「もっと乱れて……僕のコレで、狂って!」
あらすじ
「もっと乱れて……僕のコレで、狂って!」
老舗菓子店『ふじ堂』の娘、梨乃は、傾いた店を救うため、父からお見合い結婚を言いつけられる。相手は大手新興製菓メーカー『HAYASHI』の御曹司、佳史。業務提携を背景に、家と会社のための結婚だと自分に言い聞かせ見合いの場に出た梨乃だったが、彼と初めて目が合ったその瞬間、足が床に縫い止められるような、何かに打たれるような感覚に襲われて……!
作品情報
作:まつやちかこ
絵:千影透子
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【プロローグ】
彼がベッドに座った瞬間、軋む音とスプリングの揺れが伝わってきて、どきりとする。
私の肩を包んだ手は、見ている時に思った以上に大きくて、力強い。そのまま体を引き寄せられて、私の左半身と、彼の右半身が密着する。
薄いパジャマ越しに体温を感じて、頬がかぁっと熱くなった。
同時にぶるっと震えた私の、右頬を彼の左手が包む。
「怖い?」
そう言ってのぞき込んでくる目には、偽りない気遣いと、少しの不安が浮かんでいた。けれど綺麗な焦げ茶の目に映る私は、それ以上に不安な表情になっているに違いなかった。
『はい』とも、『初めてなんです』とも口に出せずに、ただこくりとうなずく。頬に添えられていた手が背中に回り、優しい、かつ温かい力で抱きしめられた。
「初めて、かな。こういうことは」
彼の方から尋ねられて、私はもう一度うなずく。そうか、という声が頭の上からと、耳が触れている彼の喉元から直接聞こえた。
「じゃあ、できるだけゆっくり、優しくするから……といっても、僕もそんなに巧いわけじゃないけど。されて嫌なこととか痛い時があったら、正直に言って」
「……は、はい……」
我ながらガチガチに固まった、消え入るような声。
二十五年の人生で一度も経験のない、初めての行為に挑むのだ。緊張するし、聞いた話でしか知識がない分、やっぱり怖い。
彼が、強引に事を進めたり嫌がることをするような人には見えなくても、これから裸になって肌を合わせて……と考えるとやはり、恐怖と羞恥が先に立つ。
(──落ち着きなさい、梨乃《りの》。これは契約上必要なことなんだから。お互いの家のため、そして会社のためよ)
頭と心の冷静な部分が、私にそうささやいてきた。
……そうだ、これは「契約」の一部。
私と彼は、家と会社のために婚約した。これからする行為も婚約を続けるため、ひいては結婚してからも必要なこと。
怖いからと言って逃げちゃいけない。どのみち、逃げられもしない。
他ならぬ私が、この契約を受け入れると決めたのだから。
【第一章】
そもそもの始まりは、今から一ヵ月半前のこと。
普通に仕事をして会社から自宅に帰ったその夜、夕食の席で突然に、父からこう宣言されたのだ。
「梨乃。今度の日曜、お見合いがあるからな」
「はい、お見合いですね……え、えっ?」
来客があるとか、外食に行くとかいった調子で言われて、うっかり何の疑問もなくうなずきかけたけど、そんな気軽な話題ではない。
え、ちょっと待って。
「……お見合いですか?」
「そう言ったはずだが」
「次の日曜に?」
「そうだ」
父の返答はにべもない。決定事項なのだ、と思わざるを得なかった。
我が家では父の言うことは絶対だ。老舗菓子店『ふじ堂』の創業者・藤田《ふじた》家において、家長の言うことは家族全体の決定とイコール。そういう家風だった。
とはいえ、四代目の父は、横暴な人というわけではない。筋を通して話せば意見を聞いてくれるし、どうしても嫌な場合は無理に押しつけてはこない。母や九歳上の兄、私に対して手を上げたこともなかった。
けれど、次の日曜にお見合いというのは、あまりに突然すぎる。これまでにお見合いをしたことはあるけど、いずれも最低一ヵ月前には申し出を受けて応じる、そういう形だった。
「……あの、どうしてそんなに突然?」
「先方のご予定が来週しか空いてないからだ。次にご家族全員がそろう日が半年後と言われたら、仕方ないだろう」
何をわかりきったことを、というふうに返されて、私は「そうですか」と応じるしかできない。
「お父さん、そんな説明じゃ梨乃が困るでしょう。せめて、一から順序立ててお話ししてください」
母がそう助け船を出してくれた。
父は「それもそうか」と思ったらしく、一度うなずく。
ごほん、と咳払いをひとつした後、父は「つまりな」と説明を始めた。
「梨乃も、まがりなりにも経理をやっていれば、うちの業績がどの程度かはだいたいわかっているだろう?」
「……そうですね」
少し声が小さくなってしまったのは『ふじ堂』のここ数年の売り上げがずっと右肩下がりだからだ。
社内リストラをしなければならないほどではないようだけど、かつての隆盛ぶりに比べれば確実に業績は落ち込んでいる。毎年春に採用する新卒社員の人数が減らされているとも聞く。
私は、国内では名の知れた女子校に中学から入り、そこの大学を卒業して『ふじ堂』に入社した。縁故入社ではなく、きちんと試験を受けてだ。人々に美味しいお菓子を届けるために奮闘する父と、父を支える母の姿を見て、私も何か力になりたいと思ったから。
もっとも、私の性格上、営業などの表に出る仕事は向いていなかったようで、新人研修後に配属されたのは経理だった。父は人事部に対して、娘だからといって甘やかす必要はないと言っていたようだから、そういう忖度が働いたわけではない……と思う。
ともあれ経理に配属されて三年、煩雑で量の多い仕事に追われながらも、私は毎日充実した気持ちを味わっていた。忙しいことは苦ではない。裏方仕事も嫌いではなかった。学生時代には生徒会の経験もあるのだ。そこでは会計を経験したから、数字の扱いも苦手には感じない。
人事の思惑通り、私は経理に向いていたようだった。
普段の仕事は他の一般職社員と同じく、社員から出される経費請求の伝票処理が主。けれど業務上、会社予算や営業売り上げの一覧を見ることも稀にある。
それを見たら、ここ数年の『ふじ堂』の業績がどうなのかは一目瞭然だ。いち経理社員の私が気にかかるぐらいなのだから、社長の父や重役たちは、もっと不安に思っているだろう。
しかしそのことと、私のお見合いとが、どう関係してくるのか。
「古い顧客はそれほど離れていないようなんだが、やはり、新規客の獲得が難しくてな。昔ならともかく、これだけ様々な商品が氾濫している状況では、今までの『古き良き味を大事に』という方針一筋でやっていくのは厳しい。わかるか」
「ええ、そうだと思います」
応じた私に、父は満足げにうなずいて、話を続ける。
「そこでだ。重役会議を重ねた結果、今度『HAYASHI』との業務提携をすることが決まった」
「えっ」
少なからず驚いた。
『HAYASHI』は三十年ほど前に創業された、食品メーカーの中では若い部類の会社だ。しかし十五年ほど前に発売されたチョコレート菓子がヒットしたのをきっかけに、飛躍的に売り上げを伸ばしていて、今では古くからの大手に肩を並べるほどの業績と人気を誇る一社となっている。
とはいえ、老舗企業と比べれば、新興の会社という印象はまだ強い。父に代表される老舗のトップにとっては「若造」というイメージが固定された、言ってみれば少し下に見る対象だと思っていた。
「実は、あちらの社長から話を頂いてな。林原《はやしばら》さんというんだが、あちらはあちらで、うちの老舗ブランドとしての名前と底力を借りたいそうだ」
誇らしげな父の表情を見て、なるほど、と思った。
そういう理由で、老舗四代目としての父の自尊心をくすぐったのだろうなと察せられる。さすが『HAYASHI』を一代で築き上げた人物は相手の心をつかむのが巧い。
「その話の時に、林原さんのご子息にもお会いしてな。商品開発部の部長を務めている関係でもあったんだが、年のわりに堂々とした良い青年だった」
「はい」
同意を求められているような気がして、相槌を打つ。
話の流れが見えてきた。
「今まで会った若者の中で、一番だと思ったな。梨乃の婿にふさわしいと思ったから、その場で見合いを申し込んできた。あちらもぜひにと仰ってくれたよ」
「ということは、お見合い相手はその、林原さんの息子さんなんですね」
「佳史《よしひと》くんというんだ。後で写真と釣書を渡すから、しっかり見ておきなさい。わかったな」
「……はい」
夕食が終わった後、母を介して、写真のファイルと釣書の入った封筒を渡された。
部屋に戻って、まず釣書を読む。
──林原佳史、三十三歳。
私より八歳年上。けっこう離れているけど、実兄の誠広《まさひろ》は九歳上だから、兄と似たようなものだと思うと抵抗は感じない。
両親との三人家族。大学入学と同時に実家を出て、現在は会社近くのマンションで一人暮らし。
難関として知られる私立大学の経済学部を卒業後、『HAYASHI』に入社。営業部勤務を経て、商品開発部部長には三年前に就任。就任後の開発で世に出た商品は、八割の確率でヒットしているとのこと。
たぶん、普通なら会社の中では中堅に分類される年齢だ。その年で部長を務めた上で仕事の成果を出しているのなら、かなり優秀な人なのだろう。頭も良いに違いない。
私が通っていた学校は、いわゆるお嬢様学校。昔ほどではないだろうけれど、女性は良妻賢母になるべきという校訓が今でもあるような所で、偏差値の面で言えばそれほど高くはなかった。
そんな学校で平均的成績だった私が、こんな優秀な人に、ついていけるだろうか?
