「その『ダメ』は聞けないな。俺を煽るだけだ」
あらすじ
「その『ダメ』は聞けないな。俺を煽るだけだ」
ストーカー被害に遭っているのは自分であるにも関わらず、周囲に迷惑がかかる事に堪えかねて会社を辞めてしまった真弓。彼女のわずかな心の支えは、スポーツジムで顔を合わせる理人とのささやかな気分転換だった。
だが真弓は彼に連絡先も伝えず引っ越してしまう。二か月後、新たな職場で再出発を図る真弓は思いがけず理人と再会する。なんと理人は偶然にもその会社のCEOで……
作品情報
作:沙布らぶ
絵:唯奈
デザイン:RIRI Design Works
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第一章
背後から投げかけられる視線が痛い。
会社のデスクで私物の整理をしながら、佐伯真弓は心の中で深いため息をついた。
(ここから二週間の有給消化――三年間、あっという間だといえばあっという間だったけど……)
新卒からイベントの企画会社で働いていた真弓は、今月末で会社を退職することとなっていた。前々から上司とは相談を重ねてきて、会社としては真弓のことを引き留めてくれたのだが――どうにも、心の方が先に限界を迎えてしまった。
「佐伯さん、今日で最後?」
「あ……は、はい。お世話になりました、山倉さん」
それほど私物は多くなかったが、会社に返却しなくてはならない事務用品も多い。それらをきれいに掃除していると、同じ部署の先輩である山倉が声をかけてきた。
今年で三十歳になる山倉は、新卒の時代から真弓の教育係をしてくれていた。
とはいえ、真弓自身は彼のことがあまり得意ではない。
「あぁそう。最近みんな忙しくしてるから、この時期の退社はないでしょって思ってたけど――今日なんだ?」
「す、すみません。退社日は月末なんですが、有休消化の関係で」
「有休消化、ねぇ。これだけ会社に迷惑かけといて、よくそんなことができるもんだ」
棘のある物言いに、真弓は軽く眉を寄せた。
それを悟られないように眼鏡のブリッジを押して、言葉だけの謝罪をする。
「……申し訳ありません」
「いや、俺に謝られてもね? 佐伯さんも大変なのはわかるけどさぁ」
これが、謂れのない嫌味であったら真弓も無視することができた。山倉は自分よりも立場の弱い女性社員や後輩に対してはいつもこうだし、この三年で適当なあしらい方は身に着けてきた。
だが、今回ばかりは違う。
「皆さんにも、ご迷惑をおかけして申し訳ないと思っています」
低い声でそう呟いて掃除に戻るが、山倉はなおもなにかを言い続けていた。
できるだけ話を聞かないように、気にしないようにと手を動かすが、山倉はなかなか真弓の元から離れてくれない。
すると、それを見かねた直属の上司が書類を手に真弓の元へとやってきた。
「佐伯さん、これ――退職に必要な書類。帰る前に全部人事に出していってね。山倉くんはこの後アポ入ってたよね、そっちの対応よろしく」
初老の上司にやんわりと諭されて、山倉はバツが悪そうに自分の席へと戻っていく。
その様子を見て小さく息を吐いた上司が、そっと書類を真弓のデスクに置いた。
「あんまり気にしないでね。僕にも娘がいるけど、やっぱり辛いものだろう」
「あ……ありがとうございます、課長」
上司は書類を渡すと自分の席へ戻っていったが、今はそのかすかな心遣いがありがたい。
(これだけ会社に迷惑かけちゃったら……どれだけ仕事を頑張るって言っても、もうここにはいられないよね)
眼鏡を隔てた視界が、一瞬ぐにゃりと歪んだ。
ちらりと視線を落とすと、デスクの上にはぐしゃぐしゃになった一枚の紙が置いてある。卑猥なジョークや、真弓を名指して攻撃するような言葉が記されたそれは、ここ半年の間会社に何度も届けられたものだ。
ある日突然手紙が届いたかと思うと、業務中に無言電話がかかってきたり、更には会社のホームページにも意味の分からない問い合わせが増えた。
会社の広報としてあらゆるイベントに顔を出していた真弓だったが、そのうちのどれかで質の悪い人間に目をつけられてしまったらしい。
特に問い合わせでは必ず『佐伯真弓について』というタイトルで送られてくるため、一連の嫌がらせの原因が真弓にあることが社内全体に知れ渡ってしまったのだ。
(どうしてこんなにしつこいの……もう半年間、ずっとこう)
最初は真弓に同情する人も多かったのだが、度を越した問い合わせや無言電話に辟易した同僚たちは、次第に彼女と距離を置くようになった。
会社での居場所がどんどんなくなっていた真弓は、ついに我慢の限界に達して辞職を決意したのだ。
(山倉さんからもネチネチ言われるし、本当についてない……)
退職を決意して上司に報告したのは数週間前だが、引継ぎなどの業務も忙しく転職活動は難航していた。
幸い今の会社はそれなりに給料もよく、真弓も浪費をするような性格ではない。蓄えは多少なりともあるので、今すぐにどうこうという心配はないだろう。
退職用の書類にはすべて必要事項を記載しているし、仕事の引継ぎは終わっている。
今日は身辺整理を終えたら、午後半休で家に帰る予定だ。これ以上会社にいても仕事はない上に、同僚からの視線はなかなかに深く真弓の胸へと突き刺さってくる。
「……よし」
三年間、真面目に働いてきた。
その終わりがここまで呆気ないとは思わなかったし、ここまで悲しいものだとも考えていなかった。
小さな段ボール一つにまとめられた私物と、提出しなければならない書類を見つめて、真弓はきゅっと唇を噛んだ。
(悔しい――こんなことで、仕事を辞めなくちゃいけないなんて)
広報の仕事は好きだったし、これからもこの会社で頑張りたいと思っていた。
それが、たった一人の――顔も名前も知らない人物に邪魔をされたのだ。
会社で居場所がなくなったことよりも、真弓の中ではその悔しさが大きく膨れ上がっていった。
「本当に、悔しい……」
誰にも聞こえないくらい小さく呟いた後で、真弓はぐっと顔を上げた。
嘆いていても仕方がない。会社を辞めると決めた時に、真弓はいくつかの決意をした。これから先、また同じような目に遭わないとは言い切れない――そのために、強くなろうと決意したのだ。
「――お先に失礼します。……今まで、お世話になりました」
荷物を抱えた真弓は、折り目正しくお辞儀をして部署を後にした。
静かな部署の中にその声はよく響いたが、返事などはない。先ほど声をかけてくれた課長だけが、心配そうに真弓を見つめているだけだった。
* * *
「それは――警察に相談はしたのか? 昔ならともかく、今は法整備も進んでいる。ちゃんと証拠を持っていけば、話くらいは聞いてくれるはずだ」
都市部にあるフィットネスジムは、夕方になるとスーツ姿でやってくる男性が増える。
ジムに設置されているラットプルマシン――背中を鍛える専用のトレーニングマシンに座って、真弓はぐっと体に力を込めた。
「それ、もっ……考えたんです、がっ!」
「あぁ、大丈夫だ。持ち上げながら喋ると危ないから」
背中の筋肉を使って、十五キロの重りを持ち上げる。
会社を辞めて、その足で入会したジムに通い始めて一週間。まだまだ成果は見えないが、機械の使い方と体の鍛え方は少しずつわかってきた。
「んぐぅっ……!」
「よしよし、いい感じだ。前に南雲さんから言われたみたいに、ちゃんと脇を締めて」
重りをつなげたバーをしっかりと持ち、胸に引き付けるようにしてそれを下ろしていく。
就職してからはどうしても運動不足で、この十五キロの重りもなんとか持ち上げられるという状況だ。
「――十四、十五。よし、一回休もうか……お疲れ様、佐伯さん」
「あ、ありがとうございます……」
ワンセット十五回をなんとかやり遂げた真弓に、そっとタオルが差し出された。
トレーニング初心者の真弓は、当初南雲というインストラクターについてもらって機械などの操作を教えてもらっていた。
そこに、同じく南雲からトレーニング指導を受けている男性が声をかけてきてくれた。
それが、今タオルを差し出してくれた露崎《つゆさき》だ。
「すみません、露崎さんもお忙しいのに」
「気にしないでくれ。それより、そのストーカーっていうの……本当に大丈夫なのか?」
チャコールグレーのトレーニングウェアに身を包んだ露崎は、心配そうに眉を寄せて真弓を見下ろしてくる。
「とりあえず、会社を辞めてからは特に何もないので――それなら、わざわざ警察に行って大ごとにするのもな、と」
「そうか……いや、佐伯さんがいいならそれで構わないが……」
近くの会社で働いている露崎は週に四~五回ほどこのジムに通っているらしく、人柄の良さも相まって他のトレーニーとの仲がとてもいい。
インストラクターとも関係は良好で、特に真弓を見てくれている南雲という青年とは友人のように接していた。
「だが、心配だな。佐伯さんは今、一人暮らしをしているんだろう?」
「はい――会社を辞めた時に、実家に帰ろうとも思ったんですけど……なんか、悔しいじゃないですか」
汗をぬぐい、十分に水分を補給してから、真弓は小さく唇を噛んだ。
ジムに通うことを決めたのは、最低限の自衛ができるようになりたかったからだ。武道を習って立ち向かうというより、すぐに逃げられる瞬発力などを求めて体を鍛えている。
それも全て、悔しいという感情が起点だった。
自分の仕事を、そして居場所を理不尽に奪われる怒りが、今の真弓の原動力だった。
「それに、正直に言って……疲れちゃったんです。会社ではずっと皆に申し訳ないって思いながら働いていましたし、一人になってみると虚脱感がすごくて」
在職中に警察に相談することも考えたが、根掘り葉掘りあったことを聞かれると思うとどうしても一歩を踏み出すことができなかった。
今まで自分の身に降りかかったことを思い出すのは、それだけでも大変な労力が必要だ。
「確かにそうかもな……男の俺が考えているより、ずっと怖い目に遭ったんだろう」
「どう、なんでしょう。会社に電話や問い合わせがあっても、家には一度もそういうものが来たことなくて――」
ストーカーの被害は、今のところ収まってきている。
というより、元々会社への嫌がらせばかりでプライべートをどうこうされることはなかった。
表情を曇らせる真弓と露崎だったが、そこにふと明るい声がかけられた。
「二人とも、お疲れ! ……どうしたの、真弓ちゃん。なんかすごい疲れてる感じだけど……露崎さん、真弓ちゃんに無理させた?」
「南雲さん! お疲れ様です――いえ、ちょっと人生相談というか」
二人の元にやってきたのは、ジムのユニフォームを着た背の高い男性――インストラクターの南雲だった。
ネイビーのユニフォームに身を包んだ南雲は、快活な笑顔が似合う人懐っこい性格だった。
しっかりと自分を追い込むストイックさは男性のトレーニーからも信頼が厚く、一方で初心者や女性のトレーニーにも丁寧な指導で人気がある。真弓も、右も左もわからない状態から南雲にあれこれと指導を受けている最中だ。
「人生相談? えっ、露崎さんに? オレもしていい?」
「南雲さんが俺になにを相談するっていうんですか。おすすめのプロテインとかですか?」
「いやいや、そこは譲れないものがあるから大丈夫」
そんなことを言い合いながら笑っている男二人につられて、真弓も小さく吹き出してしまう。
「露崎さんって、会社の社長さんなんでしょ? オレもあと何年かしたら独立しようと思ってるから」
「えっ、そうなんですか? 南雲さん、ジム辞めちゃうの?」
独立、という言葉に、真弓が声を上げる。
すると南雲は少し日焼けした顔でニコニコと笑いながら、片手を軽く振った。
「今すぐには辞めないよ。でも、パーソナルジム運営するのが昔からの夢なんだよね……あと、三十歳超えたら結婚もしたいしさぁ」
いつもの快活な笑顔を浮かべる南雲は、ふと真弓が座っているラットプルマシンに目を向ける。そういえば、今は休憩中だった。
「そうだ、真弓ちゃん。今日は十五キロいけた?」
「はい、いけました! まだ十五回ワンセットだけなんですけど、露崎さんに見てもらって」
真弓がそう答えると、南雲は嬉しそうに目を細めてからちらりと露崎の方を見た。
ずっと露崎についていてもらったが、よく考えれば彼も自分のトレーニングを行いたいだろう。
「おっ、いいねぇ! じゃあここからはオレの番だ。二セット目は姿勢を意識して」
休憩はここで終わりだ。
いつもの癖で眼鏡を押さえようと顔に手を添えた真弓だったが、ジムに来るときはいつもコンタクトにしているのをすっかり忘れていた。
「わかりました。じゃあ、見ててください」
再びバーに手をかけた真弓は、ちらりと露崎の方を見た。
南雲がいるなら自分は用済みと言わんばかりに、彼はレッグプレスマシンの方へと向かっていく。
「はーい、真弓ちゃん集中して。ぼうっとしてると怪我するよ」
「す、すみませんっ!」
そっと背中に手を添えられそうになって、真弓はびくっと体を跳ねさせた。
「ちょっと触るよ。ここ、この辺り意識してね」
姿勢を意識するように、と再度注意されて、もう一度バーを引っ張る――そうすると先ほどよりも重量による苦しさを感じずに重りを持ち上げることができた。
結局、この日はラットプルダウンを追加で二セット行い、その後再度合流した露崎にも成果を褒められた。
「やっぱり、真弓ちゃんはちょっと猫背がちかなぁ。そこ直していったらかなり楽だと思うよ。ほら見て、露崎さんなんて定規入れたみたいに背中ピシッとしてる」
「まぁ、ちゃんと筋肉つけば姿勢も直るよ。腹筋とか落ちてると猫背になりやすいっていうから」
言われてみると、露崎はかなり姿勢がいい。
元々背が高いのだが、しっかりと背筋が伸びているので下から見上げる形になっても圧迫感を感じない。
「それに、俺は人前に出るのが仕事みたいなものだ。トップが猫背でまごまご仕事してたら、周囲に示しがつかないだろう」
露崎が笑うと、南雲も確かにと首肯する。
ちょうどそのタイミングで南雲が別の利用者に呼ばれて行ってしまったので、真弓はちらりと彼の方を見上げた。
「あ……露崎さんって、社長さんなんでしたっけ」
暗めのアッシュブラウンに染めた髪を少しかきあげて、露崎が少しだけ困ったように笑った。南雲から前に聞いたところによると、彼は今二十九歳――ベンチャー企業の若木社長と言われても、納得がいく立ち振る舞いだ。
「あぁ、社長って言っても、俺の仕事は広告塔みたいなものかな。社員たちが優秀だから、俺はその分人前に出て注目を集めておかないと。その為にちゃんと鍛えて、見苦しいところがないようにしているんだ」
人に見られることを意識した体づくりというのは、自分でストイックに体を追い詰めるのとはまた意味合いが違うだろう。
真弓も人前に出る仕事はしていたが、正直彼ほど自分の見た目に気を使っていたわけではない。誰からどう見られるかというよりも、最低限見苦しくないようにとだけ考えていた。
「でも、佐伯さんは筋がいいと思う。しっかりと南雲さんが言うことも実践できてるし……基礎体力をつけるくらいなら、今でも十分」
そう言って小さく微笑む露崎に、思わず頬が熱くなる。
