作品情報

年下執事は男装領主にその身を甘く献げます

「……あなたの傍にいるのは私だけでいい」

あらすじ

「……あなたの傍にいるのは私だけでいい」

 父の跡を継ぎハルヴェール公爵となったロゼッタは、相手に舐められないよう男物のスーツに身を包み、激務の日々を送っていた。
 日頃の疲れのせいもあり、ある日のパーティーで酒に酔ったロゼッタは、婚期を心配してくれた年下の執事ブラッドを挑発してしまう。
「そこまで言われたら責任を取らざるを得ませんね」
 豹変したブラッドを前に、経験のないロゼッタも引くに引けないまま……

作品情報

作:蒼凪美郷
絵:風街いと
デザイン:BIZARRE DESIGN WORKS

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 序章

 首の後ろに髪を掴んでまとめたその根本に、ナイフの刀身を宛がう。
 それから髪を引っ張るようにしながら刃をぐっと押し付ける。すると、後頭部あたりでぶちぶちといい始めた。
 栗色の髪がぱらぱらと千切れ落ちていく。そのまま力任せに押し進めれば、やがてざっという感触とともに刃が髪の束を通り抜けた。
 千切れ落ちた髪の毛が、首にまとわりついている。それがチクチクしてむず痒い。
 それに無理矢理に切ったから、きっと切り口はひどいことになっているだろう。
 だが、今はそれを気になどしていられない。
 自分の決意を皆に知らしめるために、胸の下まであった長い髪を切り落としたのだから。
 息を吸って、吐いて、まっすぐに前を見る。
 ロゼッタ・テイラーの人生は、ここから変わった。


 第一章

 ハルヴェール公爵領の領主であったロゼッタの父は、いつも自身の手でネクタイを結んでいた。
 着替えを家令に手伝わせても、それだけは必ず自らの手でやる。その理由を父は、そうするとより気が引き締まるような気がするのだと言っていた。
 結び目をきゅっと締めた瞬間は、確かに背筋が自然と伸びる気がする。顔をあげ、堂々と胸を張れるような気持ちになれるのだ。
 だからロゼッタも、父に倣ってそうしていた。
 ただし、ロゼッタの場合はリボンタイであるが。
 侍女のマーテルに手伝われながらワイシャツを着て、スラックスをサスペンダーで吊り上げる。その上から羽織るのはベスト、そしてジャケットだ。年頃の令嬢が着るようなドレスではなく、ダークブラウンのスーツがロゼッタの装いだ。
 ジャケットに袖を通す度に、ロゼッタは在りし日の父を思い出す。自身の身体に合うように仕立て直してしまったが、このスーツは父が生前に着ていたものだ。あとはダークネイビーとブライトネイビーにチャコールグレーと、いくつか同じように仕立て直したものを所有している。
 最初は、女である自分がスーツを着ている姿に慣れなかった。しかし、もう三年も着ているおかげか、姿見に映る姿は随分様になったものだとロゼッタは思う。
 シャツを第一ボタンまで留めているのでそれだけが少々息苦しいが、まだ最後の仕上げが残っている。その首元にはまだ、ネクタイがなかった。
「ねぇ、決まった?」
 姿見から目を離さぬまま、ロゼッタは背後に向けて尋ねた。返答が来るまでのわずかな間に、身だしなみの最終確認を始める。
(少し伸びたわね……)
 前下がりに整えられた栗色のショートボブ。サイドの髪は顎を少し超えるくらいの長さだったのが、もう肩につきそうなくらいにまで伸びていた。後ろ髪も、うなじを覆ってしまっている。
 さて、最後に切ったのはいつだっただろう。ここのところ忙しくしていたので、記憶があやふやだ。
 そこでロゼッタは、相手から未だ返事がないことに気がついた。
「ブラッド? 聞いてるの?」
 背後を振り返って、ブラックタキシードに身を包んだ金髪の男を見つける。
 ロゼッタがブラッドと呼んだ男は、ベッドの上に並べてあったネクタイに視線を注いでいた。
 ロゼッタの世話役で齢十八歳にして家令を務めている青年、ブラッド・ラッセル。彼は現在、主人の首元を彩る色を選定中だった。朝食の時間だと呼びに来てくれたタイミングでお願いしたのだが、まだ決まらないようだ。
 父はネクタイの色も自分で決めていたが、ロゼッタは彼に委ねることにしている。というのも、今のロゼッタを一番に支えてくれているのがブラッドだからだ。
 重大な責任を負う日々は、やはり重い。こうすると決めたのは他でもないロゼッタ自身だが、本音を言うと一人で背負うのが心細かったのだ。
 そこに救いの手を差し伸べてくれたのがブラッドだった。だからロゼッタは、強い信頼を置いている彼に甘えているのだ。
 そんな彼に、自分の気を引き締める色の選定を委ねる。
 ハルヴェール女公爵としてロゼッタが立派でいられるよう、彼にしっかりと支えてもらうために。それをブラッドも分かっているからこそ、三歳上であるロゼッタの甘えを快く受け入れてくれているのだ。
 どれにするのか決まったのだろう、並んでいた内の一本を手に取ってブラッドがやっとこちらを振り返った。
「そのスーツにはやはり、ロゼッタ様の瞳に合うこちらがよろしいかと思います」 
 ダークオレンジのネクタイを持ちながら、赤い眼差しがロゼッタを優しく見つめる。
 ロゼッタの瞳が夕焼けの赤なら、ブラッドの瞳は朝焼けの赤だ。
 ようやく告げられた答えに、ロゼッタは背筋を伸ばして微笑み返した。

