あなたが愛しくて愛撫せずにいられない

あなたが愛しくて愛撫せずにいられない

「ずっとお前と繋がっていたい」

あらすじ

「ずっとお前と繋がっていたい」

 EDを理由に恋人・優成から別れを告げられてしまった紗希。「抱けない男じゃ嫌だろ?」と悲しげな彼に、咄嗟に「じゃあ私が抱く」と宣言してしまう。彼女の指先や唇で乱れていく彼に、イケない扉を開いたような気がして…!?
 全テキストの30%以上を費やし描かれる、濃厚セックスシーン!欲望をたっぷり満たしあう、蜜愛ティーンズラブ問題作!

作品情報

作:フォクシーズ武将
絵:フォクシーズ大使

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本文お試し読み

◆プロローグ

 怯えたように固まっている彼の唇に、紗希は自ら唇を重ねた。
 凍えているかのように震えていても、触れた薄い皮膚は痺れるほどに熱かった。唇を割って舌を絡めると、そこから蕩けてしまいそうだ。形の良い彼の頭蓋を掻き抱いて、貪るように舌を絡める。
 彼に息づく熱を、吐息を感じる度、胸が痛いほど締め付けられ、体が芯からじわりと痺れていく。耐えきれないほど鼓動が高まり、下腹の奥で熱がずきずきと疼いた。
 彼も、口づけを拒んではいないのは確かだった。息は乱れ、鼓動は高まっている。
「っ、は……ねえ、優成……」
「ん……?」
 唇を離すと、彼はあえかな吐息をこぼす。頬を上気させ、瞳を潤ませた美貌は眩暈がするほど扇情的だ。
「優成は、良くならないの? ――それとも、良いけど、勃たないだけ?」
「っ……」
 当然ではあるが、彼は赤面して俯いてしまう。
 不名誉な質問であることはわかる。それに、答えにも大体の見当はついていた。
 紗希は彼の言葉を待たずに、赤く充血した両頬を両手で包み、そのこめかみから耳、首筋に口づけを落としていく。
「っ、紗希……」
 押しとどめようとする手に、力はない。片手の指先を耳に滑らせながら首筋を吸うと、彼の唇から熱い吐息が漏れる。
「優成が嫌だって言ったら、すぐやめる」
「……」
 黙っているのをいいことに、首筋から胸へ手を滑らせていく。Yシャツ一枚の薄い生地を隔てて、厚い胸板から鼓動と息遣いが伝わってくる。スーツを着ていると華奢に見えるが、休日のジム通いを週課にしている優成の肉体は均整がとれている。健康的な弾力を堪能しながら手を滑らせ、胸元のボタンに指をかける。
「待っ……てくれ」
 ついに制止の言葉が彼の口をついた。名残惜しい熱を掌に収めてから、そっと手を離す。
「……嫌だった? ごめんね」
 体を離そうとすると、彼の手が引き留めるように手を取る。
「いや、そうじゃない……その――」
 彼は耳まで紅潮させて目を伏せたまま、絞り出すように言う。
「シャワー、浴びてくるから……」
 手の熱と、決死の覚悟が滲んだ声が、どうしようもなく胸をうずかせる。
 引き返せない甘美な危険に踏み込もうとしている予感に、紗希はぞくりと戦慄した――

◆第一章 恋の終わり

 ――愛しているのに恋を終わらせるのは、どんな時だろうか。
 彼の掌から零れたまま、所在なく置き去りにされている合鍵を見つめて、紗希は嘆息する。もう二度とこの部屋に来ることはないと宣言し、優成は去っていった。
『全部、俺が悪い。これ以上一緒にいても、お前のためにならない』
 にべもなく切り捨てられて、反論しようにも言葉が出なかった。生来強がりの悪癖が出て、食い下がる術もない。そうだね、とおざなりな返事をすると、優成はどこか寂しげに破顔した。そんな表情を見て、今更のように胸がちくりと痛む。
 彼はそのまま言葉もなく立ち去った。合鍵の表面から彼のぬくもりが完全に去った今になって、その痛みは胸を抉るほどになってくる。期せずして、頬にぱたりと涙が落ちる。
「優成……」
 彼の名を呼んだ自分の声の情けなさに、初めて失恋を自覚する。
 黄昏は憂鬱な光と濃い影をリビングに投げかけている。遠く街の喧騒が孤独を助長する。大人になってからは決別したはずの涙を、紗希は鍵を握りしめた手の甲に零した。

