転生悪女の悪政転覆(クーデター)~暴君への鉄槌は秘め愛の君とふたりで~

「あなただけを想うわ。これは誓いじゃない。呪いよ」

あらすじ

「あなただけを想うわ。これは誓いじゃない。呪いよ」

婚約者との結婚を待つばかりだった幸福な伯爵令嬢スミス。だがスミスは突然、歴史書の中の世界へ転生してしまう。スミスが転生したのは、非道と名高い皇帝リヴァーサンの愛妾イザベラの身体だった。自身の命を守るため、皇帝の寵愛を受け続けるスミス。元の世界へ帰るべく偉大な魔術師カーティスの行方をつきとめるが、イザベラは彼ともただならぬ関係にあるようで…。

作品情報

作:ごろごろみかん。
絵:高辻有

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本文お試し読み

00

『きっと──だから──ていて』
 優しい声が聞こえる。私はその声を聞いてすごくほっとして、だけどすごく怖くて。
 恐ろしくて。その恐ろしさを自覚しながらも、泣いてしまった。
 限界を迎えていたのだと思う。
 どうして私が、と恨み言を零したのだって一度や二度の話ではない。
 誰が悪いのだろう? 誰が悪い? 
 果たして、本当に私が悪いのか。悪いのはあの男だけなのだろうか。
 終わらない苦痛は確かに私の精神を犯した。
 いまや、あの足音を聞いただけで吐き気がする始末だ。
 めまいがする。頭が痛む。新月の夜だけは救われた。
 だけど日々酷くなる倦怠感はやがて息苦しさを連れてきた。
 いっそ死にたいとすら考えて。
 だけどそれは周りの人を裏切る行為だ。
 私が、私自身で選んだ選択だ。
 その私が、それを選ぶことは許されない。無責任にも程がある。
 これは、誰に押し付けられた訳では無い。
 私自身が決めたこと。
 ただ、弱かっただけだ。自分が。私が。思った以上に弱くて情けなくて、心底憎い。

01
 
「……ん……もう朝……?」
 カーテンから差し込む煌々とした光は、もう今が朝だと如実に知らせている。
 思わず目を細めると、頭が僅かに痛んだ。
 さいきん、多いのよね。偏頭痛。何でかしら?
 鳥のさえずりがどこからか聞こえる。今日もまた、なんでもない一日がはじまるのだ。
 私の名前はスミス・ドアン・ワートソン。
 ワートソン伯爵家の一人娘だ。
 軽く腕を伸ばして、ベッドから降りた。するすると姿見の前に移動すれば、見慣れた女の顔が映る。薄桃色の髪にルビーのような瞳をした女の顔は冴えず、どこか弱々しく見える。 
 私は自分のこの見た目が非常に嫌だった。弱そうだから。ただ、それに尽きる。
 私のこの外見はどこか弱々しく、「私はこう思う」の一言すら言えないような臆病者に見えるのだ。
 初対面でどこか馬鹿にされるような目つきをされることは多い。
 いっそ、この髪が燃えるような赤であったなら。
 何色にも染まらない黒であったのなら。
 そう思うことは、日常茶飯事であり、そして朝の日課ですらあった。
「スミス様。起きてらっしゃいますか」
「おはよう。起きているわ。いい朝ね」
 本当はそんなこと、これっぽっちも思ってないのに。
 そんな言葉が滑り落ちた。
 家族揃って味気ない食事を囲む。朝食自体は豪華なものだ。
 我が伯爵家はそれなりの家柄で、歴史もそれなりに古い。
 伯爵家の中でも中堅的立ち位置だろう。
 貴族社会のピラミッドで上位にはいけないけれど、下位でもない。そんな、程々な立ち位置の家柄。
 私は運ばれてきたばかりのスープを口に運ぶ。心が忙しない理由は、ただ一つだ。
 家族全員が揃った朝食の席で、お母様からにこやかな声がかかった。
「スミス、お前に手紙が届いていますよ」
「本当?」
「ええ。送り主はローズベルト様です。良かったですね。後で持っていかせますから、お部屋で読みなさいね」
「わかったわ。ありがとう、お母様」
 ローズベルト。ローズベルト──。
 その名前を聞いただけで、色あせていた朝食の席が急に彩りを持つのだから、私は現金だ。
 それを自覚しながらも、私は淑女のマナーを守りつつ、なるべく早く食事をとった。
 逸る心を抑えて部屋に飛び込むと、私はすぐに侍女から受け取った手紙の封を切った。
 手紙にはローズベルトと記載がある。彼の字だ。
 嬉しい。胸がぽかぽかと弾む。
 ローズベルトは私の婚約者の名前だった。幼なじみで、昔、たいせつな約束をした。それを私は今も大事に、たいせつにしていて……。……でも、なんて約束したのかは忘れてしまったのよね。確か、結婚の約束だったと思うんだけど。
 記憶が昔すぎるせいか、約束したのが幼すぎたせいか。はっきりとした約束の言葉は思い出せないのだけど。
 封を切ると、ローズの手紙が現れた。ていねいに折りたたまれた手紙を開く。
 ローズの几帳面な文字が紙面に記されている。
 ローズは、隣国に勉強しに行っているのだ。ローズの家は公爵家。
 将来、家を継ぐことが決まっている彼は、子供の時にしか学ぶ機会のない国外へ、勉強をしに行ったのだ。
 成人してしまえば、国内の挨拶回りや仕事の関係で、勉強をするためだけに国外に行くことは難しくなるから。彼が出国する日はすごく悲しかった。
 だけど、彼の決めたことを応援しようと私は思ったのだ。
 手紙には、優しい言葉が並んでいた。
『愛しいスミス。きみは元気にしている? 僕は、けっこう楽しくやっているよ。毎日学ぶことが多くて正直、疲れる毎日ではあるけれど。早くきみに会いたいな。次の長期休みには、きみに会いに帰るよ。会える日を楽しみにしてる』
「!」
 思わず手紙を強く持ってしまい、紙面が突っ張ってしまう。
 手紙が破れてしまう、と焦った私は、それだけ自分が嬉しかったことを自覚した。ローズベルトが帰ってくる! 半年ぶりかしら? 久しぶりに会えるのが楽しみすぎて、私は今から彼が帰る日が待ち遠しかった。