 ◇◇◇

 ルヴィニ王政が女王統治に変わってから、早八年。
 男尊女卑の意識が強かった社会は、少しずつ変化している。
 今までのルヴィニ王国では、男児のみが家督を継ぐことが許された。しかし、どこの家にも必ず男児が生まれるわけではない。事実、テイラー家の子供はロゼッタだけだ。
 長子が女児である場合や子供に恵まれなかった家では、婿を取るか養子を迎えるかのどちらかになる。しかし、それも縁があってこそ。縁に恵まれず由緒正しき家系が途絶えるのは惜しい。
 そこで先代の妃であるガーネット・ルヴィニ・ヴァルカ女王が即位したのを機に、継承権に関する法が改正されたのだ。
 性別を問わず家督を継げるように。
 だが、社会は変化していても、人々の意識を根底から変えることはなかなか難しく、ロゼッタのように家督を継いだ女性は未だ少ないのが現実だった。
 例えば、取引の交渉相手が女性だと見るやいなや、横柄な態度を取る者がいる。
 ロゼッタがスーツを着用しているのは、それに対抗するためだ。
 髪を短くしているのも、そうだ。男装をすることで、少しでも相手に舐められることがないように。
 ──それでも相手から下に見られる時は、どうしたってある。
「だから、経営改善のために金を援助して欲しいと言ってるんだよ。領主さま」
「ですから、私はそれを取り入れることによる効果を聞いているのです」
 いつもより声を低く繕ったロゼッタの声と、壮年男性の大袈裟な溜息が、そんなに広くはない空間に響く。
 朝早くに出発してロゼッタが訪れたのは、ハルヴェール公爵領の東にある町コトルネだった。
 小規模の町だが、ここでは主に綿花を育て、その綿花から採取した綿で糸を紡ぎ、服を作るのに必要な布地を製造する工場がある。
 その工場主でありコトルネの町長でもあるのが目の前の男、バート・コトルネだ。
 ロゼッタがバートと顔を合わせるのは、これが二回目となる。前回は彼が町長になったばかりの頃だった。
 バートの隣には彼の妻が座っている。テーブルを挟んで向かい合うロゼッタたちの様子を、夫人ははらはらとした面持ちで見守っていた。
 対するロゼッタの付き人を務めているのは、ブラッドだ。主人であるロゼッタが毅然とした態度を崩すことがない限り、彼が差し出てくることはない。至って冷静な表情のまま、自分の傍らに控えている姿が後ろを振り返らずとも目に見える。
 ロゼッタは、改めてバートを見やった。
「私が受け取るお金の大半は、領民が汗水流して捻出してくださったもの。あなたもその大切な領民ではありますが、使い道の見えないことに大切なお金は出せない」
「……はぁ。人手が足りないんだよ。雇用の募集は役場にも出しているが、それでも来やしない。それで一部の作業を機械化すれば、少しは手が回るんじゃないかと思って提案をしたんだ」
「人手が足りないのはどうしてですか」
「どうしてって、……辞めちまうからに決まってるでしょうが」
「なぜ、辞めてしまうのです」
「……はぁああ」
 ロゼッタの追及に堪えられなくなったのか、バートがまたも大袈裟な溜息を吐いた。
 知っていることを敢えて聞いている自覚はある。ロゼッタが尋ねていることは調べればすぐに分かることで、ブラッドから事前に報告を聞いてあった。
 ロゼッタに不遜かつ横柄な態度を続けるバートが、コトルネの町長になってから一年。町の状況は明らかに悪化していた。
「コトルネを出ていく町民も、最近多いようですね。あなたの執政に対する態度がよろしくないのでは?」
 ずばっと、核心に触れる。
 すると町長の顔がかっと赤くなった。
「ああ? 俺のやり方が悪いっていうのかよ!」
「あなた!」
 ガタっとテーブルが揺れるほど勢い良く立ち上がったバートを、夫人が蒼褪めながら制する。
 図星を突かれた相手は、大体がバートのように憤慨してみせる。最初は大きな声に慄いたこともあったが、この三年でよく見てきた流れとなれば、かえって冷静になれるというもの。ロゼッタは毅然とした態度を崩さぬまま、バートにまっすぐな眼差しを向けた。
「民に心を向けない長など、民の心が離れてしまうのは当然です。正直申し上げると、先代の跡を継ぐのはあなたのお姉様、またはその夫だと思っていました」
「……っ」
 ロゼッタの正直な物言いに、バートはぐっと言葉を詰まらせた様子だった。
 元々は、バートに跡を継ぐ気はなかったという。敷かれたレールを歩くなんて御免だと言って好き放題していると、ロゼッタは以前父から聞いたことがあった。
 だから先代は姉のほうに期待していた。ただ、その当時は法改正前であったので、彼女の夫となる人が町長になる予定だったと思われる。