 それでも、翌日出勤すれば顔を合わせてしまうのが、社内恋愛の業である。
 朝一の定例会議で差し向かいに座っても、優成は素知らぬ顔で手元のPCに集中している。メイクに腐心して隠したとはいえ、彼ならば紗希の泣き腫らした目に気づかぬはずはない。それを当然視界に収めながらの飄然とした態度に紗希は胸の内で苛立っていた。
 どうしても視線が彼に向かってしまい、司会が淡々とアジェンダを読み上げる声も入ってこない。感傷に浸ってしまいそうな自分を叱咤して、しゃんと目を上げた。そっちがその気なら結構、とばかりに紗希は殊更冷淡に彼を無視――するのではなく、むしろ積極的に会議に参画してやろうと身構える。気性柄、紗希はとり澄まして黙っているのは苦手だった。涙をのんで傷心に漫然と耐えているよりは、切り替えて仕事に励む方が性に合っている。
 アプリ開発を主に手掛けるこの会社で、紗希と優成は共に健康管理アプリ『COR』の運用チームに所属している。新卒同期で入社して以来、紗希は企画部、優成はマーケティング部を経て、同部署の戦友となって早三年になる。半年前から彼は当該アプリのディレクターを務めているため、立場的には上司に当たるが、同期のため気安い関係だった。
 私生活の方では結局、彼の為人を理解するには至らなかったが、仕事仲間としてはある程度理解しているつもりだし、尊敬もしていた。優秀で誠実な仕事ぶりは紗希だけでなく誰からも信頼が厚い。トラブルや人間関係への対処も迅速で的確。誰もが認めるデキるディレクターだ。
 ただ、彼にも欠点はある。根が真面目な優成は、精励恪勤が行き過ぎて無理をすることがよくあった。そして、理不尽に対して目を瞑るということができない。良くも悪くも仕事を生き甲斐としており、達成すれば喜びもあるだろうが、ストレスも大きいようだった。
 正義感が強く融通が利かないのは、紗希にも似たところがある。だから、優成を見ていると気持ちがわかるような気がして、どうも放っておけなかった。
 今月のKPIの報告から、やがて議題は『COR』の新規機能に移り変わる。紗希ははっとして居住まいを正した。
「新規機能として企画中の、他社ポイントシステムとの連携についてですが、経営企画室からの方針が明らかになりました」
 アプリ運用課課長の言葉に、自然と拳に力がこもる。これは優成発案の企画だ。紗希も、彼が実現に向け注力してきたのをずっと近くで見てきた。ちらりと見やるが、優成はじっと瞑目したままでいる。自分が粉骨砕身取り組んできた企画の行方について、気にならないのだろうか。紗希の方が気をもんでいるようで、歯がゆい気がした。
 この機能が実装されれば、他社ポイントアプリと連携して、歩数カウントや体重・血圧値など健康情報の入力に応じて、換金可能なポイントを獲得することができるようになる。健康意識の向上に貢献できるほか、競合他社との差別化にも一役買う。成功すれば画期的な進化になると紗希も期待していた。
「経営企画室の判断としては、時期尚早とのことで見送りとなりました」
 課長はあっさりとそれだけ言う。紗希は驚いて反射的に声を上げそうになる。
「尽力してくれていた高宮さんには、残念なことだが」
「いえ、この度は私の見通しが甘かったようです」
 優成が淡々と答えるのを、信じられない思いで見つめる。彼はこのために数か月を費やしてきたはずだ。それが徒労に終わると知って食い下がりもせずに冷然と構えているのは、彼らしくない。疑問符を突き刺すようにして見つめていると、ちらりとこちらに視線を向けた彼と目が合う。しかし彼はそのまま視線を降ろしてしまった。
 それを見て俄然、紗希は腹が立ってきた。
「待ってください」
 身を乗り出して声を上げる。意気込みすぎたせいで声が大きくなり、一同の注意を引き付けてしまう。
「先月の会議で高宮さんが提出していた資料は検討されていますか? 既に競合数社が行っているアプリ内ポイント制に我々は乗り遅れている状態です。時期尚早という判断の根拠は何でしょう?」
「あの資料に名前が上がっていた数社と、我々――というか『COR』では規模が違う。ポイント管理の機能もないのに……」
「だからこそ、提携の企画なんじゃないですか。高宮さんは既に先方と好条件で交渉していますし、新規機能としては最低限のコストで実現可能なのに」
「コストについていえば、『COR』そのものの予算が再来月から削減されます」
「え……」
 さらりと告げられた事実に絶句する。同時に、ああそういうことか――と諦念が彼女に口を閉じさせた。
 『COR』はこの会社の看板商品というわけではない。むしろどちらかというとお飾りのアプリだ。健康管理に寄与する商品は世間受けがいい。主力となる動画・漫画アプリがどちらかというと俗な印象を持たれることに対して、バランスをとるために運用されている側面がある。潰されることはないが、注力されることもない。生かさず殺さずの扱いを受けているのが現状だった。優成の企画は、確かにそこから逸脱しかねない――よく言えば挑戦的、悪く言えば出しゃばった企画だと考えられてしまったのだろう。
 紗希は更に言葉を返したい気持ちを抑え込んだ。入社当初の紗希なら、まだ食い下がっていただろう。しかし、五年目ともなるとさすがに一人で騒いでもどうにもならない会社の道理がわからないわけではなかった。
 ふと優成を見やると、再び目が合った。今度は目をそらすことなく、優成はどこか遣る瀬無い笑みを向けていた。

