作品情報

極上社長はオフィスの灰かぶり姫(シンデレラ)を逃がさない

「誰にも知られたくないなら、俺が攫ってしまおうかな」

あらすじ

「誰にも知られたくないなら、俺が攫ってしまおうかな」

親の遺した借金のせいで、親戚には嫌われ、アパートも追い出されてしまったOLの葵。友人の紹介で会員制のラウンジ嬢の副業にありついたが、店に現れたのはなんと葵の勤め先の社長、匡だった。副業を職場の同僚たちに知られたくない葵は、観念して匡に自分の事情を打ち明ける。そんな葵を、匡は「俺の言うとおりにするのが得策だ」と自宅へ連れて行き……。

作品情報

作:篠原愛紀
絵:yuiNa
デザイン:RIRI Design Works

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本文お試し読み

プロローグ

「うちでは副業は申請すれば、禁止ではないよ」
 柔らかく諭すように言われ、固まる。
 含みのある言い方に、私の置かれている立場を理解し青ざめた。
 まさかこんな場所で、こんな風に、自分の勤めている会社の社長に遭遇するなんて思わないじゃない。
 もし現代にシンデレラがいるとすれば、王子さまは十二時になっても解けない魔法で何を与えてくれるのだろうか。
 私がシンデレラならば、ガラスの靴は必要ないから。
 真っ白になった頭で、走馬灯のように何か回避する方法を探していた。

 顔こそ平凡だけれど、だらしない母亡き後、親戚中に嫌われ、屋根裏部屋のような築三十年の木造アパートに住み、こき使われ生きてきた。
 親戚の家の雑草取りだの、アパートのゴミ管理だの呼び出されれば従うしかない。
 成人式当日は、ピザ屋のバイトでひたすら野菜を切っていた。
 シンデレラと違ってふてぶてしく逞しく生きてきたけれど、もちろん苦労はしてきた。
 だからお酒の味もろくに知らない、男性と恋の駆け引きなんて未経験の私が、どうして紹介制の高級ラウンジで、勤め先の社長と遭遇してしまったのかは、経緯を話せば作り話のような苦労話が出てくるので、信じてもらえるか分からない。
 でも私は自分の生きてきた人生の中で嘘を言うつもりはない。
 目の前で足を組み直し、不服そうにしているお坊ちゃまとはハングリー精神が違うと自負している。
 だから――。
 住んでいたアパートからも追い出され、貯金もほぼないような私が、ラウンジでバイトしていたとしても、見逃してくれてもいいじゃない。
「ただ、君がラウンジで働いていると上司や俺に申請できるのであれば」
 含みを持った言い方の続きは、やはり私を試すような、本性をあぶり出すような言い方だ。
 長年、黙ってバイトしていたのであれば私だって反省するし、社長の言い分を認める。
 けれど副業初日。
 体験入店で入って数時間の悲劇なればまだ慈悲があってもいいじゃない。
「申請すれば、いいんですね」
 私の発言に彼の片眉が上がった。
「アパートを追い出され、貯金は祖母の入院費や手術費に消え、来月の生活が危ういので副業申請させてください」
 誰にでも優しく人望もある社長。
 情にほだされてくれないかと正直に自分の置かれている状況を伝えた。
 私はただ、誠実に清く生きていたいだけだったのに。
「でも……黙ってくれていたら、それはそれで助かります」
 ただでさえ噂話が大好きな女性社員が多い部署だ。上司には恵まれているけれど、きっとこのことを知れば心配をかけてしまう。噂話大好きの社員と私で板挟みにさせてしまったら申し訳ないし。給料も待遇も良いこの会社を辞めたくない。
 自分で辞めなければいけない状況に追い詰められるぐらいならば、副業を諦める。
「黙ってて欲しい、か」

 誰にでも分け隔てなく優しく、甘く微笑むのが女性社員から人気の社長。
 インターネット広告やスマホ広告等の広告代理店『SPREAD』社長。父親が大手通信サービス、テレコム事業を手掛ける大会社の社長で、そこから独立した形で起業したらしい。私とは正反対で、生まれたときから銀のスプーンを咥えて生まれてきて恵まれた環境で、苦労することなく誰かを恨むことも憎むこともなく真っ直ぐに育ったのであろう。
 誰からも愛されそうな人柄の社長には、私の苦労が伝わらないかもしれないが、同情か哀れみぐらいはもらえるかと、正直に話したのに。
 私に問う、その微笑みは何だ。
「では、誰にも知られたくないならば、俺が攫ってしまおうかな」
 今まで一度も見たことがない不敵な笑みを浮かべると、彼は私に手を差し伸べた。
「俺に判断を委ねるならば、言うとおりにしてもらおうかな」
 彼は私に手を差し伸べた。
 それは奇しくも、魔法が解ける0時前の出来事だった。