不安に思いながら写真を見ると、さらに懸念は深まった。
写真うつりが恐ろしく良いか、修正を加えているのか。
そんなふうに思ってしまうほどの、ものすごく綺麗な顔をした人。とても現実に存在する日本人男性とは思えない。絵画かゲーム世界のキャラクターのようだ。
……まさか本当に、修正写真じゃないわよね。
いくらなんでも、お見合い写真でそれはない──と思う。
あんまり長い時間見つめていると、なんだか夢と現の境がわからなくなってしまいそうな思いにとらわれて、写真を閉じた。
いろんな意味で、大丈夫なんだろうか。そんな憂いが頭の中を巡って、その夜はよく眠れなかった。
眠れない夜はそれから数日、つまりお見合い当日まで続いた。
何日も続けて寝不足で出勤するので、目ざとい人にはバレてしまう。寝不足二日目の朝、経理課の課室に入ると、主任の浅井《あさい》さんにこう声をかけられた。
「おはよう藤田さん。どうしたの、叶わぬ恋でもしてるの」
「おはようござ……えっ、ええ?」
「浅井さん、朝っぱらから何言ってるんだ」
すぐ後ろの席から、課長である野畠《のばた》さんがそう言う。
「あら課長。若い女の子が寝不足顔で、ため息が止まらない様子なんですよ。物思いの種があるに決まってるじゃありませんか」
浅井さんは勤続二十年超えのベテランで、かつ、成人したお子さんを二人持つお母さんだ。私からすれば人生経験の先輩でもある人は、さすがに鋭いことをおっしゃる。
「ねえ藤田さん、そうでしょ?」
「あ、その」
とはいえ、お見合いの件は身内の話だから、社内で言うわけにはいかない。そもそも『HAYASHI』との業務提携についても、まだ公表されていない段階なのだから。
「……ええと、お恥ずかしいんですけど実は、漫画を読みすぎてしまって。縦読み漫画に最近はまってるもので」
「縦読み漫画って何だい?」
「今流行りのコミック形式ですよ。ページ単位じゃなくて、一コマ単位で話が表示される──のよね?」
「そうです」
「フルカラーが基本で、海外発の作品も多いんですよ。日本で描かれたのとは違う作風が面白いってファンも──」
浅井さんが野畠課長に説明している間に、始業のチャイムが鳴る。「物思い」についての話から逸れて、ほっとした。
淡々とした日常が過ぎていく。
こんなふうに、普通の社員として働けているのは、ありがたいことだと思う。
私が社長の娘であるのはごまかしようのない事実だ。そもそも働く必要などないという意見や、どうせ腰掛けだろうという見方を持つ人はどこにでもいるだろう。きっと社内にもいる。表立って言われないだけで、陰では噂され揶揄されているかもしれない。
けれど少なくとも、ここ経理課においては、誰もが一社員として私を扱ってくれる。私も身内の話は出さないようにしているし、社長の父や、去年専務になった兄の誠広が不用意に顔を出したりもしない。
ここでは、藤田梨乃という二十五歳のひとりの女性として働くことができる。かりそめでも「社長令嬢」でない自分でいられる貴重な時間だ。
──あちらの家の人は、結婚後も私が働くことを、良しとしてくれるだろうか。
少なくとも、見合い相手である人……佳史さんが、そういう考え方であればいいのだけど。結婚したからといって、即座に家の中に閉じこもる生活はしたくない。せめて子供が生まれるまでは、今までと同じように働いて過ごしたい。
そんなふうに考えて、自分の中で、結婚が既定事項になっていることに気づいた。内心で苦笑する。
まだ実際のお見合いもしていないのに。
──でも、きっとすぐに結婚は本決まりになるのだろう。
そう思うのは、兄の結婚がそうだったからだ。やはりお見合いで今の奥さんと知り合って、その日のうちに一年後の挙式と披露宴が決まった。奥さんになった女性は、祖父の代から付き合いのある、豆問屋の娘さんだった。
両親も同じような結婚の経緯をたどっている。子供の頃からの知り合いではあったらしいけど、最終的には家と家の結びつきで結婚が決まった。
だから、我が家のような家庭に生まれた人間の結婚はそうやって決まるものだと、子供の頃から思っていた。
誰かを好きになったとしても、その感情と、実際の結婚は別物だと。
もちろん世間並みの恋愛や、そこからつながる形の結婚に憧れはあるけど、自分には縁がないと思ってきたのだ。同じ学校に通っていた同級生も、程度の差はあれど似た環境で育った人が多くて、結婚についても同じような認識であったから。
『女性は、夫となる男性に尽くしてこそ、幸せになれるのです』
学生時代、校長先生が行事での講話のたびにおっしゃっていた言葉。
私たちの世代は、それが絶対だとまでは思っていなかったけれど、将来は夫になる人に従って暮らすのだという認識はあった。
だからこそ、相手がせめて、横暴だったり専制君主的な人だったりでなければ良いと思う。完璧な人とまでは言わない。普通に常識があって、それなりに優しい気持ちを持った人であれば──
いろいろ考えていたら、伝票入力の手が止まってしまっていた。いけない。仕事は仕事、しっかりやらないと。
軽く頭を振って、積まれている伝票の処理にあらためて取り組んでいった。
そして気づけば、お見合い当日の朝を迎えていた。
朝早くから行きつけの美容院に行き、振袖を着付けられて髪をセットされてメイクされて。準備ができあがる頃には、もう太陽は高く昇っていた。
「さあ、急ごう。タクシーは呼んであるから」
父が言った通り、美容院の外に出ると、タクシーが待機していた。会場のホテルまで約三十分。着いたのは約束の時間の十五分前だった。
「よかった、間に合ったわね」
「ありがとう、釣りはいいよ。二人とも足下に気をつけろよ」
料金を支払った後、振袖の私と、同じく着物姿の母にそう声をかけて、父は先に立ってホテルへと入っていく。私と母も後に続いた。
フロントで名前を告げると、相手の家族はすでに到着していると言われたようだ。焦った顔の両親とエレベーターに乗り込み、五階まで上がる。
宿泊部屋のエリアとは別方向に、会合などに使われる個室の並んだ一角があった。その中の一室の扉を、緊張した面持ち両親と私が見守る中、ホテルスタッフの男性が叩いた。
室内で物音がして「どうぞ」という声が返ってくる。
スタッフが扉を開けると、奥に大きな窓がある部屋は、会社の小会議室程度の広さだった。中央に大きなテーブルが置かれ、椅子が八人分置かれている。