 結局談判は物別れのまま、淡々と会議は終わった。紗希は意気消沈して席に戻る。
 頓挫した企画について優成はどう思っているのだろうか。飲みにでも行って、話を聞けたら――と咄嗟に思ってしまってから、やっと昨日のことを思い出す。
(そうか、もう……)
 もう二人で飲みに行ったり、お互いの家に上がり込んだりして、夜通し仕事の愚痴を言い合うことはできないのだ、と今になって痛感する。思えば彼と親しくなったのも、そんな時間を共有していたことがきっかけだ。お互い曲がったことが嫌いで、譲れない芯がある。いつも彼の零す言葉に、自分を見るような気がしていた。それがかけがえのないものに感じて、彼に惹かれたのだ。
 恋人としての関係を失ったからと言って、仕事仲間としてまで気まずくなる必要はないと、割り切ってしまえばうまくやっていけるだろうか。しかし、紗希はもうどんな顔をして彼と二人で喋ったらいいのかわからなかった。彼も自分も、何か変わったわけではない。ただ関係だけが抜け落ちただけだ。あらためて孤独感がこみ上げてくる。
 嘆息して、自前のタンブラーにお気に入りのハーブティーをセットした。傷心の時は、考え込んでも暗くなるばかりだ。英気を養うには、芳香や甘味――脳を疲労させない、五感の癒しに限る。身に纏わりつく陰鬱な懊悩を振り払うようにして立ち上がった。
 大きく伸びをして、給湯室に向かう。
「――あ」
「ああ、お疲れ」
 給湯室に入るなり、早速気まずい相手と顔と合わせる羽目になった。切り替えようとした気持ちが、一気に萎えていく。
 優成はまさに今お湯を注いだらしいマグを手に、いつも通りの無表情で立っている。馥郁たる香気の立ち上るマグから垂れたタグには、紗希の手元にあるのと同じハーブティーのロゴ。紗希が彼に贈ったのだから無理もないことだが、それが妙に苛だたしい。紗希はそっと、自分のタンブラーから垂れるタグを彼から見えない位置に動かした。
 昨日別れたばかりの彼女にもらった茶を平然と飲むなど、どういう神経をしているのか。それとも紗希が贈ったということすらもう忘れているのか。そんな考えが頭を駆け巡り、思わず表情がひきつる。
「……おつかれ」
 平静を装ったつもりが、応えた自分の声にははっきりと棘があった。
 口を開けば恨み言が零れそうになるのを必死で抑える。彼の方が黙っているのだから、こちらから何か言うと負けた気がする。ウォーターサーバーからお湯を注ぎ、無言で茶葉が開いていくのを見守った。彼はマグを手にしたまま、なぜか立ち去ろうとしない。そのまま無視して席へ戻ろうかとも思ったが、ついに我慢できなくなって口を切る。
「さっきの会議、何。どうして何も言わないの?」
 彼は目を丸くする。
「何が」
「だって、あんなに頑張ってた企画でしょ? それに、また予算削られて。これじゃ、いくら私たちがこつこつ成果出したって、上はどうせ何とも――」
 そこまで言って、口をつぐむ。私たち、と言ってしまったことに、内心しくじったと舌打ちした。結局口をついたのはそんなことで、彼への恨み言ではなかった。
(ちがう。こんなことじゃなくて――でも、何を言いたかったんだっけ)
 すると、黙っていた彼がなぜかふっと微笑を浮かべた。
「何?」
「いや、ごめん。ポイント企画のことで紗希が――今野さんが怒ってくれるのが、嬉しいと思って」
「別に、優成――高宮さんのためじゃないですし」
 彼に倣って、皮肉を込めて呼び名を変える。彼は昨日去り際に見せたのと似た、もの寂しげな笑みを浮かべた。ずるいものだ。昨日といい今といい、先に距離を作っておきながら、寂しそうにするのだから。
「前からだけど、『COR』にお金かける気はないっていう上の態度、腹立つ」
 間が持たず、仕方なく腹に据えかねていた愚痴を言葉にする。
「まあ、お飾りだからな」
「世の中の役に立つのに」
「そういうの、求められてないんだろ」
 彼の方も、ため息交じりに言う。彼との会話はやはり心地よくもあり、その分切なくもあった。やはり職場で顔を合わせれば、彼は今までと変わりなく情熱を共有できる同志なのだ。
 何となくこの時間が名残惜しい気がして継ぐ言葉を探していると、彼が再び口を開く。
「……安心した」
「え?」
「今野さんともう、仕事の愚痴も言えないのかと思ってたから」
 彼が自分と同じことを考えていたと知って、胸が詰まった。同時に、怒りもこみ上げる。その思いが同じなら、なぜ別れを切り出さなければならなかったのか。
「それとこれとは、別でしょ」
 いろいろと詰りたい思いは抑え込んで、ただそれだけ言った。
「そうか……ありがとう」
「お礼言われることじゃないし……」
 ただ、彼にとって自分が必要のない存在ではないとわかって、つい欲が出る。タンブラーに目を落としたまま、さりげなく装って切り出す。 
「ねえ、今日飲み行かない……よね」
「……」
 彼が纏う雰囲気が固くなる。それだけで、彼が何と答えるのかはもうわかっていた。
「そういうのは、もうやめよう」
 お互いのためだ――そういった声があまりに冷淡で、逆らいようもないと痛感する。それ以上、何も言えなかった。
「お互い、頑張ろう」
 取り繕うように言って、彼の手が軽く肩をたたく。その服越しのかすかな熱と感触に、胸が軋むように痛んだ。