モデルのような顔立ちの彼に微笑まれると、どう言葉を返していいのかわからなくなるのだ。
(こんなこと、あんまりなかったんだけどな……)
前職は広報で、老若男女問わず様々な人と接してきた。
だから誰かと話すときに緊張するということはあまりなかったのだが、真正面から露崎に見つめられると少しだけドキドキする。
「それと、佐伯さん」
「は、はい……なんですか?」
「さっき話していたことだけど」
ふっと和らいでいた表情が真剣なものへと変わり、露崎が身をかがめてくる。
「知り合いに、腕のいい弁護士がいる。ことを大きくしたくないという君の話はよくわかるし、その意思を尊重したいとは思うが……もし被害が大きくなるようだったら、力を貸せるかもしれない」
「……それは」
見つめてくる露崎の視線は、とても真摯で真剣だった。
真弓がこれから件のストーカーの被害に遭わないとは言い切れない。被害が大きくなってからでは手遅れになることもあるというのは、自分でもわかっていた。
そして、敢えてそのことを考えないようにしていたのだ。
「ありがとうございます。……その、お気持ちはとっても嬉しいです。家を特定されたりしたら、やっぱりわたしも怖いですし……」
帰ったら家が荒らされていただとか、家の前まで付け回されただとか、その手の体験談はネットで調べればいくらでも出てくる。
だが、一人暮らしの真弓はそのような状況になった時になにができるだろうか――そう考えると、どんどん気持ちが沈んで身動きが取れなくなってしまった。
「それなら、連絡先を渡そう。露崎理人からの紹介だと言えば話もすぐ通るし、女性の弁護士もいる。……着替えが終わったら、少し待っていてくれないか」
真面目な表情でそう言われてしまうと、真弓も頷くしかない。
ただ、気になるのはその動機だ。どうして彼が、ここまで真弓に親切にしてくれるのかの理由がわからない。
「あの、どうしてそこまで……」
普通の人なら、この話をした時点で面倒ごとだと思うだろう。
実際、前の会社に勤めていた時はそうだった。最初は話を聞いてくれた人もいたが、実際業務への支障が大きくなってしまったあたりから、真弓のことを疎ましく思う人が増えてきたのだ。
「君が、理不尽な理由で居場所を追われたことを知ってしまったから。おせっかいかもしれないけど、なにもしないで話を聞くだけっていうのは、俺自身が許せない」
「露崎さん……」
きっぱりとそう言ってのけた露崎に、真弓は確かな頼もしさを覚えた。
だがそれと同時に、彼に迷惑をかけたくないという考えも頭をよぎる。他人のために心を砕いてくれる彼の優しさは嬉しいが、その親切を本当に受け取っていいのかと不安になった。
「連絡先だけを渡すから、連絡をするかどうかは君が決めていい。……もちろん、佐伯さんが迷惑じゃなければ」
けれど、露崎の気遣いはさりげない。
にわかに表情を曇らせた真弓の様子に気付いてくれたのだろう、彼は壁に掛けられている時計を見上げると、そろそろトレーニングを切り上げると言い出した。
「あ、じゃあわたしも……」
露崎は今日、大部分を真弓のトレーニングに付き合ってくれた。
南雲と違ってそこまで体を追い込んでいるわけではないようだったが、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
「入口でお待ちしてます」
「あぁ、ありがとう。……そうだ、佐伯さん」
弁護士の連絡先は、ありがたく受け取ることにした。
本当に困ったら連絡をしよう――自分の中でそう決めて、着替えをするのに更衣室へと向かう。すると、廊下で露崎がふと首を傾げた。
「前の仕事って何してたのか、聞いても大丈夫そうか?」
「大丈夫ですよ。広報の仕事をしてました……イベント企画の会社だったので、ちょっとした司会進行とか、普通に企画を出したりもしてましたけど」
イベント企画とはいっても、そこまで大きな規模のものではない。
生涯学習セミナーの開催や、地域の特産品をPRするための小さなイベントの開催などをこまごまと行ってきた。
そう答えると、露崎は何度か頷いてその足を止める。
「次も、そういう仕事に就きたいと?」
「どうでしょう……いえ、広報の仕事はすごく楽しかったんですけど、企画を出せるようなお仕事も楽しそうだし――ただ、今は少し……人前に出るのは怖いかなって」
誰かと話すことは嫌いではないし、イベントの企画運営に携わる仕事は好きだからこそ続けることができた。
けれど、今はその楽しみよりも恐怖の方が少しだけ強い。
「だから、もう少しだけ休んでみて、それから色々決めようと思ってるんです」
「そうだな。きっとそれがいい――案外、自分の専門の外に目を向けてみるのもいいかもしれない。俺も仕事の時に、よくそういうことを考えるから」
今の状況に、悲観的にはなりたくなかった。
だからこそ背中を押してくれるような露崎の言葉が嬉しい。
露崎が男性用の更衣スペースに向かっていくのを見送りながら、真弓は小さく息を吐いた。
(露崎さん、いい人だなぁ。……あぁいう人の近くで働けたら、きっと楽しいんだろうけど)
次にどんな仕事をしたいかなど、考える余裕もなかった。
会社を辞めてまだ一週間ほどしか経っていないし、空いている時間はなかなかできなかった家の掃除などをしていた。
敢えて体を動かして、妙なことを考えないようにしていたということもある。
ふと動きを止めて今後のことを考えると、どうしても体が強張った。次に勤めた会社で、また同じような目に遭ったらどうしよう――そんな考えを振り払いたくて、懸命に手を動かしてばかりいたのだ。
けれど、確かにそろそろ次を考えた方がいいかもしれない。
露崎の言葉は、真弓にそう気付かせてくれた。弁護士を紹介してくれるという彼の言葉も、新生活を歩もうとする自分を元気づけようとしてくれているのだ――そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなるような気持ちになった。
(世の中、悪いことばっかりでもないんだなぁ)
捨てる神あれば拾う神ありとはよく言うが、もしかするとこれから状況が好転していくかもしれない。
自分が前向きになれるようにそう言い聞かせて、真弓は女性用の更衣スペースで着替えを終えた。
「佐伯さん、こっち」
「あ……すみません。お待たせしてしまって」
「男の方が身支度は早いものだろう? それに、そこまで待ってないから気にしないでくれ」
着替えを終えてジムを出ると、既に露崎がスーツ姿で立っていた。
黒いスーツを着た露崎は、先ほどのトレーニングウェア姿とはまた印象が違って見える。
ライトグレーのシャツに身を包んでしまうと鍛えられた筋肉はしっかりとスーツに収まっているし、涼しげな目元はよりシャープな印象を抱かせた。
「これ、弁護士事務所の連絡先。さっきも言ったけど、露崎理人からの紹介って伝えておいてくれ。それならきっと、相談を待たせることはないと思うから」
露崎が手渡してくれたのは、小さなメモ帳の切れ端だった。
少し角ばった文字で『時守法律事務所』という字と、電話番号が記されている。
「ありがとうございます……その、いいんですか?」
「もちろん。必要ないと思ったら捨ててくれて構わない」
小さく頷いた露崎に、真弓は頼もしさとありがたさを感じて頭を下げた。
普通、他人のためにここまでしてくれる人はそうそういない。久しぶりに人の優しさに触れて、少しだけ泣きたくなってしまった。
「もし、次になにかあったら……その時に連絡させていただこうかと」
「あぁ、そうしてくれ。じゃあ、俺はこっちだから」
帰る方向は真逆なので、露崎とは店先で別れることになった。
にっこりと笑って手を振る露崎に、真弓もまた手を振り返す。
「露崎さん、本当にいい人だなぁ」
受け取った連絡先は、丁寧に折りたたんで鞄の中に入っている手帳にしまいこんだ。
本当は、これを使わないのが一番だ――でも、もし本当にどうしようもなくなってしまったら、その時はありがたく使わせてもらおう。
そう決意した真弓の足取りは、普段より少し軽いものだった。
「あっ――こんにちは、露崎さん!」
それから数週間、真弓は週に三度のジム通いがすっかり習慣になっていた。
同じようにジムに通っている人との交流も増え、少しずつできることも多くなってきた。
「こんにちは、佐伯さん。……今日は有酸素?」
「はい。少し腰に痛みが出て。南雲さんに相談したら、筋トレはやめて有酸素運動にした方がいいって言われたんです」
今日も、露崎は仕事帰りにジムに立ち寄った。
彼は会社から帰る際に必ずこのジムに来ているらしく、インストラクターの南雲曰く週五で通っているという。
そんな露崎とあいさつを交わし、多少会話をするのも、真弓のひそかな楽しみになっていた。
「そうか。腰痛は心配だな……」
「そこまで酷いものじゃないんですよ。ただ、やっぱり今までデスクワークが多かったので、体を動かしてあちこち痛くなってくるというか」
筋トレをして余計に負荷をかけては治りも遅くなるからと、南雲からは有酸素運動を勧められた。
ランニングマシンの速度を緩め、会話ができるくらいの速度でウォーキングをしていると、露崎が隣のマシンを使い始めた。
「痛いのに無理をして、体を壊してしまっては元も子もないからな」
「そうですね。……えぇと、その」
露崎は軽く体を温めるつもりなのか、それなりの速度を出して走り始めた。
その様子を隣で眺めながら、真弓はなんとかして言葉を探す。
(最近――露崎さんとなにを話していいのか、わからなくなってきてる……)
毎日顔を合わせているわけではないのだが、一週間に一度は必ず彼とジムで会い、他愛のない会話を繰り返していた。
その点では南雲や他のトレーニーと同じなのだが、なぜか露崎が相手の時に限って言葉出てこなくなってしまう。
(怖いとか、嫌だとか、そんな風には思わないのに)
むしろ、彼に対して抱いている感情はそれと真逆のものだった。
人当たりのいい露崎は、真弓が声をかけると気さくに話してくれる。
アウトドア系の会社で社長をしているという彼は、基礎体力のない真弓にとっていい相談相手だった。彼の話を聞いていると気分転換にもなり、なにより楽しい。
彼と会話ができるほんの少しの時間を、どこかで楽しみにしている自分がいる――それは真弓にとって紛れもない事実だった。
(きっと、この人のことが――好きなんだろうなぁ)
その思いは、日に日に心の中で大きくなっていった。
彼が具体的に、なにをしている人なのかはよく知らない。時折キャンプに行くとか、大学時代は海外にいただとか、そういう話はちらほらと耳に入ってはきたが、好きなものも嫌いなものもよくわからない。
そんな人を好きになるという自分に驚きもしたが、露崎が垣間見せる優しさや気遣いに、知らずうちに惹かれている自分がいたのも事実だ。
「――佐伯さん」
「は、はいっ!」
「なんだか、顔色が明るくなってきたな」
まっすぐに前を向いて走っている露崎に声を掛けられて、真弓はパッと顔を上げた。
走っている彼がこちらを向くことはないが、声音はとても優しい。
「そう……ですか?」
「あぁ。最初に会った時よりずっと――多少は、気持ちも上向いてきたか?」
自分では気付かなかったが、彼の目から見たらそう見えるらしい。
だとすれば、原因は露崎だ。彼のおかげで少しだけ毎日が明るくなったように思える。
(でも、そんなこと言われても迷惑だよね)
週に何度か、ただジムで会うだけの相手。
それにいきなり「あなたのおかげで気分がよくなりました」などと言われても、混乱するだけだろう。
真弓は心の中で頭を振ると、ひときわ明るい声を出した。
「実は、色々吹っ切れてきたんです。転職活動も、そろそろ始めようかなって」
「そうか――あぁ、それはよかった」
どこか安堵したような露崎の声が、嬉しいと同時に切なくなる。
転職活動を始めたのは本当だ。もう少しゆっくりとするつもりだったのだが、仕事のない日々というのは意外と退屈なものだった。
転職エージェントにも登録して、三か月くらいで次の職を決めたい――そう一歩を踏み出せたのも、露崎のおかげだと言える。
「心配していたんだ。佐伯さんはほら、結構真面目そうだし……色々なことを考えてしまうんじゃないかって」
「それは、その……確かにたくさん考えました。でも、いつまでもこのままではいられないので」
今のところは、ストーカーの被害も一切ない。
真弓が会社を辞めたことで、向こうも諦めてしまったのだろう。そう考えると、いつまでも家の中でうじうじとしているのはもったいないような気がした。
離職期間があまり長いと次の仕事を探すのにも苦労してしまうし、時間を持て余すくらいならば行動しようと思えたのだ。
「あ、でも――ジムにはちゃんと通い続けたいので、あんまり遅くない時間帯で働けたらなぁって」
いっそのこと、転職を機にライフワークバランスの充実を図ってみようか。
そんなことを考えながら求人案内に目を通すのは、なかなかに楽しかった。やったことのない仕事にも挑戦してみたいという前向きな思いが、今の真弓の中に溢れている。
「色々と考えてみるのもいいかもしれないな。――どうしても好みの仕事がなかったら、いっそ自分で事業を立ち上げてみるとか」
「えっ、流石にそこまではできませんよ……」
「そうか? 案外ビジネスチャンスなんてその辺に転がっているものだ。こういうのは、ものの見方を少し変えるだけでいい」
その言葉を聞くに、露崎の経営者としての一面を垣間見た気がする。
露崎は冗談で「事業を立ち上げろ」なんて言ったのかもしれないが、案外彼ならばそういうこともサクッとできてしまうのかもしれない。
「露崎さんは、そういうの得意なんですか?」
「あぁ、多分な。だからきっと、今こういう仕事をしてる。……昔から、商品の隠れた適性とか、知られていない良いところを見つけるのが好きなんだ」
体が温まった露崎が、ランニングを止める。
これから筋トレをするという彼に手を振ってその後ろ姿を眺めていると、それだけで元気がもらえるような気がした。
(やっぱり、露崎さんのことが好きなんだ……)
少し彼と話しただけで、胸の奥が弾むような心地になる。
顔を見ると気分が上向きになって、声を聞いてもう少し頑張ろうと奮い立つことができた。きっと、自分は彼に恋をしているのだろう。
「……怖いな」
誰にも聞こえないような、小さなつぶやきが口の中で消えていった。
自分の気持ちをまっすぐに伝えるのは、そこまで得意ではない。それに加えて、ふとした一瞬に思い出してしまう――名指しで投函される怪文書や、繰り返される無言電話たち。
幸いにして、今は特にそれらの被害もない。相手が諦めてくれたのならばそれでいいと思っているが、もしも――もしも、あのストーカーがまた自分を狙い始めたら。
そう思うと、どうしても露崎に気持ちを伝えようとは思えなかった。
相談に乗ってもらっただけでもありがたいのに、これ以上の迷惑はかけたくない。
それに、露崎のような人ならばきっと恋人だっているだろう。それなら、最初から重いなど伝えない方がいいに決まっている。
