「……茉莉の全部を、俺に頂戴?」
あらすじ
「……茉莉の全部を、俺に頂戴?」
前職でのトラウマから、業務上必要最低限のことしか話さなくなった茉莉。彼女は周りから「空気ちゃん」と呼ばれ、孤立していた。そんな時、匿名で人間関係の相談を受け付けるチャット「相談ポスト」が社内で導入される。自分を変えようと決意した茉莉が、自身の悩みを打ち明けた相手はなんと、勤め先の社長、浩平だった。浩平からの言葉に背中を押され、救われる茉莉。彼女の中で次第に彼の存在が大きくなっていき……?
作品情報
作:清水苺
絵:稲垣のん
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1.空気な私と相談ポスト
キングサイズのベッドの上で、浩平《こうへい》は茉莉《まり》の身体を強く抱きしめたまま、その両手指を熱く絡ませる。彼の額には薄っすらと汗が滲んでいて、茉莉の隘路から溢れ出す愛液が、くちゅくちゅと淫らな音を立てて浩平と混じり合った。
「ずっと、俺の傍にいて」
彼は腰を上下に激しく動かしながら、茉莉の耳元で吐息を漏らし、囁く。
「茉莉の全部を、俺に頂戴?」
「んっ。ああ!」
子宮の入り口をトンと突かれて、茉莉は甘い嬌声を上げた。
浩平と交わるその度に、茉莉の心は蕩けるように幸福に満たされていく。
(私はずっと、空気だった。浩平さんに見つけてもらう、その時までは────)
これからも永遠に、彼と時間を共に過ごしたい。
浩平を愛し、愛され、笑い、喜び、支え合って生きていく。
それだけで、茉莉は十分に幸せだった。
彼と求め合うこの一瞬一瞬が、ひたすらに愛おしい。
茉莉は浩平の肩に手を回して、その熱に身を浸すように、そっと微笑みを浮かべた。
■ ■ ■
────遡ること、二カ月前。
小林《こばやし》茉莉は、サクラミュージックホール株式会社の企画事業室に勤務していた。
主な仕事は音楽ホールを使用するコンサートの進行及び運営だ。ホールの準備は肉体労働も多く、コンサート終了後の清掃は大変なことも多いが、中途採用活動で苦労した茉莉にとって、ここは大切な場所だった。
茉莉は新卒採用で入社した会社で、酷いイジメを受けた。
きっかけは、先輩に要らぬことを言ってしまったせいだ。
毎日のように愚痴を言って、一向に仕事をしない先輩に「お願いですから、仕事してくれませんか?」と、多忙が重なりつい本音が口から漏れてしまった。
そのせいで先輩から嫌われてしまい、毎日のように陰口を言われ、他の先輩方とも意思疎通が難しくなり辛い思いをした。
こんなに嫌な思いをしてまで仕事をする意味があるのだろうか、と考えるうちに、自然と『転職』という二文字が、自分の中で現実的なものに感じられた。
けれど、現実はそう上手くはいかない。条件の良い会社は書類で弾かれるし、快く受け入れてくれる会社はネット上で評判が芳しくない。いろいろと活動をするうちに、このサクラミュージックホール株式会社が、就業時間や福利厚生などの面で、労働条件が良好だと思い入社を決意した。
(次は、誰にも何も言わない。下手なことを言って、嫌われたくない。就業時間中は、仕事をするだけ。終わったらすぐに帰る。私はここに、友達を作りに来てるんじゃなくて、お金を貰いに来ているの)
入社して半年が経つものの、社内に友人と呼べる人はいない。
業務を遂行する上で必要最低限の会話はするが、それだけだ。
コミュニケーションを大切にするこの会社で、自分が白い目で見られていることは自覚している。
それでも、同じ轍を踏みたくない。いや、踏むのが怖いのだ。
(私が口にする言葉は、誰かを傷つけることもあるんだから)
「おはようございます」
いつも通りに出社した朝、一直線にオフィスの自席に向かうと、その席には既に先輩が座っていた。
「でさ、麻衣《まい》ちゃんが怒りだしちゃって~! 二時間制だったのに、一時間で合コン終了したの!」
「どんだけ不作だったの?」
「いやもう、ヤバかったんだって!」
茉莉の隣の席に座る先輩、井上《いのうえ》ゆかりと、本来は茉莉の席である場所に座る矢口《やぐち》唯《ゆい》。
二人はとても仲良しで、就業中も隙あらば世間話をしている。
そして、二人とも茉莉を良く思っていないことも、理解していた。
「すみません。座りたいのですが……」
なるべく柔らかな口調でお願いすると、唯はこちらを見て笑った。
「あ、いたの? ごめんごめん!」
そう言って、彼女はすぐに席を立ってくれる。
「ありがとうございます」
頭を下げてから着席すると、ゆかりも一緒に席を立って、唯に小声で耳打ちした。
「ほんと、存在感ないよね」
「挨拶も聞こえなかったし」
「それな」
その陰口が、自分に向けられているものだと、分かっている。
それでも、茉莉は塞いだ口を開く勇気が、未だに持てずにいた。
■ ■ ■
お昼休憩を終えてオフィスに戻り、十三時を迎えるのを待つ。
しかし、十三時のチャイムが鳴り響いても、オフィスには誰も着席していなかった。
(あれ。みんないない? どこに行ったんだろう?)
