次期社長クンと秘密の溺愛オタ生活

次期社長クンと秘密の溺愛オタ生活

「ほら、教えて? 舞彩ちゃんの声、大好きなんだから。ね?」

あらすじ

「ほら、教えて? 舞彩ちゃんの声、大好きなんだから。ね?」

アイドル声優オタクの舞彩は、日頃の疲れからライブ会場で倒れてしまう。彼女を助けた爽やかスタッフの彼、建一は、推し声優とそっくりな甘とろ王子様ボイスの持ち主。その上実は大企業の次期社長クンで、就任を控えてオタバレ厳禁なことが明らかに。でも、彼には他にも言えない秘密があって……口封じから始まる秘密の溺愛オタ生活!

作品情報

作:小野氏ときよ
絵:ゆめゾン

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本編お試し読み

◆01 王子様(プリンス)ボイスとぼっちオタ

 そう、この儚いピアノに、重厚なストリングス!
 ひるがえる赤いロングマントの厚さも、金のクラウンの輝きも従えて響く、王子様の二つ名にふさわしい威厳あるイケボ!
 厳正なるチケット抽選に選ばれさえすれば、ただのいち庶民でしかない私、笠本舞彩(かさもとまあや)にも、この尊きイケボのご加護が等しく与えられる悦楽の時間。それがライブだ。
 声優シンガーユニット「EYE☆LEADS(アイリーズ)」の推し活は、無趣味な私の生活に最高のキラキラを与えてくれる、唯一にして最高の趣味。これさえあれば、ううん、これのために生きていると思いさえすれば、派遣社員二十四歳彼氏なしの安アパート暮らしだって、全然つらくなんてなかった。
「子猫ちゃんたちー! ちゃんとついてきてるかーい!?」
「きてるぅー!」
 手を振りながら王子様ボイスでファンを盛り上げるのは、ユニットのリーダー、ダイスケ君。
 愛称は王子様でも、何も高慢だったり近寄りがたかったりするわけではない。アニメでは主役から三枚目、悪役までを幅広くこなす演技力。そして本人のビジュアルといえば、少しブルーがかったつやめく黒髪。しわ一つない肌に、卵型の整った輪郭の曲線。三十路手前とは思えない、少年のようにきらめく瞳。
 笑顔は屈託なくて、しゃべる声は人懐こくて明るくて。加えて、全身から神々しくあふれる気品が。それが私たち子猫ちゃんの中で、間違いなく彼を王子様たらしめる。
「ちょっとだけインターバル入れっけど、後半戦もばんばん盛り上がってくれな!」
 ユニットのバスボイス担当、体格のいいトオルと、
「まだまだ冷めちゃったら、ボク……やだよ?」
 ボーイソプラノみたいな甘い声のショウがMCをつなぐ。ウインクと投げキッスが命中した何人かのファンが、くらくらと卒倒するのが見える。
 照明が点いて、15分の休憩タイム。まわりの観客がぱらぱらとお手洗いや買い物に立つ。