「もしや、私がこの町の現状を何も知らないとでも思っておられたのでしょうか。そうだとしたら、ぜひ認識を改めていただきたいものです。私は女王陛下よりこの地を任された正式な統治者なのですから」
「……そもそも、女なんかが、上に立てることがおかしいんだよ」
 それは悔しそうに絞り出された一言だった。
 ぼそっと吐き捨てるような言い方だったが、目の前で言われてしまえば当然ロゼッタの耳にまで届く。
 夫人が小さく『あなた』と咎める声だって聞こえた。
(……はぁ、出た出た)
 思わずこちらも大袈裟に溜息を吐いてみせたくなったが、ロゼッタはぐっとこらえた。
 女なんかが、女なんかに、女ごときに。この三年でたくさん聞いてきた言葉だ。
 こちらがどんなに領主としての努力をしてこようと、そんなことお構いなしと言わんばかりに投げられる。
 それには正直、ロゼッタは辟易していた。世界は新しい時代へと向かっているのに、いつまでも現代に適応しようとしないで過去にすがる。その現状に喚き散らかしたい衝動に駆られるが、それをしたところで『これだから女は』と言われるのがオチだ。
 決して内なる怒りを表情には出さず、ロゼッタは静かに呼吸を繰り返した。
「私が男であろうと女であろうと、領主であることには変わりません。この一年間静かに見守ってきましたが、そろそろ限界でしょう。町長交代を考えます」
「……っ、領主だからって町の運営に口を出す権利なんか」
「あるに決まっています。ここは私の統括する領地の一部です。そんなことも分からぬほど、あなたは無能だと言うのでしょうか」
「女が! 舐めた口をききやがって!」
「あなた?」
 再びテーブルが揺れたのと同時に、夫人が悲鳴のような叫びをあげる。バートの手がテーブルを越えて、ロゼッタの胸倉へと伸びていた。
 しかし、それは寸でのところで防がれる。白い手袋を着用した手がバートの手首を掴んでいた。
「いっ!」
「ハルヴェール公爵に手を出すということは、ガーネット・ルヴィニ・ヴァルカ女王陛下の意に背くということ。あなたにそのお覚悟がおありで?」
 普段のブラッドからは考えられないような低い声だった。
「っぎ、いでででで!」
 ロゼッタの目の前で、ブラッドがバートの手首を捻りあげる。相当痛いのだろう、バートの表情は苦しそうだった。
「ブラッド」
 ロゼッタに人が痛めつけられているところを見て楽しむ趣味などない。たしなめるように名前を呼ぶと、ブラッドはすぐにバートを解放した。それから恭しく頭を下げて、静かにロゼッタの背後に納まる。
 彼が視界の端に消えたのを見届けてから改めてバートに向き直った。
「未遂、ということで先ほどのことは水に流しましょう。私も言い過ぎた自覚がありますので」
「……ちっ」
「ですが、今のままでは援助金は出せません。そこでバート町長、あなたにチャンスを与えましょう」
 ロゼッタに手を出しかけた故に分が悪いことを自覚しているのか、バートはもう何も言わなかった。不機嫌な顔でブラッドに掴まれた手首をさすっている。
「生産の流れを一部機械化する計画ですが、機械を導入したところでそれをメンテナンスする専門の知識を持った者が必要になります。結局は人手が必要なので、まずは雇用計画を見直してください。これが一点目」
「……」
「それから、雇用計画をもとに機械導入にかかる予算と必要な人員を算出し、機械化によってどれだけ生産量が変わるのかをまとめてください。これが二点目」
 ここでバートがまた溜息を吐いた。まだあるのかとでも言いたげだが、伝えたいことは次が最後である。
「あなたの悪政を自覚すること。あなたには知識が足りないように見えます。誰かに協力を得てでも、どうすれば町をよりよくしていけるのかを、しっかりと考えてください。──例えば、あなたのお姉様のように町を愛している人などに」
 最後に付け加えた言葉にバートが舌打ちする。その反応を見届けて、ロゼッタは立ち上がった。
「一週間後にまた来ます。これで駄目なら、あなたに町長の資格はありません」
 毅然と言い放って、ロゼッタはバートに背を向けた。反応なんてもう見なくても分かる。
 ロゼッタが歩き出すと、先回りしていたブラッドがすでにドアを開けて待っていた。
 通りすがりに彼と視線を交わらせ、ロゼッタは静かに部屋を出た。
 ロゼッタが出て行ったことで堪えていたものを爆発させたのだろう。直後、廊下にバートの憤った声が響きかけるがすぐに遮られた。
 ロゼッタの後ろから聞こえてきた、ドアが閉められた音によって。

