作品情報

婚約破棄られ令嬢ですが鎧兜の美男旦那様と幸せに暮らします!

「結婚してから、夫に恋をしているなんて……」

あらすじ

「結婚してから、夫に恋をしているなんて……」

放蕩な王子に婚約破棄された挙句、愛人の悪だくみで新しい結婚相手まで強制的に決められてしまった公爵令嬢ブリジット。彼女に用意された結婚相手とは、常に兜で顔を隠した謎の辺境領主ディアミッドだった。野獣と恐れられる無口で厳ついその男を前に、とんでもない人に嫁いでしまったと震えるブリジット。だが夫婦の寝室で兜を外した彼は見張るほどの美形で……!

作品情報

作:小達出みかん
絵:唯奈

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本文お試し読み

一、婚約破棄された上に、次の嫁ぎ先を勝手に決められました

「ブリジット・ティレルギア! お前との婚約は、今日で破棄にさせてもらう!」
 シャンデリアがきらめき、楽団のワルツの流れる王家主催の舞踏会。
 その大広間の真ん中で、この国の第一王子・アンドリュー・サザンメスターはそう声を張り上げた。
 勝ち誇ったエメラルド色の目に、シャンデリアの灯りできらめく金髪。アンドリューは、今日もその見た目を生かした美しい白銀の衣装をまとっている。その隣には、ぴたりとくっつく小柄で愛らしい、ピンクのフリルドレスに埋もれんばかりの令嬢。
 そして、アンドリュー王子の前で青ざめて立ち尽くす婚約者のブリジット。あかがねいろの入った黄金色の髪に、深い真紅のドレスの彼女は、キラキラふわふわした目の前の二人とは対照的に、きりっとした上品な出で立ちだった。
(待って……どういうこと……?)
 ブリジットは混乱していた。
 アンドリューとブリジットの婚姻は、両家の都合によって決められた愛のないものだった。アンドリューはブリジットを『可愛げのない女』と見下し愛人を作り、ブリジットも彼にかまわず粛々と宮廷内の仕事だけをこなす。そんな関係だった。
 にもかかわらず、婚約破棄はブリジットにとって寝耳に水だった。
 愛はなくとも、契約は契約。それをお互いわかっていたから、仲が悪くとも二人は婚約をずっと続けていた。それなのに結婚直前の今になって、まさかこのアンドリュー王子が、そんな思い切った決断をするとは。
(もしかして、新しい愛人の方に、そそのかされて……?)
 ブリジットはアンドリューの腕にしがみつく令嬢をちらりと見た。ふわふわの子犬のような茶髪。小柄ながらもグラマラスな体型。ピンク色でフリルたっぷりの、しかし露出も多いドレス。
 すべてがブリジットとは正反対だった。しかし彼女はブリジットと視線が合ったとたん、嘲るようににまりと笑ったあと、くしゃっと悲し気に顔を歪ませた。
「ブリジット様、ごめんなさぁい。でも、たくさんイジメられて、私たえられなくなっちゃってぇ……」
 それも初耳だ。頭の中に「?」が浮かぶブリジットを、アンドリューは口汚く責め立てた。
「お前は俺のミルラを、ことあるごとにいじめていたそうじゃないか。俺に愛されないからといって――許しがたい所業だ!」
 いえ、そんな事しておりません。と言いかけたが、その前にミルラが立て板に水のごとくまくしたてた。
「ええ、そうなんですぅ。この前のコルサージュ・サロンのお茶会でも、お茶をかけられて、火傷して……っ」
 ひっくひっくと嗚咽を漏らしながら、ミルラが手で顔を覆う。その腕にはわざとらしく包帯が巻かれていた。
(ああ、あのお茶会……)
 ブリジットはそう言われてピンときた。
『コルサージュ・サロン』は、定期的に宮廷で開かれる、貴族の子女、または夫人のみが参加できる会合だった。
 このサロンは王家を中心とする貴族女性ネットワークの心臓で、その年のデビュタントの準備やお家同士のお見合い、果ては貴族間のいざこざの解決まで、さまざまな事が話しあわれる重要なサロンだった。殿方も陛下も一目置く、宮廷の影の権力機関、と言い換えてもいい。