 席に戻ると、ハーブティーの香気が薄れていくのをただ見守りながら、物思いにふける。結局彼との別れを、紗希はまだ納得できていない。顔を合わせれば、すぐそれが露呈した。
 別れを告げられたのには、もちろん理由があった。彼の側の問題だった。切り出すのは痛みの伴うことだったに違いない。にもかかわらず、彼は濁すことなく、まっすぐそれを告白した。そしてそれは確かに恋仲を終わらせるために、理由として相応のものであることはわかっている。しかし――
(でも、私はまだ――)
 どんな理由でも、彼自身の人格を裏切るようなことでなければ、納得できなかった。彼が彼である限り、嫌いにはなれない。その気持ちには不利益も不都合も関係なかった。もう計算や理由が働かない場所で、紗希は彼を想っていた。
(まだ、好きだよ……)
 PCに向かっても、幾度も手が止まる。頭を抱えて嘆息して、また気合を入れなおす。それでも、思考は自然と過去へ引っ張られていく――

 『COR』運用部に異動して初めて彼を意識した時のことはよく覚えている。奇しくもそれは、今日の会議と似た場面だった。その時声を上げてくれたのは、彼の方だったが。
 紗希の未熟な企画書が、実現性やコストについて散々こき下ろされたときに、唯一味方に立ってくれたのが彼だった。彼女の企画は社会貢献性を第一義としており、健康管理アプリにとってその視座は大事にすべきだ、と彼は熱弁してくれた。想いを汲んでもらったような気がして、胸が熱くなったものだ。
 その日、挫折に憤懣やるかたなく落ち込んでいると、優成から飲みに誘ってくれた。若い男性からの差し飲みの誘いということに始めこそ警戒しないでもなかった。しかし、彼に全くそういう意図がないことは、乾杯して開口一番『COR』の社会貢献について話し始めた時にすっかり判然とした。
「課長は杓子定規だよな」
「それです!」
「健康管理アプリにも、エンタメが得意な企業ならではの切り口ってあると思うんだよ」
「それなんですよ! お堅いアプリとエンタメアプリって分けちゃう課長の考え方って古いっていうか――」
 そのまま仕事の愚痴で意気投合し、警戒心はどこへやら夜通し居酒屋で語らってしまった。夜が更けてくるにつれ酩酊も手伝って羞恥心が薄れ、つい心の奥で燻っていたものが零れてしまう。
「私って一人っ子で、一族みんな私より年上なんですよ」
「ん、何の話だ」
「もし私が結婚しないで死ぬと、何も残らないんですよ。だから、何か世の中の役に立つことがしたいっていう気持ちが強くて」
「……」
 言ってしまってからしまったと思った。今までこんな話をしては、「なら婚活しろ」とか「結婚諦めるなよ」とかいった反応をよく受けてきた。結婚しないかどうかが主題ではない。ただ、自分が何かを残せるかと思うと不安なのだ。自分は、この世界にいる意味があるのか。
 ただ、そんな話をされて困るのもわかる。だから誰もが、軽い話題にすり替えてしまうのだろうと思っていた。しかし――
「俺も、思うんだけどさ」
 優成は静かな声音で、慎重に言葉を継いだ。
「石に刻んだ文字とか紙の本と違って、俺たちの作ってるものって百年千年残るものじゃないだろ。だから、何につなげばいいのか、わからない時もある」
 紗希は胸に風が吹いたような気がした。優成は彼女の言葉を、まっすぐ受け取ってくれている。
「でも、それはやっぱりユーザーなんだ。誰かが、人生のひと時をここに使ってくれてる。その人は俺たちより若いかもしれないし、人類を変えるような人かもしれない」
 だから、つながってるよ――彼はまっすぐ見つめてそう言った。そして、熱弁したことを恥じらったのか、はにかんで目を伏せる。それでも紗希の胸には、まっすぐ見つめた彼の目の光がずっと宿っていた。高鳴る鼓動が酩酊のためであってくれと願いながら、ぎゅっと胸を押さえた。