 すぐ後ろの小さなシートにぺたりと座って、私は「ふはあ~」と長いため息をつく。全身にめいっぱいイケボを浴びた余韻。しかも、今日はなんとステージから伸びる花道すぐ横という良席。オープニングで走り抜けていったダイスケ君のエナジー(自分で言っていてよくわからない)がまだ空気中に残っている気がして、むやみにここを離れてはいけないような気がしたのだ。
 コールで枯れかけの喉も、曲ごとに覚えた振り付けとカラーでペンライトを振りまわした腕の疲れも、すべてが心地よい。
 職場のコールセンターで顧客のクレームや罵声を浴び続けて、きっと私の耳も心も、自分の思う以上に疲れているんだろう。それを癒すのに、これ以上の特効薬なんてきっと存在しないと思う。抽選という中々に高いハードルがあるけれども。
 飲み物もサイリウムも、リュックいっぱいに準備したぶんはまだまだ残っている。
「♪きみはきみの声のままで 僕にずっと歌っていてよ」
 後半のセットリストに必ず入るであろう、ダイスケ君の定番のソロ曲。三年も続けてヘビーローテーションで聞いて、歌詞も丸々頭に焼きついているその甘いラブソングを、私は知らず口ずさむ。
 すると。
「素敵な声だね、お姉さん」
「ふえ!?」
 すぐ近くでそう言われたのが聞こえて、私は飛び跳ねるほどに驚いた。
 きょろきょろとあたりを見回してみる。観客席に残っているのは当然女性ばかり。近くにいる男性といえばただひとり、ユニット名入りのスタッフTシャツを着たお兄さんが、暗がりで観客の落としていったペットボトルやサイリウムをせっせと拾ってまわっている。
 また幻聴か、と思ってため息をついた。私に話しかけた(と思った)その声は、ダイスケ君の声にそっくりだったからだ。
 そんなこと、今までだってざらにあった。家でも通勤でも、歌やらボイスドラマやらを年中聞き続けていれば、実際に流していない時にだって聞こえるような気がしてくる。むしろ、自分が疲れている時にこそ幻聴が聴こえてほしい、そのために耳にしみこませている節すらある。
 我ながら重症だなあ、と思いつつ、私は今日のために新調した腰のサイリウムベルトのスロットに、新品のサイリウムを補充する。ショウのソロ曲はグリーン、トオルはパープル。そしてダイスケ君のゴールドイエローだ。
 買っておいた二本めのミネラルウォーターを開けていると、
「水分補給、ちゃんとしてくださいね。今日たぶんアンコール長いですから!」
 またダイスケ君の幻聴が聞こえる(気がする)。足元のリュックをもそもそと漁りながら、ひとりで「はーい」と返事をする。今日は脳内ダイスケ君のテンションも最高潮のようだ。妄想とわかっていても、うれしくなってくる。
「じゃあみんな! そろそろ後半戦、いっくよー!」
 ショウの高く透き通った声が響いて、あっという間に休憩タイムが終わったことを知る。どの色にでも素早く変えられるペンライトを二本、ストラップをちゃんと手首に通して両手に持って、お待ちかねの後半戦を全身で迎え撃つために、私は立ち上がった。