 その日、ロゼッタが家に帰りついたのはすっかり陽も落ちた頃だった。
「あー、疲れたぁっ」
 寝室に入って早々、ロゼッタはベッドへと倒れこんだ。ぼふん、という感覚とともに顔が枕に沈む。
「ロゼッタ様。ベッドに飛び込む前に上着を脱いでくださいと、いつも言っているではないですか」
 そこへ追いかけるようにロゼッタの背中に落とされたのは、呆れの混じったブラッドの小言だった。
「だって、本当に疲れたんだもの……」
「……袖から手を抜くだけじゃないですか」
 ロゼッタが枕に顔を埋めたまま答えると、深い溜息が返された。
 これまで丁寧だった口調に、ほんの少しブラッドの素が混じっている。こういうときの彼は、大体がっくりと項垂れた姿を見せることが多い。
 枕に埋まっていた鼻先を少し横にずらして見てみると、予想した通りの姿がロゼッタのそばに立っていた。
「はい、ロゼッタ様、手を挙げてください。ジャケットに皺がつく前に、ほら」
「からだがおもーい……」
「はぁ……ポケットに入れた手紙が、くしゃくしゃになってもいいんですか?」
 そう言われてハッとなったロゼッタは、すぐに身体をひっくり返した。
 上着のポケットに急いで手を入れて、四つ折りにした紙を取り出す。案の定、少し皺になってしまっていたが、目立って折れたりはしていないことにロゼッタは安堵した。
 そっと開いてみると、そこには拙い文字で一言書かれている。
(りょうしゅさま、ありがと……かぁ、えへへへ)
 これはコトルネのあとに訪れた、村の子供からもらった手紙だ。
 その村は、ハルヴェール公爵領に恵みをもたらすグランクロス山から湧く川の近くにある。半年ほど前に大雨による水災に見舞われ、今も避難生活が続いている地だった。
 復興の状況を確認するために訪れたのだが、炊き出しの手伝いに参加したときにこの手紙を渡されたのだ。ロゼッタが来ると聞いて一生懸命書いたのだと、微笑ましげに教えてくれた母親の顔が印象に残っている。
 幼子らしい文字を眺めていると、自然と顔が緩んでしまう。
 あの村で育てられているトマトが、ロゼッタは好きだった。大ぶりの実で、甘くて美味しいのだ。
 しかし、今回の災害で畑の半分が潰れてしまったと聞いて、ハルヴェール公爵としてはもちろんのこと、着る機会の減ったドレスを売るなどして、ロゼッタは個人的にも義援金を捻出していた。
 感謝されるためにしたことではないが、こうして形になって返ってくるのはとても嬉しい。領主としての責務に時々圧し潰されそうになることもあるが、こういうことがあるからこれからも頑張ろうという気になれる。
 にやにやと手紙をじっと眺めていると、不意に影がロゼッタを覆った。
 はっとなって視線を上げれば、ベッドの傍らに立つブラッドがにこにこと──またはにやにやと言うほうが相応しそうな笑みで、ロゼッタを見下ろしていた。
 緩んだ表情をきゅっと引き締めて、ロゼッタはブラッドに手紙を差し出した。
「額縁に入れて、執務室に飾っておいて」
「かしこまりました」
 微笑みを崩さず、ブラッドはわざとらしげに綺麗な礼をロゼッタにしてみせた。
 それから顔を上げて、にっこりと一言告げる。
「それでは、上着を脱いでいただけますね? ロゼッタ様」
「……はいはい」
 にこやかな圧力に、ロゼッタはとうとう観念した。
(……もう夜だものね)
 窓の外ではもう月が昇り始めている。
 もしも思った通りの性格をしているのなら、今日にでも彼は来るだろうとロゼッタは予想していた。
 しかし、帰宅時にマーテルから聞いた限り、留守中の訪問者はいなかった。つまり、ロゼッタの予想は外れたのだ。
 それを少し残念に思いながら、ロゼッタは上着の袖から右腕を抜く。
 今日はもう、ハルヴェール女公爵としての自分はおしまい。そうして反対側も──というところで、コンコンとノックの音が響いた。
「ロゼッタ様、マーテルでございます」
「どうぞ、入って」
「失礼いたします」
 やってきたのは、老齢の侍女マーテルだった。
 マーテルは古くからハルヴェール公爵家に仕えている家政婦長だ。幼い頃から彼女の世話になっているロゼッタは、マーテルをばあやと呼んで慕っている。
 夕食に呼びに来てくれたのかと思ったのだが、どうも違うようだ。マーテルが困ったように眉尻を下げていることに目を留め、ロゼッタは問いかけた。
「どうしたの、ばあや」
「それが……こんな時間にお客様がいらっしゃいまして」
「……もしかして、コトルネの?」
「え? ええ、町長だと名乗っておられましたが──ロゼッタ様?」
 来客と聞いて、ロゼッタはすぐにピンときた。脱ぎ掛けだったジャケットを羽織り直し、ベッドに飛び込んだ拍子に脱げ落ちた靴を履いて立ち上がった。
「ブラッド」
「はい、ロゼッタ様」
 そばで控えていたブラッドに声をかけると、詳細を言わずとも彼はロゼッタの身だしなみを整え始める。