(憧れの人、くらいの気持ちでとどめておいた方が……きっと、辛くないよね)
自分に言い聞かせるようにして、真弓はそっと歩みを止めた。
腰の痛みを南雲に相談した時、無理は禁物だと言い聞かされている。今日はこの辺りにして家に帰ろう。
最近知り合ったトレーニーと挨拶を交わしてから、真弓は着替えを終えて家路についた。
(そういえば、そろそろエージェントさんとお話しなくちゃ……この前の求人も、気になってるから詳細聞きたいし――)
ジムを出て電車に乗り、最寄り駅まで向かう。
駅から家までは十分ほど歩くのだが、その間にやらなければならないことを頭の中でまとめていった。
会社で働いている時はもっと慌ただしい生活をしていたが、仕事を辞めて時間が増えたこともあり、こうして考え事に時間をかけることが増えていったように思う。
「少しずつ、前に進めてるのかなぁ」
呟いた声は誰が聞いているわけでもなかったが、口にするだけで少しだけ心が軽くなるようだった。
真弓は元々、それほど後ろ向きな性格ではない。最悪だった状況からは抜け出せたような気がするし、ここからは新しい生活を始めるべく歩いていきたい。
そんなことを考えていると、自宅アパートに到着する。大学を卒業してから住み始めた1Kのマンションは、最近物を捨てたこともあって少しだけ広々としている。
ポストに投函されている郵便物をチェックすると、ダイレクトメールなどがいくつか投函されていた。
「……なにこれ」
その中に、見覚えのない小さな茶封筒が一封――差出人が書かれていないそれをいぶかしみながら、真弓は部屋の中に入ってハサミでその封を開いた。
「ひっ……!」
その瞬間、引きつったような声が喉から絞り出される。
封筒の中身は、意味の分からない怪文書と一葉の写真だった。
便箋の四隅は焼かれたように焦げ付いており、手紙には真弓の名前が記されている。手紙の内容は支離滅裂なもので、赤のサインペンでぐちゃぐちゃと意味不明な文字がつづられていた。
更に、真弓が戦慄したのは同封されている写真の方だった。
「これ、一体どこで……」
ゴク、と、低く喉の奥が鳴る。
同封されていた写真に写っていたのは、紛れもなく真弓自身だ。
ジムでランニング用のマシンを使っている真弓の写真の上から、白いマーカーのようなものでぐちゃぐちゃの線が引かれている。
(ジムの中で撮った写真だよね? でも、こんなこと――いつ撮られたの? いや、むしろどこで……)
一気に、頭の中が真っ白くなっていく。
鼓動がどんどん早くなって、全身に冷や汗をかき始めた。
「家、知られてる……あのジムにも――」
呆然自失のまま呟いた言葉は、しかし的確に今の状況を表していた。
もしかしたら、今この瞬間も――誰かがどこかで、自分のことを見ているのかもしれない。
そう思うと途端に恐ろしくなって、真弓はきょろきょろと周囲を見回した。
「わたし、また……」
震えた声が、どこか遠くの方で聞こえる。
恐る恐る写真を裏返してみると、そこには黒いマーカーで文字が記されていた。意図的に崩されたその文字を読み取るのには時間がかかったが、明確に「ツユサキリヒト」というもじが記されている。
「ツユサキ、リヒト……に、近づくな――」
露崎の名前も知られている。
この手紙の差出人が、どこでそれを知ったのかはわからない。ただ、自分以外の名前がそこに記されていることが恐怖でしかなかった。
(わたしのせいで、このままじゃ露崎さんにまで迷惑が掛かっちゃう……)
爪先から血液が抜けていくような感覚を覚える。体がどんどん冷え切っていって、指先が小刻みに震えていた。
自分のせいで、もしも露崎の身になにかが起きてしまったら。
最悪の想像が頭をよぎり、真弓はぎゅっと唇を噛んだ。
「……もう、あのジムには通えないな」
自分がジムに近づかなければ、手紙の投函者が露崎を狙うこともないだろう。
真弓自身、こうして写真を撮られることもないはず――すぐにスマートフォンに手を伸ばした真弓は、二十四時間営業のジムに電話を掛けた。
「あの――すみません、そちらのジムに通っている佐伯と申します。退会の手続きをしたいんですが……」
『えっ、真弓ちゃん? いきなりどうしたの?』
電話に出てくれたのは、ちょうど近くにいたという南雲だった。
退会手続き自体は直接ジムの受付で行わなくてはならないと教えてくれた彼だったが、真弓のただならぬ様子を察したのか心配して声をかけてくれる。
けれど、南雲にも詳しい事情を話す気にはなれなかった。
このことを誰かに話して、相手が巻き込まれるのだけは避けたい。
訝しがる南雲だったが、とにかく一度退会したいと告げると、彼は手続きに必要な書類や持ち物などを詳しく教えてくれた。
(このままだと、南雲さんにも迷惑を掛けちゃうかも……)
何度も心配そうに声をかけてくれる南雲や、いつも優しく声をかけてくれた露崎に申し訳ないような気持ちになりながら、後日真弓はジムを退会したのだった。
第二章
「では、こちらが社員証になります。総務部は四階、エレベーターを降りたらまっすぐ進んでください」
「わかりました。ありがとうございます」
人事の人間から社員証を受け取った真弓は、背筋を正して小さく息を吐いた。
ストーカー被害を受け、ジムを退会してから二か月。ようやく身の回りが落ち着いた真弓は、今日から新しい職場で働くことになった。
(あれから引っ越しをしたり、仕事を探したり……大変だったな)
精神的に追い詰められた真弓は、あれからすぐに引っ越しをした。
そうなると蓄えの方も少し心許なくなり、すぐに再就職のための活動を開始したのだ。
(ディーツアーズ株式会社……アウトドア用品の専門店って、今まであんまり気にしたことがなかったけど――会社、大きいなぁ)
それでも、再就職までは二か月を要した。
今日から真弓が働くのは、今勢いづいているアウトドアメーカー、ディーツアーズ株式会社だ。求人サイトを見て応募したのだが、海外のアウトドア用品などを取り扱っており、メディアで取り上げられることも多い。
心機一転、企画系の仕事ではなく総務として働くことを決めた真弓は、エレベーターに乗り込んで四階へと向かった。
フロアに降りた真弓は、言われた通りに総務部のフロアへと足を踏み入れた。
上場企業でもあるディーツアーズ本社で働いている人間は多く、広い社屋の中を慌ただしく駆けていく人の姿も見える。
「お、おはようございます。あの……今日からこちらに配属された、佐伯と申します」
「おはようございます。じゃあデスクに案内するので、こっちに」
その中で、真弓は面接の際に顔を合わせた上司に声をかけた。
年齢は三十代後半頃だろうか、人のよさそうなたれ目がちの男性は、真弓に気付くとにこにことデスクまで案内してくれる。
「前にも挨拶したけど、僕、総務部次長の川添って言います。部長が今出張中だから、サイン必要な書類とかは僕にください。あと、仕事のことは誰に聞いても大丈夫。皆僕より詳しいから」
「は、はい。ありがとうございます……」
「前職は企画なんだっけ。ウチも時々社内レクリエーションとかやるから、その時は是非力を貸してほしいな」
穏やかそうな上司とともに、デスク周りを案内される。先輩社員たちにも挨拶を終えると、さっそくOJTを行うことになった。
「じゃあ、まずは皆のちょっとしたお手伝いからやっていこうか。佐伯さんには今後、社内文書の作成とか、イベント企画、運営、簡単な来客対応とかをお願いしたいと思ってる。慣れてきたら経理とか労務とかを手伝ってもらうかもしれないけど、まずはこの辺かな」
社内イベントの企画などは、真弓にも経験がある。小さな会社だったので、来客対応や文書作成も幾度となくこなしてきたが、なにせ会社の規模が比べ物にならない。
メモを取りながら一つずつ仕事を覚え、疑問点は近くの席に座っている先輩に尋ねる――前の会社だと迷惑そうな顔をされることもあったが、ここは皆丁寧に仕事を教えてくれた。
「あっ、そうだ――総務部って、一応秘書業務もやってるんだよね。役員……主にCEOとか、専務とか……その辺のスケジュール管理をお願いすることもあると思う」
昔は総務部の中に独立して秘書課があったのだが、数年前に社長が代替わりした際に秘書課の業務は総務部の人間で分担することになったらしい。
「一応、その辺は共有されてるから。時間がある時に確認しておいて」
「わかりました。ありがとうございます」
仕事を始めてまず任されるのは、簡単な書類の管理だ。
会議資料をまとめたり、他部署から共有されてきたものを社内クラウドに保管したり――紙で用意されたものは全てPDFに変換して、社員のアクセスがしやすいように保管する。わかってはいたことだが、その数は非常に膨大だった。
「すみません……第一営業部から共有されてるプレゼン資料って、どこにあるんですか? 社内クラウドの中を探してみたんですけど、見つからなくて……」
書類整理だけなのに、なかなか仕事が終わらない。そもそも各部署で適当な場所に資料を保管するので、あちこちを探す羽目になる。
早速困り果てて隣の席の同僚に尋ねると、彼女は嫌な顔一つせずにデータの場所を教えてくれる。
「あぁ、ちょっとわかりにくいところに格納されてるんだよね――これ、ショートカット作っておくと便利だよ。あと、実店舗での販売データが格納されてるところが結構複雑だから、チャットでリンク送っておくね。そこから飛んだらすぐだから」
「ありがとうございます。助かります……!」
そうして慣れない仕事で右往左往しながらも、新しい仕事を覚える生活は真弓に潤いをもたらしてくれた。
忙しくしていると余計なことを考えなくてもいいし、なにより刺激をもたらしてくれる。
家を引っ越した当初は、またストーカーに家を特定されるのではないかという恐怖も付きまとっていたが、一月ほど働いてみるとその不安も徐々に薄れていった。
(家に帰ると、疲れてすぐ寝ちゃうっていうのもあるけど――)
新人なので任されている仕事は多くはないが、そもそも社風として残業自体が少ない。
これも、先代社長の息子にあたる現CEOが進めている施策で、数年前までは営業も企画も遅くまで残業、ということが少なくなかったらしい。
(今の社長……CEOって、どんな人なんだろう。若い、とは聞いてるけど――)
大学時代の就活の時のように、その会社の社長から社歴に至るまであれこれと見ている余裕はなかった。
求人サイトで出てきた求人に、エージェントを通して募集しただけ――なので、この会社の社長がどのような人物なのかも、真弓にはよくわからなかった。
「佐伯さん、ごめん! ちょっと荷物運ぶの手伝ってもらってもいいかな?」
「はい、今行きます!」
働き始めて一ヶ月ほどが経つと、少しずつではあるが任される仕事も増えてくる。
真弓の方も要領を得て働くことができてきたし、なによりこの会社は人が優しかった。丁寧に仕事を教えてもらえた分、それだけできることも増えていったのだ。
「ごめんね、この荷物なんだけど……第三事業部まで持っていってもらえないかな」
「わかりました。えっと、第三事業部は――」
「十階の奥。そんなに入り組んでないから大丈夫だと思う」
地上十二階建てのビルは、その広さも相まって移動も一苦労だ。
総務という仕事柄、こうして他の部署へのお使いを頼まれることも多い。他の部署でも顔を覚えてもらう必要もあるため、真弓はよくお使いを任されていた。
「ありがとうございます。じゃあ、これ届けてきますね!」
受け取った小包を持って、エレベーターで十階に向かう。
ポーン、と小さな音が聞こえて扉が開くと、中にはスーツ姿の男性が一人立っていた。
「お疲れ様です」
「お、お疲れ様です――」
不意に声を掛けられて、思わず声が上ずった。
黒いスーツを着たその男性に軽く頭を下げて、真弓はエレベーターの隅に立った。なんだか、目の前の人物に見覚えがあるような気がする。
(あれ、この人……露崎さんに雰囲気が似てるな……)
三十歳前後の男性なら、割と似たように見えてしまうものなのかもしれない。
よく見ると髪型も違うような気がするし、そもそもこんなところに露崎がいるとは思えなかった。
(見間違い、か。そういえば、露崎さんどうしてるかな――なにも言わずに、ジムを辞めちゃったし……)
あの時の真弓は、とにかく必死だった。
気が動転していたこともあったし、露崎の名前が写真に書かれていたこともあり、万が一彼が被害に遭ったらと思うと眠れない夜もあったほどだ。
(露崎さんには、ストーカーのこと話してたし……心配、させちゃったかな)
再び、ポン、と小さな音がする。十階に到着したのだ。
前に立っている男性に軽い会釈をしてエレベーターを降りようとすると、不意に背後から声がかけられた。
「――佐伯さん?」
「え?」
「やっぱり、佐伯さんだよな……?」
名前を呼ばれて、思わず振り返る。
もしかして、本当に知り合いだったのだろうか――目を丸くし振り向いた真弓に、同じくエレベーターから降りてきたその男性が表情を崩した。
「あの……」
「覚えてる? 俺――露崎だよ。三か月くらい前に、一緒のジムに通ってた」
やや慌てた様子で声をかけてきた露崎は、喜びと驚きをないまぜにしたような表情で真弓のことを見下ろしている。
一方、真弓の方は完全に頭の中が真っ白になっていた。
「露崎さん!? えっ、どうしてここに……」
普段はトレーニングウェア姿を見慣れているため、露崎のスーツ姿は新鮮だ。
以前一度、弁護士の連絡先をもらった時に見たことはあるが、社内で見るとより一層スタイルがよく見える。
ぽかんとした表情を浮かべる真弓に、露崎は笑顔を向けながら頬を掻いた。
「それはこっちの台詞だよ。南雲さんから、佐伯さんがいきなりジムを辞めたって聞いて――もしかして、なにかあったんじゃないかと思ってたんだ。そしたら、まさかウチの会社で会えるなんて」
「え、う……ウチの会社?」
彼の言っていることがすぐには理解できず、真弓は目を丸くしたままで首を傾げた。
すると、露崎は懐から一枚の名刺を取り出す――そこには、彼の本名とともに役職名が記されていた。
「露崎理人――ディーツアーズ株式会社、代表取締役CEO……?」
マットな手触りの名刺に書かれていた言葉を読み上げる。
――代表取締役。
「あ、えっ……うそ、あのっ」
「佐伯さん……?」
背後から思い切り頭を殴られたかのような衝撃が、真弓を襲った。
露崎が会社を経営しているという話は聞いたことがあったが、それがまさかこの会社だったなんて。
そして今まで、自分はそれを一切知らなかっただなんて。
「たっ、た、大変失礼いたしましたっ! し、CEOだなんて、あのっ」
慌てふためきながらなんとか謝罪をしようとする真弓だったが、うまく口が回らない。
舌を噛みそうになりながら頭を下げると、露崎は小さく首を横に振った。
「あー、落ち着いてくれ、佐伯さん。大丈夫、怒ったりなんかしないから」
「でも……!」
自分が勤めようとする会社について、調査を怠った自分を殴りたい。
彼がこの会社のCEO、社長だとわかっていたら、そもそもここを就職先の選択肢には入れていなかっただろう。
(しかも、あんな口の利き方しちゃうなんて……!)