「それじゃ、ちょっと名残惜しいけど」
「やっぱ最後はこれだろ!」
「いくよ――『Lead your eyes』!」
 聞きなじんだ「EYE☆LEADS」デビュー曲のイントロ。百人も入らない小さなライブハウスでも、千人が目いっぱい詰めかけた公園音楽堂でも、ずっと歌ってきてくれた大好きな曲。三人の声が響きあって、最高の舞台のラストを飾ってくれる。ああ、もう終わってしまうんだ。今日一日、いや、今日この日が来るまでの毎日を楽しませてくれたことへの感謝と、とうとう終わってしまうことへの悲しみで、感極まって涙が込み上げてくる。
 手を振りながら花道を駆けてくるダイスケ君。飛び散る汗がスポットライトとサイリウムの光を照り返して、星屑のようにキラキラと輝く。私はがらがらの声を振り絞って彼の名前を呼びながら、疲れて攣りそうな脚でぴょんぴょん跳ねて、サイリウム四本握りの両手をめいっぱい振る。一度でもいい、こっちを見て欲しい。必死にそう願った、その時。

 ごすっ。

 後頭部に重い衝撃が走って、目の前にサイリウムとは違う色の火花が散った。
 ちょうど跳ねようとしていた脚が、バランスを取れずにふらついた。指の間のサイリウムが手放せなくて、私は受け身も取れず、柵を巻き込んで前のめりに倒れてしまった。
「きゃあああっ!」
「だ、誰か倒れた! スタッフさん、スタッフさーん!」
 眩暈がして、うまく呼吸ができない。誰かが大声を上げているのが、ごうごうとくぐもった耳鳴りの向こうから聞こえる。
 きっと私と同じように、サイリウムを握って思い切り振っていたグーの手が、最悪の当たり所にヒットしてしまっただけだろう。
 ああ、やめてください。騒がないで下さい、大丈夫ですから。自分の身に何が起きたのかわからないまま、私はずっとそう思っていた。
 私なんかが倒れただけで大ごとになったら、ダイスケ君たちの大切なライブが終わってしまう。炎上しちゃう。活動できなくなってしまう。
 ぱっと起き上がって、周囲に迷惑をかけないように振る舞いたかった。ライブはまだ続いているんだから。
 でもどうしてか、残業上がりの眠気に勝てない時みたいに、両手も両足も、重だるくて動かせなかった。
「大丈夫!? ねえお姉さん、ねえ!」
 ダイスケ君の声が、すぐ近くで聞こえる。私ははっとなったけど、これもきっと幻聴だろうなあと、床を見ながら引きつり笑いをする。
 花道を降りてきてまで、私のことを心配してくれているのだろうか。ああ、どうしよう。死に際に王子様に心配させてしまうなんて。
 最期までダメなオタ女だったなあ。でも、ちょっとだけ、本望かも。
 痛む後頭部以外はひどく夢ごこちの中で、私の意識は暗がりの底へ、すうっと落ちていった。

 ***

 アイドルオタクなんてクビよ、クビ!
 ほんと、お客様にキモがられたらどうすんだっつーの!
 職場のコールセンターの上司と同僚何人もに囲まれて、つむじでお説教を聞きながら、私はじっと唇を噛んで耐えていた。
 普段からよく見る、ただの夢だとはわかっていた。実際にこんなことは言われてないけれど、きっとそう思われているんだろうなあという私のネガティブが、そのまま夢に出てきているようだった。
 でも、今日はことさらに、浴びせられる言葉がキツかった。
 ライブでまで迷惑かけて、厄介オタク!
 ほんと、いつ仕事でも炎上するかわかんないよね、この限界オタク!
 よくよく考えれば、オタク界隈と縁遠い同僚に「限界オタク」だなんてボキャブラリーがあるわけはないんだけれど、それでも私は夢の中で耐えられなくて、九十度に腰を折ったまま泣き出してしまった。
 ああいやな夢、早く覚めて。
 でも、今日だけは何故か少し、流れが違った。

――舞彩ちゃん、舞彩ちゃん!

 私は大好きな声に名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。
 同僚たちの囲みをかき分けて現れたのは、なんとスーツ姿の王子様、ダイスケ君だったのだ。

――気がついた?

 ダイスケ君は私の手をぐいっと引いたまま、囲みから連れ出してくれる。

「王子様……!」

 数秒前から早くも一転。夢よ少しでも長く続いて、どうか覚めないでと思った。

「もう大丈夫だよ、舞彩ちゃん。君の声は、ぼくに届いたから」

 ああ、そうなんだ。花道に向かって喉から血が出るくらいにあなたの名前を叫んでいたの、届いてたんだ。うわ、超恥ずかしい。
 けれど、私は夢なら夢でいいやと、彼の手を強く握り返した。
 手の暖かさだけ、なぜだか妙にリアリティがあって、私はそれを確かめるようににぎにぎと手を動かす。