基本的に、ホールの準備は事前にメールで連絡があるはずだ。
しかし、何度メールを見直しても、茉莉の受信フォルダには十三時から設営の準備があるという通知は届いていない。
でも、この状況は異常だ。おそらく、みんなは何かの仕事で席を外しているに違いない。
茉莉はポータルサイトで、他の人のスケジュールを確認する。
すると、十三時からAホールにて、十五時開催のチェロによる演奏会の設営予定を入れている同僚を確認した。
「嘘っ」
急いで席を立って、茉莉はAホールに向かって走りだす。
(どうして? 設営準備は事前にメールで連絡があるはず。どうして私には届いてないの? 宛先から漏れた? そんなはずない。メーリングリストを使えばミスは起こらないはず。誰かが意図的に漏らした? そんなことして、何の得が……)
「人数足らなくない? 空気ちゃんどこ?」
Aホールに到着したその時、ゆかりの声が聞こえる。
「サボりじゃない?」
「誰か声掛けしたの~?」
「矢口さん、した?」
「なんで私に振るの!」
誰も、茉莉が到着したことに気づいていないらしい。
息を切らしながら、茉莉は謝罪を口にした。
「すみません。遅れました」
今はただ、頭を下げることしかできない。
すると、ゆかりがこちらに向かってカツカツと歩いてくる。
怒られる──そう身構えたら、ゆかりは蔑むようにこちらを見て言った。
「……別に喋らなくてもいいけどさ、仕事はやれよ」
「はい。申し訳ございませんでした」
再度、深く頭を下げる。
ゆかりはこちらに背を向けて、みんなに笑顔で声を掛けた。
「んじゃ、とっとと準備しましょ~!」
顔を上げて、茉莉は設営に取り掛かる。
周囲の空気がピリピリとしていて、痛く感じた。
心臓がきゅっと縮み、とにかく居心地が悪い。
(『空気ちゃん』って、私のことだよね)
そんなの、言われなくても分かっている。
(全部、私が望んだことでしょう? 私が望んで、独りになったの……)
けれど、このままでは、また同じことの繰り返しだ。
先輩に嫌われて、居場所をなくして、仕事からも外される。
お金を貰うためにここに居るとしても、それさえ上手くいかなくなる。
(本当に、このままでいいの?)
────良い訳なんて、ない。
分かっているのに、どうすることもできないことが、今はただただ、もどかしい。
「お疲れ様です」
すると、ホール内に一人の男性が入ってきた。
その瞬間、社員一同が一斉に挨拶をする。
「「お疲れ様です!」」
彼は、サクラミュージックホール株式会社の代表取締役、高橋《たかはし》浩平。
すらりとした長身に、ワックスで整えられた綺麗な黒髪。鼻筋の通った顔立ちと凛とした佇まいは、遠くから眺めているだけでも、うっとりするほど美しい。
浩平はこの会社を一代で築き上げた実業家で、茉莉も一社員として、彼のことを尊敬していた。
「設営ご苦労さまです。本日のチェロ演奏会は、満席でのご案内となります。万全の体制で、本番を迎えましょう」
「「はい!」」
みんなが返事をすると、浩平はにこりと微笑む。
「それでは、よろしくお願いします」
そう言って、浩平はホールを後にする。
扉が閉まって、彼の姿が見えなくなると、ゆかりが嬉しそうに唯に話しかけた。
「今日の社長も、かっこ良かった~!」
「眼福だよねぇ! 見てるだけで癒やされる~!」
「毎日でも『お疲れ様』って言ってほしい!」
「あ~。いい、それ!」
みんなが、突然の社長の登場に浮足立っている。
そんな中、茉莉だけは意気消沈していた。
(どうして、メーリングリストから私を外したんだろう。このまま今後も業務の連絡が来なかったら、また仕事に遅刻してしまうかもしれない。そうなったら、私は何のためにここに居るの?)
