ凜々しいと評判の容貌を持つ後輩は薄い唇を唾液で湿らせたまま仄かな笑みを浮かべていた。
「なん、で、こんな事っ……」
少しだけ離れた端正な顔をきっと睨み付ける。
酔った振りをして介抱までさせて、ホテルに連れ込んで無体を働こうとするとは。そんな人間だとは思わなかった、後輩として信頼していたのにと非難を込めて見つめた。
すると切れ長の両眼がぐっと顰められ、端麗な顔立ちが急激に苦しげに歪んだ。引き結ばれた唇を噛んだ後輩は、その顔を見られたくないのか藍子の首筋に鼻先を埋める。
「こうでもしなければ……貴女は、俺を選んではくれないでしょう……?」
かろうじて耳で拾えた途切れがちの声を聞いた時、藍子は状況も忘れて彼が泣いているのではないかと思った。
え、と短い驚きの声が唇から漏れる。
気付けば頭上に縫い止められていた両腕は解かれ、代わりに縋り付くような腕に強く抱き締められていた。
「藍子、さん……!」
「んっ」
苦しい程の抱擁に、藍子は胸が圧迫されて軽く喘いだ。広い肩幅と厚い胸板に、普段は後輩としか見ていなかった彼の男性らしさをありありと思い知らされる。
互いのスーツの生地が軋んだ音を立てた。
仕事上がりの汗と、酒と、ホテルの芳香剤が複雑に混じり合った匂いがする。
「みねしげ、くん」
「嫌なら、突き飛ばして逃げてください。受け入れられないなら拒否して。だけどそうじゃないなら……俺に、抱かれてくれませんか」
切羽詰まった声で懇願されて、藍子は咄嗟に逡巡した。
今年二十九歳になった藍子にとって、初めて出来た後輩が三年遅れで入社してきた彼だった。
藍子の会社では新入社員は例外なく最初に経理部での研修を受ける。経理とは企業にとって金の勘定場だ。後々どこの部署へ割り振られるとしても、経費の計上の仕方を社員は最初に叩き込まれる。
嶺重もそうやって藍子の指導を受けた一人だった。
四大卒の二十二歳で入社した嶺重とはかれこれ六年の付き合いになる。一歳下の彼は今年二十八になった。
学歴は自分よりも上なのに、それを鼻にかけない嶺重の事を藍子は気に入っていた。
きっちりと真ん中で分けられた黒く艶のある前髪も、短く整えられた後頭も、切れ長なのに清涼な爽やかさを感じる双眸も、硬派でやや古風な実直さも。すべてが彼女にとって好ましかった。
だから彼が営業部へ正式配属となった後も十分後輩として可愛がってきたし、彼もたった一歳違いの自分を先輩として素直に慕ってくれた。
会社帰りに居酒屋へ行った回数は数知れず、彼が初めて契約を取ってきた日には藍子は自分の事のように喜びケーキを買ってお祝いをした。嶺重と自分には普通の先輩後輩よりもずっと強い絆があると自負していた程だ。
そうでなければ、まがりなりにも異性をホテルまでのうのうと送ってきたりはしない。他の奴らならタクシーに投げ込んで終わりだ。けれどそうしなかったのは、それだけ自分も彼に心を砕いてきたからだ。
たとえそこに、男女の恋愛感情が含まれていなかったとしても。否、含まれていなかったのだと、今の今まで思っていた。
「……無言は許可と取りますよ」
「っ」
ふ、と口元だけで笑んだような吐息が聞こえ、藍子はびくりと肩を震わせた。
「俺が貴女の眼中に無かった事くらい、わかっているんです。だけど貴女は優しいから、捨て身で迫られたら、断れないでしょう?」
するり、と腰から背筋を撫でられ、その色気を含んだ手付きに藍子の肩が反射で跳ねた。嶺重の美麗な顔が近付いて、彼の口元がうっそりと笑んでいることに気が付く。
自分が間違っていた事を理解した時にはもう、遅かった。
腰にあった腕が離れたと同時に脇下に腕を差し込まれ身体がふわりと持ち上がる。
「わ、ちょ、何っ?」
「流石にここじゃ痛いと思うので」
視界が反転したと思ったらいとも簡単に身体を横抱きにされていた。つまりお姫様抱っこというやつだ。
嶺重はすたすたと軽い足取りでベッドまで藍子を運んでいく。そしてそっと仰向けに彼女を降ろすと、そのまま手早くスーツの上着を脱ぎ捨てた。シャツ姿になった嶺重が、藍子の細い身体の上に覆いかぶさる。
藍子の視界が、嶺重の端正な顔と天井の二つだけになった。
「貴女は俺の事、ただの後輩としか思っていなかったでしょう? 残念ですが違いますよ。俺はずっと貴女だけを見てきた。藍子さんだけを」
嶺重は獲物を見る目で自分を見下ろしながら自らの襟元を緩めた。紺に臙脂の線が走るネクタイがしゅるりと引き抜かれていく。空いたもう片方の手は、藍子の片手を掴み繋ぎ止めるように指を絡めていた。
呆然としていた藍子は今から起ころうとしている事態に気付いてはっとした。
「その、ちょっと、待っ……!」
「待ちません。温い関係なんてもういらない。あんな言葉を聞かされて、今までのように過ごすなんて無理だ。結婚願望は無いと言うから手を出さずに我慢していたんです。一度でも触れたら、丸ごと欲しくなってしまうから。なのに子供は欲しいだなんて、貴女が他の男に抱かれるかもしれないなんて言われて、耐えられるわけがない」
藍子の制止の言葉が堰を切ったように溢れ出した嶺重の独白にかき消される。
「……ねえ藍子さん、子供が欲しいなら俺の子を産んでください。その代わり、俺の奥さんになってください」
くっと口端を吊り上げ後輩が微笑む。その顔はこれまで見た爽やかさなど微塵も残していない、初めて目にするものだった。
こんな男は知らない、と藍子の脳内が混乱する。明朗で爽やかで、先輩思いなあの後輩はどこに消えたのかと、藍子は混乱が極まる頭の隅で考えていた。
(――それぞれのつづきは本編で!)