奥の二つには、今回の仲人役だろう、昔からの取引先で父の知り合いでもあるご夫婦が座っている。そして片側の三つが、お見合い相手である林原家のご家族に違いない。
五人とも、私たちの姿を認めるとすぐに、椅子から立ち上がった。
おはようございます、と各々に挨拶が交わされた後。
「皆さん、お待たせして申し訳ありません」
「いや、我々が早く着きすぎただけです。焦らせてしまってこちらこそ失礼を」
「とんでもない。思ったより支度に時間がかかってしまいまして」
「女性は皆、それで当然ですよ。なあ」
仲人役の矢口《やぐち》氏が同意を求めると、隣の夫人はおっとりとした表情で微笑んだ。
もう一度左側へ視線を移すと、細身でスーツ姿の壮年男性と着物姿の女性に挟まれた、ひときわ長身の男性と目が合った。
──その瞬間、足が床に縫い止められるような、何かに打たれるような感覚に支配される。
彼が、お見合い相手の男性に違いなかった。写真と同じ、いや、写真よりももっとずっと存在感を感じさせる顔立ち。
距離があるからはっきりとはわからないけど、こちらを見つめる目は茶色がかっているように思える。その視線は真っ直ぐで、私を射抜くような強さがあった。
どうしてそんな目で私を見るんだろう──ああそうか、品定めされているのかな。これまでのお見合い相手も、初対面ではそろって、私の顔を検分するように見つめてきた。その見られ方が好きになれなくて、結局どの人も断ったのだ。
だけど、この人にじっと見つめられるのは、嫌じゃない。
そんなふうに考えていると、後ろの母に背中をそっと押される。我に返って、前を行く父に続いて部屋の中へと入る。
全員が席に着くと、矢口氏がお見合いの始まりを告げるように口上を始めた。
「えー、本日はお日柄も良く……私どもが両家の記念すべき日に立ち会えますこと、誠に嬉しく思います。若いお二人がめでたく人生の伴侶となれますよう、お導きできればと思っております」
ずいぶん気の早い挨拶だな、と思う。今日が初対面なのに。
きっと仲人のご夫婦にも、このお見合いが形だけで、結婚が既定事項なのが伝わっているんだろう。
その証拠に矢口氏は「こちらが新郎の……ああ、失礼」などと言い間違えている。さすがに他の全員が小さく苦笑していた。
「こちらが林原家の皆さんで、ご両親の義弘《よしひろ》さんと香奈子《かなこ》さん、真ん中が佳史くんです」
向かいの席で、背筋を伸ばした姿勢で会釈する相手と、また目が合う。茶色がかった目に見つめられ、ぴりっと背筋に何かが走る感覚を覚えた。
「そしてこちらが藤田家の皆さん。ご両親の英夫《ひでお》さんと美代《みよ》さんで、真ん中が梨乃さんです」
両親の動きにあわせて、私も頭を下げる。顔を上げると、相手──林原佳史さんと三たび目が合い、その目の綺麗なさまにあらためて気づく。
写真で見た時も目が綺麗な人だと思っていたけど、実物は想像以上だ。それを言うなら、顔立ちも全体的な雰囲気も、写真の何倍も人を惹きつける引力を持っている。
その、綺麗な目の目力が、とても強い。まともに見つめ合うからなのかもしれないけど、視線がひとたび合うと、外すタイミングを窺えないような圧力を感じる。
でも、その圧力は不快じゃない。もっと見ていたくなるような……使い古された言い回しだけど、吸い込まれてしまいそうな錯覚まで覚えた。
「佳史くんは、商品開発部の部長を務めているんだったね」
矢口氏の声で、私はふたたび我に返る。
「はい、そうです」
「三十過ぎで部長とはたいしたものだ。ゆくゆくは社長に?」
「そのつもりで日々、研鑽はしております。ですが私よりも社長にふさわしい人物が社内にいれば、その者が社長の椅子に座ることになるでしょう」
「おや。そうなんですか、林原さん」
問いかけに、林原さんの父親がうなずく。
「ええ。私は血縁が後継者になるのを絶対とは考えておりません。会社を背負うことは、勤める人間全員の生活を保障することでもありますからね。それができる人物が社長の座に着くのが当然であり、自然なことです」
なるほど、と矢口夫妻が同意を示すように応じた。他の全員もそれぞれに、うなずいたり首をひねったりしている。
腑に落ちない様子を見せているのは、うちの母だ。息子である兄が跡を継ぐのが当然だと思って育ててきた母にとっては、そうならない事態というのが想像しにくいのだろう。
母のそんな様子を見て察したのか、林原さんは鷹揚な笑みを浮かべて付け加えた。
「もちろん、父親としては息子に跡を継いでほしいとも思っておりますが。そのために今、しっかり頑張ってもらっているつもりでおります」
そうだな、というふうな林原さんの視線を受けた佳史さんが、しっかりとうなずいた。
「父の申しました通りです。社長職を継ぐのは、全社員の人生に責任を持つということでもありますから、生半可なこととは考えておりません。将来を見据えて、日々努力を重ねております」
強い口調で言い切った佳史さんを、全員が感嘆のまなざしで見つめた。私も例に洩れない。
業界では新興の部類に数えられると言っても、『HAYASHI』は創業からすでに三十年強。その間ある程度の業績を保ち続け、今は老舗と肩を並べるほどの評価を獲得している企業であり、佳史さんはそこの一人息子だ。
跡取りとして甘やかされた面があってもおかしくないのに、そんな様子は見る限りでは少しも感じられない。むしろ厳しくしつけられた、そして会社経営に関しては徹底的に教育された、そんな印象を受ける。
御曹司として「跡を継いで当然」といった考えを持たないところに、物足りなさを感じる人もいるだろう。けれど私は、佳史さんのそんな面を好ましく感じた。自分の生まれにあぐらをかかない、望まれる立場にふさわしくあるための努力をする姿勢は、潔いと思う。
これまでお見合いをしてきた何人かの人たちは、そうではなかった。周りより恵まれた生まれや環境を多かれ少なかれ当然だと思っていて、それに対する感謝もしていない。自分の力で何もかもを手に入れたと勘違いしている、そんな人ばかりだった。
だけど、林原佳史さんは違う。
彼の、謙虚でいて確固たる精神を、この時私は「素敵だ」と思った。外見だけでない格好良さを、この人は間違いなく持っている。
気づくと、心臓がどくんどくんと、自分でもわかるほどに大きく脈打っていた。同時に、嬉しいとも楽しいともつかない温かな感情で、胸のうちが満たされているのを感じる。
最初に顔を合わせた時の衝撃的な感覚といい、この気持ちはいったい何だろう。
……もしかして、私……?