 その後幾度も杯を干し記憶は曖昧だったが、その時彼からもらった言葉のいくつかは、酒精に霞むこともなく今でも紗希の心に息づいている。青臭い理想論をぶつけてもわかってくれるのが嬉しくて、何度も目頭が熱くなった。「泣くほどか」と苦笑した彼の瞳もどこか温かく揺れている。その揺れる光に、胸が射られたように痛んだ。
 気づけば明け方で、彼は平謝りしながらタクシー代を渡してくれた。まだ夜気の残る深々とした冷気の中で、わずかに触れた手のぬくもりを、そのまま離したくないと思ったことを思い出す。
 思えばその時すでに、紗希は彼に惹かれていたのだ。その痛ましいほどの実直さに。触れれば熱いほどの情熱に。
 それからは、仕事で納得できないことがある度に、お互い一杯誘い合う仲となった。
 彼への想いを自覚するのに時間はかからなかった。始めは言葉の内容に寄せられていた意識が、酔いが深まるにつれ、低く穏やかな彼の声に、そしてその声が発せられる形の良い唇に惹きつけられていく。
 グラスを持つ繊細な指先、脚を組みかえる気だるげな仕草、ボタン一つだけ開けられた襟元に、つい心乱れる。くっきりした二重、瞼を伏せると影を落とすまつ毛、いつも不思議な光の宿っている瞳に、釘付けになる。
 社内の女性たちの間で、彼が美男だと噂されていることは紗希も知っていた。彼の風貌は華やかではないが、驚くほど整っている。ネイビーのスーツがすらりとした長身に映え、艶やかな髪に涼やかな目元、凛とした薄い唇は彫刻のようだ。それでも彼が女性たちに持て囃されないのは、その長身と意志の強い瞳が、どこか威圧的な印象を与えるせいだろう。
 また仕事で見せる苛烈なほどの清廉さと義憤も、彼を近寄りがたい存在にするのに十分だった。彼は会議を延長させ、日和見の上司に噛みつき、怠惰な同僚を非難する。理想家で潔癖、融通が利かない。周囲にも己にも厳しい。いつも気難しげに眉根を寄せていて、ほとんど笑顔を見せることもない。噂には上っても、個人的な関係を持とうとする女性はいなかった。
 紗希自身、同じように見られがちなのでよくわかる。身長も低く華奢な紗希は、おとなしくしていれば可愛いらしい外見と言えなくもない。しかし生真面目さと正義感、黙っていられない性格が災いして、勝気で生意気な女だと思われることが多かった。女友達からも、周囲に合わせられない痛々しい子として敬遠されてきた。それでも信念か人間関係かでいえば、いつも彼女は信念を取った。
 その気概と孤独が、彼にも同じく宿っている気がしていた。
 優成は彼女の外見についても内面についても、一度も軽んじるどころか、値踏みすることさえなかった。それは、女性として見られていないということかもしれない。だがそれよりもむしろ女であることを気にせず仕事仲間として尊重してもらえることがうれしかった。
 彼を意識し始めてからは、女として愛されたいと思わなかったといえば嘘になる。しかし、たとえ恋人になれなくてもいいとは思っていた。ただ彼の近くにいたかった。声を聞き、言葉を交わし、心を通わせていたかった。彼は自分を理解してくれる。自分は彼を理解できる。交わす言葉に、視線に、表情からそれを感じるたびに、思いが募っていった。
 そんな調子だから、紗希は自分の方からはっきりと真正面に告白することにした。会社帰りに行きつけの居酒屋につくなり、素面のうちにしておきたい話があると持ち掛けた。
「好きです。もしよかったら、付き合ってほしいです」
 台詞に凝る余裕もなく、ただ飾りのない言葉をぶつける。
 優成は目を丸くして、しかしその精悍な頬に淡く朱が差した。そんな表情がまるで映画の光景のように、紗希の心に美しく焼き付いた。
