「これは今の君に必要な『研修』だ。上司の言う事はちゃんと聞くものだよ」
あらすじ
「これは今の君に必要な『研修』だ。上司の言う事はちゃんと聞くものだよ」
営業成績一位になった一花は、ある日突然社長室に呼ばれる。お給料アップ?と期待に胸を膨らませる一花に、社長の賢治は「借金があるんだろう?」と大金を見せつけ、愛人契約を命じる。
だが彼は手を出してこないばかりか、一花に仕事や取引の様々な事を丁寧に教えてくれる。ある夜彼に愛人契約の真意を尋ねると「知りたいなら寝室においで」と誘われ……
作品情報
作:小達出みかん
絵:風街いと
デザイン:RIRI Design Works
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本文お試し読み
一 愛人契約は突然に
フロアの最上階の廊下には、濃い青色の絨毯が敷き詰められていた。紺色と水色の間のような、コバルトブルーに近い色だ。一花はいったん立ち止まり、ガラス張りの窓に映った自分の姿をチェックした。いつも通り、ほんのりとした色彩のメイクに、ふわふわの髪はきっちりポニーテイルでまとめてある。髪留めは百円ショップのものだが、TPOにふさわしい色と形のはずだ。
(だ、大丈夫……おかしな所は、ない)
ふぅぅと深く深呼吸をし、一花は再び歩き出した。こんな最上階に足を踏み入れるのは、入社以来だ。いやがおうでも緊張してしまう。
(しゃ、しゃ、社長から、直々に呼び出しなんて……)
入社二年目、まだ下っ端の営業でしかない自分に、社長が何の用だろう。新しい事業でもするのだろうか? それとも、もしかして。
(お給料アップの通達、とか……?)
一花は先月、大口の取引先との契約に成功していた。この事業が始まれば、年間の売り上げ数パーセントアップは固い。快挙と言っていいだろう。もちろん一花だけではなく、チーム全体の功績ではあるのだが、きっかけになったのは自分だった。なので社長手ずから金一封……みたいなことがあっても、おかしくはないかもしれない。
(もしそうだとしたら、いくらくらいなのかなぁ……?)
都合のいい妄想に、一花の頬が少し緩む。お金はありがたかった。一花は入社以来、お給料アップを夢見て馬車馬のように働いてきた。一花にとって、もらえるお金は、多くなればなるほどいい。だが。
(待って待って、そんないい話とは限らないじゃない。気を引き締めないとっ)
一花は気を付けの姿勢で、コンコンと社長室のドアをノックした。
「失礼します……!」
やや緊張気味の声で告げ、ドアをあけてまっすぐの先にある社長の机を見据える。
が、そこに社長はいなかった。
「やぁ、待っていたよ」
広々とした社長室の右側の一角にあるソファの中央に、社長、大島はややくつろいだ姿勢で腰を下ろしていた。
――三つ揃えの似合う人。直に会ったのは、入社のあいさつの時だけだが、その時一花はそう思った。厚みのある大きな身体に、まるで芸能人のような彫りの深い顔立ち。そして堂々とした自信にあふれる態度。一花が対面すると、まるで大人と子どものようになってしまう。こんな男の人ならば、三つ揃えだろうがパナマ帽だろうが白スーツだろうが着こなしてしまうのだろう。
一花よりひとまわり近く年上の、不惑を前にした大島社長は、愛想よく微笑みながら一花にソファをすすめた。
「いきなり呼び立てて悪かったね。まぁ、かけてくれ」
一花は素直に、大島の向かいのソファに腰を下ろした。まだ緊張は解けない。それは、間の前にいる男性が社長で、ハンサムだからというだけではない。
(尊敬できる人なんだけど……大島社長って、ちょっと怖いんだよね)
大島の笑顔は、笑っていても目の奥が笑っていないような、どこか冷めた雰囲気があるのだった。もちろん誰しも、作り笑顔くらいするだろう。会社勤めであればなおさら。だが、それを差し引いても、大島の笑顔が一花はなんとなく苦手だった。
入社初日、緊張しながら自己紹介をした一花に、大島は鷹揚に微笑んでよろしく、と言った。その時の顔が印象的だったので、しっかり覚えている。
穏やかな態度を装ってはいるが、その目の奥に、相手の心の底まで見透かす獰猛さを隠し持っているような――。そんなことはないと思いつつも、一花は背筋が冷たくなってしまった。
(な、なんか……笑顔なのに、威圧感が半端なくて怖い……っ)
その視線にさらされると、何も悪い事などしていないのに自分が恥ずかしくなってくる。安いスーツや、ちっちゃな吹き出もののある頬。そんなどうでもいい自分の弱みが気になってくる。だが、一花はだからなんだ、と挨拶の時自分自身に気合を入れたのだった。
(よくわからないけど……負けないぞ! 新入社員として頑張るぞ……っ!)
一花はその時の事を思い出しながら、そわそわとソファに座った。
「そっちに座るか」
「え?」
「いや、なんでもない。それよりこれを」
大島はアタッシュケースを持ち上げて、ローテーブルの上に置いた。
「新しい商品か何かですか?」
このSGコーポレーションは手広く事業をしているが、メインに扱っているのは主に食品と飲食店だ。新しい目玉商品を、いちはやく営業で売り込んで欲しいという話かもしれない。一花は居住いを正した。そんな一花をみてわずかに笑みを浮かべながら、大島は反応を見るようにアタッシュケースの留め具を外し、蓋を開けた。
「こ、これは……!?」
まるでドラマのワンシーンのような光景に、それ以外の言葉が出ず、一花は固まった。
アタッシュケースには、一分の隙もなくびっしりと――札束が、詰まっていたのだ。
「君に仕事を頼みたい。これは、その手付金だ」
あまりの光景に目がくらみそうな一花は、思わず聞き返した。これは、商品レベルの話ではない。
「な、なにか新しい事業を立ち上げるのでしょうか?」
「いいや? ああ、まぁ、そうとも言えるかもしれないが」
一花の動揺をじっくり楽し気に眺めたあと――大島は言った。
「私と、愛人契約してほしい」
今度こそ、一花はぴきんと石になったように固まった。頭の中は、真っ白だ。
(ど、どういうこと!? あ、愛人!? 私の、聞き間違い……?)
とくに面識もない社長から、こんなとんでもない事を言われるなんて。まさに青天の霹靂。頭も舌も上手くまわらない。
「あの……社長、それは、つまり……?」
とりあえず聞き返した一花に、大島は首をかしげて流し目で一花を見た。わずかに目じりに向かって垂れるその睫毛が、いやに長く見える。まるで、テレビで俳優がするような仕草。それがピタリとはまっている。一花はなんだかドラマを見せられているような気持ちになった。
「私の愛人となって、しかるべき仕事をしてほしい。満足いく仕事をしてくれれば、報酬は上乗せしよう。――君は、お金に困っているんだろう?」
その言葉に、一花の頬から血の気が引いた。
「な……なんで、それを」
「社長ともなればそれくらいわかるのさ。君が背負わせられている借金の額も知っているよ。どうだい?」
「ど、ど――どうって」
「もちろん、君が嫌がるような事はしない。どうかうなずいてはもらえないかな。私は君を必要としているんだ」
アタッシュケースから、目を離す事ができない。正直、こんな大金は魅力的だ。借金がチャラになるかもしれない。
けど、だからといってこんな怪しい提案に簡単にうなずく事なんてできない。
「必要って、ええと、具体的に、仕事内容は、そのぉ……」
しりすぼみに聞く一花に、さらりと大島は答えた。
「長年、独り身なものでね。会食やレセプションの場でなにかと不便なんだ」
「不便?」
「見知らぬ女性にずっと横に張り付かれるのも、ホテルのベッドで勝手に待たれているのも、私はあまり好きでなくてね。もちろん彼女らも誰かの命令でしているのだろうが……。この不幸なすれ違いを解消するためにも、毎回同じ、連れの女性が必要なんだ」
あまりに違う世界の話すぎて、内容がよく頭に入ってこないまま一花はうなずいた。
「そうですか……」
「そう深刻に取らなくていい。あくまでしばらく、私の連れとしての役割をこなしてくれればいいんだ」
一花はおそるおそる口を開いた。
「えっと……つ、つまり、ただお供をするだけ……ってことですか?」
すると、大島はにやりと不敵に笑った。
「そうだ。君が望めば、なんでも応える用意はあるがね?」
その表情に、一花は肩を震わせた。だが、ひとつの疑問が思い浮かんだ。
「あの……そ、それなら、もっとふさわしい人がいくらでもいるかと思いますが……プロの綺麗な方、とか」
「君を選んだ理由を知りたいと?」
「え、ええ、まぁ……」
すると大島はにっこりと笑った。一花が苦手な、あのうそ寒い笑みだ。
「それは、君とならいい取引ができると思ったからさ。私は接待で不快な思いをせずに済むし、君は借金を返せる。ウィンウィンだろう?」
一花は思わず後ろに下がった。いつもの笑顔に、今日は圧もプラスされていて、まるで念力を掛けられたように身動きができない。柔らかなクッションが背中に当たる。
(こ、こわすぎる……)
たとえ今大島が言ったことが本心だとしても、そんな付き添いだけの仕事でこんな大金はもらえない。どう考えてもイーブンではない金額だ。受け取ったら何を要求されるか、わかったものではない。
だが、一社員である自分が、社長直々の頼みを断れば、首にされてしまうかもしれない。
(せ、せっかくいい会社に入ったのに。仕事も頑張って、実績もようやく積めてきたのに………)
こんな所でやめて、たまるか。そう思った一花は、ごくんと唾をのんで代案を打診した。
「わ……わかり、ました。ですが一つ、お願いがあります」
「なんだい?」
「お供を務めさせていただくので――そ、それ相応の報酬を、いただければと思います」
「これじゃ不満かい?」
「いえ、違います。その、相場を知りませんが……日当一万円とか、そんな感じでお願いしたいです……」
すると大島は少し目を見開いたあと、ふっと皮肉気に笑った。
妙なことだが、その笑みのほうが自然に見えた。
「まったく、謙遜などしなくていいのに」
「いえ、していません。ちゃんと報酬はいただきたいです。まだまだ若輩者ですが、SGコーポレーションで働いている以上、適正価格の感覚は身につけているつもりです。私程度でしたら、一日一万円くらいが妥当かと」
真剣に自分の要望を説明すると、大島はふっと笑みをひっこめて、顎に手をあてた。
「なるほどねぇ。たしかに、君の言う通りだな」
大島はアタッシュケースから、すっとお札を取った。
「では、前払いしよう。今週の土曜日は開いているかな?」
「は、はいっ」
「では、午後三時に社で待ち合わせしよう。いいね?」
その圧のある笑顔にぺこぺこうなずいて――一花は社長室を出た。
渡された茶色いお札は、数えてみたら五枚だった。
(日当一万って、言ったのに……)
今起こった事を頭の中で整理しようとしても、うまくできない。ため息をつきつつ、一花は営業課のデスクに戻った。
「おっ、榛名《はるな》、今戻ってきたのか」
同期の井手が、今しがた営業から帰ってきたようで一花に声をかけた。付き合いは二年目。気心の知れた仲間のような存在だ。
しかし、いくら彼にもさっきの社長とのやりとりは言えない。一花は適当にごまかした。
「ううん、私はこれから出るとこ」
すると彼はちらっと時計を見て肩をすくめた。
「もう午後も遅いってのに、熱心ですねぇ」
今度は一花が笑って肩をすくめた。
「それくらいしないど、みなさんに追いつけないもんで!」
「はっ、良く言うよ。俺を抜いたくせして」
一花と井手は、よくトップを争っているが、井手はそう言ってもまったく嫌味のないタイプだった。
「できれば来月も勝ちたい! んじゃ、また!」
女だろうが若手だろうが、関係ない。同期の中で誰よりも働いて、役に立って、お金を稼いでやるんだ。一花のその心意気は、入社二年目でますます燃えていた。とにかく目の前の仕事だ。一花は大島とのさっきの出来事を、一時的に頭の隅に棚上げした。
「榛名、外回りいってきます!」
営業グッズがぎっしり詰まった大きな鞄を掴んで、一花は勇んで社を出た。
いつものようにがむしゃらに仕事をこなして、週末がくる。すると嫌でも、棚上げしていた問題に取り組まなければいけなくなる。
社長とのあの取引は、嘘だったんじゃないだろうか。夢でも見たんじゃないだろうか……。一花はまだ半信半疑だったが、うなずいてしまった以上行かないわけにはいかない。約束の時間は三時だったが、服装に迷ってなかなか鏡の前から離れられない。小さな鏡を箪笥の上に置いて、ギリギリまで下がって自分の姿をチェックする。
(何を着ていけばいいんだろう……? 行き先を聞かなかったからなぁ……)
もし、あの時大島が言っていた通りにパーティーへの同伴を求められるのだとしたら、いつものスーツだと場違いだ。かといって、そんな場所に来ていく服など一花は持っていない。
(このスーツが、一張羅なんだよねぇ……)
はぁとため息をついて、一花は結局いつものスーツに袖を通した。普段より余裕を持って丁寧にメイクをしていると、一花の後ろを母、由美子が忙し気にぱたぱた通り過ぎていった。からんと音がして、ヘアスプレーが転がる。床に置いて使っていたのが母の足に当たってしまったようだ。
「あっごめん」
「いいよ」
母が拾ったスプレーを、一花は気もそぞろに受け取った。
二間しかない狭い部屋に、一花と母はずっと二人で暮らしている。
「あんたどうしたの? そんなとこに鏡出して。そんな気合入れて」
「え? いや、うん……」
歯切れの悪い一花に、母は上着に袖を通しながら眉をひそめた。いつもの、何か気になる事があるときの表情だ。
「今日も会社?」
「うん、そう……休日出勤……かな」
「ふぅん。遅くなりそう?」
「ううん。お母さんよりは早いと思う」
「そお? わかった。私はいつも通りだから。あと昨日の残りが冷蔵庫に入ってるから、チンして食べてから行きなさい」
一花の母は、昼間は弁当屋、夜は小料理屋の二つの仕事を長年掛け持ちでしていた。てきぱき出勤の準備をする母を見て、一花の胸にずっとある気持ちが湧き上がる。
「あ、あのさ。そろそろ仕事減らしたら? 私も就職したことだし、少しは休んだ方がよくない?」
すると母はにっと口の端を上げて使い込んだバッグを肩にかけた。いつもお風呂場でこまめに白髪を染めている茶髪がさらりと揺れる。きっちりと口紅の塗られた赤い唇は、いつだって元気に笑っている。
「何言ってんの。私はしたくて仕事してんのよ。旦那がいるわけでもなし、あんたも大人だし、家にいたってする事ないでしょうが」
そう言って、母は大股で出て行った。キィ、バタンとスチールの薄いドアが閉まる音がし、外の半木造の階段をぱたぱたと降りていく足音が遠ざかっている。
その音をききながら、一花は無意識に唇をかみしめた。
(休む気になんて……なれないよね。だってまだ、借金残ってるんだもん)
けれど母はそんな事は言わず、いつものように笑って出て行った。あんなこと、言わなきゃよかったな。一花は後悔した。
母は借金を背負いながら必死に働いて、一花を大学まで行かせてくれた。就職したとき親戚に嬉しそうに電話で報告する母の声を、はっきり一花は覚えている。
『一花、SGコーポレーションってとこに就職するの。たくさんレストランを経営している会社なんですって。あの子も春から商社マン、じゃなくて、商社ウーマンよ!』
一花はため息をついて立ち上がった。お腹は空いてない。冷蔵庫の煮ものはそのままにしておこう。荷物を持って部屋を出て、家の鍵を閉める。経年劣化がひどく、少し上に持ち上げて力を入れないと鍵が締まらない。おまけに扉は錆びて塗料が剥がれてみすぼらしい。
(こんなとこ……次地震が来たらおしまいかもしれない)
いつか借金が返せたら。一花の給料で、自由にできるお金がもう少し増えれば。
(引っ越しして、お母さんに新しいバッグのひとつも、買ってあげたい)
だから、自分はどんな事があっても、今の会社で長く勤めて、たくさんお金をもらえるよう頑張らなければならない。
(そう……社長が、私になにか仕事をさせたいなら、できる限りその役目を果たす、それだけだ)
あらためてそう決心し、一花は駅までの道を踏みしめていった。
「やぁ、榛名さん」
「あ……しゃ、社長」
一花は慌てて腕時計を確認した。約束の三時の五分前。大島はすでに、会社の入り口で待っていた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか」
駆け寄った一花に、大島は鷹揚に首を振った。休日だが、彼もまたスーツを着ていた。なので一花はほっとした。
「いいや。今来たところさ。では、行こうか」
大島が振り向くと、会社の前の道路に停まっていたタクシーのドアがすっと開いた。大島が乗り込んだので、一花もおずおずと続いた。
「一斤屋≪いっこんや≫まで頼む」
「承知しました」
タクシーが音もなく走り出す。一花の背筋は引き締まった。
(一斤屋! 東京駅の目の前にある老舗百貨店だ!)