「うちの話はこれぐらいにしましょう。藤田さんのお話も伺わないと」
「そうですね。梨乃さん、大丈夫ですか?」
「えっ?」
「どうしたの梨乃、空気にのぼせてしまった?」
矢口氏と、母に交互に尋ねられて、私は自分がちょっとぼんやりしてしまっていたことに気づく。慌てて弁明した。
「す、すみません。少し……緊張してしまって」
「あら、まだお若いのねえ。可愛らしいわ」
「大丈夫ですよ。気楽に、肩の力を抜いてちょうだい」
私の言い訳に、矢口夫人と林原夫人が、微笑ましいというように言い添えてくれた。
向かいの佳史さんは無言だけれど、口の端を上げて優しい目つきでこちらを見ている。
兄が妹を見るような、そんな目をこの人に向けられることは気恥ずかしいけれど、同時になんだか安心も感じた。
「梨乃さんは、フォリス女学院大学を卒業されたんですってね」
「はい、小学部から通っておりました」
「卒業後はすぐ『ふじ堂』に? 他の企業への就職は考えなかったんですか」
「少しは考えましたが、家業の手助けをしたい気持ちがやはり大きかったので」
釣書に書いてある情報を確認、および補足するように私や両親への質問が続いた後。
「ではここで少し休憩を入れましょう。いい天気ですから、お二人は庭でも散歩してきては?」
矢口氏に、二人で外に出て話をしてくるようにと促される。双方の両親が見守る中、佳史さんが「梨乃さんがよろしければ」と意思確認をしてくれて、私はそれに応じた。
このホテルの庭は、散歩道のついたイングリッシュガーデンになっている。季節柄、今は秋の草花が盛りのようで、秋バラやコスモスなどが群生している。一角には十月桜という、秋に咲く品種の桜が植えられていて、高い青空を背景に薄紅色の花が咲いて、庭を歩く人の目を楽しませていた。
もっとも私には、あまりのんびりと草花を眺める余裕はない。というか、前を歩く佳史さんに付いていくので精一杯だった。
何度か着た経験があるとはいえ着物はやはり慣れないもので、草履もしかり。いつもの歩幅で歩くわけにはいかず、その上で置いていかれないように付いていくのは骨が折れた。
意識していないのかもしれないけど、背の高い佳史さんは歩くのが速い。それこそ普段の歩幅からして違うのだろう。
所々に設えられている、東屋のひとつが見えたところで、ようやく佳史さんは歩みを緩めた。振り返って、初めて私の状況に気づいた、という表情をする。
タイミング良くなのか悪くなのか、草履の先が落ちている石に引っかかって前のめりになった。駆け寄ってきた佳史さんに支えられて事なきは得た、けれど。
やっぱり乗り気じゃないんだろうな、と思う。
両親や仲人夫妻がいる場では愛想良くしていたけど、あの場を離れてきっと本音が出たんだ。だから着物の私に気遣うこともなく、義務感で外に連れ出した。
優しい印象は表面上のものだったのかと思うと気落ちしてしまい、知らず、ため息をついてしまう。
ところが見上げた佳史さんの顔は、心配そうに眉を下げて私を見下ろしていた。まるで本当に案じているみたいに。
「すみません。大丈夫ですか」
「──は、はい。大丈夫です」
よかった、と佳史さんは息を吐く。
「失礼しました。ちょっと、考え事をしていたものですから……あなたが着物でいらっしゃるのをすっかり失念して」
「考え事……ですか?」
「とりあえず、座りませんか」
東屋のベンチを勧められ、私は、佳史さんに示された位置に腰を下ろした。少し距離を空けて彼も座る。
ごほん、とひとつ咳払いをしてから、佳史さんは話を再開した。
「梨乃さん、この話に乗り気でないのではありませんか」
「えっ」
「失礼でしたらお許しください。なんと言いますかその、この話は業務提携ありきであなたのお父上から持ち出されたもので……僕の父はふたつ返事で快諾しましたが、事前にあなたの意思確認はされていないでしょう。こんな前時代的な見合い、若い梨乃さんにはご不満があるだろうと思っていました」
どこか憤りを秘めたような口調で、佳史さんが言う。
なぜ、この人が怒ったようにそんなことを言うのか、よくわからなかった。
親に結婚相手を決められてしまった自分の立場に、怒りを感じているのだろうか──それとも、言葉通り、親の言いなりにならざるを得なかった私のために怒ってくれているのだろうか。
緊張を感じながら次の言葉を待っていると。
「……とはいえ、それに唯々諾々と従っている僕も、情けないのですが」
今度は自嘲するみたいに笑って、ふっと吐き出すようにそう言った。その表情からするとどうやら、自分の立場に怒っている方のようだ。
そりゃそうだよね……と思った。会ったばかりの私のために、本気で怒ったりするはずがない。見るからに優しそうな、誠実さを絵に描いたような人だから、ちょっと過大評価してしまった。
心に湧き上がってくるがっかり感を抑えていると、「ですが」と佳史さんが空気を切り替えるように続ける。
「この話にはあながち、悪い所ばかりではないとも思っています。僕は三十を過ぎて、一人息子なので、相手が誰であろうと近々結婚する必要がある。梨乃さんも、こう言っては何ですが、家と会社のために育てられてきた一面はあるでしょう」
途端に事務的になった口調と話の内容に、戸惑いながらも同意した。私が『ふじ堂』の一人娘としてふさわしくあるよう、躾と教育を受けてきたのは確かだ。
「え、ええ、まあ……おっしゃる通りです」
「でしたら、梨乃さんにもおわかりになるでしょう。今回の業務提携が、特にうちにとっては、どれだけの意味を持つ話であるのか」
私の返答にうなずいた佳史さんが、まるで仕事相手に対するように語り出す。
「うちは『ふじ堂』という老舗の名前と評判を、率直に言ってしまえば利用させていただきたい。そちらはそちらで、うちと組んでいただくことで、新しい販路やアイデアを見出す可能性を得られる。どちらにとっても、今後の発展を促せるという意味で、悪い話ではないのです」
ああそうか、私はこの人にとって「仕事相手」なのだろう、間違いなく。だからこんな率直に、業務提携の話をするんだわ。
「その契約をより強固にするために、僕たちが結婚……というのは、個人的には強引な方向性だと思います。だが双方の絆を深めるという意味では、これも決して悪い話ではないと考えています」
契約、という言葉が私の頭の中でこだまする。
「お互いに、伴侶となるのに充分な条件を我々は満たしている。自画自賛かもしれませんが、そうではありませんか?」
条件──社会的立場は釣り合っているし、年齢は少し離れているけど珍しいことではない。これでお互いに付き合っている人がいなければ、客観的にはまったく問題のない話だ。
「好きな方とか、お付き合いしている方はいらっしゃらないんですか?」
「幸いにというか、今はおりません。梨乃さんは?」
「私、も……今は誰とも」
今は、というより正直な話、生まれてからの二十五年間、男性との個人的な付き合いはほぼ、したことがない。ずっとお嬢様女子校だったから、学生時代は出会いの機会がとても少なかった。社会人になってからも、デートと呼べるような会い方をしたのはお見合い相手ばかり。それだってひとりにつき、二・三回がいいところだった。
そんなことを細かく正直には言いづらいから、今に限った事実だけを口にした。
私の返答に、佳史さんは、何かを納得したようにうなずく。
「でしたら、僕たちが婚約するのに、何の問題もありませんね」
「……」
決定事項のように言われて、私は複雑な気持ちを抑えきれない。
いやそもそも、父にこのお見合い話を聞かされた時点で、婚約および結婚は規定路線だったのだろうけど。
父母でもなく仲人さんにでもなく、この人にそういうことを口にされてしまうと、ひどく複雑だ。
──そんなふうに感じてしまうのは、私の中にある、佳史さんに対する感情が「単なるお見合い相手」だけに納まってはいないから、だろうか。
私はこの人のことを、家族でも知人でもない、特別な視点で見始めている。自分でも意外に思ってしまうけれど、おそらくは、今日初めて対面した時から。
……それは、つまり。
「どうでしょうか。梨乃さんさえよろしければ、僕は今回の話に不満はないのですが」
「──不満はない、とは」
「あなたと婚約して差し支えない、ということです。家のためにも会社のためにもなる話で、お互いの両親も仲人ご夫妻も喜ぶ。僕もあなたも、親や周囲から結婚を急かされることはなくなります。良いこと尽くめでしょう」
質問に、そんな説明を返してくる佳史さんは、私よりもずっと年上であるのがうなずける大人の笑みを浮かべている。
この人は「大人」なんだな……個人的な事柄である結婚を、こうやって冷静に条件を分析して語れるような。
そんなふうに思った時、私の頭の中の冷静な部分がささやいた。話に乗ってしまいなさい、と。
(だって梨乃、あなたはこの人が好きなんでしょう?)