一、 居場所ない同士。

 タクシーに乗せられ、高級住宅の灯りを眺めながら、追憶のように溜息と共に自分の半生を思い出した。
 自由奔放で周りに迷惑しかかけていない母親から生まれたことが不幸の始まり。
 産んでくれたことには感謝しなさいとか、血が繋がった親に対してどうしてそんな酷い言葉が吐けるのかと言われるので、自分の気持ちは誰にも伝えず両親のことは誰にも言わずに生きてきた。
 売れない芸人に現を抜かし、給料を全部つぎ込んでいた母は、交通事故で亡くなった。無免許無保険で莫大な請求額を祖母が立て替えた。
 それまでも補導されたり何年も帰ってこなかった母に振り回されていた祖母に、親戚は同情的で、母に子どもが居ると知っても、祖母が引き取ることに大反対していた。
 私も家にほぼ帰ってこない母に期待することはせず、自分でバイトを掛け持ちして高校に通っていたので母が亡くなり祖母が現れても、助かったなんて気持ちが微塵も浮かんでこなかった。
 ただ私に手を差し伸べる度に親戚から叱責される祖母を見たら、迷惑をかけられないと判断できた。
 祖母の知り合いの伝で、アパートの草抜きやごみの分別等のチェックの管理などを手伝う代わりに、そこに破格の家賃で住ませてもらった。
 成績が優秀で学校が楽しかったことと、私の苦労を理解してくれる友人に恵まれたので辛い人生ではなかった。
 ただ祖母が入院しても病院も教えてもらえず、亡くなったのを亡くなって二日後に教えられたのは、流石の私も行き場のない感情で発狂しそうになった。
 親戚はどうでもいいが、祖母だけは恩返しがしたかったので複雑だ。
 そんなに接したことはないし、迷惑をかけたくないから私からの連絡も避けていたけれど、会えば私の顔を見て唯一微笑んでくれる存在だった。
 親戚にとって私は他人で、私にとっても親戚は他人でも、祖母だけは違ったのに。
 私は蚊帳の外で、全ての整理が終わってからの連絡だった。
 祖母の財産分与等の話し合いが終了していて、祖母が母の事故の立て替えでの借金がまだ残っていたことを知らされた。
 親戚からは母の代わりにそれはそれは酷い言葉を沢山頂いた。お詫びに祖母の手術費、入院代を貯金から払わせてもらったが、おかげで私はすっからかんになった。
 それに加えて、アパートは解約するので出て行くように言われ、一文無しからのアパート探し。保証人なんて頼れる人は居ない。
 来月までは住む権利は当然あったけれど、これでもう縁が切れるのであれば私だって今すぐこの人たちとは縁を切りたい。
 罵詈雑言を浴びるぐらいならば、漫画喫茶で寝泊まりして住む場所を探す方が一億倍マシだった。
 ただ今は保証人がいなくても借りられるようだけれど、先立つものが何もなかった。
 おかしいな。
 私はバイトして、物心つく頃から親に守ってもらったことは一ミリもないし努力はしても、誰にも迷惑かけたことはないと思っていたのにな。
 私は生まれた時点で迷惑で、邪魔な存在だったのか。
 祖母の死は悲しかったが、もう私をごみのように見る親戚とは関わらずに済むのはすっきりするかもしれない。
 祖母のお墓さえ教えてもらえなかったので会うこともない。