と言う事は、やはり仕事なのだ。店舗内に店を出すのか、それともデパ地下に自社製品を置かせてもらう交渉か。一花は頭の中で効果的なプレゼンを考え始めた。
(うちの目玉の賞品は、なんといっても産地直送黒豚の生ハム! これをどう、高級百貨店に売り込むか……ああ、もう、社長ってば、なんで事前に言っておいてくれないんだろう。資料とかいろいろ準備してきたのに)
じっと考え込む一花を、大島は上から面白そうに見ていた。
「ついたな。降りようか」
声を掛けられて、一花は車が止まったことにやっと気が付いた。あとに乗り込んだ自分が降りなければ、大島が出られない。
「はっ! す、すみませんっ」
慌ててタクシーから出てよろける一花の腕を、大島がぐっとささえて隣に立った。
「そう固くならないでくれ。今日は肩の力を抜いて」
目の前にそびえたつ百貨店は、まるでお城のように見えた。プライベートでは全く縁のない場所だが、仕事となると話は違う。緊張と武者震いで足が震えそうになるのを抑えながら、一花は大島に続いてピカピカのガラス扉をくぐった。
(よおし! 私の営業トークで、一斤屋と取引成立させてみせるぞ! ……わっ)
無理やり気合を入れた一花だったが、大島が突然立ち止まったのでびくんと足がすくんだ。
「大島様、お待ちしておりました」
大島の前で、百貨店の店員と思しき女性が深々と頭を下げていた。
「今日はたのむよ、町田さん」
「ええ、かしこまりました。ではお二人とも、サロンにご案内いたしますね」
闘志をみなぎらせて、一花は案内された部屋のソファに腰かけた。ほのかなオレンジの照明に、流れるクラシック。ソファは天鵞絨≪びろうど≫張りで、恐ろしく座り心地がいい。商談をするにはいささか豪華な部屋だが、きっとそれだけ、大島の立場が重いと言う事なのかもしれない。目の前に、先ほどの町田さんがティーカップを置いてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
にっこりと微笑むその笑顔は、余裕があって美しかった。この部屋によく似合う女性だ。ティーカップを置く小さな音まで、品がいい気がする。
その町田さんは、目の前の椅子に腰かけて、話はじめた。
「では本日は、お連れ様に必要なお召し物一式がご入用とのことで」
彼女がこちらを見てそう言ったので、一花は思わず目を剥きそうになった。
(えっ?)
仕事の話ではなかったのか。しかし大島はうなずいた。
「そうだ。私は疎いので、町田さんたちにお任せしたいんだが」
そう言うと彼女は謙遜した。
「大島様のほうが、よほどセンスがあるかと存じますが……。すでに何点かこちらサロンにご用意してあります」
町田さんが目配せすると、奥の方から、キャスター付きの金のハンガーラックを引いて別の女性がやってきた。ラックには、色とりどりの服が何着もかけられていた。どれも一花が触れたこともないような、つるつるさらさらした高価そうな布のワンピースだ。
「ではこちらによろしいですか」
ラックを押してきた女性が一花に言った。これは仕事なのか、なんなのか。まだ整理のつかない一花だったが、とりあえず失礼になるのでいう通りにその女性のもとへ進み出た。
「申し遅れました。私スタイリストの村井と申します。本日は一花様を担当させていただきます。よろしくおねがいいたします」
「はっ、はい、よろしくお願いします」
わけがわからないながらも頭を下げた一花だったが、彼女の後ろからひょこっと別の女性たちが顔を出した。
「ファッションコーディーネーターの佐藤でございます」
「私はビューティーアドバイザーの宮野になります」
一気に美しい女性たちに囲まれて、一花は思わず縮こまりそうになってしまった。
「あ……あ、よろしくお願いいたします……」
女性たちは、次々にドレスを取り出し、一花の前に見せる。
「一花様はお肌の色が明るくていらっしゃいますね。となるとこちらの淡い色のドレスがお似合いかもしれません」
ふわりとピンク色のシフォンが目の前でひるがえる。たっぷり布が使われて、波打つスカート。風もないのに柔らかに跳ねるふわふわの素材は、まるで妖精の羽のようだ。胸元と袖も淡いレースでおおわれていて、金の縁取りがアクセントになっている。
「とても可愛い、ですね」
何といったらいいのかわからず、一花は小学生並みの感想を言った。
「でもこちらもよろしいかと。ご覧ください」
佐藤さんだか宮野さんだか――が、別のドレスをラックから外した。こちらはシックな、深い青色のドレスだ。かっちりとしたラインに、胸元と両手は繊細なレースでぴったりとくるまれるようになっている。肌が透けて、上品ながらもほどよく抜け感がありそうなドレスだ。
(わ、私以外の人が着れば、だけど……)
こんなお洋服たち、どう考えても自分はお呼びではないだろう。どういう事なのか大島に問いたい一花であったが、女性たちは次々と一花の前にいろんな物を差し出す。
「こちらの青いドレスですと、きっとアクセサリーは一粒ダイヤがお似合いです。こちらのイヤリングも合わせていかがでしょう」
「となるとヒールもこちらがよろしいですね。黒よりは銀の方がよいかと」
女性たちはちらりと大島に目線を送り、反応を伺う。
「うん、いいんじゃあないかな。何回かパーティーに出ても困らないように、全部あわせて、十着くらい見繕ってもらいたいね」
「かしこまりました!」
女性達は嬉し気にうなずいて、靴箱や洋服たちを持ちあげた。
「では一花様、フィッティングルームへご案内いたします」
試着室で着ては脱いで、履いては脱いでを繰り返し、ゆっくり考える暇もない。
(パーティー用っていったって、こんなたくさんドレスはいらないし……支払いはどうするの……?)
その事を考えると、冷静ではいられない。
「一花様、とってもお似合いです!」
そう声をかけられて、一花ははっと鏡を見た。先ほどの青いドレスを着て、一花は立っていた。家のものとは比べものにならないほど大きくそびえたつ鏡の前に。
光沢のある青色のドレスは、まるで晴れの日の海面のような色をしていた。腕と首元を覆うレースは、絹糸で縫い取りをされており、青銅の艶が浮いている。肌に触れる感触も柔らかく着心地がいい。思わずくるりと回って、海色のスカートが翻るのを見てみたくなってしまう。が、足元の高いヒールと、この状況に対する困惑でそんな気にはなれない。
「このドレスの青に、アクセサリーとヒールの銀色が映えますわ」
「では、いったん大島様のもとに」
連れられて、一花は恐々とさきほどの空間へと戻った。ドレスを纏った一花を見て、大島は少し目をみはったあと、満足気にうなずいた。
「うん、いいね。やはり町田さんにお任せしてよかったよ」
「恐縮でございます」
恐縮しているのは、自分である。一花はそう言いたかったが、大島はふと思いついたように言った。
「このドレスは、アキさんのものかい?」
すると町田さんが大きくうなずいた。
「その通りでございます。さすが大島様、ご覧になっただけでわかるなんて」
「アキさんのデザインは個性があるからね。……ベルドゥミニュイはもう、個人の注文は受けてはいないのかな」
ご確認を……と町田さんが言いかけたその時、ぱっと一花の横に、長身の人が立った。不思議な形にまとめた長い黒髪に、深い緑色のオールインワン。足元は金色のサンダル。女性とも男性ともつかない、不思議な魅力を持つ人だった。後ろには、何人かの女性を従えて、堂々としている。芸術家か、何かのクリエイターだ。一花はそう見当をつけた。
「おひさしぶりね。大島さん。あなたが居ると聞いて顔を出しちゃったわ。大島さんの注文だったらいつでも受け付けるわよ。私はちゃんと恩を覚えているからね」
そう言って、片目をパチリとつぶった。声を聞いて、彼が男の人だとわかった。
「元気そうだね、アキさん。活躍は耳にしてるよ。ベルドゥミニュイも大きなブランドになったようで嬉しいね」
「あなたの会社もね。……ところで注文したいのは、彼女のドレスかしら」
いきなり自分の話になって、一花ははっとした。
「そうなんだ。君の類まれなそのセンスで、彼女に似合うドレスを作ってほしい」
アキの目が、親し気に一花を見る。
「はじめまして。私はアキ」
一花はあわてて頭を下げた。
「榛名一花と申します、よろしくお願いします」
「『マーレのドレス』が似合っているわね。あなただけの特別なドレスは……どんなものがいいかしらねぇ……」
一花の全身をちらりと見て、彼の顔がパッと明るくなる。
「あらっ、いいのを思いついちゃったわ。ふふっ、こんな若い子のドレスをデザインするのは久しぶり。腕が鳴るわ。さっそくデザインを起こさないと」
そう言って、彼女は従えている女性数名とサロンを出ていった。それを見送って、大島は一花に嬉しそうな笑顔を向けた。
「運がよかったね。これで特別に素敵なドレスを着た君が見れる」
そして町田さんたち女性陣にさらりと聞いた。
「言った通り、ほかもすべて見繕ってくれたかい?」
「はい。十着分のコーディネートをさせていただきました。こちらになります」
ハンガーラックから商品を出して説明が始まる所を、大島は首を振った。
「いや、大丈夫だ。どうせいずれ見れるから、その時の楽しみに取っておきたい」
大島は傍らに立つ一花を見上げて、そう言った。
店員たちが伝票を持ってくる間の待ち時間、一花はこそこそと大島に囁いた。
「しゃ、社長! これはいったいどういう事ですか」
「なんだ? 聞いていただろう」
「パーティー用の服ということなら、じ、自分で用意しますので……!」
こんな高い物、と言いかけた一花を大島は遮った。
「私の都合で連れまわすのだから、その費用は私が持つのが当然だろう。これは必要経費だ。それに」
大島はなんてこともないように言った。
「相応の服装でないと、君が会場で肩身の狭い思いをする事になってしまうからね。こういう場合、百貨店は便利だろう」
「で、ですが……こんなにたくさん、一つのお店で買ったら、とても高額に、なってしまうのでは……」
ドレスからアクセサリーから、下着にストッキングまで。
とうとうそう言った一花に、大島は笑いをひっこめて真面目に言った。
「それが、百貨店が発明した『外商』というサービスのなのさ」
「外商?」
聞いた事がない言葉だった。
「『お得意様』には、頭のてっぺんからつま先まで、なにもかも面倒を見てくれる。電話一本かけるだけで、担当のスタッフを中心にアドバイザーたちと連携して、協力しあって顧客にぴったりのものを用意しておいてくれる」
「な、なるほどぉ……」
その代わり、莫大なお金がかかる。と言う事か。一花とはまったく関わりのない、雲の上の世界の話だ。
「つまり社長は、一斤屋の『お得意様』なんですね」
大島は面白くもなさそうにうなずいた。
「まぁ、良い物を適正価格でというウチの方針とは真逆だが、逆にそういった世界を知っておくことで、自社にも生かせるものが出てくるだろう。百貨店とパイプもできるしな」
一花は考え込んだ。
「さすが社長です……けど、それとこれとはお話が違うというか」
「何がだい?」
「私は……こんな良いものを買っていただくような、立場では……」
しどろもどろの一花に、大島はなんでもない事のように言った。
「なら、それに見合う仕事をしてくれればいい。君が気にするから言うが――このくらい、私にとっては大したものじゃない」
ひええ。と、思ったが、さすがに一花は口をつぐんだ。大島はどこか楽しそうに言った。
「それに、君だって仕事ではもっと大きな金額を踏まえて営業をしているだろう? だからこのくらいで、そう怯えるものじゃないよ」
優しく諭すようなその表情に、一花は思わず見入った。
この微笑みは――嘘っぽく、見えない。
(と言う事は――今は、心からそう言ってくれている、のかな?)
社長の優しさのようなものが少し垣間見えたような気がして、一花は意外に思った。
結局、大島の口車に乗せられて、大量の服やアクセサリーは一花の自宅へ送る手配が取られた。当の一花は、あの海色のドレスにショールを羽織った格好で、大島と再びタクシーに乗っていた。
(あの荷物、もしお母さんに見られたら……なんて言い訳しよう)
そんな事を考えていると、じっと自分に視線が注がれているのを感じた。
(そうだ! ちゃんと、お礼言わないと……!)