 * * *

『どうして私ばっかりって、そう思ってしまうの。……だめね。そう考えてしまっては。……もう、嫌なの』
 落ち着いた女性の声が聞こえる。その女性は自嘲するように呟いた後、やがて何かを飲んだ。ごく、という嚥下の音がする。
『ふふ。ばかみたい。そういうことを言う女は、得てして『そんなことは無い』と否定してもらうのを願って──。ああ、でも私。もう、死んでしまいたい』
 そう笑ったその声は、確かに笑っていたのに、どこか泣きそうな音を孕んでいた。そして、派手なグラスの割れる音──。
「……!」
 はっとして起きると、まだ夜明け前だった。カーテンの隙間から見える空はまだ青く、夜の帳が落ちている。心臓の音だけが異様に速く、思わず胸を抑えた。ど、ど、と心臓が飛び出しそうな音。
「っ……」
 瞬間、頭が強く痛んだ。前から偏頭痛はよくあったけど、ここ最近は特に酷い。来週はもう、ローズベルトが帰ってくる日なのに。酷くなる偏頭痛に、私はため息をついた。そして、音を立てないように降りて、学習机の引き出しを開ける。中には頭痛薬が入っていて、偏頭痛を起こした時は飲むようにしているのだ。
 どんどん、飲む量が増えていく。空の包み紙が増えていく。
 良くない──。わかっては、いるのだけど。
 中身のなくなっていく薬の包み紙を見ながら、私はそれを見ないようにするつもりで、目を固くつむった。そして、薬を喉に流し込もうと──
「……! や……ッ」
 瞬間、ぐわり、と世界が揺れた。世界が揺れているのか、自分が揺れているのか、定かではない。
 だけど立っていられないくらいに揺れはひどく、思わず机に手をつく。
 その瞬間、机の上に置いておいた歴史書の本が手にあたり、バサバサとカーペットの上に落ちていった。何かが割れた音がする。
 それは奇しくも、先程聞いたグラスの割れる音に酷似していた。
 揺れは収まらない。立っているのもやっとで、机についた手がずるずると下に落ちていく。カーペットに膝をついたところで、先程落とした歴史書の本が開かれているのに気がついた。先程落とした衝撃で開いてしまったのだろう。
「う、ク……っ」
 頭が割れるように痛い。揺れも収まらないし、もういっそ、叫んでしまいたい。
 そんな中、頭をよぎったのは、いつの日か約束した、ローズベルトとの言葉だった。
『きっと────だから──ていて』
 あの時、ローズベルトはなんと言ったのだった? すごく優しくて、穏やかで、強い言葉だった。私はそれを聞いて、彼を信じようと──。信じ、よう……と? 
 開かれた歴史書の一ページが目に入る。
 それは、聖歴三二四年、皇帝リヴァーサン・ダイオナス5世が婚約者の姉、イザベラと婚姻を結ぶ場面だった。
〝そこから、ダイオナス王朝の終焉へと向かうことになった〟
 その一文が、激痛の中、はっきりと目に入った。