 ブラッドの赤い眼差しが真摯に注がれ、白を纏った手が歪んだネクタイを正し、ジャケットの埃を払い、裾をピッと引いて皺を伸ばす。
 最後に乱れたであろう髪を整えて、彼はロゼッタから離れた。
「行きましょう」
 休ませかけた領主としての自分を繕って、ロゼッタは部屋を出た。
 ブラッドとマーテルの二人分の足音を伴い、玄関ホールへと続く階段に辿り着くと、一人の男が落ち着きのない様子でうろうろしているのが階下に見えた。
 遠目だが、間違いなく午前中に会ったばかりのバートである。
 ロゼッタがステップに足を置くと、気配に気付いたのか彼がこちらを見上げた。
「お待たせし──」
「申し訳ございませんでした!」
 ロゼッタが階段を降りきるかきらないかというところだった。
 ずかずかとこちらまで近づいてきたかと思えば、地面に頭をつけそうな勢いでバートが頭を下げたのだ。これにはロゼッタも意表を突かれ、思わず言葉をなくしてしまった。
 玄関ホールの床に片足を乗せた状態で何も言えずにいると、ロゼッタの前に頭を下げたままのバートから紙が数枚差し出される。
「言われた通りのことをしてきました。こちらをご確認ください!」
 危うく領主の仮面が剥がれてしまうところだった。彼の言葉に平静さを取り戻して、ロゼッタは差し出された物に視線を落とした。
 あの時の態度はどこへ行ったのだろう。緊張しているのかバートの手がぷるぷると震えている。ロゼッタが紙を受け取ると、ほっとしたように手が下げられた。
(……荒々しい字ね)
 村の子供からもらった手紙と違い、微笑ましさの欠片もない字が並んでいる。おそらく急いで書いたのだろうとロゼッタは思った。
 さらっとではあるが、ひととおり目を通そうと荒々しい文字列を追いかける。
 ロゼッタが内容を確認している間もバートの頭は下げられたままだった。
「顔を上げてください」
 おそるおそるといった風にバートの上体がゆっくりと起こされる。ちゃんと彼と視線を合わせられるようになるのを待って、ロゼッタは続きを口にした。
「あのあとすぐにこれを?」
「……そう、です」
 バートの返事はどことなく歯切れが悪い。探るようにじっと彼を見つめると、彼は気まずそうにロゼッタの視線から顔を逸らした。
「正直、やってられるかって思っ──思いました。でも、アイツ──ああ、いや、あの、妻に……怒られたんです」
「夫人に?」
「はい……いい加減にしろ、と」
 ロゼッタから見て町長夫人は控えめな印象だったので、正直意外に思った。
 そのままバートの話に耳を傾けてみると、彼にはロゼッタが伝えたことを実行する気は毛頭なかったらしい。それが夫人の怒りを買ってしまったということだった。
 これまでの二人がどういった関係であったのかは知らないが、夫人にも溜まりに溜まったものがあったのかもしれない。それがこのタイミングでとうとう爆発してしまったのだろう。
「妻に、怒られて、やっと俺も……目が覚めたというか。その……」
 本当に今朝の彼はどこへやら。まるで大熊が子犬になってしまったかのような差だ。バートの軟化した態度から、相当こってりと絞られたのだろうと想像できた。
(正直、賭けだったけれど……それがいいきっかけになったようね)
 町のためを思うなら、本当はあの場で町長の任を解くべきだった。
 しかし、これはロゼッタの私情でしかないが、バートにはもう少し頑張ってもらいたかったのだ。
 ──彼が町長になった経緯が、自分と似ていたから。
「これはバート町長おひとりで?」
「……いえ、妻と……姉夫婦に手伝ってもらいました」
「そうですか」
 バートの返答に、ロゼッタはにこりと微笑んだ。
「字が汚い。これでは読みづらく、どんなに分かり易い文章だとしても相手に伝わりにくいでしょう」
 しかし、大事なことははっきりと言わなければならない。ロゼッタがはっきりと欠点を伝えていくと、すっかり委縮した様子のバートに何度も「すみません」と頭を下げられた。
「ですが、しっかりまとめられています。短い時間でよくできましたね」
 最後に付け加えたロゼッタの言葉に、バートがぽかんと口を開けて呆けだす。
 その表情がおかしくてロゼッタは笑ってしまいそうになったが、どうにか微笑み程度に抑えられた。
 渡された紙には、三枚の用紙いっぱいに雇用計画や経営の改善点、それから機械導入にかかる予算や必要な人員数など、ロゼッタが彼に伝えた内容が綺麗にまとめられていた。綴られた文字は別としてだが、それでもロゼッタがコトルネを出てから夜までの数時間で、彼が一生懸命に取り組んでくれたのだと伝わってくる。
 ロゼッタが言ったこととはいえ、横取りのように跡を継いでしまったことで、気まずいであろう姉夫婦相手にも協力を要請までしたのだ。
 これからきっと、彼は変わる。町の状況も改善できるだろう。ロゼッタはそう確信した。