「舞彩ちゃん?」

 そうしているうちに、夢の世界は白んで、消えてゆき。

「……気がついた?」
 ぱっと目を覚ました私の前にいるのは王子様……ではないみたいだった。
 眼鏡がなくて、ぼんやりとしか見えない。眉間にぎゅっとしわが寄るのがわかる。
「はい」
 渡されたのが手になじんだ自分のメガネだとわかって、残った涙を手の甲でこすって、
「ど、どうも……」
 フレームを開いて定位置にかける。ぱちぱちと瞬きをして、ピントを合わせて……ばっ、と後ずさる。
「あ、あの……どちら様でしょうか!」
 そこにいたのは、腰にタオルを巻いただけの、裸の若い男の人だった。シャワーを浴びたばかりなのだろう。濡れた金髪や、薄くてもしっかりと筋肉の張った胸板に、まだ雫がつやめいている。
「あ、ごめん! えっと、僕、EYE☆LEADSのライブのスタッフやってた者です」
 ちょっと困った顔でそう話す彼の前で、私の顔は条件反射のようにぼっと顔が赤くなってしまう。
 言われてみれば、確かにうっすら見覚えがある。記憶の片隅も片隅。確かに休憩時間、私の近くで真面目にゴミ拾いをしていた、あの金髪のお兄さんだ。
 二次元に慣らされてしまった私の目は、三次元の男性の美醜の基準にいまひとつ自信が持てない。スマートで鍛えられた体、無駄な肉のない輪郭。さらさらの金髪にジェットブラックのぱっちりした瞳。きっと相当にかっこいい部類なのだろう、くらいには思う。
 でも、私の胸を貫いたのはただひとつ。彼の声が王子様、幻聴すら聞こえてくるほどに耳に焼き付けたダイスケ君のそれに、そっくりだったことなのだ。
「うなされてたよ、舞彩ちゃん。大丈夫?」
「ああ、あの! ど、どうして私の名前……」
「ごめん。救護室に運んだ時、チケット情報で他のスタッフが調べたんだ」
「そ、そうですよね。そりゃ当然か……」
「でもきみ、救護スタッフに運ばれてる間も『病院はやめて……炎上するから……』ってうわ言みたいに言ってるから、みんな困っちゃって。それで僕がその……運営に話して、ひと気のない安静にできるところへって」
「それはその……とんだご迷惑を……」
 かあっと熱くなった顔を押さえ込んで、ぼそぼそと謝る。自分なら間違いなく言いそうだと自覚はあるものの、意識が朦朧としている時まで推しの評判を心配するなんて、私はいったいどれだけ厄介オタクなのか。
 今更ながら、あたりをきょろきょろと見回す。自分がいるのは病室のベッドかと思ったら、どうやらホテル。それも普段私が遠征で使うようなサービス価格のビジネスホテルではなく、明らかにスイート級。王子様が出演していたアニメ「アイドルナインメジャー編」で、ライバル事務所の社長が泊まっていたのを見たから間違いない。
「はい」
 彼が手渡してくれた、うすく湯気の立ちのぼるマグカップを受け取る。牛乳の甘い香り。
「あ、ありがとうございます」
「ちょっとだけブランデー入れたけど、無理して飲まないでいいからね」
 ほどよく温まった陶器のふちに、恐る恐る口をつける。舌から喉へ染みてくる温かな甘さに、ほう、とため息をつくと、体の緊張も少しずつほぐれてくる気がする。
「休憩の時歌ってたよね、ダイスケ君の『キミノコエ』」
 唐突に言われて、せっかくのホットミルクをさっそく吹き出しそうになってしまう。引いてきたはずの顔の火照りがまたぶり返す。
「あの、き、聞いて……!」
「うん。通りがかりにちょうど聞こえてきて。なんか、とっても耳にフィットするっていうか、好きな声だなって」
「わああ、す、すみません。おみみみ汚し、じゃない、おみみみ汚しを!」
 舌がうまく回らなくて、どうしても『み』がひとつ多くなってしまう。
「でも……じゃああの時私のこと、いい声って言ってくれたの……」
「あ、ごめん。聞こえちゃってた? うん、つい」