任された仕事を一瞬忘れ、真弓は泣きそうになった。
対する露崎は、そんな真弓に苦笑を向けると、再び落ち着くようにと声をかけてくれる。
「佐伯さん、ゆっくり呼吸して。大丈夫だから――俺がここの会社で働いてるって、知らなかったんだ?」
「は、はい……まさかその、社長だなんて……」
ぽん、と軽く肩を叩かれて、ようやく息をすることができる。
ジムに通っていた時から思っていたことだが、露崎の笑顔は他人を安心させる効果があるような気がした。
「本当に申し訳ございません……」
「いいよいいよ。それっぽくないって言われることには慣れてるし――でも、元気そうでよかった。南雲さんに話を聞いて、心配してたんだ」
「露崎さん……」
「もしかして、危ない目に遭ったんじゃないかって思って。弁護士に話を聞いたけど、まだ連絡はないって聞いてたから」
露崎に被害が及ぶことを懸念して、真弓はなにも言わずにジムを辞めた。
それは彼や南雲のことを思ってのことだったが、露崎はそんな自分のことを心底心配してくれていたらしい。
その事実は、申し訳なさと同時にほんの少しの嬉しさをもたらした。
「でも、今はすごく調子がよさそうだ。顔色も、前よりずっといいよ」
「はい――あの、ジムを辞めた後に引っ越したんです。それから、特に付きまとわれるようなこともなくて」
「あぁ、そうだったのか。それで、ウチの会社に?」
小さく頷くと、露崎は安堵したように表情を綻ばせた。
だが、彼はすぐにその表情を引き締めた。真弓が手に持っている小包に視線を落とし、申し訳なさそうに首をかしげる。
「すまない、仕事中なのに呼び止めたりして――でも、声を掛けずにはいられなかったんだ」
「いえ……露さ――社長とお話しできて、私も少しホッとしました。ずっと良くしていただいていたのに、なにも言わずに辞めてしまったので」
「露崎でいいよ。役職名で呼ばれるの、あんまり好きじゃないし」
微笑んだ露崎に、エレベーターから降りてきた別の社員が頭を下げる。
朗らかにその挨拶に答えた彼は、それからじっと真弓の方を見つめてきた。
「そうだ。もしよかったら、佐伯さんの近況を聞かせてもらえないか? 明日の夜なら開いてるから、君の都合がよければ」
「えっ……」
「もちろん、君が嫌じゃなければでいい。その、会社の上司と思うと緊張するだろうから――同じジムに通ってた、一人の友人として」
友人――その言葉が、一瞬真弓の胸を大きく揺らした。
彼のことは、ずっと憎からず思っていた。恐らく淡い恋心のようなものを、三か月前の自分は抱いていたのだと思う。
だが、今そんなことを考えるのは露崎に対して失礼だ。
(露崎さんは、本当にわたしのことを心配してくれていたんだろうし……)
舞い上がる気持ちを押し込めて、真弓はにっこりと笑顔を作った。
「明日でしたら、大丈夫です」
「そうか、よかった。終業後に秘書が迎えに行くから、ロビーで待っていてくれ」
真弓の返答に、露崎も表情を明るくする。
ただ、そこで真弓はきょとんとした表情を浮かべた。役員の秘書業務は、総務部で請け負っているはずだ。
「秘書……総務部の方ですか?」
「いや、俺個人がお願いしてるパーソナルセクレタリー。細かい時間管理とかを任せてるんだ。どうにもスケジュールが煩雑でね、総務にあんまり迷惑かけるわけにもいかないし」
そう言うと、露崎はそっと腕時計を確認する。
「じゃあ、明日の終業後――楽しみにしてる。仕事、邪魔して悪かったね」
「い、いいえ……その、お待ちしてます……」
爽やかに微笑んだ露崎は、そのままフロアの奥へと歩いて行ってしまう。
新人の自分と違って、彼はもっと忙しいだろう――それなのに、わざわざ声をかけてくれたという事実が嬉しかった。
(露崎さんと、食事――)
いきなりの出来事に、頭の中はまだ混乱している。
実際、露崎と再会できるなんて夢のような出来事だとも思う。それも、自分が働いている会社のCEO――二度と会えないと思っていた相手だけに、真弓の心は大きく弾んだ。
(だ、だめだめ。まずはちゃんと仕事をしないと……それに、露崎さんだって言ってたじゃない)
一人の友人として、真弓と話がしたい。
彼は確かにそう言っていた。心を砕いてくれる露崎に、自分がこのような感情を抱き続けるのは失礼になるだろう。
小さく頭を振った真弓は、抱えていた荷物をぎゅっと抱きなおし、指定された第三事業部へと向かう。
浮ついた足取りにならないように気をつけながら、言われた通りにお使いを終わらせる。
つまらないことでミスをしてしないようにと自分に言い聞かせて、真弓は翌日の終業時間まで緊張した時間を過ごすことになった。
翌日の終業時刻――残業もなく、いつも通りに仕事を終えた真弓は、露崎に言われた通りにロビーで彼の秘書を待っていた。
すると、そんな真弓に一人の男性が声をかけてくる。
「失礼します、佐伯さんですね?」
薄いブルーのシャツを着たその人が、恐らく露崎の秘書なのだろう。
年齢も彼と同じくらいで、非常に体格がよく若干強面だ。秘書というよりはボディーガードのようにも見える。
「は、はい……」
「露崎の秘書をしております、定峰(さだみね)と申します。用件は既に露崎より聞き及んでいらっしゃるかと思いますが」
定峰と名乗った秘書は、真弓が頷くとニッと笑顔を見せてくれた。
ラグビー選手のようなその体格は、巡回をしていた警備員よりも立派なものだった。
「ではこちらへ。役員専用の駐車場までお連れします」
言われるがまま、定峰の後ろについて歩く。
常務以上の役員専用駐車場は、会社の地下に存在していた。一般の社員が使う駐車場よりも下の階にあり、専用のエレベーターを使わないと降りることができないようになっている。
そんなエレベーターに乗り込むのも初めての体験で、真弓はガチガチに緊張しながら立ち尽くしていた。
緊張しきりの真弓だったが、定峰はそんな彼女に優しく声をかけてきた。
「しかし、露崎に話を聞いて驚きましたよ」
「えっ?」
「今まで、先輩にそういう話をされたことはなかったので。仕事とプライベートはしっかりと分けて考える人だし、まさか部下を連れてこいなんて言われる日が来るとは……」
強面の定峰だったが、笑うと案外人がよさそうだ。
感慨深いです、と微笑む彼に、真弓はふと首を傾げた。
「先輩……?」
「あぁ、すいません。露崎とは高校が一緒で。同じ空手部の先輩後輩だったんです」
――てっきり、定峰の方が露崎より何歳か年上だと思っていた。
年齢のことも驚いたが、露崎が空手をしていたというのもなんだか意外だった。
(露崎さんが空手……? ちょっと想像つかないけど、でも――確かに鍛えてるし……)
目の前の定峰ほどではないが、露崎もトレーニングウェアに着替えるとかなりしっかりと筋肉がついている。
元々なにかスポーツをやっているのではと思っていたが、なんとなくテニスやサッカーなどの球技系だと思っていた。
「意外でしょう? 自分は組手が得意で、先輩は型が得意なんです。あの人の型、すごく綺麗なんですよ」
空手のことは真弓にはよくわからなかったが、露崎のそれは動きの美しさを魅せるものなのだという。
なるほどと頷いていると、エレベーターが駐車場に到着した。やや暗いが、停まっている車自体が少ないため駐車場自体が広々と感じる。
「こちらです。あの黒い車に、露崎が乗ってます」
「ありがとうございます……定峰さんはいらっしゃらないんですか?」
「いやぁ、邪魔したら自分が先輩に叱られますから。あっ、連絡先だけ交換いいですか? 先輩に問題がありそうだったら、すぐに連絡をください。すぐに回収しますので」
露崎が乗っている車を教えてくれた定峰は、そうして真弓と連絡先を交換するとすぐにエレベーターに乗って帰ってしまった。
残された真弓は、教えられた車にそっと近づく――すると、すぐに運転席の扉が開いた。
「佐伯さん、お疲れ。定峰は……もしかして帰った?」
「お疲れ様です。……はい。あの、一応連絡先だけ教えてもらいました」
問題がありそうだったら、という前置きだけが気になったが、彼は露崎が個人的に雇っている秘書だ。
例えばお酒を飲んだりして、露崎の気分が悪くなったりしたときなどには、彼を頼ればいいということなのだろう。
「妙な気を使われたな……まぁ、乗って。あんまり人を乗せて運転したことはないけど、安全運転だけは心掛けてるから」
そう言って苦笑した露崎が、慣れた動作で助手席のドアを開ける。
緊張しながら車に乗り込んだ真弓は、シートベルトを締めながらなんとも言えない気持ちを覚えていた。
本当なら後部座席に乗せてもらおうと思っていたのだが、意図せず彼の隣に座ることになってしまった。
(誰かの運転する車に乗るの、久しぶりかも……)
露崎が隣でシートベルトを締めなおす。その間、真弓は助手席でひたすら小さく縮こまっていた。皮張りのカーシートも、車内に香る微かな香水の香りも、どうしようもなく彼のことを意識させてくる。
「店はこっちで決めたんだけど、アレルギーとかあったりする?」
「いえ、大丈夫です。お酒はあんまり強くないんですけど、食べ物はなんでも食べられるので」
「それはよかった。鉄板焼きの店なんだけど、肉も魚もすごく美味いんだ。きっと佐伯さんも気に入ってくれると思う」
露崎が車を発進させると、真弓は努めて外の景色を眺めるようにした。
会話を続けようにも、彼と何を話していいのかがわからない――ジムにいた頃はもっぱらトレーニング方法の話をするばかりだったが、いざ二人になってみるとそれ以外の話題が見つからない。
車の中には音楽やラジオもかかっておらず、やや日が傾いたビル街を進む間は二人とも無言を貫いていた。
「南雲さんも、佐伯さんのことを心配してたよ」
ちょうどオフィス街を抜けたあたりで、露崎がそう話を切り出してきた。
南雲はインストラクターとして、自分を含めたトレーニーにいつも寄り添ってくれていた。退会の話を最初に切り出したのも南雲にだったため、彼にもかなり心配をさせてしまっていただろう。
「あ……はい。退会手続きのことを聞きたくてジムに電話したら、南雲さんが対応してくださったので――驚かせてしまったとは思います」
彼にも一度謝りたかったのだが、その時間がなかった。
あの時は、一刻も早くジムを辞めなければという思いでいっぱいだったのだ。
「……詳しい理由は、俺が聞いてもいいものなのか?」
「それは――」
恐らく、露崎はその理由について大体の見当はついているのだろう。
それでも、敢えてそう確認してくれる心遣いがありがたかった。少なくとも彼は、真弓の心の準備ができるのを待ってくれている。
「それは、お食事をしながら話してもいいですか?」
「もちろん。話すのも辛いなら無理はしなくていいし――酒の力を借りたいなら、そうしてくれてかまわない」
露崎の言葉で、胸の奥が少しずつ解れていくような気持ちになる。
温かいお湯でリラックスをするように、露崎が笑いかけてくれるだけで、緊張していた心が徐々にふやけて柔らかくなっていくのがわかった。
(知らないうちに、心にも体にも力が入っていたのかも)
心なしか、呼吸が深くなったようにも思える。
ガチガチに緊張していた体からは適度に力が抜け、会話は多くなくとも気持ちは落ち着いてきた。
そうしているうちに、車は小さな駐車場に停められた。
駐車場のはす向かいにあるビルの三階が、彼が予約した鉄板焼きの専門店であるらしい。
真弓はただ露崎の後ろについていくだけだったが、三階の『てっぱん逢坂』と書かれた看板の前に立つと香ばしい香りが漂ってきた。