──その通りだ。
緊張しつつも一緒にいてときめきを感じるのも、婚約話を事務的に語られて反発を覚えるのも、反発を感じながらもなお、この話を逃したくないと思っているのも。
私の中でいま動いている感情は全て、佳史さんが好きだという想いが根本にある。
会ってまだ、数時間にもならない人に対して、こんな想いを抱くなんて……漫画や小説、ドラマでは見たことがあるけど、本当に一目惚れってあるんだ。
佳史さんの方が、私を単なるお見合い相手としか、ちょうどいい条件の「契約相手」としか見ていないとしても。
この人の、婚約者ひいては妻になれる機会を、逃したくない。他の女性がその立場になるなんて、耐えられない。
自分自身で戸惑うほどに、佳史さんに対する気持ちは大きくて、勢いがあった。
(この人と、将来もずっと、一緒にいたい──)
感情の勢いに押されるままに、私は答えていた。
「そうですね……両親が喜んでくれるなら、これ以上の良い条件はないと思います」
大きくうなずく佳史さんを見つめながら、私は、自分の本心を付け加えた方がよかっただろうかと思った──相手があなたなら私も不満はありません、とか。
けれど「お互いが同じように思ってるなら大丈夫ですね。良いパートナーとしてやっていけるでしょう」と先にコメントされて、タイミングを逸してしまった。
まあ、いいか……先は長いのだ、これからいくらでも本心を伝える機会はあるだろう。
この時の私は、そんなふうに、軽く考えていたのだ。
部屋に戻った私たちの様子を見て、両親たちも仲人役の矢口夫妻も、話を進めて問題ないと確信したらしい。
「準備には時間をかけた方が良いでしょうから、式と披露宴は一年後ぐらいではいかがでしょう?」
「では、婚約の仮成立ということで……結納は時期を見て、早めに執り行いましょうか」
「並行して、二人を一緒に住まわせるマンションも探していきましょう」
と、私や佳史さんが口を挟む隙のないままに話は進められていき。
あれよあれよという間に、一年後に式と披露宴を同じホテルで行うこと、結納は来月に執り行うこと、その後に私と佳史さんが一緒に暮らし始めるという段取りが決まった。
交際期間がほぼ無しで、婚約者の関係のまま同棲すると決まったことに、私は不安を感じてしまった。そんな、芸能人のニュースとかで聞くような「交際ゼロ日婚」に近い段取りで、大丈夫なんだろうか……?
なにぶん、私は男女交際の経験がほとんどない。お見合い相手とデートしたのも両手の指で数えられるほどだし──物理的な触れ合いに至っては、手をつないだことぐらいだ。
そんな私が、女性とのお付き合いには慣れていそうな佳史さんと……なんて、本当に大丈夫なの──?
私が不安を抱えている中でも、日にちは淡々と、かつ無情なくらいに速く過ぎていき。
あっという間に結納の当日が来て、滞りなく終了して。
正式に婚約したと思ったのも束の間、翌週の休みには役所に行って転居届けを出して、実家から引っ越し。
その日を境に私は、藤田家の娘から林原家の将来の嫁、佳史さんの婚約者となった。
──そして、新居として用意されたマンションに引っ越しした日の夜。
真新しい家具が揃い、段ボール箱が各部屋に積み上げられた家の中で、私はそわそわしていた。
佳史さんとご両親が物件探しをして、双方の両親が折半する形で購入された、2LDKのタワーマンション。地下鉄の駅から徒歩数分、歩いて行ける範囲に銀行やコンビニやスーパーがあって、すごく便利のいい立地。物件価格がいくらだったのか想像すると目まいを起こしそうになる。
それだけ、この結婚を皆に期待されてしまっているのかと思うと、なおさらだ。
この一ヶ月半、付け焼き刃ではあるけれど、できる限りの花嫁修業をおこなってきた。料理をはじめとする家事の学び直し、家計簿の付け方、マナーの復習など。
家や学校で習っていたことも多いからある程度身に着けてはいたけれど、社会人になってからはフルタイムの会社勤めを言い訳にして、あまり実践してこなかった。特に料理は。
だから、あちらのお義母さん経由で聞いた佳史さんの好みを中心にしたメニューを、重点的に練習した。仕事が忙しい人なのだから家庭でなるべく安らげるように、といううちの両親の提案もあって。
やたら張り切っていた母に特訓を受けたおかげで、どうにか料理に関してはそれなりに仕上がった……と思う。掃除や洗濯は家によってもやり方が違ってくるから、と基本のやるべき守るべきことをざっと教わり直した。
怒濤のように過ぎた、一ヶ月半だった。
──いや、これからがまた、違う意味で怒濤なのかもしれない。なんといっても、何もかもが未知の領域である、夫婦の生活。何が起ころうと、基本的には二人で対処していかないといけないのだ。
そして、試練のひとつがすぐそこまで迫っている。
午前中に荷物を運び込んで、夕方までにある程度の片づけを終えて。食事は(昼も夜も)両親たちが差し入れてくれたお弁当で済ませて、先にどうぞと勧められたシャワーも終えてしまうと、あとは何もすることがない。
ただ、私の後に浴室に入った佳史さん──今は婚約者となった人が出てくるのを待つだけ。
パジャマを着て、リビングのソファでひとり座っているのは、ひどく心許なかった。気を紛らわそうと点けてみたテレビも、番組の内容は全然頭に入ってこない。
そうこうしているうちに、佳史さんがリビングに入ってきた。新品らしきグレーのパジャマを着て濡れ髪を拭いている姿は、お見合いの時のスーツとも、今日の引っ越し作業中に着ていたポロシャツとジーンズの組み合わせとも違って……なんというか、すでにこの家の住人なのだという雰囲気を強く醸し出していた。
いや、間違いなく今日からこの家の住人なのだけど。
けれど私の方はたぶんまだ、借りてきた猫のように見えるのではないだろうか。気に入って買ったはずの、裾や袖口にフリルの付いたクリーム色のパジャマが、今になってひどく子供っぽく思えてくる。とてもこの人のように、落ち着いた顔はできていないだろう。
目を合わせていられない心地になって、顔ごと逸らしてしまった。
テレビに視線を固定させていると、佳史さんが隣に座った。それだけでびくっと肩が揺れてしまう。
「この番組観てる?」
「……い、いいえ」
「じゃあ、消して寝室に行こうか」
「は、はい」
いよいよだ、という思いとともに、微妙に震える手でリモコンを取──ろうとしたら先に佳史さんが手にして、テレビの電源を切った。
しん、と訪れる静寂。
リモコンを取るために伸ばした手を、ごく自然な感じで、佳史さんに掴まれる。そうして、ソファから立ち上がらされた。
無言で手を引かれ、連れて行かれた先は、今夜から二人のものである寝室。作り付けのクローゼットと、私が持ち込んだドレッサー以外には、真新しいダブルベッドがあるだけの部屋。
寝室なのだからそれで当然なのだけど、明るさをしぼった照明の下で室内を見回した瞬間、私は強い緊張を覚えてしまった。
きっと手がこわばったと思う。けれどそれに言及することなく、佳史さんは入り口から見て右側のベッドサイドに、私を導いて座らせた。
続いて、あくまでも自然な動きで、隣に佳史さんが腰を下ろす。その瞬間、ベッドが軋む音とスプリングの揺れが伝わってきて、どきりとする。
自分でもわかるぐらいに震えている肩が、佳史さんの手に包まれた。見ている時に思った以上に大きくて、力強いその手に体を引き寄せられて、私の左半身と、彼の右半身が密着する。
薄いパジャマ越しに彼の体温を感じて、頬がかぁっと熱くなった。
同時に、全身がぶるっと震えた私の右頬に、佳史さんの左手が添えられた。