 そして彼の口元が柔らかく綻んだとき、紗希はこの上なく幸せに感じたものだ。
 しかし、彼の返事は、少し違和感のあるものだった。
「俺は……君を失望させるかもしれない」
 いつも毅然とした彼のどこか気弱な言葉が、少し気にかかった。その違和感は棘のように紗希の胸に残り、そのせいか彼女はずっと彼にどこか遠慮していたような気がする。結局、別れを告げられたその時ですらも。
 そうして恋仲になって初めて、優成の危うさが目に入るようになった。
 初めて家に招いて食事を振る舞い、あわよくば甘い時間をと目論んでいた時のことだ。二時を過ぎても彼は、PCから目を離さない。
「ねえ、まだ寝ないの?」
「ああ。先に休んでくれ」
 その時は、その日だけのことかと思った。しかしそういうことが重なって、彼が基本的に睡眠を日に四時間程度しか取らないことがわかってきた。それにいくら疲れ、酩酊しても、彼はどこか張りつめているものを崩そうとしなかった。二人で過ごす時間を重ねても、恋人らしい触れ合いはほとんどない。
(私といても、落ち着かないのかな……)
 心を許してもらえていないせいかと、気を揉んだ。何とか打ち解けてくれるよう腐心するが、紗希も元々愛嬌はない。わざとおどけたり甘えたりしてみても、どうもうまくいかなかった。そうやって近づこうとすればするほど、彼が心に引いている一線が際立って感じられてくる気がした。
 プライベートな時間までも、彼は何かに追われているかのようだ。好ましく思えていた仕事への情熱も、危ういものに見えてきた。彼は、飽和してしまいそうな何かを胸に秘めている。紗希はそう感じるようになっていた。それが何なのかは、わからなかったが。
 そして初めて口づけを交わした日、その違和感は確信へと変わった。
 それは、『COR』の大きな新企画がリリースされた日だった。苦労が報われたことをチーム全員で喜び合い、打ち上げに繰り出した。夜半過ぎ、全員強か酩酊して解散する。紗希は上機嫌のままふらふらと歩き出そうとしたところを、優成に手を取られた。
「大丈夫か?」
「んん? そんなに酔ってないよ」
 そう言いながらも、彼の方を振り向くときに視界がぐるりと揺れた。傍から見るとおぼつかない足取りが一目瞭然だったようで、彼はふっと苦笑する。そして、不意に真剣な表情になって、ためらいがちに口を開いた。
「……もう少し、一緒にいたいんだけど、いいか?」
 彼の口からそんな甘美な言葉を聞くのは初めてで、鼓動が高まった。
 そのまま彼の家に誘われ、二人きりでもう一度祝杯を上げる。家に呼ばれるのは初めてではなかったが、何だか妙に意識してしまい、邪な思いを打ち消すようにビールを流し込んだ。優成はグラスに少しだけ口をつけると、大きく息をついた。
「まさか、無事リリースできるとは……」
「間に合わないかと思ったよね」
「昨日の夜までは完全に無理だと思ってた」
「でも、前日に社員二人完徹して体裁整えたのは、間に合ったって言わないからね、本当は」
「……肝に銘じる」
 冗談交じりに皮肉を言うと、彼も眉を下げて微笑う。二人というのは紗希と優成のことだ。夜通し会社に残って最終チェックに挑み、そのおかげで何とか予定に合わせてリリースできた。そのせいで今日は二人そろって寝不足の上、深酒も手伝って、宴会の途中からはお互い妙にハイだった。
「付き合わせて悪い」
「あれ、知らなかった? 私、残業好きなの。優成と同じ」
 澄まして見せると、優成はふっと噴き出して、子供のように笑う。心なしか今日の彼はやわらかい雰囲気を帯びているような気がした。彼が気を許してくれているように感じられて、紗希は嬉しかった。
 そう思って見つめていると、ふと目が合う。その瞬間、ぴりりと何か電流のようなものが二人の間に走った気がした。彼もそれを感じたのだろうか。ただじっと見つめたまま、何も言わない。