 また、コルサージュ《婦人服》という名の通り貴族女性たちはそれぞれファッションにこだわり、贅をつくした装いでこのサロンへと出席する。ここから様々な流行が生まれる事もしばしばだった。
 とてもではないが、昨日今日、王子の愛人になっただけのミルラが気軽に足を踏み入れられる場所ではないのだ。おそらく入ろうとして、門前払いでもされたのだろう。
(ああもう、そんな事があったなら、扉係も私に報告してくれればよかったのに)
 たとえ相手が自分の婚約者の愛人であろうと、失礼はあってはならないのだ。それが貴婦人の社交の基本だ。
 ブリジットは毎回、未来の宮廷の女主人として、このサロンのとりまとめに苦労していた。
 海千山千の貴婦人たちを一同に集めれば、さまざまな面倒事が起こるのである。水面下のその調整や根回しに、ブリジットはとても気を使って臨んでいた。あちらこちらを訪ね、調査し、頭を下げる事もあった。
 それもこれも、『婚約者』という立場だからである。
 ――だから、この場もきちんと納めなくてはならない。でなければ、ブリジットの今後の宮廷の仕事に不都合が出る。
 何度目だろう。こうして理不尽な事を飲み下して、ぐっとこらえて事を進めるのは。
「こちらに何か無作法があったのなら、お詫びいたしましょう。ですがそちらのご令嬢にお怪我をさせるようなことはしておりませんわ」
「はっ、白々しい嘘を! 彼女の腕に、しっかり証拠が残っているというのに」
「身に覚えがありませんわ。それに、私がやったという証拠も……」
 しかしブリジットの言葉を遮って、ミルラが騒ぐ。
「ひ、ひどいわぁ。私が自分でやったって言うんですかぁ!?」
 舌ったらずの涙声で両目を擦っているが、涙はちっとも出ていない。しかしアンドリューは彼女を守るように抱き寄せて言った。
「この後に及んで、俺のミルラを愚弄するか! ……仕方ない。お前の名誉のために黙っておこうと思っていたが」
 ニヤリとアンドリューが笑い、ブリジットは嫌な予感がした。
 ――アンドリューの性格的に、何か罠を用意しているに違いない。それもブリジットを嵌める、屈辱的な罠を。
 ブリジットが身構えたその瞬間、柱の影から男が走り出して、ブリジットの足元に縋りついた。
「俺のブリジット! 一体これはどういうことだ……!?」
 恐ろしさに、ブリジットは思わずあとずさった。
(この人……! 見覚えがあるわ)
 藁色の髪に、灰色の目。ここ最近、ブリジットが宮廷に出入りをする際に、よく見かける優男だ。たまに声もかけられて迷惑していたが、ブリジットは無視してやりすごしていた。しかし、彼は信じられないことをのたまった。
「王子と別れたら俺と一緒になるって、言ってたじゃないか……!」
 渾身の演技で見上げてくる男を見て、ブリジットはすべて悟った。
(この男の人、アンドリューが私を嵌めるために用意したものだったのね……)
 彼の魂胆に気が付き、ぞっとしたブリジットに追い打ちをかけるように、アンドリューがせせら笑う。
「お前にも、愛人がいたとはな。しかもこの男一人ではなかった。ミルラを虐めたうえに、淫乱とは。とんだ悪女だな」
 あまりの言い草に、ブリジットはくらっと眩暈がしそうになった。
 ――生まれてこのかた、男の人と手を繋いだことさえない。ブリジットは婚約者という役割を重く受け止め、ずっとつつましく貞節を守り生きてきたからだ。
「私に愛人? そんなわけが……。アンドリューさまじゃあるまいし」
 その言葉に、アンドリューはいきりたった。
「ふん、都合が悪くなったら俺を攻撃するか! お前は昔から、澄まして威張ってばかり! 少しはミルラのように愛想よくしていれば、可愛げもあったものの……もう俺も、我慢の限界だ」
 小さくなってアンドリューにしがみつくミルラに対して、ブリジットはまっすぐ顔を上げて背筋を伸ばし、無表情のままだった。