 残されたのは明日からの住む場所を探す、ただの小娘。
 嘆いても激怒しても泣いても、失った貯金は戻ってこない。
 来月までに住む場所と、最低限の家具を確保して最低限の人間らしい生活を送りたい。
「水宮葵、二十五歳でしょ。母親の借金のせいで金銭面は人一倍しっかりしてるでしょ。ちょっとおばあちゃんみたいな趣味はあるけど、一部上場広告代理店事務で誠実に働いている。苦労人でとことん不幸体質で。うん。ここまで読んでたら同情よりもお祓い紹介してあげたい気分よ」
 私の履歴書を感慨深そうに読み上げて、嘆息するのは、高校時代からの友人、美優。
 私がバイトを三つ掛け持ちしているときに知り合い、掛け持ちよりも稼げるからと高額で効率の良いバイトを教えてくれて助けてくれた恩人だ。
 賄い有りで夕方の混む時間は時給を上げてくれたカフェでのバイトは、掛け持ちよりも効率が良くて本当に助かった。
 なので友人に、藁にも縋《すが》るつもりで短期高額バイトがないか聞いた。
 土日ならば引越センターとか、早朝の漁業の手伝いぐらいかなと目星をつけている。
「引っ越し代ぐらいなら貸すよ」
「ううん。人からお金を借りると罪悪感から発作が起きるから無理。トラウマに近いかな」
「そうだけど。備え付けの家具があるアパートから無一文で放り出されたんでしょ。私を頼ってくれても良いのに」
 心配してくれている優しい美優は、ショートカットが似合う小さくておっとりしている美女。
 先日、大学時代にバイトしていた先の、ホテルのオーナーにプロポーズされ入籍。現代のシンデレラとは彼女のことだ。
 弟妹が八人いるが大学に行きたくて頑張ってバイトしていて苦労していたのも知っている。
「んーっとね。葵みたいに男性慣れしていない子って結構珍しいから面白がって採用してくれるかもしれないところがあるんだけど」
「えっ何? 怪しいバイトは嫌だよ」
 選んでいる立場じゃないのは分かっているけど、できれば体力はあるので、力仕事が良い。
「紹介制のラウンジ」
「ラウンジ? 私が?」
 知識は浅いけれど、男性とお酒を飲みながら話す場所だよね。
「葵は素材は悪くないし、苦労話は面白いし、結構ウケると思うんだよね。私も半年頑張って、大学費用稼げたから」
 美優は素直に弟妹のことや大学費用が貯まるまでとお店の人や指名してくれた人に説明していたらしい。
 ラウンジ。
 キャバクラと違ってマンツーマンではないので回りを観察して勉強すれば、私でも伸びるかもしれないと説明してくれた。
「お金のためなら何でもするんでしょ。一度、挑戦してみたら。やりたくてもこんな高級店は、素人は本当ならば絶対に体入もできないんだから」
 ね、と言われ呆然としていたが、体入、つまり体験入店の値段を聞いて思わず頷いてしまった。
 そうだ。
 私はなりふり構っていられない状況だった。
「そうと決まれば、今から連絡するから」
 美優はすぐさま電話してくれて、私はその日、仕事が終わり次第、すぐさまそのビルへ向かうことになった。

 男性とお付き合いしたことは何度かあったけれど、仕事やバイトを優先したり、誕生日プレゼントが手作りのケーキだけとか愛情が感じられないと振られ続けた。
 淡泊で私を自由に放牧してくれる人が現れたらまた恋愛できるのかなって諦めモードだった。
『いやあ。ボランティアでもあんなの嫁にできないわ』
 親戚が押しつけてきたお見合い相手の五十代の独身男性にさえNGを言われる始末だ。
 
 私の家の事情を説明すると、親に紹介しにくい上に嫁にするには得がないらしい。両親は居らず、母は無保険で交通事故死。頼れる親戚もいなければまだ奨学金も返済中。
 一人で強く生きていこうと思った矢先にアパートを追い出されてしまった。
 持っている荷物は、キャリーケースとボストンバックの二つと、部長に冷蔵庫が壊れたと嘘をついて給湯室の冷蔵庫においてもらってるぬか床だけ。
 美優は、家が決まるまでウチに居て良いよと言ってくれたけど、新婚だし。お腹にはベビーもいるし長居できる状況ではない。
 何日も家に友人が泊まったら、旦那さんも嫌だろうしね。
 バイト先を紹介してもらうために一日お世話になったけど、今日ぐらいは漫画喫茶に移動しようかなって決めている。
 美優に正直に話せば反対されるので、なんとか安心させる結果を出したいな。

 仕事終わりの十九時に、美優に指定されたビルに向かった。
 化粧や髪のセットは、美優が仕上げてくれて、いつもよりも薄めの化粧にもかかわらず、美優が誇らしげに親指を立てるほど、清楚系にメイクしてもらえた。
 これで浮きすぎることはないといいなって願いたい。
 
 既にビルに着くまでに高級ブランドに身を包んだ男性や女性を見かけたし、何度も高級車と擦れ違った。
 駅では変な勧誘はあったけれど、待ち合わせ場所に近づくにつれ、静かになっていった。
 もっと危険な匂いがするかと緊張していたのに、想像よりも普通だ。
 お店の中も、家具が有名ブランドで統一している以外は、普通のBARみたいな内装だ。
「水宮葵さんね。よろしくお願いします」
「お願いします!」
 面接は、私より遙かに美女がしてくれた。
 お店に入った瞬間から良い匂いがするし照明は妖しく落ち着いているし、上品で落ち着くお店で、私が想像していた不気味さはなかった。
「うちのお店は顔が九割、教養一割って感じだから。盛り上げてくれることを期待してるわね」
 はっきりと顔に落第点を突きつけられたものの、私の苦労話や貧乏生活がネタとして笑われ昇華できるならば、それで救われる。
 
