作品情報

春のほころび~優美な日本画家は地味女子を寵愛する~

「そうだ。君は優しくしないと壊れてしまうんだ」

あらすじ

「そうだ。君は優しくしないと壊れてしまうんだ」
 大好きな祖母の介護のため、就職を諦めたあずみ。
 長い介護が終わり、ぽっかりと心に穴が開いたような日々を過ごしていたある日、あずみは画商の父から美貌の日本画家、北澤幽雪の身の回りの世話をする仕事を紹介される。
 一つ屋根の下で暮らすうち、花の蕾が綻ぶように惹かれあってゆく二人。だがあずみは、幽雪がある女性を描いた絵をひた隠しにしている事に気づき……。

作品情報

作:篠原愛紀
絵:ミヅタナシコ

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■ 序

 露に濡れる桜の花弁は、朧月夜に見える薄氷のようだった。
 その先日の春雷の名残が、庭や風に残っている。
 愛しいと思うその人は、蜃気楼にも似た、靄の中。掴もうと手を伸ばすのさえ怖い。
 掴んでも振り払わないが、自分から力を緩めても、彼からは握り返してもくれないはず。
 そう言えば薄情な人だと思われるが、本当は穏やかで優しく、そして少しだけ寂しい人。
 衣擦れの音を夜の闇に響かせながら、彼は肩から腰まで、浴衣を脱いでいく。
 彼は絵画の中から抜け出してきたような、不思議な妖しさの色気を纏う人だった。
 髪の毛一本、ふとした仕草さえも全てフレームの中に納めてしまいたい。繊細で儚げな綺麗な人だった。
「まあ、脱がせたいから着せたんだけどね」
 彼が私の着物の帯に指を伸ばすので、身体が大きく震える。
「ああ、大丈夫だよ。先に僕が脱ごうか?」
 私の反応に満足した彼は、はだけた着物をためらいなく脱いでいく。
 不健康そうな白い肌なのに、引き締まっていて身体のラインまで綺麗だった。
 初めてだと震える私を、優しく抱きしめてくれた。
「そうだった。君は優しくしないと壊れてしまうんだった」
 抱きしめられ、そのまま布団へ倒れていく刹那、私は彼の胸を強く押した。
「一つだけ、聞きたいことがあります」
「なんなりと」
 余裕のある彼の全てが、今は少し怖い。
 少しでもこの人を理解できれば良いのだけれど、宵宵、この人のことが分からなくなる。
 分からなくなると同時に、知りたくて、そして深みに足を取られたくなくて戸惑う。
 初恋とは、桜の花びらで窒息しながらも甘く苦しく、切ないものだと知る。
 彼の吸い込まれそうな薄い色の瞳。透き通っていて、絵画の横に飾られそう。
 惑わす貴方が、今は少しだけ憎かった。
「あの蔵の奥に飾られていた女性の絵は、誰ですか」
 私が尋ねると、ようやく彼の瞳から余裕の色が消えたのだった。
 

■ 壱、春暁。

 祖母の四十九日が終わったのは、桜の蕾が木々を染め出した寒い冬の終わりだった。
 祖母は、神経質なぐらい綺麗好きな人で、上品で厳しいけれど芯のある美しい人だった。
 どうしてあんなに綺麗な人から、いい加減な父が生まれたのか謎だったけれど、祖母に聞いたら「あんぽんたんな旦那に似たのよ」と、自分にはできない緩さを、寛容しているようだった。
 そんな祖母は、自分に痴呆が進んでいると理解すると身の回りのものを整理して迷惑をかけないように老人ホームも決めてさっさと入所してしまった。
 けれど神経質が仇になり、他人の作った物が食べられず、触れず、弱っていく祖母。
 父は海外を飛び回る美術商。父に泣きつかれ、祖母の介護のために就職を諦めたのが二十歳の時だった。
 祖母は好きだったし、父の代わりに育ててもらったから母のように大切だったので、後悔はない。
 介護中も苦はほぼなかった。
 でも祖母の四十九日が終わり、ぽっかりと心に穴が空いてしまった。
 内定が決まっていた会社の方は、もう一度連絡してくれたらって言ってくれていたけど、それも三年前の話。
 今から就職先を探すのは、大変なのかな。
 探さないといけないのは分かるのに、今はぼんやり縁側から立ち上がれないでいた。
 やはり祖母のことを思い出すと一日中泣いてしまいそう。さっさと頭を働かせて、考える時間を奪わないといけない。
 それなのに今日も、縁側で桜がいつ開花するのかなってそれしか考えられなかった。
「あーずーみー」
 縁側の曲がり角を、煙が立ち上がるような勢いで滑り込んできたのは、父だ。
 首にハイビスカスのレイを着けているので、ハワイ帰りかな。
「この通り! お願いがあります」
 レイを揺らしながら縁側に思い切り頭を押しつける父を見て、ため息を吐く。
「今度はなに?」
「あずみにしか頼めないことなんだ」
「なに?」
「話は車の中で。給料はパパからも先方からももらえて、ウッハウハだよ」
 だから何だ。
 それに父のことは一度もパパと呼んだことさえない。
 ただやる気のない私は、父の勢いに身を任せ、車に乗ると冬の名残を感じる街を眺めながら、ある場所へ向かった。