一花ははっとして、勢いよく頭を下げた。
「社長、今日はありがとうございました。私には過ぎたものを、いろいろ頂いて……」
頭を下げたままの一花に、大島は少し物憂いような声で言った。
「そんな事はいいんだ。それよりも……」
一花が顔を上げると、こちらを覗き込む大島と目がしっかりと合った。やや垂れ目の黒い瞳から放たれるその視線に、一花は捕らえられたように動けなくなった。
(ち……近くない……!?)
固まる一花を見て、大島はふっと親し気に笑った。
「よく似合っている。とても綺麗だよ」
一花は思わず固まった。思ってもみなかった事を言われて、ガラにもなく頬がかあっと熱くなる。
ずっと社長の顔をしていたくせに、いきなりそんな事を言うのは、そんな表情を見せるのは――ずるいのではないか!?
「あ、ああ、ありがとう、ございますっ」
視線をそらした一花に、大島はふっと力を抜いて、座りなおした。
「もういい時間だから、食事に行こうか」
「あ、は、はい。よろしければ、お供させていただきますっ」
頬を赤くしたままうつむき、カラ元気で答える一花を、大島は薄い笑みを浮かべて眺めていた。
ガラス張りのレストランに連れてこられて、なんだかオブジェみたいな料理が次々出てきて――緊張で味はよくわからなかった――一花はやっとの事で大島のタクシーから下ろされ、家まで歩いていた。
(お、おっかないレストランだった……グラスが、グラスがうっすうすで!)
ちょっと強く握っただけで割れそうなぴかぴかのグラスは、クリスタル製だったらしい。うっかり割ってしまわないかひやひやしながら食事する一花に、大島は今後の予定を説明した。一花は頭の中で、それを繰り返した。
(えっと、来週末に、三ツ星レストラン新装開店のレセプションパーティーがあるから、私はそれに出席しなきゃいけない……)
大島が出した条件はシンプルだった。適度に礼節を保ちつつ、「愛人」として親密に傍らについている事。
(だから、ええっと、社長、じゃなくて、賢治さん、って呼ばないといけない)
愛人の演技なんて緊張するが、理由あっての事だから仕方ない。大島はあくまで、近づいてくる女性をスマートに遠ざけたいだけなのだから。
(つまり女よけ要員……ってことだよね。それにしても、この靴痛いなぁ)
こんなヒールの高い靴、初めて履いた。白と銀の混ざったデザインで、爪先はいぶし銀のようなグリッターで輝いている。
きっとヒールの高さ並みに、お値段もするんだろう。一花はしみじみと思った。
(社長も大変だな。それだけのために、お金に困ってる社員を探して、休日をさいた上にこんな出費をして)
だが、選ばれて、ここまでおぜん立てをしてもらったからには、全力で彼の役に立つ努力をすべきだろう。今のままの一花では、彼に恥をかかせてしまうかもしれない。
(よし、このヒールに慣れなきゃ。あと、フォークとナイフの使い方も。お上品な食べ方も)
今日のレストランで、大島はそれとなくフランス料理のマナーを教えてくれた。カラトリーは外側から使う。ウエイターを呼ぶときは、手を上げるのでも声をかけるのでもなく、目配せをする。スープのスプーンは手前から奥に動かす。
……覚えることは、たくさんありそうだ。
(頑張って、社長の『愛人』演じなくっちゃ……)
「じゃあ、今日はこれ終わりにしましょうね。お疲れさま」
「うぅ、アキ先生、ありがとうございましたぁ……」
一花はへとへとになってはぁはぁ言いながら、目の前の堂々たる美人に頭を下げた。すかさず町田さんが、飲み物を二人に差し出した。
「お疲れ様でございます。お二人とも、休憩室へどうぞいらしてください。足を休ませましょう」
ここ一週間、一花は会社帰りに一斤屋に寄って『レッスン』を受けていた。きっかけは、町田さんからの電話だった。なんとか母の居ない時間に大量のドレスたちを受け取ったあと、狙いすましたかのように一花の携帯に電話がかかってきたのだ。
「ご無沙汰しております、一花様。無事お荷物はお手元にとどきましたでしょうか?」
なんで携帯番号を……? と一瞬思ったが、そういえばドレスを郵送する手配の際、アドレスを書いて彼女に渡していたのだった。
「はい! 今届きました。わざわざ確認をありがとうございます」
職場から家に帰ってすぐだったので、一花はヒールを脱いで足をさすりながら答えた。こここの所、ハイヒールで過ごす練習をしていた一花の足は、あちこち擦れてタコができていた。
「安心いたしました。ところで一花様、次のパーティーの際のコーディネートはお決まりでしょうか?」
そう聞かれて、一花は戸惑いながら答えた。
「え、ええと……まだ、決めてないです。もちろんみなさんに決めていただいたどれかにしようとは、思っているんですが……」
「次は、エンパイアホテルのレストラン、『ブルネージュ』の開店パーティーにご出席すると伺っておりますが」
「はい、そう……みたいですね」
「立食パーティーだと思われますので、やや動きやすく、かつ格式のあるものの方がよろしいかと存じます」
「か、格式……?」
「一花様がお持ちの中のものですと、この間の紺色のドレスか、深緑のツーピース、または白のアフタヌーンドレスがあてはまります」
こんなパーティーだから、このドレスがいい、なんて判断する知識は、一花にはまったくない。慌ててメモを探し出す。
「あ、ちょ、ちょっと待ってください、書き留めたいので……っ」
あたふたする一花に、町田さんは優しく言った。
「それでしたら、私どもが直接伺ってお伝えいたしましょうか? お持ち物や靴も、組み合わせによって変わりますから」
一花は電話越しに仰天した。外商の店員さんというのは、そんな事までしてくれるのか。一花が買ったわけでもないのに、いいんだろうか。
しかし、これは願ってもない申し出だ。が……一花は部屋を見回した。
(こ……こんなせまっ苦しい部屋に、町田さんを呼ぶなんてできない……)
そこで、話し合いの末、一花の方が一斤屋に赴く事になったのだった。そこで町田さんに、惨憺たる一花の足を目撃され、一花は恥ずかしく思いながら、ハイヒールの訓練をしている事を打ち明けた。すると彼女は、なんと一斤屋の伝手で、先生を呼んでくれたのだった。元モデルだとさっそうと現れたその人はなんと――デザイナーの、アキさんだった。
アキ先生に手取り足とり指導され、一花はだんだん痛くない歩き方ができるようになってきていた。
「ありがとうございます、アキ先生」
レッスンの後のお茶を飲みながら、一花は改めてアキにお礼を言った。アキは一花の足を指さした。
「だいぶ力が抜けてきて、よかったわ。ドレスもヒールも、なかなか着こなせるようになってきたじゃない。その調子で、本番も歩くといいわね。姿勢の事も忘れないで」
今日、一花はアキの指示で、ヒールとあの海色のドレスを身に着けてレッスンを受けていた。必死に床に貼られたテープの上を歩く一花を、アキはずっと、満足気に眺めていた。
「そのドレスも、今のあなたに着られてきっと喜んでるわ」
今着ているものをはじめとして、町田さんがセレクトしてくれたドレスの中の数点は、アキさんのブランドの物だった。それで、町田さんは彼を先生として呼んでくれたのかもしれない。
「とくにその青色のはねぇ。若い女の子のパーティーデビューになるようなものを、って思いながらデザインしたのよ。まさにそうなったわね、ふふっ」
歩き方だけではなく、立ち振る舞いまでもアキは教えてくれた。短い時間だったが、初めてそんなレッスンを受けて、今まで自分が気を遣っていなかった部分が何て多かったんだろう、と一花は驚いた。
「ドレスにふさわしい姿勢を先生に教えてもらったおかげで、なんだか肩とか腰まで軽くなったような気がします。動きやすいというか……」
「そうよ。最近の若い子は、前かがみでうつむきがちすぎるのよ。きっとスマホをたくさん使っているせいね。時にはしゃんと前を見て、胸を張るといいわ」
一花もその例にもれず、ずっと猫背で過ごしていた。指摘されて初めて、一花は背筋を伸ばす事を意識するようになった。
「髪の毛を上からひっぱられて、背骨が腰のまんなかに突き刺さるように……ですね」
すっかり染みついたアキからの教えを、一花は繰り返した。座りながらも、自然とその姿勢になる。
「そう。顎を引くのも忘れずにね」
一花ははっとして、顎を引いた。クスクスとアキは笑った。
「それじゃ、引きすぎ」
一花も笑いながら、ロボットみたいに顎を上げたり引いたりしてみる。それを見て、アキはもっと笑った。
「……ちょうどいい塩梅を、探さないとですねぇ」
「そうね。所で、大島さんとは仲良くやっているのかしら?」
一花と大島は、別に交際しているともなんとも言っていない。どう答えたものか。一花は逆に聞いてみることにした。
「は、はい。アキさんは、社長とは長いお付き合いなんですか?」
「まあね。昔、お世話になったのよ」
彼は懐かし気に目を細めた。
「あの人、SGを立ち上げる前は小さなセレクトショップをしていたのよ。そこに初めて、私のデザインしたお洋服を置いてくれたの。彼が見つけてくれたから、今の私のブランドがあるのかもしれないわね」
「そんな深い縁が……」
「むかーしの話よ」
そいえば、二人は同じくらいの年齢に見える。かつて一緒に仕事をした日があったのだろう。
「大島さん、あなたと結婚するつもりなのかしら」
その言葉に、一花はお茶を吹きそうになった。
「っ……それは、ないかと思います、はい」
あやうく踏みとどまった。
「え、そうなの? それにしては、すごい熱の上げようね。町田さんから聞いたけど」
一花は困って、後ろに控える町田さんを振り返ったが、彼女は完璧な微笑みを浮かべるばかりであった。
「いや、その……私はただ、社長の同伴要員というか、その場しのぎのパーティーのパートナーで……」
さすがに愛人契約(仮)とは言えないので、一花は嘘にならない範囲で説明をした。
「同伴要員? あの気難しい人がねぇ」
アキが眉をひそめてそう言ったので、一花も声を低くした。
「……やっぱり、アキさんも気難しいって思います?」
「やっぱり、っていうか、どこからどう見てもあの人、気難しい人よ。仕事も人品も確かではあるけど、本心をなかなか言わないから近くで付き合っていくのは大変だわ」
大島と一緒にいるときは意味もなく緊張してしまうので、一花はそう言われてなんだかほっとした。それに、アキのその言い方は、けなしながらも彼の事を理解しているふしがあった。
「なんでしょう、社長の前に立つとなんだか必要以上に緊張してしまうんですよね。いい方、なんですが……」
おずおずとそう言う一花に、アキはうなずいた。
「笑顔がうさんくさく見えるのよね。……まぁ、仕方ないことかもしれないけど」
なにやら含みのある言い方だ。
「何か……あったんでしょうか?」
「そうね……。でも、私はあの人の味方よ。だからあなたを見たとき、なんだかほっとしちゃったのよね」
何でほっとしたんだろう。それを聞く前に、アキはカップを置いて立ち上がった。
「さて、と。そろそろ帰らなくっちゃ。最後にこれ、渡しておくわ」
彼は大きな白い箱をテーブルの上に置いた。
「も、もしかして……!」
「そ。注文のドレスよ」
「は、早いですね……!」
すると彼は澄まして応えた。
「うちは優秀なお針子がいっぱいいますからね」
「ありがとうございます……」
「ベルドゥミニュイはね、フランス語で『真夜中の美少女』って意味なの。大島さんと、素敵な夜を過ごしてね」
そう言ってウインクをし、アキはしっかりとした足取りで颯爽とサロンを出て行った。
「さて、一花さん。明日のパーティーのために、最後の『打ち合わせ』をしましょうか」
呆けていた一花は、町田さんにそう提案されてはっと居住いを正した。
「はい! よろしくお願いいたしますッ!」
次の日は、からりと晴れた週末だった。初夏めいてきた昼下がりの空気の中、一花は普段は到底持たないような小さなバッグひとつを持って、大島のタクシーに乗り込んだ。荷物は小さい方がいいと、町田さんに教わったからだ。
「やあ、来てくれてありがとう」
後部座席に腰かけている大島は、悠然とそう言った。今日は白に近い、明るいグレイの三つ揃えを着ていた。黒いシャツに絞められたワインレッドのネクタイが目を惹く。いつものびしっとしたスーツとは違い、やや華やかな印象だ。
「しゃちょ……いえ、賢治さん、今日はよろしくお願いいたします」
一花が頭を下げると、大島はふっと微笑んだ。
「そうかしこまらないでくれ。今日私と君は、恋人なんだから」
「えっ……あ、は、はい……」
こんな時、何ていっていいかわからない。一花は今まで、ちゃんと恋人などいた事がなかった。そんな一花に、大島は手を差し出した。
「少し、親密になる練習でもしようか。ほら」
一花の差し出した手を、大島が握る。太くて逞しい手に握られて、一花の手はまるで子どもみたいに頼りなく見えた。大島の方が、手が温かい。肌を通じて、手がぬくもっていく気がする。大島がじっと、一花を見つめる。なんて言えばいいんだろう。一花の頬が、勝手に赤くなる。
(み、みっともない……! もう、大人のくせしてっ)
一花は自分で自分を叱りたくなった。手を握られたくらいで赤くなっているなど、まるで中学生のようではないか。
「け、賢治さんっ」
「なんだい」
「わ、私手相が見れるんです。よかったら手を広げてもらえませんかっ」
「それは意外な特技だね」
そう言いながら、大島は見やすいように手のひらを一花に預けた。
「見れると言っても、健康と恋愛運だけなんですけど……えへへ」
子どものころ、女子の間で占いが大流行していた時があった。その時の知識を思い出しながら、一花は大島の手の平を検分した。生命線は下にいくにしたがって、濃く太々と伸びている。
「昔よりも、今の方が健康ですね。そしてこれからも、きっと健康です!」
すると社長は、小さくうなずいた。
「ふむ。そうかもしれない。これから元気でいられるのはありがたいな」
「賢治さん、とても丈夫そうですもんね。何か運動とかされてるんですか?」
何の努力もなしに、このがっちりとした筋肉質の体系を維持することは難しいだろう。気になっていた一花は聞いてみた。
「大したことはしていないよ。昔はトレーニングを受けたりしていたが、今は自宅で筋トレをする程度さ」
「えっ、それだけですか?」
「それだけ、だ。それより……私の恋愛運はどうかな?」
少し冗談めかして聞かれたので、一花は真剣に手の平の横の結婚線を覗き込んだ。
「線が二本ありますねぇ……薄いのと、濃いのが。最初じゃなくて、二番目に出会う人の方が、縁がありそうです」
「へぇ。私と結婚してくれる人が現れるかな」
面白そうに言う彼に、一花は大真面目にうなずいた。
「はい! 二番目の方とは、そうなるかもしれません。線がとっても濃く出ているから、運命の人かも」
ひとりうなずいて手のひらを眺める一花の頬に、すっと彼の手が添えられた。
「その人と私は、もう出会っているのだろうね?」
一花の目を覗き込む彼の目は、さきほどの笑みは消えて、真剣だった。一花は再び固まった。その頬を、大島の指がゆったりと撫ぜる。なぜか、背筋がぞくっとして、一花は身を震わせた。
その、天使の羽が触れるようなわずかな接触は、くすぐったく、そして煽情的だった。
――まるで、服の下の素肌に触れるような手つき。大島は、こんな風に女性に触れて、抱くのだろうか。
そんな事をとっさに思い浮かべてしまった一花は、自分が恥ずかしくなってうつむいた。
「え、えと、それは、その……」
すると、大島はふっと笑って力を抜いた。
「はは、すっかり君の占いに夢中になってしまったよ、一花」
名前で呼ばれて、無駄にドキドキが煽られる。一花は目を瞬かせながらうなずいた。そんな一花に、大島は追い打ちをかけた。
「最初に言い忘れてしまったが――今日のドレスも、とてもよく似合っているよ。髪型も素敵だ。綺麗なうなじが良く見える」
そう言われて、一花は純粋に嬉しかった。町田さんに助けてもらいながら、着こなしやメイクなど、きちんと見えるように準備をしていたからだ。髪型など、つきっきりで『フォーマル見え』する結い方を教えてもらったのだ。きっちりしすぎず、おくれ毛や逆毛をあえて作って、適度なゆる感を出し、まとめる……というのが、案外と難しかった。
「ありがとうございます! 賢治さんは、今日もおしゃれですね。芸能人みたい」
手放しでほめた一花の笑顔を見て、大島の顔は、笑みの形に歪んだ。その影のある表情に、一花は自分が何かまずい事を言ったかと不安になった。大島は、一花の肩に手を伸ばして、そっとつかんだ。
「……ああ、君は本当に可愛らしいね。まるで、ガラスケースの中のお人形みたいだ」
肩を掴む手に、わずかに力が入る。
「君を連れて歩くより、いっそ本当に箱にしまっておきたいな……」
車内に、なんだか薄暗いムーディな雰囲気がかもしだされる。
(な、ななな、なにを言ってるんだ!? この人は……?)