 体験入店の日は、時給半額だったけれど、それでも私が目星を付けていたバイトよりは破格だ。

 まずはカウンター内でお酒の説明。メニューを見て眩暈がした。
 これ一本開けるだけで、私の引っ越し代と敷金礼金が払えるって値段のものばかり。
 リーズナブルなものさえ数万を超えている。
 一日の食費を自宅農園で賄い、安くすませようとしている私とは、生活水準が違いすぎる。
 面接途中から何グループか入店していたけれど、完全招待制で個室なこともあり、静かなジャズが流れる中、楽しそうな声はするもののゲストのプライバシーはしっかり守られている。
「今、来店されたお客様の席に着いてもらおうと思ってたんだけど……ちょっと待ってね」
「あ、はい!」
 面接をしてくれた美女が、微笑んだ。
 いよいよ私も接客か。メニューはあそこだし、まずは挨拶だし、会話のタイミングや雰囲気重視って言ってたよね。
 あとは、なんだっけ。
「俺はここでいい」
 体入でもボトル開けてもらえたらその分はもらえるって言ってたよね。
「匡《きょう》。お前の気分転換に来たんだぞ」
「だから俺はここでいい」
 ――え。
 美女の指導の復習をしていたら、いつの間にかカウンター席に男性が一人座っていた。
 私の目の前の席に、いつの間にか。
 不機嫌そうでもあるし、ちょっと気だるげに片肘をついてメニューを眺めている男性に、目を見開く。
「えっあ、ああーっ」
 急いで両手で口を覆ったので、大声で叫ぶことは免れた。
「申し訳ありません。この子、今日が初めてでして緊張しているの」
 美女が急いでフォロー入れてくれたが、私にはもう全く頭に現実が入ってこなかった。
 目の前にいる男性。
 仕立てのいい高級スーツも腕時計も、今は目に入らない。
 少し薄いブラウンの瞳に高い鼻梁に、微笑むと甘く色気を纏うこの人を、私はよく知っていた。
 いや、私の会社で知らない人はいない。
 王子さまみたいなルックスだと騒ぐのは当たり前だし、大学の美女コンで入賞した美女が『玉の輿にのりたいから』とこの人狙いで入社してくるような人。
「椎田《しいだ》社長……」
 社長?
 自分で発した言葉に青ざめる。
 予想なんてしていない状況に、背中にたらりと汗が流れた。
 どうして私の目の前に、会社の社長がいるの。
 直接話すことはほぼ無いとは言え、会社で常に接触している。
 私みたいに地味で平凡な社員だし覚えていない可能性もあるのかなって可能性にかけて、だらしなく微笑んでみるが、社長は目を細め私を観察した。
「お互い驚いたね。水宮さん」
 流石優秀な社長。
 誤魔化せないことを瞬時に理解してしまった。
 驚いた様子もなく私を見て微笑んでいるのは、私が働く会社の社長、椎田匡だ。
 気だるげにため息をつきながらカウンター席に座っていた彼が、私を見て微笑んでいる。
「匡、知り合いか?」
 社長の下へやってきた男性も、モデルのように高身長の美形だ。
 美女が黙って微笑んで隣に立っているので、彼がこの会員のようだ。
「この子が気に入ったから二人で話したい。個室に案内してもらえるか?」
 私の返事も待たずに、美形のご友人は嬉しそうに頷く。
「ああ。一番落ち着く席を用意してもらおう」
 美形の友人と社長が話をしている間、私は必死で美女に助けを求めたが、目さえも合わせてくれなかった。
 私の人生はここで終わってしまう。

 ***

「ふう」
 上着を脱いでネクタイを緩めた社長は、気だるげにソファへ座った。
 上着を受け取らねばいけないのは分かったが、ドアの前で立ち尽くした。
 どうしてこんな状況になってしまったんだ。
 目の前にいる社長は、私とは全て正反対の人だ。
 裕福で美形で、なんの苦労もしてこない人生とは、性格もおおらかにするのだろうか。
 仕事も完璧にできる社長は、性格も良いらしいし女性関係の悪い噂も流れない。
 性格も家柄もよく、自分で立ち上げた会社も安定。
 おまけに美女コンで入賞した女性が将来のパートナーとして立候補しているような勝ち組。
 私なんて自由すぎる親に振り回され、借金だけ残した親のせいで親戚には嫌われ、こき使われ、アパートさえ追い出され、金にトラウマを持つ捻くれた性格で、顔も平凡だ。