「──怖い?」
そう尋ねて、私の顔をのぞき込んでくる目には、偽りない気遣いと少しの不安が浮かんでいる。
けれど、彼の綺麗な焦げ茶の目に映る私は、もっともっと不安な表情になっているに違いなかった。
『はい』とも、『初めてなんです』とも口に出せずに、ただこくりとうなずく。頬に添えられていた手が背中に回り、優しい、かつ温かい力で抱き寄せられた。
……こんなふうに抱きしめられたことは、家族以外には経験がない。お見合い相手のどの人とも、ここまで体を近づけたことはなかった。
「初めて、かな。こういうことは」
抱きしめられたまま彼から尋ねられ、私はもう一度、うなずく。そうか、という声が頭の上からと、耳が触れている彼の喉元から直接聞こえた。
「じゃあ、できるだけゆっくり、優しくするから……といっても、僕もそんなに巧いわけじゃないけど。されて嫌なこととか痛い時があったら、正直に言って」
「……は、はい……」
婚約以降、丁寧語から普通の話し口に変わった、佳史さんの低く穏やかな声。
対して、我ながらガチガチに固まった、消え入るような私の声。経験値の差が歴然と出ている気がして、恥ずかしくてたまらない。
二十五年の人生で一度も経験がないなんて、呆れられてしまうだろうか? 経験豊富な人は、未経験の相手を面倒がると、こういうことに詳しい知り合いには聞いたことがあるし……そんな不安もあるけれど、やっぱり、初めての行為に挑む緊張と怖さが先に立つ。本などで読んだり人に聞いた話でしか知識がないから、実際にどういうふうに進んでいくかの見当がつかないのだ。
佳史さんが、強引に事を進めたり嫌がることをするような人には見えない。それでも、これからお互い服を脱いで裸になって肌を合わせて……と考えると、どうしても羞恥心が強く沸き上がってくる。
刹那、頭と心の冷静な部分が、私に囁いてきた。
(落ち着きなさい、梨乃。これは契約上必要なことなんだから。お互いの家のため、そして会社のためよ)
──そうだ、これは「契約」の一部。
私と佳史さんは、家と会社のために婚約した。これからする行為も婚約を続けていくため、ひいては結婚してからも必要なこと。
怖いからと言って逃げちゃいけない……どのみち、逃げられもしない。
誰でもない、他ならぬ私自身が、この契約を受け入れると決めたのだから。
佳史さんの腕の力がゆるんで、体を少し離される。
大きな手が私の頬を包み、顔が近づいてくる。
……唇に、やわらかくて温かい感触が触れた。
これが、キスなんだ……と思いながら、至近距離にある佳史さんのまぶたを見ていた。
あ、そうか。こういう時は目を閉じるものなんだ。遅ればせながら、そっと目をつむる。
唇は、角度を変えながら、優しく繰り返し触れてくる。その仕草が思ったよりも長く続いて、私は息継ぎをどこでしたらいいのかわからず、息苦しさを感じてきていた。
ようやく唇が離れた時、思わず、はあっと息を吐いてしまった。大きく深呼吸する私の様子に、佳史さんは首を傾げた後、おそるおそるといったふうに尋ねてくる。
「……もしかして、キスも初めて?」
まさか、と言いたげな口調に、少し怖じ気づく。けれど隠してもしかたのないことだ、私に何の経験もないのは事実なのだから。
「……そう、です」
蚊の泣くような声で答えた私に、佳史さんは目を見開く。その、整った顔に浮かんだ驚きでいたたまれない気持ちにさせられて、ぎゅっと目をつぶった。
数秒の間の後──ぽんぽんと、頭を優しい仕草で軽く叩かれる。
目を開くと、柔らかく微笑みながら、佳史さんが私を見つめていた。
「そんなに固くならなくていいよ。誰だってもともと、経験はないんだから」
ぽん、ぽんとあくまでも軽い調子で叩かれながら撫でられると、家族にそうされて慰められているようで、なんだか安心する。安心のあまり、じんわり涙が浮かんできて、慌てて手で拭った。
目の端に少し残った涙を、近づいてきた佳史さんの手に、そっと拭われる。その手がもう一度私の頬に触れ──今度は両手で頬を挟まれて、ふたたびキスが始まった。
ちゅ、ちゅと小さく音を立てて、鳥がついばむように口づけられる。そうされることが、恥ずかしいのだけど、だんだんと嬉しく思えてきた。
初めて触れ合うのが、この人でよかった──じんわりと胸の内が温かくなるのを感じていると、少し強く、唇が押しつけられる。次いで、ちろりと、唇を舌先で舐められた。
思わず、目と唇を開いてしまうと、開いた隙間から舌が、少しずつ私の口の中に入ってくる。その、厚みのある湿った感触は当然ながら未知のもので、内心うろたえた。
狼狽をなだめるように、佳史さんの両手が私の肩を押さえる。力強い温かさに少し安堵して息を吐くと、歯をなぞるように舐めていた舌が、私の舌に触れた。
するりと、自然な動きで舌同士が絡められる。ぴちゃぴちゃと唾液が立てる小さな音が、なんだか鼓膜に大きく響く気がして、自分のしていることの特殊性というか、ある種の淫靡さを含んでいることが頭の中で強く認識されていく。
じわじわと、心の中と体に熱が広がっていくのが、恥ずかしさからなのか別の感情を喚起されているからなのか、よくわからない。けれど、もっと触れ合いたい、もっと触れてほしい、という思いが湧き上がってきているのは確かだった。
その衝動に動かされて、佳史さんの背中に手を回し、抱きつく。私の仕草に、驚いたように佳史さんは息を飲んで一瞬動きを止めた。
私がそんなふうに、積極的とも言える動きに出るとは思わなかったのだろう。そう思われているのがむしろ当然だけど。
けれど、私がそうしたことを、佳史さんも悪くは感じなかったらしい。肩に置いていた手を私の背中に回して、ぎゅっと抱きしめてくれたから。
密着の度合いが強まったことで、さらに強く、唇同士も触れ合う。佳史さんの舌がさらに深く入り込んできて、私の口内をねっとりと舐め回す。
時間をかけてねぶられていくうちに、私の体の奥に、ぽうっと何かが灯る感覚が生まれてきた。それは次第に熱を帯びてきて、彼と触れ合いたいという思いを増幅させていく。
気づくと、ふわっとした動きで、私の体はベッドに横たわらされていた。佳史さんが、体重をかけないよう両脇に手をついて、私に覆い被さっている。
私を見下ろす目が、少し、鋭くなっているような気がする。彼の中にも、私の中にあるのと同じような熱が灯っているのだろうか──私に、女を感じてくれているのだろうか。
少なくとも私は、佳史さんに今、男を感じている。私の体をすっぽりと覆う体格は、細く見えたけどやっぱり男性なんだと思わされる。
上半身を起こした佳史さんが、私のパジャマのボタンの、ひとつめをそっと外した。2つ目以降も、片手だけで難なくスムーズに外されていく。
すべてのボタンが外され、留めるもののなくなったパジャマの布を、大きな手がかき分ける。夜用のブラジャーに包まれた胸がさらされ、私は思わず両手で胸を隠そうとした。けれどすかさず、佳史さんに手を除けられてしまう。
「恥ずかしがるのは、まだ早いよ」
そんなふうに言われながら余裕ありげに微笑まれると、なおさら恥ずかしくなる。この先、もっと恥ずかしい格好にされることがわかっていても。
そう考えて、はっと気づく。今着けている夜ブラが、スポーツタイプであることを。
緊張してつい、いつも実家で使っていたのと同じ物を選んでしまった。フロントホックタイプもちゃんと買っておいたのに。いや、それともいっそ、何も着けない方がよかっただろうか。
今さらの後悔でもじもじしていると、頭の横から耳の後ろにかけての輪郭を、手のひらでなぞられる。整った顔が近づいてきて、耳たぶにキスをされた。