 * * *

 父に連れて行かれたのは、人里離れた山の奥。
「ここら辺は、旧財閥の北澤財団の所有している山の一つで、北澤本家跡地なんだ。今は|北澤幽雪《きたざわゆうせつ》先生が所有しているよ」
「北澤幽雪?」
「世界的に有名な水墨画の先生だよ。活動が海外だから日本よりは海外で人気の方だよ」
 日本の水墨画や浮世絵が海外で人気なのは、ふわっとした知識がある。全部父からの伝聞だけど。でもそんな有名画家の屋敷に、何故私が向かっているのか、謎だ。
 その北澤家本家の蔵のお掃除に私を雇う理由は何だろう。父が北澤家の骨董品の整理を任されたのはなんとなく納得できるけど、私も行く必要はあるのかな。骨董品や美術品の知識は、ほとんどないのに。
 大きな門をくぐり、広い駐車場には数台の高級車とトラックが停まっている。 
 どこまでも続く大きな壁に沿って歩いて行くと、ちょうど、門から出て行く作業着の方たちとすれ違った。枯れ葉や木の枝でパンパンのゴミ袋を何個も持っていたので、庭師かもしれない。
 門をくぐると、城のように大きなお屋敷と、美しい池を囲むような庭園。
 ここだけ描かれた楽園のように世界が違って見えた。
「せんせーい。北澤せんせーい」
 父は玄関からではなく、庭を横切り縁側から靴を脱いで、中へ入っていく。
 私は父が脱ぎ散らかした靴を揃えながら、縁側前で待とうか着いていこうか迷っていた。
「うるさい人だなあ」
 甘い香りがする。
 花のような甘い匂いの方へ向くと、男性が立っていた。
 髪をタオルで拭きながら、一糸纏わぬ姿でこちらへ歩いてくる。
 濡れた髪から落ちてくる水滴が、彼の引き締まった身体をなぞって落ちていく。
 涼しげな目元に、線の細い身体。筋肉はついているので太りにくい身体なのか、ダビデ像とか彫刻みたいだと言われたら納得してしまいそう。
 色素の薄い茶色の髪と瞳に高い鼻梁。優しげな瞳と私を見て甘く微笑む姿に、腰を抜かしそうになった。
「おっと、レディがいたのか。失礼」
 後ろを向くと、髪を拭いていたタオルを腰に巻いた。
 悲鳴を上げる暇も無かった。
 いや、引き締まったお尻を見てしまい、お金を払った方がいいのかと罪悪感さえある。
「あー、北澤先生。ここに居ましたか」
 父が自分の家のように歩き回るのに、私の目の前の男性は微笑んだ。
「栗山さん。君の娘さんに裸見られちゃった。僕、傷物だよ」
「あらら。じゃあ責任とってウチの娘と結婚して下さい」
「いいよー。何人でも養ってあげるよー」
「まあ親からしてみれば、先生との結婚は反対ですけどね」
 のんびりした感情の起伏の少ないしゃべり方に、戸惑う。
 掴めない不思議な魅力のある人だ。
 うううっ。
 それなのに彼の裸がずっと頭の中に浮かんでしまう。男性の裸を見たのは初めてかもしれない。
「それにしても相変わらず烏の行水ですねえ。お風呂場の空気まだ暖まってなかったですよ」
「そう。僕ってそこの池で溺れたときから、水が苦手でさ」
「存じておりますよ」
 父が慣れた手つきで庭に下りていくと、風に靡いている着物を一つ手に持って縁側へ戻ってきた。
 祖母が着物を着ていたので分かるけれど、どれも高級そうなものなのに、吹きさらしで干されているので悲鳴を上げそうになった。
 せめて日陰に干してほしい。
 既に何度も自分で洗っているのか、高級な着物がくたっとしている。
「で、彼女が僕の家政婦さんなの? 大丈夫?」
 ん?
 父が私に背を向けて、彼の方を向いて頷いている。
 家政婦?
「お父さん?」
「僕、こんな可愛いお嬢さんが来るとは思ってなかったんだけど。栗山さんのお願いだしなあ」
「すみません、北澤さん。ちょっと父を借りていいですか」
「ゆっくりどうぞ」
 車の中で聞いた話は、北澤家の旧本家にある蔵の整理の手伝いだ。一人では終わらないって聞いたから手伝いを了承したんだけど、家政婦さんって何の話だろう。
 父を引きずって庭の裏までやってきたけど、父は余裕のありそうな表情だ。
「どういうこと?」
 祖母を介護していたのだから、父を背負い投げするぐらいの体力はあるんだからね。
 詰め寄ると、父はひらりと逃げて長い廊下を渡った離れの扉を開けた。