「すみません、予約の露崎ですが」
「あっ、理人さん! お久しぶりです――奥、席取ってますんで」
「ありがとうございます。佐伯さん、こっち」
鉄板の上で肉が焼ける音と、ビールが入ったグラスが打ち合う音が、店のあちこちから聞こえてくる。
カウンターはシェフの調理を生で見ることができる特等席だったが、二人が通されたのは奥の個室だった。
「お飲み物はどうされます?」
「俺は車だから、烏龍茶。えっと――佐伯さんはお酒弱いんだっけ」
「はい。わたしも烏龍茶一つお願いします」
酒をまったく飲めないわけではないのだが、すぐに顔が赤くなって呂律が回らなくなってしまう。大学時代に一度それを指摘されてから、よっぽどのことがない限りは人前でお酒を飲むことがなくなった。
食事の方はおまかせのコースらしく、個室には直前まで鉄板で焼かれていた魚介類が運ばれてきた。
目の前で焼かれる食材を見れないのは少し寂しいが、恐らく露崎は真弓のことを気遣って個室を用意してくれたのだろう。
「じゃあ――まずは再会を祝して」
グラスを傾ける露崎に、真弓も冷たいグラスをカチンと合わせた。
冷たいお茶で喉を潤した真弓は、まだ熱々のホタテをそっと口に運ぶ。身が厚く弾力がある貝柱は、噛みしめるほどに旨味と甘味が広がっていく。
「おいしい……」
確かに、これはビールが欲しくなる。
歯ごたえのあるホタテをしっかりと味わっていると、体面に座っていた露崎がふっと笑みをこぼした。
「気に入ってくれてよかった。ここの海鮮、俺も好きなんだ」
「本当においしいです……! その、連れてきていただいてありがとうございます、露崎さん」
個室とはいえ、そこまで堅苦しい雰囲気の店でもない。
かといって賑やかすぎるわけでもなく、客はそれぞれ節度を持った楽しみ方をしているようだった。
そんな雰囲気を感じながら、二人はしばし食事に舌鼓を打った。おいしい魚介というものも、しばらく食べていなかったように思う。
「そういえば、佐伯さん――今は総務部にいるんだっけ。仕事は慣れたか?」
「えぇと……今は色々教えていただいている段階で。皆さんすごく優しいし――仕事も楽しいです」
「それはよかった。俺も、総務にはたくさん助けられてきたよ。代替わりしてから色々やることがあって、何回も調べ事を手伝ってもらったりしてさ」
昨日、帰宅してから真弓は大慌てでディーツアーズ株式会社の社歴を検索した。
元々は彼の父が経営していた『露崎釣具』という釣り用品を取り扱う会社だったのが、息子である彼が会社を継いでからはアウトドア用品全般を取り扱うようになったらしい。
外国のアウトドアメーカーといち早く提携し、まだ日本ではそれほど輸入されていなかったブランドをいくつも販売していった。昨今のアウトドアブームも相まって、業績は年々伸びているのだという。
「留学から帰ってきて一年半くらいかな。最初は総務部でいろんな仕事を見てたんだ。川添さん、優しいだろ?」
「は、はいっ! すっごく優しいです。怒ってるところなんて一回も見たことなくて」
「総務部長の柴田さんに対してだけはすごい塩対応なんだ。そろそろ出張から帰ってくるだろうから、今度見てみるといい。仲が悪いわけじゃなくて、お互いを信頼してるからなんだろうが」
悪戯っぽく笑った露崎が、そっとグラスを傾けた。
上下する喉仏をつい眺めていると、喉を潤した彼はじっと真弓の方を見つめてくる。
「それで――佐伯さん」
「……はい」
「ジムを辞めた理由については、話してもらえるっていうことでいいのかな」
ごくん、と、食べ物を飲み込む音が頭の中でやけに響いていた。
数秒黙り込んだ真弓は、かすかに震える唇を開いてなんとか声を出す。
「実は、その――家に手紙が来たんです」
「それは、件のストーカーから?」
その問いには、ゆっくりと頷く。
家に怪文書ともいえる手紙が投函されていたこと、そしてその中にはジムに通っている自分の写真が同封されていたことを――更に、その裏には露崎に危害を加えかねないような文章が記されていたことも、全て彼に話した。
「家を特定されていたのか……それに、写真まで」
「それでも、大ごとにしたくなくて。とにかくジムを辞めないと、露崎さんにも南雲さんにも迷惑が掛かると思ったんです」
露崎からもらった弁護士事務所の電話番号――そこに連絡をしなかったのも、早く引っ越しをしたかったからだ。
それに、とてもじゃないがストーカーと相対するだけの体力がなかった。精神的にかなり追い詰められていたこともあり、逃げるようにジムを退会し、家を引っ越したのだ。
「……そんなことが起きていたなんて」
絶句した露崎は、口元を手で押さえると深く息を吐いた。
確かに、彼からしてみればあまりに突然のことだっただろう。真弓にしろ、手紙が投函されていたその日まではなにも考えていなかったのだ。
「話してくれてありがとう。その――言いにくいことだっただろう。たった一人で、怖い思いをしたはずだ」
「その時はすごく怖かったです。でも……今は家も引っ越して、毎日穏やかに暮らしてます。引っ越しも、父の知り合いの業者さんに頼んで、すぐに荷物を運んでもらえたので――」
無職での物件探しは難航するかとも思われたが、利便性にそこまでこだわらなければ家を見つけることはできた。慌ただしい三か月間だったが、それでもとんとん拍子であれこれと決まったのは奇跡に近い。
「露崎さんのことも、気になっていたんです。色々よくしていただいたのに、なにも言わずにいなくなって……本当にごめんなさい」
「気にしないでくれ。なによりも、君の身の安全が一番だ」
そう言って笑ってくれる露崎の笑顔が頼もしい。
ぎゅっと胸を締め付けられるような感覚を覚えて、真弓はそっと視線を俯かせた。
「でも、そう考えると不思議な縁だ。君とはもう会えないと思っていたけど、こうしてまた言葉を交わして、食事もできている」
「あ――そうですね。私も、まさか自分が働いている会社の社長が露崎さんなんて……」
露崎が会社経営者ということは知っていても、まさか自社のCEOだと誰が思うだろうか。日本国内だけで見ても、こんなことはまずありえないだろう。
「ベンチャーの社長っぽいってよく言われるよ。まぁ、ここ数年でウチもかなり大きく事業の方針変えたから、間違ってはいないのかもしれないけど」
「露崎さんが、大きく事業転換したんですよね。その、お父様から会社を継がれて――」
「うん。元々アメリカの大学に通ってたんだけど、そこでアウトドアにハマってね。ちょうど会社の方で業績が低迷してるって話が出てたから、購買層を広げてみたらどうかって提案をしたんだ」
その名の通り、釣具を主軸として扱っていた露崎釣具だったが、業績は長らく横ばい――手堅くはあるが大きな売り上げの飛躍はなく、彼の父もそれに対して危機感を抱いていたらしい。
「それまでの購買層は、やっぱりある程度の年齢になった男性が主軸だった。だからある意味堅実な会社の経営ができていたっていうのはあるんだが――それだけではね」
最初は父にすら反対されたという新事業は、国内でのアウトドアブームの後押しもあって予想以上の売り上げを記録したのだという。
若い女性や、これまでアウトドアに興味がなかったファミリー層を取り入れるため、露崎は国内外のメーカーと提携して様々な施策を打ってきた。
「色々試して、挫折したりうまくいったり――それなりに楽しい毎日だったけど、やっぱり忙しかったよ。それでもようやく事業が軌道に乗ってきて、自分の時間をとれるようになった」
「そ、それでジムに通ってたんですか? ……家でゆっくりするとかじゃなくて?」
自分だったら、それほど忙しく動き回った後にジムで体を鍛えたいとは思わないだろう。
アグレッシブな露崎の姿勢に、真弓はほぅ、と息を吐いた。
「家にいても仕事くらいしかやることがないし、体を動かすのも好きだから。無心で筋トレしてると、仕事のアイディアも浮かびやすいんだ」
「そうなんですか……」
露崎にとって、ジムに通って己を鍛えることは一種のストレス発散なのかもしれない。
そんなことを考えていると、メインの肉料理が運ばれてきた。国産牛のステーキはその場で切り分けられ、溢れ出る肉汁が味だけではなく視覚も楽しませてくれる。
「それに、ジムにもいろんな人がいるだろう? 南雲さんみたいに夢を持っている人、佐伯さんみたいに自衛ができるようになりたいと思ってる人……その中には、ウチの商品を使ってみたいと思ってる人だっているかもしれない」
「あ――そうですよね。それは気が付きませんでした……直接そういう話が聞ける状況って、なかなかないですし」
こうして彼の考えを聞くとよくわかる。露崎の経営者としての視線は的確で、かなり高いところを見つめているようだ。
そして、そんな話を聞くごとに、真弓の胸はさざめいていく。露崎の人柄や考え、そして判断基準――彼のことを一つ知るたびに、もっと知りたいと思えてしまうのだ。
(でも、これ以上踏み込むのは怖い……またあの時みたいに、誰かがわたしを見ていたらどうしよう)
不意に脳裏によぎったのは、意味不明な言葉が並べられた手紙たちだった。
あの時真弓が感じたのは、自分が傷つけられるよりもなお恐ろしいもの――自分以外の人間を、それも露崎を傷つけられるのではないかという恐怖だ。
これまでは敢えて意識しないように、思い出さないようにしていたその恐怖が、今になって頭をもたげてくる。
「……佐伯さん? どうした、顔色が悪いが」
「え、あっ……その」
だが、真弓のその変化にすら露崎は敏感だった。
顔を覗き込んできた彼は、思わず視線を逸らした真弓をじっと見つめている。その視線は、適当な言い訳を許さないほどの強い力を持っていた。
「もしかして、なにかまだ不安なことがあるんじゃないか? ……俺に話せることなら、聞かせてくれないか」
揺らがない視線に射貫かれた真弓は、ぐっと息を飲んでから重い口を開いた。
「……怖くなってしまったんです。今こうやって露崎さんと話していて、もしかしたらまた、誰かに見られているんじゃないかなって。ずっと、そんなこと考えずにいられたんですけど――」
不安を口に出すと、それがより具現化されたような気持ちになった。
込みあがってくる恐怖と不快感に身をすくませた真弓に、露崎はそっと席を立った。
「なにも心配しなくていいとは言えないな。無責任なことは言いたくない……だが、佐伯さん。俺は自分の身くらいは自分で守れるつもりだ。そのことで君が不安を感じたり、怖い思いをする必要はない」
そっと真弓のそばにやってきた露崎は、その視線に合わせるように身をかがめた。
露崎の言葉はまっすぐで、不思議と強張った心を解きほぐしていく――ぎゅっと唇を噛んだ真弓の手を握った。
「気障ったらしいことを言わせてもらうなら――俺は、君を守りたいと思っている。佐伯さんがずっと苦しんでいたのを知っているし、今もこれだけ怖い思いをしている」
触れた彼の肌が、とても熱かった。
まっすぐな言葉をそのまま表したかのように、指先を握る手のひらは強い熱を発している。氷柱のように心の奥底へ突き刺さっていたものを、露崎が溶かしてくれているようだった。
「――君を、このままにしておけない」
一瞬、にぎやかな店内の音が全て消えた。
露崎の声だけが耳に届き、気持ちを揺さぶってくる。
なぜ彼は、ここまで自分のことを気にかけてくれるのだろう――軽く頭を振った真弓は、頭の中に浮かんだ疑問をそのまま口に出した。