「いやあその……重ね重ね……お恥ずかしいと言いますか……」
「そんなことないよ。上手だったもん」
 うわ言といい歌といい、私はどれだけ失言を重ねるのだろう。恐る恐る上目遣いに見ると、彼は変わらず笑顔で、逆にまともに顔が上げられない。
「『キミノコエ』、僕も好きだし。カラオケでしっとりしたい時だいたいこれ入れちゃう」
「か、神曲ですよね! 私ずっとこれヘビロテで、仕事の行き帰りとか聞きっぱなしで」
「ねーずっと聞けちゃうよね。歌ってた2番のサビ直前のところとか超エモい」
「わああ、お恥ずかしい。つい出てくるのがBメロとかオタ過ぎてほんとすみませんて感じで……」
 三千円のチェックのシャツと、五九八〇円(レンズ込み)のメガネ。ゴージャスなベッドの上で、キモオタムーブを遺憾無く発揮している自分を自覚しつつ、正直もうどうにでもなれと、よみがえってきた興奮と楽しさに任せてしゃべり立ててしまう。
「あの……お名前聞いてもいいですか」
 会話の切れ目に、私は恐る恐る尋ねる。
「えっと、じゃあ……ケンイチで」
 じゃあ、の意味がよくわからなかったけれど、私はそんなに気にはしなかった。きっとオフ会で使うハンドルネームか何かだろう、と思って聞き流す。それよりも聞きたいことがある。
「あの、ケンイチさん。似てるって言われませんか、声」
「声?」
「王子様……じゃなくてダイスケ君の声に」
「僕の声が?」
 ケンイチさんは目を丸くして、首を傾げる。
「わわ、わかんないです。私が勝手に思っただけで。でも、声質っていうか、王子様と高さは違うんですけど、すごくこう、もっと貴族ボイスっていうか、素敵だなって」
 彼、ケンイチさんとのおしゃべりで、頭の中にライブの熱が戻ってきたのかもしれない。舞い上がって自分が何を言っているのか、今ひとつ分別がついていない。声優と声が似ているだなんて、言われて嬉しいことなのかどうかも察しがつかない。それでも。
「そっか。なんかそれ、ちょっと嬉しいかも」
 照れ臭そうに指で頬をかく仕草に、ちょっとほっとする。同時に、なんだか胸がむずむずする。かわいい。演技やライブの時には気高い狼のようにきりっとした顔が、時々こうして小型犬のように人なつこい笑みを見せるところも、なんだかダイスケ君と重なって見えてしまう。
「ダイスケ君、役の幅広いもんね。ひょっとしたら、逆に僕と似た声の役の時もあったんじゃないかな」
「あ、それもあるかもしれません。『アイドルナイン』のシャイン役の時とか」
「『ドルナイ』見てた! シャインが第三の魔球に覚醒するとこ超あつい!」
「そこー! 9回裏のゴスペル部の四番を三振に抑えるとこホント泣けますよね!」
 共通項の見つかったオタク同士の、水を得たようなオタトーク。裸の男性を相手に、私は汗だくのネルシャツで、ベッドの上で。冷静に考えればおかしなシチュエーションのはずなのに、王子様ボイスを間近で、まっすぐ、私だけに向けられて、ついつい舞い上がってまくし立ててしまう。
 でも。
 急に黙ってしまった私の顔を、ケンイチさんが心配そうに覗き込む。
「……どうしたの」
 会話の切れ目に、私は思い出してしまったのだ。
「そんな王子様のライブ、私、台無しにしちゃったんですよね」
 最高潮に盛り上がっていたライブは、私が倒れてしまったことで、きっと中断されてしまっただろう。名残惜しさを最高のクライマックスで吹っ飛ばして笑顔で終わろう。王子様たちはもちろん、会場キャパ六千人めいっぱいの子猫ちゃんたちも、その思いをひとつにして最後の曲に臨んでいたに違いないのに。
「気にすることないよ。割といるから、ライブで倒れちゃう人」
 ケンイチさんは微笑んで、王子様によく似た優しい声でそう慰めてくれる。
「舞彩ちゃん、頭にケガもこぶも残ってないし、大したことなくてよかったよ。倒れちゃったのは、日頃の疲れも重なったんだろうって。救護の人が言ってたよ」