「ここまではどうやって?」
「あ、ああ、馬を飛ばして……」
 今日は朝早くに出発して向かったくらいなので、ハルヴェール公爵家の屋敷からコトルネまでは結構な距離がある。どんな駿馬だとしても一時間は掛かるので、バートの口ぶりからして馬に結構な負担がかかったことだろうと予想できた。
「それなら今日はうちに泊まっていってください」
「へっ? あ、いや、俺はもうこれで帰るんで! これ以上、りょ、領主様にご迷惑は……!」
「馬も休ませてあげないと可哀そうでしょう。もう夜も遅くて危険です。──それに、迷惑云々は今更ですから」
「……面目ない」
 しかし、どんなに成長の兆しを見せようと、記憶から彼がロゼッタに向けた態度を忘れることはできない。仕返しのように含みを込めて告げれば、委縮していたバートが更に縮んだように見えた。その姿にロゼッタは溜飲を下げて、背後にいるマーテルのほうを振り返った。
「マーテル、彼を客室に案内して差し上げて」
「かしこまりました」
 ロゼッタの指示に応え、マーテルはすぐに「こちらへどうぞ」とバートを導いた。彼女に招かれた彼は遠慮がちな足取りで一歩を踏み出して、縮こまった様子のままロゼッタの横を通り過ぎようとする。
 ロゼッタの真横で、バートの足が止まった。
「……最初は、あの町の町長なんて、継ぐ気はなかった。でも、突然親父が倒れそのまま死んで、これからどうするのかってなったとき、……当然のように姉が家を継ぐべきって話になって」
 ゆっくりと糸を紡ぐように語りだされたバートの言葉に、ロゼッタは静かに耳を傾けた。
「優秀な姉に比べて、俺は何のとりえもない。最初から期待されてないことは、分かってた。だからこそ、あのときになって初めて悔しいって思ったんだ。それで半ば姉たちを追い出すような形で、むりやり跡を継いだはいいが……無知な俺には無謀だったと思い知らされた。いい歳して恥ずかしいが、領主様の言う通り俺には知識が足りなかったんだ」
「……」
「それで、結局思うようにいかず、人は離れていくばかりで焦って……イライラしちまった。俺よりも若い領主様は立派にできてるっていうのに」
 そこでようやく、バートと目が合った。ちらりと横目で窺うかのように、一瞬だけではあったが。
(……立派に、か)
 ロゼッタがハルヴェール女公爵として立っていられるのは、自分を支えてくれている人たちのおかげだ。ブラッドを始めとする屋敷の使用人たち、それから亡き両親、ハルヴェール公爵領に住むすべての人々──。
 古代語で豊穣を意味するハルヴェール。名前の通り恵みにあふれたこの地を愛しているから、ロゼッタは領主としての自分を繕っていられるのだ。
 ロゼッタの支えのひとつでもある領民《バート》の目から見て、ロゼッタが立派であるように見えているのなら、これまでの努力が実を結んでいるということ。
 ならば、今、ロゼッタがするべきことはひとつ。彼の期待に応えることだ。
「今のあなたなら、あなたを支えてくれる人は多いでしょう。そばにいてくれる人を大切に、あなたの町を、たくさん愛してください」
 ロゼッタが言える思いをすべて込めて、バートに伝える。すると俯いていたバートの顔がぱっと持ち上がった。
 彼としっかりと目線を合わせて、ロゼッタははっきりと告げた。
「胸を張って、人の上に立ちなさい。バート・コトルネ町長」
 自信がないというのなら自信を持てるように導くのも、上に立つ者であるロゼッタの役目だ。
 ロゼッタの言葉を受けて、委縮していたバートの表情が変わる。下がっていた眉尻はきりっと持ち上がり、力強さを帯び始めた眼差しは未来を見据えているように思えた。
 今朝、会ったときと同じような顔でも、ロゼッタに対する態度はもう違う。
「はい、ハルヴェール公爵様。この度は、本当に申し訳ございませんでした!」
「二度目はもうありませんよ」
「もちろんです」
「期待しています。あとで軽食を運ばせましょう、今夜はゆっくりお休みください」
「お気遣いありがとうございます。それでは、失礼いたします」
 朝とは打って変わった態度でロゼッタに一礼をしてみせたバートは、マーテルに連れられて客室のほうへと去っていく。
 ぴんと伸びた背筋を見送り、廊下の曲がり角に消えたところで、ロゼッタはふうと息を吐いた。
「ロゼッタ様も甘いですね」
 これまでずっと静かにバートとのやり取りを見守っていたブラッドが、ようやく言葉を発した瞬間だった。
 しかし、その一声には納得がいかない。
「……というか、まず、第一声がそれなの?」
 決して労って欲しくて、眉を顰めたわけではない。
 でも、ブラッドに労いの声を掛けられると、心から安心できるのだ。今日もちゃんとやれたと、自分を褒めてやれる。
「お疲れさまでございました、ロゼッタ様」
「……ん」