「どうして……そんな、露崎さんにとって、わたしのことはそんなに重要なことじゃないですよね?」
ずるい聞き方をしてしまったとは思う。
けれど、露崎は嫌な顔一つしなかった。それだけではなく、握り締めた手に力を籠め、よりはっきりとした口調で言葉を選んでくる。
「ずっと後悔していた。君が俺の前からいなくなって……もっとできたことがあったんじゃないか、なにか君の助けになれたんじゃないかって考えていたんだ」
この三か月間、彼はそのことで思い悩んでいたらしい。
それまでトレーニングの目標などを話していた真弓が突如いなくなったら、彼だって不思議に思っただろう。
正義感の強い露崎なら、なにか相談に乗れたのではないかと後悔したというのも理解できたが、それが更に真弓の胸を締め付けた。
「君からしてみたら、傲慢だと思えるだろう。言ってしまえば俺たちは赤の他人だし、君のことを怖がらせている人間と同じように見えるかもしれない」
「そんなことはっ……! でも……」
露崎が怖いわけではない。むしろ彼の言葉は心強く、真弓にとっては勇気を与えてくれるものだった。
しかし、一度深くまで刻み込まれた恐怖というのは、なかなか消えてくれるものではない。
「わたしのせいで、誰かに迷惑をかけるのが怖いんです。ずっと――それが怖くて」
前に勤めていた会社でも、最初は理不尽な被害に遭っている真弓に同情してくれる人が多かった。
だが、それがエスカレートし、業務に支障をきたす――そうなってきた時に感じた視線の冷たさを、今でも思い出してしまう。
(自分のせいで、誰かの足を引っ張ってしまう。人も、会社も……。あんな思いは、もう二度としたくない……)
自分の心は、存外と深く傷ついていたのかもしれない。
俯く真弓に、露崎は優しく声をかけてくれる。そっと握られた手は、泣きそうなくらいに温かかった。
「他人がどう考えるのかはわからないが……少なくとも俺は、佐伯さんのことを迷惑だとは思わない。君が一番の被害者じゃないか」
「露崎さん……」
彼の言葉で、ずっと突き刺さっていた棘のようなものが氷解していく――小さく頷くと、露崎もにっこりと笑ってくれた。
「辛いことを話させてしまって、本当に悪かった。でも、君をこのままにしておきたくはないというのは、俺の本音だから」
指先を握ってくれていた彼の手が離れ、そっと頬に触れる。
優しく触れてくる手のひらはそれからすぐに離れて行ってしまったが、真弓の頬にはそのぬくもりが確かに残っていた。
「……食事に戻ろうか」
「はい。あの――ありがとうございます、露崎さん」
今まで誰にも、親にすら詳しいことを話せなかった。
それが露崎の前では、まるで絡まった糸がほどけていくようにするすると言葉が出てくる。不安なことも恐ろしかったことも、彼の前でならしっかりと言葉にすることができた。
「わたし……ずっと、こうして誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれません」
「一人で不安を抱え続けるのは辛いだろう。俺でよければ、いつだって相談に乗るから」
優しい彼はそう言って、すっかり温くなってしまったグラスの中身を飲み干した。
せっかくの料理が冷めてしまったのは申し訳なかったが、胸の中に重くわだかまっていたものがかなり取り除かれたような気もする。
「そうだ、デザートはなにがいい? 俺はレモンのシャーベットにしようと思うんだが」
「え――じゃあ、わたしも同じもので……」
おすすめのコースを堪能した二人は、デザートとして運ばれてきたシャーベットに舌鼓を打ってから食事を終えた。
その後食事の代金を払おうとすると、露崎は「自分が誘ったことだから」とそれを固辞し、真弓の分までカードで代金を支払ってしまう。
そこまで世話になれないとは言ったものの、露崎は爽やかに微笑んで店員にカードを差し出してしまった。
「その、今日は本当にありがとうございました。露崎さんとまたお話しできて、すごく落ち着いたというか……」
「俺もずっと、佐伯さんとちゃんと話したいと思ってたんだ。ここまで近くにいるとは思わなかったけど――君にしっかりと話が聞けて、本当によかった」
食事を終えて店を出た真弓は、丁寧にお礼を述べた後で近くの駅に向かおうとした。
今の時間ならまだ電車は十分にあるし、道も明るいのでそこまで怖くはない。
すると、露崎が怪訝な表情を浮かべて首をかしげる。
「なに言ってるんだ。この時間に独り歩きなんて危ないだろう? 家まで送るから、車に乗って」
「で、でも……さすがにここまでお世話になるわけには――」
「俺と別れた後で君が危険な目に遭ったなんてことになったら、きっとものすごく後悔する。俺を助けると思って、ね?」
そんな風に言われてしまったら、真弓としても否とは言えない。
家まで送ってもらえるのは素直にありがたいので、結局来た時と同じように彼の車の助手席に乗り込むことになった。
「なんというか……ここまでしていただくのは申し訳ないです」
「俺が好きでやっていることなんだ。気にしないでくれ」
シートベルトを締めた露崎に住所を伝えると、彼はそれを手早くカーナビに入力した。
(気にしなくていいって言われても……わたし、ずっと露崎さんにお世話になってばっかりだし……)
今日だけではない。三か月前にジムに通っていた時も、彼には相談に乗ってもらっていたのだ。
一方的に何かをしてもらうというのは、真弓の性格からして若干落ち着きのなさを感じてしまう。
「あの、露崎さん。なにかわたしにできることってありませんか?」
「できること?」
「お世話になってばかりというのは、わたしの気持ちが収まらないというか――せめて、なにかお返しをさせていただきたいんです」
ストーカー問題に起因する一連の流れは、真弓の心を長らく蝕んでいた。
根本的な解決がされたわけではないにしろ、頼もしい露崎の言葉は大いにその不安を和らげてくれたのだ。
せめてもの恩返しに、自分ができることがあればいい――そう思っていると、露崎はつるりとした顎に手を当てて思案するようなそぶりを見せた。
「えっと……書類の整理……? あと関係部署へのアンケートの集計とか……」
「それは――総務部の人間としてお手伝いできると思います」
その辺りの仕事ならば確かに真弓にも手伝えるだろうが、それはそれで何かが違う気がする。
ややあって露崎は何かを思いついたらしく、真弓の方に視線を向けた。
「それなら、佐伯さん。またこうして一緒に出掛けてくれないか。あちこち出かけるのが好きなんだが、やっぱり男一人だと入りにくい店とかもあるし」
「構いませんが――それでいいんですか?」
「あぁ。市場調査もかねて、女性に人気の店も見ておきたい。それに、佐伯さんが一緒ならすぐに感想も聞けるし」
どうだろうか、と尋ねられたが、真弓にとってはなにも問題はない。
それどころか、また露崎とともにこうして出かけられると思うと、心なしか気持ちが弾んでくる。
「君の気分転換にもなればいい。それと、連絡先も知らせてもらえないだろうか。仕事用の番号は昨日渡した名刺に書いてあるんだが、プライベートの方を」
「は、はい。定峰さんにも連絡先を教えていただいたんですが――」
「あぁ、彼にはいろいろと任せているから。高校時代の後輩で、元々警備会社に勤めていたんだ」
定峰の体格を思い出して、なるほどと納得した。
警備会社に勤めていたというより、警察の要人警護業務を任されているような風格さえ漂っていた。
「空手をされてたんですよね? 定峰さんに聞きました」
「あぁ――親父に言われて、子どもの頃からやらされてたんだ。昔は身体があまり強くなくて、人と接するのが苦手だったから」
「……そうなんですか?」
朗らかで健康的な露崎が、かつて虚弱で人見知りだったというのは意外だ。
彼はもっと、最初から今のような性格なのだとばかり思っていた。
「大学時代に留学した時、空手やってるって言ったら結構話の種になったんだ。世間話で仲良くなった人もいるし、大変だったけど、やってよかったとは思っているよ。……道、こっちで合ってる?」
「あ――はい。大丈夫です。その突き当たりのアパートで下ろしてください」
住宅街のはずれにある真弓の家は、周囲の街灯もそれほど多くない。駅からここまで歩いてくることを考えると、露崎に送ってもらえたのはかなりありがたかった。
「わかった。……じゃあ、また連絡するよ。今度、新大久保に新しくできたカフェに行ってみようと思うんだ」
「は、はい。予定を言っていただけたら、そこは空けるようにしますので――」
プライベートの連絡先を交換して、露崎とは家の前で別れた。
遠ざかっていく車のテールランプを見つめていると、真弓の胸はとくとくと音を立てる。
(ちょっと、事務的すぎたかな……いやでも、楽しみにしてるっていうのもなんか変だし……)
実際、露崎が「カフェにいきたい」と言った時点で心臓が強く脈打っていた。
ずっと押し込めていた気持ちが、彼の一挙手一投足で揺らいでしまう。
「露崎さんへのお礼なのに……」
自分が喜んでしまってはどうしようもないとは思うものの、自分の気持に嘘がつけない。
彼が触れた頬はまだほんのりと熱を持っていて、指先には肌の感触が未だ残っている。
「まだ、露崎さんのことが好きなんだ……」
冷たい風にかき消されそうな声で、真弓はぽつりと呟いた。
三か月前、あの時なにもなかったら、自分はきっと彼に気持ちを伝えていただろう。その結果がどうであれ、露崎のことを好きだという気持ちは抑えられなかったに違いない。
だが、今は違う。
露崎は真弓の会社のCEO――直属ではないが、上司と部下という関係だ。
彼が真弓に対して気安く接してくれるのは、少なからず真弓の状況に同情しているからだろう。正義感の強い露崎のことだから、努めて自分を怖がらせたり、不安がらせないようにしてくれている。
(言えないな。言えるわけがない……好きなんて伝えても、露崎さんが困るだけだし)
自分にそう言い聞かせて、真弓は小さく息を吐いた。
弾んだ心を再び押し込めて、何度も頭の中で繰り返す。この思いは、伝えないままでいよう。
「今のままだって、十分幸せだもの」
鍵を閉めると、家の中はひどく静まり返っていた。
楽しかった記憶を損なわないようにしながら、真弓は暗く静かな部屋に明かりを灯したのだった。
第三章
「佐伯さん、結構仕事慣れてきた? 次はこっちの仕事も任せたいんだけど……大丈夫そうかな?」
「はい、大丈夫です。――社報の作成ですね?」
同僚から頼まれたのは、月に一度発行される社報の作成だ。
一月のうち、社内で行われるイベントをまとめたり、会社の外にやってくる移動販売のスケジュールをまとめたりして各部署に配布する。
それほど難しい業務ではないのだが、複数の部署にリマインドを飛ばして予定を把握する必要があった。
「そうそう。佐伯さんが作ってくれる資料見やすいし、今度からこれもお願いしようかって話になってたの。移動販売車のスケジュールは共有しておくから、それ見て適当に表とか作っておいて」
「わかりました、こっちで作成しておきます」
総務の仕事に就いてみて、前職で培ってきたプレゼン資料の作成スキルが案外役に立っていた。
広報企画としてメディア向けの提案資料などを作ってきた経験が、社内資料の作成にもいかされている――懸命に仕事に取り組んできた甲斐もあって、徐々に任されることも増えてきた。
(自分の裁量に任されることが多いのは大変だけど……でも、楽しい……!)