運転手の存在が気になった一花は、わざと明るい声を出した。
「も、ど、どうしちゃったんですか、賢治さんっ、いきなりびっくりするじゃないですかっ!」
すると、大島は肩から手を引き、不穏な表情もすっと元にもどった。
「ふふ、冗談だよ」
「そ、そうですか……っ!」
なんだか冗談には見えない雰囲気だった。それとも、一花をからかって遊んでいるのだろうか。いや、多分……。
(あれだ、これから恋人を演じるわけだから、その予行練習……的なやつだ、きっと!)
こんなちょっと時間の間でも、大島の行動に、一花はただただ翻弄されていたのだった。
「わあ、すごいレストランですね……」
大島の隣に立って、ホテル内のレストランに入場した一花はため息をついた。ホワイトとペールピンクを基調とした華やかな空間は、所せましとキャンドルが配置され、ロマンチックに揺れる光がいたるところで灯されている。春のパーティーらしく、レストラン会場はたくさんの花でかざられており、生花のみずみずしい香りで満たされていた。大きな窓の外には、緑あふれるプールつきガーデンが見える。
一花は今日、アキが渡してくれた新しいドレスを着ていた。それは淡いピンクの、総レースのドレスだった。繊細なレースは蔦と薔薇の模様で、ところどころに緑とローズピンクの色糸で刺繍がされている。まるで朝焼けの空に薔薇が咲いているような色のドレスだった。素敵だ。でも、似合うだろうか。一花は箱を開けた時一目みてそう思った。そして着てみてびっくりした。いかに一花が普通の冴えない娘でも、この特別なドレスはそれを自然と底上げしてくれているのだ。一花の健康的な色の肌と、染めた事のない色素の薄い髪に、アキの選んだ朝焼けのようなピンクはとても優しくマッチしていたのだ。
(すごい……色えらびから、気をつかってくれたんだ)
そんな一花の全身をちらりと流し見て、大島はうなずいた。
「今日の君は、まるで花とキャンドルの妖精みたいだ。飛んでいかないでおくれよ」
大島の誉め言葉は、ちょっと独特だ。たとえば同年代の男子なら絶対に言わないような事を言う。
(ひとまわり以上年上の男のひとって、皆こんな感じなのかな。それとも、社長の個性?)
もじもじしそうになるのを我慢して、一花は顔を上げて微笑んだ。ここはもう、レセプションの会場。仕事は始まっているのだ。
「賢治さんって、案外詩人なんですね。そんな風に、綺麗な言葉でほめてもらえてうれしいです」
恥ずかしさを振り切って、屈託なく笑った一花に対して、大島は少し言葉を詰まらせてから、肩をすくめて薄く笑った。
「普段はそんな事、ないんだがね。君の前でだけさ」
またまたぁ、と言いたくなるのをこらえて、一花は上品に(見えるように先生と練習した)笑顔で返した。
するとその時、照明が落とされて、会場の前方にスポットライトが当たった。どうやらオーナ―が挨拶をするようだった。
「えー、本日は、お集まりいただき、誠に……」
こんな立派なレストランのオーナーはどんな人なのだろうとじっと見つめる一花とは対照的に、大島はちらりと店内を見回していた。そしてある一点を見つめて、静かに唇の端を上げた。まさに腹に一物あり、と表現するにふさわしい笑顔だった。
スピーチが終わり、あちこちからパラパラと拍手が起こる。ビュッフェの料理が運ばれ、本格的な社交タイムとなった。大島と様々な人々の会話を隣で聞きながら、一花は軽く会釈をしたり相槌をうったり、控えめに見えるように気を使っていた。
(なんといっても、あくまで愛人……)
軽くグラスに口をつけ、喉の渇きを潤していたその時、大島が後ろから声をかけられた。
「やあ、大島。久しぶりじゃないか」
「おや、後藤じゃないか」
大島は振り向いて、フレンドリーに相手に挨拶した。しかし、一花の背筋には緊張が走った。
(社長の笑顔……めっちゃくちゃ、冷たい……!)
笑っているはずなのに、目はちっとも笑っていないあの笑顔。いや、それよりもっと怖い。青くゆらめく炎が、その奥に見えるような鋭いまなざしだった。一花は思わず、相手の男性を見た。
「本当に、久しぶりだなぁ。元気にしてるか?」
年のころは同じくらいだが、すべてが大島と正反対の男性だった。柔和な笑顔に、自然な茶髪。腕も首も、身体の全てが大島より薄く身軽な印象だった。その穏やかな表情は、「王子様系」とでも言えばいいのだろうか。王子様と言うには、年を取り過ぎているかもしれないが。
(なんだか……ぜんぜん、社長とは違う感じ)
言葉にはしがたいが、一花は何か不思議な違和感を、目の前の後藤という男性に感じた。綺麗な男性ではあるが、その曖昧な笑顔の下で、顔が凍り付いているような不自然な印象だ。どこか追い詰められているように、その身振り手振りも落ち着かない。
対して大島は堂々と構えているが、その目は鋭く目の前の男を射ている。
――表面上は笑ってはいるが、明らかに、この二人は敵対している。
(だ、大丈夫、かな……?)
しかし大島は、笑顔を絶やさず話をしていた。
「店の方は順調かい? あの場所は畳んだと聞いたが」
後藤は目線も落ち着かず、大島の手首や足元をいったりきたしている。それを見て、一花はふと気が付いた。
(ああ、時計とか靴を、見てるんだ?)
たしかに大島の右腕に嵌められた時計は、見事な金色のものだった。一花には見ただけではわからないが、きっと良いものなんだろう。そういったものを、大島は自然に身に着けているのだ。
「まぁ、ぼちぼちさ。大島もぜひ、顔を出してくれよ。羽振りいいんだろう。その時計」
後藤はにっとわらった。その薄い唇から白い歯がのぞき、一花はふいにぞっとした。笑っているのに、彼のその表情はどこか相手を見下していてうすら寒く――思ってもない事を言っているのが、初対面の一花ですらはっきりわかった。しかし大島はふっと笑って謙遜してみせた。
「いいや。君たちに比べれば、まったく、小さい商売だよ」
「はは、よく言うね」
うそ寒い笑顔の後藤に対して、大島は深い声で告げた。
「君たちには本当に感謝しているよ。あの時の経験があったからこそ、今こうして仕事ができるからね」
そう言って、大島は何気ない仕草でグラスを持ち上げた。その腕に光る、ずっしりと重そうな時計が袖口から出て、露わになる。計算したのかたまたまなのかはわからないが、それを見て後藤がわずかに唇を噛んだ。
(あの時計が、羨ましい……のかな?)
「お互いの成功に、乾杯だ。いずれ君の店にもお邪魔させてもらいたいね」
一方大島の冷徹な視線は少しも緩んでいない。言葉だけを聞けば和やかなはずの会話だが、まるでお互い、見えない刃で戦っているような雰囲気だ。内心怯える一花に、ふと後藤の視線がつきささった。
「ところで、そちらの方は」
「ああ、紹介が遅れたな。彼女は今、私がお付き合いさせていただいている女性でね」
促されて、一花は軽く頭を下げた。
「はじめまして。榛名と申します」
後藤はちらりと、しかし鋭い目線で一花を見た。一瞬で品定めする目つきだ。するとその時、飲み物を持って知らない女性がやってきた。彼女は大島を見て、驚いたように立ち止まった。
「あ……大島、さん」
その女性のスタイルに、一花の目は釘付けになった。なんて細いんだろう。黒いイブニングドレスが、抜けるような肌よく似合っている。長くて艶のある黒髪に、青みすら感じる白い肌、泣き黒子。年は、大島や後藤と同じくらいか。ほっそりとした彼女は、あまり元気ではなさそうだ。しかし頬にうっすら浮かぶ皺ですら、影のあるその魅力を引き立てているようだった。
「やあ、ひさしぶりだね」
その女性は、大島の隣に立つ一花を見て驚いたように一歩下がった。すると後藤は、からかうように言った。
「驚くなよ詠美。彼女が大島の、新しい恋人だそうだ」
「そ……うなんですね。それは、おめでとう、ございます」
おずおずと彼女が言った。その目は一花ではなく、大島を見ていた。大島は、はははと明るい声を上げた。
「おめでとう、は早くないか。まぁ、近々そうなるだろうがね。君たちにはずいぶん遅れを取ってしまったが」
大島の明るい演技に合わせて、一花もさも幸せであるように微笑んでみせた。それを見て、目の前の二人の表情はあきらかに曇った。
一花はなんとなく、過去この三人に何が起こったか、わかったような気がした。
(はぁぁ……なんか、気疲れした)
トイレの鏡の前で、一花はひっそりため息をついた。なんとも気詰まりな会話だった。大島はあの後藤という男にだけ、明らかに態度が違った。
(他のお客さんや、知り合いの人とは……普通に朗らかに話してたもんね)
またあの後藤氏にエンカウントしないように願いつつ、一花はトイレから出た。その時。
「おっ、榛名さん? だよね。偶然だね」
「っ……」
ひっ、と声が出そうになるのを、一花はすんでのところでこらえた。
後藤氏その本人が、トイレのドアのすぐ横に立っていたからだ。一花はドアの前からどいた。
「お手洗いですか? どうぞ」
「いいや? ちょっとここで、庭を眺めていたところさ」
トイレのある廊下は、中庭に面していた。だんだんと日が落ちて来た庭はライトアップされており、プールの光がキラキラゆらめいて、なんともバブリーな雰囲気だった。一花は控えめに微笑んだ。
「たしかに、綺麗なお庭ですね」
「よかったら、庭を散歩しないかい。ほら、出ている人もいるし」
まずい、どう断ろう。一花は肩をさすった。
「せっかくですが、夜になってくるとまだ少し寒くて……すみません」
「なら、俺の上着を貸すよ」
後藤が上着を脱ぎかけたので、一花は慌てて止めた。初対面の、それもどことなく得体のしれない男性にそんな事をしてもらいたくはない。
「だ、大丈夫です!」
すると後藤はふっと唇の端を上げた。その顔にうかぶ嘲りの笑みは、元の顔立ちが柔和に整っているだけに、残酷さがかえって際立っていた。
一花の背筋が、すっと冷たくなる。
「お硬いなぁ。君だって気になるだろう、詠美のこと」
「ええっと……何のことでしょう」
一花はそらとぼけた。そりゃあ好奇心はあるが、初対面の人を相手に根掘り葉掘り聞きたい話ではない。むしろ知らないほうが平和に過ごせそうだ。
「とりあえず歩こうよ、なっ。聞きたい事があるんだ」
ずいっと覗き込まれて、一花は反射的に身を引いた。後藤は、女性に対しては強引で、かなり粘り強い性格のようだ。
(さっさと要件を済ませて、別れたほうがよさそうだな……)
そう思った一花は、しぶしぶ一緒に庭に出た。スキを見せないように、背筋を伸ばして、教わった美しい歩き方をしながら。
プールの淵で立ち止まって、後藤はもったいぶって一花を振り向いた。
「……君、僕たちの事、ちっとも大島から聞かされていないのかい」
「すみません、聞いてはおりません」
「ふぅん……君、本当に大島と付き合ってるの? あいつがこんな若い子を選ぶなんて意外だな」
「そうですか?」
「そうだよ。あいつは美人で賢いタイプが好きなはずなのに」
やっぱり、過去あの美人と大島の間には何かあったのか。それにはこの後藤も噛んでいるんだろう。事前に予測していた一花は、澄まして答えた。
「好みが変わることもあるでしょう。それで、聞きたい事とはなんでしょう?」
すると、後藤はニヤリと笑った。嫌な笑い方だった。
「君の顔、そして名前を聞いてピンと来たんだが――君、だいぶ前に潰れた紀尾井町の料亭『榛名』の一人娘だろう。違うかい?」
その言葉に、一花は冷水を浴びせかけられたかのように身体がこわばった。
「そ、それは……」
否定すべきか、肯定すべきか。迷う一花を目の前に、後藤はにいっと笑った。
「元老舗料亭の娘を見つけ出してきて、あいつは何を考えているのかな? ひょっとして、『榛名』再建の仕掛け人でもするつもりか?」
「な……何をおっしゃっているのか、よくわかりません……」
苦しくそう返した一花に、後藤はしたり顔で首を振った。
「君の母親は有名だからね。小料理屋の名物チーママ。俺も顔くらいは知ってるよ? ひょっとして、君もそういう商売をしてるんじゃないか。どのクラブで大島と出会ったんだい? いや、キャバクラかな?」
今度こそ、一花はきっぱりと否定した。
「ちがいます」
しかし、後藤はちっとも堪えていないようだった。むしろ楽し気に聞き返す。
「嘘なんてつかなくていいさ。馬鹿になんてしてないよ。むしろ感動モノだ。赤字を解消できなくて首を吊った旦那の尻ぬぐい、ずっと親子でしてるんだもんなぁ。いっそ、俺が援助してやろうか」
「なっ」
思わず身体を引いた一花の手首を、後藤が素早くつかむ。
「もったいぶるなよ。お前はどうせ、金で動く女だろう?」
自分だけではない。過去のことも、そして母のことも侮辱され――突然ぶつけられた嘲りに、一花の胸の中は沸騰したように沸き立った。
「離してくださいっ」
一花は目をつぶって、思いっきり手を振り払おうとした。しかし、後藤は離さない。にやにやと一花の手首を締め上げるばかり。
「やめてください。大きな声を出しますよっ」
「ああ、出せばいいさ? お前のクラブのママに言いつけてやる。躾のなってない小娘がいるってな!」
ずるずると後藤の方に引き寄せられる。一花はとっさに、力を込めて後藤を両手で突き飛ばした。手のひらに手ごたえを感じ、次の瞬間、ばっしゃーんと豪快な水音が響いた。
後藤が、背後のプールに落ちたのだった。
「わーーっ、大変ッ」
我に返った一花は、あわててホテルのスタッフを呼んだ。この騒ぎに気が付いたパーティのお客さんが、窓辺に集まってきている。衆人環視の中、後藤はずぶぬれになって引き上げられた。ぺったりと髪が額に張り付いたその状態になると、頭髪が寂しい事が見て取れた。落ちぶれて、年を取った王子様――。そんな言葉が一花の脳裏に浮かんだ。
「おい、このクソ女……っ」
後藤は罵倒の言葉を吐いて、一花につかみかかろうとした。が、その時巨大な身体が一花と後藤の間に割って入った。
「失礼、一体何があったんだい?」
「し……け、賢治さん」
彼は、かなり怒っているようだった。それを見て、一花は肝を冷やした。
(まずい! わ、私、社長のパートナー役なのに、こんなトラブル起こしちゃって……!)