 淡いピンクのドレスに包まれた可憐な令嬢と、真紅のドレスを纏いすっくと立つ婚約者。二人の見た目だけ比べれば、どう見てもミルラがいたいけで、可哀想なご令嬢に見える。
 ――ブリジットはまさに、高飛車で尻軽な悪役令嬢に仕立て上げられようとしていた。
 さらにブリジットを責めるように、アンドリューはトドメを刺した。
「この、役立たずの性悪女めが!」
 その言葉を浴びて、ブリジットの中に走馬灯のように今までの事が頭によぎる。
 今までの、宮廷内の力関係を把握し上手く取り仕切っていく心労。
 気まぐれで残酷なアンドリューから受けた、さまざまな妨害や仕打ち。
 戦地への慰問や貧しい地方への訪問など、大変な仕事をすべてアンドリューに押し付けられ、一人馬車に乗って様々な地を訪れ、慈善活動を行っていたこと。
 しかし、これだけ働いていても――誰もブリジットの頑張りを認めてくれないし、王子は感謝するどころか嘲っている。
「もうお前とは婚約破棄だ! 俺は真実の愛を見つけた。ミルラはお前の何倍も美しく気が利く。きっとお前よりもずっと有能で愛される王妃となるだろう……!」
 憎々し気にそう言い捨て、アンドリューは侍従がうやうやしく持ってきたクッションの上から、キラキラ輝くティアラを取り上げた。
「本日完成した、この王太子妃のティアラは、ブリジットではなくミルラにこそふさわしいと、俺はここで宣言する!」
 周りがどよめく。今日のパーティーは、このティアラの完成お披露目と、第一王子アンドリューの婚姻の正式な決定を発表するパーティーだったのだ。
 ――それがこんな事になるなんて、きっと誰も想像していなかっただろう。
 プラチナとダイアモンドがちりばめられた美しいティアラが、ミルラの茶色の髪の上に載せられる。
 ミルラはちらりとブリジットを見たあと、くすくすと笑った。
「まああ、重たいですわ……でも、とっても嬉しいですぅ」
「そうか。お前が嬉しいなら、俺も満足だ」
 愛おし気な視線をミルラに向けたあと、アンドリューは勝ち誇るように言った。
「役立たずのブリジット、お前は今日でお払い箱だ。最後に何か言いたい事はあるか?」
 アンドリューは、残酷でわがままな王子だった。それはブリジットもよくわかっているはずだった。彼に愛されていないからこそ、ブリジットは宮廷内の仕事を頑張ってきていた。少しでも役に立つところを見せないと、将来宮廷で居場所がなくなってしまうという危機感からだった。
 しかし今、ブリジットの今までの努力は粉々に踏みにじられた。
 見守る貴族の中にも、ブリジットを擁護してくれる人は一人もいない。今までブリジットの味方をしてくれていた人たちは、今日は招待されていなかった。
(殿下が手をまわしたのね。自分に都合よく、このお披露目会を進めるために)
 周りには、アンドリューの息のかかった人々しかいなかった。彼らは冷たくブリジットを見つめている。ブリジットの不貞が嘘だろう真実だろうが、これに付け込んで窮地に追い込もうという算段だろう。
 ブリジットが不貞などするはずのない生真面目な性格であることも、今まで身を粉にして働いてきたことも――。彼らにとってはどうでもいいことなのだ。
 それがわかって、ブリジットの中で何かがふつっと切れた。
「……そうですか。承知しました」
 怒りも反論もせず、ブリジットは軽く頭を下げた。
「お二人ともどうぞお幸せに。私はこれにて失礼させていただきます」
 ブリジットは二人に背を向け、大広間の出口に向かって歩き始めた。
「お……おい、待て!」
 後ろからアンドリューの呼び止める声が聞こえるが、もう従う必要もない。
 ――だって、もう婚約者じゃないんだから。
 しかし、ブリジットの前に衛兵が立ちふさがり、退路をふさがれた。
「まだ何か?」
 無表情でそう振り返ったブリジットに、アンドリューは一瞬悔し気な顔をしたが、すぐににやついて笑い始めた。