 向けられた柔らかな笑みに小さく頷き返してから、ロゼッタは先ほどのブラッドの言葉を振り返った。
「もっと早くに決断するべきだったのに、余分にコトルネの人々を苦しめちゃった。……やっぱり甘いわよね、私」
「彼に自分を重ねてしまったんでしょう? 境遇が似ていますもんね」
 ブラッドにはロゼッタの考えていることなどお見通しだったらしい。彼を傍に置いてからの三年間で随分と自分のことを把握されてしまったようだと、思わず苦笑を浮かべてしまう。
 誰もいない玄関ホールで二人きりだからか、ブラッドの口調は素に近いものだった。そのときによく見せてくれるような呆れの表情で、言葉にはちくりとした棘を感じる。
 ブラッドの言った通りだ。図星を突かれたロゼッタは、素直な心情を吐露した。
「だって、私も、少し彼の気持ちがわかるから。お父様の仕事をどんなに手伝っても、お父様は私に跡を継いで欲しいとは言わなかったから……期待されていないと思う気持ちは理解できるの」
 しかし、周囲を納得させる意思と覚悟があったから、ロゼッタは公爵位を継ぐことができたが、バートの場合は違う。周りを納得させられないまま、町長になってしまったのがよくなかった。
「だとしても、相手をわざと挑発するのは褒められたことではないですね」
「ああいう人はね、意外と負けず嫌いだったりするの。誰も教えてあげなかっただけで、教えたらちゃんとできる人もいるのよ?」
「そっちのことじゃありません。逆上する可能性を分かっていて、あのとき核心に触れましたよね?」
 不意にブラッドの手袋をはめた手が伸びてきて、ロゼッタは反射的に身構えてしまった。
 びくっと肩を跳ねさせてしまったので、これは誤魔化しようがない。
 ロゼッタの顔に触れる寸前で止まった指先からブラッドの顔へと、おそるおそる視線を移す。
 朝焼け色の瞳は、呆れたようにしながらも真摯にロゼッタを映していた。
「……ブラッドが後ろにいるって分かってたもの」
「だからといって、万が一ということもあるじゃないですか。いえ、まあ確かに、私に限って出遅れるという可能性はないですけども、ええ。それでも、……それでも、あなたが傷つくのを私はよしとしません」
「……ごめんなさい、ブラッド」
「正直、分かってはいても心臓に悪いので、今後は控えていただけると助かります」
「……善処します」
 ロゼッタの返事に、ブラッドがやれやれとでも言いたげに息を吐く。
 止まっていたブラッドの指先が、ロゼッタの髪を一房掬いあげた。
「髪、伸びてきましたね。そろそろ切りますか?」
「そうね。お願いできる?」
「ええ、もちろん。明日にでもやりましょうか」
「朝?」
「はい、今夜は夜更かし厳禁です。夜な夜な本を読んだりしないでくださいね」
「……うーん……」
「そこは素直に頷いてくださいよ……」
 まったく、と呟いてブラッドの指先がロゼッタから離れた。
「それでは、私はキッチンへと行ってまいります。バート町長の分を伝えないといけませんからね」
「ええ、よろしく。私は一度部屋に戻るわ」
「スーツが皺になりますから、くれぐれもそのままベッドに──」
「はーいはい、はいはい! 分かってるから。早く行きなさい」
「あとで呼びに行きますからね? そのときにちゃんとしていなかったら」
「もう、しつこいわね。分かってるってば!」
 続く小言にげんなりし始めて、ロゼッタはブラッドの背中を押して強引に向きを変えさせた。早く行けとばかりにぐいぐいと。
 最後にぐっと力を込めて押し出してやれば、ロゼッタの押しに負けたブラッドがキッチンの方角へと足を踏み出す。
 歩き出したブラックタキシードの背中は、やれやれとでも言いたそうな雰囲気を語っていた。
 ブラッドを見送り、ロゼッタもようやく玄関ホールを後にしようと階段を昇り始める。
 ステップに足を乗せて、一段。
「ロゼッタ様」
「もう、まだ何か──」
 そうして数段上がったところで名前を呼ばれた。うんざりとした態度を露わにしながら振り返った先には、真剣な面持ちでロゼッタを見上げるブラッドが立っていた。
 ブラッドの見目は麗しい。少年と青年の狭間をようやく抜けて、大人の男の顔立ちへと成長しつつある。見た目は変わらないが、少し前まではもう少し幼さがあったはずだ。
 ──それがいつのまに、こんな大人びた眼差しで自分を見つめるようになったのだろう?
 出会った頃はまだ同じくらいだった背も伸びて、あっという間にロゼッタを越してしまった。
 思い出の中よりも成長した彼の眼差しから目を逸らせない。すると、やや間を置いてブラッドがゆっくりとその口を開いた。
「弱さも甘さも全てひっくるめて、私はあなたをお慕いしております。三年前に誓った言葉は変わりません」
 傍から聞けば愛の告白のようにも聞こえてしまうブラッドの言葉だが、これは愛情故のものではないとロゼッタは知っている。