息が震えて、上手く呼吸ができない。
今が辛いと、苦しいと、自覚したくない。
自覚した途端、もう何もかも、崩れ落ちてしまうような気がするから……。
「はぁ……」
茉莉は一人、ため息を吐きながら、せめてもと手を動かし続けた。
■ ■ ■
ホールの設営が終わって、みんなの後ろをついていくように歩く。
オフィスに戻ってきた頃には、精神的に疲弊しきっていて、何も考えたくないと思った。
パソコンと向かい合うと、メールを開く。すると、一通の社内通知が届いていた。
ポチリとマウスを押して中身を確認すると、そこには呑気なことが書かれている。
『相談ポストを一週間の期間限定で実施いたします。仕事上での不安やお悩みなど、匿名で何でもチャットにてご相談ください。運営時間は十時から十六時までです。秘密は厳守いたします』
「……何、これ」
HTML形式で、一枚のポスターになっているその周知は、うさぎのキャラクターが吹き出しで『みんなの相談、待ってるよ!』と笑顔で相談ポストを宣伝している。
「ちょっと、メール見た?」
ゆかりがクスクスと笑いながら、唯に話しかけている。
「見たよ~」
「相談ポストって何? 相談する奴いんの?」
「いないでしょ。ポスターも小学生向けかって感じだし」
「誰が返信すんだろ?」
「さぁ? でも、もしかしたら社長だったりして!」
「え~!? それなら、相談するのもアリかも~!」
(こういうのって、人事系の部署が対応するんじゃないの?)
そう思うけれど、ゆかり達の言うことも一理ある。
「……はぁ」
またも、茉莉は小さくため息を吐く。
(こういうのに、相談しようかなって本気で思ってしまう自分は、末期なのかな)
こんな幼稚なポスターに釣られてチャット相談するなんて、精神的に疲れているに違いない。
(でも、匿名なんでしょう? それなら、私が相談したって、みんなにはバレない)
ポスターをクリックすると、すぐにチャットが立ち上がる。
名前と本文を記入する欄が出てきて、茉莉の指は自然とキーボードに向かった。
(なるべく、自分の名前から遠い名前にしよう)
そう思って、サクラミュージックホール株式会社の、『桜《さくら》』を名前に選ぶ。
『桜 :周囲から、空気というあだ名で呼ばれています。人付き合いを拒んだ私が悪いのですが、このままで良いのか悩んでいます』
打ってから、送信するのが躊躇われた。
それでも、疲弊しきった心には、送信に葛藤する気力もない。
ポチ、と送信ボタンを押す。
しかし、しばらくの間、チャットの返信は何も来なかった。
五分ほど経過してから、ずっとこの画面を見ている場合ではないことに気づく。
茉莉は業務に戻ってから、三十分ほどして、ようやく返信が届いた。
『高橋浩平:このままではダメだと思っているから、ここに書き込んだのではないですか?』
「うわっ」
返信の文章を読んだ瞬間、変な声が出てしまう。
慌てて口を塞いで、茉莉はじっと文章を見つめた。
(高橋浩平って、社長の名前? 嘘……。みんなの言ってること、本当だったの? 私のしょうもない質問を、社長に見られたってこと? 嘘……。今すぐ取り消したい……)
続いて、三十秒もしないうちに続きが届く。
『へーたん:貴方は、これからどうなりたいと思っているのですか?』
(さり気なく、チャットの名前表示がへーたんに変わった。さっきのは誤爆ってこと? いまさら変えられても、もう遅いんだけど)
これはもう、百パーセント、送信相手は社長の高橋浩平だ。
へーたんという名前も、浩平の浩の字をもじっただけだろう。
混乱しているうちに、メッセージは続く。
『へーたん:焦らずで結構ですので、まず自分がどうしたいのか、考えてみたらいかがですか?』
「どうしたいか……」
(そんなこと、考えたこともなかったな)