「……そうかも、しれないです」
 ライブの間、いつもより王子様ボイスの幻聴が聴こえた気がしたのも、ひょっとしたら疲れのせいかもしれない。今週は特に、クレーム客の相手が長丁場になったりで、終業時間を超えてしまった日も多かった。実際には聞こえた幻聴の一部が、目の前にいるケンイチさんの声だったというわけだけれど。
「ダイスケ君たちだって、きっと迷惑だなんて思ってないよ。むしろ、そんなに疲れてるのに週末使って会いにきてくれるなんて、すごく嬉しいと思う」
 ケンイチさんの声はどこまでも優しかった。まるで、王子様本人がそう言って、思いを伝えてくれているようで。
 手で押さえる余裕もないまま、私の目からはとうとう、涙がこぼれてしまった。
「ご、ごめんなさ……!」
 ベッドの毛布はあまりに高級そうに見えて、私は慌てて手の甲で涙をぐしぐしと拭う。でも、涙は後からどんどん溢れてきて、拭っても拭っても、視界も考えもクリアにならない。
 すると。
「舞彩ちゃん」
 名前を呼ばれてぴたりと止まった私の、頭の後ろに、ケンイチさんの大きな手がそっと回される。
「あ、あの……!」
「ちょっとだけじっとして、聞いてて。目を閉じて、王子様のことを思い浮かべてみて」
 ケンイチさんは額と額をそっと当てて、子どもに言い聞かせるようにそうささやく。言われるがまま、私はぎゅっと目を閉じる。拒むべきか、受け入れるべきか、はたまたどうにかしてスマートにお断りすべきか、残念ながら私にはわからなかった。
 恥ずかしながら、おつき合いの経験が皆無なのはもちろんのこと、こうして同じ年頃の男性と面と向かって話したことすら、これまで数えるほどしかない私だった。卒業した商業高校も九割が女子だったし、職場のコールセンターにも、ほとんど口を開かない管理職らしきおじさんがひとりいるだけ。
 地元の学校でも、関東に出てきて就いた職場でも、私の存在価値は結局、並そこそこあるかないかだ。そんなこと、自分でもわかってる。人付き合いも苦手だし、電話応対もいくらやっても上手くなってる気がしない。
 そんな私にも分け隔てなく接してくれる、数少ない存在。それがアイドル声優、王子様ダイスケ君だった。私はただダイスケ君に会うために、ダイスケ君の声を聴くために、日常をぎりぎりのところで頑張っていたのかもしれない。たまたま緊張の糸が切れたのが今日のライブ会場だっただけで、私はいつか遅かれ早かれ、ダメになっていたのかもしれない。
 そんな私に、彼は。
「ありがとう、舞彩ちゃん」
 ブランデーミルクよりも温かく甘い声で、ささやくのだ。
「きっと僕のためなんかじゃないと思うけど。舞彩ちゃん自身がしあわせになりたいから、いつも一生懸命頑張ってるんだと思うけど」
 一言一句、一字一句、吐息のひとつも聞き漏らさないよう、私は息を飲んで耳をすます。
「それでも、自惚れたこと言うと……大事な人生のひとときを僕のために使ってくれて、ありがとう」
「……っっ!」
「なんて。きっと僕がダイスケ君なら、そう言ってくれると思うよ」
 ケンイチさんが私の背中を優しくなでながら、裸の肩を貸してくれる。私はそこに顔をうずめて、涙を収めるどころか、そのまま声をあげてみっともなく泣き出してしまう。
 今までつらかったことや頑張ったことを、自分以外の誰かにようやく認めてもらえたみたいだった。わざと似せてくれているのだろう王子様そっくりな声と、大きな男の人の手の温もりが、ひどく久しぶりの人のやさしさに感じた。
 私は涙を収めるどころか、子どものように泣き続けた。知らず溜めてしまっていたいろいろなものを、解き放つように、思い切り。

――続きは本編で!

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