「今までパパの代わりに介護頑張ってくれてたあずみちゃんにご褒美だよ」
「ご褒美?」
「入って、入って」
 廊下から登って離れに入ると、段ボールや紙袋が沢山壁に積まれていた。
 中はフローリング敷きにされていて、丸い窓や襖や障子は和風なのにフローリングと天蓋付きのベッドも置いてあり違和感の方が強い。
「世界中からあずみに似合う高級ブランドの服やバッグやコスメでしょ、それに着物に宝石をここに送っておいたんだ」
「なんでここに?」
 にこにこ微笑んでいた父は、その笑顔のまま流れるように土下座してきた。
「あずみちゃーん。どんな宝石も用意するからお願い。北澤先生が作品を描き上げるまで、ここで先生のサポートをしてほしい」
「なっ。サポートって」
「主に食事かな。放っておいたら食べないし。北澤幽雪先生は一人では生活できないのに日本に戻ってくるって聞かないし」
 父が土下座したまま泣き出してしまった。
 父の話によると、今まで海外で活動していた北澤幽雪先生は、海外での人気が凄まじくパトロンの別荘で生活していたがそこにストーカーや熱烈なファンが忍び込むようになってきたらしい。パトロンにこれ以上迷惑をかけたくない北澤先生は、比較的ファンの少ない日本の、自分が所有している旧本家に戻ってきたそうだ。家事も料理も、掃除さえもしてこなかった先生が、一人で帰国。
 傷んだ旧本家の修繕や最低限の衣食住は父が世話をしたらしい。父のギャラリーで日本初の北澤幽雪の展示会を行うことを条件に。
 蔵には、海外から持ってきた絵を乱雑に詰め込んでしまったらしく、それの整理とギャラリーまでの新作を描くために環境を整えてほしいと父が私に懇願している。
 私が父のお願いを無視できないことを知っているから、質の悪い懇願だ。
「私もおばあちゃんが亡くなったからっていつまでも落ち込んでばかりではいられないよ。就職だって本格的にしなきゃだし」
「就職先はパパが伝がある。あずみには申し分ないぐらいの会社の秘書を絶対にさせてあげられるから」
 就職先を親に探してもらうのは嫌だな。
 四十九日まで動かなかった私も悪いけど、今は少しだけ縁側で座っている状態のままが良かったな。
「ここなら他のギャラリーの奴らに見つからない。パパが独占できる。老舗でもないしそこまで人脈もないパパはこのチャンスを絶対に逃したくないんだ。頼む」
 父が苦労していたのは分かる。
 美術品が好きという情熱だけでは、老舗や有名画家からは相手にされなくて、それでも世界中を駆け巡って頑張っていたのは分かっている。
 祖母の介護中も、私の心配をしてくれていたのも分かってる。
「……きっちりお給料いただくよ」
「それはもちろん」
「でも北澤先生ってどんな人なの」
 今日までこの仕事なんて寝耳に水だったので父の仕事に関しては全く私には知識が無い。
 海外に飛んで何をしてるのかも実はよく分かっていなかったりする。
「あー。北澤先生は不思議な魅力で人を転がす人かな。大学を卒業と同時に海外にパトロンと飛んで、そこで絵を描いてて」
「パトロン……」
「で、色んな女性とワンナイトを楽しんで、恋人を作らない人だし。ロサンゼルスでは有名女優とゴシップに載ることも多々あったし」
 えーと。どんな食事を好むとか性格とか知りたかったのに、一番入ってくる情報が女性関係が派手ってどうなの。
「女性は口説かないといけないって義務感があるらしいけど、あずみには手を出すなときつく言ってるから大丈夫」
 えー。
 女性に不誠実な人ってことか。
 人転がしってちょっと怖いな。
 確かに不思議な魅力のある人だった。ちょっと悲しそうな瞳というか、消えてしまいそうな色気が漂っている。
「真面目なあずみなら、北澤先生にふらふらしないだろうし、年齢も離れてるし、それに彼はパパとあずみには恩があるから簡単に手を出さないと思うから、安心なんだよ」
 父なりに色々と考えがあるらしい。
 この部屋もよく見れば鍵もついてるしパソコンまで運ばれてきている。
 壁に詰められた段ボールの中は、友達や同年代の女性が見たら喜びそうなブランド品ばかり。
「彼の食事作りや掃除以外は部屋の中にいても良いってことね」