「ひゃっ」
くすぐったさに、反射的に変な声が出てしまった。けれどそれを気にする様子もなく、佳史さんは私の耳たぶをそっとくわえて、軽く吸う。
舌先で舐められる感触に、ぞわっと背筋を何かが這い上がった。
「……っ……」
耳たぶから耳の下、首筋へと、唇と舌が下りていく。ふ、と時折かけられる吐息が、妙に熱く感じられて、ぞわぞわした感覚が強まる。
そうしながら佳史さんの左手は、ブラに包まれた私の胸に、遠慮がちといってもいいほどに優しく触れていた。どちらかと言えば細身なのに胸はやけに大きく成長してしまい、正直ずっとコンプレックスに感じていた。だけどこの人に、こんなふうに大切な扱いで触れられると、自分でもその部分が大事なものであるみたいに思えてくる。
どくどくと、心臓が耳の中に移動したかのように、鼓動が大きく聞こえる。触られれば触られるほど、緊張が増していくのが自分でもわかるけど、どうしようもない。固くならなくていいと佳史さんは言ってくれたけど、どうすれば固さが抜けるのかまったく見当がつかなかった。
佳史さんの唇が、胸の近くまで下りてきた。
それと同時に、左手がブラの下に入り込み、乳房に直接触れる。手の温度がじかに伝わってきて、ただでさえ高まっている緊張が、最高潮になるような心地に襲われた。
「──っ」
やわやわと、ゆるく乳房を揉まれることで、私の中に何か、よくわからない感覚が生まれてくる。例えて言うなら、体の奥に新しい泉が生まれて、そこから水が少しずつ湧き出てくるような。けれどその感覚は今までに知らないもので、だから不安も伴っている。
何とかして逃がしたい、でもどうしていいのかわからない。
ただ、息を詰めて、ささやかに身じろぎすることしかできずにいた。
「梨乃さん」
佳史さんが顔を上げた。差し伸べられた右手が、私の唇に触れる。
「声、我慢しないで」
「……え」
「我慢すると苦しいと思うから。声は素直に出して」
すっ、と親指で下唇を撫でられて、ぞくっとした感覚が生まれる。
次の瞬間、佳史さんの手が、ブラの生地を一気にまくり上げた。
両胸が空気にさらされて一瞬、ひんやりとする。けれどすぐに、顔も体も赤く染まって熱くなった。
病院の診察以外で他人に見せたことのない部分が人目にさらされて、恥ずかしい──と思う間もなく、右胸の先をいきなりぺろりと舐められた。
「ひゃ、ぁっ」
走り抜けた刺激に背中が反る。その刺激がなんなのかと考える余裕は、与えてもらえなかった。
「……っあ、は……っ、んぅ……っ、ぁ」
乳首を繰り返し舐められ、時に吸われることが続く。
同時に、左胸は佳史さんの手に包まれて揉まれながら、乳首を摘まれて転がされる。
何度となく、胸から全身に走る不可思議な刺激が次第に、快感と呼べるものだと頭が認識していった。そうされるのが確かに「気持ちいい」ことだと、私の女の部分が学習していく。
「は……ぁっ、あ、んっ……」
「気持ちいい?」
「ん、あっ、……きもちいい、です……」
吐息の隙間を縫うように、言葉を絞り出す。声は我慢しない方がいい、と言われたので息を詰めずに出しているけど、その声の響きが妙に甘く聞こえて、どうにもいたたまれない。
自分がこんな声を出すなんて、思ってもいなかった。
けれど一度声にしてしまうと、抑えることは難しい。吐く息は勝手に声になって、快感を外に──佳史さんに伝えてしまう。
恥ずかしくてたまらないけど、佳史さんはそれが嬉しいみたいだ。
私の答えに納得したようにうなずくと、右の乳首をさらにねっとりと舐め回し、口づけるように吸ってくる。そこがすでに、赤くなって硬く立ち上がっていることは、感覚で私にもわかっていた。左側も同じようになっていることも。
「……あっ」
ちゅ、と乳房に口づけられ、ちくりとした痛みが走る。目線を下げると、その場所がかすかに赤くなっていた。
同じ動作を何度か繰り返され、これはもしかして、わざと印を付けられているのだろうかと思い至る──男性が好む、所有印というものを。
その時、顔を上げた佳史さんが、ぺろりと自分の唇を舐めた。その表情が、なんというか、ものすごく男性的に見えて──自分の推測が間違っていないような気にさせられる。
……この人って、案外、独占欲が強いのかも。
そんな想像をした時、左胸を弄くっていた手が、体の線をなぞって下り始めた。
パジャマのズボンの上から太股を撫でられ、次いで、足の間にそっと触れられる。その瞬間、じんわり湿った感触がして、ひどく狼狽した。
その場所が、性的に気持ちよくなるとそんなふうになることは、知識として知っていた。けれど当然ながら実際の経験はなくて……まだ胸をいじられただけなのにそこを濡らしてしまっていることが、自分自身で信じられなかった。
あまりにもはしたなく思えて、涙がにじんでくる。それに佳史さんも気づいたらしい。不安そうな目で尋ねられる。
「……ここ、触られるのは嫌かい?」
タイミング的にそう思われても仕方なかった。だけどそうじゃない。違うことを伝えたくて、懸命に首を横に振る。
「ち、違うんです」
「ん?」
「──恥ずかしくて……」
それ以上は言葉にできなくて、目にたまった涙が流れ出ないように、必死にまばたきをする。首を傾げた佳史さんはやがて、理由に思い至ったのか「ああ」と納得したようにうなずき、にこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ。誰でもここは、気持ちよくなればそんなふうになるんだ」
言いながら佳史さんは、私の体を起こしてベッドに座らせる。
「君が僕の愛撫で、気持ちいいと感じてくれてる証拠だよ。だから何も恥ずかしがることはない」
髪を撫でながらそんなふうに説明してくれる声に、私は、大きな安堵を感じていた。安心感が強すぎて、盛り上がった涙が抑えきれないほどに目からあふれ、頬をつたう。
その涙を丁寧に拭ってくれた手が、私のはだけたパジャマやずらされたブラを、ゆっくりはぎ取っていく。
「全部脱がせてもいいかな」
一瞬の躊躇の後でうなずくと、ズボンと、ブラと揃いのショーツを一緒に脱がされた。一糸まとわぬ姿にされて、反射的に胸を隠して膝を閉じている間に、佳史さんは自分の服をすべて脱ぎ捨てていった。
隠すもののなくなった彼の体は、服を着ている時には想像もつかなかったほど、かっちりとした筋肉質だ。無駄な肉はどこにもないのではないだろうかと思うほど、引き締まった胸と腕、そして──と、腰まで視線を落として目に入ったものから、勢いよく目を逸らす。
もちろん、初めて目にするモノだった。興奮すると普段の状態から変化するものだという知識はあったけど、実際に見ると異様な迫力があって、インパクトが凄い。
ぴくぴくと震える先端も、そこから染み出す透明な液体も、血管が浮いて赤黒く染まる太い部分も──ちょっと見ただけなのに脳裏に焼き付いてしまっている。
私の反応に対して、返ってきたのは苦笑いの声だった。
「びっくりさせちゃったか、悪いね……実は僕もちょっと緊張してたんだ。そのせいか反応が早くて」
「そ、そうですか」
なんと返していいかわからず、そんなことを言ってしまう。
「けど、まだ挿れないから。君の準備を整えてから」
と、覆い被さってきた佳史さんに、ふたたびベッドに横たわらされる。
すっと内腿を撫でた手が、何のガードも無い、その場所へとたどり着いた。
水気のある感触に、そこが濡れていることがあらためてわかって、羞恥を覚える。