 ソファに座っている社長を見ながら、死刑宣告を待つ私には、未来が見えない。
 当然、こんなことになったので採用はされないだろうし、会社だってきっと続けられない。
 どうして私ってこんなに上手くいかない人生なのだろう。
 絶望しかなかったけれど、彼は整った唇をゆっくり動かした。 
「うちは副業は申請すれば、禁止ではないよ」
 柔らかく諭すように言われ、固まる。

 それがつい先ほどのこと。
 絶望と藁にも縋る気持ちで、社長の言うがまま攫われたのが、0時前。

 ***

 私はタクシーの中で、嘘偽りなく今の現状を話し、それを伝えた。
 社長は黙って聞いていたけれど、私が全て伝えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「荷物を纏めて、今日はうちに泊まると良い。部屋なら空いている」
「えっでも」
「黙ってて欲しいならば、今日は俺の言うとおりにするのが得策だと思うよ」
「でも」
 思考が置いてけぼりになってジェットコースターのように現実が動いているのが少し怖い。
 理解が追いつかないんだ。
「もちろん、社員に手を出すほど困っていないし、同情でもない」
 私を見る瞳に下心が全くないのは、清々しいがどこか腹立たしい。
 今日は自分でするよりも何倍も綺麗に化粧をしてもらっているというのに。
 彼は言い放った後、少し躊躇うように視線を下へ向けた。
「後は君が決めればいいが、そこまで困っているならば明日、俺の方から部長に説明しておこうか」
 ええ。
 ラウンジで見つかった瞬間は、覚悟したけれど社長として社員を心配してくれる部分もあるらしい。
「だが、今の君には俺の提案が一番助かると思うぞ」
 ふんぞり返るような傲慢な態度に、誰が従うかっと思ったけれど、今日はもう行く場所がない。
「じゃあ、一日だけお願いできますか」
 切れそうな糸の上を渡る、その日暮らしな状態に不安は途切れない。
 けれど今はもう0時を過ぎた。
 今日は社長に全面降伏で正解だと思う。
「頭の回転は悪くないようだ」
 ご満悦な様子は少し不安だったが、荷物を纏め覚悟を決めて社長のお宅へ向かった。

 どうせ大理石のロビーにコンシェルジュ付きの超高級マンションで、部屋なんて何部屋もあるので、私が泊まっても問題ないんだろうね。
 うちの会社だって年商何十億の世界なのできっと想像ができない豪華なマンションに違いない。
「ここだ」
「え、ここ?」
 マンションかと思ったら、二階建ての煉瓦の家だった。
「可愛い……」
 白い壁の中にある二階建ての煉瓦の家。
 中を覗けば、庭に小さな温室まである。
「自分で改造したりリフォームできる家がここしかなくて。少し会社から離れているが、バス停は歩いて数分だ」
 下心がない割に、家に連れてきたそうだったのは不思議だったのだけれど、社長ってもしかしてこの家を自慢したかったんじゃないのかな。
「社長ならもっと高級な家なのかと思いました」
「まあ、皆、そう思うのかもな。だがこの家は悪くないだろう」
 この人、ちょっとそわそわしてる。
 なんでなの。
「確かに豪華絢爛なマンションよりは此方の方が私は憧れるかもです」
 年季は入ってるけれどレトロな家は、お手入れもしているので可愛い。
 玄関を入ると、天井まで届く靴箱に、目の前に飛び込んでくるアンティークな置き時計は、高級感が漂っている。
 家具は装飾までされている綺麗な物ばかりだ。
 スリッパに付いているロゴも、某高級宝石ブランドのものだし。
「君の不幸につけ込んですまないが、一つ聞きたい」
「なんでしょうか」
「違和感はないだろうか」
 違和感?
 何が不幸につけ込むのかも分からない。
 首を傾げると、社長は少し慌てて冷蔵庫から麦茶を取りだした。
 自分で作ったのだろうか。
 いつも珈琲片手に優雅に仕事してそうなこの社長が、自ら麦茶を?
 ハイブランドに身を包み、地位名誉ある人々に囲まれ、ハイレベルな暮らししかしたことがないような社長が。
 麦茶を凝視するものの飲めずにいると、気まずそうに咳払いした。
「俺は少し感覚がずれているというか、一般的な家庭環境がよく分からず、見様見真似で家を改造してみたんだが」
 一般的な家庭環境。
 辺りを見渡し、自分が穿いているスリッパも見てから、正直に伝えた。
「本当に真似だけって感じです。一般家庭には数万するスリッパも、高級そうな置き時計もありません」
 いや、私だって一般的な水準で生活したことないか。
 私自身もずれている。
 でも社長は、ドラマや漫画から一コマを切り取って具現化してみた感じ。
 綺麗すぎる。
「あれは海外の親戚からの引越祝いだし、家ではこのスリッパなんだが……」
 なぜか社長は驚いて、震えながら麦茶を渡してきたけど、このグラスもブランド品なんだろうなって思った。
「この麦茶も大変美味しいです。メーカーはどこの何ですか」
「お茶は京都の知り合いのメーカーのを使っている」
 パッケージを見せてもらったけれど、グラム数千円のお茶っ葉に、思わず呑み込むのを躊躇った。
「今日はもう遅いので、詳しい話は明日で大丈夫でしょうか」
「ああ。二階の客間を使ってくれ。シャワーも奥についている」
「……ありがとうございます」
 一般的な家には客間にはシャワーはないと思います。
 素直に伝えたかったけれど私も一般的な家庭で育ったわけではないので、もしかしたらあるのかもしれないと首を傾げたのだった。