わざとではないとはいえ、プールに突き落としたことは謝らなければ。
「後藤さん、すみません私……!」
しかし、大島はそれを遮り、ちらりとホテルのスタッフたち、そして窓辺に集まった人々を見てから、後藤に目を戻して言った。
「なるほど。暗くなってきたから足を踏み外してしまったようだね。私の大事な連れを守っていただいて感謝する」
大島は冷静な笑みを浮かべながら後藤に一礼した。人々の目がある手前、後藤もそれ以上は言えずに唇をかみしめた。
「私にクリーニング代を持たせてくれ。新しい服もいるな。なに、昔馴染みのよしみだ……」
そのまま後藤の肩を抱いて、大島はホテルスタッフとともに休憩室へと消えてしまった。夜の光輝くプールサイドに、一花だけが取り残された。
「社長……! 今日は、本当にすみませんでした……」
帰りのタクシーの中。一花は真っ青になって大島に頭を下げた。せっかくパートナー役として雇われたのに、この失態。社長の顔に泥を塗ってしまったようなものだ。一花は冷や汗をたらしながら、頭を下げた姿勢を保ち続けた。
「顔を上げなさい、一花」
おずおずと顔を上げた一花は、意外な光景を見た。
大島は、いつもより穏やかな顔に心配そうな表情を浮かべていたのだ。
「私は怒ってなどいない。むしろ心配だ。目を離すべきではなかった。あの男に、何か嫌な事をされなかったかい」
嫌な事は言われたが、実害はなかったので、一花は明るく首を振った。
「いいえ! 私はぜんぜん大丈夫です。ただ、あんな騒ぎを起こしてしまって……申し訳なかったです」
しかし、大島は押し殺した笑みを漏らした。
「まさかプールに突き落とすとは……ふふ、私にはできない事をやってくれるな」
やっぱり、あの後藤と大島は、仲が悪いのか。どういう関係なのか気にはなるが、気軽に聞ける事でもない。大島は笑いだすのをこらえるような顔で、一花を見た。
「まったく君は、素晴らしい女性だね。君の今日の働きに、ぜひ見合った贈り物をしたいんだが――何か欲しいものはないかい」
上機嫌で聞く大島に、一花は言った。
「も、もしよかったら……食事がしたいです。パーティではその、あんまり食べれなくて」
パーティー会場では、少しの飲み物しか口にできなかった。一花はとてもお腹が空いていた。もう限界だった。
「そんな事でいいのか」
一花は窓の外に視線を走らせた。ちょうど行く手に、ファミリーレストランの看板が光っているのが見えた。
「あっ、あそこがいいです。運転手さん、お願いします」
煌々と照らされる深夜のファミレスに、場違いな恰好をした二人は入店した。大島は少し面食らったような顔をしていた。
「……もしかして、こういうところは苦手……ってことはないですよね?」
ファミリー向けのレストランも、SGコーポレーションは展開している。大島は一花を見て苦笑した。
「いや、ファミレスに入るのはいつぶりだろうと思って」
「そうなんですね」
「独り身だとなかなか気恥ずかしくてね」
腰を掛けて、一花は大島の前にメニューを広げた。
「じゃ、今日は久々にたくさん食べてください! このドリア、美味しいんですよぉ」
「ほう」
「そう言えば賢治さんって、何が好きなんですか?」
ホテルとは打って変わって、水を得た魚のように元気になった一花に、大島は肩の力を抜いてメニューを取った。
「そうだな……なら、ワインでも頼もうか」
このお店なら、一花の財布もそう痛まずにたくさんご飯が食べられる。小エビの乗ったサラダに、メインのドリアに、薄くてかりっとしたピザ……次々運ばれる料理を頬張りながら、一花と大島は初めて『他愛のない話』をした。今日体験したトラブルのおかげか、二人の間にあった他人行儀な壁が、少し崩れたような気がした。
「今日はすごい人たちとお話していましたね。大丸フーズの専務とか、サロンド・キュイジーヌの店長とか!」
大手食品会社に、有名レストランの店長。今日のパーティには、一花も知っているほど社会的立場のある人々が集まっていた。
「そうかい? 私は君以外、眼中になかったがね」
ワインを口に運びながら、大島は一花の食べる様子をじっと見ていた。一花は気まずくなって視線をそらした。
(あっ、また雰囲気がムーディに……えっと、何か、言わなくちゃ)
焦った一花は口を滑らした。
「きょ、今日あった詠美さんって方、綺麗でしたねぇ! まるで女優さんみたいでした」
まずい、言わなければいいような事を……。一花は後悔したが、大島はワイングラスを置いて、じっと一花を見つめた。
「私には君の方が、ずっと輝いて見えるよ」
「は……はい!?」
一花は動揺しかけたが、さすがにもう、慣れてきた。大島からしたら、女性を褒めるのはきっと挨拶みたいなものなのだろう。一花が特別というわけではない。
それにここは豪華絢爛なホテルではなく、しがないファミレスだ。
「もう、お上手なんですから」
肩の力を抜いてそうまぜっかえす一花に、大島はなんだか謎めいた笑みを浮かべて、ワインを傾けていた。
(社長ったら、無理して口説かなくていいのに……もっと自然体でいてくれて)
そう思いながら、食事を終えた一花はお財布を持って会計に向かった。
「おや、何してるんだい」
すかさず止めた大島に、一花は頭を下げた。
「一回くらい、私にも出させてください。いつも頂いてばかりで……こんな場所ですが、社長に少しでもお返しをしたくて」
そう言うと、大島はそれ以上は止めず、一花の好きにさせてくれた。レジの店員は、場違いな恰好の一花と、テレビの中から抜け出たような大島を、興味しんしんに見ていた。
(ふふっ、このあとバックヤードで『かっこいい人がきた!』って話になるんだろうな)
お酒も手伝って、少し愉快な気分で一花は車に乗り込んだ。大島もまた、柔らかな表情をしていた。
「一花、ご馳走様。また君に借りができてしまったな」
「借りなんて! 賢治さんとファミレスに行けてちょっと嬉しかったです、へへ」
そう言って頭に手をやって笑う一花を、大島は目を細めて眺めていた。タクシーから降りる際、彼は一花の耳元でささやいた。
「次は泊まりだから、準備をしておいてくれ」
二 初めての夜は旅先で
(泊まり……泊まり?)
あの、ファミレスの晩から数日後。仕事中でも通勤中でもその言葉が思い浮かんで、一花は気もそぞろだった。
(なんで? どこに……?)
これも『仕事』の一環だろうか。部屋とかどうなるんだろう。『愛人』、という設定なら、同じ部屋なのだろうか。だとすると……。
(すっぴんとか、寝顔とか……見られてしまう……)
一晩一緒に過ごしても恥ずかしくない程度に、いろいろと綺麗にしておかないといけない。一花はとりあえず厳しめにムダ毛等のチェックをし、旅先で夜はマスクをつけて寝る事にした。
――しかし、そんな努力は、些末な事だった。そのさらに数日後、メールで『お泊り』の日程と内容を伝えられた一花は仰天した。
(ご、ゴルフコンペ!?)
郊外の、ゴルフのために作られた施設で、泊まり込みで大会が開かれるという。大会といっても、様々な同業者を集めた親睦会のようなものらしい。しかし、一花はゴルフなどした事も見た事もなく、ルールもよくわからない。
(なんてこった……せめて、勉強しないと)
一花は毎晩、スマホで動画やホームページを見て、その内容を頭にたたき込んだ。
(へぇ、穴にボールを入れる、っていうだけじゃなくて、そこまでの打った数も、競う競技なんだ。つまり、少ない打数で、できるかぎり正確に穴に近づくように打つのが、勝ち筋ってことか)
ゴルフクラブなど触った事もないが、一花は動画を見ながら、エア素振りの練習を重ねた。
「あんた、何やってんの。どじょうすくい?」
そんな一花の姿を見て、母の容赦ない感想が飛ぶ。
「ち、ちが……っ、いや、そうです。どじょうすくい踊りです」
「ふーん」
大島とのことは、まだ母には言っていない。言うつもりもない。いずれ終わるお仕事だし、無駄に心配をかけることになるからだ。
そして出発前日、社長の指令で、ゴルフウエアが一花の自宅に届けられた。これも町田さんが手配してくれたらしい。箱からそのまま旅行バッグにウエアをつめこみ、一花はふうと額をふいた。心配になって、けっこう大荷物になってしまった。
(ゴルフ、下手っぴというか、多分できないけど……今回は、とにかくトラブルを起こさないように注意しなくっちゃ)
今回はタクシーではなく、大島の車が迎えにきた。タクシーよりも横幅も鼻も長い、黒塗りの車だった。一花は車の種類は良く知らないが、ボンネットの真ん中についた羽を広げた鳥のようなオブジェが素敵だと思った。
「おはようございます、賢治さん!」
元気に挨拶した一花は、その車内の広さに驚いた。ゆったりとしたシートに、煌びやかな照明。見たことはないが、飛行機のファーストクラスも、こんな感じなのかもしれない。
一花は自分の靴が汚れていないか気になりながら、ふかふかの車内へと足を踏み入れた。
「すごい車ですねぇ」
「今日は少し長旅だからね。君に窮屈な思いをさせたくなくて」
そう言いながら、大島は座席の間にある大きなアームレストをパカリと開けた。何と中は、冷蔵庫になっているようだ。
「まだ朝だが、シャンパンはどうだい」
立派なボトルを取り出され、一花はひえっとなった。
「わ……私は大丈夫です! でも、賢治さんが飲むなら、注がせてもらいます」
すると大島は少し面白そうに言った。
「お酒は苦手かい?」
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
冷蔵庫の中をチラ見した一花は、そこに自社製品のハムのパックや、ジュースのボトルを発見した。
「あっ、あの、もしよかったら、私にはそのオレンジジュースをいただけませんか」
「ああ、もちろんさ」
手渡されたジュースは、ラベルが可愛い海外製のものだった。ひんやりしていて美味しそうだ。
「私にかまわず、飲むといい」
その言葉に甘えて、一花はジュースを頂く事にした。どんなジュースも好きだが、オレンジジュースは一番好きだった。甘酸っぱく爽やかなのど越しに、思わず気が緩んで笑顔になる。美味しい食べものは、どんな時でも一花に元気をわけてくれる。
「うーん、美味しいです!」
「一花はオレンジジュースが好きなのか。なんだか見た目通りだね」
優しくそう言われて、一花は少し照れ臭かった。
「子どもっぽいかもしれませんが……飲むと元気が出るような気がして。ほら、オレンジ色って、元気な色じゃないですか」
ビタミンも入ってるし……と続ける一花に、大島は笑みを深くして言った。
「なるほど……なら、私も元気になりたいな」
大島はシャンパンのボトルを元の場所に戻し、一花をちらりと長し目で見た。それを受けて、一花は冷蔵庫の中身を確認した。
(え……と、ジュースってこれ一本だけか……)
「君のそれが欲しいんだが」
「でも、これ、飲みかけ……ウッ!?」
そう言いかけた一花の顎を、大島は指先でくっ、と持ち上げた。まったく力は入っていなかったが、思わずそれに従って、顔を上げてしまった。
「本当なら、君に飲ませてほしい所だが……」
至近距離でじっと見つめられて、一花は思わず息が止まりそうになった。ハニーポット・フラワー。子どものころ何かの図鑑で読んだそんな言葉が頭に浮かぶ。麗しい曲線を描くその目から放たれるまなざしは、とろける蜜のようだ。けれどそれにつられて蜜にありつこうとしたら、哀れな虫のごとく捕食されてしまう――。
一花はぎゅっと目を閉じて、手にもったジュースを差し出した。
「ど、どどどうぞっ」
それを見て、大島は少し眉を下げ気味に身体を引いた。珍しく――しょんぼりした表情だ。
「怖がらせたようだね。……すまなかった」
「そ……そそそんな、恐れ多いです……」
身体を縮こまらせる一花に、ふっと大島は笑った。
「でも、そんな所もまた可愛い。まるで初めて人に触れられた天使みたいだね」
一花の背中に、暑くもないのに汗が滴り落ちる。
学生時代は、勉強にバイト三昧。そして今は、仕事一筋。ほとんど男性に縁のない青春を送ってきた一花は、真正面から口説かれた経験など皆無なのだ。
それも、こんな雄のフェロモンが滴るような、年上男性からなんて。
(こ、こ、困る……目的地に着くまで、ずっとこんな感じなの……?)