「俺は優しいからな。婚約破棄後、お前と結婚したがる男などいないだろうから、俺がじきじきに次の嫁ぎ先を決めておいてやったぞ」
 今度こそ、ブリジットの顔からすべての表情が抜け落ちた。 
 それは、絶望の表情だった。
「あっははは! いい顔だなぁブリジット。教えてやろう、お前の未来の旦那様の名前は――北の野獣、アドトリス公ディアミッドだ!」
 その言葉に、固唾を飲んで見守っていた周りの貴族たちから、どよめきが上がる。
「アドトリス公だって……!? 兄を殺して領主の座についた、あの……!?」
「噂を聞いたわよ。なんでも敵を全員串刺しにして、城の前に晒してみせものにしたとか」
「二目と見れない恐ろしい顔をしていて、兜を脱いだことがないそうだぞ」
 さまざまな囁き声が、ブリジットの耳にも聞こえてくる。
 ブリジットも、彼の噂だけは聞いた事があった。
「どうだ? 嬉しいだろう。行き遅れずにすんで」
 にこにことそう言うアンドリューに、ブリジットは切れ切れの声で対抗した。
「わ、私の家に相談もなく、そのような取り決めは無効ですわ……!」
「悪いが、これは王命だ。今頃お前の家にも、報せがいっているだろう。そうそう、悪女の父を宰相の地位につけておくわけにはいかない。ティレルギアには宰相の任から降りていただく」
 こんな濡れ衣で、父まで糾弾するつもりなのか。ブリジットは息をのんだ。断じて、受け入れるわけにはいかない。しかし、アンドリューはそんなブリジットの気持ちを見透かすように笑った。
「逆らえば、ティレルギア家は……わかるな?」
 アンドリューがぱっと羊皮紙をブリジットの目の前に突き付ける。ディアミッドとブリジットの婚姻を結ぶ文言の下に、陛下のサインと玉璽が押してあった。
「嘘……」
 サインが本物であることを確認して、ブリジットの膝から力が抜けた。
(陛下も、私を見捨てたというの……?)
 アンドリューとブリジットの婚約を取り決めたのは、陛下だった。しかし数年前まで元気だった壮年の王は、今は病がちで、臥せっている日も多い。ブリジットの頭に、一つの可能性がよぎる。
(まさか……弱った陛下を騙して、サインをさせたのかしら……?)
 しかし、その証拠などない。あったとしても、アンドリューは尻尾をつかませなどしないだろう。やっと王が衰え、邪魔なブリジットを追い払えるチャンスがきたのだから。
 ふらりとよろけたブリジットを、誰も支えてくれる人もいない。
 アンドリューは高らかに笑う。
「はははは! せいぜい貧しい雪国で、野獣の夫と仲良くするんだな! 悪女のお前にはそれがお似合いだ!」
 
 ――ぜんぶ、悪夢みたいだ。
 ブリジットはそう思いながら、アドトリスへと向かう馬車に揺られていた。父は見送りの際、涙ながらに言った。
『殿下が手をまわして、私は宰相の地位を追われてしまった。陛下にお会いして話さなければと思ったが、療養所の敷居もまたげなかった……。私のせいだ、ブリジット。申し訳ない……生きているうちに、おまえとこんな別れをしなくてはいけないとは』
 王籍から降嫁してきた母を亡くしてから、ティレルギア家は父とブリジット二人で支えてきていた。陛下は優秀な父を気に入って宰相にし、ブリジットもアンドリューの婚約者に取り立ててくれたが、アンドリューは逆に、ブリジットを気に入らなかった。
 しかしブリジットは父の立場も考え、必死に婚約者の立場を維持しようと努力していた。
(でも、ダメだった……もし、私がもっと殿下に気に入られていれば、こんな事には……)
 そう思うと、自分の責任と、父への申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。
 陛下が弱った今、アンドリューはティレルギア家をつぶすつもりなのだ。父は職を追われ、ブリジットは都から追放されてしまった。ブリジットを目の敵にしていたアンドリューは、ティレルギア家と親しくしていた貴族たちも、どうでもいい理由で次々と左遷させたり、謹慎を申しつけたりしていた。