02

「ベラ、……イザベラ!」
「う……ん? あれ、わたし……」
 激痛のあまり、気を失ってしまったらしい。
 気がつくと私は、ベッドの上に寝かされていた。
 ぼんやりとした橙色の光は、私を案じて、光を絞ってくれているのだろうか。倒れたなんてきっと、心配をかけてしまった。
 来週訪れるローズだって──。
 そこまで思った時、私は頬をはたかれた。ばちん! という強い音がする。
「きゃっ……!」
「何をぼーっとしておる! お前の仕事は、ただベッドで寝てることではないだろうが! ええ!?」
 叩かれた衝撃で、頭がクリアになる。
 どこかぼんやりしていた思考がはっきりして、目の前に誰かがいることにも気がついた。
 男性だ。それも──お父様と同い年くらいの。
 そして、服を着ていない。それに気がついた時、悲鳴をあげそうになった。
 だけど、それを上回る衝撃が頭に走り、私は言葉を失った。
「なっ……!? なんで……」
「なんでとは何だ! 今日は、お前から誘ってきたんだろう! この小賢しい女め。そうやって男を虜にするのか。ん!?」
 戦慄く私は、何も言えない。
 なぜなら、目の前にいたのは、リヴァーサン・ダイオナス五世だったからだ。
 歴史書に印字された魔法公文で何度も顔を見たことがある。
 魔法を使って当時の人間の顔や姿を映した魔法陣は、何百年、何千年経とうと、その効力が失われることはない。
 その魔法陣が初めて生み出されたのもちょうど、リヴァーサン・ダイオナス五世が統治する世で、貴族の息子だという男が編み出したそうだ。
 それまで世において魔法とは治癒力や守護力を少しあげることは出来るが、それ以上のことはできない、いわゆるあってもなくてもそんなに変わらない扱いだったらしい。
 だけど、彼がその魔法陣を初めとした、攻撃魔法や治癒魔法を編み出したことで、世間の魔法への見方が大きく変わったと史実には記載があった。
 そんな内容が脳裏を掠めた。
 私は口を抑えた。
 目の前にいるのは、紛れもないリヴァーサン・ダイオナス五世。
 学校の試験で何度も目にしたことがあるし、授業でも、見たことがある。見間違えるはずがない。
 これは……何? なにかの、いたずら……?
「イザベラ! 何とか言え!」
 怒鳴り声が嵐のようにわんわんと頭に響く。
 だけど、衝撃が上回り、私は彼が何を言っているのか分からなかった。
 いたずらにしては手が込んでいる。
 それに、ダイオナス王朝はもう既に滅んでいるとはいえ、あまりにも不敬だ。
 屍人をいたずらに侮辱するなんて、許されることではない。
 沈黙を守るしかない私に、リヴァーサン・ダイオナス五世と思われる男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 そして、私を力強く睨みつけた。太い眉。つり上がった目元。クレヨンで塗りつぶしたような濁った黒い瞳。
 どうしてか、赤く充血している分厚い唇。
 顔の何割かを占めるほどに大きな鷲鼻。目玉はぎょろぎょろとしていて非常に落ち着きがない。
 そして、血色の悪い、黄土色の顔が、彼を異常者のように見せる。
 リヴァーサン・ダイオナス五世と思われる男は、舌打ちをした。
 思わず体がびくりと揺れる。男の視線が私から外れる。それに、心底安心した。この男は、こわい……。
「アレより自分の方が愛していると言って結んだ婚姻だ。不満はあるまい」
「……?」
 アレ……? 
 戸惑っていると、リヴァーサン・ダイオナスは突然腰を動かした。
 途端、下腹部に生々しい衝撃を感じる。
 にちゃにちゃと音がした。息を飲む。
「ええい、何か言え! イザベラァ! 口も聞けなくなったかァ!?」
「もっ、申し訳ありません……っ!」
 条件反射で謝った。
 今にも殴り殺してきそうな男を前に、混乱と衝撃で何も考えられなくなる。
 男は、ふん、と鼻息荒く答えた。
 そして、「消え失せろ、気がそがれた!」とまた大声で怒鳴り散らす。
 正直驚きと恐れと、未だに何が起こっているか分からない困惑で、腰が抜けていたけれど、男に蹴飛ばされてベッドから落ちた。
 体をしたたか身体を打つ。
 打った腰を確認しようとして、そこで、私は自分が裸だったことに気がついた。
「──!!」
 声が出ない。
 それに、太ももや足になにか、液体がついているようだ。
 ぬめりとした感触に、混乱と衝撃が限界値に達し、泣きたくなってくる。
 だけどすぐに頭上──ベッドから、「忌々しい女め。お前は悪女だ! たちの悪い娼婦めが!」という罵倒が飛んできて飛び上がって近くにあったローブを掴み、そのまま部屋を出た。
 しかし、咄嗟に飛び出したはいいけれど、どうすればいいのか。
 泡を食ったようにあわあわするしかない私は、狼狽えた。
 頭が真っ白の中、ふと陰部からどろりと何かが落ちる感覚がした。
 その生々しさにショックを受ける。そして、同時にその感覚が先程までの光景を否応なく思い出させて、考える間もなく目頭が熱くなった。
「……ぅ」
 涙がぼろぼろと我知らず零れてくる。それをぐい、と拭うけれど、心細さと悲しさがせめぎ合ってくる。嗚咽までこぼれはじめて、必死に手のひらを強く口元に当てた。
「く、ぅ……」
 廊下には誰もいない。
 だけど、誰かいたら。
 誰かに見つかったらいけない。
 ここがどこなのか分からないけれど、捕まったらいけない。
 なぜ私はここにいるのか。記憶を手繰るも、部屋で倒れてからの続きに覚えはない。
 時間にして数分にも満たない、わずかな時間。
 ふらりと目眩がして、思わず壁に手を着いた。
 手の着いた先は、壁だけれど、それは石壁なのだろう。ひんやりとしていた。
 石壁にはアラベスク模様の刻印が刻まれており、それは天井に吸い込まれるように高く伸びていた。
 唸るような頭痛が込み上げてきた。
 胃がムカムカして、吐き気がしてくる。胃の中でカエルが暴れ回っているかのようだ。
 次第に涙が落ち着いてくると、今度は少し冷静になって、自分が裸なのを思い出した。
 そして、早くこんなところから逃げなければいけないと思う。
 胸元を強く握りしめる。心細い心境の中、思い出すのは彼の顔だった。
 もうすぐ会えるはずだったローズベルト。彼は今どこにいるのだろう。
 ……とにかくここを抜け出す。
 抜け出して、そうして……。
 考えるも、私は裸だし、持ち物なんてない。
 金がなければどうにもならないことくらい、私だって知っている。
 持ち物がないのなら、頂くしかないわ。
 どういうわけか私はこの城──どこかの城だろう──に閉じ込められているようだ。
 どこぞの部屋から金目のものを奪って抜け出すしかない。
 捕まったら間違いなくひどいめにあう。
 だけど、このままここにいてもいいことはひとつもないだろう。
 方針を決めた私は、意を決して動こうとした。
 だけどその時、誰もいなかった廊下に声が響いた。
「妃殿下」
「!」
 今さっきまで誰もいなかった廊下に、振り向けば女性がたっていた。
 その服装は侍女のそれで、どこぞの貴族に召し抱えられているかのような、上品なお仕着せだった。
 振り向いた私に、彼女は頭を下げた。
 ばくばくと心臓が音を立てる。
 妃殿下? 誰のことを言っているの? 
 それともこの廊下に〝妃殿下〟と呼ばれる誰かがいるのだろうか。
 咄嗟に背後を伺うと同時に、お仕着せを着た女性が言う。
「お部屋に向かわれますか」
 それは冷え冷えとした、恐ろしいくらいに感情のない声だった。
 そして、私の後ろには誰も立っていない。廊下は寒々として人影すらない。
 私は、女性のその声の冷たさに戸惑った。
 彼女は顔を伏せていて表情がうかがえない。
 困惑する私に、侍女は言う。
「ダニエルをお呼び致しますか」
 だれ? そこで私はふとある可能性に思い当たった。
 どうやら、この女性は私を妃殿下と勘違いしているらしい。
 だけど、おかしい。私は内心首を捻る。
 私は妃殿下と見間違われるほど似た容姿はしていない。
 妃殿下は栗毛に緑目の、おっとりとした女性だ。
 私よりも背が低く、柔らかい雰囲気を持つ方だ。
 私とは似ても似つかない。
 ここは私が元いた国ではないの? 
 そういえば、私はさっき男の人とともにいた……。その男は、リヴァーサン・ダイオナス五世にとてもよく似ていた。
 もし、あの男が本当にリヴァーサン・ダイオナス五世だったら? 
 そうしたら私は、彼の生きる聖歴三二〇年代に時を遡ってしまったということだ。
 唖然として声も出ない私を、女性──侍女だろうか。彼女は辛抱強く待った。
 やがて、からからに乾いた声で、喘ぐように私は言った。
「部屋に、戻ります」
 それはあまりにも小さな声だったけれど、侍女は頭を下げて畏まるだけだった。
 侍女に連れられて向かった先は、今まで見た事もないほどに豪華な寝室だった。
 猫足の化粧棚に、華やかな雰囲気を作り出す豪奢な円形シャンデリア。光を乱反射させて、それはまるで宝石のような煌めきを帯びている。
 いや、宝石のようじゃないわ。あれは本物……。全部、クリスタルだわ。
 赤いベルベットの絨毯も細かく意匠が施されており、金糸を使用した刺繍がクラシック柄に繕われている。
 優雅な曲線美を描くドレッサーには楕円形の鏡と、それを支える黄金の台座がある。
 どこをどうとっても煌めかしい、目に痛い部屋だ。
 あまりにもきらきらしていて落ち着かない。どころか、赤と金をふんだんに使いすぎているせいか悪趣味にすら見えた。
 ひとつひとつはたいへんなお金がかかっているでしょうに、もったいないことだわ。
 私がそう思っているうちに、侍女と思われる娘が袖をまくり、どこぞから戻ってきた。
 部屋には彼女以外にも複数の娘がいた。
 みな、彼女とよく似ているお仕着せを着用している。
 少しずつ、分かってきたわ。彼女たちは王宮で仕える侍女。
 そして、私は彼女たちの主である皇妃の立場……と間違えられている。
 そして、皇帝は。
 リヴァーサン・ダイオナスということ?
 とてもではないが、信じられない。
 もし、突然ある日、リヴァーサン・ダイオナスの妻になったなんて話を聞いたなら、寝言は寝て仰った方がいいわ、と返すだろう。
 とんでもないことだわ。信じられる気がしない。
 だけど、直面している事実が否応なくこれは現実であり、事実であり、覆りようのない状況的証拠だとありありと突きつけてくる。
 頭が痛くなってきた。
 そうよ、あの男は私のことをイザベラと呼んだわ。
 恐怖で頭がろくに働いてなかったが、怒鳴られた名前は記憶に残っている。
 確か、リヴァーサン・ダイオナスの妻はイザベラという名前だったはず。
 それに、彼女は稀代の悪女として、史実では世の三大悪女に数えられている。
 そんな人物に成り代わってしまったと? 
 馬鹿馬鹿しいわ。おとぎ話じゃないんだから。
「お湯の用意が出来ました」
 娘の声に、私は視線をそちらにやる。
 訳が分からない状況の中、何も言う気にはならなかった。
 下手を打つと命すら危うい状況だ。
 だけどこのまま何も言わないのは不自然だと思い、ややあってから、イザベラの言いそうなことを必死に頭に描いた。
「いただくわ」
 ひとまず、ひとりになる状況を待つしかない。
 私はそれを狙って、入浴をすることにした。
 そうして、勇んで入浴したものの、湯船に浸かっている間にとろりと意識が掻き消えてしまった。
 娘たちの手を借りて、庭園ほどもある湯船にゆったりと浸かっていたところで、知らずして気を失っていたらしい。
 死神に魂を奪われるときって、こんな気持ちなのだろうか。
 瞼と瞼が深く重なる前に思ったことは、至極どうでもいい、莫迦げたものだった。
 