お願い早く到着して。そう思いながら、一花はずっと冷や汗を流し続けた。
空は晴れて、風もほぼなく、今日は絶好のゴルフ日和と言ってよかった。人工的に作り上げられたゴルフ場の芝生や緑の丘は広大で、どこまでも続いているように見える。
今日の大島が狙いを定めている八町商事の専務ご一行と合流し、さっそく一花たちはコースへと出た。
(ゴルフウエアって、こんな可愛いんだな)
送られてきたそれは、白いひざ丈のプリーツスカートで、ワンピースになっていた。初めて袖を通した一花は、緊張しながらもちょっとテンションが上がっていた。
「いいお天気ですね。大島さんと回るとなると、心強いですな」
「こちらこそ安心していますよ、佐藤さん」
にこにこ笑いながら言う、大手商社、八町の佐藤専務の横には、奥さんがいた。
「あら、大島さんったら、いつの間に? とうとう独身貴族でなくなるのかしら」
無邪気にそう問われて、一花は軽く会釈した。
「お初にお目にかかります。榛名一花と申します」
「あらあら、うちの娘と同じくらいだわ。よろしくお願いしますね」
夫人はそう言って、優しく目を細めた。
プレイの傍ら歩きつつ、自然と専務と大島は仕事の話になっていた。
「そう言えば、八町さん、新しいビルをまた手に入れたとか」
「ああ、赤坂のですかな? それとも、紀尾井町の?」
「どちらも噂になってしましたよ。行政が手を引いたまま、宙ぶらりんになっていたから。とはいえ誰も手が出せず」
「ははは、ちょうど伝手がありましてね。今中身をどんな風にしようか、若いプランナーたちがあれこれ考えておりますわ」
「八町さんは、いつも斬新な事をしますからねぇ。どうやって社員を指導しているのか、一度じっくり聞いていたと思っていたんですよ……」
奥方と談笑しながら、一花はきっちりその話を頭に入れていた。紀尾井町――歴史と緑深く、その一方で高層ビルが聳え立ち、道には老舗ブランドや一流ホテルがずらりとならぶ。あの町は、一花たち親子にとってはいわくつきの場所だった。しかし、営業の仕事としてはこれ以上ないほど『おいしい』場所だ。
(なるほど……もしかしてもしかして、そのビルに、うちの商品、ないしはレストランを入れてくれるかもしれない、って事?)
もし相手が迷っているのだとしたら、ここは営業、一花の腕の見せ所ではないのだろうか。
(もしかして、社長は……こんな時のために、私を選んで連れてきてくれたのかな?)
憶測でしかないが、そう考えると自分の頑張りが認められたようでなんだかうれしかった。俄然やる気も沸く。一花はますます耳をダンボにした。
「SGさんの一番の目玉商品は、たしか新しい生ハム、でしたかな?」
「ええ、そうです。『カエデぶた』と言いましてね。脂身と赤みのバランスがとてもいい豚なのですよ。今は九州の農家と契約していまして、安定的に出荷してもらっています」
「一度食べた事がありますよ。あまじょっぱい独特の味付けで、ビールに合うハムでしたな。あれはなんていったかな……」
専務のその声にうずうずする一花を、大島がちらりと振り返った。
「それはもしかして、『カエデハム夏味』ではありませんか?」
「ああ、そうそう。たしかそんな名前だった。ということは、春夏秋冬とあるのかな?」
ふと思いついたようにそう言う専務に、一花は嬉しくなってうなずいた。
「そうなんです! 季節によって成分を調整するビールみたいに、カエデハムも季節で味を変えているんです」
この春夏秋冬ハムは、SGコーポレーションの一番最初のヒット商品で、同じ名前の居酒屋チェーン『春夏秋冬』も経営している。
「なるほど。夏はビールとして、他の季節は何がコンセプトなんだい?」
「春は、新鮮な山菜や、軽めの卵料理なんかに合うように、ほんのりとしたシンプルな塩味です。逆に秋冬は、こってりしたワインや鍋料理に合うように、スパイスを効かせて若干分厚くなっています。ベーコンもおススメです」
「あら、美味しそう。聞いてるだけでお腹がすいてきちゃったわ」
専務の奥さんが、無邪気に言う。
「そういえば、そろそろ飯時か。よし、切り上げて一緒に食事といきますか」
専務の一声で、一向はカートに乗り込んで、宿泊施設へと戻った。一花の胸中はやる気に熱くみなぎっていた。
(ちょうど、車の冷蔵庫に……! 私、もってきますね!)
目線でそう聞くと、大島は狙っていたかのようにうなずいた。
カートが施設についたとたん、一花は車へと引き返してハムのパックを厨房へと運んだ。こんな時の手配はお手のものだ。
「こちらのハムを、このように盛り付けていただいて、乾杯のビールのすぐあとに運んでもらえますか」
一花はスマホの画像を見せて厨房のスタッフへと頼み込んだ。余分にハムがあったので、ついでに数パック、スタッフにお渡しする。
「こちらよかったら、みなさんでお召し上がりください。うちの自慢の製品なのですが、味をたしかめていただければ幸いです」
快く引き受けてもらえたので、一花はほっとしながら大島と専務のもとへと戻った。
専務と同じテーブルに座ると、即座にビールが運ばれてきた。そしてその後ろには、言った通りにハムを運ぶウエイターが控えていた。
「では――乾杯!」
ごくごくと美味しそうにビールを飲む専務と、上品にグラスに口をつける奥さんのもとへ、白皿に美しく載せられたハムが運ばれてくる。カエデハムは、四種を白いお皿の上にそろえて並べると、薄い桜色から濃い桃色のグラデーションになるようになっていて、見てよし、食べてよしのすぐれものなのだ。
あれ、という顔をした二人に、一花はにっこり笑って言った。
「こちらが春夏秋冬ハムになります。右から春、夏、秋、冬、です」
「おや、いつのまに」
「でも、美味しそうだわぁ。色も綺麗ね」
「ありがとうございます。写真に撮って楽しめそうな見た目と、無添加を両立させるためにかなり研究を重ねた商品で」
奥さんが首を傾げた。
「あら、着色料とか使ってないの? こんな色鮮やかなのに」
「はい。着色料や保存料だけでなく、ハムやベーコンなどによく使われる発色剤も使用していません」
その代わり扱いが繊細で賞味期限も短いが、身体に悪いものは一切入っていない。美味しくて、見た目も綺麗で、オーガニック。この三つがそろっているうえに、求めやすい価格。これが、カエデハムのセールスポイントだった。一花は以前そこを売り込んで、高級スーパーにカエデハムを置いてもらう契約を取り付けたのだった。その時と同じように、目の前の夫妻にハムを勧める。
「どうぞ、ビールと一緒に召し上がってみてください」
百聞は一見にしかずだが、高級フレンチではウエイターが料理の説明をするように、その食材や調理法にどれだけこだわりがあるか聞いた上で食べてもらうと、味の感想も変わってくるものだ。だから一花は、試食をしてもらう前に最低限のセールスポイントを伝えるよう心掛けていた。
「そうそう、『夏』はこの味だ。塩が利いていて、かすかに甘くて、スパイスもなんだか爽やかで」
「『春』も美味しいわ! プレーンな感じ。一番最初にこれを食べた方がいいわね」
一花はにっこりした。営業用の笑みではなく、本心から嬉しかった。腕利きの社員が現地の第一次産業を回って『うずもれている原石』を見つけ、開発部がそれを商品として開発し、企画部がぴったりのパッケージや宣伝を考える。そして最後に、一花のような営業があちこち飛び回って、さまざまな食卓にこのハムをいきわたらせるのだ。
皆が一生懸命作り上げた、おいしいハム。その仕事の最後の工程に、自分がこうして関われるのは嬉しい。一花が頑張って売れば売るほど、皆のためになるのだ。そして、消費者側も、食べて満足してもらえる。
(だって、カエデハムは本当に美味しいから。自信を持って売り込める商品だから!)
あっというまにハムはなくなってしまい、一花はバッグの中からいつも持ち歩いているカードを取り出した。
「本当は、他の製品もお試しいただきたい所なのですが、あいにく今日はこちらの四種類だけで」
専務は両手で、そのカードを受け取ってくれた。
「これは?」
「弊社が経営しております、会員制のダイニングです。カエデハムやそれを使ったお料理、合うお酒などすべてお試しいただける創作ダイニングです」
「ほお?」
「メニューの試作のような事もシェフが行っています。お客さんの注文に従ってなんでも作るんです。たとえば、新宿ゴールデン街でウケそうな豪快なハム料理だったり、逆に青山のカフェにぴったりのおしゃれなランチメニューだったり」
だから、赤坂や紀尾井町のビルで売り上げが作れそうなハム料理も試作できる。一花は言外にそう匂わせた。
「豪快なハム料理?」
「はい。えっと、こちらとか」
一花はスマホの写真を見せた。一時期流行った生ハムメロンに着想を得て、思いつく限りのフルーツにハムを添えて、透明のガラス皿にびっしり盛りつけた一皿であった。
「名付けて、生ハムフルーツミックスモリモリ、だそうです」
真面目にそう言う一花に、専務がぷっと吹き出した。
「なんじゃあそりゃあ」
「シェフのセンスはちょっと独特で……でも、生ハムマンゴーもバナナも、意外と美味しいんです」
「なるほど。柿の種チョコレート味、みたいなもんか」
「その通りですね! こういう組み合わせを最初に思いついた人は、発明の才能がありますよね」
「本当にな。塩キャラメルだとか、塩バニラだとか……次々とよく考えつくもんだ」
「ああ、塩キャラメルも美味しいですよねぇ」
一花は心から同意した。しょっぱいものと甘いものの組み合わせ。革命だ。
「最初は何だったか、娘が、修学旅行に行って買って帰ってきてな。以来すっかり、家族全員好きでねぇ」
「物産展とかで見かけると、つい買っちゃうのよね」
「本場の塩キャラメルですね。娘さん、美味しいものを選ぶカンみたいなものがあるのかもしれませんね」
昼食の後も専務夫妻と一緒にゴルフコースを回り、つつがなくコンペは終了した。去り際に、一花は自分の名刺を差し出した。
「さきほどのカードの電話番号でも、こちらでも、ご連絡をいただければすぐにお席を手配します。よろしければおいでください」
専務はにこやかにその名刺を受け取ってくれた。
「うん。ありがとう。近々社の者といってみるよ」
「ありがとうございます! もしよかったら、いつか娘さんも。きっとフルーツ生ハム、気に入ってくださると思うんです」
一花は深々と頭を下げて、二人を見送った。
「ほとんど君の独断場だったね、一花。見事だよ」
そう言えば、途中からずっと一花ばかりしゃべっていた。
「すみません、出しゃばって……」
「いやいや、それが営業というものだろう。感触はどうだい?」
普段営業部内でよく使われるその言葉を、大島は冗談めかして使った。
「良い感じです! でももし数週間待って来ていただけなければ、またハムを持って伺おうと思います」
「なるほど、頼もしい」
「契約につながるよう、頑張ってみたいと思います!」
褒められて嬉しくて、でもちょっと照れ臭くて、一花かはへらっと笑って頭の後ろに手をやった。
大島はそんな一花をじっと見たあと、エレベーターへと乗り込んだ。広くて人が行きかうホテルのロビーから、いきなり二人きりの空間となって、一花はふいにドキッとした。
(待って……そうだ、へ、部屋って)
そわそわしながら大島のあとをついていくと、彼はドアの前で一花にキーを渡した。
「一応、部屋は二部屋頼んでおいた。君はこっちで休むといい」
そう言って、彼は隣の部屋へと消えてしまった。
(あ……部屋別、ですか……)
ほっとした気持ちと、なぜか肩透かしをくらったような気持ちと。両方を抱えながら、一花は室内へと入った。
「うわ、広い」
よくある絨毯が敷き詰められた部屋ではなく、そこは板張りの広々とした空間だった。靴を脱いで上がってその床を踏みしめると、ひんやりとした柔らかな木の感触が、歩き回った足の疲れを癒してくれるようで気持ちいい。