今まで、ただイジメられた現実から逃げて、同じことを繰り返さないために、自分から心の扉を閉じた。
でも、それではダメだった。
このままでは、いつまで経っても負のスパイラルから抜け出せない。
『桜 :向き合いたいです』
そう打ち込んだら、少しだけ呼吸ができた。
不思議なくらいに、気持ちがスッと楽になったのだ。
『へーたん:それは、周囲の方々と、という意味ですか?』
茉莉は言葉を紡いでいく。
『桜 :そうです。もう、空気でいたくありません』
『へーたん:それなら、ただ待っているだけではダメですよ。できることから、一つずつやっていきましょう』
『桜 :何をすればいいですか?』
それは、子どものような質問だと思う。
けれど、今はただ、希望に向かって進むための道標が欲しいのだ。
『へーたん:どうして、そう呼ばれるようになったとお考えですか?』
『桜 :私が話さないからです』
『へーたん:それなら、まずは話しかけるところから始めてみたらいかがでしょう?』
(それができたら、苦労はないんだけど)
でも、第三者がそう言葉にしてくれただけで、少しだけ勇気が湧いてくる。
今のままではいけないと、茉莉自身も分かっていた。
だから、今からできることを一つずつ、今後のためにやっていく必要がある。
『桜 :分かりました。頑張ってみます』
そう書いて、チャットを閉じようとした。
すると、最後にメッセージが届く。
『へーたん:大丈夫。私は最後まで、貴方の味方です。何かあったら、またここに書き込んでください』
「味方……」
その、たった二文字が、茉莉の心を大きく揺さぶった。
前職では、自分の味方になってくれた人は誰もいなかった。
孤独が当然だと思っていたし、自分がいなくなれば、全て解決した。
社長は、こちらが誰なのかを知らない。
それでも、彼は味方でいてくれると言う。
(ただの、当たり障りのない文章なのにな)
それでも、また何かあったら、ここに書き込めば社長が相談にのってくれるのだろう。
そう思うと、茉莉の心は自然と落ち着いた。
「大丈夫……」
小さな声で、そう呟く。
先ほどまで呼吸をするのも大変だったのに、大きく息を吸って吐いたら、少し気持ちが楽になった。
茉莉は席を立つと、同い年の同僚、瀬戸《せと》まど香《まどか》の席まで向かう。
彼女はこの社内で最も話しやすい女性で、よく他の同僚と終業後に呑みに行く、コミュニケーション能力の高い女性だった。
ひとまず、会話しやすい人から、徐々に仲良くなっていけたら良い。
そう思って、茉莉は彼女に勇気を出して話しかけた。
「……あ、あの」
まど香はこちらに視線を向けると、小さく首を傾げる。
「どうしたの?」
茉莉は、ゆっくりと顔を上げて言う。
「……今日とか、仕事終わりに少し時間ありますか?」
「どうして?」
「……えっと、その」
ずっと、口を塞いで生きてきた。
けれどこれからは、一人一人と向き合って生きていきたい。
茉莉は、思い切って口を開いた。
「一緒に、飲みに行きませんか?」
「……」
まど香は少し驚いた顔をするも、すぐに笑顔を浮かべる。
「小林さんから誘われるとは、驚きだな~」
「あっ。ダメなら、全然……」
まど香は、ふるふると首を横に振った。
「ダメな訳ないでしょ? 行こ行こ!」
その言葉を聞けただけで、飛び上がりそうなほどに嬉しい。
「ありがとうございます!」
「私の好きなお店でいい?」
「もちろんです」
「ふふっ。じゃあ、仕事が終わったら声を掛けるね!」
「はい! お願いします」
茉莉は笑みを浮かべて頭を下げる。
心臓が、バクバクと音を立てて喜びを表していた。
(やった……! 良かった)
茉莉は席に戻ってから、一人で小さく、ガッツポーズをした。
(――つづきのお試し読みは各ストア様をご覧ください!)