 * * *

「イザベラはどうしている」
 壮年の、渋く低い声が室内に響く。
 声の主は部屋の主にふさわしいどっしりとした構えでベッドの上に膝を着いて座っていた。
 その太い指先が持っているのはパイプ煙草だ。
 男は、煙草を吸うのは栄誉ある男には当然のことだと考えていた。
 その実、甘いものしか受け付けない男の舌には全く葉巻の苦味は相容れず、他者がいる場合にしかふかすことはない。
 周りの人間には周知の事実だったが、男はそれを知らない。
 もし周りの人間が知っていると悟ったのなら、悪鬼のごとく怒り狂い、さいごには悪魔へとその身を落とすだろう。戯れに人肌を切り裂くことを楽しみとしている男だ。
 男はどうしようもない残酷性と嗜虐の気を持ち合わせていた。
 見栄のために無理にタバコを吹かす男──皇帝に、低い姿勢をとった従僕は頭を床に擦り付けん勢いで平身低頭の様子を見せた。
「眠りにつかれたようです」
「フン。あいつも歳か? もう夜もまともに相手出来なくなったと申すか。それならまだアレの方がいい。アレはイザベラに比べて頑丈そうだ」
「……」
「さいきん、イザベラが男を部屋に招いていないことも知っておる。あの阿婆擦れ女め。あちこちの男に手を出し、股を開いているとは。全く、とんだ尻軽女だ。あの女はとっとと死んでしまった方がいい。その方が世のためさ。お前もそう思うであろう?」
 返答を求められた従僕は肩を強ばらせる。
 彼は知っていたからだ。
 この後の自分の行く末を。──とはいえ、黙っていては殺されるのが落ちだ。
 従僕はあからさまに声をふるわせ、上擦ったそれで、聞いている者の心臓を握り潰すような哀れさの滲む声音で告げた。
「そッ、そうおもッ……おもい、ます。……しかしっ! 陛下! わたくしめは!!」
 起死回生と言わんばかりに自己弁護に走る男だったが、皇帝は彼を一瞥するだけだった。
 そして、次の瞬間には男の首は落ちていた。
 あまりにも早い一撃に、男の顔が「え?」という疑問符をつけたままの表情で止まっている。
 ややあって、切断された首元から、血が吹き出した。
 皇帝が腰元に刺した剣で男の首を一閃したのだ。
 まるでよく出来たイリュージョンのように、軽快に男の首が跳ね落ちた。
 一拍遅れて迸る血しぶきを、皇帝と呼ばれた、残虐で無慈悲な男は瞬時に開いた扇で遮った。
 夜を拒んだ妃の代わりに寝台に連れ込まれた、運の悪い侍女──彼女は水差しの水を変えに来ただけである──は、それまで死んだように目を閉じていたが、生ぬるい迸りを受けて目を開けた。
 びしゃり、と。
「ん……?」
 目を覚ました娘の首には、生々しい跡が刻まれている。
 分厚いてのひらに絞められたと瞬時にわかる赤い跡をそのままに、侍女は息を飲んだ。
 ひ、と呼吸が零れて、それに気がついた皇帝が振り返る。それはさながら、快楽殺人犯のようであり、常軌を逸した異常者のようだった。

03
 
 朝、目が覚めて、知らない娘の顔を見て深く絶望した。
 自己嫌悪で胸がひっくり返りそうだわ。
 どうやら私は間抜けにも浴室で眠りこけてしまったらしい。
 貴重なひとりになれる時間をうかうかと眠って過ごしてしまったのだ。
 阿呆にも程がある。
 むかし、幼い頃にローズベルトと会う約束をして、だけど楽しみで楽しみで仕方なくて、結果その日高熱を出してしまった時のことを思い出す。
 私はあれから何も成長していないのではないかと思うと、胸がひりつくように痛んだ。
「お顔を拭かせていただきます」
「お髪《ぐし》にはどちらの香油を使われますか」
「窓をお開けいたします」
 娘たちはどれもこれも、複製コピーしたのかと思うほど無愛想で表情がない。
 感情という感情をごっそり抜け落としたかのよう。声音にも抑揚がなく、平坦で、よく出来た人形とでも話している気分になって、怖くなってくる。どうしてこうも統率の取れたようにみな、同じ様子なのだろう……。知らずして肌が泡立つと、それを目に留めた娘が淡然とした様子で声をかけてくる。
「お風邪ですか」
「いいえ。違うわ」
「念の為薬湯をお持ちします」
「侍医をお呼び致します」
「窓はおしめいたします」
 彼女たちが規則通りに動く中、ひとりの娘が手鏡を見せてくる。
「妃殿下、お顔をこちらに」
 それを何となしに眺めると、ふと違和感を覚えた。
 昨日の入浴はこれからのことを考えるのに必死だったから、気が付かなかったけど、だけど。明らかに私の顔には違うところがあった。
 ホクロの位置が、違うわ……。
 その時、鏡の中の自分がに、と笑みを描いたように見えた。思わず鏡を取り落とす。
 かしゃん。耳障りな音が響いた。
「妃殿下」
 それでも娘は変わらず、恭しい様子で取り落とした手鏡を拾った。
 私はもう一度恐る恐る手鏡を見る。
 鏡の中の自分は青ざめていた。目の下にうっすらと隈がある。桃色の髪。紅の瞳。先程のように笑ってはいない。それにほっとする。見間違えだったようだ。依然として変わらぬ顔の自分が写り込む中、だけど黒子の位置だけが違う。
 私は涙ボクロがあった。
 それは右目の下。だけど今の私は、左目の下にある。
 黒子が移動した? 
 そんな馬鹿なことある? 蕁麻疹じゃないのだから。私はじっと自分の顔を見つめた。目の前の女も気難しい顔をしてこちらを見返している。
 ほかになにか気づくことはないかと鏡を見ていると、ひとつだけ勘づいたことがあった。
 それは、いつもの私の顔と雰囲気が違う、ということだ。顔の作りは同じ。
 だけど、いつもの私はもっと気弱そうな、弱虫が前面に出たような。そんなちっぽけな存在だった。
 でも今の私は、黄金の椅子に座り、上から物を見ているかのような、強者の風格があった。
 これは、私ではない。強く感じる。
 じわじわと不安感が胃をせり上がってきて、私は足元が崩れていくような感覚に陥った。
 階段を登っていて、そこに地面があると。踏み台にする石があると信じて疑っていなかったのに、それは実はただの見せかけで、本当は紙でできていたと気づいたかのよう。