(私たちは、殿下との政争に負けた、ということ。陛下……お父様……もう、二度と会えないかもしれない……)
 王都を出て、北へ向かう街道にずっと揺られていると、どんどん気持ちが暗くなっていく。さらに不安なのが、これからの行く末だ。
(アドトリス公、ディアミッド……一体どんな人なのかしら)
 公務でアドトリスに足を踏み入れたことはあったが、領主である彼には会ったことはない。
 噂でしか知らない、まったく初対面の男性だ。ディアミッドの方にしても、ブリジットの顔など知らないだろう。
 一体彼は、どういうつもりでブリジットとの婚姻を決めたのだろうか。
 アンドリューに押し付けられた?それとも、別に何か理由があるのだろうか。
 ブリジットは推測を巡らせた。
(ディアミッドは数年前に、兄・グレゴリーとの争いを制してアドトリス公の位置に収まった……)
 兄は領主としては暴君だったと聞いている。しかし、グレゴリーは正嫡子だった。彼の母はブリジットの母と同じ、サザンメスター家の子女。グレゴリーには王家の血が流れている事になる。
(一方で、母親が違う弟、ディアミッドには、王家の血は流れていない)
 ブリジットの中で、パズルを組み立てるように推理が繋がっていく。
(つまり――王家は、新・アドトリス公のそばにも、王家の息のかかった誰かを新しく送り込む必要があったってことね)
 とつぜん代替わりした地方の領主を離反させないための『政治的政略結婚』。それに、ブリジットを捨てる口実を探していたアンドリューが飛びついて、ごり押しで嫁入りを決定した。そんなところだろう。
 暴君の兄を倒し、新しく領主の座に就いたディアミッドは、王家の息のかかったブリジットを寄こされて、どう思うだろう。
(……ディアミッドにとって私とは、倒したグレゴリーと同じ、サザンメスター家の血が流れている人間なんだわ……)
 その事に思い至って、ブリジットの背筋はすっと冷たくなった。
 きっとディアミッドは、サザンメスター家の事を良く思っていないに違いない。いや、もっとはっきり言えば、憎んでいる可能性がある。
(だって、きっとディアミッドは、正嫡の兄に比べて冷遇されていたに違いないわ。母親の出自が、サザンメスター家ではないから、と……)
 そんな彼が、ブリジットを温かく迎え入れてくれるとは、到底思えない。
(ああ、私……また)
 どこへ行っても、ブリジットの扱いは今までと変わらないのかもしれない。
 そう思うと、ブリジットの胸に無気力さがひたひたと広がる。
 宮廷でも、そうだった。身を粉にしてさまざまな仕事を引き受け、嫌な顔をせずにもちこまれる頼み事を引き受け、トラブルの解決もしてきた。
 ブリジットは、決してアンドリューに愛される事を期待はしていなかった。あの王子にそんなことを求めるのは、無駄なこと。だからせめて、仕事だけは認めてほしい。そこだけは、役にたつ妻だと認めてくれればいい。そう思って、一生懸命やってきた。
 けれど、その結果がこれだ。
(きっと……きっとアドトリスでも、似たような事になるんだわ)
 価値がないと蔑まれ、夫に初対面から嫌われ、いくら頑張っても冷遇される毎日。しかも今回はもっとひどい。だって会う前から、おそらくディアミッドはブリジットを憎んでいるのだから。それも『生まれ』という、努力ではどうにもならない部分を。
 しかし、アドトリスでどんな待遇を受けても、ブリジットは帰るわけにはいかないのだ。
 この婚姻は、王命によるもの。逆らえば、ティレルギア家は取り潰しの憂き目に合うかもしれない。ブリジットの結婚が破綻したら、アンドリューに攻撃の口実を与える事になる。
 アンドリューとミルラは、ブリジットが逃げ帰ってくるのを今か、今かと待っていることだろう。
(アンドリュー王子は……衰えた陛下と一緒に――邪魔なティレルギア家そのものを、排除するつもりなのかもしれないわ)