 ***

『負の遺産しか残さなかった』
『もういいじゃないか。その子は施設に預ければ良い』
『あんたはもう頑張ったよ。誰もあんたを責めはしないよ』
 母のお葬式。
 祖母と私だけで行った寂しいお葬式だったけれど、終わった後に仏壇に手を合わせに来たわけじゃなく、祖母に私を手放すように説得しにきた親戚は沢山いた。
 襖越しに聞いた話を、私にはとっくに理解できる歳だった。
 何度か母の素行を注意したり私を心配して尋ねてくれたり電話をくれていたけれど、母とは言い合いばかりしていた祖母。
 私の小学校の入学式や中学、高校の手続きや準備は祖母が手伝ってくれたけど。
 亡くなった母の遺品整理で、母の携帯の中に私の写真は一枚もなかったけれど、祖母の家には私と入学式の看板の前で撮った写真が、飾られていた。
 そうだね。祖母は頑張ったよ。
 放っておいても良かったのに。
 親戚は、祖母が母のために手放した祖父の遺産について根掘り葉掘り聞いていて、なんだか気味が悪い人たちばかり。
 私が居ない方が自分たちにおこぼれがあるのだと主張している人たちの方が多い。
 どちらにせよ、私の存在が言い争いの火種ならば、私は何も言える立場ではない。
 祖母には面倒をかけられないし、親戚には二度と会いたくない。

 寝起きは最低だったけれど、すとんと私の中で決心が固まった。
 朝露しのげればいいと思ったけれど、社長の家ならば福利厚生最高ではないか。
 しかも性格も良いし、私に手を出さず、家に置いてくれるならば今まで生きてきた中で最高の住み心地。
「あ、今日だけかもか」
 やはり他人に甘えても自分は成長しないしね。
 会社を辞めさせられるなんて事態にならなかっただけ感謝だ。
「起きたのか?」
 部屋の姿見の前で、髪の寝癖を整えていると、下から社長の声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「先に出る。テーブルに置いてあるものは好きに食べて、食器は下げておくように。オートロックなので玄関はそのまま出れば良い」
「え、社長!」
 急いで下りたときには、既に車の発進音が聞こえてきた。
 呆然としながらリビングへ向かうと、ご飯と目玉焼き、ウインナーに鮭、そしてサラダにお味噌汁が置かれていた。
 美味しそう。
 こんな如何にもな朝ご飯、生まれて初めて食べるかもしれない。
「いただきますっ」
 すべすべで持ちやすいお箸。
 ぷりっぷりなウインナー。
 磁器のように白いお皿は高級感が漂っている。
「お茶碗、これってもしかして、茶器で有名な東雲ってメーカーでは」
 数万するお茶碗を片手に、高そうなウインナーを食べる。
 なんだろうか。
 所々に高級感が隠れていない。
 違和感を感じながら美味しい朝ご飯を食べ終えたけれど、社長に対して謎が深まっていた。
 