シンプルだが座り心地のよさそうな形の椅子に、やや低めの、真っ白なシーツがかぶされたベッド。そしてそれらの向こうにはガラス戸があり、その先は静かに湯をたたえた檜のお風呂になっていた。一見こざっぱりとして飾り気がないが、すべてにこだわって作り上げられた空間だという事が、なんとなくわかった。
「わぁ、温まりそう。いいにおい」
ガラス戸を開けると、檜の香しい良い香りの湯気が一花を包んだ。たまにはゆっくり、温泉に浸かるのもいいかもしれない。今すぐ入りたくなった一花は、部屋の荷ほどきもそこそこに服を脱いでお風呂に浸かった。
「ふぁあ~~~、気持ちいい……」
一人でのびのびと、足を延ばして湯に浸かる。太陽の下で広大な芝生を歩き回ってくたくたの手足が、湯の中で心地よく緩む。檜のいい匂いと一緒に、お湯に溶けてしまいそうなくつろいだ気持ちになる。
(ああ、いい気分。専務ご夫妻への営業も、好感触だったし)
仕事が上手くいったあとのお風呂は、やっぱり気持ちいい。一花はこの場に呼んでもらえた事に感謝をした。
(普通に会社の方に営業に出向いても、門前払いの事もあるもんなぁ)
ゴルフコンペという場だから、専務とその夫人と、親密に話をする事ができたのだ。一花は社長の思惑が、なんとなくわかったような気がした。
(いきなり愛人契約、なんて言われて、とんでもない人だと思ったけど……本当は、私にこんな仕事をさせるために、連れてきてくれたのかも)
売り込みのチャンスが転がるこういった場所に、若手営業を『パートナー』という事にして連れていく。自然でスマートな方法だ。大島のやりそうなことである。『なんとなく』が『確信』に変わった。そして、むず痒いような嬉しさがこみ上げる。
若手の営業など、一花以外にもいくらでもいる。その中でわざわざ自分を選んでくれたのは、もちろん借金に困っているという事もあるが、ひょっとしたら……。
(私の事、評価して……期待をして、くれてるのかな)
そう考えると、口元が笑みの形にむずむずした。ただの憶測でしかないが、自分が今までしてきた仕事が、ほかならぬ社長に認めらたような気がして、誇らしくなる。
こうして部屋を別にして、一花に手を出さないで配慮してくれている事は、その証拠なのではないだろうか。
あんなに口説いておきながら、手を出してはこない。それは少し、肩透かしを食らったような、もっとはっきり言えば、少しがっかりした気持ちがあるのもたしかだが……。
(そりゃ、そうだよね。社長ほどの人が、私なんかを真剣に口説くわけがない)
一花は仕事を認められて、営業としてこの場所にいるのだ。これって、口説かれる事よりもかなり特別な事なんじゃないだろうか。
「すごいじゃん……私」
湯舟の中でそうひとりつぶやく。たくさんお膳立てをしてもらってもいるのだ。ドレスだとか、靴だとか。
(社長の期待に応えられるように、もっと頑張らなくっちゃ)
改めて、感謝と尊敬の気持ちが胸の中に沸き起こった。一花はお風呂を上がって、備え付けの浴衣を着て、脱ぎ散らかした服の片付けなどを行った。
(ゴルフウエアって、普通に洗濯していいんだよね……)
タグを確認して、一花はうっと息が詰まった。シンプルなワンピースタイプの服だとばかり思っていたが、ひっくり返してみると、一花でも知っている有名ブランドのロゴが入っていたのだ。
(やだ、着た時には気が付かなかった)
きっと、一花の住まいの家賃の倍くらいの値段がするんではないか。一花は慌ててウエアを畳みなおしてきちんとしまった。
(帰ったらクリーニングに出さなきゃ……そうだ、まだこの服のお礼も言ってない)
当たり前のような顔をして着て、動き回って、一日が終わってしまった。本当なら朝の時点でお礼を言うべきだったのだが、目の前の仕事に夢中で、おろそかになってしまった。
気が付いたら、お礼や挨拶にはすぐ行った方が良い。営業の鉄則だ。一花は髪を乾かし、浴衣の上に羽織を着て、勇気を出して隣の部屋をノックした。
しばらくして、くぐもった声が聞こえた。
「どなたかな?」
「あの、私です」
するとドアが開いた。彼もまた湯上りなのか、濡れた髪をふいていた。浴衣が小さいのか、その胸元は大きく開いて、筋肉の盛り上がる胸板が直に見えた。
「わ、すみません。私ったら事前に聞きもせず!」
浴衣を着ているのに、なんだか目にしてはいけない光景を見てしまったようで、一花はくるっと後ろを向いた。
「どうしたんだい。戻らないでくれ。何か用でもあったのかい?」
「今、大丈夫ですか?」
「もちろんだよ」
そう言われて、一花はおずおずと大島の部屋に足を踏み入れた。
「ちょうど寝る前に一杯飲もうかと思ってた所なんだよ。付き合ってくれるかい」
大島は備え付けの冷蔵庫からボトルを取り出して、ソファに座った。
「君は酒より、こちらだっけね」
「いえ、お付き合いさせていただきます!」
一花も大島の横に座り、シャンパンボトルを手に取った。少し緊張しながら、封を開けてグラスに注ぐ。金色の泡がしゅわしゅわ弾ける音が、わずかに聞こえた。
「どうぞ」
零さず注げたことにほっとしながら、一花は微笑んで言った。すると、大島は相好を崩した。朝車内で見た、蜜のようなまなざし。
「しゃ……賢治さん、今日のゴルフウエアや靴も、用意していただいてありがとうございました」
「ああ、とても似合っていたよ。ふふ。君に酌をしてもらえるなんてね」
一花は目をそらして縮こまった。
「あまり上手でなくて、すみません」
「いいや? 極楽だ。夢気分だよ」
低いその声は、甘く――。このままじゃ、そういうカンジになってしまう。一花はとっさに、わざと明るい声を出した。
「また、社長ったら……!」
すると彼が、一花の手を取った。
「君は緊張すると、私の事を名前で呼ばなくなるね。なぜだい?」
「えっ、そ、それは」
指摘されて初めて気が付いた一花は、しどろもどろになった。大島は一花の手を握って、その甲をゆっくりとなぞった。
「思い知らされるな……君にとって私は、本来名前で呼び合うような親密な相手ではないのだと」
「す、すみません……」
じりじりと一花は下がった。しかし、すぐに背もたれに付きあたり、逃げ場なんてない。みっともなく冷や汗を流す一花を見て、大島は寂しそうな表情になった。
「……私と一緒に過ごすのは、そんなに気づまりかな」
そんな顔をされると、なんだかぎゅっと胸がつかまれたような気持ちになる。大島が一花ごときの言葉で、傷つくはずなどないのに。
「ち、ちがいます、その、あ、愛人契約とはいっても、そういうアレじゃないから、その」
その言い訳に、大島が眉を顰める。
「私を受け入れることは、できない?」
「エッ!? あ、あの、私はつまり、営業としてこういった場所に同行させていただいていてっ、仕事で、だからその、私はそう理解している、のですがっ」
どんどん大島が迫ってくる。
「しゃ、社長は違うんですかっ!?」
破れかぶれに叫んだ一花の本心を受けて、大島はわずかに唇の端をあげて笑った。
「私はこんなに君に熱を上げているのに……気づかなかったと?」
息がかかりそうな至近距離に、大島がいる。
「エ……ア……それは、その、社交辞令、か、と……」
「それは心外だな……」
吐息混じりのささやきが聞こえた次の瞬間、一花の唇は奪われていた。
(………!?)
榛名一花、二十四歳にしてファーストキス。しかし、そんな事に思いをはせている余裕はなかった。一花の唇を割って、大島の肉厚の舌が入ってくる。
「っふ……ぅ」
息を止めなきゃ。けれど、そんな事はできないから、無意識に呼吸が浅くなる。大島の舌先は百戦錬磨の余裕で、一花の舌に舌を絡めた。ふれあい、滲む二人の粘膜。目を閉じると、その感触ばかりが鮮明になる。しかし、キスをしながらも大島の手は、一花の首を伝って、浴衣の袷の内側に侵入していた。
「ひ……っ!」
鎖骨をなぞり、その指が下着の内側のまるい膨らみの上をすべる。決して乱暴な動きではない。まるでそう、最初にタクシーの中で手に触れられた時のような。壊れ物を愛撫するような手つき。
あの時想像してしまった通りの事を今、自分がされている。その事に気が付いて、一花の頭に血が上った。
(こんなの……ダメ……っ)
その時、大島の指が、一花のささやかな胸の頂きに触れた。
「あっ……」
唇を合わせながらも、一花は小さく声を出してしまった。大島はやっと唇を離して、一花に聞いた。
「君はこれから、私のものになるんだ。もちろん抵抗なんて、しないね?」
「ま、待って……待ってください、私は、そんな」
そんなつもりじゃ。その言葉を見透かしたように、大島は笑みを深くした。
「ならばなぜ、こんな夜更けに私の部屋に来たんだろう?」
「それは、お、お礼を言いに……」
なおも言いつのる一花の背に、大島の腕が回る。
初めて――男の人に、抱きしめられた。
「だけど、ちっとも考えなかったわけじゃないだろう? 想像したはずだ、私にこうされるのを」
耳元でそう囁かれて、背筋がぞくぞくとする。
「本当は、望んでいたんだろう?」
「そ……れは……」
一花は言葉につまった。たしかに、あっさり寝室を分けられて、一花はがっかりとした気持ちになった。だけど、まさか今夜、いきなりこんな風に抱きすくめられるなんて……。
痙攣するように、身体が震える。背中を走る戦慄は、恐怖なのか、恍惚なのか。一花は自分でもよくわからなかった。
けれどきっとここで拒否すれば、大島はまた、さっきの悲しい顔をするんじゃないか……。そう思った一花は、否定も肯定もできず、ただただ腕の中で固まっていた。
「もし嫌だというなら、私を突き飛ばして帰ってくれ。 そしたら、無理強いはしないから」
大島のその言葉に、一花はようやっと答えた。
「嫌なんて……。わ、わたし、こういうこと、はじめて……で」
その言葉を受けて、大島はふっと微笑んだ。慈愛にあふれているのに、その目の奥には、情欲が宿っていた。
「知っているとも。一花。この時を、どれほど私が待っていたか」
(え? どういうこと……?)
その言葉に、一花の頭に疑問符が浮かんだが、それについて考えている余裕はすぐになくなった。彼が軽々と、一花を抱き上げたからだ。
「わっ、す、すみませんっ」
「君はなんて軽いんだろう。羽でもついているのかな」
日常生活で言われれば、きっと失笑してしまうような言葉だろう。しかし大島に熱いまなざしで見つめられながら囁かれると、どっと赤面してしまう。
「そんなに赤くなって……林檎が食べて下さい、と言っているみたいだ」
ふわりとベッドに下ろされて、そのまま横たえられる。両手を突かれて上から覗き込まれ、一花は捕食される前の動物みたいに、固まった。
「そ、そ、そういうこと、あんまり、言わないでくださ……っ」
「なぜ?」
「わ、私なんかに、その、恥ずかしい……です」
無意識に浴衣の袷を掻き合わせ、ぎゅっと身体を抱きしめる一花の腕を、大島がそっと掴んだ。
「嫌だったかな?」
一花の首筋に、大島が顔を埋めながら言う。彼の息が、耳のすぐ下に掛かる。シャンパンと、シャワージェルと、そして今まで一花が嗅いだことのない、男の匂いがまざった香りがした。
一花の耳たぶに、そっとその唇が触れる。軽く食まれて、一花の身体は再びびくんと震えた。
「君はピアスもしていないんだね」
耳元で、その声は柔らかに響き、鼓膜を直接震わせる。一花はぞくぞくしながらも、正直に答えた。
「い、痛いのは、苦手で……」
ぴちゃ、と耳元で濡れた熱い感触。耳朶を舐められて、一花はぎゅっと目をつぶった。
「痛くなどするものか。絶対に。だから何も考えないで、私に身をまかせてくれ、一花」
その声は、懇願の色が滲んでいた。大島が――SGコーポレーションの社長が、一回り年下の、ただの平社員の、とるに足らないこの自分に対して、そんな声を出すなんて。
負けた。何にかはよくわからないが、一花はそう思った。
(怖いから? ここで社長を怒らせたら、仕事に影響が、出るから……?)