 ぽっかりと暗い穴蔵に落ちていくような浮遊感。
 目眩を覚えた。
「妃殿下。お時間よろしいでしょうか」
 娘が問いかけてくる。
 はっとしてそちらを見た。
 気がつけば支度は終わったらしい。
 娘は無表情のまま、手紙を差し出してきた。
「クチナシの君からです」
 今度は誰?
 この前はダニエルで、今度はクチナシ。
 男性だろうか。
 史実ではイザベラはたいへんな淫蕩娘であったと記されている。私は手紙を受け取った。
 手紙は、クチナシの花束に差し込まれている。
 オリエンタルな香りがささくれだった心を僅かに癒した。
 だけど、心が少しでも心が回復すれば、思い出すのはいとしい人の姿だ。
 彼の銀髪を思い出して、また心痛が沸き起こった。心が暗く淀んでいく。
 ──会いたい。帰りたい。
 ぎゅうと抱きしめて、寂しい、恐ろしいと泣きつけたらどんなにいいだろう。
 だけどここから逃れることは出来ない。
 どうやら、私はイザベラになってしまったらしい──。
 もはや、理解するしかない。
 私はイザベラなのだと。こうまで顔立ちの雰囲気が違い、黒子の位置まで違う。
 おまけにリヴァーサン・ダイオナスまでいるのでは、誘拐されただけと片付けるには無理がある。
 私は手紙を指先でなぞった。
 差出人の名はない。素っ気ない手紙だ。
 娘たちは私が手紙を開いたタイミングで、教本通りの礼を取って部屋を辞した。
 何も言わずとも、手紙はひとりで読ませてくれるようだ。
 指で封を契り、中の白い便箋を取り出した。
 手紙は一枚。
 書き出しの文章は、驚くべき文字で始まっていた。
『お姉様。お元気ですか?』
 ──お姉様?
 そういえば、イザベラには妹がいたはず。
 リヴァーサン・ダイオナスの、元婚約者であった可愛らしい姫君。
 彼女はイザベラにさんざんいじめられ、挙句の果てには婚約者まで盗られてしまった。
 彼女の妹、マーガレットは城を追い出され、失意のうちに亡くなったのではなかったのかしら。
 私は困惑しながら読み進めた。
 文字は、可愛らしい女性が書いたようで丸みを帯びている。
『あれから、もう二年が経ちました。
 私は、今、とても幸せです。
 それも、お姉様が私を助けてくださったから。
 だけどね、お姉様。私はつくづく思うのです。
 やはり、私が結婚をすれば良かったと。
 お姉様の話は田舎街でも聞き及びます。
 私は、やるせないのです。
 私のせいで、奸族といわれていること、知っております。
 私のせいで、お姉様は嫌な仮面を被ったと、知っております。
 私は、日々憎んでいるのです。
 あの時、貴女の手を取ってしまった自分の愚かしさを、弱さを、日々嘆き、憎み、後悔しております。
 親愛なるお姉様。
 貴女に幸運の風が舞い込みますように。日々祈っております。
 貴女■■■■』
 最後の文字はインクをぶちまけてしまったのか、読めなかった。
 だけど、文章の運びからして〝貴女の妹、マーガレット〟と入るのではないだろうか。
 私はしばらく呆然としていたが、やがてその手紙の内容をゆっくりと理解していった。
 手紙を読む限り、マーガレットはイザベラに悪い感情を持っていない。どころか、幸福を願っている。そして、マーガレットは死んでおらず、幸せに暮らしている。
 どういうこと。
 イザベラは、マーガレットの婚約者、リヴァーサンを奪ったのではなかった? 
〝それも、お姉様が私を助けてくださったから〟
 この一文を読む限り、イザベラはマーガレットのためにリヴァーサンの婚約者に成り代わったということだろうか。でも、何のために。
「イザベラは、マーガレットを憎んでいなかった」
 言葉に出すと少しだけ頭の整理がつく。
 いつだったか、ローズベルトが言っていた。頭の中を整理したかったら、口に出すといい。
 そうすることで状況を把握することが出来る。延々心の中で考えるよりずっといい、と。
『もし、口に出すのが憚られる状況であるのなら、紙に書くといいよ。ただし、記した紙は燃やして、誰にも見せない方がいい。考え事は、秘め事だからね』
 彼はそう教えてくれた。
 私は彼の教えを思い出して、化粧棚の引き出しを開けて、小さなメモ用紙を見つけた。
 それに、羽根ペンを滑らせる。
〝マーガレットは、イザベラを憎んでいなかった?〟
〝嫌な仮面を被ったのは、どうして?〟
〝なぜマーガレットは田舎町にいるの?〟
 疑問点をつらつらと書き連ねていく。
 マーガレットがリヴァーサンとの婚約を嫌がったとする。だけど、例え妹のためとはいえ、いくらなんでもその婚約者を奪う真似をするかしら……? 
 分からない。少し頭の中はすっきりしたが、八方塞がりの状況に寂しさが募ってきた。
 ぽたり。気がつけば涙が落ちていた。
 自分の記した黒い文字が、どんどん滲んでいく。
 泣いていた。
 知らぬ間にぼたぼたと可愛らしくない音をたてて、大粒の水滴が紙を濡らした。
 黒いインクはすぐに滲んだ。
「ローズ、……会いたい」
 思いを口にすれば、ただそれだけが頭を占めた。
「……帰りたい。帰りたいわ、ローズ……」
 ローズと呼ぶと、彼は少し困った顔をしていた。
 本当は〝ローズ〟と呼ばれるのが嫌なの、知っている。女性の名前のようだものね。
 でも、嫌だとは言わなかった。彼の優しさに甘えて、私はローズとずっと呼んでいた。
 とめどなく流れる涙を拭いもせず、私は嗚咽をかみ殺した。
 いつだったか、ローズベルトが言った言葉を思い出す。
『泣くのは、感情の整理だよ。誰もそれを責めることはない。泣きたい時は泣けばいいんだ』
 そう慰めてくれた彼の言葉が、如実に思い返される。
 その温もりと声を思い出して、咄嗟に手紙を目に当てた。涙はまだ止まらない。
 涙が吸われて、紙がふやける。
「今だけだから……。今だけ、必要なの」
 弱虫なんじゃない。心のデトックスに、感情のリセットに、必要なことなの。
 そうして、私は心ゆくまで泣いた後、マーガレットからの手紙と思われるそれを、暖炉に突き入れて、燃やした。