「そう。あずみの好きなようにしていいよ。庭の掃除は庭師がやるし。家の中はもうハウスクリーニングが何度か入ってるから」
「で、キッチンは?」
 父が示した給料はなかなか悪くない。
 祖母の介護中も給料だと振り込まれていたお金もほぼ使っていないので、貯金はそれなりにありお金には困っていない。
 ただ早く就職して社会の一員になりたいという焦りだけが私の中にもやもやとあるだけだ。
 友達と一緒に仕事の愚痴や恋愛とか、飲みながら話してみたい。
 それだけならば、父の仕事を手伝ってからでもいいのかなって思ったりする。
 ここでの仕事の合間で、履歴書を作れば良いか。
「キッチンは土間だったから、床下暖房とオーブンとか色々設備整えたよ」
 案内されたキッチンへ向かうと、段ボール数個分の栄養補給ゼリーや栄養補給食材とインスタントラーメンが置いてある。
「彼はあまり食に興味が無いらしい」
「……なるほどね」
「でもパパが手配したお野菜とお肉が週に一度届くからね。お米はこっち。パンは食べるなら朝届けるし」
 冷蔵庫を開けると、お酒がぎっしりと入っている。缶ビールなんて飲むんだ。
 ワインとか一升瓶とか抱えて飲みそう。
 けど本当にビールとインスタントラーメンと栄養補給食品しかない。
「引き受けてくれる、よね。あずみ」
「街に簡単に行けない以外は不便がないし。まあ、いいかなってことで」
 一歩踏み出さないといけない。
 分かっているのに、縁側で立ち上がれずにいた。自分を奮い立たせるには、良い環境じゃないかなって前向きに考えようと思えた。
 こんなお屋敷でご飯を作って部屋に籠もっていれば良いのは正直楽で良いかもしれない。
 北澤先生も絵を描くためにきっと部屋に籠もるだろうし。
「ありがとう。さっそく仕事を頼むよ」
「……はい?」
 連れて行かれたのは、先生が絵を描くために使っている離れ。私の住んでいる離れとは対極にある。
 そこを開けると、部屋中に散らばる紙とラーメンの殻と缶、そして墨の匂いが立ちこめていて鼻を押さえた。
「北澤先生は、絵にパラ全フリ系男子なので、他が全くできないんだよ」
 生活感がないって言い方が正しいのか迷うほどだ。
 本人は何事もないかのようにだらしなく着物を着て縁側に寝転んでいる。
「ほら、育ちはいいから下に布団敷いてるでしょ」
「育ちがいい人が縁側に布団持ってきて寝転ぶの?」
 色々と突っ込むことは多かったけど、何を言っても手で掴めそうにない人なので気にしない方がいいと分かった。
 父に似た性格で、きっと完全に理解しようとしたら疲れてしまう人だ。半分ぐらい聞き流すぐらいがいい。そして頼み事をしてきたときだけ警戒すればいいんだ。
 つまり話を半分だけ聞けばいいだけの高級バイトだ。
「えーと北澤幽雪先生」
 タオルケットをかけながら、一応起きないか尋ねてみた。意外と彼はすぐに起きてくれた。目を開いただけで起き上がろうとはしなかったけど。
「先生はいやだな。僕は誰かに教えるような資格はないからさ」
「じゃあ北澤さん」
「幽雪さんでいいよ。この土地には北澤って名字が溢れているからね」
「幽雪さん」
 人との距離が近いのは、外国暮らしが長いからなのだろうか。ああいえば何でも返ってくるだろうから、こんな小さな事は言うとおりにした方が楽だろう。
「私、栗山あずみです。歳は二十三歳。本日付けでここで家政婦致します。履歴書は必要ですか?」
 彼は春の陽が気持ちいいのか、気だるげに目を開けると微笑んだ。
「んん。大丈夫だよ。お給料はきちんと用意するし。必要なら弁護士に書類も用意させるよ」
「お願い致します。色々とルール等ありましたら従いますのでよろしくお願い致します」
 こちらから仕事モード全開で接すれば、興味を無くしてくれると思う。
 事務的な挨拶をしたのに、眠たそうだった幽雪さんは何故か目を輝かせていた。
「うん。いいね。流石栗山家だね。よろしくお願いするよ」
 彼はそう言うと「三十分眠るね」と言い、お昼寝し始めた。
 その後、父が帰ってから三十分ごとに起こしたけれど起きず、彼が起きたのは夕ご飯の匂いが立ちこめた夕方になってからだった。