けれど、これが自然なことなのだと、言ってくれた。恥ずかしがることはないと。逃げ出したい気持ちを懸命に抑えて、湧き上がってくる恥ずかしさに耐える。
つ、と指先で割れ目をなぞられた。それだけで体がびくっと跳ねる。指はするすると動いて、割れ目から徐々に中へと入り込んでくる。
その場所──秘所と呼ばれる部分の、形を確かめるようにひと巡りした後。
茂みに隠された突起を、つんと爪でつつかれた。
「、っ」
思わず声を殺した私の反応に、煽られたように指が、突起をくにくにと捏ね始めた。
「……あ、あぁっ」
胸を愛撫された時よりも格段に強い刺激が、その場所から全身を駆け抜ける。刺激は脳にまで達して、抑えられない嬌声を口から飛び出させた。
「あっ、あぁ……んぅっ、ぁあん」
少しずつ声が帯びていく甘さを、佳史さんも感じ取ったのか、動きは止めないままに満足げな笑みを浮かべる。
「ここ、気持ちいいんだね」
「っ、あ……あっ、そこ、そんなに……っ」
そこを捏ねる指の力が増して、摘ままれて引っ張られる。腰のあたりに強い快感がたまっていくような、経験したことのない感覚に、本能的な怖さが湧いてきた。
「やぁ、よしひとさ……んっ、こわい……」
「怖い? 何が?」
「なんだか、っ、変……、おかしいのっ……」
「ああ、大丈夫。それは感じてるってことだから。体が悦んでる証拠だよ」
ほらここも、と佳史さんが触れたのは、潤いをもたらしている泉の出口だった。少し触られただけでひくっと震えたのが、自分でもわかる。
つぷり、とかすかに泡立つ感覚とともに、指が差し入れられた。何も通されたことのない道なのに、初めて侵入してくるものを絡め取るように受け入れている。
「っ、……ぅ」
そうは言っても、初めてそこに感じる圧迫感は逸らせない。充分に潤っているからか痛みはないけれど、指が奥に進むに従って、違和感が増してくる。
「痛む?」
「い、え……でも、ちょっと、辛くて」
「初めてだからね、まだキツいんだな。少し我慢してて」
そう言って佳史さんは、指を一度、入り口近くまで引き抜いた。そしてふたたび、ゆっくりと奥まで差し入れてくる。
その動きを繰り返されているうちに、違和感とは別のものが私を浸食してきた。それは、さっきと同じような、腰にたまってくる感覚で、私の理性を徐々にどこかへ引きずっていくような力があった。
「……っ、あ、……っふ、あぁ……」
「気持ちよくなってきた?」
「……わ、わからな……ああっ」
指が二本に増やされて、さらに圧迫感が増す。けれど、不快ではなかった。中を埋め尽くされる感覚はむしろ、嬉しさをもたらした。
「あ、あぁ……佳史さん……っ」
「感じてくれてるんだね。ナカが締まってきてるよ」
「やぁ……はずかし……んっ」
唇を塞がれて、舌を絡められる。混ざり合う唾液を、すごく甘く感じた。
そうされながら、指でお腹の裏をぐっと押されて、腰が跳ね上がった。
「んんっ!」
「ここ? ここがイイのかな」
「んぅっ……あ、そこ……だめ……っ、ぁっ!」
一本の指で押され続けながら、もう一本の指を別の方向に動かされる、さらには三たび、突起を同時に捏ねられて頭がくらくらしてくる。腰にたまり続けている快感はすでに、許容量を超えて爆発寸前だ。
「あ、あぁっ……だめ、ほんとにっ──もう……やぁっ」
「大丈夫、怖がらないで。そのまま身を任せて」
ぐちゅぐちゅと、秘所で鳴らされる淫猥な音。
全身を支配する、この上なく強い快感。
すべてが私の五感を麻痺させ、強引に別の所へ連れて行こうとしているのを本能で認識した。
引きずられるままに、未知の感覚が膨れ上がって。
「──っ、あ、あぁぁ──っ!」
強烈に弾けて、頭から爪先までを駆け抜ける。
頭の中が真っ白になって、ぎゅっと瞑ったまぶたの裏に、星のような光が散った。
はっ、はっ、と息を吐いているうちに、少しずつ五感が戻ってくるのを感じる。小刻みに震える体の、膝を大きく割られたのがぼんやりとわかった。
いまだ濡れているその場所に、何かの先があてがわれる。
「挿れるよ、いい?」
まだぼうっとした頭で、反射的にうなずく。
くちゅっとした感覚とともに、先端が入り口を割った。
そのまま、ゆっくりと奥を目指して侵入してくるのは、指よりもずっと太く、そして熱量のある長いモノ。
さっき見た、アレを入れられているんだ──そう思った次の瞬間、ずんとした衝撃とともに、何かを引き裂かれるような痛みが腰に走った。
「────っ!」
想像以上の痛さに襲われ、涙が浮かんでくる。抑えきれずにこめかみをつたった雫を、温かな唇に吸い取られた。
しわが寄っているであろう眉間にも、唇が当てられる。
「ああ、やっぱり痛いか……悪いね、しばらく我慢して」
少し息を詰めながら、佳史さんが宥めるように言ってくる。その息遣いがなんだかつらそうで、男性も処女の相手をする時にはつらかったり苦しかったりするのだろうか、と思った。
ふーっ、と息をゆっくり吐くと、私の中で脈打っている存在をはっきりと感じる。私のものじゃない、生きている人間のモノが、自らの存在をこんなにも主張している。
その事実をふいに嬉しく感じて、腰が震えた。途端、佳史さんが「くっ」と小さく呻く。
「ど、どうしたんですか?」
何かしてしまったのかと不安になって尋ねると、さっきの私のように深く息を吐いた後、佳史さんは困ったような笑みを浮かべた。
「なんでもないよ」
と答えたが、ぎこちない表情はとても「なんでもない」ようには見えない。視線で先を促すと、苦笑いをもらされた。
「……ごめん、君があんまりキツく締めるから、気持ち良くて」
とっさに意味がわからなかったが、理解した瞬間、顔にぼっと血が上った。熱くなった頬を撫でられ、軽くキスをされる。
「ちょっと、我慢できなくなってきた……動くよ」
そう宣言すると、佳史さんの熱いモノがずるりと、先端を残して引き戻される。けれど間髪入れずにまた突き入れられて、私の奥に切っ先がトンと当たった。
「っ、あ」
弱い痛みとともにもたらされた刺激に、背中が反る。
佳史さんが腰を動かし、律動が始まった。繰り返し奥を突かれて、痛むけれど痛いだけではない、不可思議な感覚が腰を起点にして広がっていく。
体を深いところからかき混ぜられる、荒々しい刺激。自分がまるで違う存在にされていく、そんな錯覚が絶えず襲ってくる。
「……ぁ、あぁっ、んぁあ……っ、はぁっ」
だけどその錯覚は、不快ではなかった。むしろ、佳史さんと混ざり合えるような──溶け合えるような気がして、心の底から喜びが湧いてきていた。
気持ちいいとはまだ言えない、でも言葉では表現しにくい嬉しい感覚──今まで知らなかった幸せの形をいま初めて知ったような、そんな気分だった。
「っ、はぁ……よしひと、さん……」
「梨乃さん、ごめん──イクよ」
佳史さんがつぶやき、律動がさらにしばらく続いた後。
彼の全身が大きく震え、くぅっ、と呻きが吐き出された。
直後、私の中で、熱が弾けた感覚が広がる。
数十秒か、数分かの間、お互いが荒い息をつく音だけが部屋に響いた。
呼吸が落ち着いた頃、佳史さんが私から体をいったん離す。ゆっくりと抜かれたモノが視界の隅に入り、被せられた何かが取り外されるのも見えた。
……あ、避妊具、着けてたんだ……
(そりゃそうよ、この結婚は「契約」なんだから)
頭の中の冷静な部分が、私にそうささやく。
そうだよね、と内心でつぶやいた。契約結婚の関係で、子供が欲しいなんて思わないよね──
隣に横たわった佳史さんが、私を引き寄せてそっと抱きしめてくる。抱擁を受け入れながら、私は、自分の推論にそこはかとない寂しさを覚えていた。
(――つづきは本編で!)