 ────あなたを、誠心誠意支えると誓います。あなたの弱さも、強さも、すべて私が受け止めましょう。

 あの日、ブラッドがロゼッタにくれた言葉は、今も鼓膜にはっきりと焼き付いている。
「……なぁに、突然」
 しかし、改まって告げられるとどうにも照れくさい。そんな気持ちでロゼッタが唇をもごもごとさせていると、ふっとブラッドの表情が和らいだ。
「ただ、お伝えしたくなっただけです。お引き止めして申し訳ございません。それでは失礼いたします」
 そうしていつものように柔らかな笑みを浮かべ、ロゼッタに向かって恭しく頭を下げてからブラッドが廊下の先に消えていく。
 階段のステップに足を置いたまま、ロゼッタは彼がキッチンのほうへ曲がっていくのを茫然と見送った。
(……もう、なんか思い出しちゃったわ)
 ブラッドと出会ってから今日までは、あっという間だったように思う。
 そうして一度振り返り始めると、記憶はどんどんと過去まで遡ろうとする。ロゼッタの頭の中では今日を起点とした記憶の再生がすでに始まっていた。
 当時十八歳だったロゼッタがハルヴェール女公爵となる覚悟を決めた瞬間を通り過ぎ、娘の婚約を決めるために父が王都へと向かった三年前のあの日へと──。

(――つづきは本編で!)

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