 ***

 出勤してそそくさと着替えて部長に挨拶したが、普段通りだった。
 社長から報告はなかったようで安堵する。
『SPREAD』は五階建てのオフィスで、社員は百人をゆうに超える大企業。有名デザイナーデザインの白壁と青空が基調のエントランスは、エーゲ海のリゾート地のようにお洒落で遊び心が現れている。
 そのエントランスを通ると、会社の華である受付の綺麗な社員が挨拶で出迎えてくれる。
 ……一部の人たちにだけ、だけど。
「ねえ、社長ってば今日、香水違ったよね」
「いつもより出勤が遅かったけど、とうとう恋人できたのかな」
 聞こえてきた声に、げんなりする。
 まだお客様が来ない時間。
 受付で騒ぐ三人の美女達は、自分たちの存在をアピールするかのように大声で話している。
「……ふふ。それぐらいで騒いじゃって。香水ぐらい皆もお気に入りが何個かあるでしょ」
 綺麗に巻いた髪を撫でながら、騒ぐ二人を諫めるように微笑み、大物感を漂わせている美女は、諌山紗綾《いさやまさや》。
 某有名大学美少女コンテスト準優勝、保険会社社長令嬢でハイブランドに身を包んでも違和感のない美女。
 自信に溢れているし、顔なんて小さすぎるし目も大きすぎるしおまけに小さくて、声も可愛い。
 私なんか同期のはずなのに目に入っていないのか、数回事務的な会話しかしたことがない。
 私と正反対で、いつも彼女の周りには誰かしら人が集まっているしね。
 一度、社長のご両親が尋ねてきたとき、堂々とご案内していて社長の母親が気に入って褒めていた記憶もある。
 住む世界が違う人が、ここにも一人。
 ただ私みたいな地味な人間を、居ないも同然に扱う辺り性格は些か凄いとは思う。
「ねえ、水宮さん」
 私みたいな人間に話しかける人物では、ない。
「聞こえているの。水宮さん」
「え、私?」
 先ほど受付ロビーに居たはずの美女が、髪を触りながら私のデスクまで現れ、一瞬目を見開いてしまった。
 うわあ。良い匂いがする。
「貴方しかいないでしょ。事務の部長から聞いたけど、給湯室の冷蔵庫にあれ入れてるの貴方でしょ」
「あ。あれって」
 彼女の冷ややかな目に、たじろぐ。
 冷蔵庫の一番下の野菜室に隠していたのにばれてしまったか。
「差し入れでケーキとか入れとくのに、邪魔でしょ。あんなもの持ってこないで」
 軽蔑するような目で見られても、すみませんの謝罪しか出てこない。
 私だって家さえ確保できれば、さっさと手元に置いておきたい。
「近日中になんとかしますね」
「早急にお願いね。迷惑だから」
 はいはい。申し訳ありません。
 口だけ謝っていると、諌山さんは怪訝そうに眉を顰めた。
「このシャンプー……」
「へ?」
「……ふうん」
 指先で髪を弄りながら、何故か鼻で笑われた。
「なに?」
 流石の私も目の前で不快だ。
「いや、水宮さんってシャンプーは良い物使ってるのねって」
 褒めてるのよって笑った後、さっさと踵を返して出て行ってしまった。
 彼女を目で追う男性社員は、さきほどの悪意の籠もった笑い方を見ても、彼女を可愛いと思えるのだろうか。
 それでもシャンプーまでは気にしていなかった。
 昨日、社長の家の客室のシャワーを使ったときに使ったけれど、メーカーまでチェックしていない。
 自分でも髪を撫でると確かにいつもよりしっとりサラサラな気がした。