 * * *

 聖歴三二四年。
 後に〝華世時代〟と名付けられたこの時代には、後世の魔術史に多大な影響を与えた魔術師がいる。
 名前はカーティス・レグレット。
 伯爵家の次男で、偏屈な性格をしており、大の人嫌い。
 そして、人と会う時は常にフードを深く被っているため、ほとんどの人間がその顔を知らない。
 噂では、カーティスは目も当てられないほど醜かったからだとか、見せられないほどの大火傷の跡があるとか、眼球がないだとか、当時はいろいろと囁かれたという。
 彼がなぜフードを被るのか、理由は分からないが醜かろうが発疹だらけだろうが頭部が獣であろうが、構わない。
 私は彼に尋ねたいことがあった。
 それは、時戻りの術について。
 私は時を遡っている。
 私が生きている時代は聖歴五七八年。
 そして、今は、おそらく聖歴三二四年。
 イザベラとリヴァーサンが婚姻を結んでから二年が経つのだと計算するのなら、三二四年で間違いはないはず。
 軽微な誤差があるとしても、どちらにせよ優に二百年の時を超えている。
 二百年もの時を超えるなんて通常考えられない。
 だから、私は思ったのだ。これは魔術が関係しているのではないか、と。いいえ。それ以外にはありえない。他の方法で時を巡るなんて、通常有り得ない。
 そう思い、機を伺ってカーティスを呼び出し、話を聞こうと思っていた。しかしそれはあまりにも難しかった。
 私は二つほど、計算違いしていた。

 * * *

 
「あっ、ぁ、陛下、んッ……う、ぁ」
 やる気のない喘ぎ声を義務的に口に出す。
 軋むベッドに、鼻を突く異臭。
 ぽたぽたと顔に生ぬるい液体が降りかかる。
「気持ちいいか? そうだろう」
 野太い声は、皇帝のものだ。
 リヴァーサン・ダイオナス。
 彼はくずだった。
 彼は、生み出してはならなかった怪物だ。
 彼の手からぽたぽたと零れ落ちる生ぬるい血液を拭う。ぬるりとした感触。
「気持ちいいですわ。あっ、そこ、もっと……」
「そうだろう? ほら、もっと啼いてみせよ」
「いいですわ。陛下、ぁん……」
 何とか声を振り絞って、演技を続ける。イザベラを演じるとは、こういうことだ。
 皇帝との閨ごとは、想像以上に精神を消耗させた。
 気持ち悪さと吐き気しかない性行為に、自分の命について考える夜が増えた。
 皇帝との夜は、断ることは出来なかった。イザベラを演じる以上、ずっと断り続けることはできない。
 もし、皇帝に勘づかれて、私がイザベラではないことが知れたら。そうしたら魔女裁判などにかけられてしまうかもしれない。
 死ぬか死にたくなるほどの汚辱を積まされるか。
 それはどちらも似たような意味に感じるけれど、私にとっては全く違った。
 死んでしまえば、ローズに会うことは叶わない。
 ローズに二度と会えなくなってしまうのだ。
 この男は完全なる異常者だ。
 快楽のためなら何をしても構わない。
 戯れに女を殺し、男を殺し、その死体を眺めながら私を抱く。吐きそうだ。
 今も、彼はどこぞの娘を殺した手で私を抱く。ぬるつく液体は血液だ。
 部屋には物言わぬ骸が転がっている。地獄だ。鉄の匂いが充満して、聞きたくない水音がする。
 度々の夜に訪れる地獄はあまりにも苦しくて、確実に私を殺していった。
 