一花は一瞬、そう思い込もうとした。けれどそれは違った。大島はおそらく、ここで一花が逃げたとしても、態度を変えるような事はしないだろう。
鍛え上げられて引き締まった、大きな熱い身体に組み敷かれ、蜜のような視線で見つめられ――こんな風に求められてしまうと、とっさに冷徹に断る事などできなかった。
「わ……わかり、まし、た……」
蚊の鳴くような声で、一花はつぶやいた。すると大島が、再びベッドの上で一花の身体を抱きすくめた。
「ああ。君はただ、私に任せてくれればいい」
大島の手が、一花の身体の上を確かめるように這う。いともたやすく胸をはだけられ、下着の内側の胸に触れる。
「っ……!」
一花は身体を強張らせたが、大島はかまわず、背中に手をまわして下着のホックを外した。締め付けていたものがなくなって、一花の両胸が大島の目の前に晒される。
「う……」
恥ずかしさに、両手で思わず隠そうとした一花の手を、大島はそっと握ってなだめるように指を撫でた。
「なぜ隠すんだい。私に意地悪しないで欲しいな」
意地悪なのはそちらでは……という思いが頭をよぎったが、口には出せない。
「ここでお預けをされたら、この私でも何をするかわからないぞ」
言いながら、彼の手が一花の胸を包み込む。大島の太い指が、一花の白い胸にぷに、と埋まる。その指が、じらすように乳輪の端に触れて、すっと指を引く。
「んっ……ふ」
鎖骨にキスをされながら、フェザータッチで胸を弄られる。
「おや……ここが尖ってきたね」
乳輪を軽く摘まみ、笑い交じりで彼が言った。
「ぷくぷく尖って……可愛らしいねえ」
本当に、可愛い小動物を目の前にしたようなその蕩けた声に、一花は恥ずかしくなってぎゅっと目を閉じた。すると、鎖骨を食んでいた彼の唇が、胸の上に移動し、一花の乳房の上をちゅうっと吸った。
「っひ、」
その感触に、肌が震える。すぐ上の場所に吸い付かれて、胸の中心は、もどかしくじんじんと熱を持っていた。
「……っ」
初めてなのに、そんな風になってしまっている自分の身体が信じられなくて、恥ずかしい。
大島の舌が、尖り切ったその胸の頂きに、触れた。
「ぁっ……」
びりっ、と電流が走るような快感。下腹部に疼く熱。ちゅぷ、と音がして、大島の唇が一花のその場所をくわえこんだ。
「ひぁ……っ!?」
思わず身体をよじるが、大島はあくまでもそっと、慎重すぎるほどの優しい動きで、一花の胸の尖りを舌で愛撫した。舌先でそうっと先端を転がし、時折ちゅっ、ちゅっと音を立てて吸う。無音の部屋に、その音がいやらしく響く。
「……う、ぅ……っあぁ!?」
胸に吸い付きながら、大島の片方の手が一花の足の間にすべりこむ。愛でるように、その手が内ももの肌を撫ぜていったりきたりする。そして、下着の上から、その指が足の間のその場所に触れる。
「あ……だ、だめ」
大島の指が、下着の内側へと入ってくる。誰も触れた事のないその裂け目を割って、彼の指がそこに触れる。
「ふふ、濡れているね」
ほんのわずかに、彼が指を動かす。ぬるりとわずかに濡れた感触が、確かにした。何と言ったらいいかわからず、一花は震える手で顔を覆った。
「う……ご、ごめんな、さい」
「なぜ謝るんだい? ちゃんと感じてくれていて、私は嬉しい。どうかもっと、素直になってくれ」
再びちゅっ、と彼が胸に口づける。それと同時に、足の間で指がうごめく。|襞《ひだ》をなぞるように、ゆっくりと丁寧に。身体の上と下を同時に弄られて、一花は戸惑いと身体の中に起こる快感の波に翻弄された。
「はっ……う、ぅ……っ」
一花が呆けているその隙に、大島はするりと下着を下ろした。ぺらぺらの安物のパンツが、その手によって脱がされる。
「さて……君は、ここを触られるのは、初めて?」
一花はこくこくとうなずいた。
「では、私が一から教えてあげようね」
大島が、一花の両足をそっと開く。一花は抵抗しようとしたが、きゅっと太ももを押さえられる。
「こら、一花」
小さい子を叱るような、甘い声。
「これは今の君に必要な『研修』だ。上司の言う事は、ちゃんと聞くものだよ」
まるで当然の事のようにそう言われて、一花の足の力は抜けた。すると、大島の手が、花のそこを指先で開いた。
「ひっ」
「そう怯えないで。恥ずかしいことじゃない」
「で、ですが……」
ちゅぷ、とかすかな音がして、その指先が一花の蜜を掬ったのがわかった。
「こうやって濡れるのは、大事な事なんだ。ここに」
くっ、と彼の指が、少しだけ固く閉じたその場所をノックする。一花はびくんと開いた足を震わせた。一花に覆いかぶさるようにして、耳元で大島は囁いた。
「私のものを入れるとき、ちゃんと奥まで入るように、濡れてくれているんだよ」
が、いったん彼はその場所から指を離した。
「今は早すぎるからね。ここはゆっくり馴らしていこう……」
彼の指が、閉じた入り口の上部に移動する。開かれた時から熱を感じていたその場所に、ぴと、と彼の指先が触れる。
「ぁ……っ」
ひゅっ、と唇から吐息が漏れる。閉じた内部とは違い、空気にさらされているその場所は、少し触られただけでも、お尻が震えるようないけない感触がした。
「や、やめ、て……」
「なぜ? やめないよ」
大島は指先で、その場所をそっと摘まんだ。
「ここは大事なところさ。女性が快感を感じるためだけにある場所なんだ」
知識として知らないわけではなかったが、こうして他人の大きな手で弄られると、おかしくなってしまいそうだった。
「だから、まずこっちをたっぷり弄って、気持ちよくなろうね」
耳元でささやかれながら、その小さい尖りを、ゆっくりと撫ぜられる。身体の中心に熱が灯って、じんじん熱くなるような心地がする。はしたない声が口から漏れてしまいそうで、一花はきゅっと唇をかみしめた。
「おやおや、そんなに噛むものじゃないよ。まだ緊張しているね……?」
つぷ、と指先が一花の下の口の蜜をすくい、その突起に広げるように塗りつける。
「ひあ、ぁ、ぁ……っ」
刺激が強すぎて、一花の口から思わずみっともない悲鳴が出る。じんじんするその小さな芽を、大島の指先が撫でさする。そのたびに、息が詰まる。
「あぁぁ……っ」
身体をよじって悶える一花を、大島は愛おし気に見下ろした。
「ああ、ずいぶんと気持ちがよさそうだねぇ」
我慢できない。そんな目で、再び彼の唇が一花の唇を貪る。上は舌で、下は指で蹂躙されて、一花は再び目を強く閉じた。今度は羞恥ではなく、ただただ、余裕がなくて。
彼の指で弄られているその場所が、まるで花の蕾のように膨れて、恥ずかしく開いてしまいそうな錯覚に陥る。指が動くたびに、びくん、びくんと震えてしまう。
自分の身体に、こんなに気持ちよくなる場所があったなんて。今の今まで、一花は知らなかった。
(あ、だめ……なんか、なんかくる……っ)
備える暇もなく、一花の身体に強い快感が走る。
「――――――ッッ!」
口づけを受けながら一花の身体はびくんびくんと強く痙攣した。声にならない悲鳴は、すべて大島の口の中で溶けて消えた。
「ふふ……君は苦しそうな顔をしてイクんだね。これは……たまらないな」
はぁはぁ息をつきながら、一花は目を開けた。一花とは対照的に、彼はしっかり目を開けていたようで、微笑みをたたえて一花を見下ろしていた。
「いつも元気で明るい君が、そんな顔をしているのを見ると、もっといじめたくなってしまうな」
再び彼の指が、一花の足の間に伸びる。まだ時折痙攣しているその場所を、トントンと優しく指で押す。
「やっ………ひぁぁっ」
先ほどよりも刺激の強い感触に、一花は身をよじった。
「しゃちょ、う、これ……っ、やめ、……っ」
「ダメだよ一花。あと少し、耐えるんだ。たくさんイっておいた方が、あとで楽だからね」
くすぐったい。『イった』ばかりのその場所は、ぴくぴく震えてもう限界だと主張している。
「ふふ……耐える君の顔は、かわいいねぇ」
「ひぅ……や……っだめぇ……っ!」
大島の睦言も耳に入らず、一花は身体にぐっと力を入れた。
「またイきそうかい? ちゃんと『イク』って言わないといけないよ。でないと可愛い顔を、見逃してしまうからね」
優しく諭すようなその言葉。社長からの命令。白む頭にそんな言葉が思い浮かぶ。一花は言いつけに従った。
「い、いきそう、です……ぁ、あ――――っ!」
下半身がびくん、びくんと震える。もう取り繕う気力もなく、一花は大島の手の中でくたりと力を抜いた。一花の頭を、大島の大きな手がゆっくり撫でる。
「よし、よし。ちゃんと言えて、いい子だね。一花」
まるで、小さな子どもに言うような言い方。もういい大人なのに、その優しい言葉は心地よくて、一花の中の抵抗は消え失せてしまった。屈服した一花に、大島はさらに甘い声で囁いた。
「これから、もっと気持ちよくしてあげるからね」
開いた足の、その入り口に、彼の人差し指があてがわれる。
「まずは一本、がんばってみようね」
ぐっと指先が、押し入る。濡れそぼっているその場所は、さきほどよりは比較的彼の指を受け入れた。が、入り口が閉じている事に変わりはない。
「く……っ」
圧迫感、そしてわずかだが痛み。それをいなすように、彼の指はゆっくり進んではとまり、を繰り返した。時々頭を撫でたり、軽い額にキスを落として、一花の気を痛みからそらそうとしながら。
「ふふ、一花はがんばりやさんだね。なんてえらいんだろう」
とうとう、彼の人差し指がすべて一花の中に埋まった。大島は恍惚とした表情で、その指をわずかに動かした。
「ああ、すごいな……。私の指を、こんなにいじらしく締め付けて」
熱い、苦しい。けれど、先ほど複数回いかされたその場所は、それだけれはなかった。入り口は圧迫感がまだ残っていたが、彼の指先が届く奥その場所は、じんわりと熱い。
「あ……ぅぅ」
先ほどの快感とはまた違った、|胎《はら》の底から沸き起こるような疼きが、下半身に広がって足を震えさせる。
「おや……だんだん中が、柔らかくなってきたようだね」
ちゅぷ、ちゅぷ、と彼が控えめに指を動かした。すると、奥のほうがぽわんと温かくなった。
「は……っ」
「ここだね? 君のいいところ……すぐわかったよ。素直で可愛い体だ」
内壁を指でトントンと刺激され、入り口の圧迫感を上回って、快感が泉のように広がる。
「あっ、ああっ」
もっと――。そう思ったところで、するりと彼は指を抜いた。その場所はひくひくと、塞いでくれる何かを求めていた。
「さて――残念だけど、これをつけないわけにはいかない。少し待ってくれ」
大島はベッドサイドから正方形の包装を取り出し、一花に見せた。この目で見るのは初めてだ。避妊具も、そして男の人の性器も。
「――ひっ」
大島が手慣れた様子で性器にそれを装着するのを見て、一花は思わず目をそらした。
(お、大きくない……?)
太く硬く、たくましいその幹に、てらてら光るラテックス被膜が装着され、より淫靡なものに見える。
「そんなに怯えた目で見ないでくれ、私のこれは――決して怖いものじゃないよ」
大島が再び一花に覆いかぶさる。足の間に、硬いものがあてがわれる。
「一刻も早く君の中に入りたくて、必死で我慢していた可哀想なモノさ。君の中に入れてもらうためならば、なんでもするよ」
つぷ、と先端が、一花の襞を突き抜ける。
「ひ……!」
さすがに、大きい。一花は必死に深呼吸を繰り返した。ゆっくりゆっくりと、彼のものが中を押し開いて進んでくる感触が、はっきりとわかった。
「く……は、やっと……君とひとつに、なれた」
大島は拳を一花の横について、至近距離でその目を覗き込んだ。熱に溶かされた、蜂蜜のような甘い視線。
「あぁ、気持ちいい。君の中は、熱くて、優しくて――」
ぐっ、と彼のものが、一花の中を突く。
「ひぐっ……」
その衝撃に、おもわず一花の声から潰れたような声が漏れる。
「ああぁ、すまない。つい――っ、一花、大丈夫か」
心配そうなその声に、一花はうなずいた。
「はい、へ、平気……ですっ。賢治、さん、もっと動いて、だい、じょうぶ……っ」
一花がそう言うと、大島の目はくしゃっと細くなった。
「一花、一花……あぁ、もっとその唇で、私の名前を呼んでくれ」
ぬらぁっとゆっくり抜かれて、再び奥まで一気に突かれる。ぱん、ぱん、と二人の肌がぶつかる湿った音がする。
「ひぁっ、あ、賢治、さんっ……」
求められるがままに彼の名を口にする。
「く……っいち、か、出すぞ……!」
大島の身体に、ぐっと力が入る。眉を寄せ、目は閉じられ。めったに見れない、彼のその苦悶の表情は――
とても新鮮で、そしていやらしかった。
「すまない一花……痛い思いをさせたね」
腕の中に一花を閉じ込めて、大島は額にそっと口づけを落とした。
「いえ……へ、へいき、です」
「疲れたろう。何も考えないで、目を閉じなさい。ここで眠るんだ」
一花は身体を起こそうとした。
「で、でも、これじゃ賢治さんの腕が、痛くなってしまいます」
「痛くなどない。そのために、ずっと身体を鍛えていたのさ」
また、そんなお世辞なんて言って――。けれど、たしかに疲れていた一花はそのまま目を閉じた。どこでもすぐに寝られるのが、一花の特技のひとつ。ほどなくして、すうすうと寝息がたち始めた。その無心な寝顔を見て、大島は思わず一人つぶやいた。
「まだ、夢みたいな気持ちだよ」
寝息をたてる一花の細い首に、大島はどこから出したのか金の鎖をそっとかけて、金具を止めた。
「君は私の……私だけのものだ」
朝。一花はこそばゆい耳元の声で目を覚ました。
「一花。一花。そろそろ目を覚ます時間だよ」
滑らかな、男性の低音。一瞬夢かと思ったが、耳に感じられるその息遣いはまぎれもなく本物。一花はがばっと跳ね起きた。
「しゃ、しゃしゃ、社長……!?」
「おや、そんなに驚いたかい。あくまで優しく起こしたつもりだったんだが」
なんで社長が、ここに!? 寝ぼけた頭で混乱する一花の肩に、ふわっと浴衣がかぶせられた。ふと自分の身体を見下ろすと、裸だった。
「ファ!?」
ばっと浴衣の前を握って身体を隠す一花を見て、大島は笑みを浮かべた。
「そんな恰好を見せられては、朝から滾ってしまうな」
昨日は素敵だったよ――。そう続けて、大島は一花の頭のてっぺんにキスを落とした。
「朝食の前に、シャワーを浴びるかい?」
まだ衝撃のさめやらぬ一花は、逃げるようにお風呂へと向かった。一人になった脱衣所の空間で、深呼吸をする。
(私……しゃ、社長と、そういうコト、を……!?)
思い出す間でもなく、昨夜の事が甦る。そうだ。自分は社長に抱きしめられて、行為を受け入れたのではなかったか。かあっと顔が熱くなり、一花はぱしっと両手で頬を包んだ。
(待って……愛人契約って……そういう愛人じゃないって話、だったのに……)
愛人。いわゆる、お金と引き換えの関係を続ける事。お金が切れれば、関係も切れる。このくらいの知識しか一花にはなかったが、そんな一花にもわかる事はある。
(わ、私……これからあの『社長』に、遊ばれて捨てられる、ってこと……?)
今までずっと独身で通してきた社長が、真剣な交際を望むはずもない。こんな事になってしまって、どんな顔でまた彼の前に出ればいいのかわからない。一花は肩を落としながらシャワールームへと入った。熱い水滴が顔を、首を伝っていく。何気なく首元に触れた一花は、そこに何かついている事に気が付いた。
(ん……? ネックレス?)
つけた覚えなどない。一花ははっと鎖の先を見た。繊細な金のチェーンには、輝く一粒の石が下がっている。一花はそれをまじまじと眺めた。
(もしかして……これって)
一花の顔に、なんとはなしに翳りが浮かぶ。行為の見返りとして、このネックレスをくれたのだろうか。これじゃあまるで、本当に「社長」と「愛人」ではないか。
(私に……私に、こんなもの、似合わない……)
豪華なネックレスも、「愛人」という立場も。一花は後悔と共に、熱いシャワーの中で目を閉じた。
「おや、ずいぶん長いシャワーだったね」
一花がシャワーから上がれると、大島はテーブルに朝食をセッティングしている所だった。
「ルームサービスをとったよ。一花は洋食と和食、どちらが好きかな?」
「あ……あの」
「なんだい」
浴衣と羽織を着込んだ一花は、わずかに出ている自分の首元を指さした。
「この、ネックレスは、一体……」
「ああ、それは、私からの贈り物さ。とっておいてくれ」
なんてことないように、大島は言った。
「君に似合うかと思ってね。思った通りだ。ね、一花」
身体を許したからだろうか。昨日よりも親密な雰囲気で、大島は一花の頬を撫ぜた。今までの壁が取り払われた分、彼の目は強い光を放って、一花を捕らえた。親密さの奥に、隠しきれない|熾火《おきび》のような光がある。
「これを外しては、いけないよ。寝るときもずっとつけていてくれ」
な、なんでですか……。一花はそう思ったが、聞く事はできなかった。
「は、はい……。できる、限り。」
「ふふ、ちゃんと約束できて、いい子だね。では、食べようか」
優しい言葉なのに。気遣われて、至れり尽くせりの対応をされているというのに、一花は身体がすくむような気持ちだった。大島の言葉はどれも、うなずく事以外は許されない。そんな響きがあった。
胸になにかがつかえたようなその気持ちのまま、椅子に座る。
(聞けない……なんで私を抱いたんですか、なんて)
一時のきまぐれか。自分が、未熟でいいなりになりそうだからか。
それとももしかして……。
(私が、『榛名』の娘だから、利用したいんですか……なんて)
『榛名』はとうの昔につぶれ、もう何も残っていない。お店も、板前も、技も、人脈も――。一花たち親子に受け継がれたのは借金だけだ。だからこの自分に、利用価値などこれっぽちもない。
社長がそれを知っているのだろうか。そう思うと、一花の背筋は冷たくなった。
(――つづきは本編で!)