 ***

 お昼の休憩に、美優へメールをしたためた。
 いつもお弁当を持参していた私が、コンビニのおにぎりを食べていたので、部長が心配してくれた。
 部長は人の良さそうな、優しい年輩の女性。
 私が築三十年のオンボロアパートが取り壊しになりそうで現在冷蔵庫も壊れたと嘘の相談をしたら親身になって相談に乗ってくれて申し訳なく思ったほどだ。
 部長のおかげで冷蔵庫にアレを入れさせてもらっているので、感謝しかない。
「コンビニのおにぎり一個って満腹にはならないね」
 達観したような独り言が漏れたが、どうせ誰も居ない穴場での一人ご飯。
 会社にはお洒落なサラダバー完備の食堂があるので、皆そちらに行く。
 私は野菜を自分で栽培しているので、給湯室の隣のほぼ使われていない相談室でお昼ご飯を食べている。
 月に数回、上司と相談や面談するときに使う場所だが上の階に大きな会議室や面談室があるので、今は倉庫になりつつある穴場だ。
 誰かとおしゃべりしながらランチも楽しいけれど一人になりたいときとか、お弁当が余りに茶色すぎて回りにからかわれそうなときは此方に逃げる。
「その代わり朝ご飯をしっかり食べられたんじゃないか」
「……うわ」
 堂々と社長が入ってきたので、驚いてスマホを落としてしまった。
「誰かに見られませんでしたか!」
 社長が給湯室の隣まで誰にも見られずに歩いてくるなんて、絶対に無理だ。
 受付の前は通らないにしてもエレベーター前とかで人目に付くはず。
「自分の会社で誰に見られようと、それがなんなんだ」
 缶コーヒー片手に怪訝そうに言われてしまった。
「だって」
「それにここは俺のお昼寝場所だ」
 相談室の奥の鍵を開けると、中にソファとタオルケットが置いてあった。
「私物化……」
「休憩中しか使わない。君も使っても構わないが」
 悪びれる様子もない。
 今までここで休憩していたのに気づかなかった。
「朝ご飯ありがとうございました。おいしかったです」
「だろう。卵も米も一番美味しいと思うものを取り寄せている」
「……流石」
 お坊ちゃまめ。
「俺は」
 窓辺に立つとブラインドを上げ、隠れることもなく堂々と私を見つめる。
 何か言いたげに戸惑う社長は、いつも会社で見かける社長とはどこか違って、自信がなさそう。
 昨日から何度かそんな社長を見かけた。
「君に脅しをかけようと思っている」
「そんな躊躇しながら言われても、私も困ります」
 何を脅すのかは分かっている。
 やはり一日経って、自分の会社に水商売を副業している人間がいるのはイメージが悪いなんて思ったのかもしれない。
 バラされたくなければ、自主退職か。
 どちらにせよ、あのラウンジからは丁寧にお断りの連絡が来ている。あそこ以外は私を雇ってくれる場所がないのも分かっている。
 明日から居場所だけではなく、職さえも失ってしまうのか。
「引っ越し先が決まるまで、当面の間、うちの客室にいるといい」
 胸ポケットから取り出し、机の上に置いたのは、カードキー。
 カードキーと社長を交互に見ると、彼も苦笑していた。
「うちの家の鍵だ」
「えーっと」
「君の秘密をバラされたくなければ、しばらく俺の家にいればいい」
 脅し。
 これは脅しなのかな。
 人に脅迫したことがないような平和な世界で生きてきた社長の、唯一の脅し文句なのかも知れない。
 でもこんな様子を見せられれば、口だけで社長が誰かにバラしたり私を解雇するようには見えない。
「俺も、誰かに今の生活を言ったのは初めてだ。昨日の友人や副社長にはばれているが、自分から秘密を見せたのは君だけだよ」
 含ませた言い方で微笑むその姿は、もういつもの自信に満ちあふれた社長だ。
 何を迷って躊躇して私を脅したのか、私には分からない。
「今日も君は俺の家に帰ってくるだろう?」
「それは――」
 今朝の悪夢を思い出す。
 あんな惨めったらしい悪夢を思い出し、戻るぐらいならば何でもすると思っていた。
 何でもできるしどんな状況でも、あの地獄よりマシだと思っていた。
「えっと逆にいいんですか。……会社の人に見つかったらどんな噂を立てられるか分からないですよ」
 諌山さんのように目敏く、噂好きの女子社員なんて多数いる。
「俺は君ならば構わない。逆に君は迷惑か」
「まあ、迷惑というか私の方が悪い噂は流れそうですが」
 はっきり言ってしまったあと、慌てたが社長は顔色一つ変えない。
「その場合は、俺が守ると保障しよう。子どもでもないし、人の恋愛に口を出す方が大人としておかしいと思うし」
 ひどく真っ当なことにぐうの音も出ない。
 でもそれは、綺麗な世界に生きてきた社長だからだろうね。
 なんだかこの会話もきっと堂々巡りで価値観が違うのだからきっと分かり合えないと思った。
 それならばこれから価値観は擦り合わせていくしかない。
 なんだか逆に清々しく前向きになれた。
 話が通じないならば、此方の常識もきっと社長には不思議な言動に見えてしまうんだろう。
「お互いに何か支障が出ればすぐに出て行くって事で良ければ、お言葉に甘えさせていただきます」
 頭を下げると、社長はもう一度微笑んだ。
 優しすぎて少し残酷に感じる。
 今までに感じたことのない優しさに、きっと私は戸惑っていたんだと思う。

(――つづきは本編で!)

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