 そして、二つ目の誤算は、カーティスに会うのは非常に困難を極めたこと。カーティスは、不和派筆頭だった。
 絶対王政がはびこるダイオナス王朝の中で、歩み寄りを見せない貴族一派。
 それが不和派だ。不和派は皇帝を初めとする王政派と非常に仲が悪い。そのため、皇妃である私ともなかなか会う機会は得られない。
 時間だけが刻々と過ぎていく。
 皇帝は変わらずひとを虫けらのように殺していく。
 いつ私が殺されるのかも分からない。
 いっそ死んでしまいたいとも思う夜もあった。
 殺されてしまう人を見て、何も出来ない自分を歯がゆく思った。恐怖の悲鳴が聞こえる度に、耳を塞ぎたくなったし、何も出来ない自分が恨めしかった。
 ここ最近、ふと考えてしまう。
 それは、〝死ねば、元に戻るかもしれない〟……憶測だ。
 死ねば、この悪夢から覚めるかもしれない。
 そうして、目が覚めたらお見舞いに来たローズが「おはよう」と声をかけてくれる。
 そう思えば、それは甘美で、そして実に確実な方法にすら見えた。地獄のような夜が続く中、何度も夢を見た。
「たすけて……」
 リヴァーサン・ダイオナスが退室した後で、一人シーツにくるまれ、シーツの波に溺れた。
 そうして、イザベラになってしまってから一か月が経った頃、転機が訪れた。
 手紙が届いたのだ。
 また男からの頼りかと思いながら手紙をひっくり返す。
 そうすると、赤薔薇の刻印が押されてあった。その模様にどきりとする。
 薔薇は、否応なくローズを思い出させる。
 会いたい。会いたいのに、もう会っていいかわからなくなっている。
 あまりにも私は穢れすぎてしまった。
 吐き出された汚い熱を感じる度に、ひとつずつ自分という個を殺されていくように感じた。
 無感情に封を切った。紙面に目を走らせる。
『親愛なる妃殿下。
 もうすぐ冬椿が咲きますね。
 美しい花は貴女を癒してくださいますでしょうか? 寒くなります。お体にお気を付けて。
 カーティス・レグレット』
 ──カーティス・レグレット!
 思わず手紙を取り落とすかと思った。
 私は手紙を強く握り、何度もその文字をおう。
「カーティス、カーティス……レグレット」
 それは、何度も相談のチャンスを伺った、件の人物の名前だ。
 煽り立てるように胸が逸った。
 早く会いたい。
 今、この状況を打破できる可能性があるのはカーティス・レグレットを置いて他にいない。
 カーティス・レグレットは魔術史において多大なる影響を与え、魔術に貢献した人間だ。
 それまで魔術は自己免疫力を気持ちばかり上げたり、ほんの少し心を軽くさせるような効果しか見いだせないとされていた。
 あってないようなものだ。
 だけど彼が魔術の可能性と潜在能力について論文を提出し発表したところ、魔術には人智を超える力があったことが判明した。
 それが、現在最もメジャーな魔術の使い方とされる攻撃魔法と治癒魔法だ。
 魔術空論を組み立て、自然数の在り方そのものを見直し、魔術学においての自然数、計算順、配置を固定化した。
 彼が論文を発表した後は主にその魔術回路構成が基盤となって、それをベースにした魔法が練られるようになる。
 魔術史界においての天才。彼を称するならその例えがふさわしいだろう。
 彼ならば、きっと。
 もし私が魔術によって時を遡っているのなら、解決してくれるかもしれない。いいえ。解決してもらわないと困る。兎にも角にも相談が先だ。私は侍女にインクとペンを持ってくるよう指示を出した。
 聖歴三二四年。
 十一月。現代よりも寒さが厳しい。突き刺すような寒さが肌を威圧してくる。
 返信の手紙には体の不調を記し、呪いの類かもしれないから、カーティスに診てもらえないか、という内容を認《したた》めた。
 さいきん、気になる侍女が出来た。
 彼女の名前はアデルといい、そばかすが愛らしい、幼い少女だった。
 彼女は少女期特有の細い足で懸命に重たいドレス箱を抱えたり、水の張ったバケツを持ったりしていた。
 能面侍女たちのなかでは珍しく感情がくるくると変わるアデル。
 まだ彼女は幼いからなのか、いつもは無表情を心がけているようだけど、ふとした時に表情を覗かせるのだ。
 無表情で、事務的に接する侍女たちとは違い、彼女だけは少しだけ心を許せた。アデルもまた、私が話しかけると少し楽しそうにしてくれていた。
「庭に雪うさぎがいたわ。誰が作ったのかしら」
「あれは、庭師のハンディの作品らしいです。気に入ってもらえて良かったです。ハンディも喜んでます」
 はにかむ彼女を見ていると、ホッとした。
 そうしてまた少ししてから、カーティスが部屋を尋ねてきた。
「カーティス様がいらっしゃいました」
 私はがたりと勢いよく立った。
 ようやく会える……! これで帰れるかもしれない。
 私はもはや、男性全体が苦手になりつつあった。
 それは間違いなく、地獄のような夜が関係している。
 私は立ち上がってから、息を整えて答えた。
「連れてきて」
「はい。かしこまりました」
 アデルが扉の方まで向かい、扉を開く。
 まず目に入ったのは灰色のローブ。
 そして、それを縁取る黄金の刺繍。
 身長の高さ、体格からして男だとわかるが、それ以上は判別がつかない。
 彼は、ローブを深く被っていた。
 男は足元しか見えないに違いない狭い視界の中、魔術でも施しているのか、しっかりとした足取りで私の前まで歩いてきた。そして、膝を折る。
「妃殿下におかれましてはご機嫌麗しく」
「──」
 困惑した。聞き間違えかと思った。
 一瞬、ありえない状況に呆けてしまう。
 その声が──ローズのものとそっくりだなんて。
 私はまさか、と思ってもう一度口を開いた。声は、震えずに済んだ。
「カーティス・レグレット」
「はい」
「……なぜ呼ばれたか分かりますか?」
 何を聞けばいいか迷って、結果どうでもいい質問をしてしまった。
 彼の声をもっと聞きたかったからだ。
 だから、たくさん話させる質問をあえてした。
 男の、カーティスの声は、あまりにもローズと似ていた。信じられない。
 だけど、私が聞き間違えるわけがない。
 男性にしてはすこし高めで、柔らかく、心地のいい音。優しく、包み込むようなそんな朗らかさがある。ただ似ているだけ? それとも。
「妃殿下のお体が思わしくないとお手紙をいただきました。私はそれに魔術が関与していないか、気休めにしかならないかもしれませんが──確認に参った次第です。妃殿下の大切なお体のためにも、魔術の観点からではありますが、尽力させていただきます」
 カーティスは何を当然、と言わんばかりの、ともすればどこか反発心を抱いているような声で告げた。妃と称する女に対するには、あまりにも慇懃無礼だ。
 そこで、彼は王政派と相反する不和派の人間だったとおぼろげながら思い出した。
「カーティス、ローブを脱ぎなさい」
 とはいえ、皇妃の前でローブを被っているカーティスはおかしい。
 いたって平然としているようだが、彼は王侯貴族の前でもローブを着用しているのだろうか。上ずった声で命じると、カーティスは躊躇うように肩を揺らした。
「宜しいのですか」
「いいわ。早く」
 なぜか確かめてくるローズに答えると、カーティスは「仰せのままに」と答えてあっさりとフードを下ろした。
 白銀の髪。
 絹糸のような髪は現実のものとは思えないほどに柔らかく繊細で、彼が身動きを取るたびに音もなく揺れた。髪と同じ色のまつ毛は、雪原を思わせる白さだ。マッチ棒が乗りそうなほど長いまつ毛は扇のように広がり、彼の瞳を隠した。そして、伏せた白銀のまつ毛から覗く切れ長の瞳は息をのむほどに美しかった。
 ブリリアントカットを施された青金鋼石《ブルーダイヤモンド》のよう。ひとを魅了する瞳だ。
「──」
 息を飲んだのは、私だけではなかった。
 部屋の中の誰もが。
 いつも無表情と無感情を保つ侍女までが目を見張り、その美しさに呑まれていた。
 アデルも、今にも零れ落ちんほどに目を見開いている。
 私も驚いた。カーティス・レグレットは見られないほどの醜男と聞いていたのに。
 だけど、私が驚いたのは、カーティスの美しさが理由では無い。
「ぉ……ず」
 カーティスは私が零した単語を聞き取れなかったのか、僅かに顔を傾げた。
 その動きによって純白の髪がさらりと揺れた。
 前髪は長く、目元にかかるほどだが、決してそれは彼の美しさを損なわない。
 ローブの中で白銀の髪の束が揺れる。彼は髪が長いらしい。
 その長髪をひとつに束ね、三つ編みしているようだった。
 その端正な顔も、ひとを惑わせ魅了させるような蠱惑的な瞳も、月光を紡いだかのような白銀の髪も。
 ──彼は、カーティス・レグレットは、ローズにあまりにも似た容姿をしていた。
 似ているどころの話ではない。
 もはや本人と言っても差し支えない。
 言葉を失う私に、カーティスは変わらず礼儀正しくまつ毛を伏せて、短く言った。
「恐れながら妃殿下。妃殿下のお体に呪いの類はないように見受けられます」
 その声は、やはりローズのもの。
 だけど、彼は、カーティス・レグレットなのだ。
 私はただ彼を見つめた。言葉が出なかった。
「ですので、可能性とするならば、病か──あるいは、精神的なものかと推察いたします。魔術以外に関するところは専門外ですので、その限りではないかもしれませんが。少なくとも、御身を煩わせる一因に魔術は関与していないかと」
 彼の言葉がするりと耳元から逃れていく。
 私はカーティスから目が離せない。頭がぐるぐると回り出す。
 イザベラに似ている私に、カーティスと瓜二つなローズ。
 もう何がどうなっているのか分からない。
 そもそもここはほんとうに現実の世界なのだろうか。
 困惑に飲まれ、なにも答えられない私に、カーティスが顔を上げる。
 長い白銀のまつ毛が持ち上がれば、青水晶のような、どこまでも透き通る瞳が現れた。
「どうかされましたか?」
「……なんでもないわ」
 喘ぐように答える。
 そしてようやく、じわじわとカーティスの言葉を飲み込んでいく。
 ひとまず、カーティスの話を聞こう。
 彼は、ローズではない。心の中で反復してから彼の言葉を手繰りだす。
 魔術の痕跡は見当たらないとカーティスは話す。
 それは私にとって最後の希望を打ち砕く答えだった。
 世紀の天才カーティスならば見るだけで私の状況に気がつくのでは、と縋るような思いで信じていたのに。これではもう打つ手がない。
「ありがとう。……いいわ。もう、さがって」
 小さな声で告げる。
 もし、カーティスに〝私は未来から来た〟と話せたら、もっと状況も違ったかもしれない。
 だけどあいにく、私の部屋には侍女が詰め寄せていて、内緒話には向かない。
 カーティスは何か言いたげな顔をしていたが、やがて深く頭を下げて、部屋を出た。