 やがて彼は目を伏せ、どこか悲しげな声で言う。
「紗希のおかげだ」
「そんなことないよ、一番頑張ったのは優成でしょ」
「違うよ……」
 床に投げ出していた手に彼の手が触れ、指が絡められた。
「紗希のおかげだ、何もかも」
 内省的な声でつぶやかれた言葉に、鼓動が跳ねる。
「優成?」
 問いかけた瞬間、肩を引き寄せられ、気づくと彼の胸に抱きしめられていた。息をするのも忘れ、体がしびれたように熱くなる。
 彼の指先が髪から頬を滑り、優しく顎を捉えた。紗希は期待に胸を高鳴らせながら目を閉じ、身をゆだねる。
 やわらかな唇が触れあった時、甘美な電流が背を走る。触れるだけの厳かな口づけが、戦慄するほどに嬉しかった。
 どちらからとなく唇を割って舌を絡め、お互いの隙間を埋めるように深く唇を重ねていく。彼の背に手をまわし縋るように掻き抱くと、彼が熱い吐息を唇に零す。その艶めいた音色に、一層情欲を煽られた。触れた場所から溶け合ってしまうほど熱く、紗希は甘美な口づけに酔った。
 彼の手がするりと背を撫で、腰をそっと支えて優しく横たえられる。互いの吐息が速く熱くなり、体の奥に炎が灯るのを感じた。
「紗希……」
 掠れた切ない声で呼ばれ、それだけで体が震える。これほど彼を近く感じるのは初めてだ。満ち足りた思いで、触れられた場所から伝わってくる熱に身をゆだねる。大きな熱い掌が、愛しげに彼女の曲線をたどっていく。口づけが首筋からはだけた襟もとへと落とされた。そのまま、素肌に触れてほしい――そう思った瞬間、不意に彼の手が止まった。
「……?」
 問いかけようとしたとき、彼はすっと身を離してしまう。その顔はなぜか青ざめていて、視線は所在なくさまよっている。
「どうしたの?」
「何でもない……ごめん。こんな、急に……」
「急なんて……」
 むしろ恋人同士にしては遅すぎるくらいだ。持ち前の堅実さで気を遣いすぎているのではと思い、彼の袖をつかむ。
「ねえ、私は――」
「違うんだ」
 食い下がろうとすると、はねつけるように言われて思わず体が固まってしまう。言葉を失っている彼女に気づいて、優成はばつが悪そうに目を泳がせる。
「ごめん、俺が悪い。今日は、ここまでにさせてくれ」
 その言葉で何となく、体調のことかと察しがついた。それほど恋愛経験が豊富なわけではないが、男性に不調の時があることくらいは弁えている。飲酒時はその兆候が強くなるということも。
「うん……大丈夫だよ」
 別に体を繋げることだけが愛ではない。気にしていない、と伝えるために笑顔を作ると、彼も緊張を解いたのがつかんだままの手から伝わってきた。
「その代わり、一緒に寝ない?」
 悪あがきで軽く言い添えてみると、彼は力なく笑みを返して了承してくれた。
 先に入浴を済ませると、ベッドでまどろみながら彼を待つ。一息つくと疲れがどっと押し寄せてきて、意識を保つのが大変だった。それでももし入浴から戻った時に紗希が寝ていたら、優成は同じ床に入ってくれないのではないかという気がする。ただ寄り添って寝たいがために、紗希は必死に睡魔と戦った。
「寝ててよかったのに」
 彼の足音でまどろみから覚める。見下ろす彼の微笑はどこか疲れて見えた。
 ブランケットを上げて手招きすると、優成はぎこちなくベッドに入った。そっと抱き寄せられると、彼の肌から石鹸が香る。伝わるぬくもりと鼓動に、胸が安らいだ。
(こうしてるだけでも、幸せだよ)
 それを伝えたくて、回した手で彼の背をそっと撫でた。身の奥を焦がしていた熱も、次第に落ち着いていく。
 口づけしたとき、彼と確かに心が触れ合っているのを感じた。それだけで大丈夫だ――と、この時は思っていた。
 