 だから、彼のかけた罠にかかるわけには、いかない。ブリジットはなんとしてもアドトリスで持ちこたえて、ディアミッドの妻という立場にしがみつかなくてはいけないのだ。
 たとえ、ディアミッドにいくら嫌われていたとしても。
 そう思うと、ブリジットの身体に、絶望が広がっていく。目の前が真っ暗になって、じわじわと首を絞められるように、息が苦しくなる。
(今までずっと、アンドリュー王子に嫌われて、冷たい扱いを受けていたけど)
 これからも、それが変わらないのか。ずっと耐えて耐えて、耐え続ける、こんな針のむしろのような生活が続くというのか。
 多くは求めていない。ただ穏やかに、安心して暮らしていきたい。それだけがブリジットの望みであったのに。
(私が安心して過ごせる日なんて、もう二度とこないのかしら……)
 この先死ぬまで続く、踏みつけられる生活。誰にも認められず、愛されることもなく――。
 それを思うと、ブリジットは眩暈がして思わず口元を押さえた。
 胸の中に何か詰まったみたいに息苦しい。吐き気がする。
「と、めて……」
 かすれた声で、御者に声をかける。ブリジットの異変に気がついて、馬車が停まった。
「少し……外の空気を吸わせて」
 かすれる声でそう言い、ブリジットはショールを一枚羽織って馬車から出た。
 少しの間でいい。立ち止まって、一人になる時間が欲しい。ブリジットは馬車を少し離れた木の下に腰かけた。
(寒い……)
 あたりを見回すと、木の葉の落ちた枯れ木ばかり。見るからに寒々しい裸の梢の間を、冷たい北の風が吹き抜ける。ブリジットは胸の前でぎゅっとショールを握りなおした。
 指先から、爪先から。じわじわと冷えていく。風に吹かれ、その冷たさを感じながら――ブリジットの頭に、ふと魔が差す。
(このまま一晩ここに座っていたら――凍死、できるかしら)
 もしそれが可能なら、いっそ、そうなってしまえばいいのに。
 疲れたブリジットの胸の中で、そうささやく声がする。
 ブリジットは後ろの馬車を振り向いた。御者も、ついてきた少ない使用人も、今は誰もブリジットの事を見てはいなかった。
(今のすきに――この森の中で、姿をくらませれば)
 ブリジットの望みは、叶うんじゃないだろうか――。
 ブリジットの心に悪魔がささやいた、その時だった。地面がかすかに震えている音を、ブリジットの耳がとらえた。
(何……この音?)
 後ろを振り返ると、馬を駆る荒くれ者の集団が迫ってきていた。
「姫さま! あぶないッ……!」
 御者も気が付き、殺気立った声でブリジットに呼びかける。使用人たちが、ブリジットの元へと駆け付ける。
 しかしその前に、ブリジットは馬に乗った男たちに囲まれていた。その数、四騎。
「おい、きっとこいつが王家からよこされた姫だ。間違いない!」
 男たちは、じろじろと下卑た目で馬上からブリジットを見ろした。
「へぇーぇ、あいつ、こんな美人を嫁にとるつもりだったのかぁ」
「でも残念だったなぁ。あんたもうお嫁にいけないぜ。ひひっ」
 聞くに堪えない卑劣な笑いが、その場で起こる。ブリジットはぞっとして、逃げ道はないかあたりを見回した。
「おおっとお嬢ちゃん、そんな事したって無駄だぜぇ? 俺たちから逃げられるとでも思うか?」
「大丈夫、やさしーくしてやるよ」
「いいねぇ、その怯えた表情……深窓のお姫さまってのも、へへ、たまんねぇな」
 髭を黒々と生やした禿げ頭の男が、馬上から手を伸ばして、ブリジットの手を掴んだ。
「ひっ……!」
 ブリジットを馬上にさらって拘束し、男は居丈高に命令した。
「おい、お前らはそっちの使用人たちをやれ。俺は姫様に一番乗りだ」
「ちぇっ、了解ボス」
 ぶつくさ文句を言いながらも、残りの男たちが馬車の方へと馬を走らせる。  
 ブリジットは必死に叫んだ。
「お願い! 皆には手を出さないで……!」
 すると男はにやにやと笑ってブリジットの顎に手をかけた。