書類作成のテンプレートはあるのだが、それが見にくいと思えば自分で変えてしまっていいと言われている。
社報をしっかりと読む人間がそこまで多いとは思えなかったが、作っている以上は人目に留まりたいものだ。あれこれと工夫を凝らすのは嫌いじゃないし、それが成果として現れる手ごたえも感じている。
「佐伯さん、どんどん仕事覚えていってるね。リフレッシュとかちゃんとしてる?」
「大丈夫ですよ。この前も、新大久保のカフェに行ってきましたし、休みの日はちゃんとリフレッシュしてます」
露崎に誘われてカフェに行ったり、近くの簡単な登山コースを歩いたりするというのが最近の休日の過ごし方だった。
新大久保のカフェは若い女性の比率が高く、確かに露崎一人で出向くのはなかなか大変な場所だった。それでも流行の先端ということもあり、彼も新しい着想を得たようではある。
(山登りは……大変だったなぁ……)
先週の土曜日は露崎とともにある山のハイキングコースを登ったのだが、ジムをやめて三か月、元々基礎的な体力がない真弓は、頂上に到着するころにはすっかり疲労困憊の有様だった。
自社ブランドとして展開している製品の使い心地を試すというのが目的だったのだが、使い心地以前に疲れ切ってしまってろくな感想も言えなかった。
(やっぱり、どこかでまた体鍛えなおした方がいいかな……)
アウトドア用品を取り扱う会社に勤めていて、ハイキングコースでバテてしまうのはあまりに格好悪い。
もう少ししたら、どこか別のジムに入会しようか。それとも自宅でトレーニングができる道具を何か買おうか――そんなことを考えながら手を動かしていると、次長の川添が様子を見に来た。
「佐伯さん、どう? 捗ってる?」
「川添次長……それなりに捗ってます。どうせならいろんな人に見ていただきたいので、もうちょっとデザインというか、見た目の導線を変えたいなぁって思ってるんですけど」
「へぇ、そういうこと考えてるの? 僕なんてもう、読めればいいやって思っちゃうからなぁ……」
ははぁ、と感心したような声を漏らした川添は、すっかり総務部に馴染んてきた真弓の姿を見て満足そうに何度か頷いた。
優しく笑う川添は、総務部の若いメンバーからも非常に慕われている。まず声を荒げることはないし、誰に対しても丁寧に接し、仕事の相談にもよく乗ってくれていた。
「そうそう、今日大丈夫だよね? 前から言ってたけど、二十時から佐伯さんの歓迎会だから」
「はい。ありがとうございます――あっ、柴田部長のお帰りなさい会でもあるんですよね?」
「まぁ、あの人はね。出張なんてザラだし、適当でいいんじゃないかなぁ。それより大事なのは新人さんの歓迎会の方でしょ」
だが、そんな川添は、なぜか部長の柴田のことになるとかなり扱いが雑になる。
露崎曰く「信頼に基づいた塩対応」であり、実際二人の様子が険悪なわけではないのだが、初めて二人のやり取りを見た時は真弓もかなり驚いてしまった。
「とにかく、今日はいっぱい美味しいもの食べようね! お酒だめだって聞いたから、ご飯おいしいお店取っておいたよ!」
「た、楽しみにしてます……!」
今日は真弓の歓迎会という名目の飲み会だったが、総務部は基本的に忘年会と新年会、そして各種歓送迎会を折に触れて行っているという。
店の手配などはすべて川添が行ってくれていて、気が付いた時には集合場所がメールで回ってきていた。
(お酒飲めないことは伝えてあるけど――ご飯がおいしいところって気になるなぁ)
前職では酒を飲まないことで、酔いつぶれた男性陣の介抱などをさせられたこともある。それも途中で慣れてしまったが、新卒時代は飲み会が本当に辛かった。
この会社の社風でそういったことはないと思うが、万が一の時に備えて動けるようにはしておこう――そう考えながら仕事をしていると、定時十分前には周囲の同僚たちが帰る準備を始める。
飲み会自体は二十時からのため、真弓もちょっとした買い物などをその前に終わらせておきたかった。
「じゃあ皆、指定のお店に各自集合ってことで! 今週もお疲れさまでした!」
川添の一言で、総務部の面々はそれぞれ席を立つ。
真弓も支度を終えて会社を出ると、近くにあるドラッグストアへと向かって買い物をすることにした。
(リップクリームもない……あっ、ラップ――は、今度でいいかな。これ持って飲み会行くのも……)
飲み会が始まるまでは少し時間があるので、あれこれとコーナーを物色して歩く。
すると、不意に背後から声がかけられた。
「あれっ、もしかして……真弓ちゃん? 真弓ちゃんだ!」
聞き覚えのある声に顔を上げた真弓は、ふと声のする方を振り向く――すると、そこにはジムのトレーナーだった南雲がにこやかに手を振っていた。
「……南雲さん?」
「久しぶりだなぁ! えっ、どうしたのこんなところで――もしかして、会社の帰り?」
南雲は嬉しそうに笑った。
「はい、これから飲み会なんですけど、ちょっと時間があって。……その、この前は申し訳ありませんでした。すごく心配してくださったって、露崎さんから聞きました」
以前露崎から、南雲が自分のことをかなり気にしていたという話を聞いた。
露崎はともかく、南雲にはずっと謝罪もできていなかったので、真弓としても心苦しく思っていたところだ。
「突然辞めるとかいうから、すごい驚いたよ。それに、オレが電話をとった時の真弓ちゃんの声、なんだか暗かったし」
「その、ちょっと事情がありまして。ある程度落ち着いて、会社も再就職したんです。その節は本当に、ご心配おかけしました」
ぺこりと頭を下げると、南雲は変わらぬ快活さで笑みを浮かべた。
「心配なんてそんな! ……って、露崎さんとは連絡とってるの?」
「あー、ちょっと色々あって……今露崎さんの会社で働いてるんです。入社してしばらく、全然気づかなかったんですけど」
「え、なにそれ! そんなことってあるの?」
南雲はいちいち反応が大きいのだが、本人の明るい性格も相まってそれが不快に思えないのが不思議だ。
人懐っこい南雲の笑顔は、周囲の人間も明るくするような力を持っている気がする。
「なんかさ、運命みたいなもの感じるよなぁ。だって、たまたま入った会社の社長が露崎さんだろ?」
ドラマみたいだ、と感嘆の声を上げた南雲は、それからぱっと顔を上げた。
「そうだ。今度一緒に飯でも行こうよ。露崎さんと一緒でも全然いいし――実は俺、ドクリの目途立ちそうなんだ」
「えっ、そうなんですか? じゃあ、前に言ってたパーソナルジムを……」
「二年後くらいには、なんとか形になりそう。その時は是非、真弓ちゃんにも通ってもらいたいなぁ。安くしとくよ?」
自分のパーソナルジムを持つために準備をしているという話は、ジムに通っていた時に聞いたことがあった。
二年という時間はかかるが、南雲が長らく抱いてきた夢が叶うというのは素直に喜ばしい。
「か、通います! ホント、最近体力落ちてきてて……またどこかのジムに通おうかなって思ってたんですけど!」
「まぁ、独立できそうなのがもうちょっと先なんだけどね。これで、ちゃんと個人に合わせて詳しいメニューとかが立てられる……例えば真弓ちゃんみたいな女の子が、無理なく体力アップしたいとか、もっと体の形にメリハリつけたいとか、そういうこといろんな角度からバックアップできるんだ」
夢を語る南雲の表情は、どこかうっとりとしているようだった。
無理もない――自らが経営するパーソナルジムというのは、彼がずっと目指していた目標だった。
(南雲さん、すごいなぁ。ちゃんと自分でやりたいことを叶えてる……)
南雲の夢に対する情熱や行動力というのは、素直に尊敬できた。
いつか彼のジムができたら、本当にお世話になりたいところだ。
「あっ、長々引き留めてごめん! 真弓ちゃん、これから飲み会なんだっけ」
そう言うと、頭を掻いた南雲は懐からメモ帳を取り出し、そこに自分の電話番号を記した。
小さなメモ帳の切れ端を差し出された真弓がそれを受け取ると、彼はパッと花が開くような笑みを浮かべる。
「これ、俺の電話番号ね。露崎さん経由でもいいから、マジで今度どっか飲みに行こう」
「そうですね……じゃあ、今度三人で」
きっと露崎も、南雲の夢が叶うのを喜んでくれるはずだ。少し早いが、その夢を祝うために食事をするのもいいかもしれない。
もらった連絡先を鞄の中にしまうと、南雲はひらひらと手を振って店を出て行ってしまった。真弓も、そろそろ飲み会会場に向かわなければならない。
手に持っていた商品の会計を済ませて、指定されている居酒屋へ向かう――既に店には数人の同僚が到着していた。
「あ、佐伯さん! お疲れ様~! 先に飲み物だけ聞いちゃっていい?」
「お疲れ様です。えーと、烏龍茶で」
「了解、っと……もうちょっとしたら皆来るから、ゆっくりして待ってようか。あっ、今日は佐伯さん主役だから、こっちに座ってね!」
複数のテーブルを並べた最も端、いわゆるお誕生日席と呼ばれている場所を指示されて、真弓は曖昧に笑った。歓迎会を開いてくれたことは嬉しいが、どうにも目立ってしまう。
「えっと……柴田部長じゃなくていいんですか?」
「いいよいいよ! 川添次長も言ってたけど、あの人の出張はいつものことだから」
どうして総務部の部長がそこまで出張が多いのだろう――そんな疑問を抱きながらも、同僚に言われた通りの場所に腰を下ろす。
「あ、あの……柴田部長って、なんでそんなに出張多いんですか?」
「業界団体や官公庁との打ち合わせとか調整とかかな。川添次長が社内の仕事をまとめてくれて、柴田部長は社外の仕事を積極的にこなしてくれてるって感じ」
「なるほど……」
官公庁との調整などは、真弓の考えの及ばないところだった。
折衝が必要なことを柴田が主導し、新人の育成や社内の重要事項は川添が担っていると考えると、業務のバランスは非常にいいように思える。
「だから総務部は、実質ツートップ制なんだよね。柴田部長、元々秘書課の課長だった人だからその辺の調整すごく上手だし」
「そうだったんですか……あっ、お疲れ様です!」
そんな話をしていると、件の柴田と川添が二人で店に入ってきた。
頭を下げた真弓に片手を上げた柴田は、コートを脱ぐと適当な場所に腰を下ろした。
「時間的に、そろそろ始めていいかな? まだ来てない人たちももうすぐ来ると思うし」
同じく上着を脱いだ川添が、二人分の飲み物を頼んでぐるりと会場を見回した。
この場にいるのは、真弓を含めて十数人――本日欠席のメンバーを入れると、あと五、六人がまだ到着していない。
「大丈夫じゃないか? 全員来るの待ってたらいつまで経っても始まらんだろう」
「柴田さんね、アンタ自分が到着したからって……まぁ、それもそうか」
温かいおしぼりで両手を拭いた柴田の言葉に、川添が苦笑を漏らした。
とはいえ彼が言っていることも正論ではあるので、主催の川添が店のスタッフに声をかける。
すると、すぐに冷たい飲み物とおいしそうな料理たちが運ばれてきた。
定番の鶏唐揚げにポテトはもちろん、ラムチョップのスパイス焼きに生ハムのシーザーサラダ――酒が飲めない人間も何人かいるため、ミートボールがゴロゴロと入ったドリアも用意される。
「わ、すごいですね……!」
「ここ、ご飯ものも美味しいんだよね。色々頼んでおいたけど、食べたいものあったら別に頼んで大丈夫だから」
ニヤッと笑った川添が、そう言ってメニューを差し出してくる。
それをありがたく受け取ると、真弓の前にも烏龍茶が入ったグラスが置かれた。
川添が乾杯の音頭をとると、各々が飲み物で喉を潤し、並べられた食事に手を付けていく。
(どれもおいしそう……ラムチョップのやつ、食べてみようかな)
真弓もまた、グラスを掲げた後は目の前のラムチョップに舌鼓を打った。
柔らかくも肉の味がしっかりとする羊肉に、ピリ辛のスパイスが更に食欲をそそる。
「どう、美味しいでしょ」
「はい……! このラムチョップ、すごく好きな味です。あんまり辛すぎなくて、辛さよりも香りで食べさせてくれるというか」
辛い物も嫌いではないが、複雑なスパイスの香りが次の一口を誘ってくる。
川添が言っていた通り、料理はかなり美味しい。
(それに、大声で笑ったり叫んだりする人もいないし――なんか、わたしが知ってる飲み会と違う……)
歓迎会といっても基本的に真弓がなにかをすることはなく、各々が談笑し酒を飲んでいるだけ――勝手に酒を注文されたりすることも、笑い話を強要されることもない。店の雰囲気も相まって、かなり居心地のいい空間だった。
「あっ、お疲れ様です。露崎さん!」
――と、ひとしきり料理や同僚たちの会話を楽しんだ頃、料理を楽しんでいた真弓の耳に、柴田の声が飛び込んできた。
呼ばれた名前を聞いて顔を上げると、確かにそこにはスーツ姿の露崎が立っていた。
「あれ……柴田さん? それに――」
ちらりと真弓の方を見た露崎が、軽く目を見開いた。
真弓も一瞬言葉を失い硬直するが、二人の関係を知らない柴田は真弓の方を指して飲み会の内容を話し始める。
「今日、彼女の歓迎会なんです。総務部に新しく入った、佐伯真弓さんっていうんですけど」
「ぁ――さ、佐伯ですっ!」
ここで妙に顔見知りのような雰囲気を出すと、後々面倒なことになりそうだ――そう考えて頭を下げると、どうやら露崎はその意図を察してくれたらしい。
「あぁ、そういうこと。みんな揃ってるからどうしたのかと思った。……じゃあ、新人さん歓迎ってことで、俺も一杯もらおうかな」
軽く片手を上げた彼は、近くにいた店員を呼ぶと生ビールを一杯注文する。
すぐに用意されたビールを受け取り、露崎はそれをぐっと飲み干した。基本的に真弓と二人の時は酒を飲まないので、彼の豪快な飲みっぷりは初めて見た。
「ご馳走様でした。じゃあ佐伯さん、お仕事頑張って」
グラスを空にした露崎は、最後に真弓に笑顔を向けるとその場を立ち去る。
更に露崎は、その際にテーブルに置かれていた伝票も持って行ってくれたようだった。
彼の粋な計らいに、その場は一斉に盛り上がる。
「うっわ、流石CEO……」
「あぁいうの見てると、俺でもキャーキャーいいそう。しかもさ、あの人の場合こういうことしてもイヤミじゃないんだよな」
感心しきったように川添と柴田が頷き合っているのを見て、真弓も心の中で何度か頷いた。露崎は食事の際、絶対に真弓に支払いをさせてくれないのだ。
(何回言っても、気付いたらお会計が終わってるし……奢られてばっかりだなぁ……)
露崎に対するお礼で彼の外出に同行しているが、それらしいお礼はほとんどさせてもらえなかった。
「……ん?」
そのうち彼に、なにかお礼の品でも買っておこうか――そんなことを考えていると、テーブルに置いておいたスマートフォンの画面がパッと明るくなった。
メッセージの着信を知らせる通知をタップすると、そこには今しがた店を去ったばかりの露崎の名前が表示される。
(露崎さんだ……どうしたんだろう)
もしかして、明日出かけるという旨の連絡だろうか。
そう思い、スマートフォンをそっとテーブルの下に隠す。誰に見咎められるというわけでもないのだが、つい先ほど見知らぬ他人同士のようなやり取りをしたばかりだ。
そっと視線を下げてメッセージを確認すると、短い一文が表示される。
『今日、飲み会が終わったら会えますか?』