 * * *

 旧本家だけあって一日中掃除してもきっと終わらないであろう部屋の数。
 美しい庭園を囲むように屋敷は作られている。風に晒された廊下から見える庭は息を飲むほどに美しい。
 が、幽雪さんは離れの仕事部屋と日当たりの良い縁側と寝室以外の部屋は使っていないので、まずは使っていない部屋の家具にシーツをかけたり、痛んでいないか確認したりした。
 流石に年季の入った姿見とか化粧台は怖かったけれど、家具も置いてない空き部屋の方が多かったので掃除は楽だった。
 傷んだ着物を手直しできないかあれこれとパソコンで調べる方が時間がかかったぐらいだ。
 幽雪さんには甚平とか浴衣とか手洗いできるものをよく着てもらうようにした。
 色々とお願いしてしまうと、裸でうろうろしてしまいそうなので、タイミングを見て徐々にお願いした。
 でも放っておいても朝から夜まで離れに籠もっているので、想像していたよりも時間は自由で、大変だとしたらご飯のタイミングぐらいだ。
 襖の前で声をかけても返事はないし、廊下にフードカバーをしてお盆に乗せて置いていても、数時間放置なんて当たり前なので蟻が沸いてしまったりする。なので、彼が一番集中力が低下しているであろう夕方を見計らって、料理の匂いを漂わせる。
 お味噌汁など外国では飲まなかったものなどは効果が結構ある。ふらふらと手足を墨だらけにした幽雪さんが土間までやってくるほどの効果だ。
 生活能力云々は置いておいて、育ちがいいのは本当らしい。魚の食べ方や箸の使い方は綺麗だし、意外と好き嫌いせずに何でも美味しそうに食べてくれていた。
「あの、幽雪さん」
「ん?」
 好きにおかわりしたいと言うので、彼の横にお味噌汁の入った鍋を置いている。彼は三杯目をよそいながら、私の方を見た。
「そろそろこちらに来て一週間経ちますので、仕事部屋のお掃除をしたいのですが」
「うーん」
 お味噌汁に息を吹きかけ冷ましながら、彼は首を傾げる。
「一応、自分なりに描きやすいように置いてあるから触られたら、集中力が欠けちゃうんだよね」
「そう、ですか」
 一週間も掃除をしていないあの部屋は入るのさえ恐怖なので定期的に掃除したい。
「ご馳走様。では、僕はまたしばらく籠もるね」
 立ち上がった幽雪さんが食器を片付けようとしたので、私も一緒に立ち上がる。
「あの、ちょっと待ってて下さい」
 食器を奪って下げてから、おにぎりを渡した。
「これ、塩気たっぷりのおにぎりです。二日は持ちますので、食べて下さい」
 絵を仕上げる時は三日ぐらい徹夜すると父に聞いていたので、おにぎりを渡しておいた。
 幽雪さんはラップに包まれたおにぎりを見て不思議そうだ。
「あの、集中力が切れて倒れてからじゃお世話が大変なんですよ。最低限の倒れない程度の余力は残しておいて下さい」
 祖母は抱えて介護できたけれど、細身とは言え幽雪さんは成人男性だ。引きずってでも動かせない自信がある。倒れられないよう気を遣うのは当然だ。
「ああ、ありがとう」
 何度も目をパチパチさせて、驚いた表情をしながらおにぎりを大事そうに抱えて離れに戻っていった。
 三日ぐらいは幽雪さんは絵に没頭する。
 では私は乱雑に段ボールを入れられている蔵の片付けに手をつけようと思う。
 サイズによっては半年やそれ以上かかる作品の方が多いらしいけど、個展用に描き下ろす作品はコンパクトでいつもより小さい。だから集中すれば一週間で描き上げられるようだ。
 逆に気乗りしなければ色紙サイズでも半年かかることもざらな幽雪さんのふわふわしたやる気。せっかく自分から山奥の屋敷に籠もって描くという絶好の機会。父が私に土下座する意味が分かる気がする。一週間で数十万から数百万の作品が生み出されるならば、環境を整えるぐらいなんてことはないんだろうね。
 祖母が亡くなって、寂しさと介護から解放されて宙ぶらりんで、余計なことをうじうじ考えるぐらいならば、この不思議な仕事も悪くない。
 楽しまないと損だった。

(――つづきは本編で!)

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