 その次の日は王宮舞踏会だった。
 舞踏会での立ち回りはさほど難しいものでは無い。
 名前と顔の一致は未だにしないけれど、私が名前を呼ばずとも周りの人間は私を見つけると一目散に挨拶に来た。
 夜会の場において、皮肉にも私は、〝スミス〟であった時ほど気を使ってはいない。
 最初こそ、イザベラではないと勘ぐられないように気を詰めていたものの、だんだんと張り詰めたものは空気が抜け、最後に残ったのはからからに乾いた心のみだった。
「皇妃殿下にご挨拶申し上げます」
 またどこぞの貴族が挨拶に訪れ頭を下げる。
 カラフルなドレスを目にしすぎているせいか、少し体調が悪い。
 私は笑みを返すだけに留めておくと、貴族の娘は発言を許されたと考えたのか、扇をぱ、と開いてここぞとばかりに口を開いた。
「妃殿下はもうお聞きになりまして?」
「……」
「カーティス・レグレット様についてですわ! あの方、大層な美男子だったとか。啄木鳥《きつつき》に啄《つつ》かれて顔中、窪んでいるという話は嘘でしたのね」
 娘はカーティスについて話した。
 カーティスという名前にどきりとする。
 彼とは昨日会ったばかりだ。
 彼とは内密に話す機会を得られないかずっと考えているけれど、その機会を見出すことはなかなか難しい。
 いっそ、イザベラの遊び相手として招いてしまえば、と考えるけれど、そうすると貴族内のパワーバランスがおおいに崩れる。
 イザベラはそういう点も加味した上で恋人を選んでいたのだ。
 焦るだけで、何も状況は進展しない。
 思い出すのはローズの顔。声。彼の温もり。
 そのはずなのに、だけど、どういう訳かローズの姿を思い描けなくなってきた。
 忘れてしまっている?
 それは、私に絶望を齎《もたら》した。ローズを思い出すと、顔が同じだからか。声が同じだからか。
 どうしてかカーティスのことを思い出してしまう始末に、私自身が参っていた。
 まるで、緩やかな毒に浸食されているようだ。
 私が黙っていると娘はペラペラと話した。かん高い声が耳に触る。
「カーティス様の美貌はもうあちこちで有名なんですの! 婚約を申し込んだ方がいたそうなんですけど、彼は断ったそうですわ。なんでも愛する方がいるから、だとか!」
「そう」
 初めて私が言葉を返したことに娘は喜色を示した。
 カーティスは綺麗な顔をしている。
 ローズも大層な美形だったのだから、同じ顔をしているのなら当然だ。
 彼が女性から秋波を送られるのも納得がいく。
 ……愛する人がいる、というのは驚いたけれど。
「ですがあの、ねずみ娘や堅物令嬢まで声をかけていたのには驚きましたわ。彼女たちも結局女だったということです。そう思いませんこと?」
 娘の言う〝ねずみ娘〟や〝堅物令嬢〟のことが分からないが、黙っていると、話を促されていると感じた娘はまたもやペラペラ話し出す。
 どうしてかその言葉を耳が聞き取ってしまう。
 ワイングラスに口をつけて、気の進まないアルコールで舌を濡らす。
「愛人でいいからと縋り付くものが出る始末ですわ。だけどどんなに見目麗しくひとを狂わせる容姿と言ったって彼は不和派ですもの。仲良くなんてお父様が許しません」
 そうは言うものの、娘の声はどこか納得がいってない様子だった。
 娘がようようとまくし立てる中、私はリヴァーサン・ダイオナスの様子をさぐった。
 見れば、彼はどこぞのを令嬢の腰に手を当てて、楽しげな様子だ。
 本日はあの娘を召すのだろう。
 そのことに隠しようのない安堵を感じ、それと同時に、深い苦しみを覚えた。
 今宵はあの娘が犠牲になるかもしれないと考えて胸が張り裂けそうになる。
 そのまま視線を滑らせていると、ふと、広間の外、廊下を歩く男の姿が目に入った。
 白いローブを頭からかぶるという妙な格好をしているのは、私の知る限り一人しかいない。カーティスだ。
 ──どうしてここに。
 私はワイングラスを近くの従僕に押し付けた。
 アーチ型に切り抜かれた壁、広間の先。彼が歩いていったのはそこだ。
 私はリヴァーサン・ダイオナスを見て、彼の隙を伺ってから広間を出た。
 彼に接触できる最後のチャンスかもしれない。
 彼を見たのは一瞬だけど、まだ近くにはいるはず。そう思って人気の少ない廊下を歩いていると、ふと物音がした。
 それは誰かが倒れたかのような音。咄嗟にそちらに向かう。
「触らないでいただけますか」
 その低い声が微かに耳に響いて、私は息をとめた。
 声は、廊下の曲がり角の向こうから聞こえているようだ。
「何するの!」
「それはこちらの台詞です。何をされるおつもりでしたか」
 その声は低く、緊迫感を孕んでいたものの、間違いなくカーティスのものだろう。
 私がそっと伺うと、彼につき倒されたのか、令嬢と思われる娘が座り込んでいた。
 顔は見えない。ただ豪奢な金髪を高く結い上げている。
 彼女はわなわなと震えた様子で彼──カーティスに言い募った。
「何って、キスくらいいいじゃない! あなたも私の胸を見ていたでしょう!? 思う存分私の体を味わえばいいわ。あなたにはその権利がある!!」
「気色の悪いことを言わないで貰えますか。結構ですし、見ていた覚えもありません。そもそも今宵の夜会に貴女が参加されていたこと、今初めて知りました」
「嘘よ! それに、もう私は決めたの。あなたは私の夫にするって。必ずよ!」
 女性の金切り声が聞こえてくる。
 それに、カーティスは僅かに間を空けてから鼻を鳴らして小馬鹿にしたように答えた。
「……馬鹿らしい。夢見がちなのは結構ですが、僕を巻き込まないでいただきたい。そもそもあなたのお父上は王政派でしょう。僕と関わるのを良しとなさならいのでは?」
「お父様は私の言うことをなんでも聞いてくれるわ。ねぇ、そんなこといわないで。今までのことを言っているのなら謝るから。だから私にあなたをちょうだい」
 娘の猫撫で声が遠くに聞こえる。
 私は目を強く瞑る。声だけ聞けば、いや、容姿そのものも、だけれど。ローズそっくりなのだ。まるでローズが迫られているように感じて、落ち着かない。
「あなたは愚かですね。自分自身の価値を存じ上げていないらしい」
「どういうこと?」
「僕は、生きている人間が嫌いなのです。愛されたいと思うのなら、その息を永遠に止めてから。それなら少しは考えて差し上げますよ。それでは」
「まっ、待って!」
 娘のとりすがる声が聞こえたが、それきりカーティスの声は聞こえなくなった。
 この場を離れたのだろう。
 私は彼の声を聞いて、どうしてか胸が非常に苦しくなった。
 廊下に静寂が広がり、私は踵を返した。
 振り返ったところで、目の前にリヴァーサン・ダイオナスがいて息をのむ。
 ──いつの間に。
「陛下……」
「イザベラ、どこに行っていた? うん?」
 アルコールのせいか、その黄土色の顔は赤らんでいた。私は動揺を飲み込みながら言葉を選ぶ。
「風に当たろうかと。……だけどやはり不要ですわ。戻ります。陛下もいかがです?」
「いいや。私はもう部屋に戻る。お前も来なさい」
「……ええ。仰せのままに」
 込み上げる嫌悪と心が血を流していくのが分かる。胸の中に言いようのない濁りが広がって、気分は最悪だ。
 男への嫌悪は憎しみへと変わり、そして、明らかな殺意になってゆく。
 その日の夜は一段と気色が悪くて、何度も王を殺すことを考えてしまった。
 度々彼の太い首が目に入って、あの脈を切れば、と考えてしまう。
 重厚な造りの花瓶を見つけては、あれで殴れば、と。そう何度も考えた。
 ゆすられるだけの時間は、さながら人形になったかのよう。今日の皇帝は機嫌がいいのか、閨に血の匂いはしなかった。それだけが救いだ。
「お前は美しい。さながら妖精姫のようだ。その妖精の羽を手折るのは、そこらのごみを甚振《いたぶ》るよりはるかな愉悦を生み出す。お前が完全に壊れるさまはきっと、何よりも美しい」
 ようやく、地獄のような閨ごとが落ち着くと、皇帝は夢見語りのように滔々と話し出した。
 彼の吹かす煙草の煙が部屋を充満する。煙の臭いで頭が痛い。
「男を虜にする悪女、イザベラ。それともお前はとらわれの姫かな」
「ッ……」
 唐突に、皇帝はその太い手で首を絞めてきた。突然のことに何もできず、呼吸が苦しくなる。思わず皇帝の手を引きはがそうと本能的に思ってから、何とか意志の力でそれを抑えた。
 苦しくて、喉を圧迫されているからか嘔吐感がする。そのまま頭の中が白みがかってきたあたりで、皇帝は手を離した。
「げほっ……っ、はぁ……っ」
「フン。イザベラ、お前はこの世界に不満はあるか?」
 突然首を絞めてきたことには何も言わずに男が話す。この男は狂っている。まだ荒い呼吸を繰り返しながら嘘を吐いた。
「ありません」
「ははは! ないか! よいよい。お前ならそういうであろうと思っていた! いいか?イザベラ。よく聞け。面白い取り組みをしようと思うのだ。私はな、この世界に改革を起こす。まず手始めに、身分制度を見直すのだ」
「……」
「今の世は貴族が多すぎるだろう。半分もいらぬよ、貴族など。世の女は性奴隷にしよう。ああ、見目のいい男もそうだ。特にレグレット家のやつには驚いた。あれはいいな。欲しくなる」
「──」
 何を突然、そう思っていた私だったが、その名前に戦慄した。
 言葉に窮する私を差し置いて、王はつらつらと妄言を繰り広げた。
「あれはいい! あんなに肌が白く、女のように目が大きく、艶めかしい男は初めてだ。今まで気が付かなかったとは、愚かな真似をした」
「わ……私は、自分より美しいものは嫌いです」
 声は、震えていなかったか。
 咄嗟に、彼を庇うような発言をした私の声は無常にも上ずっていた。失敗した。
 これでは彼を庇っているのがすぐにわかってしまう。私は自分の不出来さを呪った。
 皇帝はぎょろりと私を見た。不興を買ったか。内心焦る私に、その分厚い唇が弧を描く。
「そうか? そうか……。ならば、当分は呼べないな? ここにあれを呼ぶのも楽しいかと思ったが。ああ、そういえば先程の話が途中であったな。これからの世の中、奴隷の下民と、奴隷を飼い慣らす世民。金を持つ平民、そして、我が血脈が流れているもののみ貴族とするのだ。貴族でも金がなければ奴隷だ。どうだ? 私の考えは面白いだろう!」
 皇帝の思考はカーティスから離れたようだったけど、その後の発言がとんでもないものだった。女は性奴隷となる世界。一握りだけの貴族。奴隷の合法化。
 彼の考えが実現化したら、国中が地獄と化すだろう。
「ああ。あと、魔術師のやつらはいても爪先ほどにも役に立たないだろう。あいつらは実験材料にしても面白いかもしれんな。モルモットとして、研究所に放り込んで、いたぶるのもいい。欠片も役に立たないくせに発言だけは一人前で小賢しかったのでな。いい見せしめになる。ああ、レグレットの奴だけは別だが」
「……」
 国王は顎髭に触れると、そのまま黙り込んだ。
 ぎょろついた目が天井に飾られた絵を見つめている。気味が悪かった。

(――つづきは本編で!)

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