「ふうん、自分には手を出してもいいってか?」
 その濁った野卑な目を、ブリジットはきっと睨み返した。
 自分は、どうなってもいい。さきほどまで、死ぬことを考えていた身なのだ。
 けど、何の罪もないついてきただけの人々を殺されるのは、絶対に嫌だった。
 もはやブリジットには、プライドも何も残っていなかった。素直に頭を下げる。
「なんでも、します。私を好きにしてかまいませんから、どうか、彼らは……」
 すると男はぐいっとブリジットの手首をつかんでひねりあげた。
「へーえ、素直に俺たちにやられるって? でもそれじゃあつまんねぇな。俺は泣き叫んで嫌がる女を無理やり従わせるのが趣味なのさ!」
 びりっと嫌な音がして、ブリジットのドレスの胸元が裂かれた。コルセットに覆われた胸が露わになる。ブリジットの身体を掴んで、男は馬車に躍りかかる男たちに目をくれた。
「よしお前ら、一人こっちに連れてこい!」
 無理やり引きずられるようにして、唯一ついてきてくれた侍女・リリーがブリジットの前に連れてこられた。青ざめていながらも、その目は男たちを反抗的ににらみ返している。
 ブリジットを掴む男は、目を細めた。
「ふうん、ちょっと惜しい気もするが……まぁ年増だし、いいか」
 リリーの首に、サーベルがあてがわれる。ブリジットは我を忘れて叫んだ。
「やめて――――っ!」
 するとブリジットの胸元に、ひやりと刃物が当てられた。
「うるさいなぁ。そうだ、お前の左胸を切り落とそう。それで叫び声を上げなかったら、この侍女は逃がしてやるよ?」
 鎖骨の下の柔らかな肌に、刃がぴたりと当たる。ブリジットの身体に怖気が走った。
「っ………!」
 男の目には、ブリジットの怯える反応を楽しむ光が浮かんでいた。ブリジットは恐怖に目を見開いた。この男、ただの暴漢ではない。女を苦しめて楽しむ、サディストだ。きっと、楽に死なせてはもらえないだろう。
 好きにしていいとは言ったが―――まさか、こんな目に遭って死ぬなんて。
 恐怖のあまり固まってしまったブリジットに対して、男はかかと笑った。
「抵抗ひとつしないか。さすがは王家の女。いじめがいがありそうだ――さぁ、どこまで頑張れるかな?」
 そう言って、ぐっと刃に力が入った。ブリジットは、歯を食いしばった。
(――ああ、浮かばれない人生だった。でもリリーたちは、どうか逃げて……)
 その時。どこからともなく一頭の黒馬が現れ、目にもとまらぬ速さで、ブリジットの目の前を疾走していった。
「っ……!?」
 気が付いたら、ブリジットは髭男の手からかっさらわれ、大きな腕に抱えられて、黒馬の上に居た。
(!?)
 驚いて振り向く。ブリジットを抱えていたのは、筋骨隆々たる、兜をかぶった男だった。
 さきほどブリジットを脅した髭男が、馬から落ちている姿も見えた。その背中からは、血が噴き出している。
(ど、どういう、事……!?)
 あまりに一瞬の出来事で、ブリジットは混乱した。
 ブリジットを抱えたまま、兜の男は次々と大剣で暴漢たちをなぎ倒していく。刺されて斃れる者、馬の下敷きになる者――どの馬も、どの悪党も、兜の男に比べれば一回り小さく見えた。
 あっという間に暴漢たちを蹴散らし、黒馬はぴたり、と走りを止めた。
 兜の男が、首を下に傾け、ブリジットの顔を見る。
 どんな表情かは、見えないからわからない。しかし兜の隙間から覗く目が、ブリジットの目と合う。
(青い目――)
 一体この男は何者なのか。味方なのか。それとも彼も――ブリジットを殺しにきたのだろうか。
 恐怖と混乱が極まって、ブリジットの頭は真っ白になった。
(私を……どうするつもりなの……!?)
 緊張で、身体が極限まで強張る。
「おい」
 低い声がその兜から発された瞬間――ぷつんと張り詰めていた緊張の糸が限界を迎えて、ブリジットは、気を失った。

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