 しかしその後も、優成と口づけ以上先に進むことはできなかった。そして数か月経った頃、ついに心因性のEDであることを告白された。
「本当なら付き合い始める時、言うべきだった。でも、紗希といるのが心地よくて……ここまで曖昧にしていて、すまなかった」
 そしてその流れで、ほとんど当然と言わんばかりに、別れを切り出された。
 EDだという以上に、紗希にはそれがショックだった。体を繋げなくても、傍にいる意味はあると思っていた、その思いが否定されたような気がした。
 体の関係はなくてもいいとか、治療薬もあるはずだとか、食い下がろうと思っていた気持ちが、あまりにもあっさりと別れを切り出されたことで萎えてしまった。
 そのくせ、泣くだけ泣き腫らして今に至る。
 仕事上ではこれまで通りよき仲間でいたいと言われて、彼のスタンスが少しだけはっきりした気がした。体を繋げない以上、恋人である必要はない。その判断は紗希を気遣ってのことなのだろう。そう思うと、無性に腹が立つ。まるで彼女は体目当てに彼と付き合った、と思われているようなものだ。
(そっちがその気なら、別にいいですし)
 体目当ての女ではないと、証明してやる。清き仕事仲間として職務に身を捧げ、優成以外に恋人を作るでもなく、余暇も趣味も持つことなく、それでも充実して楽しい時間を過ごしてやる。そうすれば彼も、少しは見直してくれるだろうか。傍にいることだけでも、許してくれるだろうか。
 こうして、紗希は真面目同士の意地の張り合いに、自ら勇んで突入したのだった。

(――つづきは本編で!)

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