スタンプや絵文字の一つもない、簡潔な文章だ。
だが、明日ではなく今日――それも、飲み会の後という時間帯の指定に、一瞬胃の当たりが熱くなる。
(これって……)
ゴク、という音が、やけに頭の中に響き渡った。
そろそろ飲み会もお開きという頃合い――二次会の話もちらほらと出ている。
あくまで二次会は参加自由であり、真弓もここで帰らせてもらおうとは思っていた。露崎の誘いに乗ることもできるだろう。
(でも、こんな時間に――)
時計を確認すると、今は二十二時過ぎ。
最初に彼と食事をした時ですら、ここまで遅い時間ではなかった。もしこれから飲みなおすとなれば、終電を逃してしまう可能性もある。
「じゃあ、今日はこの辺にしようかな。二次会行くって人はついてきて。……佐伯さんはどうする?」
場を取り仕切っていた川添が、ちらりと真弓の方を見る。
二次会は、柴田と川添の行きつけであるバーであるらしい。
「わたしはここで失礼します」
「わかった。じゃあ、気をつけて帰ってね」
メッセージを送り終えたスマートフォンを、上着のポケットにねじ込む。
同僚たちとともに店を出た真弓は、そのまま駅の方面へと向かって歩き始めた。
金曜のこの時間帯、駅もまだまだ人が多い。
繁華街は居酒屋の呼び込みや若い女性の笑い声があちこちから聞こえてきて、そこに立っているだけでも賑やかな気持ちになってくる。
返信が返ってきたスマートフォンの画面をちらりと見てから、真弓はきょろきょろと周囲を見回した。
「佐伯さん」
すると、やや離れた場所にコート姿の露崎が立っている。
――返信は短く、「行きます」と返しておいた。
「返信ありがとう。……来てくれて嬉しいよ」
「いえ、その……二次会がバーだったので、参加する予定じゃなくて」
小さく笑みをこぼす真弓は、握り締めていたスマートフォンに目を落とした。
まだ彼から送られてきたメッセージに返信はしていない。この答えは、直接彼に言おうと思っていた。
「あの――露崎さん。さっき頂いたメッセージなんですが……」
「あぁ、見てくれた?」
いつもまっすぐ真弓を見つめてくる彼の視線が、ふっと逸らされる。
彼からのメッセージはいつも飾り気がない。真弓に対しても敬語で、あたかも業務連絡のようであった。
「み、見ました。……露崎さんのお宅で、飲みなおさないかって」
けれど、その内容は真弓を動揺させるには十分すぎた。
もしよければ、と前置きがあったにしろ、露崎の家で飲むという言葉の意味が理解できないほどに初心ではない。
「これは、その――」
「もちろん、ある程度の下心ありきだ。……結構ずるいことをしたとは思ってる。多分、拒まれはしないんじゃないかっていう自信もあった」
一瞬逸らされていた露崎の視線が、今度はまっすぐに真弓のことを射貫く。
先ほど、店で交わした視線とはまた違う――少し熱を帯びたそれに、目が釘付けになった。
「……だ、大丈夫、です」
真弓はその視線を真っ向から受け止めて、そしてこくりと頷いた。
なんとなく――覚悟はできていた。
いや、それだけではない。露崎と会い、何度も出かけるたびに、心のどこかでこの瞬間を望んでいたのかもしれない。
どこかで、彼が自分を求めてくれはしないだろうか――そんなよこしまな考えがなかったかと言えば嘘になってしまう。
「……そういう意味で言ってるって、わかってる?」
一歩、露崎が前に歩み出た。
思わず一歩後ずさりそうになるのを堪えて、真弓はこくこくと首を上下させた。
「わかってます。その、露崎さんがおっしゃっていることの意味も」
声が上ずって、かすかに震えている。
こうした経験が、まるでないわけではない。真弓にだってかつて恋人はいたし、その恋人とある程度進んだ関係を持ったことはある。
それでも、ここまで緊張することはなかった。恋人同士ならば自然とそういう流れになるものだとも思っていたが、相手が露崎だと訳が違う。
(恋人、とか……露崎さんが求めてるのは、そういうことじゃないのかもしれないけれど)
露崎は、真弓から見ても非常に魅力的な男性だ。
立場だけではない。真摯に自分と向き合ってくれたその人間性や、欲しい言葉をかけてくれる優しさに、何度も救われた。
「……そうか。じゃあ――真弓」
そっと、耳元で名前を呼ばれた。
顔を上げると、存外と露崎の顔が近い。驚いて一瞬息を吸うと、彼は口角を吊り上げてニッと笑う。
「俺と、付き合ってください」
「――へ?」
「あれ? そういう意味じゃなかった……? 家に来てくれるっていうことは、必然的にそういう関係性になれると思っていたんだが」
俺の思い違いかな、と呟いた露崎に、慌てて首を横に振る。
まさかそこまで直球に告白されるとは思っていなかったので、真弓も面食らってしまった。
「ち、違うんです! あの――つ、露崎さんは、そういう……一夜のお付き合いみたいなのを、するのかなって」
「誰にでもこういうことを言うような男だと? ……俺は案外一途な男だよ」
心外そうに唇を尖らせる露崎の表情は、まず会社では見られないものだ。
そして、彼の言葉――案外一途だという一言に、胸が跳ねる。
「いつ伝えようかって、最近はそればかりを考えていた。君はこれまで怖い思いもしたし、気持ちを告げれば、次はもう二度と会えないんじゃないかって」
「それは――」
確かに、忌まわしい記憶は今も脳裏にこびりついている。
あまりに早い段階で露崎から気持ちを伝えられていたら、真弓はひどく悩んでいたかもしれない。彼はそれを慮り、丁寧に真弓との距離を縮めることに腐心していたのだ。
「露崎さんなら……大丈夫、です」
「安心していいのかな、それは――あぁ、でも」
安堵したかのように、露崎が深く息を吐いた。
珍しい彼の姿を、今日は何度も見る――そう思っていると、彼はぎゅっと真弓の体を抱き寄せた。
「わ、っ……!」
「よかった。また君がいなくなってしまったらと思ったら、どうしようもなく怖かったんだ」
強く抱きしめられ、露崎の腕の中に閉じ込められると、自分の鼓動がより強く感じられた。思っていたよりも力強く脈打つそこは、緊張とはまた別の熱を宿している。
「……もう、どこにもいきません」
広い背中に腕を回すと、抱きしめる力がさらに強くなる。
週末の歓楽街、誰が見ているともしれない状況でなかったら、真弓はきっと泣いていただろう。
だが流石に、これだけ人目の多い場所で抱き合っているのはかなり恥ずかしい。仕事柄人前への露出が多い露崎にとっても、この時間が長く続くのはあまりいいものではないだろう。
「あ、あのっ、露崎さん――流石にこれ以上は……往来のど真ん中ですし……」
ぽんぽん、と軽く背中を叩いてみると、彼はようやく真弓のことを解放してくれた。
赤みがかった目元は微かに潤んでいて、いつもの余裕に満ちた露崎の姿とはかなりかけ離れている。
「露崎さん、もしかして酔っぱらってます?」
「多少飲んだが、酔ってはいない。ほとんど素面だよ」
だから恥ずかしいんだ、と呟いた彼の頬が更に赤くなっているのを見て、つい笑みがこぼれる。
「学生時代も含めて、こんな風に告白をしたのは初めてだ。……それこそ、もっと酒の力でも借りるべきだった」
頭を掻いた露崎が、そっと真弓の腰に腕を回す。
上着越しに感じる露崎の体温や鼓動が、これ以上なく愛しく思えた。
* * *
露崎が住んでいるのは、邸宅街にある五階建ての低層レジデンスだった。
辺り一帯が住宅ということもあって、週末の夜であっても雰囲気はかなり落ち着いている。
彼が住んでいる五階の部屋は、眼下に敷地内の公園を見下ろすことができた。昼間は緑が溢れる一帯の風景を楽しむことができ、露崎自身も時折敷地内を散歩してリフレッシュしているらしい。
「飲み物はなにがいい? お茶とか炭酸水とか、アルコール以外もあるけど」
真弓がリビングのソファに腰かけると、上着を脱いだ露崎がそう言って目を細めた。
にわかに色気を感じさせるその表情を直視できない真弓は、ぐるりと部屋の中を見回してから少しだけ俯く。
「……じゃあ、シャワーをお借りしていいですか」
飲みなおすという彼の言葉が、あくまで建前であることくらいはわかっている。
リビングに感じる露崎の息吹も、今は羞恥と期待を煽るものでしかない――逃げ場を求めるようにそう言うと、彼は驚いたように目を丸くした。
「積極的だな」
「やっ、そ、そういうわけでは……! ただ、居酒屋にいたので……」
もごもごと口を動かす真弓に、露崎は緩やかな笑みを向ける。相変わらず目元は少し赤かったが、先ほどよりは冷静さを取り戻したようだ。
「じゃあ、タオルと着替え――俺のシャツでいいかな」
ふわふわとした質感のタオルと一緒に、少し厚手のTシャツを手渡される。
まさかこんなことになるとはこれっぽっちも思っていなくて、泊まる準備などもしていない。
「ありがとう、ございます……」
とりあえず着るものを貸してもらえたのはありがたいので、ぎゅっとタオルとシャツを胸に抱く。
革張りのソファの感触も、少し甘いフレグランスも、そこかしこに露崎の息吹を感じる気がしてこそばゆい。バスルームの場所を教えてもらい、そこで体を清めながら、真弓は深いため息を吐いた。
(勢いで、露崎さんの家に来ちゃったけど――ずっとドキドキしてる……)
閑静な邸宅街にある、上品なレジデンス。広々として余裕のある室内はインダストリアル調のインテリアで統一され、彼の趣味が反映されている。部屋の壁に掛けられたランタンなどは、恐らく彼がアウトドアの際に使っているものなのだろう。
そうしたこだわりが垣間見えるたびに、自分が今どこにいるのかをまざまざと思い知らされる。
淡くではあるが、ずっと憧れを抱いていた人の部屋にいる――それも、お互いに恋人同士という関係性になってしまった。
「どうしよう……今になって緊張してきた……」
シャワーのコックを捻ってお湯を止め、真弓はゴクリと唾を飲んだ。
(下着、持ってきてないし……どうしようかな)
心臓が割れんばかりに脈打っていて、今にも飛び出してしまいそうだ。
お酒が入っているわけでもないのに顔が熱く、頭の中がグラグラと煮え立ちそうになっている。
「でも、このままでもいられない……」
小さく頷くと、真弓はとうとう心を決めた。
濡れた体をタオルで拭き、借りたシャツを着る。男性ものということもあり、小柄な真弓が着るとTシャツがひざ丈のワンピースのようになっていた。
(おっきい……露崎さん、普段こんなの着てるんだ)
体格の差が如実になって、余計に顔が熱くなる。
そしてその下――厚手のシャツということもあって、下着はつけずにおいた。替えを持ってきていないということもあったし、ある程度は積極的に彼を誘ってみたいという気持ちもある。
肌が直接シャツに擦れるのですら、今の真弓にとっては刺激になる。
恥ずかしさで顔を上げられないままリビングに戻ると、露崎はゆったりとソファに腰かけていた。
真弓が戻ってきたことを知り、彼はパッと顔を上げる。
「おかえり。じゃあ俺も、シャワー浴びてこようかな。そうだ、真弓」
「はい……?」
「二人の時は、ちゃんと名前で呼ぶ。だから君も、俺のことを名前で呼んでくれないか?」
確かに、彼の言っていることは道理だ。
今までは友人であり、会社の上司と部下という関係だったので、ずっと彼のことを苗字で呼んでいた――名前は、確か渡された名刺に書いてあった気がする。
「理人さん、でしたっけ」
「そう。恋人なんだから、そっちで呼ばれる方がずっといいよ」
真弓、と小さく名前を呼ばれるだけで、胸が鷲掴みにされたように苦しくなる。
立ち上がった露崎は、すれ違いざまに真弓の手を握って廊下に出た。バスルームの対面にある扉の前に立つと、彼は悪戯っぽく笑ったこめかみに唇を押し当ててくる。
「こっちが俺の寝室。……ここで待ってて」
「ぁ――は、はい。待ってます……」
色気たっぷりに微笑んだ露崎がドアを開けて、部屋の中に招き入れてくれた。
リビングよりも物がない彼の私室は、モノトーンのベッドとサイドテーブル、そして金属的なデザインの姿見が置いてある。壁に沿って置いてある二脚の椅子は木目が美しいヴィンテージ調で、ここにも露崎の強いこだわりが見て取れた。
「失礼します……」
おずおずと部屋に足を踏み入れて、そっとベッドに腰かけた。
下着をつけていないので妙な居心地の悪さを感じるが、部屋自体の雰囲気は非常に落ち着いている。
シャワーを浴びに行った露崎を待ちながら、真弓はぐるりとその部屋を見回した。
(男の人の部屋、って感じだけど――わたしの部屋よりずっときれいかも)
少し複雑な思いを抱きつつも、真弓はようやく息をつくことができた。この部屋の、露崎の香りに包まれていると、なんだかとても気分が落ち着く。
「理人さんの、香水の匂い……」
「あぁ、香水とルームフレグランスの香りを同じにしているんだ。家の中で匂いが混ざるのが好きじゃなくてね」
「ひっ!」
ぽつりと呟いた独り言に答えが返ってくるとは思わなくて、真弓はその場で飛び上がった。いつの間にかシャワーを終えた露崎がドアのところに立っており、ぼんやりとしていた自分を見つめて笑っている。
「り、理人さん……」
恥ずかしさで声が上ずるが、そんな真弓に対して露崎は上機嫌に何度か頷いている。
「あぁ、やっぱりそうやって名前を呼ばれる方がいいな。一緒に出掛けてる時もそうだったから、少し他人行儀だと思っていたんだ」
真弓の隣に腰かけた理人に、そっと肩を抱き寄せられる――風呂上がりで少し濡れた彼の手が、壊れ物に触れるようにして真弓の頬に伸びた。
「ん……」
「真弓、顔を上げて?」
耳元で優しく囁かれるだけで、体がゾクゾクする。
耳朶をくすぐるような吐息交じりの声は、素肌の上を滑って感覚をより鋭敏にしていくようだった。
「り、ひと……さん……」
言われるがままに顔を上げると、露崎の顔がそこにあった。
すっと目を閉じると、柔らかい唇が押し当てられる――触れるだけの優しいキスは、これまで感じたこともないほどに心地いいものだった。
「んっ……ん、ぅっ」
ちゅ、と音を立てて唇が離れたかと思うと、その一瞬が惜しいとばかりに再びくちづけを与えられる。
少し性急に思えるくちづけは何度も角度を変えて繰り返され、その度に真弓の体を甘ったるい痺れが駆け抜けていった。
「ぁ、ぅっ……ンっ……」
体から、どんどん力が抜けていく。
頬に触れた露崎の手のひらが、重なった唇同士が、どうしようもなく熱い。
「ぁ――りひと、さん……」
名残惜しげに唇が離れると、熱い吐息がこぼれた。
何度もキスを繰り返し、真弓の呼吸はかなり浅く、回数が多くなっている。
「はっ……はーっ……」
「大丈夫か? ……少し苦しかったかな」
ほんの少し触れるだけ。それだけのキスが、頭の中をめちゃくちゃに搔き乱していくようだった。気遣わしげに背中に回された手のひらすらも、今の真弓にとってはもどかしい快楽を与えられるものでしかない。
「だ、大丈夫、ですっ……んっ……」
びくんっ、と体を跳ねさせながらも、なんとかそう答える。
すると露崎は、そっと真弓の頭を撫でてそのまま体をベッドに押し倒した。逆光を背負ったその表情は、優しい紳士の微笑にも、獲物を目の前にした肉食獣のそれにも見える。
(――つづきは本編で!)